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転がしてあった石 マルコの福音書16章1~8節転がしてあった石 

聖書個所:マルコの福音書16章1~8節(P104)
タイトル:「転がしてあった石」

 復活の主イエス・キリストの御名を心から賛美します。きょうはイースターです。キリストの復活を記念してお祝いする日です。金曜日の午後に十字架の上で息を引き取られ、墓に葬られたイエスは、三日目の朝に、墓を破ってよみがえられました。何と不思議な、何と驚くべきことでしょうか。イエスが葬られていた墓は空っぽだったのです。墓の入り口をふさいでいた石は転がしてありました。先ほどお読みしたマルコ16章4節に「ところが、目を上げてみると、その石が転がしてあるのが見えた。」とあります。口語訳では、「ところが、目をあげて見ると、石はすでにころがしてあった。」と訳しています。石はすでに転がしてあったのです。
私たちの人生にも、私たちの心を塞ぐ石があります。でも私たちがイエスのみもとに行くなら、復活の主イエスがその石をころがしてくださいます。きょうは、この転がしてあった石についてご一緒に思い巡らしたいと思います。

 Ⅰ.だれが石を転がしてくれるか(1-3)

まず1~3節までをご覧ください。「1 さて、安息日が終わったので、マグダラのマリアとヤコブの母マリアとサロメは、イエスに油を塗りに行こうと思い、香料を買った。2 そして、週の初めの日の早朝、日が昇ったころ、墓に行った。3 彼女たちは、「だれが墓の入り口から石を転がしてくれるでしょうか」と話し合っていた。」

十字架で死なれたイエスのからだは、アリマタヤのヨセフによってまだだれも葬られたことのない新しい墓に埋葬されました。このアリマタヤのヨセフはイエスの弟子でしたが、ユダヤ人を恐れてそれを隠していました。しかし彼は、勇気を出してピラトにイエスのからだの下げ渡しを願うと、ピラトはそれを許可したので、イエスが十字架につけられた場所のすぐ近くにある墓に葬ったのです。というのは、すでに夕方になっていて、もうすぐ安息日(土曜日)が始まろうとしていたからです。安息日が始まったら何でできなくなってしまうので、その前に彼は急いでイエスのからだを十字架から取り降ろし、ユダヤ人の埋葬の習慣にしたがって、イエスのからだをその墓に埋葬したのです。

その安息日が終わると、マグダラのマリアとヤコブの母マリアとサロメは、イエスに油を塗りに行こうと思い、香料を買いました。油を塗るとは、香料を塗るということです。
これらの女性たちは、ずっとイエスにつき従って来た人たちでした。彼女たちは最後の最後までイエスに愛と敬意を表したかったのです。それはイエスが自分に何をしてくれたのかを知っていたからです。特にマグダラのマリアは七つの悪霊を追い出してもらいました。一つじゃないですよ。七つです。七つの悪霊です。一つの悪霊でも大変なのに彼女は七つの悪霊に取り憑かれていました。それは、彼女が完全に悪霊に支配されていたということです。身も心もズタズタでした。しかし彼女はそのような状態から解放されたのです。どれほど嬉しかったことでしょう。感謝してもしきれないほどだったと思います。イエスがいなかったら今の自分はない。イエスはいのちの恩人以上の方。最も愛すべき方。その方が苦しんでいるならほっておけません。何もできないけれども、せめてイエスの傍らにいたい。どんな目に遭おうと、たとえ殺されようとも、イエスのみそば近くにいたかったのです。イエスは自分にとってすべてのすべてだから。そういう女性たちが複数いたのです。
彼女たちは、安息日が終わったので、イエスに油を塗ろうと思い、香料を買い、週の初めの日の早朝、日が昇ったころ、墓に向かって行きました。新共同訳では、「日が出るとすぐ墓に行った。」と訳しています。そうです、彼女たちはもう待ちきれませんでした。日が昇るとすぐに墓に行ったのです。

しかし、墓に向かっている途中で、彼女たちは一つの問題があることに気付きました。何でしょうか?それは、墓の入り口が大きな石で塞がれていることです。だれがその石を転がしてくれるでしょうか。この石は重さ2~2.5tもある重い石で、女性たちが何人いても女性の力では動かせるようなものではありませんでした。男でもよほどの人数がいなければ動かせないほどのものです。
しかも、その石はただの石ではありませんでした。並行箇所のマタイ27章66節を見ると、その石には封印がされていたとありました。これはローマ帝国の封印で、これを破る者は逆さ十字架刑にされることになっていました。ですから、そこには番兵もつけられていました。屈強なローマ兵たちが、24時間体制で監視していたのです。その石を動かさない限り、中に入ってイエスのからだに香油を塗ることはできません。とても無理です。それでも女性たちは墓に向かって行きました。無理だ、不可能だと思っても、です。

3節には、彼女たちは「話し合っていた」とありますが、彼女たちは、どこで何を話し合っていたのでしょうか。「だれが墓の入り口から石を転がしてくれるでしょうか」と、墓に向かっている最中で話し合っていました。
ここが男性とは違うところです。一般の男性ならどうするでしょうか。まず行く前に会議を開くんじゃないです。「行っても無駄だ。墓の入り口にある石をどやって動かすのか。そこにはローマ兵たちがいるじゃないか。どう考えても無理に決まっている。その前に香料を買ってもただのお金の無駄遣いだ」と。
これが一般の男性が考えることです。でも女性は違います。女性は一般的に心に感じるまま行動します。そうしたいと思ったらあまり考えずにすぐにそれを行動に移します。こんなことを言ったら女性を差別しているのではないかと叱られるかもしれませんが、別に女性を差別しているのではありません。それが女性のすばらしいところだと言っているのです。とにかく安息日が明けたらイエスのもとに行きたい。1秒でも早く会いたいと思う。その愛が彼女たちを突き動かしたのです。その前に立ちはだかった大きな石も、彼女たちにとっては問題ではありませんでした。愛がなければその大きな石を前にして何もできなかったでしょう。「あの石をどうしよう」で終わっていたはずです。でも愛は不可能を可能にします。「愛には、計算が成り立たない」と言った人がいます。彼女たちの行動は、まさに計算が成り立ちません。しかし、それが愛なのです。考えてみれば、イエス様の生涯もそうだったのではないでしょうか。計算では成り立ちません。この世の目から見たら愚かなことのように見えます。その極めつけが十字架です。十字架で死なれることでした。主はご自身に敵対する人を救うために十字架にかかって死んでくださいました。そして、その上でご自分を十字架につけた人々のためにとりなしの祈りをささげたのです。このような愛は、この世の常識では考えられません。人間の計算をはるかに超えています。しかし、そうでなければ見いだせない大切なことがあるのです。そのことに気付かないと、大切なものを失ってしまうことがあるのです。
注目すべきことは、彼女たちがここで「だれが」と言っていることです。「だれが墓の入り口から石を転がしてくれるでしょうか。」と。この「だれが」が重要です。彼女たちは自分たちにはできないことが最初から分かっていたので、だれか他の人に頼らなければなりませんでした。「だれが墓の入り口から石を転がしてくれるでしょうか。」でも男性はそう考えません。男性はこう考えます。「どうやって」。どうやってあの石を転がすことができるかと。いつも頭の中で考えてばかりいて行動に移せないのです。でも女性は違います。彼女たちは「なぜ」とか「どうやって」ではなく「だれが」と言いました。なぜ男の弟子たちは一緒に来ないのかとか、どうやって墓の入り口から石を転がしたらいいかではなく、だれが転がしてくれるかと言ったのです。
皆さん、「だれが墓の入り口の石を転がしてくれるのでしょうか。」そうです、イエス・キリストです。イエスが死からよみがえって墓から石を転がしてくださいます。ですから、この女性たちの「だれが」という問いには、彼女たちの信仰が表れていたということです。

