二かごのいちじく エレミヤ書24章1~10節二かごのいちじく 

聖書箇所:エレミヤ書24章1~10節(エレミヤ書講解説教46目)
タイトル:「二かごのいちじく」
エレミヤ書24章に入ります。今日は、「二かごのいちじく」というタイトルでお話します。いちじくはイスラエルを代表する木で、その葉と実を含め、聖書によく登場します。エレミヤはある時、主の神殿の前で、このいちじくの幻を見せられるのです。それは、二かごに盛られたいちじくでした。主はその幻を通して、当時のユダの民に大切な真理を語ろうとされたのです。それは、主のみこころに従う者を、主は初なりのいちじくのようにするということです。反対に、主のみこころに従わない者は、腐って、非常に悪いいちじくのようにするということです。
Ⅰ.エレミヤが見た幻(1-3)
まず、1~3節をご覧ください。「1 バビロンの王ネブカドネツァルが、ユダの王、エホヤキムの子エコンヤと、ユダの高官たち、職人、鍛冶をエルサレムから捕らえ移してバビロンに連れて行った後のこと、【主】は私にこのように示された。見よ、【主】の神殿の前に、二かごのいちじくが置かれていた。2 一つのかごにあるのは非常に良いいちじくで、初なりのいちじくの実のようであり、もう一つのかごにあるのは非常に悪いいちじくで、悪くて食べられないものであった。3 そのとき、【主】が私に、「エレミヤ、あなたは何を見ているのか」と言われたので、私は言った。「いちじくです。良いいちじくは非常に良く、悪いほうは非常に悪く、悪くて食べられないものです。」」
それは、バビロンの王ネブカドネツァルが、ユダの王、エコンヤ(エホヤキン)と、ユダの高官たち、職人、鍛冶をエルサレムから捕らえ移してバビロンに連れて行った後のことです。バビロン捕囚は、計3回にわたって行われました。一回目はB.C.605年です。この時、ネブカデネザルはエルサレムを完全に包囲し南ユダを属国としましたが、陥落させるまではいかず、多くのユダの民を捕虜としてバビロンに連れて行くことにとどまりました。この時、ダニエルと3人の友人たちも捕虜として連れて行かれることになります。二回目はB.C.597年です。この時、エゼキエルもバビロンに捕え移されます。そして三回目がB.C.586年です。これが最終的な捕囚です。この時、エルサレム神殿は完全に崩壊し、神殿も破壊されます。この24章の出来事は、その二回目の捕囚直後の出来事です。このとき、ユダの王、エコンヤと、ユダの高官たち、鍛冶職人といった技術者たちが、エルサレムに連れて行かれました。詳しいことはⅡ列王記24章に記されてありますが、かなり大がかりな捕囚だったようです。何といっても、この時ユダの王エコンヤ(エホヤキン)と、彼の母、彼の妻たち、その宦官たち、この国の主だった人々が、捕囚の民としてエルサレムからバビロンに連れて行かれたというのは大きかったと思います。それでネブカドネツァルは、エホヤキンのおじのゼデキヤをエホヤキンの代わりに王としたのです。そのゼデキヤはやがてネブカデネザルに反逆してクーデターを起こしますが失敗し、目をえぐり取られて殺されるという悲惨な結果を招くことになります。
ですから、この24章の出来事は、第二回目のバビロン捕囚直後の出来事なのです。その時、何がありましたか。主がエレミヤに一つの幻を示されました。それは、主の神殿の前に、二つのかごのいちじくが置かれてあったというものです。
一つのかごにあったのは非常に良いいちじくで、初なりのいちじくの実のようでした。初なりのいちじくというのは、とっても美味しくて、貴重で、高価ないちじくという意味です。イスラエルでは、いちじくは年2回に分けて収穫されます。1回は6月頃で、もう1回は8~9月頃です。ここには初なりのいちじくとありますから、6月頃に収穫されるいちじくのことです。これは本当に良いいちじくで、美味しく、非常に高価で貴重なものでした。
もう一つのかごにあったのは、非常に悪いいちじくでした。悪いというのは腐っていてという意味です。もう腐っていてとても食べられるものではありませんでした。これは2回目に収穫されるいちじくのことではなく、収穫されないでそのままいちじくの木に残されていたものです。収穫されてないでそのままにしておくとどうなるかというと、完熟して地面に落ちてしまいます。いちじくは繊細で傷みやすい果物なので、そのままにしておくとあっという間に腐ってしまうのです。ここで言われている非常に悪いいちじくとは、そのようないちじくのことです。それは非常に悪いもので、もう食べられなくなっていました。非常に対照的ないちじくが、二つのかごに盛ってありました。エレミヤはそのような幻を見たのです。いったいこれは何を表していたのでしょうか。
