聖書箇所:エレミヤ書9章17~26節(エレミヤ書講解説教21回目)
タイトル:「誇る者は主を誇れ」
今日は、エレミヤ書9:17~26のみことばから、「誇る者は主を誇れ」というタイトルでお話します。今日のメッセージのタイトルは、24節から取りました。「誇る者は、ただ、これを誇れ。悟りを得て、わたしを知っていることを。」皆さんは、何を誇っていますか。「いや~、私は誇るものなんて何もない」と思っていらっしゃる方もおられると思いますが、この「誇る」というのは、「頼る」ということでもあります。そうすると、私たちは皆何かに頼りながら生きているわけですから、その何かが何であるかということです。「私は何も信じない」「頼るのは自分だけだ」という人は、自分を誇っているわけです。その誇っているものは何かということです。それは、普段は気付かないかもしれませんが、いざという時に見えてきます。
この9章には、主を知る事を拒んだユダの民に対する神のさばきが語られてきました。7節には「それゆえ、万軍の主はこう言われる。『見よ、わたしは彼らを精錬して試す。』」とあります。それは具体的には、バビロンという国によってエルサレムを滅ぼすということです。完全に滅ぼし尽くすということではありません。ユダが悔い改めるために、神はそのような懲らしめを与えられるのです。そこは、焼き払われて通る人もなく、群れの声も聞こえず、空の鳥から家畜に至るまで、すべて逃げ去ってしまいます。主はエルサレムを石ころとし、ジャッカルの住みかとするのです。主は彼らに苦よもぎを食べさせ、毒の水を飲ませることになります。そして、ついには、彼らも先祖たちも知らなかった国々に彼らを散らし、彼らを断ち滅ぼしてしまうのです。
それは彼らが主を知らなかったからです。彼らは、自分では知っていると思っていました。知っているつまりでしたが、それは表面的なもので、実際には知りませんでした。彼らが誇っていたのは主ではなく、自分自身でした。自分の知恵、自分の力、自分の富を誇っていたのです。大切なのは、主を知ることです。主を知っていることを誇り、この主に信頼することなのです。今日は、このことについて三つのことをお話したいと思います。
Ⅰ.やがて起ころうとしている悲劇(17-22,25-26)
まず、17~22節と、25~26節をご覧ください。まず、17~19節をお読みします。「17 万軍の主はこう言われる。「よく考えて、泣き女を呼んで来させよ。人を遣わして、巧みな女を来させよ。」18 彼女たちを急がせて、私たちのために嘆きの声をあげさせよ。私たちの目から涙を流れさせ、私たちのまぶたに水をあふれさせよ。19 シオンから嘆きの声が聞こえるからだ。ああ、私たちは踏みにじられ、ひどく恥を見た。私たちが地を見捨て、自分たちの住まいが投げ捨てられたからだ。」
ここには「よく考えて、泣き女を呼んで来させよ。」とあります。これは万軍の主のことばです。この「泣き女」とは、泣くことを商売としていたプロの泣き屋のことです。こうした泣き屋を呼んでくることで、葬儀の時などに知人や友人が訪問した際、その人たちも心動かされて泣きやすくしたのです。新約聖書ヨハネ11章には、イエス様と親しかったマルタとマリヤの兄弟ラザロが死んだとき、死んだラザロのところに行かれると、マリヤを慰めていたユダヤ人の人たちが泣いていたとあります(ヨハネ11:33)が、そういう人たちいたと思います。そうした泣き女を呼んで来て、嘆きの声をあげさせよというのです。
なぜでしょうか。なぜなら、ユダの状況があまりにも悲惨だからです。19節には、「シオンから嘆きの声が聞こえるからだ。ああ、私たちは踏みにじられ、ひどく恥を見た。私たちが地を見捨て、自分たちの住まいが投げ捨てられたからだ。」とあるように、バビロン軍がやって来て、エルサレムを踏みにじることになるからです。こうした泣き女たちの嘆きの声は、略奪された祖国の悲しみをより一層深いものにしたことでしょう。