これは私たちにも問われていることです。私たちは「だれが」の前に「どうやって」と問うてしまいます。「なぜ」こういうふうになっているのか、「いつ」「どこへ」行ったらいいのかと、その状況とか、方法とかを考えてしまうあまり、何もできなくなってしまうのです。でも彼女たちは違いました。もう動いています。動いている最中で「だれが墓の入り口から石を転がしてくれるでしょうか」と話し合っていました。彼女たちは自分たちにできないことは考えませんでした。だれかがしてくれると信じていたのです。彼女たちは、復活の信仰を持っていたとも言えるでしょう。それは私たちにも求められていることです。「どうやって」ではなく、復活の主があなたの心を塞いでいる石を転がしてくださると信じて、イエスのもとに行かなければならないのです。

Ⅱ.石はすで転がしてあった(4)

次に、4節をご覧ください。ご一緒に読みましょう。「ところが、目を上げると、その石が転がしてあるのが見えた。石は非常に大きかった。」

彼女たちが墓に行ってみると、墓はどうなっていましたか。あの石が転がしてありました。新改訳第3版、口語訳、新共同訳、創造主訳のいずれの訳では「すでにころがしてあった。」と訳しています。その石はすでに転がしてありました。イエスに近づくことを妨げていたあの大きな石が、すでに取り除かれていたのです。彼女たちのイエスを愛する愛に、神様が応えてくださったのです。

それはあなたにも言えることです。あなたがイエスに会いに行こうとする時、そこに大きな石のような問題が立ちはだかっていることがあります。でもその時、「どうやって」とか「いつ」とか「なぜ」と問わないで、「だれが」と問うなら、イエスがあなたの問題をすでに解決してくださいます。女性たちがイエスの墓に到着したら、石はすでに転がしてありました。もしあなたがイエスを信じ、イエスを愛するなら、どんな問題でもイエスが解決してくださるということを知ってください。この女性たちのように。彼女たちはイエスの亡骸に向かう道中で「だれがこの問題を解決してくれるか」と問うていましたが、そのだれがとは、もちろん、イエスです。イエスはすでにあなたの悩みを解決しておられます。もしあなたがキリストのもとに行くなら、あなたの問題はもうすでに解決されています。あの大きな石は転がしてあるのです。彼女たちが墓に向かったのは、まだ暗いうちでした。人生の暗いうちにはまだ大きな石がたちはだかっています。でもあなたがキリストに向かって歩き始めるなら、どんなに人生が暗かろうと、どんなに大きな問題が立ちはだかろうと、どんなにそれが不確かであろうと、キリストがそれを取り除いてくださるのです。あなたに求められているのは、イエスがこの石を転がしてくださると信じて、イエスのもとに歩き出すことです。

榎本保郎先生が書かれた「ちいろば」という本の中に、こんな話があります。
榎本先生が開拓した教会に、T君という、1人の高校生が来ていました。とてもやんちゃな子でしたが、熱心に求道するようになり、いつしか高校生会のリーダーになりました。
そのT君が高校3年生の時、献身者キャンプに参加しました。献身者キャンプとは、将来、牧師になることを決心するためのキャンプです。榎本先生も、講師の一人として、参加しました。そのキャンプの最後の集会で、「献身の志を固めた人は、前に出て、決心カードに署名しなさい」、という招きがなされました。
招きに応えて、泣きじゃくりながら、立ち上がる者。こぶしで涙を拭いながら、前に進み出る者。若者たちが、次々に立ち上がって、震える手で、署名しました。しかし、T君は、なかなか前に出て行きません。頭を垂れて、じっと祈っていました。しかし、招きの時が終わろうとした時、遂に、T君は、立ち上がって前に進み、決心カードに、名前を書き込みました。
席に戻ってきたT君は、真っ青になって、ぶるぶる震えていました。決心したことで、心が高揚したこともあったと思います。しかし、T君には、もっと深刻な、問題があったのです。
T君は、とても勉強のできる生徒でした。ですから、両親は、大きな期待を、彼に懸けていました。両親は、彼が、京都大学の工学部に入ることを、ひたすら願っていたのです。それが、両親の、生き甲斐とも、言えるほどでした。それなのに、もし、T君が牧師になる決心をした、と聞いたなら、両親は、どんな思いになるだろう。がっかりするだろうか。怒るだろうか。その両親の期待の大きさを身に沁みて知っていただけに、T君は、両親に、どのように打ち明けたらよいか、途方に暮れていたのです。そして、両親の落胆と、怒りを、想像しただけで、いたたまれない気持ちになっていたのです。
T君は、真っ青になって、「先生、祈ってください」、と榎本先生に頼みました。先生にも、その気持ちがよく分かりました。そこで榎本先生とT君は、ひたすら祈りました。祈るより他に、すべはなかったのです。その時、榎本先生の心に浮かんだのが、この4節のみことばでした。「石はすでに転がしてあった」。
榎本先生は、「T君、神様は、必ず、君の決心が、かなえられるように、備えてくださる。『石は、すでに転がしてあった』、という御言葉を信じよう」、と力づけました。
それを聞いて、T君は帰っていきました。しかし、T君から、両親との話し合いの結果が、なかなか報告されてきません。榎本先生は、どうなったか、心配でたまらず、T君の家の前を、行ったり来たりしていました。
帰ってから、三日たった夕方、げっそりやつれたT君が、教会にやってきました。そして「先生、石は、のけられていませんでした」、と言ったのです。父親は激しく怒り、母親は食事も取らずに、ただ泣き続けている、という報告でした。
榎本先生は、暗い気持ちになって、「どないする?よわったなぁ」と、呟きました。その時、「先生、『石はすでに転がしてあった』というあの御言葉は、どうなっとるんですか」。というT君の鋭い言葉が迫ってきました。先生は、自分の不信仰に気付かされ、「いや、あの御言葉は、君にも必ず成就するよ」と、T君と自分自身に言い聞かせました。
それから半月ほど経った頃です。T君の両親が、教会を訪ねてきました。「息子をたぶらかした悪者」、と罵倒されるものと思って、戦々恐々として迎えた榎本先生は、びっくりしました。というのは、T君の両親がこう言ったからです。
「先生、息子を、よろしくお願いします」。
頭を下げたお父さんは、両肩を震わせながら、じっと涙をこらえていました。お母さんは、手をついたまま、泣きじゃくっていました。両親は、T君の献身を、許してくれたのです。
「石は、すでに転がしてあった」のです。この御言葉は、T君の上に、見事に成就しました。その後、T君は、牧師となって、よい働きをしているという内容です。