Ⅱ.良いいちじく(4-7)
まず良いいちじくから見ていきましょう。4~7節をご覧ください。「4 すると、私に次のような【主】のことばがあった。5 「イスラエルの神、【主】はこう言う。わたしは、この場所からカルデア人の地に送ったユダの捕囚の民を、この良いいちじくのように、良いものであると見なそう。6 わたしは、彼らを幸せにしようと彼らに目をかける。彼らをこの地に帰らせ、建て直して、壊すことなく、植えて、引き抜くことはない。7 わたしは、わたしが【主】であることを知る心を彼らに与える。彼らはわたしの民となり、わたしは彼らの神となる。彼らが心のすべてをもってわたしに立ち返るからである。」
主はこう言われました。「わたしは、この場所からカルデア人の地に送ったユダの捕囚の民を、この良いいちじくのように、良いものであると見なそう。」(5)
「カルデア人」とは「バビロン人」のことです。ですから、ユダの捕囚の民とはバビロン捕囚となった民のことを指しています。その民を良いいちじくのようにしよう、良いものであると見なそうというのです。つまり良いいちじくとは、バビロンへ捕え移された捕囚の民のことを表していたのです。これは不思議なことです。なぜなら、彼らはバビロンによって侵略され、みじめにも降伏して、捕虜となっていたからです。どう見たってみじめです。それなのに主は、そんな者を良いいちじくのように、初なりのいちじくのように見なそうと言われたのです。ちょっとピンときません。合点がいかないという方もおられるでしょう。いったいどうしてそれが良いいちじくなのか。逆じゃないですか。敵に敗れ、捕虜として連れて行かれ、奴隷として生きなければならないとしたら、それこそ腐ったいちじくのようなものです。かつては良かったかもしれません。しかし、今は地面に落ちて腐ってしまい、とても食べることなどできなくなった悪いいちじくのようです。イメージとしてはこっちの方がピッタリくると思います。でも、神はそうじゃないとおっしゃられました。バビロン捕囚として連れて行かれたユダの民こそ良いいちじくであると言われたのです。これは人間的な物の見方、考え方と全く逆です。
聖書を読んでいるとこういうことが往々にしてあります。たとえば、イエス様は山上の説教の冒頭でこう言われました。「心の貧しい者は幸いです。天の御国はその人のものだからです。」(マタイ5:3)不思議なことばですね。心が豊かな者、心が満ちている者は幸いですというのならわかりやすいのですが、心の貧しい者は幸いですと言われたのです。それは勿論心の卑しい人とか心の狭い人のことではありません。神様の前に自分の霊的貧しさを知っている人、すなわち、自分の心の貧しさを正直に認め、心が砕かれた人のことを指しています。神様が忌み嫌われるリストが聖書の中にあるのですが、その一番最初に来るのが高ぶる者、すなわち、傲慢さや高慢さです。自分の傲慢さを認めることは勇気が必要です。しかし、それを認めてへりくだる者にこそ、神様は本当の幸いを与えてくださるということなのですが、このように説明されると「あっ、そういうことですね」とわかりやすいのですが、そうでないと「えっ」と首をかしげたくなります。このように聖書の中には、神様の驚くべき物の捉え方というか考え方、価値観が、いたるところに記されてあるのです。
ここもそうです。敵の攻撃に敗れ、捕虜として、捕囚の民として連れて行かれたら不幸なはずなのに、神の目ではそういう人が幸いであって、良いいちじくのようだ、というのです。いったいどうしてそれが良いいちじくのようなのでしょうか。
第一に、それが神のみこころだったからです。5節にこうあります。「わたしは、この場所からカルデア人の地に送ったユダの捕囚の民を、この良いいちじくのように、良いものであると見なそう。」
確かに彼らは神に背き、悔い改めなかったので、バビロンに捕え移されるという懲らしめを受けることになりましたが、神のご計画はそれで終わりませんでした。そのことを通して彼らをもっと良いものにしようと考えておられたのです。そのことは、既に21:8-10で語られていたことでした。「8 「あなたは、この民に言え。『【主】はこう言われる。見よ、わたしはあなたがたの前に、いのちの道と死の道を置く。9 この都にとどまる者は、剣と飢饉と疫病によって死ぬ。出て行ってあなたがたを囲んでいるカルデア人に降伏する者は生き、自分のいのちを戦勝品として得る。「10 なぜなら、わたしがこの都に顔を向けるのは、幸いのためではなく、わざわいのためだからだ──【主】のことば──。この都は、バビロンの王の手に渡され、彼はこれを火で焼く。』」
