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いつも主を前に置いて エレミヤ書2章14~19節

聖書箇所:エレミヤ書2章14~19節(エレミヤ書講解説教4回目)

タイトル:「いつも主を前に置いて」

 新しい年を迎えました。この新しい年を、皆さんはどのような思いで迎えられたでしょうか。箴言4章23節に、「力の限り、見張って、あなたの心を見守れ。いのちの泉はこれからわく。」とあります。いのちの泉は私たちの心からわいてきます。ですから、力の限り、見張って、あなたの心を見守らなければなりません。新しい年も神の御言葉によって、心の井戸を深く掘っていきたいと思います。

この新年の礼拝で、主が私たちに与えておられる御言葉は、エレミヤ書2章14~19節の御言葉です。前回もお話したように、この2章には神から離れ偶像に走って行ったイスラエルの姿を、いくつかの比喩をもって語られています。1~8節までには不誠実な妻の姿を通して、また9~13節には、壊れた水溜のたとえをもって描かれてきました。

きょうのところには、奴隷としてのイスラエルの姿を通して語られています。イスラエルは奴隷なのか、それとも家に生まれたしもべなのか、ということです。だから、知り、見極めよ、と。何を見極めるのでしょうか。19節の後半にこうあります。「あなたがあなたの神、主を捨てて、わたしを恐れないのは、いかに苦いことかを。」主を捨てて、主を恐れないことは、いかに苦しいことであるのかを、です。すなわち、主を恐れないこと、主に信頼しないことが、いかに悪いことであり苦しいことであるかということです。このことを見極めなければなりません。この新しい年、私たちはこのことを見極め、真に主を恐れ、主に信頼して歩む年でありたいと思います。

 Ⅰ.イスラエルは奴隷なのか(14-16)

 まず14節から16節までをご覧ください。「14 イスラエルは奴隷なのか。それとも家に生まれたしもべなのか。なぜ、獲物にされたのか。15 若獅子は彼に向かって吼えたけり、うなり声をあげて、その地を荒れ果てさせる。その町々は焼かれて、住む者がいなくなる。16 メンフィスとタフパンヘスの子らも、あなたの頭の頂を剃り上げる。

 ここで預言者エレミヤは、イスラエルの背信がどのような結果を招くのかを語っています。イスラエルは神に背いた結果、どうなったでしょうか。14節には「イスラエルは奴隷なのか。それとも家に生まれたしもべなのか。」とあります。

当時、奴隷には二つの種類がありました。お金で買われて奴隷になった者と、奴隷の両親の間に生まれた、生まれながらの奴隷です。イスラエルは神の民として贖われた者ですから、自由な民であるはずです。まして生まれながらの奴隷であるはずがありません。それなのに、彼らの状態はもっと悪くなっていました。戦争によって捕虜となり、獲物として外国に連れ去られるような惨めな状態になっていたのです。どうしてこのようになったのでしょうか。いうまでもなく、彼らが自分の神を捨てて偶像に仕え、外交や武力によって自分たちの安全を保つことができると考えたからです。その結果、どうなったでしょうか。

 15節をご覧ください。「若獅子は彼に向かって吼えたけり、うなり声をあげて、その地を荒れ果てさせる。その町々は焼かれて、住む者がいなくなる。」

 「若獅子」とはライオンのことです。聖書では、イスラエルを荒らす敵の比喩としてしばしば用いられています。文脈によってそれはアッシリヤであったり、エジプトであったり、バビロンであったりしますが、ここではバビロンのことを指しています。バビロンがイスラエルに向かって吼えたけり、うなり声をあげて、その地を荒れ果てさせるというのです。その町々は焼かれて、住む者がいなくなります。エレミヤがこれを語った約40年後に、実際にこのことが起こります。バビロン捕囚という出来事です。B.C586年に、バビロンの王ネブカデネザルがエルサレムを攻め落とし、そこに住んでいた者たちを捕囚の民としてバビロンに連れて行きました。

それはバビロンだけではありません。エジプトもそうです。16節にある「メンフィスとタフパンヘス」は、ともにエジプトにある都市です。つまり、もし彼らがエジプトに保護を求めるなら、彼らがあなたの頭の頂を剃り上げるようになるというのです。ユダヤ人にとって髪を剃り上げることは、恥を見ること、悲しみに打ちひしがれることを表わしていました。イスラエルはせっかく神によって贖われ自由の民とされたのに、その神に背きメンフィスやタフパンスに助けを求めたことで、再び奴隷の状態に陥り獲物として外国に連れ去られるような惨めな状態になったのです。私たちもせっかく主イエス・キリストによって罪から解放され自由の民とされたのにその神に背くなら、若獅子の獲物にされてしまうことになります。頭の頂を剃り上げられることになるのです。

1ペテロ5章8節にこうあります。「身を慎み、目をさましていなさい。あなたがたの敵である悪魔が、ほえたける獅子のように、食い尽くすべきものを捜し求めながら、歩き回っています。」

ここでは、悪魔がほえたける獅子のようだと言われています。悪魔は、ほえたける獅子のように、食い尽くすべき獲物を捜し求めながら歩き回っています。だから、身を慎み、目をさましていなければなりません。そうでないと、当時のイスラエルのように若獅子の獲物にされてしまいます。頭の頂を剃り上げられてしまうことになるのです。そういうことがないように、身を慎み、目をさましていなければなりません。エレミヤは、かつてB.C.722年に北王国イスラエルがアッシリヤによって滅ぼされたことを思い起こしながら、南ユダ王国の人々に、注意しないとあなたがたもライオンの餌食にされてしまいますよ、と警告しているのです。

それは今を生きる私たちにも言えることです。注意しないと、私たちもライオンの餌食にされてしまいます。だから、身を慎み、目をさましていなければなりません。自分は大丈夫と思っている人ほど危ない人です。悪魔なんてやっつけてやるという人ほど簡単にコロリとやられてしまいます。私たちは若獅子の餌食にならないように身を慎み、目をさましていなければなりません。

Ⅱ.なぜ、獲物にされたのか(17~19a)

いったい彼らの問題は何だったのでしょうか。なぜ彼らは若獅子の獲物にされてしまったのでしょうか。次にその理由について考えたいと思います。17~19節前半をご覧ください。「17 あなたの神、主があなたに道を進ませたとき、あなたが主を捨てたために、このことがあなたに起こったのではないか。18 今、ナイル川の水を飲みにエジプトへの道に向かうとは、いったいどうしたことか。大河の水を飲みにアッシリヤへの道に向かうとは、いったいどうしたことか。「あなたの悪があなたを懲らしめ、あなたの背信があなたを責める。」

いったいなぜ彼らは獲物にされてしまったのでしょうか。それは彼らが主を捨てたからです。彼らの神、主が彼らに道を進ませたとき、彼らが主を捨てたので、このようになったのです。どうしてナイル川の水を飲みにエジプトへ向かうのでしょうか。どうして大河ユーフラテス川の水を飲みにアッシリヤへ向かうのでしょうか。それは彼らが自分たちの神、主に助けを求めないで、エジプトやアッシリヤに助けを求めたからです。その悪が彼らを懲らしめ、彼らの背信が彼らを責めたのです。

私たちも、そういうことがあるのではないでしょうか。聖書ではエジプトはこの世の象徴として描かれています。また、アッシリヤは超大国の象徴として描かれています。私たちもイエス様を信じていてもにっちもさっちもいかなくなると、目に見えるこの世のもので安心を得ようとすることがあります。しかし、そのような水をいくら飲んでもまた渇くと、イエス様は教えてくださいました。「この水を飲む人はみな、また渇きます。しかし、わたしが与える水を飲む人は、いつまでも決して渇くことがありません。わたしが与える水は、その人の内で泉となり、永遠のいのちへの水が湧き出ます。」(ヨハネ4:13-14)

また使徒パウロは、そうした頼りにならないものに望みを置かないようにと警告しています。むしろ、私たちにすべての物を豊かに与えて楽しませてくださる神に望みを置くように、と(1テモテ6:17)。そのようなものに望みをおくと、結局のところ、裏切られてしまうことになります。皆さんもそういう経験があるでしょう。

実際、イスラエルの王であったヨシヤ王も、この後B.C.609年にエジプトに攻め込まれて死んでしまうことになります。メギドの戦いです。エレミヤがこれを警告したのはB.C.627年のことですから、実に18年後のことになります。彼らはエジプトに助けを求めたのに、そのエジプトによって滅ぼされてしまうのです。まさに、頭の頂を剃り上げられたのです。その後、新興国であるバビロン帝国が台頭して来て、エジプトも、アッシリヤも、そしてこの南ユダ王国も滅ぼされしまうことになります。そして、バビロンの奴隷として、捕囚の民としてバビロンに連れて行かれることになるのです。どんなにエジプトを頼っても、どんなにアッシリヤを頼っても、そうしたものは何の助けにもならないのです。

預言者イザヤは、そんなイスラエルの姿を短い毛布にたとえてこう言いました。「寝床は、身を伸ばすには短すぎ、毛布も、身をくるむには狭すぎるようになる。」(イザヤ28:20)皆さん、わかりますか。エジプトという寝床は、身を伸ばして寝るには短すぎます。アッシリヤという毛布は、身をくるむには狭すぎるのです。私の妻はいつも毛布に身をくるんで寝ていますが、見ると足がベッドからはみ出しています。背中には毛布がかかっていません。短じかすぎるのです。狭すぎるのです。そのようなものは安全のための何の保障にもなりません。それなのに、どうしてエジプトやアッシリヤへの道に向かうのでしょうか。どうして主なる神に背を向けて、この世に向かって走って行くのでしょうか。

あなたがこの世に向かって走るなら、結果的に神に背を向けることになります。その結果、懲らしめや責めを受けることになるのです。勿論、それはこの世を捨てるということではありません。この世を憎むということでもありません。神はこの世を愛されました。神は一人も滅びることなく、すべての人が救われて真理を知るようになることを望んでおられます。そのためにひとり子をこの世に与えてくださいました。それは御子を信じる者が一人として滅びることなく永遠のいのちを持つためです。ですから、私たちは神がこの世を愛されたように、私たちもほかの人々を愛するべきです。

しかしそれは、この世の考えやこの世を優先することではありません。神様以上にこの世を愛してはならないと、イエス様は言われました。「まず神の国と神の義を求めなさい。そうすれば、これらのものはすべて、それに加えて与えられます。」(マタイ6:33)

神の子とされた者、クリスチャンは、その優先順位を神の価値観に従って、選択すべきです。誰も二人の主人に仕えることはできないからです。神とこの世に同時に仕えることはできません。その優先順位において神よりもこの世を優先するなら、それは神に背を向けてしまうことになります。その悪があなたを懲らしめ、その背信があなたを責めることになるのです。

皆さん、私たちが歴史から学ぶことは何でしょうか。それはたった一つのことです。それは、人類は歴史から何も学ばないということです。本来、彼らは学ぶべきでした。彼らと同じことをすれば自分たちはどうなるのかということを。自分たちもそうなるということ。しかし、彼らは何も学びませんでした。そして同じように痛い目に遭ってしまったのです。どんな人でも最初の一歩を間違えると、どんどん神から離れていってしまいます。しかし、信仰によって小さな一歩を踏み出すと、その人の人生は神によって祝福されたものへと導かれます。

1969年7月16日、アメリカの有人ロケット「アポロ11号」が月に着陸して、初めて人間が月を歩いた時、ニール・アームストロング船長はこのように言いました。「これは一人の人間にとっては小さな一歩だが、人類にとっては偉大な一歩である」

それはあなたにとって小さな一歩かもしれません。しかし、それはあなたの人生にとって偉大な一歩となるのです。その信仰の一歩を踏み出そうではありませんか。

Ⅲ.だから、知り、見極めよ(19b)

では、どうすればよいのでしょうか。最後に19節の後半を見て終わりたいと思います。「だから、知り、見極めよ。あなたがあなたの神、主を捨てて、わたしを恐れないのは、いかに苦いことかを。-万軍の主のことば。」

この箇所のまとめです。私たちにとって必要なのは、このことを知り、見極めることです。アッシリヤやバビロンの奴隷になるという悲惨さの原因は、指導者の政策が悪いからではありません。それは神を捨て、神を恐れないことです。これが最も根本的な原因なのです。悲惨の原因が自らの罪であることを知らないことが最大の悲惨でありますこのことを知り、見極めるようにと、エレミヤは教えているのです。あなたはこのことを知り、見極めているでしょうか。

昨年からサムエル記を通してダビデの生涯を学んでいますが、ダビデはこのことを知り、見極めていました。主が彼を、すべての敵の手、特にサウルの手から救い出された日に、彼は主に向かってこのように歌いました。「私は苦しみの中で主を呼び求め、わが神に叫んだ。主はその宮で私の声を聞かれ、私の叫びは御耳に届いた。」(Ⅱサムエル記22:7)ダビデはいつも苦しみの中で主を呼び求め、主に叫びました。すると主は彼の声を聞かれ、彼は助け出されたのです。

私たちの人生に何が起こるか、だれも予測することはできません。突然、病気や事故や災いに襲われることがあります。まさに人生という舞台に、大きな穴がポッカリと開くような出来事に遭遇することがあるのです。そんなときに、ある人は穴を見て絶望し、運命を呪い、悲しみに暮れます。またある人は、穴を見ないふりをして、現実から逃避しようとします。しかしダビデは、その穴から神を見ました。神を見て、神に信頼し、神に叫んだのです。そして、その穴から救われるという経験をしたのです。すなわち、その穴から、穴が開かなければ、決して見ることがない新しい世界をしっかり見つめたのです。なぜなら、彼はいつも、主を恐れ、主に信頼していたからです。

彼は、詩篇16篇で次のように告白しています。「私はいつも、私の前に主を置いた。主が私の右におられるので、私はゆるぐことがない。」(詩篇16:8)すばらしいですね。これを、今年の教会の目標聖句にしたいと考えています。「私の前に主を置く」とは、いつも主の助けと導きを仰ぐことです。これによってダビデは、「揺るぐことはない」と告白することができました。彼はサウル王に追われて流浪の生活をしていた時は、生命を繋ぐだけでも大変でした。また、その後イスラエル王となってからも、家庭問題で大いに悩まされました。しかし、こうした人生のトラブルの中にあっても、彼の心の深い所には神様との強い絆がありました。だから彼は揺るがされなかったのです。それは、彼がいつも主に信頼し、主を前に置いていたからです。

17世紀に、フランスの修道院において台所の奉仕で一生涯を終えたブラサー・ローレンスという人がいますが、彼は「神の臨在の実践」(The Practice of the Presence of God)の中でこう言っています。「仕事の時は、私にとって祈りの時とさして変わらない。台所でガチャガチャした騒音に埋もれ、色々な人々が同時に別々なことで私を呼んでいる時でさえ、私は聖餐式の時に跪いているかのような大いなる静けさの中に住み給う神を持っている」

彼は、それが仕事の時であろうと、祈りの時であろうと、いつも神の臨在の中にいるようでした。それは彼が大切にしていたのは、そうした事柄の背後にある動機であったからです。つまり、いつも自分の前に主を置いているかどうか、そして、何をするにしても、その主への愛に対する応答であるかどうかということです。

彼はダビデのように、いつも自分の前に主を置いていたのです。

新しく迎えたこの2022年、さまざまな計画があり、活動があることでしょうが、それらの活動に勝って、私たちが知り、見極めなければならないことは、主を恐れ、主に信頼し、心を尽くして主を求めることです。ダビデのように「私の前に主を置く」という心の営みを一人一人のものにさせていただこうではありませんか。

博士たちのクリスマス マタイの福音書2章1~12節

2021年12月19日(日)クリスマス礼拝

聖書箇所:マタイの福音書2章1~12節

タイトル:「博士たちのクリスマス」

メリークリスマス!イエス・キリストのお誕生を、心よりお祝い申し上げます。本日、皆様と共に、クリスマスの礼拝を献げられる恵みを感謝いたします。

クリスマスは、人類の救いのためにイエス・キリストがこの世に来られたことを記念する日です。新約聖書、ヨハネの福音書1章14節に、「ことばは人となって、私たちの間に住まわれた。」とあります。「ことば」とは、イエス・キリストのことです。父なる神のひとり子であられる神が、今から二千年前に、人となられたのです。おとぎ話のようですが、本当の話です。神さまは人類にいのちのメッセージを送ってくださいましたが、それは紙に書いた文字による手紙ではなく、神のひとり子自らがこの世界に人間として誕生してくださることによって示してくださいました。

この歴史的事実を記念するのがクリスマスです。いったいなぜキリストは人となられたのでしょうか。それは、私たち人間を罪から救うためです。聖書の中にキリストの誕生を告げ知らせた御使いが話すことばが出てきます。「マリアは男の子を産みます。その名をイエスとつけなさい。この方がご自分の民をその罪からお救いになるのです。」(マタイ1:20)

この世にはいろんな問題が次から次へと出てきます。健康の問題、貧しさ、人間関係のトラブル、仕事上の問題、家庭が抱える問題、本当に次から次に起こってきます。しかし、こうした問題の最も根本的な原因は、私たち一人一人の内側に居座っている罪なのです。そして、この罪の最終的な結末が死です。その根本原因は、神という命のルーツから離れているこの罪にあるのです。キリストは私たちをこの罪から救ってくださるために人となってこの世に来てくださいました。罪を取り除く薬は口から飲む薬ではありません。キリストがあなたの罪をご自分の上に引き受けて、十字架の上で永久に処分することによって取り除いて下さいました。


「しかし、この方を受け入れた人々、すなわち、その名を信じた人々には、神

の子どもとなる特権をお与えになった。」(ヨハネ1:12)もし、あなたがこの方を、あなたの罪からの救い主として信じるなら、あなたの罪も赦されます。せっかくのクリスマスです。どうぞこの機会にあなたのために人となられた救い主、イエス・キリストを信じ受け入れてください。

今日は、キリストが生まれた時、キリストを求めてはるばる東方の国からやって来た博士たちの物語から、クリスマスの意味についてご一緒に考えたいと思います。

 Ⅰ.東方の博士たち(1)

それでは、新約聖書、マタイの福音書2章をお開きください。まず1節をご覧ください。ここには、「イエスがヘロデ王の時代に、ユダヤのベツレヘムでお生まれになったとき、見よ、東方の博士たちがエルサレムにやって来て、こう言った。」とあります。

クリスマスのストーリーにおいて独特の存在感を示しているのが、この東の方からやって来た博士たちです。「東の方」とはペルシャ、あるいはバビロニヤの地方を指していると考えられています。

また「博士」と訳された言葉はギリシャ語で「マゴス」と言いますが、「マゴス」は「マジック」のもとになった言葉で、直訳すれば魔術師です。当時の社会においては天文学、薬学、占星術、魔術などを通して、人の運命や世界情勢について占う人々のことを指していました。新共同訳ではこれを「占星術の学者たち」と訳しています。それは星の運行を通して世界の行く末を見極める人たちだったからです。その彼らが救い主の誕生を星の出現を通して知ったとき、はるばる東の国からエルサレムにやって来たのです。

彼らは自分たちの国ではそれなりの地位や立場を持っていた人たちでしたが、クリスマスの舞台から見ると、はるばる東の国からやって来た異邦人、その周辺の人たちにすぎませんでした。本来ならユダヤの民こそが真っ先に自分たちが待ち望んでいた救い主、ユダヤ人の王としてお生まれになった方の誕生を知るべきなのに、神の民ではない異邦人たちによってその大切な知らせを受け取ることになるのです。

新約聖書、ルカの福音書には、救い主キリストの誕生の知らせが真っ先に知らされたのは、野宿で夜番をしながら羊の群れを見守っていた羊飼いたちのところであったと記されていますが、この羊飼いたちもまた、ユダヤの社会では底辺にいるような人たちでした。そしてここでも、神の民から遠く離れていた異邦人、東方の博士たちが、真っ先に救い主キリスト誕生の知らせを知り、礼拝するためにやって来たのです。クリスマスの出来事の中心にやって来たのです。

どれほど遠くに離れていても、イエス・キリストは私たちをご自分のもとへ招いてくださいます。救い主イエス・キリストを礼拝する道は開かれているのです。これこそが御子イエス・キリストの訪れのもつ喜びの力です。彼らは偶然のようにして救い主到来の星を見付けたわけではありません。その星の出現をずっと待ち続けていた人たちでした。彼らの仕事は人々の行く末や世界の情勢を見定め、そこで起こり得る事態を時には案じ、時には憂い、そしてそれら起こり得る出来事への対処を人々に助言することでした。他の人々よりも一歩前に世界の行く末を見つめていたのです。

それは、他の人々からすれば「博士」と呼ばれ、あるいは「学者」と呼ばれて(うらや)ましがられるような立場であったかもしれませんが、しかしそれは同時に他の人々よりも一歩前に世界の悲惨さや悲しみを知り、他の人々よりも人一倍その憂いや悩みを心に抱くことをも意味していたのです。

だからこそ、彼らは礼拝することを求めたのです。救い主の星を待つ人、それは救いを待つ人です。暗闇が増し、人々から希望を奪い去るような出来事が続く世界の只中にあって、なお希望を捨てずに夜空を見上げ、天を仰いで、救い主到来を告げる星を待つ彼らに、ついにその星は姿を表し、その頭上に照り輝いたのです。あなたももし救い主を待ち望むなら、あなたの頭上にも輝く星が照り輝くのです。問題は、あなたがこの救いを求めているかどうか、救い主を待ち望んでいるかどうかです。

Ⅱ.礼拝するためにやって来た博士たち(2-11)

次に、2~11節までをご覧ください。2節には、「ユダヤ人の王としてお生まれになった方は、どこにおられますか。私たちはその方の星が昇るのを見たので、礼拝するために来ました。」とあります。

彼らはエルサレムにやって来て、「ユダヤ人の王としてお生まれになった方は、どこにおられますか。」と尋ねました。彼らは、その星が昇るのを見たので旅立ったのです。ことばにすれば数行のことですが、見ることと旅立つことの間には、相当の距離があったのではないかと思います。しかし、彼らは星を見るだけでは満足しませんでした。その星の出現を知っただけでよしとはしなかったのです。彼らにとって決定的に大切だったのは、その星に導かれて旅立つことでした。そして何よりも「ユダヤ人の王としてお生まれになった方」、救い主イエス・キリストに出会い、この方を礼拝することだったのです。

これを聞いたヘロデ王は動揺しました。エルサレム中の人々も同様でした。動揺したということです。彼らは、ユダヤ人の王として新しい王が生まれたのであれば、自分たちはどうなってしまうのだろう、それによって世の中が変わってしまうのではないかと思って不安になったのです。

しかし、果たして、それだけでしょうか。実は、彼ら自身も気付いていなかったかも知れませんが、彼らの感じた不安というのは、もっと奥深いところにありました。それは、神の御前にある自分の存在です。人間が最も恐ろしいと感じるのは、不信仰が、神の現実に触れる時に起こるものです。言い換えると、死んだら自分はんどうなるのかということです。

人は死んだらどうなるのでしょうか。本当に神がおられるのであればこの神の御前に立つことになります。そうしたら自分はどうなってしまうのでしょう。彼らは、その不安を抱いたのです。この人たちはこんなにまでして、真剣に救いを探し求めているのに、自分はこのままでいいのだろうか。そういう不安です。事実、聖書には「人間には、一度死ぬことと死後にさばきを受けることが定まっているように」(へブル9:27)とあります。人は、一度死ぬことと死後にさばきを受けることが定まっているのです。

しかし、どこまでやれば義と認められるのかわかりません。だから自分なりに一生懸命にやるのですが、それで本当に救われているのかというと、そういう保証はどこにもありません。それに比べて彼らは、その星を礼拝するために来たのです。その方を信じることが、その方を礼拝することによって救わるんだとはっきり告げたのです。不安になるのも当然のことでしょう。

それでヘロデ王は民の祭司長たち、律法学者たちをみな集め、キリストはどこで生まれるのかと問いただしました。すると、ユダヤのベツレヘムであることがわかりました。預言者によってそのように預言されていたからです。

それでヘロデ王は博士たちをひそかに呼んで、彼らから、星が現れた時間について詳しく聞くと、「行って幼子について詳しく調べ、見つけたら知らせてもらいたい。私も行って拝むから」と言って、彼らをベツレヘムに送り出しました。

9~11節をご覧ください。「博士たちは、王の言ったことを聞いて出て行った。すると見よ。かつて昇るのを見たあの星が、彼らの先に立って進み、ついに幼子のいるところまで来て、その上にとどまった。その星を見て、彼らはこの上もなく喜んだ。それから家に入り、母マリアとともにいる幼子を見、ひれ伏して礼拝した。そして宝の箱を開けて、黄金、乳香、没薬を贈り物として献げた。」(9-11)