21節と22節をご覧ください。ここでエレミヤは「死」を擬人化することによって、やがて起ころうとしている悲劇がどのようなものなのかを、生き生きと描いています。21節には、「死が私たちの窓によじ登り、私たちの高殿に入り、道端では幼子を、広場では若い男を断ち滅ぼすからだ」とあります。ここでは、死が窓によじ登るとか、高殿に入ってくるとありますが、それはそのことです。敵が攻めて来ると、道端で幼子を、広場で若い男を虐殺することになるからです。その結果、22節にあるように「人間の死体は、畑の肥やしのように、刈り入れ人のうしろの、集める者もない束のように落ちる」ことになります。これはどういうことかというと、死体があちらこちらに放置されるということです。それが腐って畑の肥やしのようになるわけです。だれも葬ることができほど大量に虐殺され、そのまま捨て置かれることになります。いったい何が問題だったのでしょうか。
25~26節をご覧ください。ここでは、それが別のことばで表現されています。「25 「見よ、その時代が来る─主のことば─。そのとき、わたしはすべて包皮に割礼を受けている者を罰する。26 エジプト、ユダ、エドム、アンモンの子ら、モアブ、および荒野の住人で、もみ上げを刈り上げているすべての者を罰する。すべての国々は無割礼で、イスラエルの全家も心に割礼を受けていないからだ。」」
「その時代が来る」とか「その日が来る」というのは、終末の預言が語られる時の特徴的なことばです。こうした預言は、近い未来に起こることと遠い未来に起こることが山のように重なり合っています。この場合、近い未来においてはバビロン軍がやって来て南ユダを滅ぼすということですが、遠い未来においては、世の終わりの究極的な神のさばきのことを示しています。神の救い、キリストを拒絶する世界に対する神のさばきです。そのとき主は、すべて包皮に割礼を受けている者を罰することになります。割礼とはこれまで何度もお話しているように、男性の性器の先端を覆っている包皮を切り取ることです。それは神の民であることの大切なしるしでした。ですからユダヤ人の男性は、生まれて8日目に割礼を受けなければなりませんでした。ここではそのように割礼を受けている者を罰すると言われています。なぜでしょうか。たとえ肉体の割礼を受けていても、受けていないような歩みをしているとしたら、それは割礼を受けていない人と何ら変わりがないからです。大切なのは、心に割礼を受けるということです。このことについては、すでに4章で見てきました。4:4には、「ユダの人とエルサレムの住民よ。主のために割礼を受け、心の包皮を取り除け。」とありましたね。どんなに割礼を受けていても、それが形だけの表面的なものであるならば、それは受けていない者、すなわち、異邦人と何ら変わりはありません。それが26節で言われていることです。ここには、エジプト、ユダ、エドム、アンモンの子ら、モアブ、および荒野の住人とあります。これを見て、何かお気付きになりませんか。エジプトとかエドム、アンモン、モアブといった異邦人の中に、神の民であるユダが並記されています。異邦人たち、すなわち、無割礼の者たちと同列に置かれているのです。同等に扱われているということです。なぜでしょうか。それは今申し上げた通り、どんなに割礼を受けていても、自分たちはアブラハムの子孫だといって悔い改めないなら、他の異邦人と何ら変わりはないからです。やがて滅ぼされてしまうことになります。
使徒パウロも、このことについてこう述べています。ローマ2:25~29です。「25 あなたが受けた割礼も、律法を守ればこそ意味があり、律法を破れば、それは割礼を受けていないのと同じです。26 だから、割礼を受けていない者が、律法の要求を実行すれば、割礼を受けていなくても、受けた者と見なされるのではないですか。27 そして、体に割礼を受けていなくても律法を守る者が、あなたを裁くでしょう。あなたは律法の文字を所有し、割礼を受けていながら、律法を破っているのですから。28 外見上のユダヤ人がユダヤ人ではなく、また、肉に施された外見上の割礼が割礼ではありません。29 内面がユダヤ人である者こそユダヤ人であり、文字ではなく“霊”によって心に施された割礼こそ割礼なのです。その誉れは人からではなく、神から来るのです。」