ここで主は彼らの前にいのちの道と死の道を置くと言われました。いのちの道とは、捕囚の民としてバビロンに行くことです。逆に死の道とは、エルサレムにとどまることでした。最後まで徹底抗戦してバビロンと戦い、エルサレムに留まることです。一見最後までとどまって戦った方がいのちの道のようですが、そうではなく、それは死の道を選択することでした。なぜなら、彼らがバビロンの捕虜として連れて行かれることが神のみこころだったからです。神のみこころに従うことがいのちの道です。逆に従わないことが死の道です。彼らが神のことばに従わなかったので神はバビロンという国を用いて彼らを懲らしめようとされたのです。それが神のみこころだったのです。まさにヘブル12:11にある通りです。「すべての訓練は、そのときは喜ばしいものではなく、かえって苦しく思われるものですが、後になると、これによって鍛えられた人々に、義という平安の実を結ばせます。」で言われていることです。」
神のみこころは彼らを滅ぼすことではなく、彼らを良いものにすることだったのです。そのためには訓練が必要でした。それがバビロン捕囚だったのです。それは神からの訓練、神からの懲らしめだったのです。その懲らしめを通して神は彼らを良いものにしようとされたのです。それは彼らにとっては喜ばしいものではなく、かえって苦々しく思えることでしたが、しかし後になると、これによって鍛えられた人たちに、義という平安の実を結ばせることになるのです。
これが神のご計画でした。ですからバビロンによって捕囚の民として連れて行かれることは悲惨なようですが、実際はその逆で、そのことによって彼らは鍛えられ、もっと良いものにされたのです。初なりのいちじくのように。
第二のことは、彼らがバビロンに捕え移されても、それで終わりではなかったからです。主はやがて彼らを約束の地に帰らせ、その国を永遠に確立すると約束されました。6節にこうあります。「わたしは、彼らを幸せにしようと彼らに目をかける。彼らをこの地に帰らせ、建て直して、壊すことなく、植えて、引き抜くことはない。」(6)
何とすばらしい約束でしょうか。ここで主は彼らを幸せにしようと彼らに目をかけると言われました。どういうことでしょうか。彼らを幸せにするために懲らしめを与えるということです。そうです。バビロン捕囚は、彼らに対する神の懲らしめだったのです。彼らを痛めつけるために懲らしめるのではありません。彼らを幸せにするために、彼らを良いものにするための懲らしめです。その幸せとは何というと、彼らをこの地に帰らせ、立て直し、壊すことなく、飢えて、引き抜くことはないということです。すなわち、イスラエルは永遠に堅く立てられるということです。そのためにはこのバビロン捕囚が必要だったのです。これは、彼らがバビロンに連れて行かれてから70年後にそこから解放されるということを通して実現しますが、そればかりではなく、世の終わりにおいて全面的に成就することになります。事実、今でもこれが実現しています。世界中に散らされたユダヤ人が、約束の地に戻って来ているのです。1948年にはイスラエルが国として独立しました。そういう神様の深いご計画があったのです。
第三に、このバビロン捕囚という出来事を通して、神様は彼らに主こそ神であるということを知る心を与えるからです。彼らが心を尽くして主に立ち返るためです。7節にこうあります。「わたしは、わたしが【主】であることを知る心を彼らに与える。彼らはわたしの民となり、わたしは彼らの神となる。彼らが心のすべてをもってわたしに立ち返るからである。」
これもすばらしい約束です。私たちが主を知ることができるのは、主が、ご自身を知る心を与えくださるからです。そうでなければ、主を知ることはできません。というのは、この「知る」という語は単に頭で知るということ以上のことだからです。これはヘブル語で「ヤダー」という語であることは何度も言っていますが、これは深く知るという意味です。単に知識で知るという以上のことで、人格的に知るということです。それは主がそのような心を与えてくださって初めてできることです。そしてこの神を知ることこそ、永遠のいのちそのものなのです。
ヨハネ17:3をご覧ください。ここにはこうあります。「永遠のいのちとは、唯一のまことの神であるあなたと、あなたが遣わされたイエス・キリストを知ることです。」
皆さん、永遠のいのちとは何ですか。ここには、永遠のいのちとは、唯一まことの神であるあなたと、あなたが遣わされたイエス・キリストを知ることです、とあります。神を知ること、イエス・キリストを知ることが永遠のいのちです。ですから、主を知る心をいただくということは、永遠のいのちをいただくということ、すなわち、救いをいただくということなのです。神との回復をいただくということ、神の子としていただくということです。失われていた神との関係を回復し、神との親しい交わりの中にいれていただくことなのです。