博士たちは、王が言ったことを聞いて出て行きました。すると、かつて昇るのを見たあの星が、彼らの先に立って進み、ついに幼子のいるところまで来て、その上にとどまったのです。彼らはその星を見て、この上もなく喜びました。それから家に入って、母マリアとともにいる幼子を見て、ひれ伏して礼拝しました。そして宝の箱を開けて、黄金、乳香、没薬を贈り物として献げたのです。

ここに礼拝する人間の姿が表されています。彼らは星を見てこの上もなく喜びました。そしてひれ伏して礼拝し、黄金、乳香、没薬を献げたのです。この「喜び」、「ひれ伏し」、「献げる」という一連の姿に、礼拝する人間の姿が表れています。礼拝とは何でしょうか。それは神の御子イエス・キリストとの出会いの喜びです。その喜びは、これ以上もない大いなる喜びです。彼らは幼子イエスのお姿を見る前に、その幼子を照らす星の光を見て喜んでいました。そしてついに、その星の光のもとで御子イエス・キリストと出会い、幼子を見て、ひれ伏して礼拝したのです。彼らは「なんだ貧しい幼子ではないか」と言って落胆しませんでした。期待はずれだと言いませんでした。彼らは主イエスの到来を旧約の預言を通して確信し、星の輝きの導きを信頼して、そうしてついに救い主、神の御子との出会いを果たしていったのです。

 彼らは宝の箱を開けて、黄金、乳香、没薬を献げました。黄金は、王なるキリストへの冠です。乳香とは、神なるキリストへの芳ばしい香りです。そして没薬とは、贖い主なるキリストへの葬りを象徴するものでした。いずれの献げものも、まさしく神の御子、まことの王の王、私たちのための救い主イエス・キリストに献げられるもっともふさわしい贈り物でした。

 この博士たちの贈り物は、ある小説のモデルになっています。ご存知の方もおられると思いますが、O.ヘンリーという人が書いた「賢者の贈り物」です。

これは、ニューヨークの片隅の、安アパートに住む、ジムとデラという、若い夫婦の物語です。

彼らは、貧しいながらも、愛し合い、助け合って、暮らしていました。とても貧乏でしたが、二人には、大切な宝物が二つありました。一つは、ジムの家に代々伝わってきた、金の懐中時計です。もう一つは、膝にまで届くほど長い、デラの自慢の髪の毛でした。

クリスマスイブの夜、二人は、愛するパートナーに、密かにプレゼントを贈ろうとしますが、何しろ貧しくて、どうにもなりません。デラは、ジムの懐中時計に付けるプラチナの鎖を、どうしても買いたいと思いました。そのために、自分の自慢の髪の毛を、かつら屋に売って、プラチナの鎖を買いました。

一方ジムは、デラの美しい髪の毛をとかすための、櫛のセットを買いたいと思っていました。それは、デラの髪にぴったりの、宝石をちりばめた、見事な櫛でした。ジムは、その櫛を買うために、自分の懐中時計を売ってしまったのです。

その日の夜、仕事から帰ってきたジムは、髪の毛を切ってしまったデラを見て呆然とします。無くなってしまったデラの髪の毛をとかすための櫛。そして、売ってしまった懐中時計のための鎖。今や、両方とも、役に立たなくなってしまった物です。

なんとも愚かな贈り物です。バカな二人です。しかしこの小説の著者である、O.ヘンリーは、このジムとデラの夫婦こそが、「賢者」と呼ばれるに相応しい、と言っているのです。なぜなら、彼らはクリスマスを迎える者として、最も相応しい贈り物をしたからです。

これと同じようにこの博士たちも、この方こそまことの王、まことの神、まことの救い主であることを示す贈り物を献げました。ここに、私たちは異邦人の礼拝者たちの姿を通して、真実な礼拝者の姿を見ることができるのです。

あなたはどうですか。あなたはキリストの到来を喜んでいますか。なんだ、こんなものか、期待はずれだったと言ってはいませんか。あなたの救い主との出会いを喜び、この方の前にひれ伏し、この方にふさわしいささげものを献げているでしょうか。クリスマスが本当の意味でクリスマスになるということ、それは、キリスト誕生の事実が、私たちの生活を動かすということです。「キリストのご降誕が、この私のためである」ということを知って、それをこの上もなく喜び、ひれ伏し、自分を献げるという、自分の生き方に変化が生じることです。それは、生きた礼拝を生み出すのです。

Ⅲ.別の道から帰って行った博士たち(12)

最後に12節をご覧ください。ここには「彼らは夢で、ヘロデのところへ戻らないようにと警告されたので、別の道から自分の国に帰って行った。」とあります。

これが、マタイの福音書が示す博士たちの最後の姿です。彼らは自分たちの国へ帰って行きました。それは自分たちの住む異邦人の地です。あのいつもの日常の中へ帰って行ったのです。それは「悔い改め」を示す象徴的な姿でもあります。というのは、聖書が語る悔い改めとは、新しい歩みへの方向転換だからです。つまり、神から遠く離れた地から神の臨在のもとへ立ち返ることです。それが悔い改めだというのです。東方の博士たちにとっては、自分の国へ帰って行くことは主なる神から遠く離れることではなく、むしろ主の臨在のもとへ立ち返る新しい旅路であったのです。

それは、ここに「別の道から帰って行った」とあることからもわかります。夢の中で、ヘロデのとこへは戻らないようにと警告されていたからです。それは、もはや同じ道をたどることはしないということを象徴していました。救い主イエスに出会い、ひれ伏して礼拝した彼らにとっては、そこから新しい道、主の道を生きる人生の旅路が始まるのです。

礼拝とは、私たちが新しくされることです。「だれでもキリストのうちにあるなら、その人は新しく造られた者です。古いものは過ぎ去って、見よ、すべてが新しくなりました。」(Ⅱコリント5:17)と罪の赦しの宣言を受け取って、主イエスにあって新しくされて、今日、ここから遣わされていくのです。いつも通い慣れた道も、明日からの仕事場も、学校も、家庭も、いつものあの人々との交わりも、私たちにとっては主イエス・キリストにあって新しく遣われていく場所であって、そこもまた私たちにとっての礼拝の場なのです。その道を今日、ここから歩み出していくのです。そのようにして私たちの礼拝の旅路は続き、ついには天の御国に至ります。それまでは星を見ての歩みです。けれどもその時には、私たちはこの目でイエス・キリストの御顔を仰ぎ、そこで御子イエス・キリストを礼拝するのです。その日に向けての旅路を今日、ここから始めていくのです。

救いの星を探し求める人は多くいます。そしてその星について知ろうとする人、学ぼうとする人、観察し、評価する人も多いかもしれません。しかし、肝心なことはそこから先の事柄です。あそこに救いがある、あそこに希望がある、あそこに人生の意味がある。それで終わってはならないのです。それを自らのものとしなければなりません。それを自らのものとしてこそ、それが私にとっての救いとなり、私にとっての希望となり、そして、私の人生の意味となるのです。

天文学者ヨハネス・ケプラー(1571-1630)は、星が一定の法則に従って動いていることを最初に発見した人でした。彼の星の運動についての3つの法則は、宇宙旅行の基礎となっています。その彼がこう言いました。

「この発見によって、父である神のお名前が少しでもあがめられるなら、私の名前は、永遠に忘れられてもよい。」

彼は、星の運動についての法則だけでなく、その先にある事柄、すなわち、父である神の御名があがめられることを求めたのです。それは彼がその星を造られたイエス・キリストの救いを、自分のものとしていたからです。

主イエス・キリストはこう言われます。「わたしが道であり、真理であり、いのちなのです。わたしを通してでなければ、だれも父のみもとに行くことはできません。」(ヨハネ14:6)と。イエス・キリストと出会うこと、イエス・キリストを受け入れること、イエス・キリストを礼拝すること。これが私たちの人生の旅路の一番の目的であり、ゴールです。その人生を自らのものとするために、私たちは「見る」から「旅立つ」へまで進まなければなりません。

今はまだ無理、今はまだ時ではない。あれがすんでから、これに目処がついてから、あの問題を解決してから、この支度が出来てから、自分自身がもう少し落ち着いたらと、あれこれと私たちの旅路を遅らせたり、思いとどまらせたりする事柄があるでしょう。しかし、あの星を見たならば、私たちは今置かれているところから、今抱えているさまざまな重荷を置き、心によぎる思いを置いて、旅立たなければなりません。クリスマスの星、その星の輝きに導かれて、救い主イエス・キリストとの出会いに向かって進んで行こうではありませんか。あなたもイエス・キリストをあなたの罪の救い主として受け入れてください。あなたの心にもクリスマスの星が燦燦と照り輝きますように、そして、その星に導かれて人生を歩んで行かれますようにお祈りします。

いのちの水の泉 エレミヤ2:1-13

聖書箇所:エレミヤ書2章1~13節(エレミヤ書講解説教3回目)

タイトル:「いのちの水の泉」

 今日はエレミヤ書2章1~13節からお話します。タイトルは、「いのちの水の泉」です。いよいよエレミヤの預言者としての活動が始まります。最初の預言が、ここから3章5節まで続きます。そこには神から遠く離れ、空しいものに従って行くイスラエルの姿がいつかの比喩をもって示されています。その一つが壊れた水溜めです。13節に「わたしの民は二つの悪を行った。いのちの水であるわたしを捨て、多くの水溜を自分たちのために掘ったのだ。水を溜めることのできない、壊れた水溜を。」とあります。彼らはいのち水の泉である神を捨て、自分のために壊れた水溜めを掘りました。神はそんなイスラエルの姿を見て嘆かれ、いのちの泉であるご自身のもとに帰るようにと語られるのです。

 Ⅰ.覚えておられる神(1-3)

 まず1節から3節までをご覧ください。「次のような主のことばが私にあった。「さあ、行ってエルサレムの人々に宣言せよ。『主はこう言われる。わたしは、あなたの若いころの真実の愛、婚約時代の愛、種も蒔かれていなかった地、荒野でのわたしへの従順を覚えている。イスラエルは主の聖なるもの、その収穫の初穂であった。これを食らう者はだれでも罰を受け、わざわいを被った。-主のことば-」

 預言者エレミヤに次のような主のことばがありました。「さあ、行ってエルサレムの人々に宣言せよ。」彼はエルサレムから北東に4キロほど離れたアナトテという村に住んでいましたが、そのエレミヤにエルサレムへ行って、彼らに主のことばを宣言するようにというのです。その内容は、「わたしは、あなたの若いころの真実な愛、婚約時代の愛、種もまかれていなかった地、荒野でのわたしへの従順を覚えている」ということでした。

「若いころの真実な愛」とは、イスラエルが神と契約を交わした、まさにその頃の愛のことです。具体的には出エジプト記20章にあるシナイ契約のことです。モーセの十戒ですね。それはエジプトを脱出後に、シナイ山で神様とイスラエルとの間に交わされた愛の契約でした。その頃のことを思い起こしているのです。皆さんは、結婚式で誓ったあの時のことを覚えていますか。来週もジョセフ兄とダフニ姉の結婚式が行われますが、そこでは誓約が交わされます。

「あなたはこの人と結婚し、神の定めに従って、夫婦になろうとしています。あなたは常にこの人を愛し、敬い、慰め、助けて変わることなく、その健やかなる時も、病める時も、富める時も、乏しき時も、いのちの日の限り堅く節操を守ることを誓いますか。」「はい、誓います。」

そんなこと言ったっけ?なんて言わないでください。確かに、皆さんもそう誓ったはずです。それなのに、そぐに忘れてしまいます。中には、自分の結婚記念日でさえ覚えていないという人もいます。しかし、神様は決して忘れることはありません。全部覚えていらっしゃるんです。あの時は何と麗しい関係だったでしょうか。あなたが若いころの愛は、どんなことがあっても守るという誠実さがありました。真実な愛があったのです。それは、約束に対して誠実であるということです。あのシナイ山で約束した契約に対する忠実さのことであります。約束は破るためにあるということばがありますが、そうではありません。約束は守るためにあるのです。イスラエルは若かったころ、神と結んだ愛の契約を忠実に守ろうとする真実な愛がありました。神はそれを覚えているのです。

またここには「婚約時代の愛」とあります。これは、イスラエルがエジプトを出てからシナイ山で契約を結ぶまでの期間と考えられます。出エジプト記で言うと、12章~19章に該当します。彼らはエジプトに430年もの間奴隷として生活していましたが、その苦しみの中で主に叫び求めると、主は彼らをそこから救い出してくださいました。しかし、彼らが導かれたのは荒野でした。そこには食べ物も飲み物もなかったので、指導者であったモーセとアロン向かって不平を言いました。すると主は、彼らのために天からパンを降らせ、岩から水を出させてくださいました。さらに、アマレクという敵が攻めて来ると、何の防備もなかったイスラエルにとって戦いは困難を極めましたが、主が戦ってくださったので、勝利することができました。これが婚約時代にあったことです。婚約時代には辛いこと、苦しいこともありましたが、一番楽しい時でもありました。なんだかんだ言っても、愛によって乗り越えようとする必死さがありました。主はそんな彼らの婚約時代の愛も覚えておられました。

そればかりではありません。「種もまかれていなかった地、荒野でのわたしへの従順」も覚えていました。「種もまかれていなかった地」とは、荒野のことを指しています。彼らはカデシュ・バルネアまで来たとき、約束の地まであとわずかという時に、主の命令に背いて上って行かなかったので、結局40年間荒野を彷徨うことになりました。しかし主は、そのような中でも、昼は雲の柱夜は火の柱をもって彼らを導いてくださいました。約束の地を目の前にしてモーセは、その40年間を振り返りこのように言いました。「この40年間、あなたの衣服はすり切れず、あなたの足は腫れなかった。」(申命記8:4)

主が彼らを守ってくださいました。それは主がイスラエルに対して忠実であられたからです。それはイスラエルが主に対して従順であったということの表れでもあります。確かに彼らは荒野で何度となく不平を鳴らしましたが、その根底には主がイスラエルをエジプトから救い出し、ご自分のものとされたという愛の関係がありました。神はそのようなイスラエルの姿を覚えておられるのです。それなのに彼らは、神から離れてしまいました。初めの愛から離れてしまったのです。

これは、イエス様を信じて神の民とされた私たちも同じです。黙示録2章4節には、「けれども、あなたには責めるべきことがある。あなたは初めの愛から離れてしまった。」とあります。これはイエス様がエペソの教会に書き送った手紙です。エペソの教会はよく忍耐して、主のために耐え忍び、疲れませんでした。しかし、彼らには責めるべきことがありました。何ですか?初めの愛から離れてしまったことです。初めの愛、結婚当初の愛、婚約時代の愛から離れてしまいました。エペソという地名は「最愛の人」という意味がありますが、それが色あせてしまったのです。だから、どこから落ちたのかを思い起こし、悔い改めて、初めの行いをしなさい、というのです。

皆さんはどうでしょうか。それは私たちで言えばまさにイエス様と出会い、洗礼を受け、クリスチャン生活を始めたばかりのあの頃のことです。何もかもが新鮮でした。何もかもが感動的でした。溢れるばかりの喜びと感謝がありました。とにかく教会に来るのが楽しかった、信仰に熱心だったあの頃です。「だった」と言っているのは、初めの愛から離れてしまったということを念頭に語っています。そんなことはありません。あの時よりももっと燃えています。もっとイエス様を愛しています、もっと主を求めていますというのならすばらしいですが、もし「だった」というのであれば、このエペソの教会と同じであると言えます。信仰生活が重荷なんです。日曜日だから教会に行かなければならない。何となく面倒くさい。家にいてひっくり返っていた方がいい、ゴロゴロしていた方がいいと思っているなら、初めの愛から離れているのです。主があなたにとってすべてであったあの頃の愛から離れているのです。本来ならばあの時よりももっと今の方が主を愛していますとなるはずなのに、あの頃もすばらしかったけど、今の方がもっとすばらしいとなるはずなのに、あの頃の方が燃えていたというのであれば、それは信仰がバックスライドしているということです。初めの愛から離れているのです。もしそうであるならば、どこから落ちたのかを思い起こし、悔い改めて、初めの行いをしなければなりません。

私たちは本当に忘れっぽいですね。昨日何をしたか、何を食べたかさえも忘れています。しかし、私たちは初めの愛を思い起こさなければなりません。それが聖餐式の意味です。聖餐式では、「わたしを覚えてこれを行いなさい」とありますが、これとはパンとぶどう酒のことです。それはイエス様の血と肉を表しています。イエス様が私たちを愛してくださり、十字架で私たちの罪の身代わりとなって死んでくださいました。それほどまでに愛してくださったのです。そのことを覚えるために、パンとぶどう酒をいただくのです。あなたはどうでしょうか。この神の愛、イエス様の愛を覚えていますか。もし忘れているなら、悔い改めて、初めの愛に立ち返りましょう。これが私たちの信仰の原点だからです。

 Ⅱ.イスラエルの背信(4-8)

 次に、4~8節をご覧ください。6節までをお読みします。「ヤコブの家よ、イスラエルの家の全部族よ、主のことばを聞け。主はこう言われる。あなたがたの先祖は、わたしにどんな不正を見つけたというのか。わたしから遠く離れ、空しいものに従って行き、空しいものになってしまうとは。彼らはこう尋ねることさえしなかった。「主はどこにおられるのか。われわれをエジプトの地から上らせた方、われわれに、あの荒野、穴だらけの荒れた地を、乾いた、死の陰の地、人も通らず、だれも住まない地を行かせた方は。」」

 1~3節では、イスラエルの若いころの真実な愛が語られましたが、この箇所では主に背いたイスラエルが糾弾されています。神ご自身の失恋の叫び、と言ってもよいかもしれません。「ヤコブの家よ、イスラエルの家の全部族よ、主のことばを聞け。」ということばには、イスラエルに対する神の切実な思いが込められています。なぜ自分から離れて、空しいものに従って行ったのか。空しいものとは、偶像のことです。このとき、イスラエルは一応、神殿礼拝の形は保っていましたが、敷地にはさまざまな偶像やその祭壇がありました。まあ、クリスマスとお正月をごちゃまぜにしているような感じですね。クリスマスに教会に来たかと思ったら、お正月には神社に初詣に行くような感じです。いったいわたしがあなたに何をしたというのか、何か悪いことでもしたというのかと、主は問うているのです。

 日本の代表的なクリスチャンの一人に内村鑑三という人がいますが、彼はこう言っています。「神に拠り頼んで恥辱を受けたことはない。」あなたが神に拠り頼んで裏切られたことがあるでしょうか。辱めを受けたことがありますか。聖書にも「この方に信頼する者は決して失望させられることがない。」(Ⅰペテロ2:6)とあります。神はあなたにどんな悪いことをしたでしょうか。あなたをがっかりさせたことがありますか。あなたを傷つけたことがあるでしょうか。ないでしょ。それなのに、なぜあなたは離れていくのですか。こんなにあなたを愛しているのに、こんなにあなたのことを思っているのに、どうして離れていくのですかと、訴えているのです。この悲痛な神の叫びにしっかりと耳を傾けていただきたいと思います。

 6節には、「彼らはこう尋ねることさえしなかった。「主はどこにおられるのか。われわれをエジプトの地から上らせた方、われわれに、あの荒野、穴だらけの荒れた地を、乾いた、死の陰の地、人も通らず、だれも住まない地を行かせた方は。」とあります。

 偶像を求めて空しくなった民は、契約の神をもはや心に留めず、求めることもせず、無関心になってしまいました。もうどうでもいいのです。出エジプトと荒野の旅における神の特別な導きは、イスラエルの民が常に覚えて、主なる神への信仰の告白としなければならなかったことなのに、もうどうでもよくなってしまったのです。その神を求めることさえしなくなりました。

7節と8節をご覧ください。「わたしはあなたがたを、実り豊かな地に伴い、その良い実を食べさせた。ところが、あなたがたは入って来て、わたしの地を汚し、わたしのゆずりの地を忌み嫌うべきものにした。祭司たちは、「主はどこにおられるのか」と言うことがなく、律法を扱う者たちも、わたしを知らず、牧者たちもわたしに背き、預言者たちはバアルによって預言し、役立たずのものに従って行った。」

 約束の地に入った後の状態です。荒野で反抗した民は滅ぼされましたが、新しい世代の人々は、約束の地に導き入れられました。そこは乳と蜜の流れる、実り豊かな地で、その地で彼らは良い実を食べることができました。ところが彼らは、その地を忌み嫌うべきものにしました。偶像で汚してしまったのです。

さらに、国の指導者たちは、自らの責任を果たそうとしませんでした。祭司たちは、「主はどこにおられるのか」と言うことがなく、律法を扱う者たちも、主を知らず、牧者たちも主に背き、預言者たちはバアルによって預言し、役立たずのものに従って行きました。

 いったい何が問題だったのでしょうか。イスラエルの神、主を忘れてしまったことです。彼らは、過酷な荒野の旅を終えたときに、それが神の一方的な恵みであったことを認めず、感謝もしませんでした。その結果、カナンの地に入ってからは、真実の神、主を忘れ、自分たちにご利益をもたらすような偶像に走って行ったのです。聖書はこのようなものを「無益なもの」と呼んでいます。それは何の役にもたたないのです。偶像は本当に空しいものですが、不思議なことに、それに従って行けば幸せになれるのではないかと思い込ませます。たとえば、8節にはバアルという偶像が出てきますが、これは無病息災や商売繁盛の神です。この神を拝めばご利益があります。人生が繁栄し、成功を収めることができます。どうですか、拝みたくなったでしょう。こうしたものに人間は本当に弱いですね。ご利益があると聞くと、すぐに飛びつきたくなります。でもそれは空しいもの、無益なもの、何の役にも立たないものです。私たちを真に満たすのは、私たちを造り、私たちのために御子イエス・キリストを与えてくださるほど愛してくださったまことの神です。この方は私たちの根本的な問題である罪から救い、真の幸福をもたらしてくださいます。

 皆さんは、「世界一幸せな国」をご存知でしょうか?知っています、ブーダンでしょう?という方は、ちょっと古い人です。南アジアにあるブータンは、発展途上国ながら2013年には北欧諸国に続いて世界8位となり、“世界一幸せな国”として知られるようになりましたが、2019年度版では156か国中95位にとどまって以来、このランキングには登場しなくなりました。幸せな国ではなくなったのです。どうしてだと思いますか?それは、スマホが普及したせいです。これまで入って来なかった情報が入って来るようになったおかげで、他国と比較するようになったからです。つまり、隣の芝生が青く見えるようになったからなのです。

ちなみに日本はというと、例年、順位が振るいませんで、2021年の最新ランキングでも56位と、G7(先進7か国)の中でも最下位になっています。それはブータン同様、幸せを他の人と比較しているからです。いつの時代もどの国でも他人の持っている物や言動が気になってしょうがないのです。それは決して幸せには繋がらないと分かっていても、隣の芝生の青さやまたその欠点に目を注いでしまうのです。それが日本人の国民性なのです。私たちが幸せになるために必要なことは、私たちが何を見るか、ということです。他の人がどうかではなく、神があなたにどんなによくしてくださったのかを見て、それを感謝することなのです。

砂山(いさやま)節子という方がおられます。この方は戦前、夫の砂山貞夫という牧師と結婚し満州に赴いて福音宣教に従事していましたが、戦後、夫と次女を失い、ご自分も両目の視力を失うという状況の中で、ある日、暗澹たる思いで手探りしながら壁伝いに部屋の中を移動している時、思いもかけずこの賛美歌の一節が、心に浮かび、口をついて出てきたと言います。「数えてみよ、主の恵み、数えてみよ、主の恵み、・・」。彼女は指を折って数えました。私には二人の子供がいるではないか、教会の信徒さんたちもいる、イエス様がずっと一緒にいて下さったではないか・・と。そして、心の平安を得たといいます(「熱河宣教の記録」より)。

砂山さんはどのような状況でも、私たちは神の恵みを数える事ができると教えています。私たちもまた、自分の置かれている状況ではなく、その中で働いておられる主の恵みを数えて歩んでいきたいものです。

 Ⅲ.いのちの水の泉(9-13)

第三に、9~13節をご覧ください。「それゆえ、わたしはなお、あなたがたと争う。-主のことば-また、あなたがたの子孫と争う。キティムの島々に渡って、よく見よ。ケダルに人を遣わして見極めよ。このようなことがあったかどうか、確かめよ。かつて、自分の神々を、神々でないものと取り替えた国民があっただろうか。ところが、わたしの民は自分たちの栄光を役に立たないものと取り替えた。天よ、このことに呆れ果てよ。おぞ気立て。涸れ果てよ。-主のことば-わたしの民は二つの悪を行った。いのちの水の泉であるわたしを捨て、多くの水溜めを自分たちのために掘ったのだ。水を溜めることのできない、壊れた水溜めを。」

