新しい契約 エレミヤ書31章31~34節 

2024年6月2日(日)礼拝メッセージ
聖書箇所:エレミヤ書31章31~34節(旧約P1351、エレミヤ書講解説教59回目)
タイトル:「新しい契約」
きょうは、エレミヤ書全体の中心部である31章の中の、さらに中心テーマの一つである「新しい契約」についてお話します。31節をご覧ください。ここには、「見よ、その時代が来る──【主】のことば──。そのとき、わたしはイスラエルの家およびユダの家と、新しい契約を結ぶ。」とあります。「その時代」という語は、未来のこと、特に世の終わりのことを預言している時に用いられている語です。エレミヤ書の中では、この語が用いられるのはこれで8回目ですが、ここでも終末の預言が語られているわけです。それはどんなことでしょうか。それは、そのとき、主はイスラエルの家およびユダの家と、新しい契約を結ぶということです。どういうことでしょうか。きょうは、この新しい契約についてお話したいと思います。
Ⅰ.古い契約(31-32)
まず第一に、それは古い契約とは違うということです。32節をご覧ください。「32 その契約は、わたしが彼らの先祖の手を取って、エジプトの地から導き出した日に、彼らと結んだ契約のようではない。わたしは彼らの主であったのに、彼らはわたしの契約を破った──【主】のことば──。」
ここには、主がイスラエルの民と結ばれる新しい契約がどのようなものなのかが説明されています。それは、主が彼らの先祖たちの手を取って、エジプトの地から導き出した日に、彼らと結んだ契約のようなものではありません。それは古い契約のことです。古い契約とは、広い意味では旧約聖書全体を指しますが、狭い意味では、主がイスラエルをエジプトの地から導いた日に、モーセを通して、モーセを仲介者として、主が彼ら結ばれた契約のことです。これはシナイ山で結ばれたので「シナイ契約」とも呼ばれています。それはこのようなものでした。出エジプト19章5節を開いてください。「今、もしあなたがたが確かにわたしの声に聞き従い、わたしの契約を守るなら、あなたがたはあらゆる民族の中にあって、わたしの宝となる。全世界はわたしのものであるから。」
これがシナイ契約の中心です。つまり、もしイスラエルが神の声に聞き従い、神との契約を守り行うなら、彼らはあらゆる民族の中にあって、主の宝の民とされるということ、つまり、彼らは祝福されるということです。しかし、そうでなければ、その反対に呪いがもたらされるというものです。実際どうなったでしょうか。ご存知の通り、彼らは神様との契約を破ってしまいました。もしかしたら最初は守れたのかもしれませんが、いつの間にか守れなくなってしまい、ついには守っていないにもかかわらず、自分たちは守っていると錯覚するようになってしまいました。なぜそのようなことになってしまったのでしょうか。それは彼らの心に原因がありました。心がついていかなかったからです。頭ではわかっていても、心では守りたくなかったのです。つまり、彼らにはそれを実行する力が備えられていなかったのです。これが古い契約の弱点だったのです。でも、それでは困るわけです。なぜなら、もし彼らが契約を破り彼らに呪いがもたらされたら、神様の計画が頓挫してしまうことになるからです。神様の計画とは、イスラエルを通して全世界を救うことでした。それなのにイスラエルが滅びてしったら、その計画が成し遂げられなくなってしまいます。
ここに神のジレンマがありました。契約は守らなければなりません。もし守られなければ、神様ご自身が不真実な者となってしまうからです。でも神は真実であられます。イスラエルが不真実であっても、神は常に真実であられるからです。神はご自身を偽ることはできません。ではどうしたら彼らを救うことができるのでしょうか。それが新しい契約です。神様はご自身との契約を破ったイスラエルに対して、古い契約ではなく新しい契約を結ぶという仰天プランを立てられたのです。
Ⅱ.新しい契約(33)
