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「礼拝拝メッセージ」(萩原師)

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萩原師の礼拝メッセージ(MP3形式の音声ファイルです。)を聴きたい方は、下記の該当メッセージをクリックしてください。

2026/02/01 イエス様だけが、あなたの心を清くできる マルコ7章14-23節

2026/01/04 神様が本当に喜ばれること マルコ7章1-13節

2025/11/23 逆風の中で『わたしだ』と語られる主 マルコ6章45-56節

2025/11/04 小さな器、大きな恵み マルコ6章30-44節

2025/10/08 愛をもって真理を語る〜バプテスマのヨハネに学ぶ〜 マルコ6章14-29節

2025/09/07 12弟子の派遣 マルコ6章6b-13節

2025/08/31 故郷の人々の不信仰 マルコ6章1-6節

2025/08/10 信仰の手に応える主 – 癒しと新生の恵み マルコ5章25-34節

2025/07/06 恐れることなく信じる – イエス様の復活の力 マルコ05章21-24節、35-43節

2025/06/29 イエス様による解放と新たな使命 マルコ5章1-20節

2025/06/09 向こう岸へ渡ろう マルコ4章35-41節

2025/05/04 神の国の確かな前進 – 見えない恵みの成長 マルコ4章26-34節

2025/04/06 隠されているが、確かに実現する神の国 マルコ4章21-25節

2025/03/30 神様の言葉が実を結ぶ土地へと変えられていく私たち マルコ4章10-20節

2025/03/02 神の国の奥義を聞く耳を持とう マルコ4章1-9節

2025/02/02 神の家族、神の御心を行う人 マルコ3章31-35節

2025/01/13 イエス様の力と神の赦し マルコ3章20-30節

2024/12/29 十二使徒 – 多様性の中で用いられる私たち マルコ3章16-19節

2024/12/01 イエス様に選ばれ、共に歩む マルコ3章13-15節

2024/11/03 イエス様の真の姿と使命 マルコ3章7-12節

2024/10/27 安息日の主を信じなさい マルコ3章1-6節

2024/09/22 安息日は人のため マルコ2章23-28節

2024/09/01 新しいぶどう酒は、新しい皮袋に マルコ2章18-22節

2024/08/06 罪人を招いて救うために来られたイエス様 マルコ3章13-17節

2024/07/08 今がその時、共に、福音を! マルコ2章1-12節

2024/06/02 主の激しい憐れみ、主の栄光、福音、そして癒やしを伝える マルコ1章40-45節

2024/05/19 イエス様の祈りと弟子たちとの宣教 マルコ1章35~39節

あなたがたの歩みをよく考えよ ハガイ書1章1~11節

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聖書箇所:ハガイ書1章1~11節(旧約P1609)
タイトル:「あなたがたの歩みをよく考えよ」

前回は新年礼拝で、今年私たちの教会に与えられている目標聖句からお話しました。それは2:4にあるように、「仕事に取りかかれ。わたしがあなたがたとともにいるからだ。」という内容でした。きょうは、順序が逆になりますが、ハガイ書の最初、1:1~11からお話したいと思います。タイトルは「あなたがたの歩みをよく考えよ」です。では早速、本文に入りましょう。

Ⅰ.あなたがたの歩みをよく考えよ(1-4)

まず、1節をご覧ください。「1:1 ダレイオス王の第二年、第六の月の一日に、預言者ハガイを通して、シェアルティエルの子、ユダの総督ゼルバベルと、エホツァダクの子、大祭司ヨシュアに、【主】のことばがあった。」
ダレイオス王とはペルシャの王のことですが、そのダレイオス王
の第二年とは、西暦に換算するとB.C.520年になります。その年の第六の月の一日、預言者ハガイを通して、シェアルティアルの子、ユダの総督ゼルバベルと、エホツァダクの子、大祭司ヨシュアに、主のことばがありました。それは次のような内容です。2節をご覧ください。ここには「万軍の【主】はこう言われる。「この民は『時はまだ来ていない。【主】の宮を建てる時は』と言っている。」とあります。
どういうことでしょうか。「この民」とは、バビロン捕囚から帰還したユダの民のことです。また、「主の宮」とはエルサレムの神殿のことです。この民は、主の宮を建てる時はまだ来ていないと言っていました。これは彼らの言い訳です。彼らはエルサレムに帰還して神殿を建て始めましたが、反対者たちの妨害によって工事が難航していました。内部にも不一致や分裂などの問題がありました。やっとのこと神殿の礎は据えられましたが、このまま工事を続けるのは無理だと16年間も工事が中断したままになっていたのです。そんな彼らの言い訳がこれだったのです。「時はまだ来ていない。主の宮を建てる時は。」

不思議なことですが、4節をみると、「この宮が廃墟となっているのに、あなたがただけが板張りの家に住む時だろうか。」とあります。彼らはこんな状況では工事を続けることはできないと言っていながら、自分のことになるとせっせと働いていました。主の宮が廃墟となっているに、自分たちは板張りの家に住んでいたのです。「板張りの家」とは高級住宅のことです。神の宮が廃墟となっているのに、自分たちは高級住宅に住んでいたのです。これっておかしいと思いませんか。そんなに大変だったらマイホームだって作ることなどできるはずがありません。それなのに彼らは板張りの家に住んでいました。それはおかしいじゃないかと、いうのです。彼らは決して神殿再建を否定していたわけではありません。でもちょっとでも困難があると、ちょっとでも都合が悪いと、神様のことを後回しにしていたのです。今はその時じゃないと。もっと落ち着いてからでいいんじゃないですか。こういうのを何というんですか。こういうのを「言い逃れ」と言います。言い訳ばかりです。自分のことならどんなに大変でも自犠牲も惜しまずに喜んでやるのに、いざ神様のことになると全く他人ごとでした。ちょっとでも大変だとすぐに萎えてしまい、「今はその時ではない」と言って神様のことを後回しにしていたのです。何が問題だったのでしょうか。優先順位です。優先順位が間違っていたのです。

彼らの最優先事項は何でしたか?それは神の宮、エルサレム神殿を再建することでした。エズラ記1章にはそのように主に命じられています。そのために主はペルシャの王キュロスの霊を奮い立たせ、王国中に通達を出し、そのために必要な資金まで援助しました。預言者エレミヤによって告げられた主のことばが成就するためです。それこそ彼らが最優先にしなければならなかったことなのに、彼らにとっての最優先事項は何だったかというと、自分のことだったのです。自分たちのために家を建てることは決して悪いことではありません。しかしその前に彼らがしなければならないことは、主の宮を建てるということだったのです。それなのにそれをしなかったのは、彼らのプライオリティー、優先順位が間違っていたからです。だからこのように言い逃れをしたのです。

それは私たちにも言えることです。私たちにとっての最優先事項は何でしょうか。マタイ6:33にはこうあります。
「まず神の国と神の義を求めなさい。そうすれば、これらのものはすべて、それに加えて与えられます。」
まず神の国と神の義を求めなさい。新改訳第三版では、「神の国とその義とをまず第一に求めなさい。」とあります。これがクリスチャンにとっての最優先事項です。「神の国」とは神の支配のこと、「神の義」とは、神との関係のことです。神に支配されること、その神と正しい関係を保つこと、それこそクリスチャンが第一にすべきことです。ですから、この神との関係を保つ上で支障となるものがあるとしたら、神との関係を弱めてしまうものがあるとしたらそれを取り除かなければなりません。そして神との関係を第一にしなければならないのです。これが、聖書が教えている原則です。
たとえば、日曜日のことを考えてください。もし時間があったら礼拝に行きますと言ったらどうでしょう。だれも行けません。だってそんなに暇な人はいませんから。みんな日々忙しく走り回っています。それでも礼拝を守ることができるとしたら、それはその人の中にこれが最も大切なこと、最も優先されることという考えが確立されているからです。というのは、人はみなその人の考える優先順位に従って行動しているからです。もしそれがその人にとって最も大切なものであるならば、どんなことがあっても優先しますが、そうでないとこのような言い訳をしてしまうことになります。そのように言い訳ばかりしている人は、残念ながら何をしても、どの分野でも祝福されることはありません。それがその人となりを決めるからです。第一のものを第一にするなら、それに加えてすべてのものが加えられると聖書にあるとおりです。

アメリカの建国の父と呼ばれたベンジャミン・フランクリンは、政治家・外交官だけでなく、実業家、文筆家、科学者、発明家として多くの業績を残しましたが、その業績を称えて、アメリカの100ドル紙幣にその肖像が描かれているほどです。そのベンジャミン・フランクリンが残した有名な言葉の一つにこういうものがあります。
「言い訳が得意という人が、他のことも得意という人を、私は1人も知らない。」
言い訳が得意だという人、すぐに言い逃れをする人は、どの分野においても成功することはないということです。何をしてもうまくいくことはありません。そのためには優先順位をしっかり確立しておかなければなりません。ハガイの時代のユダの民にとっての最優先事項は何でしたか。エルサレムの神殿、神の宮を再建することでした。それが神の命令、神の教えだったからです。それはどんな犠牲を払ってでも最優先にしなければならなかったのに、彼らは「主の宮を建てる時はまだ来ていない」と言っていたのです。それは私たちも同じです。私たちも第一にすべきことを第一にすべきです。まず神の国と神の義を第一に求めなければなりません。

私たちが優先すべき第二のことは何でしょうか。それは家族との関係です。夫婦の関係や親子の関係ですね。それが、聖書が教えていることです。テモテ第一3:1~4には、このように教えられています。「ですから、監督はこういう人でなければなりません。すなわち、非難されるところがなく、ひとりの妻の夫であり、自分を制し、慎み深く、品位があり、よくもてなし、教える能力があり、酒飲みでなく、暴力をふるわず、温和で、争わず、金銭に無欲で、自分の家庭をよく治め、十分な威厳をもって子どもを従わせている人です。──自分自身の家庭を治めることを知らない人が、どうして神の教会の世話をすることができるでしょう──」
でもその前に神との関係が来ます。神との関係が健全ならば、夫婦の関係も、家族の関係も健全になるからです。なぜ家族の関係が不健全なのでしょうか。それは神との関係が不健全だからです。神との関係が健全なら、家族の関係も必ず健全になります。だから、神様と良い関係を持っている人は、夫婦関係においも、親子関係においても、また、その他ありとあらゆる人間関係においても必ず健全になります。なるはずです。問題が起こっても必ず克服することができます。イエス様のことばに従って赦し合い、助け合い、愛し合い、励まし合うからです。それができないのは神様との関係が貧弱だからです。だからイエス様は、まず神の国とその義を第一に求めなさい、と言われたのです。神との関係が第一です。第二は家族との関係です。

私たちの優先順位の第三は何でしょうか。それは私たちの働きです。たとえそれがミニストリーと呼ばれる神の働きであったとしても、です。それが神との関係や家族の関係に優先することはありません。なぜなら、神との関係や家族との関係が健全でなければ、神の働きを健全に行うことができないからです。それが、聖書が教えていることです。それが教会の仕事、教会の奉仕、教会の活動であったとしても、それが家族に優先するものではありません。まずは神様との関係です。神の国と神の義を第一にしなければなりません。そして次に家族との関係です。その次が仕事です。ミニストリー、奉仕です。神の働きと称しながら、神のため、神の栄光のため、神に喜びのため言いながら、妻を蔑ろにしていることがあるなら、それは神のみこころではないということです。教会の仕事に夢中になり、家族との時間が持てないとしたら、それは既に優先順位を間違っていることになります。そのような働きはどこかで必ず息詰まることになります。

第四は何でしょうか。第四は自分です。自分がしたいこと、それが趣味であれ、仕事であれ、付き合いであれ、それが神様との関係や家族との関係、あるいは仕事に優先するものではありません。勿論、バランスが大切ですが・・・。趣味も大切です。遊びも大切です。これがないと車のオイルがなくなった時のようにオーバーヒートしてしまいますから、それも大切ですが、それが優先順位の第一にくるものではありません。
主はこう言われました。「37イエスは彼に言われた。「『あなたは心を尽くし、いのちを尽くし、知性を尽くして、あなたの神、主を愛しなさい。』38 これが、重要な第一の戒めです。39 『あなたの隣人を自分自身のように愛しなさい』という第二の戒めも、それと同じように重要です。40 この二つの戒めに律法と預言者の全体がかかっているのです。」(マタイ22:37-40)
ある人は、いや、自分を愛することができなければ他の人を愛することもできないでしょう。だからまず自分を愛さなければなりません。自分の思うように生きるのが一番いいんだと。いわゆる、心理学者フロイトの原則ですね。でもこの世の快楽だけでは、決して解決できないことがあります。それは精神的空虚と不安です。そのためにみんな疲れ果てているのです。それを真に満たすことが出来るのは、私たちを創られたほんとうの神だけであって、自分の満足や快楽ではありません。だから聖書には、自分を愛しなさいなんて一言も記されていないのです。なぜなら、あなたはもう十分神様に愛されているからです。イエスさまがいのちをかけて愛してくださいました。だからあなたに必要なのは自分を愛することではなくて、自分が神から愛されたことを感謝して、その愛を神様にお返しし、家族、隣人に仕えることなのです。だから私たちが自分を愛するとか、自分の仕事に没頭するとか、神の働きに必死になる必要はありません。それは2の次、3の次なのです。勿論、それはどうでもいいということではありません。それらのことも当然必要不可欠なものとして重要なものですが、でも優先順位を間違えると、すべてが台無しになってしまいます。

ですから、この優先順位を間違えないようにしましょう。まず神の国と神の義を第一にすることです。板張りの家に住むことではありません。神がせよと言われることをするのです。これが確立されていれば、必ず神のみこころに叶った歩みをすることができます。その結果、神の祝福に満ち溢れた生涯を送ることができるのです。

Ⅱ.あなたがたの歩みをよく考えよ(5-6,9-11)

そのように優先順位を間違えて、言い逃れをしていたイスラエルに対して、主は何と言われましたか。次に、5~6節をご覧ください。5節には、「今、万軍の【主】はこう言われる。「あなたがたの歩みをよく考えよ。」とあります。

そのように優先順位を間違って言い逃れをしていたユダの民に対して主は、「あなたがたの歩みをよく考えよ。」と言われました。これは7節にも繰り返して言われていることです。実は2章に入ってからも、15節、18節に2回と、全部で5回も繰り返して語られています。これはどういうことでしょうか。
新改訳第三版ではこれを「あなたがたの現状をよく考えよ」と訳しています。また、口語訳では「あなたがたは自分のなすべきことをよく考えるがよい」と訳しています。新共同訳では「お前たちは自分の歩む道に心を留めよ」と訳しています。実は、この新共同訳が一番直訳に近い訳です。というのは、この新改訳2017には※がありますが、下の欄外には、直訳「に心を据えよ」という意味ですよとあるように、自分の歩む道についてよく考えなさいという意味だからです。あなたがたの歩む道についてよく考えるように、自己吟味するようにということです。私たちの道、それは自分のことばかり求める道でしょうか。自分が成功すること、自分が出世すること、自分の夢がかなうことでしょうか。それがあなたの道ならばよく考えなさいというのです。その道がどこに向かって行くのか、どのような結果がもたらされるのか、それをよく考えなければなりません。

6節に、その結果が語られています。「多くの種を蒔いても収穫はわずか。食べても満ち足りることがなく、飲んでも酔うことがなく、衣を着ても温まることがない。金を稼ぐ者が稼いでも、穴の開いた袋に入れるだけ。」
働けど、働けど、我が暮らし楽にならず、です。なぜなら、多くの種を蒔いても収穫はわずかだからです。食べても満ち足りることはありません。飲んでも酔うことがありません。ちっとも楽しくないのです。皆さんもそのような経験があるのではないでしょうか。働いても、働いても、すぐに消えて無くなってしまいます。物価が高騰しているからではありません。財布に穴が開いているからです。穴の開いた袋に入れているからです。だからどんなに働いても、豊かになれないのです。これだけ働けば幸せになれると思ったのに、これですべてを手に入れることができると思ったのに、湯水のように流れていきます。これさえできれば、この資格さえ手に入れることができれば、マイホームさえ手に入れたら、結婚さえできれば、就職さえできれば、きっと幸せになれると思ったのに、満ち足りることがありません。実に空しい人生です。伝道者ソロモンはこう言いました。「空の空。すべては空。」(伝道者の書1:2)
どんなに快楽を味わっても、どんなに事業を拡張し、自分のために邸宅を建てても、いくつもぶどう畑を設け、いくつも庭と園を造り、そこにあらゆる種類の果樹を植えても、だれよりも多くの牛や羊を所有しても、どんなに金や銀、宝を集め、多くの側めたちを手に入れても、空の空、すべては空だと。
どうしてそんなに空しいのでしょうか。それは自分のために働いているからです。神様が何を望んでおられるかではなく、自分のことで精一杯になっていたからです。だから祝福が無いのです。何となくわかりますよね。そういう生き方をしている限り、いつまで経っても満たされることはありません。多く種を蒔いても、少ししか刈り取ることができず、食べても満ち足りることがありません。結局、すべてが空、となるのです。

同じことが9~11節でも言われています。「1:9 あなたがたは多くを期待したが、見よ、得た物はわずか。あなたがたが家に持ち帰ったとき、わたしはそれを吹き飛ばした。それはなぜか。──万軍の【主】のことば──それは、廃墟となったわたしの宮のためだ。あなたがたがそれぞれ、自分の家のために走り回っていたからだ。1:10 それゆえ、あなたがたゆえに、天は露を滴らすのをやめ、地はその産物を出すのをやめた。1:11 わたしはまた、日照りを呼び寄せた。地にも山々にも、穀物にも新しいぶどう酒にも油にも、地が産み出す物にも、また人にも家畜にも、手によるすべての労苦の実にも。」」
彼らは多くのものを期待しましたが、得た物はわずかでした。それはなぜか?ここには「それは、廃墟となったわたしの宮のためだ。」とあります。彼らがそれぞれ、自分の家だけのために走り回っていたからです。それゆえ神は露を滴らせることをやめ、地はその産物を出すのをやめました。すなわち、彼らが神の命令に従わず、自分ことを最優先にしたからです。それゆえ、地は産物を出すのをやめたのです。神様に従わなければ、あなたの人生もカラカラになってしまいます。何の産物も生み出さない、不毛な人生となるのです。そのことをよく考えなければなりません。