皆さん、私たちの人生にも大きな石が立ちはだかることがあります。しかし、あなたがイエスを愛し、イエスに向かって歩むなら、イエスがその石を転がしてくださいます。ですから、どこまでも最善に導いてくださる主に信頼して、祈り続けましょう。そうすれば、あなたも必ず「石は、すでに転がしてあった」という、神様の御業を見るようになるからです。

Ⅲ.弟子たちとペテロに告げなさい(5-8)

最後に、5~8節をご覧ください。「5 墓の中に入ると、真っ白な衣をまとった青年が、右側に座っているのが見えたので、彼女たちは非常に驚いた。6 青年は言った。「驚くことはありません。あなたがたは、十字架につけられたナザレ人イエスを捜しているのでしょう。あの方はよみがえられました。ここにはおられません。ご覧なさい。ここがあの方の納められていた場所です。7 さあ行って、弟子たちとペテロに伝えなさい。『イエスは、あなたがたより先にガリラヤへ行かれます。前に言われたとおり、そこでお会いできます』と。」8 彼女たちは墓を出て、そこから逃げ去った。震え上がり、気も動転していたからである。そしてだれにも何も言わなかった。恐ろしかったからである。
〔彼女たちは、命じられたすべてのことを、ペテロとその仲間たちに短く伝えた。その後、イエスご自身が彼らを通して、きよく朽ちることのない永遠の救いの宣言を、日の昇るところから日の沈むところまで送られた。アーメン。〕」

女性たちが墓の中に入ってみると、そこにまっ白な衣をまとった青年が、右側に座っているのが見えたので、彼女たちは非常に驚きました。青年は彼女たちにこう言いました。6節です。「驚くことはありません。あなたがたは、十字架につけられたナザレ人イエスを捜しているのでしょう。あの方はよみがえられました。ここにはおられません。ご覧なさい。ここがあの方の納められていた場所です。」
ここでは「驚いた」ということばが強調されています。イエスのからだが納められていた墓からあの石が転がされていただけでなく、その墓の中は空っぽだったからです。なぜ墓は空っぽだったのでしょうか?イエスがよみがえられたからです。イエスは死んで三日目によみがえられ、その墓を塞いでいた大きな石をころがしてくださったのです。それを見た女性たちはどんなに驚いたことでしょう。そして、私たちも同じ体験をすることになります。私たちの心を塞いでいた大きな石が転がされるという体験です。どんなに悩みがあろうと、どんなに疑問があろうと、どんなに問題があろうと、イエスはあなたの心に立ちはだかる石を転がしてくださいます。なぜなら、イエスはみがえられたからです。

ところで、この青年は彼女たちにもう一つのことを言いました。それは7節にあることです。「さあ行って、弟子たちとペテロに伝えなさい。『イエスは、あなたがたより先にガリラヤへ行かれます。前に言われたとおり、そこでお会いできます』と。」」
ここで青年は、イエスが弟子たちより先にガリラヤに行くので、そこでお会いすることができると言いましたが、ここでは弟子たちだけでなく、弟子たちとペテロにと言っています。あえて使い分けているのです。弟子たちだけでなく、ペテロに対して個人的に伝えてほしいと。なぜ「弟子たちに」ではだめだったのでしょうか。なぜ個人的にペテロに告げる必要があったのでしょうか。
それはペテロが弟子たちの筆頭であったからではありません。それは、ペテロが一番イエスに会いづらい人物だったからです。なぜなら、彼は公の場で3度もイエスを否定したからです。彼は「他の弟子たちがすべてあなたを見捨てても、私だけは火の中水の中、死までご一緒します。口が裂けてもあなたを知らないとは絶対に言いません。」と言い張ったのに、イエスを知らないと否定しました。今さら、どの面下げて主に会えるでしょう。弟子の筆頭だった彼が一番してはいけないことをしたのです。イエスの目の前で。
でもペテロは先にイエス様にこういうふうにも言われていました。ルカ22章31~32節のことばです。
「シモン、シモン。見なさい。サタンがあなたがたを麦のようにふるいにかけることを願って、聞き届けられました。しかし、わたしはあなたのために、あなたの信仰がなくならないように祈りました。ですから、あなたは立ち直ったら、兄弟たちを力づけてやりなさい。」
イエスはすべてのことがわかっていました。十分わかった上で、あなたの信仰がなくならないように祈った」と言われたのです。そして「ですから、立ち直ったら、兄弟たちを力づけてやりなさい。」と言われました。これは「もし立ち直ったら」ということではありません。イエスは彼が立ち直ることもちゃんとご存知の上で、それを前提にして、あなたが立ち直ったら、兄弟たちを力づけてやりなさいと言ったのです。失敗した人にやり直しをさせて、兄弟たちを力づけてやるという新しい務めも与えると、イエスはあらかじめ約束しておられたのです。ですから、イエスはその約束通りにまずペテロの前に現れ、その約束を果たされるのです。まずペテロを立ち直らせる。これが復活された主がなさる最初のことだったのです。イエスのことを3度も否定した弟子の筆頭、その立場なり、その資格を失っている者に対して、まず回復をもたらしたのです。つまり、イエスは一番傷ついている者、一番痛い思いをしている者、一番恥ずかしい思いをしている者のところへ行って、和解をもたらしてくださるということです。ペテロはとてもイエスの復活の証人として相応しいとは思えません。しかし、そのようなペテロを主はあわれんでくださり、復活の姿を現わしてくださったのです。