「それゆえ」とは、イスラエルが神との契約を破り、空しい偶像に走って行ったのでということです。それゆえ、主はなお、イスラエルと争われるのです。この「争う」という語は、法廷用語で、神がイスラエルを法廷に訴えている様子を表しています。訴えられているのはイスラエルです。これほどの愛と恵みを受けながら、その神から離れていくという例は、世界中どこにも見出せません。

10節にある「キティム」とは地中海に浮かぶキプロス島のことです。「ケダル」とはアラビヤ半島の北部に住む人々のことです。彼らはそれぞれ、自分たちの偶像を持っていました。しかし、それを他の神々に取り変えたりはしません。それはキティムやケダルだけでなく、どの国でもそうでしょ。いいか悪いかは別として、そう簡単に自分たちの神々を他のもの取り替えるようなことはしないのです。日本でもそうでしょ。日本は昔から八百万の神といって何でも神にしちゃいますが、その神々でさえ簡単に取り替えたりするようなことはしません。それなのに、イスラエルの民はなぜ簡単に変えてしまうのか?と、主はとてつもない皮肉を語っておられるのです。

彼らの罪は何だったのでしょうか。ここで主は非常に重要なことを語られます。それは13節にあるように、彼らが二つの悪を行ったということです。一つはいのちの泉である主を捨てたということです。そしてもう一つは、多くの水溜めを自分のために掘ったということです。それは水を溜めることができない、壊れた水溜です。それは、自分たちを救うことができない偶像のことを指しています。

彼らはいのちの水の泉であるイスラエルの神、主を捨てて、水を溜めることができない壊れた水溜を掘ったのです。この「いのちの水の泉」は、第三版では「湧き水の泉」と訳しています。私たちの主は「湧き水の泉」、「いのちの水の泉」です。あらゆるいのちの源泉であられます。主イエスは言われました。「しかし、わたしが与える水を飲む人は、いつまでも決して渇くことがありません。わたしが与える水は、その人の内で泉となり、永遠のいのちへの水が湧き出ます。」(ヨハネ4:14)

他の偶像はすべて「水溜め」です。確かに水はあるでしょうが、いつか尽きてしまう水溜めです。しかもここでエレミヤは、その溜まっている水でさえ、岩の裂け目から水がもれてしまって、少しずつなくなる、と言っています。自分の生きがいとしていたものがまことの神でなかったら、それが宗教であれ、他のどんな活動であっても、尽きて無くなるしかない溜め水を飲んでいるのと同じことなのです。それは本当に空しいことではないでしょうか。

 水溜めは、一枚岩になっているところを切り削して造ります。とても長い期間をかけて造った、非常に大きな水溜めも見つかっています。けれども、もしその岩に裂け目があったらどうでしょう。水溜めの役目を果たさなくなります。これまで削り取ってきた労苦は無駄になってしまいます。

 ここでは「いのちの水の泉」と「壊れた水溜め」が対比されています。私たちは、あからさまに偶像礼拝をしないかもしれませんが、あからさまに偶像礼拝をしなくても、神以外のものを拝むことはあります。いや神に関する、その周囲にあるものを大事にして、神ご自身をあがめることをしないということがしばしばあります。

あなたはどうでしょうか。あなたは、「いのちの水」を下さる主イエス・キリストから飲んでいますか。それとも、壊れた水溜めを自分のために掘っていないでしょうか。ある人は、「私たちは祝福を求めるが、祝福の源を忘れる。」と言いましたが、まさにその通りです。祝福を求めますが、祝福の源を忘れるのです。私たちに必要なのは、「主はどこにおられるのか」という心からの叫びです。

「わがたましいよ 主をほめたたえよ。主が良くしてくださったことを何一つ忘れるな。主はあなたのすべての咎を赦しあなたのすべての病を癒やし あなたのいのちを穴から贖われる。主はあなたに恵みとあわれみの冠をかぶらせ あなたの一生を良いもので満ち足らせる。あなたの若さは鷲のように新しくなる。」(詩篇103:2~5)

 来週はクリスマス、そして、もうすぐこの1年も終わります。私たちは、私たちの一生を良いもので満ち足らせる主を認め、主に感謝し、主に拠り頼んで、日々歩んでまいりましょう。

あなたは何を見ているのか エレミヤ書1章11~19節

※本日は、録音がうまくいかず、はじめの15分間程度は録音されていません。ご理解ください。

聖書箇所:エレミヤ書1章11~19節(エレミヤ書講解説教2回目)

タイトル:「あなたは何を見ているのか」

 今日は、エレミヤ書1章11~19節の御言葉から、「あなたは何を見ているのか」というタイトルでお話します。エレミヤが預言者として召命を受けた後、最初の預言を発するまでの間に、主はエレミヤに対する召しを確かなものとするために、二つの幻を見せられました。それがアーモンドの枝と煮え立った釜の幻です。

 Ⅰ.アーモンドの枝(11-12)

 まず、11節と12節をご覧ください。「主のことばが私にあった。「エレミヤ、あなたは何を見ているのか。」私は言った。「アーモンドの枝を見ています。」すると主は私に言われた。「あなたの見たとおりだ。わたしは、わたしのことばを実現しようと見張っている。」」

 エレミヤの預言者としての働きは、アーモンドの枝を見ることから始まります。「アーモンド」は、ヘブル語で「シャケデ」と言います。意味は「目覚める」とか「見張る」です。イスラエルでは、アーモンドの木は春になると一番先に花をつけました。日本で言えば梅の木でしょうか。とてもよく似ています。梅の花のように白い花をつけるのです。

春が来るとカラカラに乾いた冬の終わりを告げます。そのときアーモンドの木に一斉に花が咲き始めるのです。エレミヤはそれを見ていました。先ほども申し上げたように「アーモンド」はヘブル語で「シャケデ」、意味は「目覚める者」とか「見張る者」です。彼は預言者として神が語ることばが実現するかどうか見張る者として、神から召されました。この「見張る」というヘブル語は「ショケデ」と言いますが、ここに語呂合わせが見られます。「シャケデ」と「ショケデ」です。「アーモンド」と「見張る」です。私はよくおやじギャグを言って顰蹙(ひんしゅく)をかうことがありますが、神の語呂合わせは見事ですね。ショケデがシャケデを見ているのです。エレミヤは、自分が預言者として召されたことを感慨深く思っていたに違いありません。それはまさに自分のことではないか。私はアーモンドだ!と思っていたかもしれません。

その時彼に、主のことばがありました。「エレミヤ、あなたは何を見ているのか」。口語訳では「何を見るか」です。つまり、あなたは何を見ようとしているのかということです。何を見ているのかって、アーモンドの枝です。しかし、本当に彼が見なければならなかったものは何だったのでしょうか。私たちの目にはいろんなものが映りますが、その中で何を見ているのか、何を見ようとしているのかは重要なことです。目で見ているからといっても、必ずしも見ているわけではないからです。耳で聞いているからといっても、必ずしも聞いているわけではないのです。

マルコの福音書8章14~19節には、弟子たちがパンを持ってくるのを忘れて舟に乗り込んだ時の出来事が記されてあります。そのとき、イエス様が彼らに「パリサイ人のパン種とヘロデのパン種には、くれぐれも気をつけなさい。」(マルコ8:15)と言われたのです。それを聞いた弟子たちは焦りました。自分たちがパンを持ってくるのを忘れたことについて、イエス様から非難されたと思ったからです。それで彼らは互いに議論し始めました。

するとイエス様はそのことに気がついてこう言われました。「なぜ、パンをもっていないことについて議論しているのですか。まだ分からないのですか。悟らないのですか。心をかたくなにしているのですか。目があっても見ないのですか。耳があっても聞かないのですか。あなたがたは覚えていないのですか。」(マルコ8:17-18)

「あなたがたは覚えていないのですか」とは、その前にイエス様が行った七つのパンの奇跡のことです。イエス様は、七つのパンで四千人の男の人たちの腹を満腹にさせました。パンの問題はもうその奇跡で解決済みでした。そのパンの奇跡によってイエス様が示そうとしたことは、人はパンだけで生きるのではなく、神のことばによって生きるのだということです。つまり、人は神の恵みによって生きるのだということです。それなのに、パンを持って来るのを忘れたからといって、パンパカパーンと叱責されるはずがありません。でも弟子たちにはそれがわかりませんでした。彼らは本気でパンのことで叱られていると思ったのです。問題は何でしょうか。よく見ていなかったということです。よく聞いていなかった。目があっても見ない、耳があっても聞かない、悟らない。心をかたくなにしていたのです。

私たちもそういうことがあるのではないでしょうか。いろんな経験をしても、ただぼんやりとしていたら、その経験、つまり見たもの、聞いたものは、何も見たことにはなりません。聞いたことにはならないのです。どんなにイエスの奇跡を体験しても、それを体験すればするほど、私たちの心は鈍くなり、御利益的信仰しか養われないで、心が鈍くなっていくということがあるのです。神様を信じていれば、必ずいいことばかりくるのだという程度のことしか期待できなくなっているのです。

ですから、私たちが何を見るか、何を見ようとしているかは大事なことなのです。私たちが日常生活において、いつも心を研ぎ澄まして、本質的なものは何か、一番大事なものは何なのか、今、しなければならないことは何か、なくてならないものは何かと、注意深く見ようとしていないと、見えるものも見えてこなくなります。

エレミヤは今、預言者とし召されたばかりでした。その時にアーモンドという花を見ていたのか、見せられたのかわかりませんが、じっと見ていました。それはただ見ていたというよりも、そこから悟りを得るかのように見ていたのです。アーモンドの枝は他の花に先駆けて芽を出し、花を咲かせます。それゆえ目覚めの花ともいわれています。エレミヤは思ったかもしれません。自分は他のだれにも先駆けてこの時代の先駆者にならなければならない。この時代を見張らなくてはならないと。特に彼は神に召された時に、神から「引き抜き、引き倒し、滅ぼし、壊し、建て、また植えるために」と言われました。厳しいさばきを民に伝えなければならないという意気込みがあったでしょう。普通ならばなんでもないアーモンドの枝でも、いつもとは違ったものとして見ていたのかもしれません。

すると主が彼に言われました。「あなたの見たとおりだ。」新共同訳では「よくぞ見たものだ」と訳しています。つまり、主はエレミヤが見ているものをほめているのです。喜んでいるんです。「よくぞ見たものだ」と。預言者として召されたエレミヤが見るべきもの、それはアーモンドの枝を通して見る神の御思いだったのですが、彼はそれをしっかりと見ることができたのです。それは目覚め、見張るという彼に与えられていた使命でした。

しかしそのあとで主は、思いがけないことを言われました。それは「わたしは、わたしのことばを実現しようと見張っている」ということです。つまり、見張っているのは、エレミヤではなく、神ご自身であるということです。確かにエレミヤは預言者として召されたからには、この世に先駆けて目を覚まし、この世を見張らなくてはならないと思っていたでしょうが、しかし、それ以前に、神ご自身が見張っているというのです。何を見張っているかと言うと、「わたしはわたしのことばを実現しようと見張っている」というのです。ここで言われている「わたしのことば」というのは、神がエレミヤを通して語られる神のことばです。エレミヤに託された主のことばが、どのように実現するのかをご自身が見張っているというのです。これを聞いた時エレミヤはどんなに肩の力がぬけたことかと思います。ヨッシャー!と思って立ち上がったら、「いや、それはあなたがするんじゃなくてこのわたしだ」と言うのですから。ガクッと来ますよね。ではそのことばとはいったいどのようなことばなのでしょうか。

 Ⅱ.煮え立った釜(13-16)

 それが次に出てくる煮え立った釜の幻です。13~16節をご覧ください。「再び主のことばが私にあった。「あなたは何を見ているのか。」私は言った。「煮え立った釜を見ています。それは北からこちらに傾いています。」すると主は私に言われた。「わざわいが北から、この地の全住民の上に降りかかる。 今わたしは、北のすべての王国の民に呼びかけている-主のことば-彼らはやって来て、エルサレムの門の入り口で、周囲のすべての城壁とユダのすべての町に向かいそれぞれ王座を設ける。わたしは、この地の全住民の悪に対してことごとくさばきを下す。彼らがわたしを捨てて、ほかの神々に犠牲を供え、自分の手で造った物を拝んだからだ。」

 これがエレミヤを通して語られた主のことばです。先のアーモンドの枝の幻を見てから幾日か経ってからのことでしょう。再びエレミヤに主のことばがありました。「あなたは何を見ているのか。」エレミヤは答えました。「煮え立った釜を見ています。それは北からこちらに傾いています」と。

 「煮え立つ釜」とは、神の煮え立つような怒りのことです。それが「北から傾いている」とは、バビロン軍が北の方からやって来るということです。彼らはやって来て、エルサレムの門の入り口で、周囲のすべての城壁とユダの城壁のすべての町に向かってそれぞれ王座を設けるのです。いったいなぜそのようなことが起こるのでしょうか。それは16節にあるように、彼らがイスラエルの神、主を捨てて、ほかの神々にいけにえをささげたり、自分たちの手で作った物を拝んだからです。その悪に対して主がさばかれるからです。これが主のことばです。主は、このことばを実現しようと見張っているのです。

 でもどうやってこれが起こるのでしょうか。というのは、エレミヤが預言者として召されたのはB.C.627年のことでした。当時、周辺諸国を支配していたのはアッシリヤ帝国です。アッシリヤ帝国によってオリエント世界は完全に支配されていたのです。バビロンなんていう国は聞いたこともありませんでした。事実、バビロンはアッシリヤの支配下にありました。ですから、世界最強のアッシリヤ帝国が消滅して、名もないバビロン帝国が世界の覇者になると聞いても、ピンときませんでした。だれも信じることができなかったのです。今で言えば超大国のアメリカが消えて無くなり、どこの名もないような国が急に世界の覇者になるようなものです。考えられません。そのバビロンがやって来てどうやってエルサレムを滅ぼすというのでしょうか。そんな時に、エレミヤはこの預言のことばを語れと言われたのです。語れと言われても、それは突然天から聞こえてきたというよりもエレミヤの思いの中に、そのような思いが与えられたということでしょう。

 彼は夕飯を待ちながら、グツグツと煮え立つ釜を見ていると、その釜が突然北の方から傾いてきてこぼれそうになりました。そのとき、「わざわいが北から、この地の全住民の上に降りかかる。」という主の御声を聞いて、神のことばを悟ったのです。つまりエレミヤは夕飯の用意をしながら、グツグツと煮え立つ釜を身ながら、偶像礼拝をしているイスラエルのあり方を身ながら、こんなことをしていたら、きっと神のさばきがくると考えたのです。それが北からやって来るバビロン帝国でした。

 まだ人々はバビロンという国さえ知らない時代です。まだ北からの驚異を少しも感じていないとき、そんな時に人々にこんな罪の生活をしていたから、必ず北から攻められる、それは神のさばきだと人々に語らなければならないのです。だれが信じるでしょうか。だれも信じられなかったでしょう。バカじゃないか、そんなことあるはずがないじゃないか、もっとマシな話をしろと、鼻で笑われたに違いありません。これが神のことばだと告げれば告げるほど人々から笑われ、そんなことを言って脅かすなと非難されていたのです。17章の15節からのところをみると、エレミヤの嘆きの言葉が記されています。「ご覧ください。彼らは私に言っています。『主のことばはどこへ行ったのか。さあ、それを来させよ。』しかし私は、あなたに従う牧者になることを避けたことはありません。癒やされない日を望んだこともありません。あなたは、私の唇から出るものが御前にあることをよくご存じです。私を恐れさせないでください。あなたは、わざわいの日の、私の身の避け所です。私を迫害する者たちが恥を見て、私が恥を見ることのないようにしてください。」(17:15-18)

エレミヤが「北から攻められて、自分たちの国は滅びる」、これは主のことばだと語れば語るほど、お前の言った言葉はちっとも実現しないではないかとからかわれていたのです。

 そのエレミヤに対して主は、「わたしはわたしのことばを実現しようと見張っている」と言われました。お前がこれは主のことばだといって語ったことは、わたしが責任をもって実現させる、そのために見張っているのだと、神はエレミヤに語られたのです。だからお前は安心して主のことばを語れというのです。わたしがお前が語ったことばを実現させるからと。これはエレミヤにとってどんなに心強い言葉であったかと思います。

 そして、事実、このことばが実現します。主がこれをエレミヤに語られた翌年のB.C.626年に、バビロンの王ナボポラッサルがアッシリヤに反乱を企て独立を果たすのです。これが新バビロニア帝国です。そしてそのまま破竹の勢いで勢力を伸ばすと、B.C.612年には、ついにアッシリヤ帝国の首都ニネベを陥落させるのです。つまり、バビロンがアッシリヤに代わって世界の覇者となるのです。それは、主がエレミヤに語られたてら15年後のことでした。

そして、それからさらに7年後の605年に、このバビロン軍が南ユダに侵攻します。エレミヤがこれを預言したのがB.C.627年ですから、それから実に22年後のことです。その年にバビロンが南ユダに侵略し、ダニエルを始めとした優秀な人材をバビロンに連行するのです。これが第一次バビロン捕囚です。それはユダの王エホヤキムの治世の第三年のことでした(ダニエル1:1)。

それから19年後のB.C.586年には、これが最も有名なものですが、バビロンの王ネブカデネザルがエルサレムを包囲し、陥落させるのです。その中心にあったエルサレム神殿は破壊され、エルサレムは瓦礫の山となり、エルサレムの住民はバビロンへと連行されます。これが究極のバビロン捕囚です。ここで主がエレミヤに語られたとおりになるのです。ユダの人々がそんなこと考えられないと鼻で笑ったことを、主は実現されるのです。これが主のなさることです。主はご自分が語られたことを実現しようと見張っておられるのです。

聖書にはたくさんのことが書かれていますが、実にその3分の1は預言です。ですから聖書は預言の書と言われているわけですが、その預言は、これまでの歴史においてことごとく実現してきました。その中には1,900年もの間失われていたイスラエルが、世の終わりに再建されるというのもあります。考えられません。しかし、1948年5月にこれが実現します。イスラエルという国が建国されたのです。これは20世紀最大の奇跡と言われていますが、現実に起こったのです。

ですから、未来のことについて信じ難いことでも、私たちはこの神のことばを信じなければなりません。世間が何と言おうとも、変わることがない神のことばを信じなければならないのです。勿論、それは預言ばかりでなく聖書に書かれてあるありとあらゆることです。たとえそれが常識では考えられないことでも、理性的に受け入れられないことでも、この世の価値観からあまりにもかけ離れていることであっても、聖書は神によって語られた神のことばであり、神は必ずそれを実現してくださるのです。

エレミヤの時代の人々は信じることができませんでした。まさか22年後にバビロンがやって来て人々を連れて行くなんて考えられませんでした。しかし、主はご自身が語られたことばを実現しようと見張っておられます。大切なのは、見ないで信じることです。イエスはトマスに言われました。「あなたはわたしを見たから信じたのですか。見ないで信じる人たちは幸いです。」(ヨハネ20:29)見ないで信じる者は幸いです。見ないで信じましょう。主が語られたことばは、必ず実現するからです。

 Ⅲ.腰に帯を締めて立ち上がれ(17-19)

ですから、第三のことは、腰に帯を締めて立ち上がれということです。17~19節をご覧ください。「さあ、あなたは腰に帯を締めて立ち上がり、わたしがあなたに命じるすべてのことを語れ。彼らの顔におびえるな。さもないと、わたしがあなたを彼らの顔の前でおびえさせる。見よ。わたしは今日、あなたを全地に対して、ユダの王たち、首長たち、祭司たち、民衆に対して要塞の町、鉄の柱、青銅の城壁とする。彼らはあなたと戦っても、あなたに勝てない。わたしがあなたとともにいて、-主のことば-あなたを救い出すからだ。」」

主はエレミヤに二つの幻の意味を説明すると、腰に帯を締めて立ち上がり、主が命じるすべてのことを語れ、と言われました。帯を締めて立ち上がるとは、働きやすいように着物の裾をまくり上げて腰の帯で締めることです。主が語るように命じられたことをすべて語ることができるように用意しておきなさいということです。あなたはその用意が出来ているでしょうか。監督から声が掛かったらいつでもベンチから飛び出していく野球の選手のようにウォーミングアップが出来ているでしょうか。監督の考えや戦略を熟知していて、すぐにそれに対応できるように準備しているでしょうか。

Ⅰペテロ1章13節に、「腰に帯を締める」と同じことばが使われています。「ですから、あなたがたは心を引き締め、身を慎み、イエス・キリストが現れるときに与えられる恵みを、ひたすら待ち望みなさい。」

この「心を引き締め」ということばです。あなたの心は緩んでいないでしょうか。考えがあっちに行ったりこっちに行ったりしていないですか。あのことを考えたりこのことを考えたりして集中できないということはないでしょうか。聖書のことばに集中して生きるのか、この世の価値観に流されて生きるのかということです。人の言うことに振り回されていないでしょうか。そうではなく、心を引き締め、身を慎み、イエス・キリストが現れるときに与えられている恵みを、ひたすら待ち望まなければなりません。

彼らの顔を恐れてはなりません。さもないと、主があなたを彼らの顔の前でおびえさせることになります。「人を恐れるとわなにかかる。しかし主に信頼する者は守られる。」(箴言29:25)とあるとおりです。エレミヤが語ることばは、彼らにとって歓迎されるようなことばではありませんでした。むしろ(いぶか)られたり、拒絶されたりするようなことばでした。しかしそれでも彼は、人々の顔を恐れず主が語れと命じられたことを語らなければなりませんでした。人の顔色を見て神のことばを薄めたり、ゆがめたり、へつらったり、オブラートに包んだりしないで、ストレートに語らなければならなかったのです。

そうすれば、主は彼を「要塞の町、鉄の柱、青銅の城壁とする」と約束されました。「要塞の町」とか「鉄の柱」、「青銅の城壁」とは、揺るぐことがない堅固な町という意味です。主はそれをエレミヤに重ねて言っているのです。恐れてはならない、おののいてはならない。主が語られたすべてを大胆に語るように。なぜなら、主があなたとともにいて、あなたを救い出されますから。主が救ってくださいます。自分で自分を救うのではありません。自分で弁護するのでもないのです。人に取り入られようとへつらう必要もありません。全部主が成し遂げてくださいます。あなたは絶対に潰されることはありません。倒れることはないのです。主があなたを要塞の町、鉄の柱、青銅の城壁としてくださるからです。

エレミヤの預言者としての活動は実に40年間にわたるものでしたが、たとえ40年間だれ一人あなたの語ることばに見向きもしなくても、だれ一人あなたのことばに耳を傾けなくても、それでもあなたは語り続けなさい。わたしがともにいるから。そう語られたのです。これを信じたエレミヤは、40年以上も神の働きを続けることができました。それはこの世の人々の目には不毛のように見えたかもしれません。しかし、神の目ではそうではありませんでした。アーモンドの枝のように、死んでいるように見えても花を咲かせていたのです。ですからエレミヤは、どんなに反対されても、忍耐して、忠実に語り続けることができたのです。

あなたはどうでしょうか。人にどう思われるが気になりますか。そんなこと言ったら変に思われるんじゃないかとか、バカにされるんじゃないか、仲間外れにされるんじゃないかと心配になってはいないでしょうか。ストレートに言ったら反って相手の気分を損なわせてしまうことになるのではないか。それでは逆効果だと思うかもしれない。でも恐れないでください。主はきょうあなたにこう言われます。「さあ、あなたは腰に帯を締めて立ち上がり、わたしがあなたに命じるすべてのことを語れ。」と。

なかなかわかってもらえないかもしれません。拒まれるかもしれない。逆ギレされるかもしれません。それによって人間関係を失うかもしれません。でも彼らの顔を見ておびえないでください。主があなたともにいて、あなたを救い出してくださいますから。これが主の約束です。主のことばはとこしえに堅く立ちます。草はしおれ、花は散る。しかし、主のことばはとこしえに立つ。主のことばに信頼して、あなたも腰に帯を締めて立ち上がり、主があなたに命じるすべてのことを語ってください。

エレミヤはアーモンドの枝をみながら、「わたしはわたしのことばを実現しようと見張っている」という主のことばを聞いて力づけられ、また肩の力を抜くことができましたが、それはエレミヤばかりでなく、あなたに対しても語られている主のことばなのです。

福音をゆだねられた者 Ⅰテサロニケ2章1~12節

聖書箇所:Ⅰテサロニケ2章1~12節(テサロニケ講解2回目)