あなたの歩みはどうですか。何の産物も生み出さない不毛な人生になっていませんか。多く種を蒔いても収穫はほんのわずか、食べても満ち足りることがない空虚な人生にはなっていないでしょうか。稼いでも、稼いでも、穴の開いた財布に入れていませんか。それはなぜか。よく考えてください。あなたがたの歩みを。それは優先順位が間違っているからです。もしあなたが神の国と神の義を第一に求めるなら、これらのものはすべて、それに加えて与えられます。これが神の約束です。それに加えて、これらのものはすべてとありますが、これらのものとは何ですか?それは、その文脈で語られていることですが、それは食べ物のことであり、飲み物のことです。また着物のことです。すなわち、衣食住という私たちの生活に必要な基本的なものです。そうしたものも、神の国とその義を第一にするなら、神は必要なすべてのものを満たしてくださいます。これが聖書の約束です。

Ⅲ.山に登り、木を運んで来て、宮を建てよ(7-8)

では、どうすれば良いのでしょうか。最後にそのことについて見て終わりたいと思います。7~8節をご覧ください。ここには「1:7 万軍の【主】はこう言われる。「あなたがたの歩みをよく考えよ。1:8 山に登り、木を運んで来て、宮を建てよ。そうすれば、わたしはそれを喜び、栄光を現す。──【主】は言われる──」とあります。
ここにも、「あなたがたの歩みをよく考えよ」とあります。そして、山に登り、木を運んで来て、宮を建てよ、と言うのです。そうすれば、わたしはそれを喜び、栄光を現わすと。どういうことでしょうか。主の宮は自動的に建つものではないということです。そのためには山に登らなければなりません。そこで木を切って、その木を運んで来て、加工して、設計図に従って組み立てなければなりません。黙って何もしないで勝手に建つわけではないのです。

それは神の宮である私たちのからだにも言えることです。聖書は、あなたがたのからだは神から受けた聖霊の宮であると言われています。その聖霊の宮であるからだ、クリスチャンライフは、自動的に建つわけではありません。イエス様を信じてバプテスマを受け、教会員になったから、建て上げられるということではないのです。そのためには山に登らなければなりません。木を運んで来なければなりません。そしてそれを組み立てて宮を建てなければならないのです。

でも、どうして主はこのように言われたのでしょうか。というのは、この宮を建てるための木材は既に与えられていたからです。エズラ3:7を見ると、ここには「彼らは石切り工や大工には金を与え、シドンとツロの人々には食べ物や飲み物や油を与えた。それはペルシアの王キュロスが与えた許可によって、レバノンから海路、ヤッファに杉材を運んでもらうためであった。」とあります。木材はツロとシドンから調達されていました。自分たちがわざわざ山に登って、木を運んでくる必要はなかったのです。レバノンから海路、ヤッファに杉材を運び入れていました。それなのにここに「山に上り、木を運んで来て、宮を建てよ」と言われているのは不思議というか不自然です。どうして主はこのように言われたのでしょうか。それは十分足りるはずの木材がなかったからでしょう。どうしてなかったのでしょうか。4節のことばから考えられるのは、彼らが自分たちの家を建てるためにそれを流用していたからです。4節に「あなたがただけが板張りの家に住む時だろうか」とあります。実際、彼らは自分たちの板張りの家の建材をどこから手に入れたのでしょうか。ここからじゃないですか。つまり、彼らは宮を建てるための木材を、自分の家を建てるために流用していたのです。だから、彼らは山に行って木を切り、それを運んで来て、宮を立てる必要があったのです。マラキ書には、それは神のものを盗むことだと言われています。
「3:8 人は、神のものを盗むことができるだろうか。だが、あなたがたはわたしのものを盗んでいる。しかも、あなたがたは言う。『どのようにして、私たちはあなたのものを盗んだでしょうか』と。十分の一と奉納物においてだ。3:9 あなたがたは、甚だしくのろわれている。あなたがたは、わたしのものを盗んでいる。この民のすべてが盗んでいる。3:10 十分の一をことごとく、宝物倉に携えて来て、わたしの家の食物とせよ。こうしてわたしを試してみよ。──万軍の【主】は言われる──わたしがあなたがたのために天の窓を開き、あふれるばかりの祝福をあなたがたに注ぐかどうか。」(マラキ3:8-10)
本来であれば、すべてが神様のものですから神にお返ししなければならないのに、彼らはそれを盗んでいました。どのように?十分の一と奉納物によってです。本来ならばすべてが神のものですから、すべてを神にお返ししなければなりません。それが十分の一献金の意味です。別に神様は私たちから十分の一を受けなくても全く問題ないのに、あえてそうするようにと言われたのは、神のみこころに従って生きてほしいと願っておられるからです。それなのに彼らはそれを怠っていました。それを神は「わたしのものを盗んでいる」と言われたのです。えっ、ちゃんと献金していますよ。どのように私たちがあなたのものを盗んだというのですか。十分の一と奉納物によってです。確かに彼らはささげものをしていたかもしれませんが、それは余ったもの、どうでも良いものでした。そういうものを一応、形式的にささげていましたが、それは本来のささげものではなかったのです。本来のささげものは、神のものを神のものとしてお返しすることです。その表明として十分の一が定められていたのです。人によってその額は違います。でもいやいやながらではなく、強いられてでもなく、心で決めたとおりにささげることを、神は望んでおられました。十分の一というのは、その基準だったのです。しかし彼らはそれを怠っていたので、神様は「あなたがたは神のものを盗んでいる」と言ったのです。

ハガイの時代もそうでした。彼らは神のものを盗んでいました。敵の妨害によって神殿再建が遅々として進まなかったとき、彼らはその木を流用して自分たちの床張りとしていたからです。彼らは神のものを盗んでいたのです。だから呪われていたのです。だから、山に登り、木を運んで来て、宮を建てよ、と言われたのです。そうすれば、わたしはそれを喜び、栄光を現わすと。

私たちはどうでしょうか。神のものを盗んではいないでしょうか。今月は金欠だ!とても十分の一は厳しい。いろいろ必要もあるし、余ったらささげよう、そう思ってはいないでしょうか。お金はいくらあっても足りない。老後のために蓄えなければならないし。それは神のものを盗んでいることになるのです。その結果はここにあるとおりです。多くを期待しても、得るものはわずかです。天は露を滴らすのをやめ、地はその産物を出すのをやめてしまいます。神様が吹き飛ばされるからです。あるのは日照りです。地にも山々にも、穀物にも新しいふどう酒にも、地が生み出すものにも、人にも家畜にも、人の手によるすべての労苦にも、です。なぜ?神のものを盗んだからです。十分の一と奉納物を自分たちのために流用したからです。だから、あなたがたの歩みをよく考えるようにというのです。山に登り、木を運んで来て、宮を建てなければなりません。ということは、これからでも遅くはないということです。確かにこれまでは自分の必要のためと、主にお返しすべきものをお返ししないで盗んでいたかもしれませんが、そうだったのか、わかりました。主よ、私は山に登ります。そして木を運んで来て、宮を建てますと、それを実行するなら、主はそれを喜び、栄光を現わしてくださいます。

感謝ですね。すべては神からいただいた恵みです。この健康も、経済も、仕事も、家族も、すべての良いものを主は与えてくださいました。しかも、神はご自身のひとり子イエス・キリストさえも惜しまずに与えてくださいました。感謝でいっぱいになります。何とか御礼をしたいです。でもとてもじゃないけど、この世のものでその御礼をすることはできません。だから私たちはささげものをするのです。でも考えてみてください。本当はそれさえも神のものなのです。それなのに神様はそれを喜んで受け入れてくださいます。

娘が幼稚園生の時、父の日に私の顔を描いた絵をプレゼントしてくれました。「ありがとう」という字を添えて。とてもほめられるような字ではありません。似ても似つかないような似顔絵を描いて、一生懸命に折った折り紙をつけて作ってくれたんです。どう思いますか?本来なら、その画用紙もクレヨンも、折り紙も、全部私が支払ったものです。それでも娘が「お父さんありがとう」とプレゼントしてくれたら、うれしくて感動します。それはお金には代えられない、何ものにも代えられない喜びです。娘が自分のことをこんなに喜んでその喜びを何とか表したいと一生懸命に作ってくれたのです。それは親として大きな喜びでした。

神様も同じです。はたから見たらそれは大したものではないかもしれません。そんなに高価なものでもないでしょう。大した奉仕じゃないかもしれない。でも神はそれを喜んで受け入れてくださいます。そしてご自身の栄光を現わしてくださいます。だから私たちも、神のものを神のものとしてお返ししなければなりません。山に登り、木を運んで来て、宮を建てよ。そうすれば、主はそれを喜び、栄光を現わしてくださるのです。
私たちは、この朝もう一度、自分の歩みをよく考えたいと思います。第一のものを第一にしているかどうか。もしそうでなかったら、山に登り、木を運んで来て、宮を建てましょう。そうすれば、主は受け入れてくださいます。それを喜び、栄光を現わしてくださいます。それこそ私たちの本望ではないですか。そのような歩みができるように、神様が力を与えてくださるように祈り求めようではありませんか。

礼拝メッセージ(近藤師)

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『礼拝メッセージ』

近藤先生の礼拝メッセージ(MP3形式の音声ファイルです。)を聴きたい方は、下記の該当メッセージをクリックしてください。

2026/01/18 一つの民とされ エペソ2章11~22節

2025/12/21 その光を見て マタイ2章1~15節

2025/11/09 恵みによって生きる エペソ2章1~10節

2025/10/27 完全なるものを目指して エペソ1章15~23節

2025/09/28 最高の贈り物 エペソ1章1~14節

2025/08/17 神の中に生き、動き、存在する 使徒の働き17章16-34節

2025/07/20 恩寵の人ペテロ ヨハネ21章1~17節

2025/05/18 いちじくの木が枯れる マタイ21:18~22

2025/04/20 ラザロよ出て来なさい ヨハネ11:38-46

2025/03/16 神の業が現れる時 ヨハネ9章1~12節

2025/02/16 主の恵みに感謝する ルカ17章11-19節

2025/01/19 もう一度触れられて マルコ8章22-26節

2024/12/15 マリアの讃歌 ルカ1章39-56節

2024/11/24 カナンの女の信仰 マタイ15章21-31節

2024/11/17 湖の上を歩かれたイエス マタイ14章22-33節

2024/10/20 パンの奇跡 ヨハネ6章1~15節

2024/10/07 悪循環からの開放 ヨハネ5章1~9節

2024/09/15 死を超える命 ルカ8章40-56節

2024/08/25 愛は人を救う マルコ2章1~12節

2024/07/28 生ける石として Ⅰペテロ2章4~9節

2024/06/30 湖上の奇跡 マルコ4章35-41節

2024/05/05 大漁の奇跡 ルカ5章1-11節

2024/04/21 百人隊長の信仰 ルカ7章1-10節

2024/03/24 十字架を見上げた女性達 ヨハネ19章23-30節

2024/03/03 イエスの権威 ルカ4章31-44節

2024/02/18 役人の息子の癒し ヨハネ4:46-54

2024/01/21 水がぶどう酒に変わる時 ヨハネ2:1-11

2023/12/24 クリスマスの光 イザヤ書9:1-7

2023/12/03 処女が身ごもる マタイ1:18-25

2023/11/19 タラントの喩 マタイ25:14-30

2023/10/09 大宴会の喩 ルカ14:7-24

2023/09/10 赦さないしもべの喩 マタイ18:21-35

2023/08/20 悪い農夫の喩 マタイ21:33~46

2023/07/16 不正の管理人の喩 ルカ16:1~13

2023/06/25 優先順位の問題 ルカ10:38~42

2023/06/18 羊と山羊の喩 マタイ25:31~46

2023/05/28 ぶどう園の労務者の喩 マタイ20:1-16

2023/04/16 復活の証人 ヨハネ20:1-8

2023/03/12 性悪な裁判官の喩 ルカ18:1-8

2023/02/19 愚かな金持ちの喩 ルカ12:13-21

2023/01/15 牧者と門の喩 ヨハネ10:1-18

2022/12/25 与える愛 マタイ2:1-12

2022/12/04 ここに、この胸に ルカ2:1-7

2022/11/20 サマリア人の喩 ルカ10:25-37

2022/10/16 放蕩息子の喩、兄息子 ルカ15:25-32

2022/09/11 放蕩息子の喩、弟息子 ルカ15:1-24

2022/08/21 神の国への招き 

2022/07/24 モーセの生涯⑰モーセとキリスト

2022/07/10 モーセの生涯⑯モーセの死 申命記34:1-12

2022/06/19 モーセの生涯⑮約束の地へ 申命記8:1-10

2022/05/15 再臨の時に備えて ルカ17:20-37

2022/04/17 死人のうちからよみがえるまでは マタイ17:1-9

2022/03/20 モーセの生涯⑭ヨシュアへのバトンタッチ 民数記27:12-23

2022/02/20  モーセの生涯⑬青銅の蛇 民数記21:1-9

2022/01/23  モーセの生涯⑫約束の地の偵察 民数記13:1-25

2021/12/26 シメオンが見ていたもの ルカ2:21-33

2021/11/07 モーセの生涯⑪幕屋の建設 出エジプト記35:4~35

2021/10/17 モーセの生涯⓾金の子牛事件出エジプト32:1-10

2021/09/19 モーセの生涯⑨十戒(2)出エジプト20:1-17

2021/08/22 頑張るって聖書的? へブル人への手紙4:1-11

2021/08/ 8 モーセの生涯⑧ 十戒 (1) 出エジプト19:1-20

2021/07/ 4 モーセの生涯⑦レフィディム 出エジプト記17:1~16

2021/06/13 モーセの生涯⑥水、うずら、マナ 出エジプト16:1-12

2021/05/16 モーセの生涯⑤葦の海渡渉 出エジプト14:15~31

2021/04/18 モーセの生涯④過越 出エジプト12:1-14

2021/03/21 モーセの生涯③ファラオとの交渉 出エジプト6:1-13

2021/01/24 生ける石として Ⅰペテロ2:4-10

2021/01/17 モーセの生涯②召命の時 出エジプト記3:1-14

2020/12/20 ダビデの町ベツレヘム ルカ2:1-12

2020/11/08 モーセの生涯①(モーセの誕生)出エジプト2:1-15

2020/10/11 聖書通読のすすめ 使徒の働き8:26-40

2020/9/13  神の御声を聴く(創世記と私達) 創世記50:1-26

2020/08/23 人の思い、神の思い イザヤ書55:6-13

2020/08/09 祝福の系図 創世記48:1-22

2020/7/12 エジプトに導かれる神 創世記 46:1-7, 28-34

2020/3/29 共に祈れることの幸い マタイ6:9-13

20203/15 神の救いの計画 創世記45:1-15

2020/2/16 エルシャダイ・全能の神  創世記43:1-15

2020/1/19   神様の織りなす織物 創世記42:1-25

2019/12/22  イエスとアウグストウス ルカ2:1-20

2019/12/8 神様の時 創世記41:37-57

2019/11/17  ヨセフと共におられた主 創世記39:1-23

2019/10/20 ヨセフの見た夢 創世記37:1-36

2019/9/22 祝福の継承 創世記 35:1-15

2019/8/18 和解への道 創世記33:1-20

2019/7/21 ペヌエル、神に勝たせる人生  創世記32:13-32

2019/6/23 信仰成長を求めて 詩編1編

2019/6/16 マハナイム、砕かれるとき 創世記32:1-12

2019/5/19  全てを見ておられる神 創世記31:1-13

2019/4/21 復活の力  ルカの福音書24:1-12

2019/3/17 私のベテル 創世記28:1-22

2019/2/10 憐れみの器 創世記25:19-34

20191/13 死の向こうを見つめて  創世記23:1-20

2018/12/23 救い主イエス  マタイ1:1-25

2018/11/11 信仰の高嶺を目ざして  創世記22:1-19

2018/10/21 望みが叶うとき 創世記21:1-7

2018/9/23 執り成しの祈り 創世記19:1-29

2018/8/19 神様の視点  創世記18:1-15

2018/7/22 信仰のリニューアル 創世記17:1-27

2018/6/10 神の愛の眼差し 創世記16:1-16

2018/5/13 神の一方的な愛 創世記15:1-21

2018/4/15 イエスと共に歩む ルカ24:13-35

2018/4/8 二人の王 創世記14:1-24

2018/3/18 御心を求めて生きる 創世記12:10-13:18

2018/2/25 アブラハムの旅立ち 創世記11:27-12:9

仕事に取りかかれ ハガイ書1章1~9節

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聖書箇所:ハガイ書1章1~9節(旧約P1609)
タイトル:「仕事に取りかかれ」

主の2026年、明けましておめでとうございます。この新年最初の主の日も、共に主に向かい心からの賛美と礼拝をささげることができることを感謝します。

皆さんは、新年の目標を掲げましたか?箴言29:18には「幻がなければ、民は好き勝手にふるまう。」とあります。幻、目標がなければ、民は好き勝手にふるまうことになってしまいます。その結果、意味のない時を過ごしてしまったということにもなりかねません。ですから、目標を定めることは非常に重要なことです。私たちの教会では、いつも新年の礼拝でその目標となる聖句からメッセージしておりますが、今年の目標聖句は、ハガイ書2:4です。
「しかし今、ゼルバベルよ、強くあれ。──【主】のことば──エホツァダクの子、大祭司ヨシュアよ、強くあれ。この国のすべての民よ、強くあれ。──【主】のことば──仕事に取りかかれ。わたしがあなたがたとともにいるからだ。──万軍の【主】のことば──」
主はここでバビロンから帰還したユダの総督ゼルバベルと大祭司ヨシュアに、そしてユダのすべての民に「仕事に取りかかれ」と言われました。仕事とは、もちろんエルサレムの神殿を再建することです。B.C.586年にバビロンによって破壊されたあのエルサレムの神殿を再建するようにと言われたのです。
それは、私たちの教会にも言われていることです。私たちは今年、エルサレム神殿ならぬ教会の再建に取りかからなければなりません。どのように取りかかったら良いのでしょうか?今日は、このテーマについて3つのことをお話したいと思います。

Ⅰ.強くあれ(1-4)