それは私たちも同じです。このイエスの愛は、同じように私たち一人ひとりに注がれています。神様に背いてばかり、神様になかなか従えないこんな私をイエスは愛し恵みを注いでいてくださる。私たちも復活の主によって支えられ、復活の主の弟子とされているのです。弱いペテロをどこまでも愛され「そうそう、あのペテロにも伝えなさい」と仰せられた主は今、私たち一人ひとりにも、語り掛けてくださっているのです。「そう、そう、あのおっちょこちょいの富男さんにも伝えてあげなさい。何度言ってもわからない。同じ失敗を繰り返しているあの人にも」と。救われるに本当に相応しくないような者であるにもかかわらず、主は一方的な恵みをもって救ってくださいました。あなたがペテロのように主を否定するような者であっても、パウロのように教会を迫害するような者であっても、復活の主はあなたをどこまでも愛しておられるのです。

 最後に8節をご覧ください。「彼女たちは墓を出て、そこから逃げ去った。震え上がり、気も動転していたからである。そしてだれにも何も言わなかった。恐ろしかったからである。〔彼女たちは、命じられたすべてのことを、ペテロとその仲間たちに短く伝えた。その後、イエスご自身が彼らを通して、きよく朽ちることのない永遠の救いの宣言を、日の昇るところから日の沈むところまで送られた。アーメン。〕」

 彼女たちは墓を出ると、そこから逃げ去り、そのことを誰にも言わなかったとありますが、実際には、ペテロにも、他の弟子たちにも伝えています。これはペテロと弟子たち以外には、だれにも伝えなかったという意味です。つまり、彼女たちは、復活の主の最初の証人となったということです。最初の証人となったのはイエスの12人の弟子たちではなく、この女性たちだったのです。これはすごいことです。というのは、当時、イエス様の時代は、女性が証人になることは考えられないことだったからです。しかし、そんな女性たちがイエスの復活の最初の目撃者となりました。男たちではありません。女たちです。

 復活のメッセージを伝えることは、実に栄誉ある務めです。その栄誉に与ったのはこの女性たちだったのです。なぜでしょう?男たちは「どうやって」と考えると何も出来なかったのに対して、彼女たちはどんなに大きな石が目の前に立ちはだかっていても、どんなに屈強なローマ兵が監視していようとも、たとえ捉えられて死ぬことがあっても構わない、とにかくイエスに会いたい。愛するイエスに会いたい。その一心で動いていたからです。

 それに対してなされた大いなる神様の御業を、私たちは今ここで見ているのです。これは男か女かの違いを言っているのではありません。これは、信仰か不信仰かの違いです。イエスを愛しているか、いないのかの違いです。彼女たちには信仰があり、イエスに対する愛がありました。そして、イエスの復活によって希望まで与えられました。この女性たちは、私たち信仰者の模範です。私たちもこの女性たちのようにイエス様を愛するゆえに、「どうやって」ではなく「だれが」石を転がしてくださるのかと問いながら、復活の主がそれをなしてくださると信じて、心から主を愛し、主につき従う者でありたいと思います。イエスはよみがえられました。死からよみがえられた主は、あなたの前に立ちはだかるいかなる石も必ず転がしてくださるのです。

三本の十字架 

聖書箇所:ルカの福音書23章32~43節 
タイトル: 「三本の十字架」    

 今日から受難週が始まります。それはイエス様が十字架の死という受難に向かって歩まれた最期の一週間です。ちょうど今週の金曜日が十字架につけられたその日に当たり、そこから数えて三日後の、来週の日曜日の朝に、イエス様は復活されました。ですから、来週はイエス様が復活されたイースターをお祝いしたいと思いますが、今日はその前にイエス様が十字架で苦しみを受けられた出来事からメッセージを取り次ぎたいと思います。タイトルは「三本の十字架」です。33節には、イエス様が十字架につけられた時、イエス様の右と左にそれぞれ二人の犯罪人も十字架につけられたとあります。ですから、そこには三本の十字架が立てられていたのです。

Ⅰ.父よ、彼らをお赦しください(32-38)

まず、最初の十字架、イエスの十字架から見ていきましょう。32~38節をご覧ください。「32 ほかにも二人の犯罪人が、イエスとともに死刑にされるために引かれて行った。33 「どくろ」と呼ばれている場所に来ると、そこで彼らはイエスを十字架につけた。また犯罪人たちを、一人は右に、もう一人は左に十字架につけた。34 そのとき、イエスはこう言われた。「父よ、彼らをお赦しください。彼らは、自分が何をしているのかが分かっていないのです。」彼らはイエスの衣を分けるために、くじを引いた。35 民衆は立って眺めていた。議員たちもあざ笑って言った。「あれは他人を救った。もし神のキリストで、選ばれた者なら、自分を救ったらよい。」36 兵士たちも近くに来て、酸いぶどう酒を差し出し、37 「おまえがユダヤ人の王なら、自分を救ってみろ」と言ってイエスを嘲った。38 「これはユダヤ人の王」と書いた札も、イエスの頭の上に掲げてあった。」

イエス・キリスト以外にも二人の犯罪人が、イエスとともに死刑にされるために連れて行かれました。この二人の犯罪人は、並行箇所のマタイの福音書27章38節を見ると「強盗」と記されてあります。つまり、彼らは十字架刑に値するような重罪を犯したわけです。
彼らが連れて行かれたのは「どくろ」と呼ばれていた場所でした。ギリシャ語では「クラニオン」と言います。ヘブル語では「ゴルゴタ」、ラテン語で「カルバリー」です。英語の「カルバリー」はラテン語から来ています。それは響きはいいですが、意味は「どくろ」です。私が最初に開拓した教会は、「北信カルバリー教会」と名付けました。「北信どくろ教会」です。なぜそういう名前にしたのかというと、その地域が「北信」という地域であったということと、アメリカの教会が「ガーデナ・カルバリーチャーチ」という名前だったからです。それで「北信」に「カルバリー」を付けて「北信カルバリー教会」としたのです。でも実際は「どくろ教会」です。なぜその場所が「どくろ」と呼ばれていたのか、そこは死刑場で骨が散らばっていたからだとか、この丘の形がどくろの形をしていたからという説があります。その「どくろ」と呼ばれている場所に来ると、そこで彼らはイエスを十字架につけました。イエスだけではありません。ほかに二人の犯罪人がいて、彼らも十字架につけられました。一人はイエスの右に、一人はイエスの左に、です。ですから、そこには三本の十字架が立てられていたのです。

