偽りの平安 エレミヤ書6章1~15節

聖書箇所:エレミヤ書6章1~15節(エレミヤ書講解説教14回目)
タイトル:「偽りの平安」

エレミヤ書6章に入ります。今日のタイトルは「偽りの平安」です。14節に「彼らはわたしの民の傷をいいかげんに癒し、平安がないのに、『平安だ、平安だ』と言っている。」とあります。「彼ら」とはエレミヤの時代の預言者たちのことです。彼らはみな偽りを言っていて、本当は平安じゃないのに「平安だ、平安だ」と言っていました。いわゆる「偽りの平安」です。世の終わりが近づくとこうした偽りの預言者が現れ、平安がないのに「平安だ、平安だ」と言いますが、そうしたことばに騙されないで、聖書が言っていることはどういうことかをよく聞いて、主が与えてくださる本物の平安をいただきながら歩みたいと思います。

三つのことをお話します。第一に、平安ではなかった神の民、エルサレムの姿です。彼らは悪に満ちていたので、神は彼らに大いなる破壊を宣言されました。その悪は何と井戸水が湧き出るようにコンコンと湧き出ていました。

第二のことは、その原因です。それは、彼らの耳が閉じたままになっていたからです。ですから、主のことばを聞くことができませんでした。聞き従うためには耳が開かれていなければなりません。耳に割礼を受けなければならないということです。

第三のことは、そのためにどうしたらよいかということです。そのためにはイエス・キリストに聞かなければなりません。真の平安は、平和の君であられるイエス・キリストによってもたらされるからです。

Ⅰ.湧き出る悪(1-8)

まず、1~8節までをご覧ください。5節までをお読みします。「1 ベニヤミンの子らよ、エルサレムの中から逃れ出よ。テコアで角笛を吹き、ベテ・ハ・ケレムでのろしを上げよ。わざわいが北から見下ろしているからだ。大いなる破壊が。2 娘シオンよ、おまえは麗しい牧場にたとえられるではないか。3 そこに羊飼いたちは自分の群れを連れて行き、その周りに天幕を張り、群れの羊は、それぞれ自分の草を食べる。4 「シオンに向かって聖戦を布告せよ。立て。われわれは真昼に上ろう。」「ああ、残念だ。日が傾いた。夕日の影が伸びてきた。」5 「立て。われわれは夜の間に上って、その宮殿を滅ぼそう。」」

エレミヤは預言者としての召命を受けると、2章から神のことばを語ります。それは神に立ち返れという内容でした。彼らは妻が夫を裏切るように、主に背いて自分勝手な道に走って行きました。そんなエルサレム、ユダに対して主は、北からわざわいを起こすと宣告されました。バビロンによる破壊です。きょうの箇所にはそのわざわいがどれほど破壊的なものなのかが、具体的な描写をもって語られています。この6章は、2章から語られてきたエレミヤの最初の預言のまとめとなる部分です。

1節には「ベミヤミンの子らよ」とあります。「ベミヤミン」とは、エルサレムに住んでいた人々のことを指しています。というのは、エルサレムはもともとベニヤミン部族の領土にあったからです。それがユダ部族のダビデによってイスラエル統一王国の首都となったので、いつしかユダ部族の領土であるかのように思われていますが、もともとベニヤミンの領土にありました。ですから、これはエルサレムの住民のことを指しているわけです。そのベニヤミンの子らに、エルサレムの中から逃れ出よ、と言われています。