まず、1節をご覧ください。「第七の月の二十一日に、預言者ハガイを通して、次のような【主】のことばがあった。」
「第七の月の二十一日」とは、1:1を見ていただくとわかりますが、ペルシャの王ダレイオスの治世の第二年の第七の月の二十一日のことです。これは西暦に換算すると、B.C.520年10月27日となります。その日に預言者ハガイを通して、主がユダの総督ゼルバベルと、大祭司ヨシュア、そしてユダの民の残りの者に語られたのが、このことばです。B.C.586年にバビロンによってエルサレムが滅ぼされると、ユダの民は捕囚の民となってバビロンに捕え移されましたが、主はご自身の約束にしたがってそのバビロンを滅ぼしたペルシャの王キュロスに命じ、彼らの内の約5万人を祖国エルサレムに帰還させました。そして祖国エルサレムを復興させるのです。その最初に手掛けたことはエルサレムの宮を建て直すことでした。しかし、エルサレムに帰還したユダの民は唖然とします。その惨状があまりにもひどかったからです。それでも彼らは、預言者ハガイが語る主のことばに励まされて神殿再建に取りかかりました。1:14にあるように、主がユダの総督ゼルバベルの霊と、エホツァダクの子、大祭司ヨシュアの霊と、民の残りの者すべての霊を奮い立たせたので、彼らは自分たちの神、万軍の主の宮に行き、仕事に取りかかりました。それは第六の月の二十四日のことでした。それは、ちょうどこの2章の1か月前のことでした。すでに土台は据えられていました。そしていよいよその上に神殿を建て始めようとしていたその時に、このような主のことばがあったのです。

それが2節以下の内容です。2~4節をご覧ください。「『シェアルティエルの子、ユダの総督ゼルバベルと、エホツァダクの子、大祭司ヨシュアと、民の残りの者に次のように言え。あなたがたの中で、かつての栄光に輝くこの宮を見たことがある、生き残りの者はだれか。あなたがたは今、これをどう見ているのか。あなたがたの目には、まるで無いに等しいのではないか。2:4 しかし今、ゼルバベルよ、強くあれ。──【主】のことば──エホツァダクの子、大祭司ヨシュアよ、強くあれ。この国のすべての民よ、強くあれ。──【主】のことば──仕事に取りかかれ。わたしがあなたがたとともにいるからだ。──万軍の【主】のことば──」

「かつての栄光に輝くこの宮」とは、ソロモンが建てた神殿のことです。それはB.C.586年にバビロンによって破壊されましたが、それはまさに絢爛豪華な建物でした。シェバの女王がソロモンのところに表敬訪問したことがありましたが、彼女はその荘厳さに驚き「私は自分で来て、自分の目で見るまでは、そのことを信じなかったのですが、なんと、私にはその半分も知らされていなかったのです。あなたの知恵と繁栄は、私が聞いていたうわさより、はるかにまさっています。」(Ⅰ列王記10:7)と言ったほどです。彼らの中には、その神殿を見たことがある人たちがいたのです。というのは、これが語られたのはB.C520年ですが、ソロモンの神殿から破壊されたのはB.C.586年ですから、それから66年しか経っていなかったからです。70歳以上の人であれば、当時の神殿を覚えていたのではないかと思います。おそらくこのハガイもその一人だったのではないかと思います。彼もまたそれらの人たち同様、ソロモンによって建てられた荘厳な神殿を見ていたに違いありません。
それらの人たちの目には、今再建している神殿はどのように映っていたでしょうか。3節には「あなたがたの目には、まるで無いに等しいではないか」とあるように、それはソロモンの神殿とは比較にならないほどみすぼらしいものでした。基礎工事が終わっていよいよこれから上物を建てていくという時、それらの人たちにはだいたいわかっていました。どのくらいの規模の、どのような神殿が出来るのかを。それはソロモンの神殿と比べたらあまりにもちっぽけなものでした。それでかつてソロモンの神殿を見たことのある人たちは嘆いていたのです。それはエズラ3:11-12にも言及されています。
「そして彼らは【主】を賛美し、感謝しながら「主はまことにいつくしみ深い。その恵みはとこしえまでもイスラエルに」と歌い交わした。こうして、【主】の宮の礎が据えられたので、民はみな【主】を賛美して大声で叫んだ。3:12 しかし、祭司、レビ人、一族のかしらたちのうち、以前の宮を見たことのある多くの老人たちは、目の前でこの宮の基が据えられたとき、大声をあげて泣いた。一方、ほかの多くの人々は喜びにあふれて声を張り上げた。」(エズラ3:11-12)
エルサレムに帰還した民によって主の宮の礎が据えられたとき、彼らは主を賛美し、感謝しながら言いました。「主はいつくしみ深い。その恵みはとこしえまでもイスラエルに」と。これは、ソロモンの神殿を見たことがない、比較的若い人々の反応です。しかし、一方、以前の宮を見たことがある多くの老人たちは、大声をあげて泣きました。あまりにもみすぼらしいものだったからです。これが今ここで言われていることです。多くの老人たちはがっかりしていました。だから主は預言者ハガイを通して、そのように気落ちしている人たちを励まそうとしたのです。

皆さん、私たちも主のわざに励もうとするとき、かつての栄光に比べてあまりにもみすぼらしい状況を見る時、同じように気落ちすることがあるのではないでしょうか。あの時はたくさん求道者が教会に来たのに今はほとんどいない。どの教会でも救われる人は1人か2人になっている。あの頃は子どもたちが教会に満ち溢れていたのに、今はほとんどいない、若い人たちもあまりいません。年配の方も味があっていいけれども、やはり将来のことを考えたら若い人がいないのは心配になります。同じことです。あなたがたの目には、まるで無に等しいではないか。

しかし、主はそんな彼らを励ましてこう言われたのです。4節です。「しかし今、ゼルバベルよ、強くあれ。──【主】のことば──エホツァダクの子、大祭司ヨシュアよ、強くあれ。この国のすべての民よ、強くあれ。──【主】のことば──仕事に取りかかれ。わたしがあなたがたとともにいるからだ。──万軍の【主】のことば──」
主は総督ゼルバベルにも、大祭司ヨシュアにも、そしてすべての民に対して同じことばを語られました。何ですか?それは「強くあれ」ということばです。ここには、「強くあれ」、「強くあれ」、「強くあれ」と連呼されています。かつての栄光に輝くソロモンの神殿と比較して嘆いている人たちに対して、そして、これからみすぼらしいように思える神殿を再建しようとしている人たちに対して、主は強くあれと言われました。
 聖書には何度となくこの命令が出てきます。たとえば、モーセの後継者であったヨシュアが、イスラエルを率いて約束の地に入り、先住民と戦ってそこを獲得しなければならなかった時も「強くあれ、雄々しくあれ」と命じられました(ヨシュア1:7)。また、ダビデの子ソロモンに対しても、これから神殿建設に取りかかろうとしていた時、「強く、男らしくありなさい」と命じられました(Ⅰ列王記2:2)。それは、その時彼らに恐れや不安があったということです。そんな彼らに対して必要だったことは「強くある」ことだったのです。それはここでも同じです。まるで無いに等しいではないかのように見える神殿の再建において、彼らに求められていたのは「強くある」ことだったのです。

それは自分で強くなるということではありません。自分の力で奮い立つということではないのです。ここに「わたしがあなたとともにいるからだ」とあるように、主によって強められることです。つまり、これは信仰の問題なのです。信仰が問われているのです。自分を見たら誰もががっかりするしょう。そんなに強い人なんていないからです。たとえ自分で強いと思っている人でも、ちょっとしたことですぐに沈んでしまいます。立ち上がれない~と。私たちは誰も自分で自分を強くすることなんてできません。しかし、何もかもご存知であられる方が「強くあれ」と言ってくださるのです。ということは、私たちはこの方にあって強くあることができるということです。あなたがこの神の言葉に聞き従うなら、あなたが強くあるように神が助けてくださるからです。そこに神の支えがあるということです。この世ではどうでしょう。「強くあれ」と言われたら、じゃ、ジムにでも行って体を鍛えるかとか、メンタルトレーナーや心療内科に行ってアドバイスをもらおうと考えるかもしれませんが、そこには限界があります。でも神には限界などありません。その神がいつもあなたとともにいてくださるのです。あなたは決してひとりぼっちではありません。24時間365日、神はいつもあなたとともにいてくださいます。あなたともにいてあなたを助けてくださるのです。だからイエス様は「インマヌエル」と呼ばれているのです。あなたが自分の力で強くなれなくても、イエス様がいっしょにおられるなら強くなることかできます。パウロはピリピ4:13でこのように言っています。
「私は、私を強くしてくださる方によって、どんなことでもできるのです。」
パウロは何と言いましたか。彼は、自分は何でもできるとは言いませんでした。彼は、私を強くしてくださる方によって、どんなことでもできると言ったのです。自分で自分を強くすることなんてできません。でもイエス様があなたとともにいるならイエス様があなたを強くしてくださいます。そしてこのイエス様の力によってあなたはどんなことでもできるのです。アーメン!信じますか? とても無理です!と言われるでしょうか。でもこれが、聖書があなたに約束しておられることです。だから、あなたは仕事に取りかかることができるのです。神の御業に取りかかるために必要なことは、まず強くあることです。神の力によって強くされるのです。そうすれば、あなたはどんなことでもできます。そして、神の仕事に取りかかることができるのです。

Ⅱ.主は揺り動かされる(5-8)

第二のことは、主は揺り動かされるということです。5~8節をご覧ください。5節には、「2:5 あなたがたがエジプトから出て来たとき、わたしがあなたがたと結んだ約束により、わたしの霊はあなたがたの間にとどまっている。恐れるな。』」とあります。それは彼らの先祖たちがエジプトを出た時に約束されたことです。その時主は彼らと契約を結ばれ、もし彼らが主の声に聞き従い、主の契約を守るなら、あらゆる民族の中にあって、神の民となるということでした。あれからもう900年も経っていました。その間、イスラエルの民はどうであったかというと、神の声に聞き従うどころか神に背き、神との契約を破り続けてきました。もう契約不履行です。にもかかわらず神は彼らと結んだ約束をずっと守られ、この時に至るまで「わたしの霊はあなたがたの間にとどまっている」と言ってくださったのです。そればかりか、6~7節ではこう言われました。「2:6 まことに、万軍の【主】はこう言われる。『間もなく、もう一度、わたしは天と地、海と陸を揺り動かす。2:7 わたしはすべての国々を揺り動かす。すべての国々の宝物がもたらされ、わたしはこの宮を栄光で満たす。──万軍の【主】は言われる──』」
どういうことでしょうか。主はこれまでも何度も天と地、陸と海を揺り動かして来られました。それはあの出エジプトの時もそうですし、今回のバビロン捕囚からの解放もそうです。それと同じようなことを、これからもナサルというのです。それは廃墟となったエルサレムの神殿を建て直すということです。そのために主は天と地を揺り動かされるのです。
この箇所はヘブル12:26~28にも引用されていることです。「12:26 あのときは御声が地を揺り動かしましたが、今は、こう約束しておられます。「もう一度、わたしは、地だけではなく天も揺り動かす。」12:27 この「もう一度」ということばは、揺り動かされないものが残るために、揺り動かされるもの、すなわち造られたものが取り除かれることを示しています。12:28 このように揺り動かされない御国を受けるのですから、私たちは感謝しようではありませんか。感謝しつつ、敬虔と恐れをもって、神に喜ばれる礼拝をささげようではありませんか。」
この文脈においては、世の終わりにおいて、揺れ動かされるようなことが起こると言われています。この「もう一度」ということばは、揺り動かされないものが残るため、つまり、神の御国は揺り動かされることはない、という約束です。揺り動かされることのない御国が残るために、神はあえて天と地をふるいにかけて揺り動かされるというのです。それと同じことがハガイの時代にも起こるのです。主はすべての国々を揺り動かして、すべての国々の宝物がエルサレムにもたらされ、この宮を栄光で満たすというのです。つまり、ゼルバベルによって再建されるエルサレム神殿を通して、ご自身の栄光を現わされるということです。そのために主は天と地を揺り動かされるのです。もう一度揺り動かされます。はたから見たら、何ともみすぼらしいかのように見える建物かもしれません。あのソロモンの神殿に比べたら取るに足りないもののように感じるかもしれません。しかし、主はその宮を栄光で満たされるのです。
いったいどうやってそのようなことが起こるのでしょうか。主が天と地、すべての国々を揺り動かすことによってです。それは主の御霊がなさることなのです。ゼカリヤ書に有名なことばがあります。それは「権力によらず、能力によらず、わたしの霊によって」(ゼカリヤ4:6)ということばです。これもバビロンから帰還したユダの民がエルサレムの神殿を再建する時に語られた主の約束のことばです。それは彼らの力によって成し得ることではなく、主の霊によって成し遂げられることだったのです。
また、その続きにこうあります。「大いなる山よ、おまえは何者か。おまえはゼルバベルの前で平らにされる。彼がかしら石を運び出せば、『恵みあれ。これに恵みあれ』と叫び声があがる。」(ゼカリヤ4:7)
どんなに大きな山でも、主の霊によって平らにされ、低くされるのです。どんなに困難なように見えることでも、どんなに失敗しても、主の霊が彼らの間にとどまり、ご自身の御業を成してくださるのです。

日本の救世軍の父と呼ばれた山室軍平は、こう言いました。
「私は日本において使徒行伝を書き続ける」
皆さん、おわかりですか。使徒行伝とは使徒の働きのことですが、そこにはイエス様が天に昇って行かれた後、使徒たちはどのような働きをしたかがまとまれています。しかしこれは正確には「使徒行伝」ではなく「聖霊行伝」です。主が約束された聖霊が降られた後、聖霊がどのように使徒たちを通して働かれたのかが記録されているのです。そして、聖霊が彼らの上に臨んだとき、彼らは力を受けて、エルサレム、ユダヤ、サマリヤの全土、さらに地の果てまでキリストの証人となって出ていきました。その記録が収められているのです。
「しかし、聖霊があなたがたの上に臨むとき、あなたがたは力を受けます。そして、エルサレム、ユダヤとサマリアの全土、さらに地の果てまで、わたしの証人となります。」(使徒1:8)
だからこれは「使徒行伝」ではありません。「聖霊行伝」です。その使徒行伝、聖霊行伝を、私は書き続ける。つまり、今に至るまで働き続けておられる聖霊の働きを私は書き続ける、と山室軍平は言ったのです。
これは事実です。主は「わたしの霊はあなたがたの間にとどまっている。」と言われました。1世紀の初代教会において働かれた聖霊は、21世紀にこの日本においても働いておられ、すべての国々を揺り動かして大いなる御業を成しておられるのです。たとえ人口わずか5万人だとしても、主の御霊が成し遂げてくださるのです。あの出エジプトの時はものすごかったけれども、あるいは第二の出エジプトと言われるバビロンからの解放もすごかった。その同じ主の御霊が、このゼルバベルの時も働いてくださり、主の宮を再建させてくださいます。ペンテコステの時もそうでしたね。多くの民が悔い改めて主に立ち返りました。それはこれからも同じです。たとえクリスチャンが0.2%だとしても、主が大いなる御業を成し遂げてくださるのです。神はいつまでも変わることはありません。イエス・キリストは、きょうもいつまでも同じですとあるとおり、いつまでも変わらない主の御霊が、今も、これからも生きて働き、ご自身の御業を成し遂げてくださるのです。

ですから6~9節には、「わたしはする」という宣言が繰り返されているのです。英語では「I will」ですね。これからの未来においてするということです。6節には、「間もなく、もう一度、わたしは天と地、海と陸を揺り動かす。」とありますが、英語では「Once more (it is a little while) I will shake heaven and earth, the sea and dry land;」(NKJV)と訳されてあります。
7節もそうです。「わたしはすべての国々を揺り動かす」とありますが、英語の聖書には「I will shake all nations」(NKJV)と訳されてあります。その後の「わたしはこの宮を栄光で満たす」もそうです。「I will fill this temple with glory」です。
9節の「この場所にわたしは平和を与える」もそうです。「And in this place I will give peace」
このように、主は何度もI willと言って、主ご自身が、主の御霊がそれをすると宣言しておられるのです。それは主が成し遂げてくださことなのです。
でも、現実的には無理でしょ。お金がかかります。いったいどこからそのお金が降ってくると言うんですか?あくまでもそれは理想だけれども、現実的には無理でしょ?皆さん、無理ですか?アーメン!なんて言わないでください。無理じゃありません。だって主はこうおしゃつていますから。8節をご覧ください。ご一緒に読んでみましょう。
「銀はわたしのもの。金もわたしのもの。」
皆さん、銀はだれのものですか?金は誰のものでしょう?ここには、銀はわたしのもの。金もわたしのもの、とあります。すべては主のものです。ですから、この主を持っているなら、あなたはすべてを持っているのです。あなたはお金持ちです。何も乏しいことはありません。だからダビテはこう告白したのです。
「主は私の羊飼い。私は乏しいことはありません。」(詩篇23:1)
主が私たちの羊飼いであられるなら、私たちは乏しいことはありません。お金がないから何もできないのではありません。信仰がないから何もできないのです。だってはっきりとこう書かれてありますから。「銀はわたしのもの。金もわたしのもの。」と。もしあなたがこの主を持っているなら、あなたはどんなことでもできるのです。

パウロはピリピ4:19でこう言っています。「また、私の神は、キリスト・イエスにあるご自身の栄光の富をもって、あなたがたの必要をすべて満たしてくださいます。」(新改訳改訂第3版)
パウロはここで「私の神」と言っています。私の神は、キリスト・イエスにあるご自身の栄光の富をもって、すべての必要を満たしてくださいます。あなたの神はどうですか?あなたの神は貧乏神ですか?破産していますか?「今、金欠です」なんて。でも、私たちの神もパウロの神と同じです。キリスト・イエスの栄光の富をもって、私たちの必要をすべて満たしてくださいます。

ハガイの時代、彼らは廃墟となったエルサレムの町でもう途方に暮れていました。どこからこの宮の再建のための資金を捻出しろというのか・・。事実、エルサレム神殿を建て直すには莫大な資金が必要でした。その資金をどこから手に入れよというのか。ここから手に入れることができます。「銀はわたしのもの。金もわたしのもの。」と言われる主から。すべては主のものです。資金も、資材も、労力も、すべての必要は主が与えてくださいます。神の銀行口座にはどれだけあるか知ってください。そうすれば、お金が無いなんてみみっちいことは言わなくなりますから。ないものねだりをしてはいけません。私たちにはすべてがあるんですから。私たちの主イエス・キリストは私たちのすべてのすべてであって、この方にはすべてがあるということを覚えておかなければなりません。そして、この方がすべてを揺り動かして、あなたの必要を満たし、ご自身の御業を成してくださるのです。