Ⅰヨハネ5:20にはこうあります。「また、神の御子が来て、真実な方を知る理解力を私たちに与えてくださったことも、知っています。私たちは真実な方のうちに、その御子イエス・キリストのうちにいるのです。この方こそ、まことの神、永遠のいのちです。」
イエス・キリストこそ、まことの神、永遠のいのちです。私たちはどうやってそれを知ることができたのでしょうか。それは神の御子イエス・キリストが来て、真実な方を知る理解力を与えてくださることによってです。自分の力で知ることはできません。自分の力で永遠のいのちを獲得することはできないのです。神がこの心を与えてくれない限り知ることはできません。逆に言うと、どんなに聖書がわからない人でも、神様がこの心を与えてくださるならだれでも知ることができます。だれでも救われるのです。だから、聖書の教える救いは神の恵みでしかないわけです。
それを、自らの罪の結果バビロン捕囚という憂き目にあった彼らに与えられたのです。彼らにはそんな資格はありませんでした。自分の力では主を知ることなんて全くできなかったのに、バビロン捕囚という出来事を通して彼らにその心が与えられたのです。それは恵みではないでしょうか。
このように、絶望的に見えるバビロン捕囚は、かえって主に目をかけられ、信仰が立て直されるきっかけとなったのです。人の目には悪く見えても、捕囚という試練、懲らしめは主から見ると「良いいちじく」なのです。それはまさしくイザヤ書55:8~9で言われていることです。ご一緒に読みましょう。
「わたしの思いは、あなたがたの思いと異なり、あなたがたの道は、わたしの道と異なるからだ。──【主】のことば──天が地よりも高いように、わたしの道は、あなたがたの道よりも高く、わたしの思いは、あなたがたの思いよりも高い。」
当時、大部分の人は、幸いなのはエルサレムに残った人たちであると思ったことでしょう。しかし、神の思いは異なっていました。神の思いは全く逆だったのです。神のみこころは、神のことばを信じて、バビロンの捕囚の民としてエルサレムからカルデア人の地、すなわちバビロンに捕え移されることだったのです。天が地よりも高いように、わたしの道は、あなたがたの道よりも高く、わたしの思いは、あなたがたの思いよりも高い。であれば、私たちがどう思うか、どう考えるかということではなく、神の思いは何なのかを知り、それに従うことこそ幸いな道であり、良いいちじくとなるということがわかります。
それは私たちにも言えることです。一見、悪いと思える出来事が良き導きのきっかけとなる場合があります。逆に、見せかけの平安や幸せが、悲劇につながることもあるのです。ですから、私たちは目先の結果に揺さぶられることなく、「すべてのことを働かせて益としてくださる主」に信頼し、主のみこころに歩まなければなりません。
Ⅲ.悪いいちじく(8-10)
最後に、悪いいちじくを見て終わりたいと思います。8~10節をご覧ください。「8 しかし、悪くて食べられないあの悪いいちじくのように──まことに【主】は言われる──わたしはユダの王ゼデキヤと、その高官たち、エルサレムの残りの者と、この地に残されている者、およびエジプトの地に住んでいる者を、このようにする。9 わたしは彼らを、地のすべての王国にとって、おののきのもと、悪しきものとする。また、わたしが追い散らす、すべての場所で、そしりと嘲りの的、物笑いの種、ののしりの的とする。10 わたしは彼らのうちに、剣と飢饉と疫病を送り、彼らとその先祖に与えた地から彼らを滅ぼし尽くす。」」
ここには悪くて食べられない、悪いいちじくについて言及されています。それは南ユダ王国の最後の王であるゼデキヤをはじめとする、エルサレムに残った人たちのことを指しています。ゼデキヤについては先ほども述べたように、エホンヤ(エホヤキン)がバビロンに連れて行かれた後、バビロンの王ネブカデネザルによって擁立された王です。彼が南ユダ最後の王となります。彼は本来バビロンのパペット、操り人形にすぎませんでしたが、後にバビロンに反旗を翻しクーデターを起こしました。しかしその結果、ネブカドネツァルに殺されることになります。目の前で息子が虐殺され、その目をえぐり取られたのです。ですから、彼が最後に見たものは、息子が虐殺されるというシーンでした。何とも惨めな死に方です。その前にバビロンに捕えられ、幽閉されたエコンヤ、エホヤキンとは大違いです。いったいなぜ彼はこんな惨めに死んで行ったのでしょうか。神のみこころに従わなかったからです。神のみこころは、彼らがバビロン捕囚として懲らしめを受けることだったのに、それをしなかったからです。