また「テコアで角笛を吹き、ベテ・ハ・ケレムでのろしを上げよ。」とあります。「テコア」とは、エルサレムの南約20㎞に位置している町です。また「ベテ・ハ・ケレム」は、はっきりとした位置はわかりませんが、エルサレムとそのテコアの間にあった町ではないかと考えられています。そのテコアで角笛を吹き、ベテ・ハ・ケレムでのろしをあげよというのです。なぜでしょうか。北からわざわいが見下ろしているからです。大いなる破壊が迫っていることを知らせなければならなかったのです。「のろし」は10~20Km先からも見えたと言われています。この「のろし」を上げて、北からわざわいが迫って来ているよと知らせ、それに備えるようにと言われたのです。いわば緊急地震速報のようなものです。地震が起きると、その数秒前に「地震です。地震です。」とスマホが知らせます。それが夜中だったりするとびっくりして起き上が、何があったのかとすぐにテレビをつけて確かめますが、それと同じように、北からわざわいが、大いなる破滅が迫って来ていることを、角笛を吹いて、のろしを上げて警告するようにというのです。

2節をご覧ください。「娘シオンよ」とあります。「シオン」とは、「エルサレム」の別の呼び方です。ですからこれは、1節の「ベニヤミン」とも同義語でもあるわけですが、そのシオンが、ここでは「麗しい牧場」にたとえられています。そこに暮らす民は美しい羊たちでした。本来であれば、羊飼いたちは自分の群れの羊たちを連れて行き、その周りに天幕を張り、そこで草を食べるよことができるようにするわけですが、今回はそうではありません。そのシオンに向かって聖戦を布告せよ、と言われているのです。4節と5節です。「「シオンに向かって聖戦を布告せよ。立て。われわれは真昼に上ろう。」「ああ、残念だ。日が傾いた。夕日の影が伸びてきた。」「立て。われわれは夜の間に上って、その宮殿を滅ぼそう。」」どういうことでしょうか。

聖書では、「羊飼い」というとイスラエルの王や預言者といった霊的リーダーたちのことを指していますが、ここでは別の人のことを指して言われています。それはバビロンの王ネブカデネザルのことです。彼は羊たちを緑の牧場にふさせ、いこいのみぎわに伴うどころか、その麗しい牧場、神の民に対して聖戦を布告するのです。そのように命じているのは誰かというと、イスラエルの神、主です。主がバビロンの王ネブカデネザルに対して、イスラエルに向かって聖戦を布告するように、と言われたのです。ですからここに「聖戦」とあるのです。「聖戦」とは神の戦いのことです。一般的には神の民が外国の民に対して行うものですが、ここでは逆です。バビロンが神の民に対して戦う戦いを聖戦と呼んでいます。なぜなら、それは聖なる神によって命じられたものだからです。そうです、これは神が主導された神の戦いなのです。神の民であるイスラエルを懲らしめるために、神が外国のバビロンを用いられるのです。それはどのような戦いでしょうか。

4節には「われわれは真昼に上ろう」とあります。そして5節には「われわれは夜の間に上って」とあります。通常、戦闘は夜明けとともに始まり夕暮れには終わりましたが、日中はかなり暑くなるので少し休んだりするわけですが、この敵はそうではありません。ここに「真昼に上ろう」とあるように、真昼の暑い中でも休まずに攻撃してくるのです。それは通常ではあり得ないことです。そんなあり得ない力を持っているということを表しているのです。また「夜の間に上って」とは、昔は懐中電灯のようなものがなかったので夜の間に戦うことはできませんでしたが、この敵は違います。夜の間も上って来ます。ものすごいパワーです。そんな敵が攻め寄せて来たら、たまったものではありません。