重要なのは、肉体に割礼を受けているかどうかということではなく、心に割礼を受けているかどうかです。外見上のユダヤ人がユダヤ人なのではなく、内面のユダヤ人がユダヤ人であり、文字ではなく、御霊による心の割礼こそ割礼です。すなわち、心にイエス・キリストを信じて、神の御言葉に従って生きているかどうかが問われているのです。
あなたはどうでしょうか。心に割礼を受けていらっしゃいますか。自分はバプテスマ(洗礼)を受けているから大丈夫だと思っていませんか。バプテスマ(洗礼)を受けることはとても重要なことです。でも、バプテスマを受けていれば自動的に天国に行けるわけではありません。勿論、悔い改めるなら、神は赦してくださいます。でも悔い改めなければ、その限りではありません。エジプト、エドム、アンモンの子ら、モアブ、および荒野の住民のように、自分の罪の中に滅んでいくことになります。ノンクリスチャンと同じさばきを受けることになるのです。大切なのは心に割礼を受けるということです。私たちは心に割礼を受けているかどうかを、もう一度考えなければなりません。
Ⅱ.自分を誇るな(23)
次に、23節をご覧ください。「─主はこう言われる─知恵ある者は自分の知恵を誇るな。力ある者は自分の力を誇るな。富ある者は自分の富を誇るな。」
そんな神の民イスラエルに対して、主はこう仰せられました。「知恵ある者は自分の知恵を誇るな。力ある者は自分の力を誇るな。富ある者は自分の富を誇るな。」
彼らの問題は、自分を誇っていたことでした。自分の知恵を誇り、自分の力を誇り、自分の富を誇っていました。こうしたものを誇るのは愚かなことです。なぜなら、こうしたものは神様が私たちに与えてくださる恵みであり、祝福だからです。その神様ではなく自分を誇っていたら本末転倒です。
皆さんは、どうでしょうか。自分の知恵、自分のち~、自分の富を誇っていませんか。こういうものはだれでも誇りたくなるものです。神様を知らなければ自然とそうなります。現代で言うならそれは学歴とか、地位とか、名誉とか、財産といったものになるでしょうか。どこどこの大学を出て、どのような地位にあり、どれだけの財産があるかということが、その人の価値を決めるとみんな思っています。だから一生懸命勉強して、少しでもいい学校に入り、いいところに就職し、いい人と結婚して、立派な家を建て、豊かに生きようと躍起になっているのです。それが人生の成功であり、幸福だと思っています。でも、主はそうしたものを誇るなと言っています。誇るなとは、頼りにするなということです。それを自分の栄光にしてはならないのです。
それは、エデンの園の中央にある木の実のようなものです。創世記3:6には、「そこで、女が見ると、その木は食べるのに良さそうで、目に慕わしく、またその木は賢くしてくれそうで好ましかった。」とあります。それはいかにも好ましいものでした。しかし神は、その木の実について、それを食べてはならないし、それに触れてもいけないと、アダムとエバに警告していました。それを食べると、死んでしまうことになるからです。
しかし、蛇に誘惑されたエバは、それを見るともう我慢することができませんでした。もうどうにもとまらない、です。それはほんとうに目に麗しく、賢くしてくれそうで好ましかったので、食べてしまいました。自分だけだと悪いので夫にも与えたので、夫も食べてしまいました。
その結果、どうなりましたか。罪が全人類にもたらされ、その結果、全人類が真でしまいました。この死とは霊的死のことを指していますが、その結果、肉体も死ぬことになってしまいました。それは目に麗しく、賢くしてくれそうで、いかにも好ましく見えますが、死をもたらすのです。
東京オリンピックの巡る汚職事件が広がっています。多くの企業がスポンサー契約を巡って、贈賄容疑で取り調べを受けています。何が問題なのでしょうか。こうした大きな大会には多額のお金が絡むということです。その利権を巡って多くの人たちが動くわけです。それはどの企業にとっても魅力的なものですから。しかし、それは死をもたらすことになります。「自分の知恵を誇るな。自分の力を誇るな。自分の富を誇るな。」と聖書にあるとおりです。