タイトル:「福音をゆだねられた者」

きょうはⅠテサロニケ2章から、「福音をゆだねられた者」というタイトルでお話したいと思います。1章では、このテサロニケの教会の人たちがいかに信仰に歩んでいたかが語られました。彼らは絶えず、神の御前に、信仰の働き、愛の労苦、主イエス・キリストへの望みの忍耐をもっていました(1:3)。そのような彼らの姿は、マケドニヤとアカヤとのすべての信者の模範となりました(1:7)。いや、それはマケドニヤとアカヤにとどまらず、あらゆる所に響き渡ったほどです(1:8)。

しかし、そんなにすばらしいテサロニケの教会にもいくつかの問題がありました。それは彼ら自身の問題というよりも、彼らを取り巻く環境の中で、テサロニケの教会を破壊しようとする攻撃があったということです。それはパウロの働きに対する非難です。たとえば、彼が純粋な動機から神の福音を語っても、中にはそれを誤解して、自分たちを支配しようとしているのではないかと思ったり、献金をだまし取ろうとしているのではないかと言う人たちがいたのです。当時偽教師と呼ばれていた者たちがいて、そうした者たちが各地を回って偽りの教えを説いていたのです。そうした者たちへの警戒心からパウロたちの働きを彼らと同一視し、あしざまに非難するような人たちがいたのです。

神によって立てられた者がこのような非難を受けることは、イエス様の時代にもあったことで驚くべきことではありませんが、そうしたことが蔓延すると神さまの御名がそしられることになり、何よりも出来たばかりのテサロニケの教会が動揺してしまう危険性があったので、どうしても解決しなければなりませんでした。

そこでパウロは、神さまの恵みによって成長しているテサロニケの教会がそうした愚かな噂話に動揺することなく、立派に成長してほしいという思いから、自分たちが神に認められて福音をゆだねられた者であり、その働きが純粋な動機からなされていることを、ここで弁明しているのです。

Ⅰ.神によって勇気づけられて(1-2)

まず1節と2節をご覧ください。「兄弟たち。あなたがた自身が知っているとおり、私たちがあなたがたのところに行ったことは、無駄になりませんでした。それどころか、ご存じのように、私たちは先にピリピで苦しみにあい、辱めを受けていたのですが、私たちの神によって勇気づけられて、激しい苦闘のうちにも神の福音をあなたがたに語りました。」

ここでパウロは、テサロニケの人たちのところに行ったことは無駄にはならなかったと言っています。「無駄」という言葉は、「空っぽ」とか「何もない」という意味です。パウロは、自分たちがテサロニケを訪れたことは無駄ではなかった、つまり実りがあった、価値があった、と言っているのです。なぜでしょうか。彼らのところに行って福音を伝えた結果、教会が誕生したからです。それがテサロニケの教会です。

2節には、「それどころか、ご存知のように、私たちは先にピリピで苦しみにあい、辱めを受けていたのですが」とあります。彼らはまずピリピで苦しみにあい、辱めを受けました。占いの霊に憑かれていた女奴隷からその霊を追い出したことで、もうける望みがなくなった女奴隷の主人から訴えられると、彼らは捉えられ、鞭で打たれ、牢に入れられたのです。その出来事は使徒の働き16章に書いてありますので、後で確認しておいてください。「苦しみにあい」という言葉は、身体的な苦しみを受けたという意味です。また「辱めを受けていた」という言葉は、人間としての品位や名誉を傷つけられたということです。そのような苦しみと辱めを受けたことは、パウロが一人でそう思っていたことではなく、ここに「ご存知のとおり」とあるように、それはテサロニケの人たちをはじめ誰もが知っていたことでした。認めていたことだった。にもかかわらずパウロたちは、次の伝道地であった

このテサロニケに向かい、そこで神の福音を彼らに語ったのです。どうしてでしょうか。

ここには、「私たちの神によって勇気づけられて」とあります。彼らはそうした激しい苦闘にあっても、神によって勇気づけられていたのです。この「神によって勇気づけられて」というのは、「神において勇気づけられて」ということです。私たちが勇気づけられるのは、神さまが私たち一人ひとりに働きかけてくださり、その働きかけに私たちがお応えするという人格的な交わりにおいてのことです。たとえば、パウロがコリントで伝道したとき、安息日ごとにユダヤ教の会堂で伝道していましたが、そこのユダヤ人たちはパウロに対して犯行して口汚くののしったからでしょうが、パウロの中に相当の恐れがあったようです。そんなとき彼が祈っていると主が幻のよってこう語られました。「恐れないで、語り続けなさい。黙ってはいけない。わたしがあなたがたとともにいるので、あなたを襲って危害を加えるような者はいない。この町には、わたしの民がたくさんいるのだから。」(使徒18:9-10)それで彼はそこに1年か月の間腰を据えて、彼らの間で神のことばを教え続けたのです。そうでなかったら、そこに留まることはできなかったでしょう。でも神様がみことばを与えて励ましてくださるので、勇気をもって神の福音を語ることができるのです。

私たちは厳しい状況に直面すると、なんとか自分の勇気を振り絞り、その状況を打開しようとします。それはその状況に責任感を持って真剣に向き合おうとしていることでもありますから悪いことではありませんが、しかし私たちは、そのようなときに、しばしば神様なしに我力で状況を打開しようとするのです。神様との交わりの中でその問題に立ち向かっていくのではなく、自分の力でなんとかしようとするわけです。しかし私たちが自分の力で勇気をいくら振り絞っても、その勇気はあっという間に枯渇してしまいます。それどころか、神様との交わりを持たない頑張りというのは、御心に従うためのものではなく、自分の思いを実現するためのものとなってしまいます。ですから、私たちは厳しい状況であればあるほど、神様との交わりの中に留まらなければなりません。そして、神様の語りかけを聞き、私たちも祈りにおいて神様に語りかけていかなければならないのです。その交わりにおいてこそ、私たちは勇気を与えられるからです。

厳しい状況の中にあって、神様との交わりにおいて勇気を与えられたパウロたちは、テサロニケの人たちに「神の福音」を語りました。1章の終わりで語られていたように、その「神の福音」によって、テサロニケの人たちは、偶像から離れて神に立ち帰り、生けるまことの神に仕えるようになり、そして、御子キリストが再び来られるのを待ち望みつつ生きるようになったのです。

私たちも、教会の宣教活動において、また、日々の生活の中で、厳しい状況に直面することがありますが、だからこそまず天を見上げ、神との交わり通して与えられる神のことばによって勇気づけられることを求めなければなりません。そこに神が働いてくださり、ご自身の救いの御業を成してくださるのです。

今、大田原教会のケビン兄が膀胱癌の手術で2回目の入院をしていますが、病院のベッドからメールをくださって「牧師は私のメッセージを受け取りましたか。何の反応もないので」とありました。来週の日曜日に英語礼拝でメッセージをすることになっていまして、その原稿を送ってくださったのです。私は自分の準備精一杯でケビンさんの原稿にまだ目を通していませんでしたが、家内が読んで内容を伝えてくれました。

それは使徒の働き12章からのメッセージで、そこには、ヘロデ王が、教会の中のある人たちを苦しめようとして手を伸ばし、ヨハネの兄弟ヤコブを剣で殺した、とありました。一方、それがユダヤ人に喜ばれたのを見て、今度はペテロを捕らえて牢に入れたのです。しかし、教会は彼のために、熱心に祈っていました。そして、神はその祈りに答えてくださり、奇跡的にそこから救い出してくださったのです。

同じキリストの弟子でもヤコブは殺され、ペテロは生き延びました。いったいこれはどういうことか、というのがそのメッセージでした。結論から言うと、ヤコブが殺されたということになると、私たちは「どうして神様はそんなことをされたのだろう」と思ってがっかりするというか、神様の愛を疑ってしまいがちですが、そうではありません。ヨハネ17章24節でイエス様が、「わたしがいるところに、彼らもわたしとともにいるようにしてください。わたしの栄光を、彼らが見るためです。」と祈っていますが、ヤコブはその栄光を見たのです。一方、ペテロは生かされました。なぜ彼が行かされたのか。それは彼には別の使命があったからです。私たちも苦難に会うと「どうしてですか」と思うことがありますが、すべては神様の御手の中にあると信じて祈ることが大切です。という内容のものでした。

だれよりも家内はそれを読んで興奮して、「これはすごいメッセージだ。こんなにすばらしいメッセージはなかなか書けない。」と私の前で言うものですから、私も少し嫉妬しましたが、でも、誰よりもケビンさん自身が励ましを受けたのではないかと思います。神のみことばを宣べ伝えるメッセンジャーが一番恵まれるというのはこういうことなんですね。でもそれは私たちすべてに言えることです。神を見上げ、神との交わりの中で神の御声を聞く。それで勇気づけられて神の働きに出て行くことができる。私たちはいつも神によって勇気づけられる者でありたいと思います。

Ⅱ.人を喜ばせるのではなく、神に喜んでいただこうとして(3-6)

第二のことは、パウロがどのような動機で福音を語っていたのか。3節から6節までをご覧ください。「私たちの勧めは、誤りから出ているものでも、不純な心から出ているものでもなく、だましごとでもありません。むしろ私たちは、神に認められて福音を委ねられた者ですから、それにふさわしく、人を喜ばせるのではなく、私たちの心をお調べになる神に喜んでいただこうとして、語っているのです。あなたがたが知っているとおり、私たちは今まで、へつらいのことばを用いたり、貪りの口実を設けたりしたことはありません。神がそのことの証人です。また私たちは、あなたがたからも、ほかの人たちからも、人からの栄誉は求めませんでした。」

3節のところでパウロは、自分たちの宣教について三つのことを否定しています。まず、彼らの勧めは誤りから出ているものではない、ということです。「誤り」とは、聖書の真理からさまよって、自分の意見を語ることです。しかし彼らの勧めは聖書の真理から出たものでした。その真理とは、キリストの十字架に示された神の愛の真理です。パウロたちは、彼らの宣教において、神の愛の真理について誤りがなかったのです。どのような状況にあっても、どのような相手に対しても、神様がこの世へと御子を遣わし、その御子を私たちのために十字架に架け、復活させたことに示される神の愛の真理を宣べ伝えました。

第二に、彼らの勧めは「不純な心」から出たものではないということです。不純な心とは純粋な心でないことです。つまり彼らの勧めは、純粋な動機から出たものであったということです。

第三に、彼らの宣教は「だましごと」でもありませんでした。だましごととは、人をだますような話のことです。実際はそうではないのに、あたかもそうであるかのように装うことですね。この「だましごと」と訳された言葉は「策略」とも訳すこともできる言葉で、他の聖書の訳では「策略によるものでもありません」と訳されています。ここで「だましごと」が具体的に何を意味しているかははっきりしませんが、相手に気に入られようとする思い、あるいは相手から見返りを得ようとする思いのことではないかと思われます。あるいは、策略によらないとあるのは、当時、巧みな言葉を使って価値のないことを価値があることのように宣伝する策略を用いる詭弁家、偽説教者がいたことを示唆しているのではないかと思います。しかしパウロたちの伝道はそのような策略によるものではありませんでした。いえ、そのような策略など必要なかったのです。なぜなら、神の福音は価値のないものではなく、あるいは価値があるように見せかける必要も全くなかったからです。神の福音こそが、私たちを救い、生かすものだからです。「だましごと」にしても、「策略」にしても、それは人間の思いです。しかしパウロたちの宣教は、人間の思いによるものではなかったのです。

4節をご覧ください。ここには「むしろ私たちは、神に認められて福音を委ねられた者ですから、それにふさわしく、人を喜ばせるのではなく、私たちの心をお調べになる神に喜んでいただこうとして、語っているのです。」とあります。パウロたちは、「人に喜ばれるためではなく、私たちの心をお調になる神に喜んでいただこうとして」神の福音を語っていました。それこそ、神に認められて福音をゆだねられた者のあるべき姿です。その動機がどこにあるかが問われているのです。彼らは決して人を喜ばせようとして語ることはしませんでした。むしろ神に喜んでいただこうとして語ったのです。なぜなら神は、私たちの心をお調べなさる方だからです。

詩篇139編23~24節にはこうあります。「神よ。私を探り、私の心を知ってください。私を調べ、私の思い煩いを知ってください。私のうちに傷のついた道があるか、ないかを見て、私をとこしえの道に導いてください。」

神様は私たちの心を探り、知っておられます。どんなに顔に出したり、口に出したりしなくても、どんなに上手に繕ったとしても、神は私たちの心のすべてを知っておられるのです。人は欺けても神を欺くことはできません。

私たちはしばしば神様に喜んでいただくよりも、人に喜ばれることを願います。人に喜ばれることは悪いことではありませんが、しかし、神を忘れ人に喜ばれることばかりに心を奪われると、そのことに捉われて、どうしたら相手が喜んでくれるかということばかり考えるようになります。すると相手が喜びそうなことを言ったり、相手に合わせて、相手が喜んでくれるように振る舞ったりしてしまうのです。意識してもしなくても、そこには相手を喜ばすための「策略」が潜んでいることになるのです。たとえそれで相手が喜んでくれたとしても、「よこしまな思い」や「策略」によって相手を喜ばそうとすることによって、キリストによる救いを証しすることはできません。なぜなら、神様を無視して人を喜ばせようとしても、そこに神の愛の真理はないからです。

それは人に喜んでもらうことや自分自身の満足などはどうでもいいということではありません。そのように極端に考える必要はありません。神を喜ばせることを第一にするなら、その結果として、必ず人にも、自分にも正当で十分な喜びと満足が与えられるからです。ただ、ここで言いたいのは、喜ばせるという動機がどこから出ているのかということです。もしそれが人を喜ばせようとするだけのものであれば、どうしてもそこには人におもねる心やへつらいの態度が現れてくることになります。ですから、そこには何一つ良いものは生まれてこないのです。神様との正しい関係があってこそ、人との正しいあり方が生まれてくるからです。

パウロは、人を喜ばせようとしてではなく、神を喜ばせようとして語りました。こんなこと言ったら相手が不快に思うのではないか、もしかすると嫌われるのではないかという心配もあったでしょうが、神の福音をゆだねられた者として、それにふさわしくはっきりと語ったのです。

伝道者にとって最大の誘惑の一つは、聞く人に気に入られるように語ることです。厳しいさばきのことばや罪について語るのを避け、奇跡をそのまま述べることをためらい、当たり障りのない、相手に合わせた福音を、まぁ、こういうのは福音とは言いませんけれども、そうした教えを語ろうとするのです。しかしパウロはそうした誘惑に負けませんでした。5節にあるように、彼は、へつらいのことばを用いたり、むさぼりの口実を設けたりはしませんでした。もしパウロが町の人たちに取り入ろうとして伝道していたら、迫害や反発は起こらなかったでしょうが、けれども、その代わりに困難な中でも明確に救われて、偶像から立ち返り、生けるまことの神に仕えるようになる人も起こされなかったでしょう。しかし彼は、そうしたへつらいのことばを用いたり、むさぼりの口実を設けたりはしませんでした。彼は神に認められた者にふさわしく、人を喜ばせようとしてではなく、神に喜んでいただこうとして、神の福音を語ったのです。

これは私たちの模範とすべき姿です。伝道するのが厳しい状況かもしれません。私たちの証しが拒まれることもあるかもしれません。けれども私たちは、神様との交わりに生きる中で、神様から勇気を与えられ、厳しい状況の中にあっても、キリストの十字架と復活による救いを証ししていく者でありたいと思います。その救いの恵みによって、本当の喜びが与えられていくからです。

Ⅲ.母のように、父のように(7-12)

第三のことは、パウロはテサロニケの人たちにどのようにふるまったのかということです。7~12節をご覧ください。ここには、「キリストの使徒として権威を主張することもできましたが、あなたがたの間では幼子になりました。私たちは、自分の子どもたちを養い育てる母親のように、あなたがたをいとおしく思い、神の福音だけではなく、自分自身のいのちまで、喜んであなたがたに与えたいと思っています。あなたがたが私たちの愛する者となったからです。兄弟たち。あなたがたは私たちの労苦と辛苦を覚えているでしょう。私たちは、あなたがたのだれにも負担をかけないように、夜も昼も働きながら、神の福音をあなたがたに宣べ伝えました。また、信者であるあなたがたに対して、私たちが敬虔に、正しく、また責められるところがないようにふるまったことについては、あなたがたが証人であり、神もまた証人です。また、あなたがたが知っているとおり、私たちは自分の子どもに向かう父親のように、あなたがた一人ひとりに、ご自分の御国と栄光にあずかるようにと召してくださる神にふさわしく歩むよう、勧め、励まし、厳かに命じました。」とあります。

人は子供が生まれて親になると、子どもが生まれた喜びとともに、子供を育てる責任を感じます。テサロニケで多くの霊の子供たちが生まれると、パウロはその親として彼らの養育に全力を注ぎました。彼はどのように彼らを養育したでしょうか。7節には、彼はキリストの使徒として権威を主張することもできましたが、彼らの間では幼子のようになったとあります。彼は、キリストの使徒としてその権威を主張して重んじられることもできましたが、その権威に固執して、権威を振りかざしたりしないで、彼らの間で幼子のようになりました。この幼子のようになったというのは、ただ神様の憐れみと恵みによってのみ救いに与ることができる弱く小さな者として、福音を証しし宣べ伝えたということです。それは自分の子どもたちを養い育てる母親のようです。は親は自分の子どもをどのように養い育てるでしょうか。どんなだだ息子、だだ娘でも、愛情とあわれみをもって、優しくふるまいますよね。父親はそうではありません。ちょっとでも道を踏み外そうものなら、もう勝手にせい!と相手にもしませんが、母親はそうではありません。もういつまでもねちねちと、「だいじょうぶ。あなたのために祈ってるわよ」と、深い愛情をもって接します。パウロたちは男性でしたが、そんな母親のように無条件に子供を包み込むやさしさがありました。そればかりか、自分のいのちまでも、喜んで与えたいと思っていました。それほど彼らを愛していたのです。

旧約聖書に描かれているイスラエルの神にも、このような側面が描かれています。たとえば、イザヤ書66章13節には「母に慰められる者のように、わたしはあなたがたを慰め、エルサレムであなたがたは慰められる。」とあります。まことに神は、母親のように慰め、無条件の愛で包み込んでくださる方です。そんな神の愛でパウロは優しくふるまったのです。それは8節にあるように、彼らのことを思う心から、ただ神の福音だけではなく、私たち自身のいのちまでも、喜んで彼らに与えたいと思ったほどです。ここで彼は自分と子供を同一化しています。自分のいのちまでも与えたいと思うほど愛していたのです。

そうかと思えば、11節、12節にあるように、父親がその子供に対して接するように接しました。すなわち、「ご自分の御国と栄光にあずかるようにと召してくださる神にふさわしく歩よう、勧め、励まし、厳かに命じ」たのです。これは威厳を持って子供たちを正しい道に導き、訓戒する父親の姿です。このような父親の愛は「あなたがた一人ひとりに」とあるように、一人ひとりを重んじ、ねんごろに教え諭すという愛でした。決して十把一からげに訓戒するというものではありませんでした。一人ひとりに、丁寧に、時間をかけて、細かな点にまで配慮して成されたのです。このようなことのためには相当の時間と労力が必要だったのではないかと思います。私も牧師としてこのように御言葉の奉仕に仕えさせていただいておりますが、とにかく時間がかかります。こうしたみことばの準備はとても大切なので相当の時間を割いて準備にあたっていますが、そればかりではなく、教会の運営のことや一人一人のニーズに応えられるように、一人ひとりがみこころにかなった歩みができるように助け、励まし、導きを与えていけるように祈り、配慮したいと思っています。それはいくら時間があっても足りないくらいです。

ましてパウロは9節を見ると、誰にも負担をかけないように、昼も夜も働きながら、神の福音を彼らに宣べ伝えたとあります。まさに神業です。どうやってそんなことができたのか。考えられません。私たちの何倍もの働きをしていた彼が、経済的な負担をかけまいと、夜も昼も働きながら、神の福音を宣べ伝えたのです。まさに親心です。親は子どもにはできるだけ負担をかけないようにと、自らが負担して、それでも喜んで子どものために自分をささげます。そんな親心をもってみことばを宣べ伝えたのです。

彼は後にミレトの港にエペソの長老たちを呼び集めて説教したとき、次のように言いました。「私が三年の間、夜も昼も、涙とともにあなたがたひとりひとりに訓戒し続けてきたことを、思い出してください。」(使徒20:31)それはまさに涙とともになされた祈りの訓戒だったのです

このようにテサロニケでのパウロ働きは母親のような優しさと、父親のような厳かさがありました。この両面があってこそ、テサロニケの教会は大きく成長することができたのです。それは今日の教会にも言えることです。今日の教会もこの両面がないと、教会の健全な成長は望めません。ともすれば優しすぎたり、厳しすぎたりのどちらか一方に走ってしまい、そのバランスを欠いてしまいがちになりますが、厳しさの中にも優しさがあり、優しさの中にも厳しさもあるといったバランスが求められているのです。

人間が成長するということは決まった材料を与えれば同じ結果が出てくるというようなものではありません。確かに子供が正しく成長していくためには、できるだけ良い環境に置くことが求められますが、最も大切なことは、母親のやさしさと父親の厳しさのバランスが必要であるということです。それはキリストの教会にも言えることです。教会もやさしさと厳しさのバランスがあってこそ健全に成長していくのです。パウロは母親のように優しくふるまい、父親のように御国に召してくださる神にふさわしく歩むように勧めをし、慰めを与え、おごそかに命じました。

ですから、パウロの伝道はまやかしやだましごとでも、何でもありませんでした。彼は純粋な心で、ただ神を喜ばせようとして語りました。たとえそこにどんな労苦と苦闘があっても、敬虔に、正しく、まただれからも責められるところがないようにふるまったのです。

それは、私たちの模範でもあります。福音宣教の働きには必ずこのような非難や中傷、誤解も伴うことがありますが、そのような中にあっても私たちは常に純粋な心で、人を喜ばせようとしてではなく、ただ神に喜んでいただくために語るという姿勢を忘れないようにしたいものです。それが神に認められて福音をゆだねられた者なのです。

エレミヤの召命 エレミヤ書1章1~10節

レジメ

聖書箇所:エレミヤ書1章1~10節

タイトル:「エレミヤの召命」

 今日からエレミヤ書に入ります。エレミヤは、1節にあるように、「ベニヤミンの地、アナトテにいた祭司の一人、ヒルキヤの子」でした。アナトテは、エルサレムの北東約4キロに位置する寒村です。昔から祭司たちが住み、祭司の村として知られていました。エレミヤは、その祭司の一人ヒルキヤの子として生まれました。すなわち、彼は子供のときから神に対する敬虔な態度を培われ、神の律法をよく学んでいたということです。

 このエレミヤに主のことばがありました。それはユダの王、アモンの子ヨシヤの時代のことで、その治世の第十三年のことでした。ヨシヤは8歳で王として即位したので、その治世の13年というのは、ヨシヤが21歳の時であったことがわかります。それはB.C.627年のことでした。その年にエレミヤに主のことばがあったわけです。

それはさらに、ユダの王、ヨシヤの子ゼデキヤの第十一年の終わりまで、すなわち、その年の第五の月にエルサレムの民が捕囚としてバビロンに連行される時まで続いたとあります。いわゆるバビロン捕囚です。捕囚の民としてバビロンに連れて行かれたという出来事です。それはB.C.586年のことですから、エレミヤの預言者としての活動は、B.C.627年からB.C.586年までの、実に41年間であったということになります。長いですね。

 彼が預言者として活動していた時期はどのような時であったかというと、イスラエルの歴史において最も暗黒な時代であった言えるでしょう。霊的にも、道徳的にも、社会的にも堕落しており、その結果、バビロンという国に捕囚の民として連れて行かれることになったのですから。エレミヤが預言者として活動を始めた時はヨシヤ王の時代でした。彼は非常に善い王様で、父アモンによってもたらされた偶像を神殿から廃棄し、祭司ヒルキヤによって発見されたモーセの書を民の前で朗読するなどして宗教改革に取り組み、イスラエルの民を神に立ち返らようとしました。

しかしそれは長くは続かず、イスラエルは再び主に背き、元の状態に戻ってしまったのです。3節にヨシヤの子エホヤキムとありますが、彼は神のことばをストレートに語るエレミヤを鬱陶(うっとう)しく思い、激しく弾圧しました。その結果、エルサレムはバビロンの王ネブカデネザルによって陥落し、ついにはエルサレムの民がバビロンに連行されて行かれることになってしまったのです。これがバビロン捕囚という出来事です。