6節をご覧ください。ここで万軍の主がこう言われます。「木を切って、エルサレムに向かって塁を築け。これは罰せられる都。その中には虐げだけがある。」

これは誰に対して語られているのでしょうか。そのバビロンに対してです。バビロンに対して「木を切って、エルサレムに向かって塁を築け。」というのです。「塁」とは、英語で「mounds」(マウンド)です。盛土とか、土手、土塁のことですね。野球のピッチャーが投げるところをマウンドと言いますが、それは盛土された所だからです。ここでは土ではなく木でそれを築くようにと命じられています。木を切って、エルサレムに向かって塁を築くようにと。エルサレムは城塞都市でしたから、たやすく攻めることができませんでした。それで木を切って、それで城壁よりも高い物見やぐらのようなものを作り、そこから侵入を試みるのです。いわゆる「塁」を築くわけです。これを命じておられるのは万軍の主です。万軍の主である神様が、ご自分の民であるエルサレムを攻撃するために、その戦術をバビロンに命じているのです。4節に「聖戦を布告せよ」とありましたが、これは皮肉でも何でもなく、エルサレム、ユダの民に対する神の戦い、聖なる戦争だったのです。主はそのためにバビロンを用いました。主は外国の敵を用いて神の民を罰しようとされたのです。なぜなら、彼らは罪と悪によって腐敗していたからです。

その悪がどのようなものであったかが7節に記されてあります。「井戸が水を湧き出させるように、エルサレムは自分の悪を湧き出させた。暴虐と暴行がその中に聞こえる。病と打ち傷がいつもわたしの前にある。」

井戸の水が湧き出るように、エルサレムは自分の悪を湧き出させていました。神が彼らをさばかれるのは、彼らの中に井戸水のように悪がコンコンと湧き出ていたからです。表面的にではなく、根っこの部分が腐っていたわけです。彼らの内側は暴虐と暴行で満ちていました。それが病と打ち傷となって、こんこんと外側に溢れ出ていたのです。悪は外側からではなく内側から出るものです。イエス様は、マルコ7章14~23節でこのように言われました。「14イエスは再び群衆を呼び寄せて言われた。「みな、わたしの言うことを聞いて、悟りなさい。15 外から入って、人を汚すことのできるものは何もありません。人の中から出て来るものが、人を汚すのです。」17 イエスが群衆を離れて家に入られると、弟子たちは、このたとえについて尋ねた。18 イエスは彼らに言われた。「あなたがたまで、そんなにも物分かりが悪いのですか。分からないのですか。外から人に入って来るどんなものも、人を汚すことはできません。19 それは人の心には入らず、腹に入り排泄されます。」こうしてイエスは、すべての食物をきよいとされた。20 イエスはまた言われた。「人から出て来るもの、それが人を汚すのです。21 内側から、すなわち人の心の中から、悪い考えが出て来ます。淫らな行い、盗み、殺人、22 姦淫、貪欲、悪行、欺き、好色、ねたみ、ののしり、高慢、愚かさで、23 これらの悪は、みな内側から出て来て、人を汚すのです。」」

皆さん、人を汚すのは外から入ってくるものではありません。人の内側から出るものです。人の内側から出るものが人を汚すのです。悪いことをするから罪人なのではなく、罪人なので悪いことをするのです。それは心から、内側から溢れ出てきます。見た目にはいくらでもよく見せることができますが、神は心を見られます。心は人の努力ではきよめることはできません。心をきよめることができるのは、イエス・キリストだけです。イエス・キリストによってその心をきよめていただかなければならないのです。

私たちの心は、悪が井戸水のようにこんこんと湧き出てくるようなものですが、神はこんな私たちをあきらめることはなさいません。そんな者でも癒してくださると約束しておられるのです。イザヤ書1章5~6節にこうあります。「あなたがたは、反抗に反抗を重ねてなおも、どこを打たれようというのか。頭は残すところなく病み、心臓もすべて弱っている。足の裏から頭まで健全なところはなく、傷、打ち傷、生傷。絞り出してももらえず、包んでももらえず、油で和らげてももらえない。」しかし、主はこう仰せられます。「さあ、来たれ。論じ合おう。─主は言われる─たとえ、あなたがたの罪が緋のように赤くても、雪のように白くなる。たとえ、紅のように赤くても、羊の毛のようになる。」(イザヤ1:18)

たとえ、あなたがたの罪が緋のように赤くても、雪のように白くなる。たとえ、紅のように赤くても、羊の毛のようになる。足の裏から頭のてっぺんまで健全なところはなく、傷、打ち傷、生傷が絶えず、絞り出してももらえず、包んでももらえず、油で和らげてももらえないような者でも、主はそんなあなたを招いておられるのです。そして、その罪を雪のように白くしてくださいます。羊の毛のようにしてくださるのです。その声を聞いて、神に立ち返る人は何と幸いでしょうか。