Ⅲ.先のものにまさる後の栄光(9)

最後にその結果を見たいと思います。たとえそれが人間的には困難なことでも、主が成してくださると信じて仕事に取りかかるなら、どのような結果がもたらされるのでしょうか。9節をご覧ください。ここには「この宮のこれから後の栄光は、先のものにまさる。──万軍の【主】は言われる──この場所にわたしは平和を与える。──万軍の【主】のことば。』」とあります。
どのような点でこのちっぽけなゼルバベル神殿が、あの絢爛豪華なソロモンの神殿にまさると言えるのでしょうか。それはそこに主が臨在されることによってです。それがどんなに立派な神殿であっても、そこに主がおられなければただの建物でしかありません。しかし、そこに主がおられるなら、主が栄光で満たしてくださいます。これは教会にも言えることですね。教会は建物ではありません。それは教会ではなく教会堂です。教会にとって最も重要なことは、そこに主が臨在しておられるかどうかということです。どんなに立派な建物でも、そこに主がおられなければ何の意味もありません。しかし、それがどんなにちっぽけなものでも、そこに主がおられるならそこは主の栄光が満ちるのです。

このゼルバベル神殿もそうです。それはソロモンの神殿と比べたらあまりにもみすぼらしく見えたかもしれませんが、そこに主が臨在しておられました。何とイエス様の時代にイエス様が父の家と呼ばれた神殿は、まさにこの宮だったのです。勿論、その宮もヘロデ大王によってリメイクされ巨大な神殿になっていましたが、そこに神の御子キリストが出入りされたことを思うと、それはソロモンの神殿にまさるものであったと言えるでしょう。事実イエスはこう言われました。
「あなたがたに言いますが、ここに宮よりも大いなるものがあります。」(マタイ12:6)
宮よりも大いなるもの、それはイエス・キリスト、神ご自身です。その主がおられるなら、それがたとえ豪華なソロモンの神殿と言えど、とるに足りないものです。確かにゼルバベルによって建てられる宮はみすぼらしいもののようでも、そこに主の栄光が満ちておられるなら先のものにまさるのです。

また、主はこうも言われました。「この場所にわたしは平和を与える。」主はどこに平和を与えるんですか。ここに、です。この場所に、です。この場所に平和を与えてくださいます。何ともみすぼらしい主の宮だと思われていたその宮に、主は平和を与えてくださるのです。どういうことですか?それはお金では買えない、お金以上に価値あるものを与えるということです。人間の力では成し得ることができないものを与えてくださいます。それが「平和」です。そこには反対者も大勢いて、そうした者たちの妨害によって工事がなかなか進みませんでした。そんなに彼らに必要だったのは平和であり、慰め、励ましでした。主は「わたしはこの場所に平和を与える」と約束してくださったのです。何という励ましでしょうか。主がこのようなすばらしい約束をしてくださるんだから、あなたがたは恐れてはなりません。強くありなさい。そして、仕事にとりかかれ、と言われるのです。

あなたに与えられている仕事は何ですか。それを成し遂げようとするにあたり、あなたが恐れていることはどんなことですか。がっかりしていること、落ち込んでいることは何ですか。強くあれ、雄々しくあれ、主があなたとともにおられますから。主の霊があなたの中にとどまっておられます。そしてもう一度、揺り動かしてくださいます。そして、主はそこに栄光を現わしてくださいます。だから、恐れないでください。あなたに与えられた仕事にとりかかってください。この宮のこれから後の栄光は、先のものにまさるからです。

それは主が今年、私たちの教会にもチャレンジしておられることです。
私たちも小さな群れではありますが、大きな方がともにいて働いておられると信じて、私たちに与えられた仕事に取りかからなければなりません。私たちが今年取り組む仕事とは何でしょうか。私たちは特に今年4つのことに取り組みたいと願っています。

第一に、ビジョン2025に向けての具体的な取り組みです。これは2025年までに新しい教会を生み出すというビジョンですが、今年このビジョンの実現に向けて具体的に取り組んでいきたいと考えています。主は必ずこれを成し遂げてくださいます。主の霊が私たちの間にとどまっておられるからです。

第二に、働き人が与えられるように祈ることです。主は言われました。「収穫は多いが、働き手が少ない。だから、収穫の主に、収穫のために働き手を送ってくださるように祈りなさい。」(マタイ9:37-38)
教会の働きにおいて最も重要なのは神様との関係です。これがすべてであると言っても過言ではありません。なぜなら、主がご自身の御業を成してくださるならどんなことでもできるからです。そのために神様は群れに牧師、教師、伝道者というリーダーを立ててくださいました。それは聖徒たちを整えて奉仕の働きをさせ、キリストのからだ建て上げるためです。幸いに、神様一昨年、この教会に萩原牧師を与えてくださいました。これはすごいことです。日本では今、牧師がいないという教会がたくさんあります。日本には7,900のプロテスタント教会がありますが、実に1,000の教会は牧師がいません。そのうち完全に無牧の教会は300です。それなのに、この小さな教会にフルタイムの牧師が与えられたのは奇跡です。しかし、牧師が与えられればそれでよいというのではなく、その牧師を支えるリーダーや聖徒たちが整えられなければなりません。それで今年、私たちはそうした働き人を養成していくために聖書を学ぶ機会を設け、一人でも多くの方が御言葉を学び、キリストの弟子としてふさわしく整えられていくようにと願っています。

第三のことは、会堂建設に向けての取り組みです。ここは2012年に20年の長期契約でお借りしていますが、この契約期間が終了する7年後に、何とか次のステップに進みたいと願っています。その準備に取り掛かりたいと思いのです。

第四のことは、宗教法人に向けての取り組みです。なぜ宗教法人なのでしょうか。なぜなら、教会がキリストのからだとして全人格的に健全に成長していくために必要だからです。たとえば、会堂建設もそうです。もし宗教法人がなかったらだれか個人名義で建てるか、別の法人の傘の下で進めていかなければなりません。それは後で宗教法人を取れたら所有権を移転しなければならない等の作業が求められます。また、ご存じのように、今は任意の団体が銀行の口座を開くのも厳しくなってきました。ですから、もし可能なら宗教法人を取得できるように進めていきたいと考えています。

現状を見たら難しいかもしれません。今の時代を考えたら尻込みするでしょう。でも、主が私たちとともにおられます。そして主が揺り動かしてくださいます。主は言われます。「小さな群れよ、恐れることはありません。あなたがたの父は、喜んであなたがたに御国を与えてくださるのです。」(ルカ12:32)
信じましょう。そして、仕事に取りかかりましょう。この宮のこれから後の栄光は、先のものにまさる。主が私たちとともにおられますから。この新しい年が、主の栄光に満ち溢れた年になりますように。そして、皆さん一人一人のこの一年の歩みが祝福に満ちた一年となりますようにお祈りします。

その一生の間、神のことばに聞き従って エレミヤ書52章1~34節

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聖書箇所:エレミヤ書52章1~34節(旧約P1397、エレミヤ書講解説教88回目)
タイトル:「その一生の間、神のことばに聞き従って」
いよいよ、エレミヤ書の最後の章となりました。今日の説教のタイトルは「その一生の間、神のことばに聞き従って」です。
まず、51章の最後のところをご覧ください。ここには「これまでが、エレミヤのことばである。」とあります。ここまでがエレミヤのことばです。そしてこの52章はそうではありません。これはエレミヤのことばでなく、エレミヤ以外の誰かによって加筆されたものです。内容は、Ⅱ列王記24章18節~25章30節とほぼ同じです。書かれた時期は31節以降を見ればわかりますが、エホヤキンがバビロンの獄屋から出された後です。いったいなぜこの章がエレミヤ書に加えられたのでしょうか。いろいろな理由が考えられますが一番大きな理由は、これまでエレミヤが語ってきたことが成就したということ、その通りに歴史は動いたということを証明するためです。それが簡潔にまとめられているのです。神のことばは必ず成就します。だからこそ、神のことばは信頼するに値するのです。ですから、私たちは生涯神のことばに聞き従い、私たちに与えられた使命全うさせていただきたいと思うのです。3つのことをお話します。
第一に、ユダの王ゼデキヤの最後です。ゼデキヤの最後は実に悲惨なものでした。どうして彼はそのような最後を迎えたのでしょうか。それは彼が主のことばに聞き従わなかったからです。
第二のことは、エルサレムの最後です。エルサレムがバビロンによって滅ぼされると、主の宮にあった青銅の柱や車輪付きの台などが、根こそぎバビロンに運び込まれました。どうしてこのような記述がエレミヤ書の最後に記されてあるのでしょうか。それはエレミヤによって語られたことが成就したことを示すためです。神のことばは必ず実現するのです。
第三のことは、ユダの王エホヤキンの最後です。彼はバビロンに投降し捕囚の民として連行されましたが、捕え移されて37年目に、バビロンの王エビル・メロダクによって解放され、バビロンで彼とともにいた王たちの位よりも高くされ、その一生の間、いつも王の前で食事をすることができました。どうして彼はそのような扱いを受けたのでしょうか。それは彼が神のことば、エレミヤのことばに従ったからです。主のことばに従った結果、彼は最後に神のあわれみを受けたのです。
Ⅰ.ゼデキヤの最後(1-11)
まず、1~11をご覧ください。3節までをお読みします。「52:1 ゼデキヤは二十一歳で王となり、エルサレムで十一年間、王であった。彼の母の名はハムタルといい、リブナ出身のエレミヤの娘であった。52:2 彼は、すべてエホヤキムがしたように、【主】の目に悪であることを行った。52:3 実に、エルサレムとユダが主の前から投げ捨てられるに至ったのは、【主】の怒りによるものであった。その後、ゼデキヤはバビロンの王に反逆した。」
ここに、南ユダ最後の王ゼデキヤについて言及されています。南ユダ王国の歴代王図をご覧ください。彼は21歳で王となり、エルサレムで11年間、王でした。彼の母の名は「ハムタル」といい、リブナの出身のエレミヤの娘でした。エレミヤとあるのは、エレミヤ書を書いたエレミヤとは別人です。