それはどのようなものでしょうか。33節をご覧ください。「これらの日の後に、わたしがイスラエルの家と結ぶ契約はこうである──【主】のことば──。わたしは、わたしの律法を彼らのただ中に置き、彼らの心にこれを書き記す。わたしは彼らの神となり、彼らはわたしの民となる。」
新しい契約の最も大きな特徴は、主はご自身の律法を彼らのただ中に置き、彼らの心に書き記すということです。モーセによって結ばれた古い契約はそうではありませんでした。それは2枚の石の板に書き記されたわけですが、新しい契約は彼らの心に書き記されるのです。どういうことでしょうか。それは強制的に神との契約を守らなければならないというのではなく、自ら進んで守りたいという思いを授けてくださるということです。神様に従わなければならないというのではなく、従わずにはいられなくなるのです。それが新しい契約の中身です。これが新約聖書の内容です。
ちなみに、私たちが持っている聖書は旧約聖書と新約聖書の両方を含んでいますが、この違いは何かというと、これなんです。「旧約聖書」ということばを聞くと、中にはどうしてこんな面倒くさいことが書いてあるんだろうと思われる方もいらっしゃると思いますが、旧約聖書が破棄されたわけではないのです。取り払われたわけではありません。神の律法がどこに書かれたのか、それが石の板なのか、心の中なのかの違いです。石の板に書かれたものは強制的に守らなければなりませんが、心に書き記されると守らずにはいられなくなるのです。いやむしろ、古い契約、旧約聖書があるからこそ自分の弱さ、自分の罪深さ、自分の愚かさに気付かされ、そこからの救いをより求めるようになるのです。そういう意味では、パウロも言っているように、「律法は私たちをキリストへ導くための養育係」であると言えます。パウロはガラテヤ3章24節でこう言っています。「律法は私たちをキリストへ導くための私たちの養育係になりました。私たちが信仰によって義と認められるためなのです。」(ガラテヤ3:24)神様はこの古い契約を生かしつつ、その教えを行うことができるように、神のみこころにかなった行動ができるようにしてくださったのです。それが救い主イエス・キリストです。ですから、旧約聖書と新約聖書は切り離すことはできないのです。神はモーセを通してイスラエルとの古い契約を石の板に書き記されましたが、新しい契約はその古い契約(旧約聖書)が預言しているメシア(救い主)、キリストを通して、彼らの心に書き記されるのです。
これは具体的にどういうことかというと、救い主イエスを通して私たちの心の中に聖霊を与えてくださるということです。聖霊についてはヨハネ14章16節に「もうひとりの助け主」とあるように、イエスのように私たちを助けてくださるお方です。全く自分勝手な者がもっと神様を愛したい、もっと神のために生きる者でありたい、もっと聖書を読みたい、もっと祈りたい、そう思うのは、この聖霊のお働きによるのです。イエスは、敵を愛し、迫害する者のために祈りなさい、と言われましたが、普通なら無理な話です。でも聖霊が与えられるとそのようにしたいと思うようになるのです。なぜなら、この方が来ると、すべての真理に導いてくださるからです。神様のみことばに従うことができるように、神様のみこころに歩めるように導いてくださるのです。それが心に書き記されるということです。であれば、問題は、どうすればこの神の聖霊を受けることができるのかということです。どうしたら聖霊が私たちの心の中に住んでくださるのかということです。
残念ながら、聖霊はその名のごとく全くきよいお方なので、人間のように汚れた心に住むことはできません。聖霊は汚れと同居することができないからです。聖霊が私たちの心の中に住まわれるためには、私たちの心が完全にきよくなければならないのです。とは言っても、私たちが人間である以上完全にきよくなることなどできません。エレミヤ書17章9節には「人の心は何よりもねじ曲がっている。」とあるように、人の心は何よりも陰険なのです。また、ローマ書には、「義人はいない。一人もいない。悟る者はいない。神を求める者はいない。すべての者が離れて行き、だれもかれも無用の者となった。善を行う者はいない。だれ一人いない。」(ローマ3:10-12)とあります。であれば、私たちはみんなアウトです。こんな汚れた者の心に聖霊が住んでくださることなどできないのです。