聖書には年代として覚えておきたいいくつかの出来事がありますが、その一つがこのB.C.586年のことです。ちなみに、他に覚えておきたい出来事、年代としては、たとえばアブラハムが神に示された地に出て行けということばを受けて、告げられたとおりに出て行ったという出来事があります。創世記12章にありますが、それはB.C.2,000年頃のことです。それから、モーセがイスラエルの民をエジプトから解放した出来事、出エジプトですね、これはB.C.1,400年頃のことです。さらに今祈祷会でちょうどやっているところですが、ダビデがイスラエルとユダを統一して王国を築いた出来事、これはB.C.1,000年頃のことです。また、その子ソロモンによってイスラエルが分裂した出来事、これはB.C.931年のことです。そしてイスラエルの分裂後、北イスラエル王国がアッシリヤによって滅ぼされた出来事、B.C.722年です。そしてこの南ユダ王国がバビロンによって捕囚の民となった出来事です。これを以ってエルサレムの民はバビロンに連れて行かれ、そこで70年の時を過ごすことになるのです。

その時の最後の王がゼデキヤでした。彼は両目をえぐられて、バビロンに連行されました。この出来事は、イスラエルの歴史において一大転機となります。かつてイスラエルがエジプトの奴隷として430年間囚われていたように、70年間他国に支配され、奴隷の民として過ごすことになったからです。最終的にそれは、罪の奴隷として罪の支配の中にあった私たちを救ってくださるイエス・キリストの救いにつながっていくのです。エレミヤはまさにこのバビロン捕囚を預言し目撃する人物として神から遣わされたのです。

それは本当に嘆かわしい出来事でした。その中でエレミヤは涙をもって、神のことばを語り続けました。エレミヤが「涙の預言者」と呼ばれる所以はここにあります。それは、ユダヤ人の宗教指導者と対峙し、激しい言葉を使いながら涙を流されたイエス様の姿でもあります。「エルサレム、エルサレム。預言者たちを殺し、自分に遣わされた人たちを石で打つ者よ。わたしは何度、めんどりがひなを翼の下に集めるように、おまえの子らを集めようとしたことか。それなのに、おまえたちはそれを望まなかった。」(マタイ23:37-38)

そしてそれは、神に背を向けて自分勝手に生きている現代の私たちに対する神の叫び、神の心でもあります。私たちは、このエレミヤを通して語られる神のことばを私たちに対する神からの涙のメッセージとして受け止め、神のみこころは何かを学び、神のみこころに歩む者でありたいと願わされます。

 Ⅰ.エレミヤの召命(4-5)

 では、エレミヤが預言者として召された出来事を見ていきましょう。4節と5節をご覧ください。「次のような主のことばが私にあった。「わたしは、あなたを胎内に形造る前からあなたを知り、あなたが母の胎を出る前からあなたを聖別し、国々への預言者と定めていた。」」

 すごいことばですね。エレミヤは、生まれる前から預言者として定められていました。彼は祭司の子どもとして生まれたので祭司として召されていたというのならわかりますが、祭司としてではなく預言者として定められていました。預言者とは、言葉を預かると書きますが、文字通り神の言葉を預かり、それを語る人のことです。

 それは彼が母の胎内に形造られる前からのことでした。神は彼を、胎内に形造られる前から知っておられました。この「知る」ということばは、へブル語で「ヤーダー」と言います。皆さんは「ヤーダー」と言わないでください。神に知られているということはすばらしいことなのですから。あなたも生まれる前から神に知られていました。この「知る」ということばは、夫が妻を知るという時に使われることばで、夫婦の性的関係を持つ時に用いられることばです。それほど親密なレベルで知っているということです。ただ情報として知っているというだけでなく、本当に親密なレベルで人格的に、経験的に知っているのです。そのように神はあなたのすべて知っておられるのです。あなたが胎内に形造られる前から。

そして母の胎を出る前から、国々への預言者として定めておられました。この時点で彼はそのことを知りませんでした。しかし、時至って彼はそのことを知ることになります。10章23節で彼はこう告白しています。「主よ、私は知っています。人間の道はその人によるのではなく、歩むことも、その歩みを確かにすることも、人によるのではないことを。」

人間の道とは人の一生のことですが、人の一生はその人によって決まるのではなく、神の御手の中にあり、神によって定められているのです。皆さんもまさか自分がクリスチャンになってここにいるようになるなんて考えたこともなかったでしょう。だれも知りません。でも神はすべてのことを知っておられます。そして、その歩みを確かなものにしてくださるのです。

 それは私たちも同じです。私たちがクリスチャンになることは、私たちが生まれる前から、神によって定められていたことなのです。エペソ1章4節には、「すなわち神は、世界の基が据えられる前から、この方にあって私たちを選び、御前に聖なる、傷のない者にしようとされたのです。」(エペソ1:4)とあります。私たちは、生まれる前から、いや、世界の基が据えられる前から、クリスチャンになるように選ばれていたのです。このようになるようにと定められていたのです。

このようなことを申し上げると、中には私はロボットではない。一人の人格を持った人間であり、何をするかといった選択の自由が与えられているのであって、定められていたというのはおかしいと言う方がおられます。しかし、そうした選択さえも予め定められているのであって、私たちがどこにあってもキリストを信じるように導かれていたのです。ですから今皆さんがここにいるのも決して偶然ではないのです。

私は18歳の時に今の妻と出会い、クリスチャンになりました。どうして妻に出会ったのかを考えても本当に不思議だなぁと思います。全く考えられないことでした。しかし、今になって思うことは、エレミヤが、「主よ、私は知っています。人間の道はその人によるのではなく、歩むことも、その歩みを確かにすることも、人によるのではないことを。」と告白したように、すべてが主の導きによるものであったということです。綾小路きみまろの「あれから40年!」というフレーズが有名ですが、私のあれから40年も、まさに主の導きによるものであったと実感するのです。決して「偶然」ではなかった。そうです、人の一生は生まれる前からすでに神のみ手にあり、その使命は定められているのです。

ある夕方、ひとりの大学教授が机に向かって翌日の講義の準備をしていました。家政婦が置いていった書類や手紙に目を通しながら、不要なものをくずかごに捨て始めたとき、ある雑誌が目に留まりました。それは、彼の事務所に誤って配達された雑誌でした。それが床に落ちたとき、たまたまその雑誌の中の「コンゴ伝道の必要性」という記事が載ったページが開いたのです。

教授は何とはなしにその記事を読み始めると、そのとき、このことばが彼の心をとらえました。

「コンゴでの必要性は大きい。中央コンゴの北部、ガボン州を担当する人がいない。この記事を書きながら、わたしはこう祈っている。主イエスは、このために召された人物の上に、すでにその目を注いでおられる。今こそ神がその人物の上に手を置き、私たちを助けるために彼をこの地に派遣してくださるように。」

雑誌を閉じた教授は、その日の日記に書き記しました。

「私の探求は終わった。」

彼はコンゴに身をささげることにしました。この教授の名前はアルバート・シュバイツァーです。この小さな記事は、他人宛ての雑誌の中に潜んでいたものでした。その雑誌が、誤ってシュバイツァーの郵便受けに入れられていたのです。さらに、家政婦が偶然にもそれを教授の机の上に置きました。そして偶然にも教授がその記事のタイトルに気付きました。まるでタイトルの方が彼の目に飛び込んで来たかのようでした。

シュバイツァー博士は、人道主義的な分野で、20世紀を代表する偉大なひとりとなりました。彼の功績は、人類の歴史上、ほとんど他に類を見ないほどのものです。これは偶然に起こったのでしょうか。いや、これは神の摂理によるのです。(Dan Betzer 「Preaching Today.com」)

エレミヤは、自分は神から召されたのだという強い確信がありました。これが、いかなる困難に遭遇しても、それを乗り越えることができた理由です。神は、エレミヤが誕生する前から彼を預言者として選んでおられました。これは私たちにも言えることです。あなたは、自分が神から選ばれた者であることを知っていましたか。神が選んでくださったのであれば、最後まで必ず責任をもってくださいます。あなたは何も心配いりません。何も思い悩む必要はないのです。あなたに必要なのは、永遠の昔から神によって知られ、生まれる前から聖別され、神の栄光のために定められていると信じることなのです。

 Ⅱ.エレミヤの応答(6-8)

 次に、この神の召しに対するエレミヤの応答を見たいと思います。6~8節をご覧ください。「私は言った。「ああ、神、主よ、ご覧ください。私はまだ若くて、どう語ってよいか分かりません。」主は私に言われた。「まだ若い、と言うな。わたしがあなたを遣わすすべてのところへ行き、わたしがあなたに命じるすべてのことを語れ。彼らの顔を恐れるな。わたしがあなたとともにいて、あなたを救い出すからだ。主のことば。」私は言った。「ああ、神、主よ、ご覧ください。私はまだ若くて、どう語ってよいか分かりません。」」

 神の召命に対するエレミヤの応答は、「私はまだ若くて、どう語ってよいかわかりません」というものでした。この時エレミヤが何歳だったのかははっきりわかりませんが、預言者として立つにはまだ若いと言っていることから、恐らく20代前半位だったのではないかと思われます。そんな若者がどうやって語れというんですか。そんなの無理です、できるわけがありませんと、答えたのです。もしかすると彼は、祭司の子として生まれたこともあって、預言者として召されることにためらいがあったのかもしれません。あるいは、彼の時代からさかのぼること100年前に現れて神のことばを大胆に語った預言者イザヤと比較して、自分にはとてもそんな力はないと思ったのかもしれません。いずれにせよ、自分にはできませんと答えました。

それに対して、主は何と言われたでしょうか。7節をご覧ください。「主は私に言われた。「まだ若い、と言うな。わたしがあなたを遣わすすべてのところへ行き、わたしがあなたに命じるすべてのことを語れ。」

「まだ若い、と言うな」、これは言い訳するな!ということです。できない理由をあげたらきりがありません。自分は若くて未熟な者です。まだ訓練が十分ではありません。自分は預言者としては不適格です。しかし、そのような言い訳は一切必要ありません。というのは、神がエレミヤを預言者として召されたのは、彼に能力があったからではなく、また、知識や経験があったからでもなく、神がそのように選ばれたのだからです。従って、彼に求められていたことは何かというと、能力や知識や経験があるということではなく、ただ神に従うことでした。神が遣わされるところであればどんなところでも行き、神が命じられたことであればそれをその通りに語ることです。すなわち、神のことばに忠実であることです。この預言者の資格について元東大総長の矢内原忠雄は、聖書講義の中で次のように言っています。

「預言者の資格は年令や人生の経験によるのではなく、素直に神の示されたものを見、語られることを聞き、命じられた言葉を告げる真実な心と純粋な信仰にあります。・・預言者は神の言葉を聞いて、これに加えることなく、また減らすことなく、そのまま純粋に伝えることを任務とするため、素直で真実な性格を要求され、人の顔を恐れない勇気を必要とします。」(矢内原忠雄、「聖書講義」8:580)

まさにその通りです。たとえ若かろうと老いていようと、才能があろうとなかろうと、口が重いとか軽いとかということとは全く関係なく、神の預言者に求められているのは、神の言葉を聞き、それをそのまま伝えることです。ですから、預言者に求められることは素直で真実であることなのです。また、人の顔を恐れない勇気です。ですから、8節に次のように勧められているのです。「彼らの顔を恐れるな。わたしがあなたとともにいて、あなたを救い出すからだ。──主のことば。」」

 エレミヤの問題は、人の顔を恐れていたことでした。しかし神はいつもエレミヤとともにあって救い出してくれるから、人の顔を恐れるなと言われたのです。箴言29章25節には、「人を恐れるとわなにかかる。しかし主に信頼する者は守られる。」とあります。人を恐れるとわなにかかります。しかし、主に信頼する者は守られます。どんなに強い確信をもっていても、失望する時は必ずやって来ます。そんな時エレミヤは、神との絶えざる交わりを通して、新しい力を得ていかなければならなかったのです。

あなたはどうですか。人の顔を恐れていませんか。恐れは、私たちの行動を束縛します。しかし、「愛には恐れがありません。全き愛は恐れを締め出します。」(Ⅰヨハネ4:18)とあるように、神の完璧な愛の前に、恐れは一瞬にして締め出されます。大切なのは、神様とともに歩むことです。

「リビングライフ」というディボーションガイドの古いものを見ていたら、数年前に天に召された韓国のオンヌリ教会のハ・ヨンシュ先生の「愛する人を慕うように」というタイトルの詩を見付けました。

「苦しみ自体は問題ではありません。

神様がともにおられないことが問題です。

苦痛がのろいではありません。

神様がともにおられないことがのろいです。

神様は神の人と毎日、毎時間、ともにおられる方です。

神様がともにおられると、恐れはありません。

失敗しても、病気になっても問題ではありません。

死さえも恐れなくなります。

主とともにいると、すべてがうまくいきます。

すべてがうまくいくとは、すべてのことがともに働いて益となるということです。

苦しみが去っていくのではなく、苦しみを打ち破って、勝ち抜く力を持つことです。

「神様が私たちとともにおられる」と思うだけで、

すべての責任を神様が取ってくださるような気がします。

それをまた別の視点で見て、「私たちが神様とともにいる」と考えると、

私たちは神様を忘れてはならないということになります。

たとえ苦痛や悩みがあっても、私たちの中には神様がおられます。

一日を神様ともに始めてください。

そして、一日中ともに行動してください。

いつも神様のことを考えてください。

神様のことを考えることが、神様とともに行動することです。

それは私たちの特権です。(ハ・ヨンジュ、「愛する人を慕うように」リビングライフ2010年4月号)

すばらしいですね。神とともにいるなら、恐れは全くありません。死さえも恐れなくなるというのはすごいことです。私たちにとって最も重要なのは、この神とともにいることです。神とのつながりを通して、日々新しい力を受けようではありませんか。人の顔を恐れないで、神に信頼しましょう。

Ⅲ.エレミヤの使命(9-10)

第三に、エレミヤに与えられた使命です。9~10節をご覧ください。「そのとき主は御手を伸ばし、私の口に触れられた。主は私に言われた。「見よ、わたしは、わたしのことばをあなたの口に与えた。見なさい。わたしは今日、あなたを諸国の民と王国の上に任命する。引き抜き、引き倒し、滅ぼし、壊し、建て、また植えるために。」」

そのとき主は御手を伸ばし、エレミヤの口に触れられました。これは、イザヤが召命を受けたときの状況に似ています(イザヤ6:7)。それは彼の口がきよめられたことを表しています。それは、神のことばを語るのにふさわしい者となったということです。そんなエレミヤに対して主が言われたことは、「見よ、わたしは、わたしのことばをあなたの口に与えた。」ということでした。それは、何を話そうかと自分で考えたり、自分で編み出す必要はないということです。神が与えてくださったことばを語るだけでいいのです。預言者とは「言葉」を「預かる」と書きますが、文字通り神の言葉を預かって語る人のことです。自分がどう思うか、どう考えるかということではなく、神が語れと言われることを語ればいいのです。それは聖書に書いてありますから、聖書のことばを語るだけでいいのです。神は、その語るべきことばさえも与えてくだいます。

忘れもしません。私は1983年5月29日の日曜日の礼拝から、ほとんど毎週休みなしで語り続けてきました。それは私たちが結婚した翌日のことでよく覚えています。その前日の土曜日に結婚式を挙げて新婚旅行に行きましたが、翌日は家に戻って来て礼拝をスタートしました。あれから38年。まあよく喋ること、お父さんは口から生まれて来たんじゃないかとよく娘に言われますが、そんなことはありません。私は生まれた時から口が重く、口べたなんです。できれば、貝のように口を閉ざし、ずっと黙っていたいと思っているくらいなんで。誰も信じないかもしれませんが本当です。ただⅡテモテ4章2節の「みことばを宣べ伝えなさい。時が良くても悪くてもしっかりやりなさい。忍耐の限りを尽くし、絶えず教えながら、責め、戒め、また勧めなさい。」のみことばを読んだとき、「ああ、時が良くても悪くても」語らなければならないと思いました。その使命感だけでずっと語り続けています。できれば、もっと流暢に、もっとおもしろく、もっと感動的な話ができたらなぁと思うこともありますが、そんなの関係ありません。預言者である牧師にとって必要なことはいかに上手に話をするかではなく、主が語れと言われたことを忠実に語ることだからです。何を話すのか、どのように話すのかは全く関係ないのです。語るべきことばは、主が与えてくださいますから、そのことばをストレートに語るだけでいいのです。それが私たちにゆだねられている使命なのです。

では、主がエレミヤに語られたのはどんなことだったでしょうか。10節をご覧ください。ここには、「見なさい。わたしは今日、あなたを諸国の民と王国の上に任命する。引き抜き、引き倒し、滅ぼし、壊し、建て、また植えるために。」とあります。

これはどういうことかというと「破壊」と「建設」です。「さばき」と「回復」です。エレミヤが神のことばとしてイスラエルの民に語ったことは、イスラエルの滅亡の預言と、悔い改めのメッセージでした。罪の悔い改めがなければ、神の赦しと回復はありません。まず引き抜き、引き倒し、滅ぼし、壊します。しかし、それで終わりではありません。主はそこからまた建て、植えられるのです。引き抜かれることがありますが、また植えられます。壊すことがありますが、また建て直してくださいます。言い換えるなら、もしあなたが今、引き抜かれ、引き倒されているような状況に置かれているなら、それはやがて植えられるために必要な過程を通されているということです。その中でこそあなたは悔い改め、やがて植えられることになるからです。ここに真の回復と希望があります。真の回復と希望は、こうした罪の悔い改めの結果もたらされるものであって、それを避けてはならないのです。

ある有名な映画女優が、仕事と遊びに忙しくて、家をあけてばかりいました。家には十代後半の娘がひとり、お手伝いさんといっしょに暮していました。それでも自分が母親だということは自覚していた母親は、その娘の誕生日に、旅先のローマからすばらしい花びんを送ったのです。ところがその花びんが届くと、娘はそれを床の上に投げつけて言いました。「私がほしいのは花びんじゃない。ママなのよ!」母親から離れてしまった子供は、たとえどんなにすばらしいものをたくさん持っていたとしても不幸です。ちょうど同じように、私たちは自分を創ってくださった神から離れては、どんなに財産があっても、地位が高くても、また名誉を与えられていても、本当に幸福にはなれないのです。(羽鳥順二著、「初めて聖書を開く人のための12のステップ」P48)

私たちもこの映画女優のような仕方で、幸福を得ようしてはいないでしょうか。神から離れたままでは真の幸福を得ることはできません。「すべての人は、罪を犯したので、神からの栄光を受けることができず・・・」(ローマ3:23)とあります。神から離れているという事実がわからないで、どうやって神のもとに帰ることができるでしょうか。言い換えるなら、自分が罪人であるという自覚がなければ、きよい神を知ることができないということです。先ほどの矢内原忠雄氏はこう言っています。「望遠鏡を用いないで天文学の研究をすることが愚かであるように、自分自身の罪を通さずに神を見ようとする者はおろかなことである。」

また、宗教改革者のカルヴァンも「人間の罪深さを知らないで、どうしてきよい神を知ることができようか」と言っています。そうです、私たちが自分は罪人だと気づいた時、次の聖書のことばの意味がよくわかるようになるのです。

「すべての人は、罪を犯したので、神からの栄誉を受けることができず、ただ、神の恵みにより、キリスト・イエスによる贖いのゆえに、価なしに義と認められるのです。」(ローマ3:23-24)

真の回復は、破壊から始まります。真に植えられることは引き抜くことから始まるのです。罪の自覚と悔い改めなしには、真の赦しはありません。救いと希望はないのです。ですから主はエレミヤに、破壊と建設、さばきと回復のメッセージを語るようにと言われたのです。これが、私たちが語るべき福音のメッセージです。破壊的な働きは人からは好まれません。だれも聞きたくないからです。それで涙することもあるでしょう。でも、真の救いは罪の悔い改めから始まるということを覚えて、この福音のメッセージを語り続けましょう。「まだ若い」と言わないでください。主があなたを遣わすどんなところへでも行き、主があなたに命じるすべてのことを語ってください。彼らの顔色を恐れるな。主があなたとともにいて、あなたを救い出してくださるからです。

主イエスよ、来てください 雅歌8章8~14節

聖書箇所:雅歌8章8~14節

タイトル:「主イエスよ、来てください」

 雅歌からの最後のメッセージです。雅歌の最後の最後は、「私の愛する方よ、急いで来てください。」という花嫁のことばで終わっています。聖書の一番最後はヨハネの黙示録ですが、その最後も同じです。花婿であるキリストに対する花嫁のことば、キリストの花嫁であるである教会のこのことばで終わっています。「主イエスよ、来てください。」(黙示録22:20)

ここに、私たちの見るべき目標があります。私たちはどこに向かって走るのか、何のために走るのかを知ることはとても重要なことです。聖書はそれを、主イエス・キリストを待ち望むことであると言っているのです。使徒パウロもこのように言っています。

「しかし、私たちの国籍は天にあります。そこから主イエス・キリストが救い主として来られるのを、私たちは待ち望んでいます。キリストは、万物をご自分に従わせることさえできる御力によって、私たちの卑しいからだを、ご自分の栄光に輝くからだと同じ姿に変えてくださいます。」(ピリピ3:20-21)

彼の生きる目標は何だったのでしょうか。それは天の御国でした。そこから主イエスが救い主として再び来られるのを待ち望んでいたのです。なぜなら、そのとき主イエスは私たちの卑しいからだを、栄光に輝くキリストのからだと同じ姿に変えてくださるからです。これが花嫁である教会、私たちクリスチャンの究極の目標です。

この地上にあっては艱難があります。様々な災害があれば病気もあります。私たちはその度に悩み、苦しみ、最後にはその生涯を終えるのです。であれば、いったいどこに生きる意味があるというのでしょうか。私たちは何のために生きるのでしょうか。それはこの地上を越えた天の御国、キリストの再臨を待ち望むことにあるのです。私たちも「主イエスよ、来てください。」という再臨の信仰をもって主を待ち望まなければなりません。

 Ⅰ.私は城壁、その乳房はやぐらのよう(8-10)

今日の御言葉を見ていきましょう。まず8~10節をご覧ください。「私たちの妹は若く、乳房もない。私たちの妹に縁談のある日には、彼女のために何をしてあげようか。もし彼女が城壁だったら、その上に銀の胸壁を建ててあげよう。彼女が戸だったら、杉の板でおおってあげよう。私は城壁、私の乳房はやぐらのよう。そのために、私はあの方の目には平安をもたらす者のようになりました。」

ちょっと読んだだけでは何のことを言っているのかわかりにくい文章です。ここに「私たちの妹」とありますが、これまで妹のことについては全く触れられていませんでした。この妹とはだれのことなのか。花嫁の妹のことです。花嫁が妹のことを心配して、自分の兄たちと一緒に、妹が結婚するまでどうやって妹の純潔を守って上げることができるかと心配しているのです。これは霊的には未熟なクリスチャンのことを指しています。外からの攻撃に何の防備もできていないのです。

そんな花嫁の問いに対して、兄たちはこう答えます。9節です。「もし彼女が城壁だったら、その上に銀の胸壁を建ててあげよう。彼女が戸だったら、杉の板でおおってあげよう。」どういうことでしょうか。

「城壁」とは、自分たちの城を守る防壁のことです。また「胸壁」とは、その城壁に付いている砦のことです。その砦が付くことによって、より一層防備を固めることができます。すなわち、妹がどんな男も寄せ付けない強い意志を持っているなら、城壁の上にさらに胸壁を建てて、守りをしっかりと固めようと言っているのです。

一方、「彼女が戸だったら」どうでしょうか。「戸」というのは、家の中に何でも取り入れてしまう弱い心を表しています。すなわち、自分で心と体のドアを簡単に開けてしまう(もろ)さを持っている状態のことです。もし彼女が戸だったら、杉の板でおおってあげよう、つまり彼女を囲んで守ってあげよう、というのです。

あなたは城壁ですか、それとも戸ですか。私たちは城壁なのか戸なのかによって、その結果が決まります。主イエスとの関係を城壁のようにしっかりと守るなら、私たちは安心して過ごすことができます。それは10節に「私はあの方の目には平安をもたらす者のようになりました。」とあるように、主の目に平安をもたらすような存在となるからです。

しかし、逆にあなたが戸であるならば、すなわち、霊的貞潔を守らずに、来るものは拒まずで、何でも簡単に取り入れてしまうようであるなら、主イエスとの関係が損なわれ、主から離れてしまうことになります。ですから、私たちは城壁になるように心がけたいと思います。そうすれば主は必ずあなたを盤石にし、ますます強固にしてくださいます。