ヨハネはこのことについて、Ⅰヨハネ2:16~17でこう言っています。「16 すべて世にあるもの、すなわち、肉の欲、目の欲、暮らし向きの自慢は、御父から出るものではなく、世から出るものだからです。17 世と、世の欲は過ぎ去ります。しかし、神のみこころを行う者は永遠に生き続けます。」
肉の欲、目の欲、暮らし向きの自慢といったものは、神から出たものではなく、この世から出たものです。そうしたものは、結局のところ、過ぎ去ることになります。これさえ手に入れば自分は幸せになれる、繁栄する、満たされると私たちが信じて疑わないもの、それは、肉の欲、目の欲、暮らし向きの自慢であって、そうしたものは、やがて消えて無くなってしまうことになります。ですから、こうしたものを誇ってはならない。頼ってはならないのです。
では、何を誇ったらいいのでしょうか。それが24節にあることです。ご一緒にお読みしましょう。「24 誇る者は、ただ、これを誇れ。悟りを得て、わたしを知っていることを。わたしは主であり、地に恵みと公正と正義を行う者であるからだ。まことに、わたしはこれらのことを喜ぶ。─主のことば。』」」
原文では、24節の冒頭には、「むしろ」とか「それとは反対に」という意味の接続詞があります。英語の聖書では「しかし」と訳されていますが、正確には「むしろ」とか「それとは反対に」です。つまり、23節で語られたことに対して、むしろ、それとは反対に、という意味になります。つまり、人は自分の知恵を誇り、自分の力を誇り、自分の富を誇りますが、それとは反対に、むしろ「誇るものは、ただ、これを誇れ」と言うのです。それは何ですか。その次にあります。それは、「悟りを得て、わたしを知っていることを。」です。つまり、主を誇れというのです。なぜなら、主は神であり、地に恵みと公正と正義を行う者であるからです。これは、イスラエルの民が持っているものとは正反対のものでした。
たとえば「恵み」ですが、「恵み」とは「ヘッセド」というヘブル語が使われています。これは「誠実」とか「真実」という意味で、契約に基づいた愛のことです。皆さん、誠実な愛とはどういう愛でしょうか。それは、約束を守る愛です。どんなことがあっても見離したり、見捨てたりしません。それが誠実であるということです。今週、粟倉兄と石黒姉の結婚式が行われますが、結婚生活において最も重要なのはこれです。すべてを我慢し、すべてを信じ、すべてを期待し、すべてを耐え忍びます。愛は、決して絶えることはありません。それは、このヘッセドに基づいているからです。私たちがヘッセドなのではなく、神がヘッセドなのです。私たちは真実でなくても、神は真実なのです。どんなことがあっても決してあなたを裏切ったりはしません。
ここでは、その永遠に変わることがない神の愛が、イスラエル民の移り気と対比されています。そして主は、その契約に基づく愛を神の民であるイスラエルに、そして私たちに求めておられるのです。それは決して裏切らない愛、真実な愛です。知恵や力や富を求める人たちは、こうした恵みとか公正、正義といったものを疎かにする傾向があります。こうしたものを軽んじ、こうしたものに何の価値も見出そうとしないのです。こうしたものを捨ててまでも自分の知恵や、自分の強さ、自分の富を求めようとするのです。でも私たちは、悟りを得て、主を知ることを求めなければなりません。主を知らなければ、恵みと公正と正義を行うことはできないからです。それは、主から出ているものなのです。だから、主がどのような方であるのかを知って初めて、私たちは契約に基づいた神の愛、神の恵みを知ることができるのです。主を知って初めて、公正とは何かを知ることができます。また、正義とは何かを知ることができるのです。そうでなければ、すべて自分勝手な愛と公正と正義になってしまいます。ですから、私たちは主を知ることを求めなければならないのです。主を知ることを誇りとしなければなりません。