しかし、私たちにできないことを神はしてくださいました。神はそのひとり子(イエス)をこの世に与え、私たちが負わなければならない罪の代価を彼に負わせ、私たちの罪を贖ってくださいました。それが十字架での死です。死がなければ命を贖うことができないからです。レビ記17章11節にこうあります。「いのちとして宥めを行うのは血である。」。いのちとして宥めを行うのは血です。血が流されることがなければ罪の赦しはありません。ですから、神はひとり子をこの世に送り、古い契約違反の責めを私たちにではなくキリストに負わせることによって、私たちを律法の呪いから解放してくださったのです。ですから、だれでもキリストを自分の罪からの救い主として信じるならその人の心は完全にきよめられ、聖霊が住んでくださるのです。この聖霊の助けによって、私たちは喜んで神のみこころに歩みたい、神に喜ばれる人生を歩みたいと思うようになるのです。つまり、この新しい契約はイエス・キリストの十字架と復活という一方的な神の恵みによってもたらされる契約なのです。
そのためにあなたがしなければならないことは何一つありません。あなたが罪から救われ、聖霊があなたの心に住んでくださるための唯一の条件は、あなたのために十字架で死なれ、三日目によみがえられたイエスを、あなたの罪からの救い主と信じるだけなのです。もしあなたの口でイエスを主と告白し、あなたの心で神はイエスを死者の中からよみがえらせたと信じるなら、あなたは救われるからです。(ローマ10:10)
その時、あなたはもはや自分でこうしなければならないとか、ああしなければならないという律法に捉われることから解放され、聖霊が導いてくださる通りに、聖霊が教えてくださる通りに、聖霊の助けによって喜んで神に従うことができるようになります。これがクリスチャンです。これが新訳聖書の中身なのです。クリスチャンとは、もはやああしなければならないとか、こうしなければならないという律法から解放されて、聖霊によって喜んで神の律法に従いたいと思う人たちなのです。聖書の原則から言えばそうです。それが本当に救われている人たちです。もしそうでないという人がいるとしたら、その人は新しい契約とはどのようなものなのかをまだよく理解していないか、それとも古い契約に縛られて神の恵みの豊かさを享受していないかのいずれかです。
それはまたエレミヤ31章3節のみことばに対する応答でもあります。ご一緒に読んでみましょう。「【主】は遠くから私に現れた。「永遠の愛をもって、わたしはあなたを愛した。それゆえ、わたしはあなたに真実の愛を尽くし続けた。」」
 神は永遠の愛をもってあなたを愛してくださいました。これだけの愛で愛されているのであれば、ひとり子を与えるほどの愛で愛されているのであれば、もう感動で、ただただ感謝しかないはずです。そして喜んでその愛に応答したいと思うようになるでしょう。教会に行かなければならないとか、聖書を読まなければならない、祈らなければならない、献金しなければならない、奉仕もしなければ、ディボーションもしなければといった律法的、義務的なことはもうどうでもよくなるはずです。喜んでその愛に応答したいと思うようになるからです。教会に行きたくて、行きたくて、しょうがない。もっと聖書を読みたい、もっと祈りたい、もっと自分にできることがあれば喜んで奉仕したい。十分の一とは言わず、自分のすべてを献げたいと思うようになるからです。