8節をご覧ください。「エルサレムよ、懲らしめを受けよ。そうでないと、わたしの心はおまえから離れ、おまえを、人も住まない荒れ果てた地とする。」

これは神の懲らしめ、Disciplineです。ここには親が子どもをしつけるというニュアンスがあります。愛する子がダメにならないように叱る親のように、神様はご自分の子に懲らしめを与えられるのです。子どもに向かって親が「きちんとしなさい」と言うように、神はご自分の民に言われるのです。「そうでないと、わたしの心はおまえから離れ、おまえを、人も少ない荒れ果てた地とする。」からです。原文では「そうでないと」ということばが2回使われています。「そうでないと、わたしの心はお前から離れ、そうでないと、おまえを、人もすまない荒れ果てた地とする。」ここまで来てもなお、あきらめない神の御思いが表れています。神様はギリギリまで待っていてくださるのです。

ここで注目していただきたいことばは「離れ」ということばです。これは脱臼するという意味の語で、聖書には、ここともう1箇所にしか出てこない珍しい言葉です。神と民がどれほど深く結びついているかが表されているのです。それほどまでに、神が民をさばくということは辛いことなのです。不本意ながらも離さなければならないという、神様の悲痛な思いが伝わってきます。なぜなら、彼らが汚れたままであることを選ぶからです。自分の悪を悔い改めことを拒むからです。

神様はきよい方であられます。罪や汚れと交わることはできません。ですから、私たちの罪がきよめられなければならないのです。そうすれば、神から離れることはありません。脱臼することはないのです。強く結びついたままでいることができます。あなたはどうですか。脱臼していませんか。この神の思いを受け止めて、神に立ち返り、罪を赦していただいて、神と深く交わる者でありたいと思います。

Ⅱ.閉じたままの耳(9-10

第二のことは、彼らがこのように悪に満ちるようになった原因です。いったいどうして彼らは神から離れてしまったのでしょうか。それは、彼らの耳が閉じられていたからです。9~10節をご覧ください。「9 万軍の主はこう言われる。「ぶどうの残りを摘むように、イスラエルの残りの者をすっかり摘み取れ。ぶどうを収穫する者のように、あなたの手をもう一度、その枝に伸ばせ。」10 私はだれに語りかけ、だれを諭して聞かせようか。見よ。彼らの耳は閉じたままで、聞くこともできない。見よ。主のことばは彼らにとって、そしりの的となっている。彼らはそれを喜ばない。」

「ぶどうの残りを摘むように、イスラエルの残りの者をすっかり摘み取れ。」とは、ぶどうを収穫する際に隅々まで摘むように、イスラエルの民をすっかり摘み取れということです。ユダの民はバビロンの攻撃によって完全に滅ぼされ、その住民はバビロンへと連れて行かれることになります。この「イスラエルの残りの者」とは、4章7節や5章18節に出てきた「残りの者」、「レムナント」のことではありません。ここで言われていることは、バビロンの破壊は徹底的であるということです。エルサレムはもう完全にバビロンの手に落ちるのです。

10節をご覧ください。それを聞いたエレミヤはこう言っています。「私はだれに語りかけ、だれを諭して聞かせようか。見よ。彼らの耳は閉じたままで、聞くこともできない。見よ。主のことばは彼らにとって、そしりの的となっている。彼らはそれを喜ばない。」