預言者ホセアは、こう言っています。「わたしが喜びとするのは真実の愛。いけにえではない。全焼のささげ物よりむしろ、神を知ることである。」(ホセア6:6)。皆さん神様が喜びとするのは「真実な愛」です。いけにえではありません。形式的なささげもの、全焼のいけにえではないのです。神が求めておられるのは真実な愛です。この愛は、先ほどから述べている「ヘッセド」のことです。全焼のささげ物よりもむしろ、神を知ることを主はそれを喜ばれる。いったい私たちは何のためにきょうここに来たのでしょうか。それはただ全焼のささげものをささげるためではありません。ただ日曜日だから教会に行かなければならないと、しょうがなくて来たのではありません。そうではなく、神の御言葉を通して主がどのような方なのかを知り、その主と交わるために来たのです。そうでしょ?主がそれを喜ばれるからです。
イエス様はこう言われました。「永遠のいのちとは、唯一のまことの神であるあなたと、あなたが遣わされたイエス・キリストを知ることです。」(ヨハネ17:3)
皆さん、永遠のいのちとは何でしょうか。永遠のいのちとは、唯一まことの神と、その神が遣わされたイエス・キリストを知ることです。これが永遠のいのちです。この「知る」ということばは「ギノスコー」というギリシャ語ですが、これは前回もお話したように「ヤダー」というヘブル語と同じ意味の言葉です。主を知るということが、私たちが誇りとすべきもの、私たちの人生において目標にすべきものなのです。それは単に知的に知るということではなく、人格的に、体験的に深く知るということです。いったいあなたは何のために生きておられるのでしょうか。それは自分の知恵を誇るためではありません。自分の力、自分の富を誇るためでもないのです。それはむしろ、主を知るためです。主と人格的に交わりを持つためなのです。それが永遠のいのちです。永遠のいのちは、死んでからもたらされるものではありません。それは生きている今、この地上にあって体験することができるものです。それは唯一まことの神と、神が遣わされたイエス・キリストを知ることによってもたらされます。イエス・キリストのうちにあり、キリストと深く交わること、それが永遠のいのちです。主があなたとともにおられること、これほどすばらしい体験はありません。そしてこれは一時的なものではなく、永遠に続きます。だから、主を知ることは誇りなのです。それが一時的なものであり永続しないもの、滅んでしまうようなものならば、どうして誇りにすることができるでしょうか。それはただ空しいだけです。滅んでしまうもののために人生をかけることはできないでしょう。そのようなものを誇るとしたら、人生に何の意味があるでしょうしかし、それが永遠に続くものならば、永遠のいのちにつながるものならば、それこそ価値があります。それを誇りとすることは正しいことです。そのために人生を費やすのならば意味があるのです。
パウロはそのことを、ピリピ3:7~9でこう言っています。「しかし私は、自分にとって得であったこのようなすべてのものを、キリストのゆえに損と思うようになりました。8 それどころか、私の主であるキリスト・イエスを知っていることのすばらしさのゆえに、私はすべてを損と思っています。私はキリストのゆえにすべてを失いましたが、それらはちりあくただと考えています。それは、私がキリストを得て、9 キリストにある者と認められるようになるためです。私は律法による自分の義ではなく、キリストを信じることによる義、すなわち、信仰に基づいて神から与えられる義を持つのです。」