かつて私が福島で牧会していた時、同じ福島県の浜通りで牧会しておられ佐藤彰先生からお聞きした話ですが、その教会に70歳を過ぎた信仰に熱心な婦人の方がおられました。確か半谷さんというお名前だったかと思いますが、半谷さんはある日娘さんを仙台の病院に連れて行くため電車に乗ったとき、たまたま向かい側に一人の宣教師が座っていて、その会話の中で「あなたは神を信じますか」と尋ねられたそうです。神を信じていますかって、信じていないわけじゃないし、信じているとも言えないし、何と答えたらいいか返答に迷いました。そんな悶々とした思いを抱えていた時、その町にある教会で3日間の伝道集会があるという看板を見ました。思い切って教会に行ってみると、そこでお話をされていたのがあの宣教師、ホレチョク先生でした。驚いた半谷さんは最初の夜だけでなく二日目、三日目も集会に行く中でイエス様を自分の罪からの救い主と信じることができました。
ところが、当時は耶蘇教と揶揄されていた時代です。しかも自分が嫁いだ先はお寺の総代を務めているような由緒ある家で、お姑さんから教会に行ってはいけないと言われ、仕方なく聖書は厠(トイレ)にはいって読んでいたそうです。でもそんな半谷さんの献身的な姿に心を打たれたご主人がやがてイエス様を信じて天国へ召されると、彼女は自分の生涯を主にささげ、ありとあらゆることをされました。礼拝では奏楽のご奉仕をし、週報を作成したり牧師の説教をまとめたりと、自分にできるだけのことをしました。そのために70歳を過ぎてからワープロを習い始めたそうです。その半谷さんに癌があることが判明し、牧師からあまり無理しないでくださいと言われたとき、牧師にこう言いました。「先生、私から奉仕を取り上げないでください。私は自分にできるだけのことをしたいのです」。これは、神の恵みを経験した人でないと言えないことばです。奉仕をしなければならないのでなく、させていただきたいのですと心から言えるとしたら、それは本物でしょう。彼女の心に働いておられる神の霊、聖霊の御業なのです。
その半谷さんがまだお元気なうち、彼女は教会から少し離れた小高町という町に広い土地を持っていたのですが、それを教会に献げたいと言われたそうです。息子さんたちはどう思われるか、家族で話し合いをもったところ、「母がそういうのなら、それが一番いいことだと思います」と息子さんたちも同意し、その土地を献げられました。そればかりか、そこに会堂を建てるために必要な資金のほとんどを献げたのです。そこには今ノアの箱舟の形をした会堂が立てられ、福音宣教の働きが続けられています。それは永遠の神の愛に感動し心を動かされた人が心からした奉仕だったのです。
実に神の働きは、こうした神の愛と恵みに触れた人たちがその愛に感動し、聖霊の働きに促されて勧められていくのです。神にすべてを献げたい。いくらでも献げられるだけ献げたい。それで自分の生活の質が落ちたとしても構わない。あなたの愛を受けているので、私は献げたいのです。人が何と言おうと関係ありません。私はそうしたいからするのです。それが教会というところです。聖霊が私たちの心に住むことをイエス様が実現してくださいました。私たちはただただこの新しい契約の仲介者であられるイエス様に目を向けて、イエス様の愛に心から応答する者でありたいと思うのです。
Ⅲ.神を知るようになる(34)
第三に、このように主がイスラエルと新しい契約を結んでくださることによって、どういうことが起こるのでしょうか。34節をご覧ください。「彼らはもはや、それぞれ隣人に、あるいはそれぞれ兄弟に、『【主】を知れ』と言って教えることはない。彼らがみな、身分の低い者から高い者まで、わたしを知るようになるからだ──【主】のことば──。わたしが彼らの不義を赦し、もはや彼らの罪を思い起こさないからだ。」。」
ここには、主がイスラエルと新しい契約を結ぶことによって二つのことが起こるとあります。第一のことは、彼らはもはや、それぞれ隣人に、あるいはそれぞれ兄弟に、「主を知れ」と言って教えることはありません。なぜなら、彼らはみな聖霊によって、身分の低い者から高い者まで、主を知るようになるからです。どういうことですか。老若男女、すべて神を個人的に人格的に知るようになるということです。それまではそうではありませんでした。石の板に書かれたものであれば、絶えず「主を知れ」と言って互いに教えなければなりません。私たちの外側にある規則によって半強制的に押し付けられなければ行動に移すことができなかったのです。