(南ユダの歴代王図 (主ノ宮光「聖書資料館」)参照)
彼は、すべてエホヤキム王がしたように、主の目に悪であることを行いました。エホヤキム王はゼデキヤの異母兄弟で、B.C.605年にヨシヤ王がメギドの戦いで戦死するとその王位を継承しましたが、彼は主の目の前に悪を行いました。どれだけの悪を行ったのかについては、25章1~7節を見るとわかります。彼は主の預言者たちを通してしきりに語られた神のことばを聞こうとせず、ほかの神々に従い、それに仕え、それを拝みました。そのエホヤキムがしたように、ゼデキヤも主の目の前に悪であることを行い、主の怒りを引き起こしたということです。その後、彼はバビロンの王に反逆しました。神のみこころはバビロンの王に降伏することだったのに、彼は主のみこころに背き、バビロンの王に反逆したのです。
その結果はどうなりましたか?4~11節をご覧ください。「52:4 ゼデキヤの治世の第九年、第十の月の十日に、バビロンの王ネブカドネツァルは、その全軍勢を率いてエルサレムを攻めに来て、これに対して陣を敷き、周囲に塁を築いた。52:5 こうして都はゼデキヤ王の第十一年まで包囲されていた。52:6 第四の月の九日、都の中で食糧難がひどくなり、民衆に食物がなくなった。52:7 そのとき、都は破られ、戦士たちはみな逃げて、夜のうちに、王の園に近い二重の城壁の間にある、門の道から都を出た。カルデア人が都を包囲していたので、彼らはアラバへの道を行った。52:8 カルデアの軍勢は王の後を追い、エリコの草原でゼデキヤに追いついた。すると、王の軍隊はみな王から離れて散ってしまった。52:9 カルデアの軍勢は王を捕らえ、ハマテの地のリブラにいるバビロンの王のところへ彼を連れ上った。バビロンの王は彼に宣告を下した。52:10 バビロンの王は、ゼデキヤの息子たちを彼の目の前で虐殺し、ユダの首長たちもみなリブラで虐殺した。52:11 さらに、ゼデキヤの目をつぶし、彼を青銅の足かせにつないだ。バビロンの王は、彼をバビロンへ連れて行き、彼を死ぬ日まで獄屋に入れておいた。」
ゼデキヤの治世の第九年に、バビロンの王ネブカドネツァルがエルサレムを攻めに来て、これに対して陣を敷き、周囲に塁を築きました。B.C.588年のことです。これがゼデキヤ王の第十一年まで続きました。ですから、エルサレムは約2年半の間バビロン軍によって包囲されたことになります。いわば兵糧攻めにされたわけです。それでエルサレムは飢饉に陥りました。都の中の食料が尽きてしまい、食べ物がなくなってしまったのです。そのとき都は破られました。B.C.586年のことです。
バビロン軍が城壁を打ち破って町に侵入すると、ゼデキヤの側近たちは戦う気力をなくしてしまい、町から逃亡します。王の園と呼ばれるところに脱出口があって、そこから都を出てアラバへの道を行きました。それは死海に抜ける道でしたが、王の後を追っていたカルデアの軍勢によってエリコの草原で捕らえられると、リブラにいたバビロンの王のところへ連れて行かれました。リブラは、エルサレムから北に320キロのところにあります。するとバビロンの王は、ゼデキヤの息子たちを彼の目の前で虐殺し、ユダの首長たちもみなリブラで虐殺しました。さらに、ゼデキヤの目をつぶし、彼を青銅の足かせにつないでバビロンへ連れて行き、彼を死ぬ日まで獄屋に入れたのです。
何と悲惨なことでしょう。どうしてこのような結果になってしまったのでしょうか。それは、ゼデキヤが神のことばに背いてバビロンに降伏しなかったからです。神のみこころは彼がバビロンの捕囚の民となることだったのに、彼はそれを拒みました。もし彼がエレミヤのことばに従って降伏していたら、このようにはならなかったはずです。しかし彼は神のことばに背き、偽預言者のことば従って最後までバビロンに反逆したのです。その結果、このような事態を招いてしまったのです。
確かに、バビロンに反逆することはユダの民の目には悪とは映らなかったでしょう。むしろ、南ユダ王国の独立を願っていた彼らにはすばらしいことだと映ったに違いありません。ですから、バビロンに反逆することはユダの人々の目では悪ではないかのようでしたが、主の目には悪だったのです。
皆さん、このことをよく考えたいと思います。私たちの目には悪ではなくても、主の目には悪であるということがあるのです。私たちは常に、それが主の目にとってどうなのか、それが主の目にとって前なのか悪なのか、正しいことなのか間違っているかを判断しなければなりません。歴史的な経緯がどうであるとか、この世の人たちがどう考えているとかではなく、それが主の目に正しいことなのかどうかを判断しなければならないのです。そうでなければ、それは主の目には悪であり、主の御怒りを引き起こすことになるのです。
ゼデキヤはバビロンの王に反逆しました。なぜそれが主の目に悪だったのでしょうか。なぜなら、主が預言者エレミヤを通してそのように語っておられたのにそれに聞き従わなかったからです。エレミヤは、バビロン捕囚はイスラエルの罪が招いた結果であって避けることはできないのだから、バビロンに逆らわないで主のさばきを甘んじて受けるように、捕囚の民としてそこで主の取り扱いを受けるようにと勧めましたが、ゼデキヤはそれを受け入れませんでした。偽預言者パシュフルのことばに惑わされてバビロンに反逆したのです。その道を選択したのです。
皆さん、私たちの前にも同じような選択肢が置かれています。それは主に従うのか、それとも自分の考えに従うのかという選択です。そのような決断が私たちの日々の生活の中で瞬間、瞬間、問われているのです。そして主は、私たちが死ではなくいのちを、呪いではなく祝福を選ぶことを願っておられます。なぜなら神は、ひとりも滅びることを願わず、すべての人が救われることを望んでおられるからです。あなたはどちらの道を選びますか。主に従い、主に喜ばれる道ですか、それとも、自分が良いと思っている道ですか。人の目に麗しく見える道ですか。私たちは人ではなく、主に喜ばれる道を選びたいと思います。
Ⅱ.エルサレムの最後(12-30)
次に、12~30節をご覧ください。ここにはエルサレムの最後について記されてあります。12~13節には、「52:12 第五の月の十日、バビロンの王ネブカドネツァル王の第十九年のこと、バビロンの王の家来、親衛隊の長ネブザルアダンがエルサレムに来て、52:13 【主】の宮と王宮とエルサレムのすべての家を焼き、そのおもだった建物をことごとく火で焼いた。」とあります。
これはB.C.586年のことです。これもエレミヤが前もって預言していたことでした。38章18節には、「あなたがバビロンの王の首長たちに降伏しないなら、この都はカルデア人の手に渡され、火で焼かれ、あなた自身も彼らの手から逃れることができない。」とあります。その通りになったのです。エルサレムは火で焼かれ、神殿も完全に焼失してしまいました。また、エレミヤのことばを拒んでバビロンに降伏しなかった者たちは虐殺されました。しかし、エレミヤのことばを聞いて素直にバビロンに降伏した者たちはいのちを免れ、特に危害を加えられることなく、バビロンに捕え移されました。貧しい民の一部は残され、ぶどうや農産物を育てる農夫として使われました。そこにバビロン軍が駐在するために食料が必要だったからです。
17~23節をご覧ください。「52:17 カルデア人は、【主】の宮の青銅の柱と、車輪付きの台と、【主】の宮にある青銅の「海」を砕いて、その青銅をみなバビロンへ運んだ。52:18 また、灰壺、十能、芯取りばさみ、鉢、平皿、奉仕に用いるすべての青銅の器具を奪った。52:19 また親衛隊の長は、小鉢、火皿、鉢、灰壺、燭台、平皿、水差しなど、純金や純銀のものを奪った。52:20 ソロモン王が【主】の宮のために作った二本の柱、一つの「海」、車輪付きの台の下にある十二の青銅の牛、これらすべての物の青銅の重さは、量りきれなかった。52:21 その柱は、一本の柱の高さが十八キュビト、その周囲は十二キュビト、その厚さは指四本分で、中は空洞になっていた。52:22 その上の柱頭は青銅で、一つの柱頭の高さは五キュビトであった。柱頭の周りに格子細工とざくろがあって、すべて青銅であった。もう一本の柱も、そのざくろも、これと同様であった。52:23 周りには九十六のざくろがあり、周りの格子細工の上には全部で百のざくろがあった。」
これはⅠ列王記7章も記されてあることですが、どうしてエレミヤ書の最後にこのような記述があるのでしょうか。はたから見たらどうでもいいような内容のように思えますが、そのようなことがわざわざ最後に記述されてあるのです。
ここに出てくる器具はみな神殿で使われていた祭具です。それらには見事な装飾が施されていました。そのほとんどは青銅のものばかりでした。純金や純銀のものはすでにバビロンに運び込まれていたので、最後に残っていた青銅のものが運ばれました。どうしてこのような詳細な記述があるのかというと、28章で見た預言者エレミヤと偽預言者のハナヌヤの論争を思い起こしていただくとわかりますが、どっちが本当の主の預言者かを示すためです。エレミヤは、神殿に残された器具はすべてバビロンに運ばれると預言しましたが、ハナヌヤは何と言いましたか?彼はそうではないと言いました。彼はバビロンに運ばれた器具は2年のうちに戻されると預言したのです(28:3)。どちらが言ったことが正しかったでしょうか。エレミヤです。エレミヤが預言した通りになりました。そのことを示しているのです。
特筆すべきことは、21節にある2本の青銅の柱です。まさかこんなに大きな物が運ばれるなんてだれも想像できなかったでしょう。21節にはそのサイズが記されてありますが、それは高さが18キュビト、その周囲は12キュビト、その厚さは指4本分で、中は空洞になっていました。1キュビトは44.5センチですから、その高さは約8メートル、周囲は約5メートルになります。相当の大きさです。コンクリ―トの電柱くらいの巨大な柱です。それらがことごとくバビロンに運び入れられたのです。
どうしてそんなに巨大な青銅の柱までも運び込まれたのでしょうか。それは主がそのように言われたからです。たとえそれが非現実的なことでも、人間的な感覚ではあり得ないことのようなでも、主が語られたことは必ず成就するのです。だから私たちも確信をもって、大胆に神のことばを伝えなければなりません。周りの人たちは、クリスチャンは何て馬鹿馬鹿しいことを信じているんだろうと思っているかもしれません。あまりにも非現実的だと。世の終わりが近いとか、世の終わりが来るとその前にクリスチャンは地上から引き挙げられて空中で主イエスと会い、いつまでも主とともにいるようになるとか、荒唐無稽な話をしていると言うでしょう。そんな馬鹿な話はないと。でも神のことばである聖書がそのように言っているのです。たとえ非現実的なことのようであっても主のことばがそのように告げているなら、私たちは主のことばを信じ、その上に立たなければなりません。なぜなら、草はしおれ、花は散る。しかし、主のことばはとこしえに堅く立つからです。
それはこの歴史を見てもわかります。たとえば、マルコ13章1~2節を開いてみてください。「13:1 イエスが宮から出て行かれるとき、弟子の一人がイエスに言った。「先生、ご覧ください。なんとすばらしい石、なんとすばらしい建物でしょう。」13:2 すると、イエスは彼に言われた。「この大きな建物を見ているのですか。ここで、どの石も崩されずに、ほかの石の上に残ることは決してありません。」」
これはイエス様が世の終わりについて教えられたことです。イエス様が宮から出て行かれるとき、弟子の一人がこう言いました。「なんとすばらしい石でしょうか。なんとすばらしい建物でしょうか。」するとイエス様はこう言われました。「どの石も崩されずに、ほかの石の上に残ることは決してありません。」積まれたまま残っていることは決してないと言われたのです。まさか、それらの石は600トンもあるんですよ。そんな石が崩されるはずがありません。でもイエス様はこの石が崩されずに、積まれたままで残っていることはないと言われたのです。あり得ません。世界七不思議に数えられた建物ですよ。これが崩されるなんて考えられません。でも実際にイエス様が言われた通りになりました。A.D.70年にローマ帝国によってエルサレム神殿は崩されてしまいました。常識では考えられないことが起こったのです。
それは、私たちへの教訓でもあります。私たちが信じられないようなことでも、神のことばは必ず成就するのです。ですから、私たちもこの世の常識にとらわれたり、目に見えるもので判断したりしないで、聖書は何と言っているのかを見て、判断しなければなりません。また、世の終わりになるとハナヌヤのような偽預言者が大勢現れるとイエス様も言われましたが、そうした偽預言者に警戒し、必ず聖書の教えに照らし合わせて、その人物と教えを吟味しなければなりません。そのためには、みことばを蓄える必要があります。
次に、24~27節をご覧ください。ここには、神のことばに聞き従わなかった霊的リーダーの最後が記されてあります。それは祭司のかしらセラヤや次席祭司ゼパニヤ、神殿内の秩序を見張る人たち、戦士の指揮官であった一人の宦官、王の七人の側近たち、軍の長の書記、都にいた民衆60人です。彼らは親衛隊長ネブザルアダンによってリブラにいたネブカドネツァルのもとに連れて行かれ、そこで虐殺されました。これもエレミヤが13章13~14節で預言していた通りです。王や祭司だからと言っていのちを免れると思ってはなりません。たとえ王であっても、たとえ祭司であっても、神のことばに聞き従わなければさばきを受けることになるのです。
28~30節には、捕囚の民の運命について記されてあります。ネブカドネツァルがバビロンに捕え移した民の数の合計は、四千六百人でした。これはⅡ列王記24章14~16節にある数と大分違うことから矛盾しているという人もいますが、これは矛盾ではありません。数え方が違うだけです。エレミヤ書にある数は連行された民の全員の数というよりも、成人男性の実数だったのでしょう。
しかし、それよりも重要なことは、これらの民はエレミヤが語る神のことばを信じてバビロンに降伏し、捕囚の民となったということです。それは見た目には全てを失うことであり、故郷を追われて外国の地に強制移住させられるということですから、幸せな生活を期待することなどはできなかったでしょう。何をされるかわかりません。不安と恐怖でいっぱいだったに違いありません。それでも彼らはエレミヤを通して語られた主のことば聞き従ったのです。
結果はどうでしたか。29章4~7節にこうありました。「29:4 「イスラエルの神、万軍の【主】はこう言われる。『エルサレムからバビロンへわたしが引いて行かせたすべての捕囚の民に。29:5 家を建てて住み、果樹園を造って、その実を食べよ。29:6 妻を迎えて、息子、娘を生み、あなたがたの息子には妻を迎え、娘を嫁がせて、息子、娘を産ませ、そこで増えよ。減ってはならない。29:7 わたしがあなたがたを引いて行かせた、その町の平安を求め、その町のために【主】に祈れ。その町の平安によって、あなたがたは平安を得ることになるのだから。』」
 神はバビロンの地で彼らの生活を守ってくださったばかりでなく、もう一度エルサレムに帰ることができるように備えてくださいました。それは70年という期間限定の捕囚だったのです。これがユダの民に対する神の計画だったのです。52章に登場するこの捕囚の民は、神のことばに聞き従ったので、神のあわれみを受けることができたのです。神のあわれみは尽きることはありません。神のことばに聞き従う者に注がれるのです。
Ⅲ.エホヤキンの最後(31-34)
最後に、31~34節を見て終わりいたと思います。「52:31 ユダの王エホヤキンが捕らえ移されて三十七年目の第十二の月の二十五日、バビロンの王エビル・メロダクは、即位した年のうちにユダの王エホヤキンを呼び戻して、獄屋から出し、52:32 優しいことばをかけ、バビロンで彼とともにいた王たちの位よりも、彼の位を高くした。52:33 彼は囚人の服を脱ぎ、その一生の間、いつも王の前で食事をした。52:34 彼の生活費は、死ぬ日までその一生の間、日々の分をいつもバビロンの王から支給されていた。」
ここには、ユダの王エホヤキンについて記されてあります。エホヤキンはユダの王エホヤキムの子どもで、ゼデキヤの甥にあたります。彼は18歳でユダの王となりましたが、わずか3ヶ月と10日でバビロンに降伏して捕囚の民となりました。B.C.597年のことです。彼はバビロンに捕え移されると獄屋に幽閉されました。それから11年後のB.C.586年にエルサレムが崩壊したという知らせを聞くのです。もう帰るとこころはない。自分の王宮はありません。それを聞いた彼は意気消沈したことでしょう。もうこのまま一生獄屋で過ごし、日の目を見ることなく、劣悪な環境の中で老いて死んで行くのかと、絶望したに違いありません。
しかし、31節からのところを見てください。37年目の12の月の25日に転機が訪れます。バビロンの王エビル・メロダクが王に即位すると、王はその年のうちにエホヤキンを呼び出して、獄屋から出し、優しいことばをかけて、バビロンで彼とともにいた王たちのどのくらいよりも、彼の位を高くしたのです。そして囚人服を脱がせ、その一生の間、いつも王の前で食事をしたのです。その生活のすべては、死ぬまでその一生の間、バビロンの王から支給されていたのです。何があったのでしょうか。これは破格の厚遇です。獄屋に入れられた37年目というのは、彼が55歳の時でした。それから彼がどれくらい生きたのかわかりませんが、仮に80歳まで生きたとすれば、残りの25年間をそのように暮らすことができたということです。いったい何があったのでしょうか。
 ある人は、バビロンの王として新しく即位したこのエビル・メロダクがイスラエルの真の神を信じて回心したのではないかと考えています。彼の父ネブカドネツァルがイスラエルの神を信じて回心していたように、彼もバビロンにいた信仰者たちの影響を受けて回心したのではないかというのです。
 またある人は、このエビル・メロダクは一時、父ネブカドネツァルの怒りをかって投獄されたことがありましたが、それが、エホヤキンが幽閉さていた獄中だったのではないかと考えています。そこで彼はエホヤキンと知り合い親しくなっていたので、晴れてエビル・メロダクが王になった時エホヤキンを解放して親切にしてあげたのではないかというのです。
 聖書にはその理由が書かれていないので真相はわかりませんが、ただ一つ確信をもって言えることは、エホヤキンはそんなに良い王ではありませんでしたが、エレミヤが語った主のことばに従ってバビロンに降伏し、捕囚の民としてバビロンに来たということです。その一点だけは神に従ったので、神が彼を祝福してくださったのではないかということです。このエホヤキンについては既に見てきたように、そんなにいい王ではありませんでした。というよりも、はっきり言って悪い王でした。24章30節には、それゆえ彼は「子を残さず、一生栄えない男」と呼ばれたほどです。彼の子どもは王位を継ぐことはできませんでした。それでダビデ王家はこのエホヤキンをもって絶えてしまうわけです。王族としての血統が絶え普通の人になったのです。その子孫がイエス様の父ヨセフです。マタイ1章にある系図を見るとわかります。そんな彼が55歳になった時、神のあわれみ受けたのです。なぜ?神のことばに聞き従ったからです。Ⅱ列王記24章12節にこうあります。
「ユダの王エホヤキンは、その母、家来たち、高官たち、宦官たちと一緒にバビロンの王に降伏したので、バビロンの王は、その治世の第八年に、彼を捕虜にした。」
 勝ち目のない相手に降伏するのは当然かと思われますが、エホヤキンには選択する権利がありました。最後まで徹底抗戦をしてバビロンに反逆するのか、それともエレミヤを通して語られた主のことばに従ってバビロンに降伏するのかという選択です。ここには「降伏したので」とあります。何気ないことばですが、非常に重要な言葉です。これは彼の人生を左右する決定的なことばでした。彼は手の付けられない悪い王でしたが、バビロンに降伏することを選んだので、主は彼をあわれんでくださったのです。
 彼は37年という長きに渡り獄中生活を強いられましたが、37年目にして奇跡が起こりました。その獄屋から釈放されたのです。皆さん、何年かかっても神の約束は必ず成就します。神のことばに聞き従ったからといって、すぐに自分の思うようになるとは限りません。それは時間を要するかもしれない。でもちょうど良い時に、神が引き上げてくださいます。私たちが想像もできないような方法で。
南ユダ最後の王ゼデキヤと比較してください。彼の最後は悲惨なものでした。それは最後まで主のことばに従わなかったからです。しかし、エホヤキンの最後はどうでしたか?全く対照的な終わり方です。彼は37年目の第12の月の25日に、バビロンの王エビル・メロダクに呼び戻され、獄屋から釈放されました。そしてバビロンで彼とともにいた王たちのどのくらいよりも高いくらいに就き、その一生の間、いつも王の前で食事をすることができました。彼の生活費は、死ぬ日まで一生の間、日々の分をいつもバビロンの王から支給されました。なぜ、そんな厚遇を受けることができたのでしょうか?彼が主のことばに聞き従ったからです。
私たちもエホヤキンのように悪い王かもしれません。一生栄えない男という烙印を押されても仕方がないような者です。それにもかかわらず、神のことば、聖書のことばを信じてイエス・キリストを救い主として受け入れただけで、神のあわれみを受けました。まさにエホヤキンの37年目の第12月の25日は、私たちを罪から救い、ご自身の救いに与らせるために、神が人となって来られたクリスマスを象徴するような出来事ではないでしょうか。こんな者でも神のあわれみを受けることができたのです。これが神の計画です。神の計画はエレミヤを通して私たちにはっはりと示されました。それは29章11節にあるように、「それはわざわいではなく平安を与える計画であり、あなたがたに将来と希望を与えるためのものだ。」
これがあなたに対する神の計画です。だから、たとえあなたの現状がどんなに苦しくても、たとえ自分の思うようにいかないようでも、神は必ずあなたを顧みてくださると信じて、どこまでも神のみことばに従わななければならないのです。そのために37年かかるかどうかほかりませんが、確かなことは、終わってみたら感謝、終わってみたら幸せだったと言える生涯を、主は計画しておられるということです。だからあきらめないでください。あなたも一生、神のみことばに聞き従い、神からの恵みを受ける者であってほしいと思います。これがエレミヤ書全体を通して、神があなたに願っておられることなのです。

人となられた神 ヨハネの福音書1章14節

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聖書箇所:ヨハネの福音書1章14節(新約P175)
タイトル:「人となられた神」

メリー、クリスマス!クリスマスおめでとうございます。本日はクリスマス礼拝ですが、こうして主の御降誕を祝い、共に主を礼拝できることを感謝します。本日は、ヨハネ1章14節のみことばから「人となられた神」という題で、クリスマスのメッセージをお届けしたいと思います。

くまモンの作者である小山(こやま)薫堂(くんどう)さんが、ホテルの料理屋に入ったときの事です。隣に外国人のおじいちゃんが寿司をつまんでいたそうです。目が合ったとき、彼は会釈してくれました。その後、このおじいちゃんは食事中、何度も小山さんのほうをチラチラ見るので、もしかしたら、くまモンの作者としての自分のことを知っているんじゃないか、と思ったそうです。それで思い切って話しかけてみようとしましたが、その時ちょうど待ち合わせの友人がやってきたので、とうとう話すことができませんでした。
ところが、次の日テレビを見てビックリしました。昨日のおじいちゃんがテレビの中で何かをしゃべっているではありませんか。字幕を見て驚きました。なんと、彼はクリント・イーストウッドだったのです。ハリウッドの俳優にして、映画監督ですね。彼は映画のプロモートのために日本に来ていたのでした。
それを知った小山さんは、たいへん悔しかったそうです。もしあの時話しかけていたら、話が盛り上がって、もしかしたらくまモンがハリウッドデビューしたかもしれない、と思ったからです。
偉大な人とつながるチャンスがあったのに、ちょっとした勇気がなかったために、すごい展開の可能性を逃してしまったのです。しかし、もっと大きな損失があります。それは、イエス・キリストとのコンタクトを取り損なうということです。
ある方にとっては、イエス・キリストと聞いても、ただの外国人のおじさんの一人くらいにしか思っていないかもしれませんが、しかし、この方こそ、私たちを罪から救ってくださる救い主です。(聖書と福音、No899から引用)。
聖書に、次のように書いてあります。「ことばは人となって、私たちの間に住まわれた。私たちはこの方の栄光を見た。父のみもとから来られたひとり子としての栄光である。この方は恵みとまことに満ちておられた。」
「ことば」とは、キリストのことです。キリストは人となって、私たちの間に住まわれました。なぜキリストは人となられたのでしょうか。今日は、その理由をご一緒に考えたいと思います。

Ⅰ.私たちに神を示すため

第一に、神がどのような方であるかを見える形で私たちに示すためです。
私は伝道しているとき、よく言われることがあります。それは「神がいるなら見せてくれ」ということです。「神がいるなら見せてくれ」と言われても、神は霊ですから、私たちの肉眼で見ることはできません。また、罪によって心がねじ曲がっている人間には、いくら説明しても見ることはできないのです。そこで神はご自分がどのような方であるのかを示すために、見える形で表わしてくださいました。それがイエス・キリストです。18節にはこうあります。
「いまだかつて神を見た者はいない。父のふところにおられるひとり子の神が、神を説き明かされたのである。」
いまだかつて神を見た者はいません。しかし、イエスを見るなら神を見ることができます。なぜなら、イエスは父のふところにおられたひとり子の神だからです。この方は永遠の初めからずっと神とともにおられました。ですから、完全に神を説き明かすことができたのです。

私には3人の娘がいますが、どの娘とは言いませんが、時々、私の行動を見抜く娘がいます。何人かで話しているとき、私が次に何と言うか、どんなことをするのかを言い当てるのです。そこにいる人たちに、「いい、見ていて。お父さんは絶対こうやるからね」と言って私を見ているのです。そしてその通りにすると、「ほら、言ったでしょう!」と自慢げに話すのです。なぜ彼女は私の行動を言い当てることができるのでしょうか。それはいつも私といっしょにいたからです。ずっといっしょにいて、じっと観察しながら、「あ、お父さんはこういう時にはこう言うんだな」とか、「こうするんだ」と見てきたのです。
でも残念ながら、すべてを知っているわけではありません。知っているつもりでも知らないことがたくさんあるわけです。「親の心、子知らず」ですよ。わずか20年くらいいっしょにいたからといってお父さんのことを理解するなんて無理です。彼女が知っているのは私のほんの一部であって、ほとんど知らないと言ってもいいでしょう。彼女が私の行動を言い当てることができたのは、彼女が喜ぶようにとこちらでそれに合わせていただけであって、その裏をかいていたからです。ま、こちらの方が一枚上手だったということです。
でもこの方は違います。この方は永遠の初めからずっと神とともにおられました。父のふところにおられたひとり子の神なので、完全に神を説き明かすことができました。