エレミヤは彼らに主のことばを語りましたが、だれも聞こうとしませんでした。聞く耳を持たなかったのです。完全に耳を塞いでいました。そんな人たちにエレミヤは40年以上も語り続けるのです。どれほど大変だったことかと思います。39年前の今日、私は福島で最初の礼拝をスタートしました。1年半ほど前から開いていたフライデーナイトという聖書を学ぶ小さなグループのメンバーと教会をスタートすることを決め、その最初の礼拝が39年前の今日だったわけです。若干22歳の若造が何を語ったのかさっぱり覚えていませんが、それから半年後の11月23日に最初の受洗者が与えられて教会を設立しました。あれから40年は経ちませんが、39年間いろいろなことがありましたが、神様のあわれみと助によってとにかく語り続けてきたわけですが、エレミヤは40年以上です。どんなに大変だったことかと思います。10節にあるように、主のことばは彼らにとってそしりの的となっていたわけですから。彼らはそれを喜ぶどころか、馬鹿にして、嘲笑っていたのです。

ここで注目していただきたいのは、「耳は閉じたままで」ということばです。これは下の欄外の説明にあるように、直訳では「耳に割礼がなく」という意味です。無割礼なのです。割礼とは、男性の性器の先端を覆っている包皮を切り取ることです。ユダヤ人の男子はみな、自分たちが神の民であるというしるしに、生まれて8日目にこの儀式を行いました。その耳に割礼がないというのです。実は4章4節にも、この割礼のことが語られていました。「主のために割礼を受け、心の包皮を取り除け。」大切なのは肉体の割礼ではなく心に割礼を受けるということです。いくら肉体に割礼を受けていても心が肉で覆われていたら、神のことばが心に響かないからです。何を言っているのかさっぱりわかりません。理解できない。ここでも同じことが言われています。耳が肉で覆われていると何を言っているのかわかりません。聞こえないのです。音声としては聞こえますが、それがどういうことかがわからないということです。聞く耳を持っていなかったからです。聞こうとしていませんでした。それが「耳に割礼がない」ということです。「耳が閉じられたまま」の状態のことです。まさに耳は、従順さとか服従さが表れる場所なのです。聞いたら従うのです。聞いても従っていないというのは、それは聞いていないということです。聞こえていないのです。

あなたの耳はどうでしょうか。だんだん耳が遠くなってきたと感じることがありますか。でもそれは年のせいではありません。心が神から遠く離れているということです。「前はもっとはっきり聞こえたけど、今は耳が遠くなって何を言っているのかわかりません」「以前は聖書を読むとピンときたのに、今はどこを読んでも無味乾燥です。全然響かないんです」というのは、実は耳が肉で覆われているからなのです。耳かすがたまっているからではありません。耳が肉で覆われているからなのです。ですから、耳に割礼を受けなければなりません。そうすれば、よく聞こえるようになります。

イエス様は種まきのたとえの中でこう言われました。「茨の中に蒔かれたものとは、みことばを聞くが、この世の思い煩いと富の惑わしがみことばをふさぐため、実を結ばない人のことです。」(マタイ13:22)ここに「みことばを聞くが、みことばをふさぐため、実を結ばない」とあります。ふさぐものは何ですか。ここでは、この世の思い煩いとか、富の惑わしとあります。そうしたものがみことばをふさぐため、聞いても実を結ばないのです。

私たちにはいろいろな思い煩いがあります。仕事のことや家庭のこと、自分の健康のことや人間関係の問題、あるいは最近は特にコロナや戦争のことで不安を抱えているという人もおられると思います。でもそうしたものに捉われていると、みことばが聞こえなくなってしまいます。それらのものがみことばをふさいでしまうからです。だから聖書はこう言っているのです。「あなたがたの思い煩いを、いっさい神にゆだねなさい。神があなたがたのことを心配してくださるからです。(Ⅰペテロ5:7)

神があなたがたのことを心配してくださいます。ですから、あなたの思い煩いを、いっさい神にゆだねてください。そうすれば、神のことばが聞こえてきます。私たち人間には、どうすることもできないことがたくさんあります。それらのことを心配するのではなく、神に信頼しなければなりません。そうすれば、神があなたのことを心配してくださいます。そして、神の御声が聞こえてくるのです。

Ⅲ.平和の君イエス・キリスト(11-18)