たとえ行動に移したとしても、それはあくまでも表面的なものにすぎませんでした。でも聖霊が与えられ、聖霊が心に住まわれるようになるとそうではありません。喜んで主のことばに従いたいと思うようになるのです。旧約では人々は律法を守ることに集中しましたが、新約ではそうではありません。新約ではその律法を与えてくださった方、またそれを完全に成し遂げることができるお方、すなわち神を知ること、神と交わることに集中するのです。皆さん、これがクリスチャンにとってもっとも大切なことです。神を知るなら、それが自然と行動に表れるようになるからです。
第二のことは、主は彼らの不義を赦し、もはや罪を思い起こすことはなさいません。完全な赦しを与えるということです。完全な赦しを与えるということは、不完全な赦しもあるということです。不完全な赦しとは忘れない赦しです。赦すけど忘れません。私たちにはそういうことがあるのではないでしょうか。私はあなたを赦すけど忘れないからね!でも神の赦しは違います。神は彼らの罪を赦し、もはや彼らの罪を二度と思い起こすことはありません。あなたが過去においてどんな罪を犯したとしても、その罪を思い起こすことはないのです。すべて忘れてくださいます。認知症だからではありません。イエス・キリストの血潮によって流されて、父の記憶からすべて完全に消し去ってくださるのです。イザヤ43章25節にある通りです。「わたし、このわたしは、わたし自身のためにあなたの背きの罪をぬぐい去り、もうあなたの罪を思い出さない。」
ですから、もしあなたがイエスの血にすがって罪を認めて悔い改めるなら、神はあなたの不義を赦し、すべての悪からきよめてくださいます。もはやあなたの罪を思い起こすことはありません。その記憶から完全に消し去ってくださってくださるのです。もし悔い改めた翌日に同じ罪を犯してしまったらどうでしょう。その時にあなたが「ごめんなさい。またやってしまいました。赦してください。」と祈ったら、神は赦してくださいます。「またやったのか、とんでもないヤツだ。人生そんなに甘いもんじゃないよ。昨日は赦してやったけど、今日はだめだ。二度あることは三度あるからな」などとは言いません。もはやあなたの罪を思い起こすことはないからです。
カール・ヒルティーは、こう言っています。「赦すとは忘れることである。赦しはするが忘れないというのは、赦していないということなのである。」は赦すとは忘れることなのです。これが神の赦しです。神はこのような赦しを与えてくださるのです。
日本の有名な牧師の一人で、「ちいろば」の著者でもある榎本保朗先生はこう言っておられます。「自分が赦された存在であるということを忘れるところから、人を赦さないという行為が出てくるのである。」これを忘れてはいけません。忘れてもいいことは、人があなたに何をしたか、何を言ったかということです。でも忘れてはならないことは、自分が赦された存在であるということです。これだけは忘れてはいけません。これを忘れると私たちの中に赦さないとか、赦せないという気持ちが出てくるからです。でも、自分も赦された存在であるということがわかったら、人を赦すことができるようになります。
こうした赦しはキリストの十字架によってもたらされます。つまり、この新しい契約は、イエスが十字架で死なれ三日目によみがえられたという御業に基づく一方的な神の恵みの契約であるということです。私たちの罪が赦されるのは私たちのうちに神に認められる何かがあるからではありません。私たちが何かささげものをしたからとか、一生懸命に奉仕したからではなく、一方的な神の恵み、神のあわれみによるのです。すべては十字架のイエスに対して神様が約束されたことを実行してくださるのです。これが、神がイスラエルと約束された新しい契約です。これが、神があなたと約束してくださったことです。私たちもイエスの十字架において与えられたこの新しい契約に生きる者とさせていただきましょう。そして聖霊によって神がどれほど恵み深くあわれみ深い方なのかを知り、その恵みに生きる者でありたいと思います。