34節をご覧ください。「そのとき、イエスはこう言われた。「父よ、彼らをお赦しください。彼らは、自分が何をしているのかが分かっていないのです。」彼らはイエスの衣を分けるために、くじを引いた。」
これはイエスが十字架上で発せられたことばです。イエスは十字架の上で七つのことばを発せられましたが、これはその最初のことば、第一のことばです。「父よ、彼らをお赦しください。彼らは、自分が何をしているのかが分かっていないのです。」十字架の上でイエスは開口一番とりなしの祈りをされました。これはイエスが自らの教えを実践されたということです。ルカの福音書6章27~28節には、「しかし、これを聞いているあなたがたに、わたしは言います。あなたがたの敵を愛しなさい。あなたがたを憎む者たちに善を行いなさい。あなたがたを呪う者たちを祝福しなさい。あなたがたを侮辱する者たちのために祈りなさい。」とあります。イエスはまさにこれをご自分に適用されたのです。あなたの敵を愛しなさい。あなたを憎む者に善を行うように。あなたを呪う者を祝福しなさい。あなたを侮辱する者のために祈りなさい。なかなかできないことです。でもイエスはこれを自ら実践されました。その究極がこの十字架上でのとりなしの祈りだったのです。この時イエスはボコボコにされていました。血まみれの状態で、それがイエスだと判別することができないほどだったのです。それでもイエスはこのように祈られました。「父よ、彼らをお赦しください。彼らは、自分が何をしているのかが分からないのです。」

この「彼ら」とは誰のことでしょうか。直接的にはイエスを十字架にかけた死刑執行人たち、ローマの兵士たちのことでしょう。そして直接的には手をかけなくても、彼らに死刑をやらせたポンテオ・ピラトもそうでしょうし、イエスを殺そうと企んでいたユダヤ人の当局者たちもそうです。さらには、そうした宗教家たちに先導されて「十字架につけろ、十字架につけろ」と叫んだ群衆たちもそうです。強いて言うなら、私たちもそうです。私たちもこの「彼ら」に含まれるのです。なぜなら、私たちも自分が何をしているのかわかっていないからです。自分が罪を犯しているかどうかさえもわかっていない人たち、罪を罪とも感じない人たちのためにイエスはこのようにとりなしの祈りをされたのです。

このときイエスはどういう状態でしたか。もうひん死の状態でした。その声は虫の息のようで、ことばを発するのが奇跡に近いような状態でした。そういう状態でイエスは自分のことではなくそんな「彼ら」のために祈られたのです。皆さん、自分の手に釘を打ち付けたことがありますか。そういう経験はないかと思いますが、想像してみてください。想像しただけでゾッとします。かなりの痛みが体全体に走るでしょう。すべての神経がその一点に集中します。もう他の人のことなど全く考えられないはずです。余裕で何かことばを発するなんてできなくなります。しかし、イエスは自分のことなど全く無視するかのように、「父よ、彼らをお赦しください。」と祈られました。それはイエスがそのためにこの世に来られたということをだれよりもよく認識していたからです。ですから、イエスは激しい痛みと苦しみの中にあってもそのことを忘れず、最後まで忠実に神のみこころを果たそうとされたのです。十字架の上でもなおも人を救おうと願っておられたからです。

このことばは、古今東西多くの人たちの心をとらえてきました。まさに心を奪われてイエスによって救われた人たちが後を絶ちません。特に紹介したいのは、淵田美津雄(ふちだみつお)という人です。この人は真珠湾攻撃の総隊長、海軍大佐だった人です。のちにクリスチャンになってキリスト教の伝道者になりますが、彼がクリスチャンになったきっかけがこの聖句でした。「父よ、彼らを赦したまえ。その成すところ知らざればなり。」このことばが彼の心を捉えて、彼は救われました。そして世界中を伝道して回る伝道者になったのです。アメリカと日本の橋渡しとなって、赦しのメッセージを伝えて行くことになりました。このイエスのことばによって、その後も多くの人たちが救われていくことになります。

私たちはもう一度自分の原点を振り返りながら、私たちはどこから救われて来たのかを考えなければなりません。私たちはどこから救われて来たのでしょうか。ここからです。このイエスのとりなしの祈りから救われて来ました。これが私たちの救いの原点です。私たちもイエス・キリストを十字架に磔にした「彼ら」、極悪人とちっとも変わりません。それなのにイエスはそんな私たちのために祈られたのです。本来ならこの私が十字架に付けられて死んでいなければならなかったのに、そんな私たちのためにイエスがとりなしてくださったことによって救われたのです。ここから私たちの救いの物語が始まっているのです。イエスがこのとりなしの祈りをささげられなかったら、私たちは救われませんでした。イエスの祈りだからこそ、父なる神は聞いてくださったのです。

35節をご覧ください。民衆は立って眺めていました。議員たちも、あざ笑って言いました。「あれは他人を救った。もし神のキリストで、選ばれた者なら、自分を救ったらよい。」この議員たちとはユダヤ教の宗教指導者たちのことです。彼らも十字架につけられたイエスを見てあざ笑って「あれは他人を救った。もし神のキリストで、選ばれた者なら、自分を救ったらよい。」と言ってしまいました。言ってしまったというのは、思わず言ってしまったということです。これは「ウップス!」です。思わず本音が出ちゃったということです。「あれは他人を救った」それは真実のことばです。他人を救ったなんて本当は言いたくなかったのです。他人を救ったようだったとか、救ったと自慢したとか、そんなふうに言いたかったのに、思わず本当のことを言ってしまいました。「あれは他人を救った。」そうです、イエスは他人を救ったのです。イエスの敵であった彼らでさえも、それを認めていたということです。彼らは知っていました。イエスが神の力で他人を救ったということを。だったら自分を救ってみろと。