10節をご覧ください。「私は城壁、私の乳房はやぐらのよう。そのために、私はあの方の目には平安をもたらす者のようになりました。」

これは花嫁のことばです。彼女はここで、「私は城壁、私の乳房はやぐらのよう。」と言っています。つまり、私は強い意志で貞潔を守ってきたと言っているのです。キリストの花嫁である教会もそうでありたいですね。

イエス様はそのような教会は、「ハデスの門もそれには勝つことができません。」(マタイ16:17)と言われました。「それには」とは、岩の上にしっかりと建てられた教会のことです。「あなたは生ける神の子キリストです」と告白して止まない教会は、岩の上に建てられた家のように、どんな強敵が襲ってきてもビクともすることがありません。もしかするとあなたはそのように感じていないかもしれません。私はすぐに誘惑に負けてしまうような者で情けないなぁとか、ふがいないなぁと思っているかもしれませんが、しかし城壁があるなら大丈夫です。イエス・キリストという岩の上にしっかりと建てられているなら、主が必ず守ってくださるからです。

また、ここには「私の乳房はやぐらのよう。」とあります。この「乳房」とは、成熟を表しています。9節には妹の乳房についての言及がありましたが、妹の乳房はどうだったかというと、「乳房はない」とありました。すなわち、成熟していなかった、未熟だったというのです。それに対して、姉である花嫁の乳房はどうであるかというと、あるというだけでなく「やぐらのよう」と言われています。やぐらのように堅固であるということです。そのために花婿に、平安をもたらす者のようになったのです。

私たちもクリスチャンとして成長すればするほど、やぐらのように強い信仰を持つことができるようになります。そうなれば、花婿キリストに平安をもたらす者になることができるのです。どうしたらそのような者になることができるのでしょうか。

第一に、みことばを慕い求めることです。Ⅰペテロ2章1~2節にこうあります。「ですからあなたがたは、すべての悪意、すべての偽り、偽善やねたみ、すべての悪口を捨てて、生まれたばかりの乳飲み子のように、純粋な、霊の乳を慕い求めなさい。それによって成長し、救いを得るためです。」

「霊の乳」とはみことばのことです。生まれたばかりの乳飲み子のように、純粋なみことばの乳を慕い求めることです。そうすれば成長し、救いを得ることができます。

第二に、キリストのからだである教会に身を置くことです。使徒20章32節にはこうあります。「今私は、あなたがたを神とその恵みのみことばにゆだねます。みことばは、あなたがたを成長させ、聖なるものとされたすべての人々とともに、あなたがたに御国を受け継がせることができるのです。」

これはパウロのことばです。パウロはミレトの港にエペソの長老たちを集めて言いました。何が彼らを成長させ、御国を継がせることができるのか。「みことば」です。みことばが、あなたがたを成長させてくださいます。しかしその後にとても重要なことを語っています。それは、「聖なるものとされたすべての人々ともに」ということです。「聖なるものとされた人々」とは、クリスチャンのこと、すなわち、クリスチャンたちの群れである教会のことを指しています。そのようなすべての人々とともに、御国を受け継がせることができるのです。「いや、私は家で一人で聖書を読んでいるので大丈夫です」とか、「私は聖書のメッセージをインターネットで聞いています」という方もおられますが、それでは御国を継がせていただくことはできません。勿論、一人で聖書を読んだり祈ったりすることは大切なことです。でもそれで十分かというとそうではなく、私たちは常に「聖なるものとされたすべての人々」とともにあることが必要なのです。そうすれば、御国を継がせていただくことができます。やぐらのような乳房になることができるのです。これが、聖書が教えていることです。

第三に、神の与えてくださるすべての武具を身につけることです。エペソ6章10~11節にはこうあります。「終わりに言います。主にあって、その大能の力によって強められなさい。悪魔の策略に対して堅く立つことができるように、神のすべての武具を身に着けなさい。」

使徒パウロはここで、悪魔の策略に対して堅く立つことができるように、神のすべての武具を身につけなさいと勧めています。それはどんな武具なのかというと、腰には真理の帯を締め、胸には正義の胸当てを着け、足には平和の福音の備えをはき、これらすべての上に信仰の盾を取らなければなりません。それによって、悪い者が放つ火矢を消すことができるからです。また救いのかぶとをかぶり、御霊の剣である神のことばを取らなければなりません。そしてどんなときにも御霊によって祈らなければなりません。そうすれば、悪い者が放つ火矢を消すことができるのです。

あなたはどうですか。神のすべての武具を身につけていますか。それは高いお金を払って勝ち取らなければならないというようなものではありません。イエス様を信じる者にはだれにでも備えられているものです。ただで受け取ることができます。問題は、あなたがそれに関心をもっているかどうかです。キリストの花嫁は城壁、乳房はやぐらのようです。私たちも神が備えてくださるすべての武具を身に着け、どんなに敵が攻撃して来てもビクともしない堅固なやぐらのように、成熟したクリスチャンになることを求めていきたいと思います。

Ⅱ.花婿の愛に応えて(11-13)

次に、11~13節をご覧ください。「ソロモンにはバアル・ハモンにぶどう畑があって、そのぶどう畑を、守る者たちに任せていた。それぞれは、そのぶどうの実に代えて銀千枚を納めることになっていた。私が持っているぶどう畑が私の前にある。ソロモンよ。あなたには銀千枚、その実を守る者には銀二百枚。庭の中に住む仲間たちは、あなたの声に耳を傾けている。私にそれを聞かせておくれ。」

これは花嫁のことばです。花婿ソロモンは、バアル・ハモンという所にぶどう畑を持っていました。それを農夫に貸して、ぶどうの収穫に代えて、それぞれに銀千枚を納めさせていたのです。いわゆる小作料ですね。

そして、花嫁自身もぶどう畑をもっていました。12節の「私」とは花嫁のことです。彼女はかつてぶどう畑で働く労働者でしたが、ソロモン王と結婚したことで、ソロモンの妻、妃となりました。しかし、なぜかここで彼女はソロモンに銀千枚を納め、そこで働く労働者たちには銀二百枚を支払うと言っています。でも彼女は小作人ではありません。彼女はソロモン王の妻です。王妃です。であれば、ソロモン王のものはすべて自分のもとでもあります。夫に支払う義務などないのです。私は妻の財布からは取りませんが、妻が支払ったものを支払うようなことはしません。妻のものは私のもの、私のものは私のもの・・・。しかも夫のソロモンは広大なぶどう畑をもっていましたから、妻からお金をもらうなんて必要もなかったのです。にもかかわらず、彼女は夫に銀千枚を支払うと言っているのです。また、その実を守る者には銀二百枚与えるというのです。どういうことでしょうか。

これは彼女がそうしなければならないという義務があったからではなく、彼女が自分からそうしたいと願っているのです。またその実を守る者とは、そのぶどう園で働く労働者のことですが、それは彼女の兄たちのことです。兄たちは自分をちゃんと育ててくれたのでその報奨金として、銀二百枚を与えたいと言っているのです。それは義務ではなく、彼女の心からの願いから出たことだったのです。

このことは、私たちの信仰生活においてもとても大切なことです。私たちもイエス様を信じてイエス様の花嫁となりました。それで今はこうしなければならないという律法から解放されて自由となりました。イエス様が律法から解放してくださったからです。私たちは今律法の下にではなく、恵みの下にいるのです。すべての律法や義務から解放されたのです。しかしそれは私たちが何をしてもいいということではなく、そこには責任が利根なうことを意味しています。その責任とは何でしょうか。それは、そのように解放してくださった主に感謝して生きるということです。そこには当然感謝と喜びが溢れ、それに応答したいという思いが生まれてくるからです。つまり律法はささげることを要求しますが、一方で、愛は自発的にささげることで応答するということです。この違いがわかるでしょうか。要求と応答は全く違うのです。

こうして私たちが主を礼拝しているのは、要求ではなく応答です。主が私たちを愛してくださったので、私たちはその愛に応答して主を礼拝したいのです。心を尽くし、思いを尽くし、力を尽くして、あなたの主を愛しなさいという主の戒めを、愛の応答として実践したいのです。出エジプト記20章に、有名なモーセの十戒があります。その十戒の前提がこれなのです。「わたしは、あなたをエジプトの地、奴隷の家から導き出した神、主である。」(出エジプト記20:2)

だから、それはもう律法ではないのです。主は「わたしの他に、ほかの神々があってはならない」とか「自分のために偶像を造ってはならない」「それらを拝んではならない」「安息日を覚えて、これを聖なる日とせよ。」と仰せられましたが、それは主が彼らをエジプトの地、奴隷の家から導き出してくださったから、罪の奴隷の中から救い出し解放してくださったからです。つまり、この主の愛に対する応答としてなされる行為であるということです。だから、喜んで礼拝をささげたい、心を尽くし、思いを尽くし、力を尽くして主を愛するのです。

聖書にはマグダラのマリヤという一人の女性のことについて記されてあります。彼女は最後まで主に従った女性たちの中の一人です。彼女はイエス様が十字架につけられた時もそこにいました。また埋葬の様子も見届け、そして、週の初めの日の明け方早く主イエスの亡骸がおさめられてあった墓に向かいました。そんなことをしたら捕まるかもしれないのに、そんなことをしたら処刑されるかもしれないのに、だれよりも先にイエスに会いたいという一心で墓に向かったのです。なぜでしょうか。

それは、主に愛されたからです。ルカの福音書を見ると、彼女は七つの悪霊に憑かれていたとあります(ルカ8:2)。七つの悪霊ですよ、一つの悪霊でも大変なのに、彼女は七つの悪霊に取り憑かれていました。それは完全にという意味です。聖書で「7」という数字は完全を表していますから。彼女は完全に悪霊に取り憑かれていたのです。その結果、ありとあらゆる罪に陥ってしまいました。自分でも何をしているのかわかりませんでした。誰も彼女を救うことができませんでした。しかし彼女はそこから解放されました。主が彼女から悪霊を追い出してくださったからです。主が彼女を救ってくださいました。それで彼女はそのイエスの愛に応えたかったのです。その結果彼女は、最後まで主に従って行ったのです。喜んで・・。

私たちも同じです。私たちもかつては神に背き、自分勝手に生きていた者でした。かつては、それらの罪の中にあってこの世の流れに従い、空中の権威を持つ支配者として不従順の子らの中に今も働いている悪霊に従って歩んでいました。その結果、何が何だかわからず、自分の肉の欲のままに生き、肉と心の望むことを行い、神の御怒りを受けるような者でした。しかし、あわれみ豊かな神は、私たちを愛してくださったその大きな愛のゆえに、背きの罪の中に死んでいた私たちを、キリストとともに生かしてくださいました。私たちが救われたのは恵みによるのです。アメージング・グレースです。それゆえに私たちは、このアメージング・グレースに応答して、心から主を愛する者でありたいと思うのです。

Ⅲ.私の愛する方よ、急いでください(14)

最後に14節をご覧ください。「私の愛する方よ、急いでください。かもしかのように、若い鹿のようになって、香料の山々へと。」

これも花嫁のことばです。ここで花嫁は花婿に言っています。「私の愛する方よ、急いでください。かもしかのように、若い鹿のようになって、香料の山々へと」。「かもしかのように」とか「若い鹿のように」とは、軽快に山を跳び越え、丘の上を跳ねて来る様を表しています。そのように来てくださいと言うのです。

これは、キリストの花嫁である私たち教会の祈りでもあります。Ⅰコリント16章22~24節をご覧ください。ここには、「主よ、来てください。主イエスの恵みが、あなたがたとともにありますように。私の愛が、キリスト・イエスにあって、あなたがたすべてとともにありますように。」とあります。「主よ、来てください。」は、アラム語で「マラナ・タ」と言います。これは初代教会において生まれた祈りの言葉です。ペンテコステの出来事によって誕生した、アラム語を話すユダヤ人たちの群れである最初の教会で祈られていた祈りの言葉が、そのまま新約聖書の言葉となったのです。そういう意味でこの言葉は、初代の教会の信仰をよく表わしたものであると言えます。

「主よ、来てください」という意味のこの「マラナ・タ」が初代の教会においてしばしば祈られた大切な祈りであったということは何を意味するのでしょうか。それは、主イエス・キリストに「来てください」と祈ることが、初代教会の信仰の中心であったということです。それは主イエスご自身の約束に基づくことでした。マルコ13章24~27節に、主イエスが、この世の終わりについて語られたこのような言葉があります。

「しかしその日、これらの苦難に続いて、太陽は暗くなり、月は光を放たなくなり、星は天から落ち、天にあるもろもろの力は揺り動かされます。そのとき人々は、人の子が雲のうちに、偉大な力と栄光とともに来るのを見ます。そのとき、人の子は御使いたちを遣わし、地の果てから天の果てまで、選ばれた者たちを四方から集めます。」

「人の子」とは主イエスご自身のことですが、世の終わりに、人の子であられるイエスが大いなる力と栄光を帯びてもう一度この世に来られ、選ばれた人たち、救いにあずかった者たちを呼び集め、神の国を完成して下さると約束して下さいました。

また使徒1章11節には、復活された主イエスが天に昇られた時、それを見ていた弟子たちに天使がこう言いました。「ガリラヤの人たち、どうして天を見上げて立っているのですか。あなたがたを離れて天に上げられたこのイエスは、天に上って行くのをあなたがたが見たのと同じ有様で、またおいでになります。」

主イエスがもう一度この世においでになることがこのように約束されているのです。これらの約束の言葉に支えられて、教会は、主イエスがもう一度来て下さること、即ち主イエスの再臨を待ち望んでいたのです。

したがって「マラナ・タ」ということばは、キリストの再臨によるこの世の終わりを待ち望む祈りなのです。「主よ、来てください」と言うと、「イエス様ちょっとここへ来て私を助けて下さい。今困っているこの問題を解決して下さい」という意味にとられがちですが、そういうことではありません。勿論私たちは日々の生活の中で、主イエスが聖霊の働きによって、目には見えなくても共にいて下さることを信じています。様々な具体的な問題、悩み苦しみにおいて私たちは、「主よ、私を助けて下さい、歩むべき道を示し、歩む力を与えて下さい」と祈ることができるし、主イエスはそこで人間の力を超えた恵みをもって導いて下さると信じています。しかしこの「マラナ・タ」という祈りは、主イエスの再臨によってもたらされる究極的な救いを待ち望む祈りだったのです。

そして、この祈りは新約聖書の一番最後のヨハネの黙示録22章20節にも出てきます。「これらのことを証しする方が言われる。「しかり、わたしはすぐに来る。」アーメン。主イエスよ、来てください。」主イエスの恵みが、すべての者とともにありますように。」(黙示録22:20-21)

ここには「マラナ・タ」という言葉ではありませんが、同じ意味の祈りです。「主イエスよ、来てください」これが聖書の一番最後に書かれてあるのです。新約聖書はこの祈りをもって閉じられています。新約聖書の全体が、この祈りに向けて書かれていると言ってもよいでしょう。つまりこれが聖書の締めくくりとして、神様が一番強調したかったことなのです。「私の愛する方よ、急いでください。」「主イエスよ、来てください。」「マラナ・タ」

なぜこれが最も重要な祈りなのでしょうか。それは主イエスが再び来られるとき、罪によって壊滅状態になってしまったこの世を刷新してくださるからです。今の世の中を見てください。昨年からのコロナ感染によって全世界が悲鳴を上げています。いつまで続くのか、どこまで続くのか、みんな不安になっています。アメリカと中国の緊張関係はどうでしょう。いつ戦争に発展するかわかりません。今度世界戦争が起こったら核戦争となり、取り返しがつかないことになってしまいます。世界の環境はどうでしょうか。今イギリスでCOP26が行われていますが、世界がひとつとなって取り組むべき課題として、この気候変動対策があげられています。このような問題は永遠に続きます。私たちの生活はどうでしょうか。悩みや苦しみは絶えることはありません。一難去ってまた一難です。いったいどこに希望があるのでしょうか。罪によって汚されたこの世には、どこにも希望はありません。

しかし、ここに希望があります。それはイエス・キリストです。主イエスが来られるとき、主はすべてを新しくしてくださいます。私たちをご自身と同じ栄光のからだに変えてくださいます。これが私たちの究極的な希望なのです。私たちに必要なのは、コロナ感染や自然災害、戦争の不安に脅えることではなく、またそれを人間の力によって解決しようとすることではなく、そうした努力をしつつも、この世界を創造された方、万物の支配者であられる神に立ち返ることです。神の救いを待ち望むことなのです。それが「マラナ・タ」「主よ、来てください。」という祈りなのです。

「結局のところ、もうすべてが聞かされていることだ。神を恐れよ。神の命令を守れ。これが人間にとってすべてである。」(伝道者の書12:13)

その上で、主の再臨を待ち望むのです。そうすれば、主がこの世界を刷新し、完全な御国をもたらしてくださいます。真の平和を与えてくださるのです。

明日、教会でインド人のルイバ・ラムチャンという方の葬儀が行われます。かつてアジア学院で働いておられた奥様とテモテ先生がお知り合いであったことから、そして、ルイバさんご自身がインドで熱心なバプテスト教会の信者さんであったことから、ここでやってほしいとの依頼があったのです。私は生前のルイバさんとお会いしたことがありませんが、インドで農業をしながら人々に貢献したいと、アジア学院で農業を学び、また南那須にある養豚場で研修を受けて帰国後、インドで十数年間村の開発に尽力しました。しかし、数年前に咽頭がんを発病しインドのニューデリーの病院で治療していましたが、日本で治療した方がいいのではないかと4年前に再入国して治療を続けていました。

召天される数時間前に奥様とのビデオ通話でルイバさんのことをお聴きしました。それによると、ルイバさんは神がともにいてくださるので大丈夫と言っているとのことでした。毎日聖書を読み、神に祈り、すべてを神にゆだねているとのことでした。ご主人は熱心なクリスチャンでインドのバプテスト教会に通っていたので、神がともにおられることを感謝しているとおっしゃっておられました。もう大きくなられた3人のお子様を残して天国に行かれるのは残念なことだったでしょう。結婚されるまで生きていたかったに違いありません。しかしルイバさんにとっての何よりの希望、それは主がともにいてくださるということだったのです。

皆さんの希望は何ですか。どこに希望があるのでしょうか。私たちにはいろいろな希望がありますが、これこそ究極的な希望です。主イエスよ、来てください。マラナ・タ。キリストの花嫁である私たちクリスチャン、教会にふさわしい祈り、それは「マラナ・タ」、主よ、来てくださいという祈りなのです。これが、雅歌を通して神が私たちに伝えたかったことなのです。

愛は死のように強く 雅歌8章5~7節

聖書箇所:雅歌8章5~7節

タイトル:「愛は死のように強く」

 いよいよ雅歌からのメッセージも、今回を含めてあと2回となりました。きょうのところからまた場面が変わります。最後の場面です。きょうは、「愛は死のように強く」というタイトルでお話します。

 Ⅰ.そこは産みの苦しみをした所(5)

まず、5節の前半の部分をご覧ください。「自分の愛する方に寄りかかって、荒野から上って来る女の人はだれでしょう。」

これは、エルサレムの娘たちのことばです。3章6節にも「煙の柱のように荒野から上って来るのは何だろう」とありましたが、それは花嫁ことを指していました。花嫁は荒野から上って来る者です。それはキリストの花嫁であるクリスチャンのことを指しています。クリスチャンは罪の荒野から上って来た者なのです。キリストが私たちを罪の荒野から救い出してくださいました。その特徴は何かというと、「自分の愛する方に寄りかかって」いることです。キリストの花嫁であるクリスチャンは、愛する主に寄りかかって荒野から上って来るのです。感謝ですね。

そして、5節の後半をご覧ください。ここには「私はりんごの木の下であなたの目を覚まさせた。そこは、あなたの母があなたのために産みの苦しみをした所。そこは、あなたを産んだ人が産みの苦しみをした所。」とあります。これは花婿のことばです。花婿が花嫁に、私はりんごの木の下であなたの目を覚まさせた、と言っているのです。どういうことでしょうか。

このりんごの木の下とは、花婿と花嫁が出会った場所です。そのりんごの木の下で花婿は彼女の目を覚まさせました。そこはどういう所ですか。「そこは、あなたの母があなたのために、産みの苦しみをした所。そこは、あなたを産んだ人が産みの苦しみをした所。」です。つまり、そこは彼女が生まれた所です。それは、クリスチャンにとっては十字架のことであると言えます。私たちはそこで新しく生まれ、目を覚まさせていただきました。それまでは、自分は何一つ悪いことなどしたことがないまともな人間だと思っていたのに、十字架の下でキリストに出会ったとき、「ああ、私は本当に罪深い人間だ。そのためにイエスが身代わりとなって死んでくださったんだ」ということがわかったのです。それまではわかりませんでした。自分ほど良い人間はいないと思っていたのです。私たちはみなイエス様に出会うまではそのように思っています。しかしイエス様に出会い、イエス様が産みの苦しみをしてくださった所で、私たちの目が覚ましていただき、はっきりわかるようになりました。そして私たちは、新しく生まれ変わることができたのです。そこがあなたの生まれた所。そこがあなたの信仰の原点なのです。

私たちはイエス様と出会った木の下で自分の罪に向き合うとき、そして私たちを産んでくださった十字架の下に近づくとき、そこで信仰の原点を見出すことができるのです。もうこの方から離れません。本当の意味での花婿イエス様との人生のスタートを切ることができるのです。あなたはどうでしょうか。

Ⅱ.愛は死のように強く(6)

次に、6節をご覧ください。「封印のように、私をあなたの胸に、封印のように、あなたの腕に押印してください。愛は死のように強く、ねたみはよみのように激しいからです。その炎は火の炎、すさまじい炎です。」

これは花嫁のことばです。花嫁はここで、「封印のように、私をあなたの胸に、封印のように、あなたの腕に押印してください。」と言っています。「封印」とは、手紙などの封じ目に印を押すことです。実際には、封じ目に「(しめ)」とか「(ふう)」、「(かん)」などと書いたり印を押したりしますが、あれです。その封印には二つの意味がありました。

一つは決して解かれることがないということです。ですからここで花嫁が「封印のように、私をあなたの胸に、封印のように、あなたの腕に押印してください」と言っているのは、互いの愛が決して解かれることがないようにしてくださいということです。私はあなたのものです。そしてあなたは私のものです。私たちは互いのものなのです。それはもう解かれることはありません。たとえ死んでも、です。花嫁はここで「愛は死のように強く」と言っているのはそのことです。彼女の愛は死んでも解かれることがありません。それほど強いのです。すごいですね、夫婦は生きている間だけでもフーフーしているのに、死んでも解かれたくないと強く願うほどの愛を持っているのですから。決して離れることがないように、決して解かれることがないように、あなたの胸にしっかり刻み付けてください。あなたの腕にしっかり押印してくださいと切望しているのです。

「封印」のもう一つの意味は、契約の確かな保証です。封印とは「証印」と訳すこともできます。はんこですね。それは、契約の確かな保証を表しています。私たちも何らかの契約をするとき互いに押印しますが、それはその契約の確かさを保証しているわけです。ですから「封印のように、私をあなたの胸に、封印のように、あなたの腕に押印してください」とは、自分をはんこのように花婿の胸に、花婿の腕に押してくださいということです。どんなことがあっても決して離れることがないと保証してくださいと願っているのです。

私たちにもそのようなはんこが押されているのを知っていますか。エペソ1章13~14節にこうあります。「このキリストにあって、あなたがたもまた、真理のことば、あなたがたの救いの福音を聞いてそれを信じたことにより、約束の聖霊によって証印を押されました。聖霊は私たちが御国を受け継ぐことの保証です。このことは、私たちが贖われて神のものとされ、神の栄光がほめたたえられるためです。」

ここには、「約束の聖霊によって証印が押されました」とあります。私たちは真理のことば、救いの福音のことばを聞いて信じたとき、約束の聖霊が与えられました。その聖霊によって証印を押されたのです。それは、私たちがどんなことがあっても天の御国を受け継ぐことができるという保証です。人間の約束ならば、状況が変われば契約も破棄されるということもあるかもしれませんが、神であられる聖霊様が保証しておられるのであれば、どんなことがあっても大丈夫です。救いを失うことは絶対にありません。イエス様を信じる者はだれでも救われ、天国に行くことができるのです。聖霊によってその証印が押されています。私たちはいい加減なもので、イエス様を信じてからも罪を犯すような弱い者ですが、それでも救いを失うということは決してありません。罪を悔い改めて神に立ち返るなら、神はどんな罪でも赦してくださるのです。