ではどうすればいいのでしょうか。ですから第三のことは、イエス・キリストに聞きなさいということです。11~18節をご覧ください。「11 主の憤りで私は満たされ、これを収めておくのに耐えられない。「それを、道端にいる幼子の上にも、若い男がたむろする上にも、注ぎ出せ。夫はその妻とともに、年寄りも齢の満ちた者も、ともに捕らえられる。12 彼らの家は、畑や妻もろとも、他人の手に渡る。わたしがこの地の住民に手を伸ばすからだ。─主のことば─13 なぜなら、身分の低い者から高い者まで、みな利得を貪り、預言者から祭司に至るまで、みな偽りを行っているからだ。14 彼らはわたしの民の傷をいいかげんに癒やし、平安がないのに、『平安だ、平安だ』と言っている。15 彼らは忌み嫌うべきことをして、恥を見たか。全く恥じもせず、辱めが何であるかも知らない。だから彼らは、倒れる者の中に倒れ、自分の刑罰の時に、よろめき倒れる。─主は言われる。」16 主はこう言われる。「道の分かれ目に立って見渡せ。いにしえからの通り道、幸いの道はどれであるかを尋ね、それに歩んで、たましいに安らぎを見出せ。彼らは『私たちは歩まない』と言った。17 わたしは、あなたがたの上に見張りを立て、『角笛の音に注意せよ』と命じたのに、彼らは『注意しない』と言った。18 それゆえ、諸国の民よ、聞け。会衆よ、知れ。彼らに何が起こるかを。」

みことばを聞こうとしないユダの民に対して、エレミヤの心は主の憤りで満たされました。もうそれを自分の心に収めておくことができなくなりました。だれも聞いてくれないのです。完全にバーン・アウトしたわけです。疲れ果ててしまいました。皆さんもよくあるでしょう。疲れ果てた・・・・ということが。

するとエレミヤに主のことばがありました。「それを、道端にいる幼子の上にも、若い男がたむろする上にも、注ぎ出せ。」と。「それ」とは主の憤りのことです。それを道端にいる幼子の上にも、若い男がたむろする上にも、注ぎだすようにというのです。幼子や若い男たちだけではありません。夫も妻も、年寄りも、非常に齢の満ちた者、これはかなりのご老人にもということですね。彼らも捕えられることになります。さらに彼らの家と畑は、妻もろとも奪われ、他人の手に渡ることになります。

どうしてでしょうか。13節にその理由が述べられています。「なぜなら、身分の低い者から高い者まで、みな利得を貪り、預言者から祭司に至るまで、みな偽りを行っているからだ。」

身分の高い人とか低い人までみんな自己中心になっていたからです。そしてその腐敗が宗教的なリーダーたちにまで及んでいました。彼らはみな偽りを行っていました。たとえば、平安がないのに、「平安だ、平安だ」と言っていました。これはある種のマインドコントロールです。主はそのように言っていないのに、そのように言っているかのように装うからです。私たちも注意しなければなりません。彼らは神の民の傷をいいかげんに癒していました。民は元気じゃなかったのに表面的に治療して「大丈夫、元気、元気!」と言い聞かせ、思い込ませていました。いわゆるやぶ医者と一緒です。ちゃんと治療しないのです。ここでは医者というよりも祭司とか預言者のことですから、やぶ牧師です。神様が言っていないのに「大丈夫だよ。神様はあなたのありのままを愛しているから」とか、いいかげんに語るのです。その方が相手も心地よいからです。それはやぶ医者と同じです。神の民の傷をいいかげんに癒しているにすぎません。しかし、真の牧者は民の傷をいいかげんに扱うことはしません。神のことばが言わんとしていることはどういうことなのかをしっかりと受け止め、みことばと祈りによって癒すのです。たとえそれがどんなに聞こえが良くないことでも、神のことばにしっかりと立つことが真の解決につながると信じているからです。