皆さん、イエスは自分を救うことができなかったのでしょうか。いいえ、彼は自分を救うことなど何でもないことでした。たとえば、イエスが十字架につけられるためにローマの兵士約600人がイエスを捕らえに来たとき、イエスが彼らに「だれを捜しているのか」と言うと、彼らは「ナザレ人イエスを」と答えましたが、そのときイエスが「わたしがそれだ」と言うと、彼らは後ずさりして、地に倒れてしまいました。「わたしがそれだ」と言っただけで、600人の兵士が一度に倒れてしまったのです。また、イエスが風に向かって「嵐よ、静まれ」と言うと、すぐに凪になりました。風や波すらイエスの言うことに従ったのです。自然の猛威ですらイエスの権威の前に服するのですから、ローマ兵が何人束になってかかって来ても、イエスにかなうわけがありません。イエスは自分を救うことなんてお茶の子さいさいだったのです。十字架の上から下りることなんて何でもないことでした。でもそうされませんでした。なぜ?そんなことをしたら私たちを救うことができなくなってしまうからです。イエスはそのことを十分知っておられたので、そのような彼らのことばに乗ることをしませんでした。誘惑はあったでしょう。こんなひどいことを言われるくらいならさっさとここから下りて天の父のところに帰って行こういうこともできたはずです。でもそうされませんでした。あえて十字架の上にとどまられたのです。それは私たちを愛するゆえです。釘がイエスを十字架にとどめたのではありません。私たちに対する愛が、イエスを十字架にとどめたのです。そのことをもう一度覚えていただきたいと思います。

36~38節をご覧ください。「36 兵士たちも近くに来て、酸いぶどう酒を差し出し、37 「おまえがユダヤ人の王なら、自分を救ってみろ」と言ってイエスを嘲った。38 「これはユダヤ人の王」と書いた札も、イエスの頭の上に掲げてあった。
ユダヤ教の宗教指導者たちだけでなく、ローマの兵士たちもイエスをあざけりました。彼らは十字架に磔にされたイエスの近くに来て、「酸いぶどう酒」を差し出しました。この酸いぶどう酒というのは、発酵が進んだぶどう酒に水を混ぜ合わせたものです。これは酔うためではありません。渇きを潤すためのものです。十字架刑があまりにも過酷な刑だったので、あわれみがかけられ、麻酔薬に相当する没薬を混ぜたぶどう酒が差し出されたのです。でもイエスはそれを飲もうとされませんでした。はっきりした意識を持ってその痛みの一つ一つを感じながら、私たちの罪の贖いを成し遂げられたのです。これが私たちに対するイエスの愛でした。つまり、イエスは十字架でご自身の愛を明らかにしてくださったのです。カルバリ山のイエスの十字架は、その神の愛の表れだったのです。それほどまでにあなたは愛されているということです。

イエスはかつて、こう仰せられました。「人がその友のためにいのちを捨てるという、これよりも大きな愛はだれも持っていません。」(ヨハネ15:13)。人がその友のためにいのちを捨てるということよりも大きな愛はありません。それは最も大きな愛です。誰かを本気で愛そうと思うなら、その人のために、自分のいのちを捨てて、身代わりとなる、それ以上にその愛を最大限に表せる方法はなありません。なぜなら、人が犠牲にすることのできる最大のものは「自分のいのち」に他ならないからです。そしてあのゴルゴタの十字架、カルバリの十字架で、イエスはまさにその「ご自分のいのち」を私たちのための身代わりとなって捨てて下さったのです。 しかも「神の御子のいのち」は、「私たちのいのち」と違います。「罪の汚れ」というのが一点たりともありませんでした。私たちは多かれ少なかれ罪を抱えています。だから、本当は私たちだってあの十字架の上で罰せられても仕方のない者なのです。しかし神の御子は違います。イエスはそのような罪を何一つ犯しませんでした。十字架刑には全く値しないお方だったのです。重罪どころか軽犯罪すら犯しませんでした。ローマの法律ばかりか、ユダヤの律法にも違反していませんでした。イエスは全く罪のない方だったのです。そのイエスが十字架に付けられたのです。なぜでしょうか?それは私たちを救うためです。そのためにイエスは私たちの罪の身代わりとなって十字架にかかってくださったのです。これこそ「愛」というものなのではないでしょうか。これより大きな「愛」はありません。だから、神様は、私たちのことを間違いなく愛して下さっています。だって私たちは、その「しるし」をこの十字架に、しっかりと見せていただいているのですから。

朝鮮戦争の時、二人の若いアメリカ人兵士が、とある塹壕に隠れていました。二人は大の仲良しで、いつも一緒に行動していたそうですが、ある日、二人が隠れていた塹壕に手榴弾が投げ込まれました。すると、それを見た一人が、もう一人の方にウィンクするや、その手榴弾の上に自分の体を投げ出して覆い被さったというのです。当然、その人は亡くなりましたが、その尊い犠牲によってもう一人の方は、無事にいのちが守られました。
 その後、生き残った兵士はアメリカに帰ってから、自分を助けてくれた友だちのお母さんに会いに行きました。そしてお母さんに尋ねました。「彼は、手紙の中でボクのことを書いていましたか?」すると「ええ」とお母さんが答えてくれたので、さらに彼は、「手紙の中で、ボクのことを愛していると書いていましたか?」と訊ねました。すると、そのお母さんは、突然持っていたカップを床に投げつけて、こう言いました。「あんたは、一人の男があんたのためにいのちを捨てたのに、『彼があんたを愛していたか』って聞くの?」と。
 私たちも神様に対して、これと同じようなことをしてはいないでしょうか。「あなたは、神の御子なるお方があの十字架で、あなたのためにいのちを捨てて下さったのに、神さまの愛を疑うのか」と言われるようなことをしていないでしょうか。

Ⅱ.わたしを思い出してください(39-42)

次に、イエスの右と左に立てられた二人の犯罪人の十字架を見ていきましょう。39~42節をご覧ください。「39 十字架にかけられていた犯罪人の一人は、イエスをののしり、「おまえはキリストではないか。自分とおれたちを救え」と言った。40 すると、もう一人が彼をたしなめて言った。「おまえは神を恐れないのか。おまえも同じ刑罰を受けているではないか。41 おれたちは、自分のしたことの報いを受けているのだから当たり前だ。だがこの方は、悪いことを何もしていない。」42 そして言った。「イエス様。あなたが御国に入られるときには、私を思い出してください。」」