1章1~5節をご覧ください。「1:1 初めにことばがあった。ことばは神とともにあった。ことばは神であった。1:2 この方は、初めに神とともにおられた。1:3 すべてのものは、この方によって造られた。造られたもので、この方によらずにできたものは一つもなかった。1:4 この方にはいのちがあった。このいのちは人の光であった。1:5 光は闇の中に輝いている。闇はこれに打ち勝たなかった。」
初めにことばがあった。「ことば」とはキリストのことです。キリストをことば(ロゴス)と表現したのは、神を啓示するために、神の人格として現れた方であるということを示すためです。神の知恵、神ご自身が現れたということです。ですから、ここに「ことばは神であった」とあるのです。この方は初めに神とともにおられました。永遠の初めからずっと神とともにおられたのです。それだけではありません。この方は神であった、とあります。神とともにおられた神です。先ほどの18節では、「ひとり子の神」とありました。ひとり子の神として、父なる神とずっとともにおられたので、神を説き明かすことができたのです。
そればかりではありません。3節には、「すべてのものは、この方によって造られた」とあります。この方は創造主であられます。造られたもので、この方によらずにできたものは一つもありません。この方は、あの創世記1章にある創造の御業に携わっておられたのです。
また、ここには「この方にはいのちがあった」とあります。それは人の光としてのいのちです。この方こそいのちの源なのです。この方が人となって現われてくださいました。なぜでしょうか。そのことによって、神がどのような方であるかを見える形で示すためです。

ですから、弟子の一人であったピリポがイエスに「主よ、私たちに父を見せてください。そうすれば満足します。」(ヨハネ14:8)と言った時、イエスはこう言われたのです。「ピリポ、こんなに長い間、あなたがたと一緒にいるのに、わたしを知らないのですか。わたしを見た人は、父を見たのです。どうしてあなたは、『私たちに父を見せてください』と言うのですか。」(ヨハネ14:9)
イエスを見た人は父を見たのです。イエスを見れば、神がどのようなお方なのか、どんなに栄光に満ちた方であられるか、どんなに恵みとまことに満ちた方であるかがわるのです。

Ⅱ.私たちを罪から救うため

第二に、「ことば」が人となられたのは、私たちを罪から救うめでした。ここに「ことばは人となって、私たちの間に住まわれた」とあります。この「人となって」という語は欄外の説明にあるように、直訳では「肉」です。「肉を取られた」という意味です。詳訳聖書には「受肉した」と訳されています。「受肉」というのは神学用語で、「神の御子であられるキリストが、人間を救うために、自ら人間となられた」ということです。栄光に満ちた神が人として生まれてくださり、実に飼い葉桶にまで下ってくださいました。考えられないことです。当時の人々は、「肉」は弱いものですぐに朽ち果てていくものだと考えていました。ですから、ことばであられる神が人となるなんて考えられないことだったのです。けれども、その神が人となって私たちの間に住んでくださいました。なぜでしょうか。それは、私たちを罪から救うためです。というのは、私たち人間がどんなに頑張っても、自分の力でこの罪から聖められることはできないからです。「いや、できる!」という方がいらっしゃいますか?もし、そのような方がおられたら、その人はその時点で罪を犯していることになります。なぜなら、聖書の律法、モーセの十戒には、「あなたの隣人に対しし、偽りの証言をしてはならない。」とあるからです。つまり、嘘をついてはならないということですが、その時点で嘘をついていることになるからです。ですから、あなたは自分の力では聖くなることはできないし、神のみこころにかなった者になることはできないのです。聖書にこのようにある通りです。「義人はいない。ひとりもいない。」(ローマ3:10)
皆さん、義人はいません。一人もいません。ただこの方は違います。この方は聖霊によってみごもられた方、聖なる方、神の子でなので、全く罪を持っていません。そこで神はこの方を地上に送り、私たち全人類の罪の身代わりとして十字架にかけられたのです。それは私たちが神の律法を行うことによってではなく、それを完全に行うことができるキリストの贖いを信じることによって神に義とされるためです。それが、人となって来られたイエス・キリストです。
「神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに世を愛された。それは御子を信じる者が、一人として滅びることなく、永遠のいのちを持つためである」(ヨハネ3:16)
神は、それほどまでにあなたを愛してくださったのです。

今から六十年ほど前、カナダの宣教師ドン・リチャードソン夫妻がパプアニューギニアのイリアンジャワというところに入りました。そこでサウイ族の村に入り、キリストの福音を伝えたのです。ところが、いくら聖書の話をしても、全く通じませんでした。それどころか、金に目がくらんでイエス・キリストを裏切ったイスカリオテ・ユダの話をすると興奮状態になり、立ち上がって手を打ちながら、ユダをほめたたえたというのです。
実はこの部族のモラルは、現代社会と正反対のものでした。人生で一番優れたことは、いかにして相手を鮮(あざ)やかに欺いて裏切るか、という価値観で生きていたのです。そんな人生観の人々にとって、他人の身代わりになって十字架で死んだキリストは、単なるおバカさんでしかありませんでした。
ところで、裏切りを最高の美徳として生きていたら、結局どんなことになるでしょう。裏切りの競い合いが始まります。
しかし、裏切られた方は裏切り返しますね。こうしてこの部族で村同士が抗争を始め、それが何年間も何年間も続いたのです。やがて双方の村とも被害が大きくなり、このままでは別の部族の襲撃を心配しなければならないほど、人口が減ったのです。戦いに疲れ果てた彼らは、とうとう和解するのです。
しかしその和解が罠ではないという証拠はどこにあるのでしょう。実は例外的に、正真正銘の契約の結び方が、この部族にはあったのです。それは、タロップティムという習慣でした。訳すと、和解の子という意味です。争っている二つの部族の中から、生まれたばかりの赤ちゃんを双方の族長に渡して交換するんですね。その子どもが生きている間は、争いはしないという契約です。もし裏切れば、相手方に渡した自分たちの赤ちゃんが殺されてしまいます。それでこの儀式をもって取り交わす和解だけは、裏も表もない本物の和解だったのです。
ドン・リチャードソンはこの習慣に目を留めました。そしてこの習慣を用いて、神がしてくださったことを伝えたのです。すなわち神は、私たちと和解するためにご自分のひとり子イエス・キリストをこの世に渡され、そして十字架の上でさばいてくださったのだと。実はこの儀式で、戦いが終わることをみんなで喜ぶんです。しかしそんな大喜びの中で、例外的に涙が止まらない人がいます。それはその和解のためにわが子を手放した母親です。お腹を痛めて産んだ子、育ててきた子ども、自分たちを攻撃していた人々の手に、その愛する子が渡るのです。別れの時には胸が張り裂けんばかりになっているのです。
そのように神は、ご自分のひとり子をこの世に送って、十字架の上でさばいてくださったのです。母の涙ならぬ父の涙ですね。そしてこのひとり子イエス・キリストは死後三日目に、よみがえられたのです。
クリスマスは神が人の救いのために、イエス・キリストをこの世に送られたことを思い起こす時です。あなたの救いのために神はこのことを、成し遂げてくださったのです。

Ⅲ.私たちの間に住まわれるため

ことばが人となられた第三の理由は、神が私たちの間に住まわれるためです。ここに「ことばは人となって、私たちの間に住まわれた。」とあります。この「住まわれた」という言葉は「天幕を張られた」という言葉です。旧約時代において、神はイスラエルの民に、荒野において幕屋(礼拝の場)を建てさせそこに臨在されましたが、同じようにキリストは人となって私たちの間に臨在されました。それは、神は私たちとともにおられるという神の約束を実現するためです。

マタイ1章23節に「その名はインマヌエルと呼ばれる。それは、訳すと、『神がともにおられる』という意味である」とあります。御子イエスが人となって来られたことによって、神がともにおられるというこのみことばが実現しました。本来、神とともにおられる方は御子イエスだけです。しかし、キリストを信じることによって、その人の中に神の聖霊が宿り、神がともにおられるということが実現したのです。

そればかりではありません。神はいつでも、どんなときでも、ともにいて下さいます。マタイ28章20節に「見よ。わたしは世の終わりまで、いつもあなたがたと共にいます。」とあります。世の終わりまでいつもあなたとともにいてくださるのです。であれば、何があっても安心です。この方がいつもあなたとともにいてくださるからです。

今から14年前の3月11日、東日本大震災があったとき、日本にいた多くの外国人の方々はいっせいに帰国しました。しかし、その中で自分の国籍を捨てて逆に日本に移り住むという、思い切ったことをしたアメリカ人がいました。それは、日本文学研究者のドナルド・キーンという方です。彼は18歳のとき日本文学を読んで以来、日本の事を考えなかった日は一日もない、と言っています。彼は、一年の半分は日本にいて、東京に持っている自宅で生活していました。しかし、それまで日本でビジネスをし、収益をあげるためにきていた海外の人々が我先に日本を見棄てて出発するのを見たときに、今こそ日本を励ましたいと考え、アメリカ国籍を捨てて日本に帰化なさったのです。
私たちは、誰かを愛して、励ましたいと思ったとき、お金を送ったり、手紙を送ったりしますが、彼は自分自身を贈り物にしたのです。彼は、日本人の間に住むことによってそれを表しました。彼は日本に降り立ち、同じ空気を吸い、運命共同体の一員となることで、愛を表わしたのです。

それはキリストも同じです。キリストはあなたへの愛を現わすために、自分自身を贈り物にしたのです。彼は人となって、私たちの間に住んでくださいました。私たちと同じ空気を吸い、私たちが経験するいっさいの苦しみを経験し、そして私たちの罪を負って十字架の死にまでも従われました。そのことによって私たちに対するご自身の愛を現わしてくださったのです。神がいつもあなたとともにおられるためです。

そのためにことばは人となって、私たちの間に住んでくださいました。どうぞ、このことばなるキリストの愛を受け入れてください。そしてしっかりと神につながってください。あなたの人生の全てのプロセスは、ここから始まります。それによってあなたの人生を、輝くものへと導いて下さいます。ことばは人となって、私たちの間に住まわれました。「今日ダビデの町で、あなたがたのために救い主がお生まれになりました。この方こそ主キリストです。」(ルカ2:11)
この神からのすばらしいプレゼントを受け取り、最高のクリスマスを迎えることができますように。