一方、その前にバビロンに連れて行かれたエコンヤはどうなったでしょうか。22:30では、彼は「子を残さず、一生栄えない男」と記録せよ、とのろいを宣告されたにもかかわらず、バビロンに移されてから37年目に、バビロンの王エビル・メロダクによって牢獄から呼び出され、優しいことばをかけられ、バビロンで彼とともにいた王たちの位よりも高くされます。彼は囚人の服を脱ぎ、その一生の間、いつも主の前で食事をすることが許されたのです。彼の生活費はその日々の分を、一生の間、いつも王から支給されました(Ⅰ列王記25:27-30)。

いったいこの差はどこから生じたのでしょうか。それは、神のみこころに従ったかどうかという一点です。エコンヤも決して敬虔な王ではありませんでした。でもバビロン捕囚に素直に従ったので、彼は後に良いいちじくに、良いものに変えられたのです。そして、このエコンヤの子孫にイエスの養父ヨセフが生まれることになります。エコンヤの息子たちは王位に就くことはありませんでしたが、でも彼らはバビロン捕囚によって殺されることなく、投獄されましたが最後は良い目に遭いました。一生奴隷のように扱われて、獣のように鎖につながれて惨めに檻の中で死んで行ったのではなく、そこから出されて再び王宮に住むことが許されたのです。大どんでん返しが起こったのです。なぜでしょうか。それは6節にあるように、主が彼を幸せにしようと、良いものにしようと目をかけてくださったからです。彼は悔しいけれども従いました。納得いかなかったけれども従いました。神の希望の約束があったから。その先が見えていたからです。
皆さん、神のみこころは物事が順調に行くこととは限りません。神のみこころは、目の前の困難に常に勝利し続けるということとは限りません。神のみこころは、時に敗北したかのように見えることもあり得るのです。でも神のみこころなら、それが勝利につながるという大どんでん返しが起こり得るのです。
ですから、結論はこれです。Ⅰペテロ5:5~7を開いてください。ご一緒に読みましょう。「「神は高ぶる者には敵対し、へりくだった者には恵みを与えられる」のです。ですから、あなたがたは神の力強い御手の下にへりくだりなさい。神は、ちょうど良い時に、あなたがたを高く上げてくださいます。あなたがたの思い煩いを、いっさい神にゆだねなさい。神があなたがたのことを心配してくださるからです。」
神は高ぶる者には敵対し、へりくだる者には恵みを与えられます。神のみこころはバビロンに捕虜として連れて行かれることなのに、そんなの嫌だと、自分たちの知恵と力で最後まで抵抗した人たちは腐って食べられない悪いいちじくになってしまいました。一方、へりくだる者には恵みを与えてくださいます。バビロン捕囚は、神が繰り返し警告しておられたことなのに、それを受け入れないで自分勝手に歩んだ結果がこれ。今さらジタバタしても無駄なこと。むしろ、このバビロン捕囚を招いてしまった自分たちの罪を嘆き、本当に神に申し訳ないことをしてしまった。この屈辱を、この悔しさを、この涙を、この苦しみを、この悲しみを、この痛みを甘んじて受けよう。これがへりくだる者の姿です。そして、このようにへりくだる者に、神は恵みを与えてくださいます。彼らを幸せにしようと彼らに目をかけてくださり、良いいちじくに、初なりの最高のいちじくにしてくださるのです。
ですから、私たちに求められていることは、神の力強い御手の下にへりくだることです。そうすれば、ちょうど良い時に神が高くしてくださいます。たとえあなたが承服できなくても、たとえあなたが納得できなくても、たとえ屈辱的な扱いを受けたとしても、たとえすべてを失うことがあったとしても、たとえどんな悲しみに落ちようと、主は良いものにしてくださるという約束を信じて、力強い神の御手の下にへりくだらなければならないのです。多くの場合、納得がいかないと神に従がおうとしません。すべてを失うのは嫌です。でもそれが神のみこころなら、たとえ納得できなくても、たとえ理解することができなくても、たとえ悔しくても、それでも従わなければならないのです。その向こうに希望があるからです。
皆さん、私たちの前には常に二者択一の選択が置かれています。いのちの道を選ぶか死の道を選ぶか、初なりの非常に良いいちじくになるかそれとも、腐って食べられない悪いいちじくになるのかです。バビロンに降伏することは大変屈辱的なことのようですが、それが神のみこころならやがて良いいちじくとなるのです。なぜなら、主があなたを幸せにしようとあなたに目をかけておられるからです。この力強い主の御手の下にへりくだり、主のみこころに従いましょう。あなたにも初なりの良いいちじくのように、良いものであると見なしていただこうではありませんか。