並行箇所のマタイの福音書27章44節を見ると、最初イエスと一緒に十字架につけられた強盗たちは、二人ともイエスをののしっていました。しかし、ここでは一人の犯罪人がイエスをののしっていて、もう一人の犯罪人はイエスを信じ、イエスをののしっていたもう一人の犯罪人をたしなめています。すなわち、ある段階から一人は変えらたということです。イエスの右と左、全く同じ距離に磔けられた二人の犯罪者。二人とも強盗であり、二人とも罪深い者でした。でも何かが変わったのです。犯罪者の一人は、イエスをののしり、「おまえはキリストではないか。自分とおれたちを救え。」と言い、もう一人はイエスを信じて、「おれたちは、自分のしたことの報いを受けているのだから当たり前だ。だがこの方は、悪いことを何もしていない。」と言い、イエスに「あなたが御国に入れられるときには、私を思い出してください。」と言いました。いったいこの違いはどこから生じたのでしょうか。

これまでも35節と37節には、「自分を救ってみろ」という言葉が使われていました。35節ではユダヤ教の宗教指導者たちとそれに先導された一般民衆たちから、37節ではローマの兵士たちから、そのようにののしられました。そして、この39節では一人の犯罪人からののしられています。「自分とおれたちを救え」と。彼らに共通していることは何かというと、今置かれている目の前の苦しみから解放してみろ、救ってみろということです。日本語の聖書はきれいなことばで訳されていますが、原語では、ひどいニュアンスのことばが使われています。「おめえはキリストなんだろ。だったら、てめえ自身と俺たちのことを救ってみろ!」そんな感じです。いわばヤケクソです。このヤケクソは、私たちもよく経験することではないでしょうか。自分の力ではどうにもならない現実に押し潰されるとき、人は皆こんなふうにヤケクソになりやすいのです。それはクリスチャンだって同じです。それは「神様の愛を疑う程の失望」から湧き上がって来るものです。

しかし、もう一人の犯罪人は違いました。もう一人の犯罪人は、彼をたしなめてこう言いました。「おまえは神を恐れないのか。おまえも同じ刑罰を受けているではないか。おれたちは、自分のしたことの報いを受けているのだから当たり前だ。だがこの方は、悪いことを何もしていない。」そして言った。「イエス様。あなたが御国に入られるときには、私を思い出してください。彼は「ここから下せ」とか、「おれたちを救え」と言ったのではありません。彼は「イエス様。あなたが御国に入られるときには、私を思い出してください。」と言いました。つまり、「ここから引き上げてください」と言ったのです。もっと高い次元にいざなってください。もっとあなたのみぞは近くに置いてください。もっとあなたを知りたいのです、そう言ったのです。この苦しみからただ解放してほしいというのではなく、この苦しみの中にあってもあなたをもっと知りたい。もっとあなたに近づきたいと言ったのです。詩篇119篇71節にこうあります。「苦しみにあったことは、私にとって幸せでした。それにより、私はあなたのおきてを学びました。」
すばらしいですね。この苦しみを通してイエスの苦しみに少しでも預かることができるのであればそれこそ本望だ。それは本当にありがたい。苦しいけれどもありがたい。これによってイエスの似姿に変えられるならば、私は喜んでこの苦境を耐えていきたい。そう言ったのです。あなたはどうでしょうか。あなたの祈りはそうなっているでしょうか。

それとも、もう一人の犯罪人のように「自分とおれたちを救え。」の一点張りでしょうか。「とにかくここから早く下してくれ。解放してくれ。」と。病気になったらすぐに癒してください。困ったことがあったらすぐに助けてください。あれがないからこれをください。これがなければあれをください。ああしてください。こうしてください。そういう祈りになってはいないでしょうか。そういう祈りが決して悪いと言っているのではありません。しかし、それはこの一人の犯罪人とちっとも変わりません。ただ目の前の苦しみから解放してほしいというだけです。しかし、仮にイエスがこの祈りに応えたとしても、結局、この強盗はどうなったでしょうか。結局、自分の罪の中に死んでいくことになります。その時は一時の救いを経験するかもしれませんが、究極的には地獄に堕ちて行くことになるのです。確かに目の前の苦しみから解放されたいでしょう。できるだけ早くそこから救ってほしいと思うのは当然のことです。でも主が求めておられることは、自分とおれたちを救えということではなく、「イエス様。あなたが御国に入れられ時には、私を思い出してください」という祈りです。あなたのもとに引き上げてください。もっとあなたに近づきたい、もっとあなたを深く知りたいと願うことです。「苦しみにあったことは、私にとって幸せでした。それにより、私はあなたのおきてを学びました。」と、この犯罪人のように、苦しみの中で引き上げられること、主のみそば近くに引き寄せられることなのです。

私たちも苦しみに会うととかくそこから救ってほしい、解放してほしいということしか考えられませんが、実はその苦しみこそ私たちが神のおきて学ぶ時として与えられるということを覚えていただきたいのです。そしてもう一人の犯罪人のように、「イエス様。あなたが御国に入れられるときには、私を思い出してください。」「ここから引き上げてください」と祈る者でありたいと思うのです。

Ⅲ.あなたは今日、わたしとともにパラダイスにいます(43)

最後に、この犯罪人の願いに対するイエスの答えを見て終わりたいと思います。43節をご覧ください。「イエスは彼に言われた。「まことに、あなたに言います。あなたは今日、わたしとともにパラダイスにいます。」」

これは、イエスが十字架の上で発せられた七つのことばの第二番目のことばです。「まことに、あなたに言います。あなたは今日、わたしとともにパラダイスにいます。」
「今日」ということばに注目してください。「あなたは今日、わたしとともにパラダイスにいます。」「いつか」「そのうちに」ではなく「今日」です。イエスを信じたその日に、もうパラダイスです。この「パラダイス」ということばは元々ペルシャ語から来たことばですが、その原意は、柵によって囲まれた園、および庭です。旧約聖書の中にもよく使われていますが、そこでは「園」と訳されています。でもそれはただの園ではなく天の園、神の国のこと、天の楽園のことを指しています。それが天国というところです。実際に天国は園のようなところです。そこにはいのちの木が生えていて、いのちの水の川が流れています。早く行ってみたいですね。まさに楽園です。ですからイエスが「あなたは今日、わたしとともにパラダイスにいます」という時、それはこの天の園、神の国のことを指して言われたのです。「今日、わたしとともにパラダイスにいます。」イエスを信じた今日、その瞬間、イエスは彼をこの天の園、神の国に伴ってくださると約束してくださったのです。彼は死の間際にすばらしい救いの約束を与えていただいたのです。