力尽きたバビロン エレミヤ51章47-64節

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聖書箇所:エレミヤ書51章47~64節(旧約P1395、エレミヤ書講解説教87回目)
タイトル:「力尽きたバビロン」
これまでずっとエレミヤ書を学んできましたが、いよいよ最終章に近づいてきました。エレミヤ書は52章までありますが、52章はこれまで学んできたユダ王国の滅亡に関するバビロン捕囚の出来事が改めて記録されてありますが、その部分は誰かによって後にエレミヤ書に付加されたものです。従って、エレミヤのことばとしては今回が最後となります。64節の最後に、「ここまでが、エレミヤのことばである。」とある通りです。エレミヤの最後のことばは何だったのでしょうか。64節にはこうあります。
「このように、バビロンは沈み、浮かび上がれない。わたしがもたらすわざわいを前にして、彼らは力尽きる。」
それはバビロンの滅びでした。バビロンは沈み、浮かび上がることはありません。彼らは主がもたらすわざわいを前にして、力尽きるのです。この「彼らは力尽きる」という言葉ですが、新改訳第三版では「彼らは疲れ果てる」とあります。意味は同じですが、「疲れ果てる」の方がわかりやすいかもしれませんね。バビロンは沈み、浮かび上がることはありません。彼らは主がもたらすわざわいのために、疲れ果てるのです。
しかし、神の民はそうではありません。神の民はどんなに沈められても再び浮かび上がります。七転び八起きということわざがありますが、まさに七転び八起きです。決して力尽きることはありません。疲れ果てることはないのです。バビロン捕囚ならぬ罪の束縛から解放された者は、もう罪に悩んだり、苦しんだりすることはないからです。今日はこのことについて3つのことをお話します。
第一に、その時代が来るということです。その時代とは、バビロンが滅びる時のことです。その時バビロン捕囚から解放された者は、エルサレムに帰還することになります。ですから、立ち止まってはなりません。遠くから主を思い出し、エルサレムを心に思い浮かべなければなりません。
第二のことは、それは必ずなるということです。なぜなら、主は報復の神だからです。主はバビロンに報復されるので、バビロンは必ず力尽きることになります。それは主がなさることです。私たちがすべきことではありません。ですから、私たちは先走った判断をして人をさばくようなことをしないで、さばきを主にゆだねなければなりません。
第三のことは、バビロンは沈み、力尽きても、神の民であるクリスチャンは決して力尽きることはないということです。イエス・キリストがその重荷を負ってくださったからです。だからこそ私たちはイエス様から力をいただいて、天のエルサレムに向かって進んで行くことができるのです。
Ⅰ.その時代が来る(47-53)
まず、47~53節をご覧ください。47~48節には、「51:47 それゆえ、見よ、その時代が来る。そのとき、わたしはバビロンの彫像を罰する。この全土は恥を見、刺し殺された者はみなそのただ中に倒れる。51:48 天と地とその中にあるすべてのものは、バビロンのことで喜び歌う。北からこれに向かって、荒らす者たちが来るからだ──【主】のことば──。」とあります。
「その時代が来る」とは、バビロンが倒れる時代が来るということです。北からこれに向かって、荒らす者たちが来るからです。これはメディアとペルシャの連合軍のことを指しています。彼らはバビロンに来てこれを荒らすので、バビロンは倒れることになるのです。すると、天と地とその中にあるすべてのものは、バビロンのことで喜び歌うことになります。なぜでしょうか。
その理由が、49~51節にあります。それは、バビロンがイスラエルをさんざん苦しめたからです。これはその報復なのです。神は必ず復讐されるのです。それは過去においてそうだったというだけでなく、未来においてもそうなるということです。「その時代が来る」というのは終末において起こることをも預言しているからです。黙示録18:2に「倒れた。大バビロンは倒れた。」とありますが、それはこのことです。世の終わりにまると、悪の象徴であるバビロンは滅びるのです。その時、天にあるものは、黙示録19章にあるように主をほめたたえ、喜び踊るようになるのです。子羊との婚礼の時が来たからです。ですから、50節にこうあるのです。
「剣を逃れた者よ、行け。立ち止まるな。遠くから【主】を思い出せ。エルサレムを心に思い浮かべよ。」
剣を逃れた者とはユダの民、イスラエルのことです。彼らは神のさばきから逃れることができました。それゆえ、ただちにその地を出なければなりません。立ち止まってはならないのです。遠くから主を思い出し、エルサレムを心に思い浮かべなければなりません。捕囚の民にとってエルサレムを思い浮かべることは辛いことでした。なぜなら、他国人が主の宮に入り、そこを汚したからです。しかし、52節と53節にあるように、主は必ずバビロンの偶像を罰するという約束を与え、民を慰めます。「51:52 それゆえ、見よ、その時代が来る。──【主】のことば──そのとき、わたしはその彫像を罰する。刺された者がその全土でうめく。51:53 たとえバビロンが天に上っても、たとえ、砦を高くして近寄りがたくしても、わたしのもとから荒らす者たちがそこへ行く。──【主】のことば。」
それは、私たちにも言えることです。罪の束縛から解放された者は、そこに立ち止まってはなりません。遠くから主を思い出し、エルサレムを心に浮かべて前進しなければならないのです。そこに辿り着くまでにはいろいろなことがあるでしょう。踏みにじられたり、馬鹿にされたり、あからさまに罵られることもあるかもしれません。そういう思いをしながらも、遠くから主を思い出し、天のエルサレムを心に思い浮かべ、て前進しなければならないのです。
皆さんは「天路歴程」という本を読んだことがありますか。この本は、17世紀にジョン・バンヤンという人によって書かれた本です。バンヤンは許可なく説教をしたという罪で投獄されましたが、その獄中で書いたのがこの本です。
この物語の主人公のクリスチャンは、「自分の汚れた魂を救うためにはいったいどうすればよいか」と悩みます。すると一人の伝道者に出会いアドバイスをもらうんですね。「あの希望の光を目指してまっすぐに進みなさい」と。それで彼は「滅びの町」から逃れて天国への旅を始めますが、その中でイエス・キリストと出会い、自分の重荷をすべて十字架の御許に下すことができました。クリスチャンになったのです。しかし、天国への旅はさらに続きます。その途中で様々な試練や誘惑に直面します。最後の試練は、死の川を渡ることでした。それは辛く、苦しい川でしたが、「あなたが水の中を過ぎる時も、わたしはあなたとともにてる。川を渡るときも、あなたは押し流されず、火の中を歩いても、あなたは焼かれず、炎はあなたに燃えつかない。」(イザヤ43:2)の御言葉に励まされ、ついにあの希望の光、天のエルサレムにたどり着くのです。
こうしてクリスチャンの巡礼の旅は終わりますが、これを書き終えた時、ジョン・バンヤンは次のようなことばを書き残しています。
 「私はまだこの荒野にたたずんでいたのです。私はため息をついた後で祈りました。ああ、神様、私の巡礼の旅を早く終わらせ、無事に天の御国に導いてください。」
 ジョン・バンヤンは、まさに主に思いを馳せ、天のエルサレムを心に思い浮かべてこの地上の生涯を歩んだのです。
それは私たちも同じです。私たちもやがて天に帰ります。そこには神がともにおられ、あなたの目の涙をことごとくぬぐい取ってくださいます。もはや死はなく、悲しみも、叫び、苦しみもありません。以前のものが過ぎ去ったからです。ここに真の希望があります。だからこそ、私たちは今、前に進むことができるのです。確かにこの地上にあっては困難や苦難を避けることはできません。でも、約束の地、天のエルサレムに辿り着くことができるなら、すべてのことが喜びに変えられるでしょう。
私たちは今、「天路歴程」、その巡礼の旅を続けているのです。今の悲しみはいつまでも続くものではありません。その時代は必ず来ます。バビロンは倒れ、私たちは天のエルサレムに帰るのです。そのことを忘れないでください。この世というバビロンから解放された者として、遠くから主を思い出し、エルサレムに思いを馳せて、進んでいかなければならないのです。
Ⅱ.主は報復の神(54-58)
次に、54~58節をご覧ください。バビロンから、破滅の音が聞こえてきます。それは大波が襲う時のような響きです。荒らす者が攻めて来て、その勇士たちは捕えられ、その弓も折られるからです。主はその首長たちや知恵ある者、総督や長官、勇士たちを酔わせ、永遠の眠りにつかせるので、彼らは目覚めることはありません。
58節をご覧ください。ここには、「万軍の【主】はこう言われる。「バビロンの厚い城壁は完全にくつがえされ、その高い門にも火が放たれる。国々の民は無駄に労し、諸国の民は、ただ火に焼かれて、力尽きる。」とあります。
このようにして、バビロンは完全に崩壊することになります。難攻不落と呼ばれたバビロンも完全にくつがえされ、ただ火に焼かれて、力尽きるのです。注目すべきことは、どうしてそのようなことが起こるのかということです。56節をご覧ください。ここには「主は報復の神であり、必ず報復されるからだ。」とあります。
皆さん、主は報復の神です。自らを神と等しい位置に置く者に対して、必ず復讐されるのです。このことはこれまでも何度も語られて来たことです。そのバビロンへの報復として主が成さるわけです。それなのに、私たちは自分で報復しようと思うことがあります。しかし、それは私たちがすることではなく、神ご自身がなさることです。さばきを主にゆだねなければなりません。そうすれば、主はご自分の時に、ご自分の方法でさばいてくださいます。それがたとえ自分の方法やタイミングとは違っても、主は完璧なタイミングで、完璧な方法でなさってくださるのです。
パウロもローマ人への手紙の中でこう言っています。「12:19愛する者たち、自分で復讐してはいけません。神の怒りにゆだねなさい。こう書かれているからです。「復讐はわたしのもの。わたしが報復する。」主はそう言われます。12:20 次のようにも書かれています。「もしあなたの敵が飢えているなら食べさせ、渇いているなら飲ませよ。なぜなら、こうしてあなたは彼の頭上に燃える炭火を積むことになるからだ。」12:21 悪に負けてはいけません。むしろ、善をもって悪に打ち勝ちなさい。」(ローマ12:19-21)
私たちは、人に批判されたり、中傷されたり、理不尽な扱いを受けたりする時、怒りが湧き上がってくることがあります。どうしても感情的になってしまうのです。そんな時どうすれば良いのでしょうか。自分で報復するのではなく、神の怒りに任せるのです。怒りは罪ではありませんが、罪へと誘われやすいからです。
ダビデは、親切にしたナバルが自分を罵(ののし)っている事を耳にすると、すぐさま、報復の行動を取ろうとしました。しかし、賢明なナバルの妻アビガイルの機転と進言によって、自分で復讐し神の前に罪を犯す事を思いとどまりました。怒りは、底に憎しみが潜み、周囲に害毒を撒き散らします。ナバルがダビデを罵(ののし)った事も、神の許しのもとで起きたことでした。ダビデが神の視点に立ち、それを見ていたなら、軽率な行動に走る事から守られたでしょう。しかしこの事でダビデは学びました。後にシムイに呪われた時、冷静に対処することができました。報復しようとする部下に「放っておけ。彼に呪わせよ。主が彼に命じられたのだから」と言えたのです。これはダビデが学んだことです。「復讐はわたしのする事である。わたしが報いる」と。だから神の怒りに任せよと。さらには、善をもって悪に打ち勝ち、侮辱をもって侮辱に報いず祝福を与えよと。それは自分には不可能なことですが、内におられる聖霊がして下さいます。私たちはすべてを知りませんが、主はすべてを知っておられます。私たちは限られた情報とか、限られた知識で判断して、さばこうとしますが、主はすべてのことを完全に知っておられるので、正しいさばきをすることができます。
ですから、自分で復讐してはいけません。復讐は主がなさいます。神のさばきにゆだねなければなりません。このバビロンに対するさばきは、主の報復だったのです。
Ⅲ.力尽きたバビロン(59-64)
最後に、59~64節をご覧ください。ここまでが、エレミヤのことばです。エレミヤは、58節までにバビロンに対する預言を語り終えますが、その後で、この巻き物をある人物に託します。それは59節に出てくる「マフセヤの子ネリヤの子セラヤ」という人です。この人はエレミヤの書記をしていたバルクの兄弟だと思われます。というのは、バルクの父親の名前も「ネリヤ」だったからです。ネリヤという同じ父を持つ兄弟がバルクとこのネリヤだったのでしょう。ここには、彼が「宿営の長であった」とありますから、政治的に近い地位にある人物であったことがわかります。
エレミヤは、バビロンに下るすべてのわざわいが記された1つの巻物をセラヤに託してこう言いました。61~64節です。「あなたがバビロンに入ったときに、これらすべてのことばをよく注意して読み、51:62 こう言いなさい。『【主】よ。あなたはこの場所について、これを滅ぼし、人から家畜に至るまで住むものがないようにし、永遠に荒れ果てた地とする、と語られました。』51:63 そしてこの書物を読み終えたら、それに石を結び付けて、ユーフラテス川の中に投げ入れ、51:64 こう言いなさい。『このように、バビロンは沈み、浮かび上がれない。わたしがもたらすわざわいを前にして。彼らは力尽きる。』」
エレミヤはこれまでもいろいろな実物を使って預言しました。それは行動預言と呼ばれるもので、その行動を通して神のことばを預言するというものです。時には縄とかせを作り、それを首につけてゼデキヤ王とユダの民に「あなたがたはバビロンの王のくびきに首を差し出し、彼とその民に仕えて生きよ。」(27:12)と語ったこともありました。ここでも、セラヤがゼデキヤとともに捕囚の民としてバビロンに連れて行かれたら、そこでバビロンについて主が語られたことばが書き記された一つの書物を注意深く読み、それを読み終えたら、それに石を結び付けて、ユーフラテス川の中に投げ入れ、「このように、バビロンは沈み、浮かび上がれない。わたしがもたらすわざわいを前にして。彼らは力尽きる。」と言うようにと命じました。それは、バビロンは沈み、二度と浮かび上がれないということを象徴していました。あれほど権勢を誇ったバビロンでも、最終的には力尽きるということを、彼らの印象に残るように語られたのです。
しかし、それとは対照的に、主を待ち望む者は新しく力を得て、鷲のように翼をかって上ることができます。どんなに沈められても必ず浮かび上がります。もう滅ぼされた、もう二度と浮かび上がることはないだろうと思われても、必ず浮かび上がるのです。それはイスラエルの歴史を見てもわかります。彼らはA.D.70年にローマ帝国の迫害によって全世界に散らされて祖国を失うと、もう再起ができない状態になりましたが、何とそれから1900年後に再び祖国に戻り国を復興したのです。考えられません。1900年間も世界中に散り散りバラバラになっていた流浪の民が、もうだれもがイスラエルという国名も忘れていたのに、1900年という時空を経て再興するなんて。でも、本当にそうなりました。どうしてそのようになったのでしょうか。神が約束しておられたからです。神の約束は一つも違わずみな成就します。それは近い未来においてばかりでなく、遠い未来においてもそうです。現代の私たちの時代にも成就しているのです。
イスラエルに敵対した国々はことごとく滅ぼし尽くされました。これも聖書に書かれてある通りです。神はアブラハムに対して「あなたを祝福する者を祝福し、あなたを呪う者をのろう。」と約束されましたが、そのとおりになったのです。聖書に記された神のことばの通り、すべての歴史が動いているのです。それはこれからも同じです。必ずその通りになります。神のことばの通りにバビロンは力尽きましたが、神のことばの通りにイスラエルは復興しました。ですから、神の民は疲れ果てることはないのです。これは特に罪について言われていることです。イエス様はこう言われました。
「すべて疲れた人、重荷を負っている人はわたしのもとに来なさい。わたしがあなたがたを休ませてあげます。」(マタイ11:28)
救い主イエスを信じている人は何と幸いでしょうか。その人は、疲れ果てることがないからです。イエス様がその重荷を負ってくださいました。十字架の上で。イエス様が十字架で死んでくださったのは、あなたを罪から解放するためでした。ですから、あなたがイエス様を信じるなら、あなたは罪というバビロンから解放されるのです。もう罪に悩むことはありません。苦しむことはありません。あなたは罪から解放されたからです。ギリシャ語ではそれを「εὐαγγέλιον,エウアンゲリオン」と言います。これは、「良い(eu- エウ、”good”)知らせ(-angelion アンゲリオン、”message”)」、”good news” という意味で、「福音」のことです。皆さん、何が良い知らせなんですか。これが良い知らせです。あなたは罪から解放されました!これが良い知らせです。あなたのすべての罪は赦されました。あなたはもう疲れ果てることはありません。罪責感に苛(さいな)まれることもありません。いつまでも過去のことでくよくよしたり、後悔したり、苦々しい思いを抱いたり、恨み、つらみ、憤りにかられる必要はないのです。そういう生活は疲れ果てます。あなたから精力を奪っていきます。前に進むどころか、後ろ向きにしか生きることができません。でもあなたはそこから解放されました。イエス様があなたを招いてくださったからです。「すべて疲れた人、重荷を負っている人はわたしのもとに来なさい。わたしがあなたがたを休ませてあげます。」(マタイ11:28)と。
これはすべての疲れた人、重荷を負っている人に呼び掛けられていることばです。どんな人でも、どんな罪でも赦されます。どんな罪の重荷を抱えていても、イエス・キリストがその罪を負ってくださいました。十字架の上で。ですから安心してください。そして、この招きに応答してください。そうすれば、あなたも疲れ果てた人生から、力尽きた人生から、すぐに解放されます。あなたの疲れから回復はリポビタンDではなく、イエス様からもたらされます。それはたましいの回復からもたらさるからです。そしてイエス様があなたを休ませてくださいます。
ここはまだ真の意味での神の住まいではありません。これは仮の住まいです。教会は神の家ですが、究極的な神の家ではありません。究極的な神の家は天にあります。そこが私たちのほんとうの住まい、私たちの家です。私たちはそこを目指して生きています。そしてそこを目指して生きる人は、決して疲れ果てることはありません。この地上で生きなければならないとしたら、疲れ果てるでしょう。そこにはどこにも心休まるところはないからです。
でも私たちにはこのすばらしい知らせが与えられています。イエス様がたましいの疲れを休ませてくださいます。真の回復をもたらしてくださいました。このすばらしい知らせを、一人でも多くの人に知らせたいですね。あなたはこう罪から解放されました。バビロン捕囚から解放されたんですよ。バビロンは沈み、力尽きました。浮かび上がることはありません。でもあなたは大丈夫です。必ず回復します。あなたがイエスを信じるなら、沈んでも、必ず再び浮かび上がります。何度転んでも、起き上がります。七転び八起きの人生が、あなたにも約束されているんです。それはあなたがイエス様を救い主と信じたから。信じて罪から解放されたからです。それはこれからも同じです。あなたの巡礼の旅、天のエルサレムへの旅には様々な試練や苦難もあるでしょう。でも、あなたは必ず乗り越えることができます。だってイエス様がともにおられるんだから。ともにいて力を与えて助けてくださるんだから。あなたは決して疲れ果てることはありません。そんな人生があなたにも約束されているのです。このすばらしい人生の旅を、イエス様とともに、天の御国を目指して、歩ませていただきましょう。