ところで、この「平安」ということばですが、これはヘブル語では「シャローム」と言います。「シャローム」とは、単に戦争がないとか、心が平安であるというだけでなく、その本質は「何の欠けもない理想的な状態」のことを意味しています。ですから、争いがなければ平和となるし、病気がなければ健康となるわけです。問題が解決すれば勝利となり、祝福に満たされていれば繁栄となります。欠けがあれば完全ではありません。でもこの「シャローム」は何の欠けもない完全な状態を意味しています。

あなたはどうでしょうか。あなたには何か欠けがありますか。その欠けが「シャローム」によって満たされるのです。他のもので満たされることはありません。お酒やギャンブル、仕事、お金、趣味などであなたの心が満たされることはありません。あなたの心を満たすのは、シャロームなる方、平和の君イエス・キリストだけです。イザヤ書9章6節にこうあります。「ひとりのみどりごが私たちのために生まれる。ひとりの男の子が私たちに与えられる。主権はその肩にあり、その名は「不思議な助言者、力ある神、永遠の父、平和の君」と呼ばれる。」ひとりのみどりごとはイエス・キリストのことです。キリストは生まれる700年も前から、私たちを救う救い主として来られることが預言されていました。その名は何でしょうか。その名は「不思議な助言者、力ある神、永遠の父、平和の君」と呼ばれます。イエス・キリストはその名の通り、私たちの罪を赦すために十字架にかかられ、三日目によみがえられたことで、この平和をもたらしてくださいました。

また、エペソ2章14~19節にもこうあります。「実に、キリストこそ私たちの平和です。キリストは私たち二つのものを一つにし、ご自分の肉において、隔ての壁である敵意を打ち壊し、様々な規定から成る戒めの律法を廃棄されました。こうしてキリストは、この二つをご自分において新しい一人の人に造り上げて平和を実現し、二つのものを一つのからだとして、十字架によって神と和解させ、敵意を十字架によって滅ぼされました。」

ですから、イエス・キリストだけがシャローム、真の平和をもたらすことができます。イエス・キリストだけが救いをもたらすことができます。勝利を、繁栄を、満たしをもたらすことができるのです。それ以外に平和を得る方法はありません。だから、キリストはこう言われたのです。「28 すべて疲れた人、重荷を負っている人はわたしのもとに来なさい。わたしがあなたがたを休ませてあげます。29 わたしは心が柔和でへりくだっているから、あなたがたもわたしのくびきを負って、わたしから学びなさい。そうすれば、たましいに安らぎを得ます。」(マタイ11:28-29)

皆さんの中に、疲れている人がいますか。重荷を負っている人がいますか。そういう人はイエス様のもとに来てください。イエス様があなたを休ませてあげます。なぜなら、イエス様は柔和でへりくだっておられる方だからです。イエス様はあなたのためにご自分のいのちを捨ててくださいました。それはあなたがいのちを得るためです。ここに「そうすれば、たましいに安らぎを得ます。」とあります。「安らぎ」「平安」それはイエス・キリストにあるからです。

偽預言者は平安がないのに「平安だ、平安だ」と言っていました。彼らは表面的で安易な平安を約束しましたが、そこには本当の平安はありませんでした。悪者には平安がないからです(イザヤ48:22)。真の平安を得るためには、その罪、汚れをきよめていただかなければなりません。そのために神は救い主を送ってくださいました。その救い主の贖いの業によって罪の赦しが実現したのです。平和がもたらされました。ですから、あなたが真の平安を得たいと思うなら、キリストのもとに来て罪をきよめていただかなければなりません。これが真のシャロームです。この方に聞くべきです。

世の終わりが近くなると、こうした偽預言者たちが安易な平安を約束しますが、そのようなことばに騙されてはいけません。平安がないのに、「平安だ、平安だ」ということばに聞いてはならないのです。真の平和はイエス・キリストにあります。この平和の君なるイエス・キリストに聞き従いましょう。それが神のさばきから免れ、神の平安をいただき、幸いな人生を送るキーなのです。