パウロは、自分にとって得であると思っていたこれらすべてのものを、キリストのゆえに損と思うようになりました。「これらすべてのもの」とは、肉において誇れるようなものすべて、ということです。たとえば、その前のところには、彼が、律法についてはパリサイ人と言っていますが、そのようなものです。彼はユダヤ教の中では超エリートに属する者でした。ユダヤの最高議会の議員の一人であったラビ・ガマリエルに師事し、そのガマリエルから、もう教えることは何もないと言わしめたほどの者です。パウロはユダヤ教の指導者の中でも最高峰の教師として君臨し、歴史に名を残すほどの人物だったのです。しかし、パウロはそのようなものを損と思うようになりました。いや、ちりあくたとさえ思うようになったのです。それは彼が復活のキリストに出会ったからです。出会ってしまった!と言ってもいいでしょう。そのキリストを知っていることのすばらしさのゆえに、もうそんな過去の栄光とか栄華などどうでもよくなってしまった。そんなものは全く色あせてしまいました。ちりあくただと考えるようになったのです。皆さん、「ちりあくた」ってなんだかご存知ですか。「ちりあくた」とは、ちりと、あくたのことです。広辞苑には、「値うちのないもの、つまらないものなどのたとえ。ごみくず。」とあります。ごみくずです。それまで自分が目指してきた知恵とか、力とか、富とか、そういったものはごみくずに思えたのです。復活の主イエスと出会い、その栄光の輝きを見たら、そうした自分の知恵、力、富などはすべて、ちりあくたたにしか見えなかったのです。それほどイエス・キリストに魅了されたということです。
あなたはどうでしょうか。それほどにイエス・キリストに魅了されているでしょうか。自分が今まで大事だと思って来たもの、これさえあれば、あれさえあればと思って来たもの、自分が頼りにしてきたもの、そうしたものが主イエスを知ってからはもうどうてもいいと思えるほど、キリストに魅了されているでしょうか。
パウロは、Ⅰコリント1:26~31で、このエレミヤ書9:24を引用してこう言っています。「26 兄弟たち、自分たちの召しのことを考えてみなさい。人間的に見れば知者は多くはなく、力ある者も多くはなく、身分の高い者も多くはありません。27 しかし神は、知恵ある者を恥じ入らせるために、この世の愚かな者を選び、強い者を恥じ入らせるために、この世の弱い者を選ばれました。28 有るものを無いものとするために、この世の取るに足りない者や見下されている者、すなわち無に等しい者を神は選ばれたのです。29 肉なる者がだれも神の御前で誇ることがないようにするためです。30 しかし、あなたがたは神によってキリスト・イエスのうちにあります。キリストは、私たちにとって神からの知恵、すなわち、義と聖と贖いになられました。31 「誇る者は主を誇れ」と書いてあるとおりになるためです。」(Ⅰコリント1:26-31)
これは旧約聖書だけのメッセージではありません。旧約聖書も新約聖書も含めて、聖書全体が私たちに語り掛けているメッセージなのです。人間的に見れば、私たちは本当に取るに足りない者です。しかし、神はこのように取るに足りない者や見下されている者、すなわち無に等しい者を選んでくださいました。何のために?それは、有るものを無いものとするためにです。肉なる者がだれも誇ることがないためです。しかし、私たちは神によってキリスト・イエスのうちにある者とされました。このキリスト・イエスこそ、私たちにとって神からの知恵、すなわち、義と聖と贖いになられました。ですから、パウロのように主がどのような方であるかを知っているなら、主だけを誇るようになります。もうすべては「ちりあくた」となるからです。
皆さんはどうでしょうか。皆さんは何を誇っていますか。まだこの世の知恵、力、富を誇りとしていますか。それらは「ちりあくた」です。主がどのような方であるかを知っているならば、です。ですから、私たちは主を知ることを求めなければなりません。主を知ることを、他のどんな活動よりも大切にしなければなりません。主を知ることを他の何よりも優先し、何よりも誇りとしなければならないのです。他のことで自慢してはなりません。それらは何も残らないからです。むしろ、主を知っていることのすばらしさを誇りとしてほしいと思います。まさに、「誇る者は主を誇れ」とあるとおりです。
私たちの人生には、時として、ユダの民が経験したような絶望的な瞬間がやって来ることもあるでしょう。でもそのような時、あなたは何を誇り、何に信頼すればいいのか。そのように時、私たちはキリスト・イエスのうちにあること、主なる神を知っていること誇り、その主に信頼しようではありませんか。