その中から出て、自分自身を救え エレミヤ書51章11~46節

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聖書箇所:エレミヤ書51章11~46節(旧約P1391、エレミヤ書講解説教86回目)
タイトル:「その中から出て、自分自身を救え」
今日、私たちに与えられている御言葉は、エレミヤ書51章11~46節です。50章からバビロンに対するさばきの宣告が語られていますが、今日はその続きとなります。今日のメッセージのタイトルは、「その中から出て、自分自身を救え」です。45節にこうあります。「わたしの民よ、その中から出よ。主の燃える怒りから逃れ、それぞれ自分自身を救え。」
それは、その前の6節でも勧められていたことでした。「バビロンの中から逃げ、それぞれ自分自身を救え。バビロンの咎のために絶ち滅ぼされるな。これは、【主】の復讐の時、主がこれに報いをなさるからだ。」主はバビロンを滅ぼされるので、そこに留まって一緒に滅ぼされることがないように、その中から逃れるようにということです。そのことが繰り返して勧められているわけです。
このように繰り返して語られているということは、それだけ重要であるということです。バビロンから出ることがどうしてそれほど重要なのでしょうか。今日は、このことについて3つのポイントでお話します。
第一のことは、主はご自分にかけて誓われたことを必ず成し遂げられるということです。すなわち、主は必ずバビロンを滅ぼすということです。
第二のことは、たとえ理解できなくても従わなければならないということです。イスラエルを懲らしめる道具として用いられたバビロンが裁かれるのはおかしいのではないですか。それは主のご計画であって、そのために用いられたのに、そのバビロンがどうして滅ぼされなければならないのですか。全く理解できません。しかしたとえあなたの頭で理解できないことであっても、主が命じておられるならばそれに従わなければなりません。
第三のことは、だから、バビロンの中から出て、自分自身を救えということです。そうでないと、この世から聞こえてくるうわさによってあなたの心が弱くなってしまうからです。あなたが聞かなければならないのはこの世の声ではなく主なる神の声なのです。
Ⅰ.その御名は万軍の主(11-19)
まず、11~19節をご覧ください。14節までお読みします。「51:11 矢を研ぎ、小盾を取れ。【主】はメディア人の王たちの霊を奮い立たせられる。御思いは、バビロンを滅ぼすこと。それは【主】の復讐、ご自分の神殿の復讐だからである。51:12 バビロンの城壁に向かって旗を掲げよ。見張りを強くし、番兵を立て、伏兵を備えよ。【主】は計画を練って、バビロンの住民について語ったことを実行されるからだ。51:13 大水のほとりに住む、財宝に富む者よ。おまえの最期、おまえの寿命が尽きる時が来た。51:14 万軍の【主】はご自分にかけて誓われた。「わたしは必ず、バッタの大群のような人々でおまえを満たす。彼らはおまえに対して叫び声をあげる。」」
11節には、「矢を研ぎ、小盾を取れ。」と命じられています。これは、バビロンを攻撃する軍隊に向けて命じられていることばです。ここでは、バビロンを攻撃する軍隊が「メディア人の王たち」と複数形で書かれてあります。これは1節でも触れたようにメディアとペルシャの王たちのこと、あるいは、キュロス王とダリヨス王のことを指しているものと思われます。主はこうした王たちの霊を奮い立たせてバビロンを滅ぼされるのです。それはバビロンが主の神殿を破壊したからです。その復讐なのです。
12節には、バビロンの城壁に向かって旗を掲げよ、とあります。旗を掲げるとは、敵に向かって行動を起こすという意味です。それを命じられるのは主であって、主は計画を練って、バビロンの住民について語ったことを必ず実行されるのです。
13節には「大水のほとりに住む、財宝に富む者よ」とありますが、これはバビロンに住む者たちのことです。バビロンの真ん中にはユーフラテス川が流れていました。彼らはその恩恵を受けて富んでいたのです。しかしそのバビロンの住民に対して主は、「おまえの最期、おまえの寿命が尽きる時が来た」と宣告されます。彼らはユーフラテス川がもたらす恵みによって繁栄と豊かさを誇りましたが、その最期を迎えることになるというのです。それは14節にあるように、諸国の軍隊という大群のバッタのような人々でその地を満たされることによってです。
富であれ、名誉であれ、力であれ、こうしたものは究極的な救いをもたらすことはできないのです。それは、私たちも注意しなければなりません。これだけ富があれば、これだけ蓄えがあれば、この先、安心して暮らしていけると思ったら大間違いです。そうしたものが究極的な救いをもたらすことはできないからです。やがて寿命が尽きてしまう時が来るのです。
では、私たちに究極的な救いをもたすものは何でしょうか。15~19節をご覧ください。ここにはイスラエルの神と、バビロンの偶像が比較を通して、イスラエルの神、主がどれほど偉大な方であるかが示されています。
15~16節には、「主は、御力をもって地を造り、知恵をもって世界を堅く据え、英知をもって天を張られた。主の御声に、天では水のざわめきが起こる。主は地の果てから雲を上らせ、雨のために稲妻を造り、ご自分の倉から風を出される。」とあります。主は天地の創造主であられます。その力と知恵は創造された世界を見ればわかります。雲、稲妻、風といった自然現象は、その神の力を示しています。
一方、偶像はどうでしょうか。17~18節には「すべての人間は愚かで無知だ。すべての金細工人は、 彫像のために恥を見る。その鋳た像は偽りで、その中には息がない。それは空しいもの、物笑いの種だ。刑罰の時に、それらは滅びる。」とあります。偶像には息もなく、力もありません。そんな偶像に頼るのはまことに愚かなことです。それは空しいことであり、物笑いの種でしかありません。
しかし、主に信頼する者はそうではありません。19節に「ヤコブの受ける分は、このようなものではない。主は万物を造る方。イスラエルは主のゆずりの民。その御名は万軍の【主】。」とあるように、ヤコブが信じた神は、無力な偶像のようなものではなく、万軍の主です。だから、この方に信頼する者は決して失望することはないのです。問題は、あなたが何に信頼するか、誰に従うのかということです。あなたが従うものによってその結果も決まるのです。
アメリカのニューヨークにブルックリン・ダバナクルという教会があります。1972年にこの教会に牧師として赴任したのはジム・シンバラという牧師でしたが、彼は神学を学んだことがありませんでした。バスケットボールの選手として活躍が認められると、スポ―ツ特待生として大学に入りました。卒業後、就職してサラリーマンをしていたとき、妻の父親に「ニューヨークの小さな教会で牧会者として仕えてみないか」と勧められました。しかし、自信がなかったので「私に牧会ができるでしょうか。神学も学んだこともないし、運動ばかりして本もろくに読んだことがないのに」と断りました。その時、父の一言が胸に刺さりました。「資格が重要なのではない。神が召しておられるかどうかが重要なんだよ。」
 彼はその教会に赴任すると、見捨てられた人々にイエス様の愛を伝え始めました。麻薬中毒者、犯罪者、売春婦、ホームレスの人たちを対象に福音を宣べ伝えたのです。すると神の愛によって多くの人々が変えられました。彼は神に用いられ、ニューヨークを変えるほどの影響力のある人になったのです。
皆さん、資格が重要なのではありません。あなたがどのような人かは全く関係ないのです。重要なのは、「あなたを召し、用いてくださるのは誰か」ということです。まさにイエス様が「わたしは、この岩の上にわたしの教会を建てます。」(マタイ16:18)と言われたとおりです。それは主がなさることなのです。主が真理の御言葉の上にご自身の教会を建ててくださいます。主は万物を造る方、その御名は万軍の主です。あなたにはできなくても、神にできないことは一つもありません。あなたにとって難しいことでも、神にとっては何でもないことです。あなたの力で神の力をはかってはなりません。あなたの人生のすべてを神に明け渡してください。そうすれば、神があなたの人生を、祝福へと導いてくださいますから。
Ⅱ.たとえ理解できなくても(20-33)
第二のことは、たとえあなたが理解できなくても従うということです。20~33節をご覧ください。まず24節までお読みします。「51:20 「あなたはわたしの鉄槌、戦いの道具だ。わたしはあなたによって国々を砕き、あなたによって諸王国を滅ぼす。51:21 あなたによって馬も騎手も砕き、あなたによって戦車も御者も砕き、51:22 あなたによって男も女も砕き、あなたによって年寄りも幼い者も砕き、あなたによって若い男も若い女も砕き、51:23 あなたによって牧者も群れも砕き、あなたによって農夫もくびきを負う牛も砕き、あなたによって総督や長官たちも砕く。51:24 わたしはバビロンとカルデアの全住民に対し、彼らがシオンで行ったすべての悪に、あなたがたの目の前で報復する。─【主】のことば─」
ここには、「あなたによって」ということばが10回も出てきます。「あなた」とはバビロンのこと、「わたし」とは主なる神のことです。バビロンはかつて主の鉄槌、戦いの道具として諸国を砕く神の道具として用いられました。
しかし、24節を見ると、そのバビロンがシオンで行ったすべての悪のゆえに、イスラエルの民の目の前で裁かれることになるというのです。どういうことでしょうか。理解できません。神のご計画のためにその道具として用いられたバビロンが、今度はその神によってさばかれなければならないというのは。それは神様が計画されたことであって、バビロンはただそのために用いられただけなのに、どうしてバビロンがさばかれなければならないのでしょうか。勿論、やりすぎたことは否めません。彼らはあくまでも神の道具としてイスラエルを懲らしめるための器にすぎなかったのに、自分に与えられた分を越えて、神の領域にまで手を伸ばしてしまいました。主の神殿にあった器を自分たちの偶像の宮に飾ったり、それで酒を飲んだりしました。彼らは主に向かい、イスラエルの聖なる方に向かって高ぶってしまったのです。だからといって、神の道具として使われたバビロンがさばかれるというのは納得できません。
このようなことは、この世界を創造し、主権者として常に支配しておられる神の存在を認めることなくしては、なかなか受け入れることができないことです。人間の理性では納得できることがではないからです。それは神が一方的になしてくださったイエス・キリストによる贖いのみわざを、救いの恵みとして受け入れることも同じです。頭で理解することができません。それは理性だけではなく、信じることによってもたらされるものだからです。賛美歌に「ただ信ぜよ」という讃美がありますが、たとえ自分に理解できないことでも、神が言われることをただ信じて受け入れることが求められるのです。
ある目の見えない人が、眼球を提供されて手術を受けることになりました。手術が無事終わり、目の包帯を取る日が来ました。少しずつ包帯が取れて次第に物体が見え始めました。彼の目の前に広がったのは非常に美しい世界でした。うれしさのあまり、そばにいた母親に言いました。「お母さん、どうしてこんなに美しい世界を話してくれなかったの。」すると、母親は答えました。「毎日あなたにこの美しい世界のことを話して聞かせたわ。ただ、あなたがその言葉を理解できなかっただけよ。」
これと同じです。どんなに聖書に書かれてあっても、どんなに聞いても、その言葉を理解できないことがあります。しかし、終わりの日が来ると、すべてが明らかになります。人々は目の前のあまりにもすばらしい天国と、永遠の燃える火の世界があることを知るでしょう。その時、人々は「どうしてこんな世界があることをもっと早く教えてくれなかったのか」と言って泣き叫ぶでしょう。しかし、神はすでにそのことを多くの預言者たちを通して語られ、神の国に行く唯一の道であるイエス・キリストを送ってくださいました。大切なのはそれがあなたにとって理解できるかどうか、納得できるかどうかではなく、神のことばを信じるかどうか、信じて従うかどうかにかかっているのです。
今は天国におられる滝元明先生が書かれたトラクトに、こんな話があります。
 ひとりの実業家がイエス様を信じてクリスチャンになりました。彼は、人生があまりにも素晴らしく変えられ、うれしくて仕方がないので、誰にでもイエス・キリストを信じた喜びを伝えました。
 かつて学校の校長をしていたおじさんのところにも伝道に行き、イエス・キリストは神が遣わされた神の子であり、人間を罪から救うために、身代わりとなって十字架で死なれたこと、三日目に死の力を打ち破って、死人の中から復活されたこと、そして、イエスを信じるなら、救われて永遠のいのちを持つことができることを、30分ほど熱心に話しました。
 するとおじさんは大声で笑い出しました。
 「なに、キリストが死人の中から復活した?そんな馬鹿な話はするな。おれに話しても、他の人にそんな話をするのはやめておけ。」
 「おじさん、どんなに笑ってもいいよ。私は本気で信じているんだ。クリスチャンは死ぬことは恐ろしくないよ。死ぬのは永遠のいのちの始まりだから」
 それから数年後、そのおじさんはがんになり、がんセンターに入院しました。だんだん食欲もなくなり、目の前に死が近づいたことを知りました。夜になると死の恐れがおそってきて、眠ることもできなくなりました。
 「おれは死ぬ。死んだらどこに行くのか」と、毎晩苦しみ続け、数年前に聞いた言葉をふと思い出しました。
 「おじさん、クリスチャンは死ぬことは永遠のいのちの始まりだよ」
 本当にそんな心境になれるのだろうか・・・・。叔父さんは、奥さんに電話をかけてもらい、彼を呼び出しました。
 彼が病院に駆けつけると、伯父さんは言いました。
 「おまえの言っていたイエスの話を聞かせてくれ。ほんとうに死の恐れから救われることができるのか」
 危篤状態にある人に長い話はできません。
 「叔父さん、三つの話をするので聞いてください。一つ、聖書には「すべての人は罪を犯した」とあります。叔父さんも神の前に罪人だよ。そのことを認めますか?
 「おれは罪人だとわかっている」
 「もう一つ、『人間には、一度死ぬことと死後にさばきをうけることが定まっている』とあります。叔父さんも罪人のまま死んだら地獄に行くよ。わかる?」
 「もう一つ、主イエスを信じたら天国に行ける。なぜなら、罪のない神の御子イエスが人の罪の身代わりとなって十字架に死なれ、人類の誰も打ち破ることができなかった、死の力を打ち破って死人の中からよみがえられたから。このことを信じるだけで、罪の赦しを受けて、天国に行けるんです。」
 すると叔父さんがいいました。
 「おれはイエスを信じる。おれのために祈ってくれ」
 5分間ほどの会話でした。
 「主イエスさま、私は罪人です。お赦しください。主イエスさまを信じます。永遠のいのちをお与えください」
 二人は声を出して祈りました。その瞬間、伯父さんの上に平安が訪れました。
 「ああ、もうこれでいい。おれも天国に行ける」
 それから数日後、伯父さんは最期に次の言葉を筆で書きしるし、安らかに天国に行きました。
 「天国のいのちがあることがわかった。イエス・キリストを信じることができた」
 だれでも、主イエスを信じるだけで救われるのです。(Precius Vol7 )
このような不思議は、次の25節と26節にも出てきます。ここには、「51:25 全地を破壊する、破壊の山よ。見よ、わたしはおまえを敵とする。──【主】のことば──わたしはおまえに手を伸ばし、おまえを岩から突き落とし、おまえを焼けた山とする。51:26 だれもおまえから石を取って、要の石とする者はなく、礎の石とする者もない。おまえは永遠に荒れ果てた地となる。──【主】のことば。」」
ここには、バビロンの崩壊の様子が描かれています。「全地を破壊する破壊の山」とは、バビロンのことです。主はその破壊の山であるバビロンに手を伸ばし、彼を岩から突き落として、焼けた山とするのです。もう誰もバビロンから石をとって要の石、礎の石とする者はいません。バビロンは永遠に荒れ果てた地となるからです。
これが常識です。かつてどんなに権勢を誇り、栄華を極めたバビロンでも、そこから石を取って要の石、礎の石にする人はいません。しかし、そのように人に捨てられた石が、要の石、礎の石になったという例があります。それがイエス・キリストです。マルコ12章10~11節には「12:10 あなたがたは、次の聖書のことばを読んだことがないのですか。『家を建てる者たちが捨てた石、それが要の石となった。12:11 これは主がなさったこと。私たちの目には不思議なことだ。』」とあるように、イエス様は家を建てる者たちが捨てた石なのに、要の石となりました。要の石とは、その家を建てるに当たり、無くてはならない要の石のことです。イエス様はまさに、家を建てる者たちが捨てた石なのに、要の石になりました。これは私たちの目には不思議なことです。しかし、神はこのようなことをなさるのです。それは、人間の理解を越えた神のみわざです。私たちに求められているのは、私たちが理解できないことでも、それを神の救いの御業として受け入れることなのです。そうすれば、あなたは救われます。自分自身を救うことができるのです。
Ⅲ.それぞれ自分自身を救え(27-46)
ですから、第三のことは、その中から出て、自分自身を救え、ということです。「その中」とはとの中ですか?バビロンです。バビロンの中から出て、自分自身を救わなければなりません。これが、主が命じておられることです。27~46節をご覧ください。まず、32節までをお読みします。「51:27 この地に旗を掲げ、国々の中で角笛を鳴らせ。バビロンに向けて国々を聖別せよ。バビロンに向けて王国を召集せよ。アララテ、ミンニ、アシュケナズを。バビロンに向けて司令官を立て、群がるバッタのように、馬を上らせよ。51:28 バビロンを攻めるため国々を聖別せよ。メディアの王たち、その総督やすべての長官たち、その支配にある全土の民を。51:29 地は震え、もだえる。【主】はご計画をバビロンに成し遂げ、バビロンの地を住む者もいない荒れ果てた地とされる。51:30 バビロンの勇士たちは戦いをやめ、砦の中に座り込む。彼らの力は干からびて、女たちのようになる。その住まいは焼かれ、かんぬきは砕かれる。51:31 飛脚はほかの飛脚に走り次ぎ、使者もほかの使者に取り次いで、バビロンの王に告げて言う。「都は、くまなく攻め取られ、51:32 渡し場も取られ、湿地も火で焼かれ、戦士たちはおじ惑っています」と。」
神が諸国を招集し、バビロンに向かって旗を掲げるようにと命じるのは、これが3度目です(50:2,51:12)。その攻撃に加わるのは、アララテ、ミンニ、アシュケナズといった国々です。「アララテ」はノアの箱舟が漂着したところですが、現在のアルメニア地域のあたりです。「ミンニ」は、現在のイラン西部にあたります。「アシュケナズ」はアララテに近い所にあります。こうした国々が、バビロンを攻撃する軍隊に加わるのです。
これらの軍隊がバビロンを攻撃すると、バビロンの兵士たちは戦いをやめ、砦の中にこもり、力を失ってしまいます。やがて門のかんぬきは砕かれ、敗戦を告げる飛脚たちが走り継ぎ、バビロンの王にこのように告げます。「都は、くまなく攻め取られ、渡し場も取られ、湿地も火で焼かれ、戦士たちはおじ惑っています。」(31b-32)
この王とはバビロンの王ナボニドゥスです。息子のベルシャツァルは城内で酒を飲んで酔っ払っていたところを、メディアの王率いる軍隊によって殺されてしまいました。その知らせが父親のナボニドウスに伝えられるのです。当時、世界の七不思議の一つと言われた空中庭園を作り、その繁栄を誇示したバビロンが陥落したのです。
世の人は、それは時代の流れだと言います。平家物語の冒頭に、「祇園精舎(ぎおんしょうじゃ)の鐘の声、諸行無常(しょぎょうむじょう)の響あり、とあるように、この世のすべての現象は常に変化し、一瞬たりとも同じ状態を保つことはない。それこそ自然の成り行きだと自分にも言い聞かせ、美しいまでに寂しい歴史観を説明するかもしれませんが、しかし聖書は、繰り返し、繰り返し、そうではないと、私たちに訴えるのです。33節にも「イスラエルの神、万軍の【主】が、こう言われるからだ。」とあるように、それは主権者である神が、なされることなのです。
33節には、そのバビロンの滅亡が麦の打ち場にたとえられています。収穫の前には、その準備のために打ち場が作られます。そうすれば、誰もが、刈り入れの時がやって来たことを知ります。そのように、バビロンも刈り入れのとき、すなわち、神の審判の時が来たことを知るのです。そして、バビロンに神の審判が下ることになります。
その様子が36~44節に描かれています。44節には、「わたしはバビロンでベルを罰し、これが呑み込んだ物を吐き出させる。国々はもう、そこに流れ込むことはない。バビロンの城壁さえも倒れてしまった。」とあります。「ベル」はバビロンの偶像です。主はそのベルを罰し、これ呑みこんだ物を吐き出させます。これはバビロンに捕えられていたユダの民を、エルサレムに帰還させるということです。34節にあるように、バビロンの王ネブカドネツァルはユダの民を食い尽くし、竜のように呑み込み、それで腹を満たしますが、今度はその呑み込んだイスラエルを吐き出すわけです。こうしてバビロンは完全に滅びることになるのです。
だから、45節と46節に、こう勧められているのです。「51:45 わたしの民よ、その中から出よ。【主】の燃える怒りから逃れ、それぞれ自分自身を救え。51:46 そうでないと、あなたがたの心は弱まり、この地に聞こえるうわさを恐れることになる。今年、うわさが立ち、その後、次の年にも、うわさは立つ。この地には暴虐があり、支配者はほかの支配者に立ち向かう。」
「その中から出よ」とは、バビロンの中から出よということです。これは6節でも言われていたことです。そうでないと、バビロンとともに滅ぼされてしまうことになるからです。46節にはこうあります。「そうでないと、あなたがたの心は弱まり、この地に聞こえるうわさを恐れることになる。今年、うわさが立ち、その後、次の年にも、うわさは立つ。この地には暴虐があり、支配者はほかの支配者に立ち向かう。」
そうでないと、あなたの心は弱まり、この地に聞こえるうわさを恐れることになります。この「うわさ」とは何でしょうか。これは前回お話したように、バビロンとは「この世」の象徴ですが、あなたが救われてもこの世というバビロンから出ないと、この世がもたらすさまざまなうわさによって翻弄され、心が弱くなってしまうということです。世を恐れると、信仰が委縮してしまうからです。だからイエス様は、からだを殺してもたましいを殺せない者たちを恐れるな、と言われたのです。むしろ、たましいもからだもゲヘナで滅ぼすことができる方を恐れなさいと。そうするなら、世に対する恐れから抜け出すことができます。そして、世を制することができる真実な信仰者として、力強く歩むことができるのです。
「この世と調子を合わせてはなりません。むしろ、何が良いことで神に受け入れられ、完全なのかをわきまえ知るために、心の一新によって自分を変えなさい。」(ローマ12:2)
この世と調子を合わせてはなりません。そうでないと、この世のうわさに翻弄され、心が弱くなってしまいます。結果的にその中に埋没してしまうことになってしまうのです。そうではなく、むしろ、神のみこころは何か、何が良いことで神に受け入れられ、完全であるのかをわきまえ知るために、心の一新によって自分を変えなければなりません。たとえあなたが苦手な人にプレッシャーをかけられても、本当に恐ろしい存在は別にあると思い出せば、落ち着いて対応できるのではないでしょうか。
神のことばに従うのか、この世の声に従うのかによって結果は大きく変わります。神のことばに信頼を置いて行動しないなら、やがてこの世のうわさに翻弄され、心が弱くなってしまうのです。でも、神のことばを聞いてそれに従うなら、あなたは神によって力をいただき、鷲のように、翼をかって上ることができます。
先日、三原先生の奥様の鳩子さんのお母様が召されました。その告別式の中で鳩子さんがお母さんとの思い出を証しされました。
 前夜式が終わり寝る前にお父さんと二人で少し話ました。お父さんはこう言いました。
 「お母さんは、お父さんの事が好きだったんだな~。だから天に召される時も娘も息子も待たずに行ったんだろう。」
 来てくれた看護師さんが、召される直前の人は会いたい人が来るまで頑張れると父に教えてくれたそうです。確かに、お父さんと二人が良かったんだね。お母さんらしい!と思い笑ってしまいました。
 仲の良い両親の下に生まれたことは幸せであり、神様からの大きな恵みです。
 聖書には、「妻たちよ。主に従うように、自分の夫に従いなさい。」とあります。母の尊敬しているところは、父に従いなさいという命令に最後まで従ったところです。母は父がする事に反対した事がなかったそうです。私からすると、えっ?そんなことあるの?反対した事がないなんて・・・。
でも、私が信じている事は、聖書のみことばは、この世界を造られた神様に従うなら必ず幸せになれる!という事です。確かに、母は聖書のみことばに従いました。そして、幸せでした。これは、神さまと母からのチャレンジかもしれません。私も天に召されるその日まで、夫を愛し、夫に従う。頑張ります!
それは夫婦関係ばかりでなく、私たちの生活のすべてにおいて言えることです。皆さん、聖書のみことばに従えば、必ず幸せになれます。そして、神様から聖霊の力を受けることができます。走ってもたゆまず、歩いても疲れません。しかし、この世の声に従うなら、あなたの心は弱まり、そこから聞こえてくるうわさに翻弄されることになるでしょう。だから、あなたはそこから出て、主の燃える怒りから逃れ、自分自身を救わなければなりません。それは簡単なことではありません。この世の力が強く、日々その影響を受けながら私たちは生きているからです。しかしたとえその中にいても、私たちは主のもの、その牧場の羊です。いつも主を求め、主を見上げ、主の聖霊の助けをいただきながら、主の御声に聞き従う者でありたいと思います。そのときあなたは自分自身を救うことができます。たとえ意気消沈することがあっても主によって励まれ、勝利ある人生を歩むことができるのです。