アメリカ人女性が作った詩で「あしあと」という詩があります。

「ある夜、私は夢を見た。私は、主とともに、なぎさを歩いていた。
暗い夜空に、これまでの私の人生が映し出された。
どの光景にも、砂の上に二人のあしあとが残されていた。
一つは私のあしあと、もう一つは主のあしあとであった。
これまでの人生の最後の光景が映し出されたとき、
私は砂の上のあしあとに目を留めた。
そこには一つのあしあとしかなかった。
私の人生でいちばんつらく、悲しいときだった。
このことがいつも私の心を乱していたので、私はその悩みについて主にお尋ね
した。「主よ。私があなたに従うと決心したとき、あなたは、すべての道にお
いて私とともに歩み、私と語り合ってくださると約束されました。
それなのに、私の人生の一番辛いとき、一人のあしあとしかなかったのです。
一番あなたを必要としたときに、
あなたがなぜ私を捨てられたのか、私にはわかりません」
主はささやかれた。
「私の大切な子よ。私はあなたを愛している。
あなたを決して捨てたりはしない。ましてや、苦しみや試みのときに。
あしあとが一つだったとき、私はあなたを背負って歩いていた。」

(「あしあと」マーガレット・F・パワーズ)

何度か紹介したことがある詩です。何度読んでも励まされます。なぜなら、ここには変わらない神の真実が描かれているからです。私たちは感情的なもので、状況によって主が共にいてくださると喜んでみたり、どこかへ行ってしまったと悲しんだりすることがありますが、主は決して約束を反故にすることはされません。すべての道においてともに歩まれると約束された方は、どんなことがあっても離れることはないのです。なぜなら、聖霊によって証印を押してくださったからです。聖霊による愛の関係は、決して絶えることがないのです。愛は死のように強いからです。

ところで、ここには「ねたみはよみのように激しいからです」ともあります。愛は死のように強いというのはわかりますが、ねたみはよみのように激しいとはどういうことでしょうか。愛とねたみは相いれないものように感じます。それは愛の裏側には常にねたみがあるということです。愛とねたみは表裏一体なのです。愛が強ければ強いほど、ねたみも激しくなります。神は愛ですが、同時にねたむ方でもあります。出エジプト記20章5節には、「あなたの神、主であるわたしは、ねたみの神。」とあります。ここで主ははっきりと「主であるわたしはねたむ神」と言っています。また、出エジプト記34章14節でも、「あなたは、ほかの神を拝んではならない。主は、その名がねたみであり、ねたみの神であるから。」とあります。神はねたみの神なのです。

しかしそれは私たちが抱くようなねたみとは違います。一般に「ねたむ」とは、他人が自分よりも優れた状態である時、それを羨ましく思ったり、憎らしく思うことで、罪の中の一つに数えられているものです。事実、愛の賛歌として有名なⅠコリント13章4節には、「愛は寛容であり、愛は親切です。また人をねたみません。」とあります。愛はねたまないのです。それなのにここには、ねたみはよみのように激しいとあります。それは神のねたみは私たち人間が抱くねたみと違って、ご自分にのみ帰せられる愛とか栄光を、だれかほかのものに与えられる時に抱く思いのことです。ですから新共同訳ではここを「熱情は陰府のように酷い。」と訳しているのです。

私の二番目の娘が3歳の頃、屋内プールに連れて行ったことがありました。私は紺の水泳パンツと黒いキャップ、それに黒いゴーグルを着けていました。しかし、ちょっと疲れたのでプールサイドに腰かけて休憩していたら、何を血迷ったのか、娘が急に「お父さん!」と叫んでプールに向かって走り出し、そのまま勢いよくジャンプしたのです。もちろん、そのまま沈んでいきました。遠くから見ていた私は「なんだ!」と思いながら娘を救出しようと近寄ると、そこに私と全く同じ格好をしていた男性がいたのです。娘はそれを私と勘違いして思いっきり飛び込んだのです。焦ったのはその男性の方でした。いったい何が起こったのかを理解できず、しかしこのままでは小さな女の子が溺れるのではないかと思って、必死で救出してくれました。

「すいません。なんだか私と間違えたみたいです」と言ってその場を後にしましたが、私の中には少し複雑な気持ちがありました。「おいおい、お父さんはボクだよ。知らない人に行っちゃだめだよ!」と。

そのときですが、神様の気持ちをちょっと理解できたような気がしました。私たちは神によって造られた者です。それなのに、神ではない他の神々に走っていくことがあるとしたら、神はねたまれるのではないかと。そうなんです、愛とねたみは表裏一体であって、本当の愛にはねたみが伴うのです。

そのねたみはよみのように激しいのです。「よみ」とはヘブル語で「シェオル」と言います。死んだ人が行くところです。ですから、これも死のように激しいと同じことなのです。愛は死のように強く、ねたみはよみのように激しいからです。それほど花嫁の花婿に対する愛が燃えているということです。その炎は火の炎、すさまじい炎です。それはひとえに花婿の愛がそれほどまでに強く、激しいからです。「神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに世を愛された。それは御子を信じる者が、一人として滅びることなく、永遠のいのちを持つためである。」(ヨハネ3:16)これが愛です。神は、それほどに、あなたを愛されたのです。

それは私たちに対する神の熱情の表れです。その炎は火の炎であり、すさまじい炎です。あなたはそれほどまでに愛されているのです。神はあなたのことを片時も忘れたことはありません。私たちは平気で神様を裏切り、神様そっちのけで自分のことばかり気になって、とにかく我力で、自分勝手に生きているような者ですが、神は違います。神の愛は死のように強く、よみのように激しいのです。私たちは、そんな愛で愛されているのです。ですから私たちは、この花嫁のように、たとえ死んでも解かれることのないような強い愛であなたの胸に刻んでくださいと応答したいです。封印のように、あなたの腕に押印してください、と強く願う者でありたいと思うのです。

Ⅲ.大水もその愛を消すことができません(7)

最後に、7節をご覧ください。「大水もその愛を消すことができません。奔流もそれを押し流すことができません。もし、人が愛を得ようとして自分の財産をことごとく与えたなら、その人はただの蔑みを受けるだけです。」

その愛は炎のように燃える、すさまじい愛でした。そのような愛は大水でも消すことができません。この「大水」という言葉は、創世記6章17節では「大洪水」と訳されています。それはノアの箱舟の大洪水のことです。地球がすべて覆われるような大水でも消すことはできないということです。あの東日本大震災では、測り知れないほどのパワーがある津波が東北の太平洋沿岸部を襲いました。それは町々村々をまるごと吞み込むほどのパワーでした。しかしそれほどの大水をもってしても、神の愛を消すことはできないのです。

「奔流もそれを押し流すことはできません。」「奔流」とは、第三版では「洪水」と訳していますが、これは支流に対する奔流のことです。ちょろちょろと流れるような川ではありません。ゴーゴーと音を立てて勢いよく流れる川、それが奔流です。その奔流さえも押し流すことができません。つまり神の愛は最強であるということです。

Ⅰコリント13章13節には、「こういうわけで、いつまでも残るのは信仰と希望と愛、これら三つです。その中で一番すぐれているのは愛です。」とあります。

いつまでも残るものは、信仰と希望と愛です。その中で一番すぐれているのは愛です。愛はいつまでも残ります。何があっても愛だけは残るのです。私たちはこのことを覚えておきましょう。愛は何をもってしても押し流すことはできません。すべてを失ったとしても残るのです。愛する家族を失い、自分の家を失い、仕事を失い、何もかも失ったとしても、神の愛を失うことは決してありません。いつまでも残るのは信仰と希望と愛です。その中で最もすぐれているのは愛なのです。

あなたが人生に行き詰ったとき、どうしたらいいかわからなくなったとき、この聖書の箇所を読んでください。この箇所を読むだけで神から愛の力が与えられ、すべての迷いが吹っ飛んでいきますから。それはローマ8章28~39節のみことばです。

「神を愛する人たち、すなわち、神のご計画にしたがって召された人たちのためには、すべてのことがともに働いて益となることを、私たちは知っています。神は、あらかじめ知っている人たちを、御子のかたちと同じ姿にあらかじめ定められたのです。それは、多くの兄弟たちの中で御子が長子となるためです。神は、あらかじめ定めた人たちをさらに召し、召した人たちをさらに義と認め、義と認めた人たちにはさらに栄光をお与えになりました。では、これらのことについて、どのように言えるでしょうか。神が私たちの味方であるなら、だれが私たちに敵対できるでしょう。私たちすべてのために、ご自分の御子さえも惜しむことなく死に渡された神が、どうして、御子とともにすべてのものを、私たちに恵んでくださらないことがあるでしょうか。だれが、神に選ばれた者たちを訴えるのですか。神が義と認めてくださるのです。だれが、私たちを罪ありとするのですか。死んでくださった方、いや、よみがえられた方であるキリスト・イエスが、神の右の座に着き、しかも私たちのために、とりなしていてくださるのです。だれが、私たちをキリストの愛から引き離すのですか。苦難ですか、苦悩ですか、迫害ですか、飢えですか、裸ですか、危険ですか、剣ですか。こう書かれています。「あなたのために、私たちは休みなく殺され、屠られる羊と見なされています。」しかし、これらすべてにおいても、私たちを愛してくださった方によって、私たちは圧倒的な勝利者です。私はこう確信しています。死も、いのちも、御使いたちも、支配者たちも、今あるものも、後に来るものも、力あるものも、高いところにあるものも、深いところにあるものも、そのほかのどんな被造物も、私たちの主キリスト・イエスにある神の愛から、私たちを引き離すことはできません。」

神が私たちの味方であるなら、だれも私たちに敵対することはできません。私たちすべてのために、ご自分の御子さえも惜しむことなく死に渡された神が、どうして、御子とともにすべてのものを、私たちに恵んでくださらないことがあるでしょうか。大水もその愛を消すことはできません。奔流もそれを押し流すことはできないのです。神の愛はそれほどパワフルなものです。あなたはこの愛を受けているのです。

ただ一つだけ注意が必要です。それはこの愛をどのようにして得るのかということです。7節の後半をご覧ください。ここには、「もし、人が愛を得ようとして自分の財産をことごとく与えたなら、その人はただの蔑みを受けるだけです。」とあります。どういうことでしょうか。

神の愛はお金で買えるようなものではないということです。また、私たちの行いによって得られるものでもありません。私はこれだけ献金したのだから神は愛してくれるに違いないと思ったら大間違いです。私はこれだけ奉仕したんだから愛されて当然だと思っているとしたら蔑みを受けることになります。もし人が愛を得ようとして自分の財産をことごとく与えるなら、その人はただの蔑みを受けるだけです。必ず期待はずれに終わってしまいます。

では、どうしたらいいのでしょうか。神の一方的な恵み受け入れるということです。私たちが何かをしたからではありません。何もしなくても、神はあなたを愛しておられます。その愛をただ感謝して受け取るだけでいいのです。そうすれば、神の愛があなたを覆ってくださいます。

じゃ、何もしなくてもいいんですか。聖書を読まなくても、祈らなくても、教会に行かなくても、献金しなくても・・。いいのです。あなたが神の愛を受けるのは、神の一方的な恵みによるのですから、あなたが何をしたかなんて関係ないのです。ただ誤解しないでいただきたいのは、本当の意味であなたが神の愛を受けたのであれば、当然、教会に行くたくなりますし、神からのラブレターである聖書を読んだり、祈ったりしたくなるはずです。喜んで神様のために自分をささげたいと思うはずなのです。もしそうでないとしたら、本当にあなたが神の愛を受けているのかどうかを点検しなければなりません。私たちが良い行いをするのは神の愛を受けるためではなく、神に愛されたから、神の愛を受けたからであるということを覚えておかなければならないのです。

但し、あなたがもっと積極的に神の愛を受けたいと思うなら、どうぞ御言葉を読んでみてください。祈ってみてください。礼拝や祈祷会に足しげく通ってみてください。礼拝を絶やさないでください。そうすれば、神の愛はもっとあなたに迫ってくるでしょう。神の愛がどのようなものであるかがわかるようになります。花婿イエスは、あなたのためにすべてを投げ捨ててあなたを獲得してくださったのですから。

大水もその愛を消すことができません。奔流も押し流すことができません。その愛を与えてくださった主に感謝しましょう。そして、いつも喜び、絶えず祈り、すべてのことについて感謝しましょう。これが、キリスト・イエスにあって神があなたがたに臨んでおられることです。

最後に、エペソ3章16~19節のみことばを読んで祈りたいと思います。「どうか御父が、その栄光の豊かさにしたがって、内なる人に働く御霊により、力をもってあなたがたを強めてくださいますように。信仰によって、あなたがたの心のうちにキリストを住まわせてくださいますように。そして、愛に根ざし、愛に基礎を置いているあなたがたが、すべての聖徒たちとともに、その広さ、長さ、高さ、深さがどれほどであるかを理解する力を持つようになり、人知をはるかに超えたキリストの愛を知ることができますように。そのようにして、神の満ちあふれる豊かさにまで、あなたがたが満たされますように。アーメン。」 あなたがその愛の広さ、長さ、高さ、深さがどれほどであるかを理解する力を持つことができるようになり、人知をはるかに超えたキリストの愛を知ることができるお祈りします。

模範となった教会 Iテサロニケ1章4~10節


聖書箇所:Iテサロニケ1章4~10節
タイトル:「模範となった教会」

 きょうは、テサロニケ人への手紙第一1章4節から10節までのところから「模範となった教会」というタイトルでお話します。きょうのタイトルは7節のみことばかり取りました。「その結果、あなたがたは、マケドニアとアカイアにいるすべての信者の模範となったのです。」このテサロニケの教会は、パウロが第二回目の伝道旅行の時に設立された教会です。前回お話ししたように、パウロはこのテサロニケで3回の安息日にわたって伝道しました。3回の安息日にわたってとは、3週間にわたってということです。そこではユダヤ人たちからの激しい迫害があったので、パウロたちは次の伝道地(ベレヤ)に行かなければなりませんでした。しかし、パウロたちが気がかりだったのはテサロニケのクリスチャンたちの信仰でした。そうした激しい迫害の中で、どうなってしまっただろうか、中には離れてしまった人がいるのではないか。もしかしたら、根こそぎにされているかもしれない。そうした不安の中でアテネから弟子のテモテをテサロニケに遣わしたのです。

 すると、パウロたちは既に次の伝道地のコリントにいましたが、テモテが戻って来て彼らの様子を報告しました。それによると、彼らはそうした激しい迫害の中でも信仰に堅く立っているというだけでなく、パウロたちと再会することを心待ちにしているということでした。パウロはそれを聞いてとても喜び、彼らはマケドニアとアカイアにいるすべての信者の模範となったと絶賛したのです。彼らはどのような点で信者の模範となったのでしょうか。きょうは、このことについてご一緒に学びたいと思います。

 Ⅰ.私たちの福音(4-5)

 まず4節と5節をご覧ください。4節には「神に愛されている兄弟たち。私たちは、あなたがたが神に選ばれていることを知っています。」とあります。
 パウロはテサロニケの人たちが神に選ばれた者たちであることを確信していました。聖書には、神が、予めだれを救いに選んでおられる、という真理があります。このようなことを話すと、「それでは、人が滅びるように神は定めておられるのか。」とか、「私は神から選ばれていないのか。」という人たちがいますが、そういうことではありません。神は、すべての人が救われて真理を知るようになることを望んでおられます。その神の救いであるイエス・キリストを自分の救い主として認めて、信じているかどうかです。信じているなら、選ばれていますし、信じようとしないなら、もしかしたら選ばれていないのかもしれません。けれども、救いはすべての人に用意されています。ただ自分が、イエスさまを救い主として受け入れればよいのです。

 この神の選びについて考えるとき、大事なのは、パウロがここで言っているように、「神に愛されている」という確信です。あなたは神に愛されているという確信があるでしょうか。私たちが救われたのは、私たちが何か神に愛されることを行なったからではありません。ただ神が愛してくださったからです。私たちはむしろ神に憎まれて当然の者でした。神を神とも思わず、自分勝手に生きていたからのですから。しかし、あわれみ豊かな神は、私たちを愛してくださったその大きな愛のゆえに、背きの中に死んでいた私たちを、キリストともに生かしてくださいました。私たちが救われたのは恵みによるのです。ですから、この神の選びについて考えるとき、私たちは神に選ばれているのか、いないのか、ということではなく、この神の愛と恵みについて考えなければなりません。

 5節をご覧ください。ここには「私たちの福音は、ことばだけでなく、力と聖霊と強い確信を伴って、あなたがたの間に届いたからです。」とあります。なぜ彼らは福音を信じたのでしょうか。なぜなら、パウロが語った福音は、ことばだけではなく、力と聖霊と強い確信が伴っていたからです。これが福音です。コリント人への手紙には、「十字架のことばは、滅びに至る人々には愚かであっても、救いを受ける私たちには、神の力です。(Ⅰコリント1:18)」とあります。また、「私のことばと私の宣教とは、説得力のある知恵のことばによって行なわれたものではなく、御霊と御力の現われでした。(2:4)」ともあります。
福音はただのことばではありません。福音は神の力なのです。パウロが伝えた福音のはただのことばではなく、そこに力と聖霊と強い確信が伴っていました。これはしるしや奇跡といった神の不思議な御業が伴ったというだけでなく、彼らの生き様を通して福音が力強く証しされていたということです。「あの人はどこか違うなあ。本当にいい人だ。ただのいい人を越えて、何か神の力を感じる」といった感じです。それはここに、「私たちの福音」とあるからです。「私たちの福音」とは何でしょうか。それは、私たちが所有している福音のことです。福音が自分たちのものになっているということです。ただ私たちが信じているというだけでなく、それがすっかり板についているという感じです。すなわち、彼らはこの福音に生き、福音に立って歩んでいたのです。そこにはものすごい聖霊の力が溢れていました。その福音がテサロニケの人たちに伝えられたのです。

 先週、C-BTEⅡの中で、教会の使命に参加するという学びがありましたが、その中で福音を飾る生き方の大切さについて学びました。すなわち、効果的な証を続けて行く基盤は、教会でも家庭でも、社会でも、イエス・キリストの福音を飾るにふさわしい生き方をするということです。それがここでパウロが言っている「私たちの福音」です。それは、ことばだけではなく、力と聖霊と強い確信が伴って届けられる福音なのです。あなたはどうですか。「私の福音」になっているでしょうか。確かに福音によって救われましたが、私の福音と言えるまでにはなっていないかもしれません。この福音が「私の福音」と言えるまで福音にしっかりととどまり、福音に生きる者でありたいと思います。そこに力と聖霊と強い確信が伴うようになるからです。

 Ⅱ.聖霊による喜び(6)

 次に6節をご覧ください。ここには「あなたがたも、多くの苦難の中で、聖霊による喜びをもってみことばを受け入れ、私たちに、そして主に倣う者になりました。」とあります。

 福音は力と聖霊と強い確信を伴ってテサロニケの人たちにもたらされましたが、一方、テサロニケの人たちはそれをどのように受け止めたでしょうか。ここには「あなたがたもまた多くの苦難の中で、聖霊による喜びをもってみことばを受け入れ、私たちに、そして主に倣う者になりました。」とあります。
テサロニケの人たちも、パウロたちと同じように、激しい迫害に遭っていました。使徒の働き17章を見ると、ユダや人たちはヤソンという人の家を襲い、その兄弟たちを捕らえると役人たちのところに引っ張って行き、カイザルにそむいているという告発をしました。そしてやヤソンから保証金を取ったうえで釈放したのです。このような苦難の中にいたのにも関わらず、彼らは喜んでみことばを受け入れ、主に倣う者になりました。なぜなら、それは聖霊によるものだったからです。

聖書が語っている「喜び」は、普段、一般に語られている喜びとは異なります。回りの状況が良ければ、私たち人間は喜び、悪くなれば不満になったり、不安に陥ります。しかし、聖書では、どのような状況のときにも喜べる力が与えられる、と教えています。 どうしてそのように喜べるかと言いますと、クリスチャンは信仰によって、目に見える世界だけではなく、目に見えない世界も見ているからです。使徒ペテロは、「あなたがたはイエス・キリストを見たことはないけれども愛しており、いま見てはいないけれども信じており、ことばに尽くすことのできない、栄えに満ちた喜びにおどっています。あなたがたが、信仰の結果であるたましいの救いを得ているからです。」(Ⅰペテロ1:8-9)と言いました。神が、キリストの血によって私たちの罪を赦してくださったこと。永遠のいのちを賜ってくださったこと。神の国を相続していること。神の子どもとされていること、など、これらはみな、目に見えません。けれども、聖霊がこれらの真理を私たちに啓示してくださるので、信仰によって見ることができるのです。

 先週、大田原教会のケビン兄が膀胱がんで入院し手術を受けられました。これが2回目です。1回目は今から19年前に大腸がんを患いました。その時は100回くらいがんの悪夢に悩まされたと言います。しかし、今回は違います。医師からのがんの告知も冷静に受け止めることができ、すべてを主にゆだねることができました。むしろ、奥様の方が自分の責任ではないかと自分を責めて苦しんでいらっしゃいました。それで入院される2日前にお二人で教会に来て、お祈りの時を持ちました。ピリピ4章6~7節のみことばを読んで祈りました。「何も思い煩わないで、あらゆる場合に、感謝をもってささげる祈りと願いによって、あなたがたの願い事を神に知っていただきなさい。そうすれば、すべての理解を超えた神の平安が、あなたがたの心と思いをキリスト・イエスにあって守ってくれます。」
 すると、奥様にも平安が与えられ、すべてを神様にゆだねることにしました。家にはケビンさんの机の上にも奥様の机の上にもこのみことばが置かれました。そして、主はこの御言葉の約束の通りにケビンさんの手術を守ってくださり、金曜日には退院できるようにしてくださいました。月曜日に手術をして金曜日に退院ですよ。早いですね。しかし、どれだけ早く退院できかというよりも、その間ずっとご夫妻に平安が与えられたことが感謝です。本当に不思議です。それは信仰の結果なのです。たましいの救いを得ているからのです。目に見えませんが、この方を信じたことですべての罪が赦され、永遠のいのちが与えられたことを信じ、すべてをゆだねて祈るとき、人知をはるかに超えた神の平安に包まれるのです。テサロニケの人たちは、この聖霊による喜びをもっていました。聖霊による喜びをもってみことばを受け入れ、主に倣う者になったのです。

私たちも同じです。私たちもイエス様を信じた結果、この聖霊が与えられました。ですから、この聖霊によって、どんな苦難の中にあっても、聖霊よる喜びをもってみことばを受け入れ、主に倣う者になることができるのです。

Ⅲ.模範となった教会(7-10)

第三のことは、その結果です。聖霊によって伝えられ、聖霊の喜びをもって受け入れられた福音は、いったいどのようになったでしょうか。7節と8節をご覧ください。「その結果、あなたがたは、マケドニアとアカイアにいるすべての信者の模範になったのです。 主のことばがあなたがたのところから出て、マケドニアとアカイアに響き渡っただけでなく、神に対するあなたがたの信仰が、あらゆる場所に伝わっています。そのため、私たちは何も言う必要がありません。」

 すばらしいほめ言葉です。激しい迫害の中、パウロ一行はこのテサロニケの町にわずか1か月くらいしか滞在することができませんでしたが、テサロニケのクリスチャンたちはそうした多くの苦難の中でも、聖霊による喜びをもってみことばを受け入れ、主倣う者になりました。それを聞いたときパウロは、どれほどうれしかったことでしょう。その喜びが8節でこのように表現されています。
「主のことばがあなたがたのところから出て、マケドニアとアカイアに響き渡っただけでなく、神に対するあなたがたの信仰が、あらゆる場所に伝わっています。そのため、私たちは何も言う必要がありません。」
この「響き渡った」ということばは、ラッパの響きが広がっていく様を表しています。彼らの信仰はマケドニアとアカヤ地方だけでなく、すべての信者の模範となって響き渡りました。そればかりか、このことばは完了形になっています。つまり、ずっと響き渡り続けていたということです。一時的に響いただけではなく、ずっと響き続け、広がり続けていったのです。もう何を言う必要がないほどでした。これほどのほめことばはありません。何も言う必要がないほどの信仰です。

私たちのそうなりたいですね。私たちの信仰がこの那須町だけでなく栃木県の全域に、いや全国に、全世界に響き渡り、多くのクリスチャンを励ましていくような、そんな教会になりたらどんなにすばらしいことでしょうか。絶対にそうなります。なぜなら、これは御霊なる主の働きによるものだからです。私たちの力では主に倣う者になることはできませんが、御霊なる主にはできます。御霊なる主は私たちを、栄光から栄光へと、主と同じ姿に変えてくださいます。ですから、この御霊により頼むなら、かつてテサロニケで起こったことが、この教会にも起こると信じます。かつて中国の教会がそうであったように、日本の教会も、多くの苦難の中で、聖霊による喜びをもってみことばを受け入れるなら、あらゆる所に響き渡るようになるのです。

そのためにはどうしたらいいのでしょうか。二つのことがあります。一つは、9節にありますが、偶像から立ち返り、生けるまことの神に仕えることです。「人々自身が私たちのことを知らせています。私たちがどのようにあなたがたに受け入れてもらったか、また、あなたがたがどのように偶像から神に立ち返って、生けるまことの神に仕えるようになり、」
パウロの宣教のことばが、神のことばとして彼らに受け入れられると、彼らは偶像から神に立ち返り、生けるまことの神に仕えるようになりました。回心にはこの二つのことが必要です。つまり離れることと、向かうことです。彼らは偶像から離れ、神に向かいました。このテサロニケには多くの偶像がありました。テサロニケの町からはギリシャの神々オリンポスの山を眺めることができたと言われています。そこにはギリシャ神話の神々を信奉しているたくさんの人たちがいました。それはパウロがギリシャ文化の中心地アテネを訪れた時、そこにあったおびただしい数の偶像を見て怒りを感じたことからもわかります。同じギリシャの地方都市であったこのテサロニケにも相当の偶像があり、それに支配されていました。しかし彼らはパウロを通して語られた神のことばを受け入れたとき、そうした偶像から離れ、生けるまことの神に仕えるようになりました。この「偶像から」の「から」は、偶像からの明確な分離を示しています。中途半端な決別ではありません。明確な方向転換です。180度変わったのです。

それは単に木や石できた偶像ばかりではなく、私たちの心の中で作り上げているものもそうです。神以外のものを神よりも大切にするものがあるとしたら、それはその人にとって偶像なのです。クリスチャンもこうした偶像礼拝に陥っていることがあります。それが何であったとしても、テサロニケのクリスチャンたちが偶像から立ち返って、生けるまことの神に仕えるようになったように、私たちもそうした偶像と明確に分離し、生けるまことの神を第一にして、心から神に仕える者でなければなりません。あなたにとっての偶像とは何でしょうか。

それから、もうひとつのことは10節にあるように、主の再臨を待ち望むということです。「御子が天から来られるのを待ち望むようになったかを、知らせているのです。この御子こそ、神が死者の中からよみがえらせた方、やがて来る御怒りから私たちを救い出してくださるイエスです。」

これはどういうことかというと、テサロニケの人たちは、キリストの再臨を待ち望んでいたということです。この「待ち望む」ということばは、赤ちゃんが生まれる時、両親がわくわくしながらそれを待望する姿に似ています。赤ちゃんが生まれてくるのがわかるとそのために備えます。いつ生まれてきてもいいように部屋の模様替えをしたり、ベビーベッドを用意したり、その脇にはオムツを交換する台を置いたり、暑ければエアコンを、寒ければ赤ちゃんの健康にいいヒーターを用意します。産着も、ベビー服も、おもちゃも、ミルクも、ちゃんと用意して待ちます。私たちも娘が生まれた時は部屋の壁紙からカーテンまでも交換しました。それと同じように、テサロニケのクリスチャンたちはイエスさまがいつ再臨してもいいように待ち望んでいたのです。

皆さんはどうでしょうか。イエスさまがいつ来られてもいいように、備えておられるでしょうか。その日は本当に近いように感じます。昨年と今年とコロナウイルス感染症が猛威をふるいました。まだ終わっていませんね。今もこれと闘っています。地球の環境を見ても、地球温暖化による気候変動によって山火事や台風、ハリケーンなどの自然災害が多発しています。百年に一度と言われる豪雨が毎年のように起こっています。今日曜日の夜に「日本沈没」という映画でドラマ化されて番組がやっていますが、日本が沈没することがあるかどうかはわかりませんが、かつて関東大震災があったような大地震がいつ起こるかはわかりません。もし核戦争が起こったら地球はひとたまりもないでしょう。これらのことは世の終わりの前兆なのです。その後イエス様が再臨されます。それは必ずやって来るのです。

こうしてみると、今日、神の御子イエス・キリストを待つ私たちも、かつて地上を歩まれたイエス・キリストを見てはいないけれども愛しており、やがて再び来られるイエス・キリストを見てはいないけれども信じています。このことにおいて、このテサロニケの人たちの信仰に連なっているわけです。そして、彼らが主イエスは来られる、神の国は到来するとの希望の中で信じて待ち続けた日々を、今も私たちは生き続けているわけです。

きょうは、この後でクリスマスのメッセージ動画を撮ります。早いですね。まだ10月なのにクリスマスです。でも、来月の第四聖日からはアドベントが始まるのです。「アドベント」とは「来る、到来する」を意味することばで、神の御子イエス・キリストがこの地上に来る。到来する。その日に向かって備えつつ過ごすのがアドベントです。それは、私たちにとって「待つ」ことを経験する日々でもあるのです。神の御子の到来を信じ、待ち続けた人々の歩みに連なること、それが私たちがアドベントを過ごす大事な意味なのです。

テサロニケのクリスチャンたちは、主が来るのを待ち望んでいました。それこそ、真の希望です。真の希望とは、与えられたかと思ったらすぐに消えてしまうような一時的なものではなく、いつまでも続くものです。それが復活の希望です。やがてキリストが来られるとき、私たちは永遠に朽ちない栄光のからだに復活します。それがクリスチャンの希望であり、真の希望なのです。

私たちが主の到来を迎えるのも、どんなに世界が闇に覆われても、どんなに苦難が圧倒しようとも、どんなに試練が続こうとも、それでもそれを覆してあまりある圧倒的な光が到来する、神の救いが来る、必ず来る、生ける神がそう約束し、その約束に真実を尽くし、聖書がそれを証ししている—このことの確かさを信じるがゆえなのです。

花婿を導いた花嫁 雅歌7章11節~8章4節

レジメ

聖書箇所:雅歌7章11節~8章4節

タイトル:「花婿を導いた花嫁」

 雅歌も終盤を迎えています。きょうは雅歌7章11節から8章4節までの箇所から、「花婿を導いた花嫁」というタイトルでお話します。今日の箇所には、花婿を導く花嫁の姿が描かれています。たとえば、11節には、「さあ、私の愛する方よ、私たちは野に出て行って、村で夜を過ごしましょう。」とあります。花嫁が花婿を導いているのです。極めつけは8章2節のことばです。「私はあなたを導いて、私を育てた私の母の家にお連れして、香料を混ぜたぶどう酒、ざくろの果汁をあなたに飲ませて差し上げましょう。」

とあります。ここにはきっきりと「あなたを導いて」とか「お連れして」とあります。花嫁が花婿を導いているのです。

 私たちはいつも花婿であるキリストに導かれていると思っていますが、もちろん、そういう面もありますが、同時に花婿を導いているという側面もあります。これまではどちらかというとイエス様に導かれること、イエス様に何かをしていただくことが中心の信仰でしたが、それと同時に、霊的、信仰的に成長していく中で、今度はイエス様を導く者に、イエス様に喜んでささげる者へと変えられていくのです。きょうはこのことについてご一緒に考えたいと思います。

 Ⅰ.恋なすびは香りを放つ(7:11-13)

まず、7章11~13節までをご覧ください。「さあ、私の愛する方よ。私たちは野に出て行って、村で夜を過ごしましょう。私たちは朝早くからぶどう畑に行き、ぶどうの木が芽を出したか、ぶどうの木が花を咲かせたか、ざくろの花が咲いたかどうかを見ましょう。そこで私は、私の愛をあなたにささげます。」

これは花嫁のことばです。花嫁は花婿から「なんと美しいことか。高貴な人の娘よ。」(7:1)と言われると、10節でこう告白しました。「私は、私の愛する方のもの。あの方は私を恋い慕う。」

これは、花嫁が単に自分を花婿にささげるというだけでなく、また、自分よりも花婿を優先するというレベルでもなく、「あの方は私を恋い慕う」、つまり、花婿にとって自分が関心の的であると告白したのです。もう何があっても大丈夫です。花婿が必ず守ってくださいますから。そうした平安の中で完全に憩っているのです。花婿は必ず良いことをしてくださるという確信があります。だって自分は花婿にとって関心の的なのですから。ただ花婿がいて、自分をつかんでいてさえすれば、それで十分なのです。つまり、花婿にすべてを完全にゆだねているのです。花嫁はそこまで成長しました。

そして、花嫁は続いてこう言っています。11節、「さあ、私の愛する方よ。私たちは野に出て行って、村で夜を過ごしましょう。」

この「村」とは8章2節にある母の家、実家のことです。エルサレムの都会にある王宮のような華やかなところだけでなく、自分にとって人生の原点でもある実家に戻り、そこで愛を楽しみましょう、と誘っているのです。

その理由が12節に書かれてあります。「私たちは朝早くからぶどう畑に行き、ぶどうの木が芽を出したか、ぶどうの木が花を咲かせたか、ざくろの花が咲いたかどうかを見ましょう。」

彼女は6章3節で「シュラムの女よ」と呼ばれていますが、シュラムがあるガリラヤ地方ではぶどうの木が芽を出したり、ぶどうの木が花を咲かせたり、ざくろの花が咲いたりするのを見ることができます。そうした自然の中で夫婦の交わりを持つことができます。それは、エルサレムのような都会では不可能なことです。

13節をご覧ください。「恋なすびは香りを放ち、私たちの門のそばには、すべての最上の果物があります。新しいものも、古いものも。私の愛する方よ、これはあなたのために蓄えておいたものです。」

実家があるガリラヤには「恋なすび」も豊かに実っています。「恋なすび」は「マンドレイク」という名で知られていています。昔から薬草として使われていましたが、受胎効果が有るとも思われていました。創世記30章14節では、不妊で悩んでいたラケルが姉のレアに、息子ルベンが取って来た恋なすびを譲ってほしいと言っているのはそのためです。恋なすびは良い香りを放つため、性的欲情をかき立てるものでもありました。それは花婿と花嫁の関係をより親密にするものです。そこには、恋なすびが香りを放ち、すべての最上の果物がありました。それは花嫁が花婿のために蓄えておいたものです。ですから、ここで花嫁は花婿との関係をより一層親密にするものを用意しています、と言っているのです。

それは、私たちにも必要なことです。花婿なるキリストとの関係をより親密にするものが必要です。たとえば、私たちが手にしているこの聖書はその一つでしょう。聖書は「恋なすび」であるとも言えます。イエス様との関係をより親密にさせてくれます。聖書を通してイエス様の心を知り、イエス様との関係をより身近に感じさせてくれます。聖書はまさに恋なすびなのです。

また、教会での交わりもそうです。私たちがバプテスマを受けてクリスチャンになると、どこからか信仰を捨てるようにとか、少なくともあまり熱心にならないようにというプレッシャーと受けることがあります。そうした中にあっても動揺しないでしっかりと希望を告白するために、あるいは、信仰から出てくる愛と善行を促すように励まし合うために、教会に集まる必要があります。それはただ習慣として集まるというだけでなく、集会が心の習慣の一部となるような積極的な関わり方が求められるのです。そうでないと、信仰から離れてしまうことになるからです。教会での交わりはまさに恋なすびであり、イエス様との関係をより親密にするために必要なものなのです。

他にどのようなものがあるでしょうか。静かな場所で祈ることもそうでしょう。イエス様のことばを思いめぐらして祈るとき、イエス様の麗しさ、その愛に満たされます。信仰の良書を読むのもいいです。特に、信仰に生きた人たちの証は、私たちの信仰を励ましてくれます。バイブルスタディー祈祷会に参加することも大切です。バイブルスタディーに参加することで、それまで気付かなかったことに気付かされます。

昨年8月にスタートしたC-BTEのクラスは、先週基本原則シリーズⅠを終了しました。基本原則シリーズⅠでは、クリスチャンライフのベーシックなことを学びますが、参加している数人の兄弟から、この学びがなかったらただ教会の礼拝に出席して、与えられた奉仕をして終わりということになっていたのではないかと思います、と言うのを聞いて、この学びを継続してきてよかったなぁと思いました。まさにこうした学びも恋なすびです。

私たちには恋なすびが必要です。イエス様との関係を親密にするためのものを蓄えておきたいと思います。

Ⅱ.花婿を導いた花嫁(8:1-3)

次に、8章1~3節をご覧ください。これも花嫁のことばです。1節には、「ああ、もし、あなたが私の母の乳房を吸った私の兄弟のようであったなら、私が外であなたに会ってあなたに口づけしても、だれも私を蔑まないでしょうに。」とあります。どういうことでしょうか。

この「口づけ」とは、あいさつとして交わされる軽い口づけのことです。しかし中東では、今でもそうですが、男女が公に人々の前で口づけを交わすことはできませんでした。それが許されたのは家族の間柄に限られていたのです。中東では、女性が外に出る時は覆いを付けなければならず、外に出て異性と一緒にいることができたのは、唯一血のつながった兄弟だけだったのです。ですから花嫁はここで、もしあなたが私の母の乳房を吸った私の兄弟のようであったなら、外であなたに会って口づけしても、だれにも蔑まれないのに、と言っているのです。つまり、花婿に対する愛情の表現には限界があるということです。もっと自由に、もっとあからさまに、もっと強く花婿に対する愛を表したいと切に願っているのです。

皆さんはどうでしょうか。この花嫁のように花婿イエスをもっと愛したいと願っておられるでしょうか。もっと自由に、もっと豊かに、もっと親密に愛を表したいと強く願っているでしょうか。確かに、教会にいる時は大きな声で賛美することができます。涙して祈ることもできるでしょう。でも家に帰ったらどうでしょうか。クリスチャンは自分だけという家庭も少なくありません。そうなると、夫やこどもたちの前で祈ったりするのを躊躇してしまうかもしれません。職場ではどうでしょうか。クリスチャンばかりの職場だったら何でもないことでも、ノンクリスチャンが圧倒的に多いところでは教会の話やイエス様の話をするのをはばかってしまいます。そんな中でももっとイエス様を賛美したい、もっとイエス様と交わりたい、もっとイエス様のすばらしさを伝えたいと願っているならどんなにすばらしいことでしょうか。それほどまでにイエスに夢中で、イエスの愛に捉えられる者になりたいです。

2節には「私はあなたを導いて、私を育ててくれた母の家にお連れして、香料を混ぜたぶどう酒、ざくろの加重をあなたに飲ませて上げましょう。」とあります。

「私を育ててくれた母の家」とは、花嫁の実家のことです。花嫁にとって実家は、あまりいいイメージがありませんでした。1章6節を見ると、そこは兄弟たちにこき使われた所であり、顔が浅黒くなるまでぶどうの番人をさせられたところです。ですから、できればあまり近づきたくなかったはずです。しかし、その実家にお連れして、香料を混ぜたぶどう酒と、ざくろの果汁を飲ませて上げたいと言っているのです。なぜでしょうか。そこは花婿と出会った思い出の場所だからです。かつて花婿を見失ったとき、花嫁が彼を見付けたのもこの実家の近くでした。ですから、母の家はもう嫌なところではなくなったのです。そこは花婿と出会うことができたすばらしい場所という思いを抱くことができるようになりました。

それは私たちにも言えます。私たちにも実家のようなところがあります。別に実家が悪い所という意味ではありませんよ。彼女の場合はそれが実家であったというだけのことですが、そのようにいじめられたり、意地悪されたり、侮辱されたり、こき使われたりと、あまり良いイメージを持つことかできない場所があるということです。しかし、そんなところでも、イエス様と出会うなら、そこは最高の場所となります。

その実家である母の家に導いて、そこにお連れして、香料を混ぜたぶどう酒、ざくろの果汁の果汁をあなたに飲ませて上げましょうというのです。えっ、逆じゃないですか。そこに導いて、ぶどう酒やざくろの果汁を飲ませてくれるのは花婿の方ではないのですか。これまでもずっとそうでした。いつも花婿が花嫁を導いてくださいました。花嫁が花婿を導くなんておこがましいことです。でもここでは花婿が導いているのではなく、花嫁が導いてと言っています。花嫁が花婿を母の家にお連れしたいと言っているのです。どういうことでしょうか。

確かに、私たちはイエス様に導かれている者です。私たちが救いに導かれたのもそうです。それはイエス様の導きによるものであり、一方的な恵みです。しかし、同時に、私たちもイエス様を導いている面があるのです。たとえば、イエス様は大宣教命令の中で、「あなたがたは行って、あらゆる国の人々を弟子としなさい。父、子、聖霊の名において彼らにバプテスマを授け、わたしがあなたがたに命じておいた、すべてのことを守るように教えなさい。見よ。わたしは世の終わりまで、いつもあなたがたとともにいます。」(マタイ28:19-20)と言われましたが、「あなたがたは行って、あらゆる国の人々を弟子としなさい」と言われたイエス様は、同時に、「見よ。わたしは世の終わりまで、いつもあなたがたとともにいます。」と言われました。つまり、私たちが出て行くところには、いつもイエス様が共におられるのです。言い換えると、クリスチャンがイエス様をお連れするという面があるということです。それはイエス様に何か指図するということではなく、イエス様が喜んでくださるところにお連れするということです。花嫁がお連れしたかったのは、彼女を育ててくれた母の家でした。そこで香料を混ぜたぶどう酒と、ざくろの果汁を飲ませて差し上げたかったのです。

「香料を混ぜたぶどう酒」とは、究極の喜びを表しています。「香料」は祈りの象徴、「ぶどう酒」は喜びの象徴です。祈りに喜びが混ぜ合わされているというのは、あるいは、喜びに祈り混ぜ合わされているというのは、ただの喜びではなく究極の喜びであるということです。それは尽きることがない喜びです。揺らぐこともなく、失われることもありません。そのような喜びを花婿に差し上げましょう、と言っているのです。

ヨハネの手紙第三1章3節にはこうあります。「兄弟たちがやって来ては、あなたが真理に歩んでいることを証ししてくれるので、私は大いに喜んでいます。実際、あなたは真理のうちに歩んでいます。」

この手紙は、当時エペソの教会の長老であったヨハネが書いた手紙ですが、ここで彼は、「兄弟たちがやって来て、あなたがたが真理に歩んでいることを証ししてくれるので、私は大いに喜んでいます」と言っています。彼にとっての喜びは、クリスチャンが真理に歩んでいるということでした。それはヨハネに限ったことではなく、牧師であればみんなそうです。クリスチャンが真理に歩んでいること、信仰に堅く立っているということを聞くことほど大きな喜びはありません。それは大牧者であられるイエス様も同じです。イエス様が喜んでくださることは、私たちが真理のうちに歩むことです。そのようなものを飲ませてさしあげることかできます。

それは、ざくろの果汁にも言えることです。よくスーパーに行くとざくろのジュースが置いてありますが、ざくろは強い抗酸化力があるので、ガンや腎臓病の予防に効果的だと言われています。また、美白化粧品にも使用されるエラグ酸を含むので、くすんだ肌を美白肌へと導いてくれるそうです。それは疲れたからだを癒す効果がある最高の飲み物でした。それを飲ませい差し上げましょう、というのです。それはどれほど花婿を爽やかな気持ちにさせることができたでしょうか。こうしたものをイエス様にささげることができるのです。

これまで私たちは、イエス様から何かをしていただくことしか考えられなかったかもしれませんが、でも私たちが霊的、信仰的にステップアップしていく中で、今度はイエス様に差し上げることができるようになってきます。イエス様にとって喜びとなるもの、イエス様にとってすがすがしく、爽やかにさせるものをささげることができるのです。そのためには、まず自分自身をささげたいですね。なぜなら、イエス様が求めておられるのはお金でも、時間でも、労力でもでもなく、私たち自身であるからです。つまり、献身するということです。それがイエス様にとって最もうれしいことであり、喜んでくれることなのです。花嫁が花婿に自分をささげるように、キリストの花嫁である私たちは、花婿であるキリストに自分をささげたいと思うのです。

3節をご覧ください。ここには「ああ、あの方の左の腕が私の頭の下にあって、右の腕が私を抱いてくださるとよいのに。」とあります。これも2章6節で語られていたことの繰り返しです。あの方の左の腕が私の頭の下にあるとは、左の腕でがっちりと支えているというイメージです。そして右の腕が私を抱いてくださるとは、優しく抱きしめているというイメージです。ちょうど母親が赤ちゃんを抱っこしている姿です。それは確かな保護と細やかな愛情を表現しています。あなたが危険に陥らないようにがっちりと支えていてくれます。あなたがつまずいて倒れそうになった時、主は力強い御手をもって支えていてくださるのです。

あなたはそのようなイエス様の愛情を感じているでしょうか。包み込むような優しい愛情を受けているでしょうか。イエス様の腕が、文字通りあなたをしっかり支えているということを覚えていてください。イエス様がおられるなら寂しくありません。もう何も怖くはないのです。あなたの下には永遠の腕があるからです。ここに真の満たしと安心感を得ることができます。あなたにとってイエス様がそのような方であるかどうかをもう一度考えてほしいと思います。

Ⅲ.揺り起こしたり、かき立てたりしないでください(4)

最後に、4節をご覧ください。「エルサレムの娘たち。私はあなたがたにお願いします。揺り起こしたり、かき立てたりしないでください。愛がそうしたいと思うときまでは。」

これも花嫁のことばです。ここで花嫁はエルサレムの娘たちにお願いしています。「揺り起こしたり、かき立てたりしないでください。愛がそうしたいと思うときまでは。」と。これは2章7節と3章5節にもありました。振り返ってみましょう。2章7節には、「エルサレムの娘たち。私は、かもしかや野の雌鹿にかけてお願いします。揺り起こしたり、かき立てたりしないでください。愛がそうしたいと思うときまでは。」とありました。また、3章5節にも、「エルサレムの娘たち。私は、かもしかや野の雌鹿にかけてお願いします。揺り起こしたり、かき立てたりしないでください。愛がそうしたいと思うときまでは。」とありました。それがここでもう一度繰り返して言われているのです。

なぜ繰り返して言われているのでしょうか。2章7節で説明した時にもお話しましたが、この繰り返しによって一つの場面を締めくくっているからです。ですから、8章5節から、また新しい場面を迎えることになります。それはこの雅歌全体のクライマックスです。しかし、それだけでなく、実は、このことがとても大切なことだからです。その大切なことを思い起こしてほしかったのです。

私たちは大事なことでもすぐに忘れてしまいます。喉元(のどもと)過ぎれば熱さを忘れるで、どんなに大事な教訓でも、喉元を過ぎるとそれがどんなに熱かったのかを忘れてしまいます。思い起こす必要があります。だから繰り返して語られているのです。「ああ、これは本当に大事なことでした。」と思い起こさせているのです。その内容はどんなことかというと、「揺り起こしたり、かき立てたりしないでください。愛がそうしたいと思う時までは。」です。これは直訳すると、「あなたがたは揺り起こしたり、かき立てたりして、私の愛を目覚めさせないでください。私が良いと思う時までは。」となります。私が良いと思う時までは、私がそうしたいと思う時までは、揺り起こしたり、かき立てたりしないで、そっとしておいてくださいとお願いしているのです。

このエルサレムの娘たちはたびたび登場していますが、彼女たちの存在は本当に有難いものです。その度に何かを気付かせてくれます。たとえば、5章9節では花嫁が花婿を見失ったとき、彼女は必至になって花婿を捜すも見つからなかったとき、このエルサレムの娘たちにお願いして、一緒に捜してください、そしてあの方を見付けたら、あの方に言ってください。私は愛に病んでいる、と。

するとこのエルサレムの娘たちは言いました。「いったいあなたにとって花婿はどんな存在なんですか、ほかの親しい者たちより何がまさっているのですか。」と。それで花嫁はハッとして、花婿のすばらしさを思い起こし、その存在のすばらしさを告白しました。「あの方のすべてがいとしい。これが私の愛する方、これが私の恋人です。」いわば、彼女の思いを引き上げてくれたわけです。有難いことです。

しかし、そのような存在であるがゆえに、時にはお節介とも思われる言動をすることがありました。それで花嫁は「ちょっと待ってください、私は静かに考えたいのです。私がそうしたいと思う時まで、私の心を揺り動かしたり、かき立てたりしないでください。」とお願いしているのです。花嫁は、花婿との愛の関係をどれほど大切にしているかがわかります。事ある度に花婿との関係を思い起こしては、花婿との関係を大事にしているのです。彼女の成長ぶりが伺えます。

事ある度にイエス様との関係を思い起こすこと、これは私たちにも求められていることです。あなたにとってイエス様はどのような存在でしょうか。あなたとイエス様との関係はどうでしょうか。あなたにとってイエス様との関係が何よりも大切となっているでしょうか。イエス様との関係がどうなのかを、私たちも事ある度に思い起こし、キリストの愛に目覚めるように祈りたいと思います。