皆さん、救われるためには何かをしなければならないということはありません。救われるためには、ただイエスを信じればいいのです。イエスが自分の救いのためにすべてを成し遂げてくださったので、それら加えるものは何一つありません。もし救われるために何かをしなければならないとしたら、この犯罪人は救われなかったでしょう。だって十字架に磔にされてただ死ぬのを待っているだけの状態だったのですから。文字通り、手足が釘付けされている以上何もできないわけです。でも、イエスを信じた瞬間、信仰のゆえに、今日パラダイス、天国に行って、永遠にそこで過ごすという救いの約束を受けたのです。ただ神の恵みにより、キリスト・イエスの贖いによって。ただ神の恵みによって救われるのです。しかし、神の側では最大の犠牲を払ってくださったということを忘れてはなりません。

これがキリスト教の言うところの救いです。これ以外の宗教の説く救いというのは、全部何かをしなければならないというものです。信仰義認ではなく行為義認なのです。何らかの行いをしなければ救われないと言います。それは人間が作った宗教です。救われるためにはこうしなければならない、ああしなければならない、徳を積まなければならない、苦行をしなければならない、犠牲を払わなければならないと言うのです。でも、人が努力して自らを救うことができるならば、救い主は必要ありません。そのような人間の宗教で人が救われることはまずありません。せいぜいそれは気休め程度です。とんなに頑張っても、どんなに犠牲を払っても、死に打ち勝つことなどできないのです。そして、その頑張りによって自分を天国に入れるということなど絶対にできません。でも、イエスを信じるなら、あなたは救われます。信じたその瞬間にイエスとともにパラダイスにいるのです。何とすばらしい約束でしょうか。

イエスはこの約束を与えるにあたり、「まことに、あなたに言います。」と言われました。この「まことに」ということばは、原文でみると「アーメン」と記されています。イエスはご自身に救いを求めたその人に「まことに、あなたは今日わたしとともにパラダイスにいます。」と言われたのです。これはイエス様の感動が伝わってくることばです。
何がイエス様を十字架の苦しみの中にあっても「アーメン」と感動させたのでしょうか。それはこの犯罪人の一人が、自らの罪を認めてご自身に救いを求めたからです。生き直す時間がない絶望的な状態で、イエスを信じて救われたいと真実に願い求めたからです。ゴルゴタの丘に立てられた三本の十字架は、無意味に立てられたのではありません。イエス様をあざ笑う者の仲間になるのか、それともこの犯罪人のように自らの罪を認め、イエス様を信じるのかのどちらかです。イエスの救いを信じて、イエス様の救いに与りましょう。イエス様は、私たちを「アーメン」と言って救ってくださるお方なのです。

苦難の時に生きる道 エレミヤ書15章1~14節


聖書箇所:エレミヤ書15章1~14節(エレミヤ書講解説教32回目)
タイトル:「苦難の時に生きる道」
きょうは、エレミヤ書15章1~14節から「苦難の時に生きる道」というタイトルでお話します。皆さんは、自分の運命を嘆いたことがありますか。また、自分なんて生まれてこないほうがよかったと感じたことがあるでしょうか。そのようなとき、あなたはそれをどのように乗り越えてきましたか。
今日の個所で、エレミヤは自分の運命を嘆き、生まれてきたことを後悔しています。10節で彼はこう言っています。「ああ、悲しいことだ。私の母が私を産んだので、私は全地にとって争いの相手、また口論する者となっている。私は貸したことも、借りたこともないのに、皆が私を呪っている」
  ここで彼は自分が生まれてきたことを嘆き、悲しんでいます。なぜ彼はこのように自分の運命を嘆いたのでしょうか。また、それをどのようにして乗り越えることができたのでしょうか。今日はそのことについてご一緒に考えたいと思います。
Ⅰ.さばきを思い直さない神(1-4)

 まず1~4節をご覧ください。1節には、「1 主は私に言われた。「たとえモーセとサムエルがわたしの前に立っても、わたしの心はこの民に向かわない。この民をわたしの前から追い出し、立ち去らせよ。」とあります。
わき水の泉である主を捨て、壊れた水溜めを掘ったイスラエル、ユダの民に対して、主はさばきを宣告されました。14章前半では日照りのことについて、主はエレミヤに語られました。日照りの結果干ばつが起こり、飢饉が彼らを襲うことになります。それだけではありません。12節には「剣と飢饉と疫病で、彼らを絶ち滅ぼす」と言われました。
  それに対してエレミヤは必至にとりなしの祈りをささげます。彼は主の御名のために、主のご性質にかけて事をなしてくださいと3度も祈りましたが、主はそれをことごとく退けられてこう言うのです。1節です。「たとえモーセとサムエルがわたしの前に立っても、わたしの心はこの民に向かわない。」
モーセとサムエルはまさにとりなし手の代表です。モーセは律法の代表者であり、サムエルは預言者の代表者です。彼らに共通しているのは、彼らがとりなしの名手であるということです。彼らは幾度となくイスラエルのためにとりなして、彼らを救ってきました。
たとえば、イスラエルが金の子牛を造って拝んだとき、主は「わたしは彼らを絶ち滅ぼし、あなたを大いなる国民にする」と言われましたが、その時モーセが彼らのためにとりなすと、主はさばきを思い直されました(出エジプト32:11-14)。サムエルはどうでしょうか。サムエルも主が周囲の敵からイスラエルを救い出してくださったのに彼らが自分たちを治める王が必要だと言って主のみこころを損った時、彼らのためにとりなしてこう言いました。「私もまた、あなたがたのために祈るのをやめ、主の前に罪を犯すことなど、とてもできない。」(Ⅰサムエル12:23)すると主は、その祈りを聞いてくださいました。
しかしここでは、たとえそのモーセとサムエルがとりなしても、主の心はこの民に向かわない。この民を主の前から追い出し、立ち去らせるというのです。たとえモーセやサムエルのような偉大な英雄、信仰の巨人と言われる人が祈っても、今回ばかりは、主がさばきを思い直されることはないというのです。まあ、モーセとサムエルの時代も神の民は神に背いていましたが、まだかわいいところがありました。モーセやサムエルが主のみこころを伝えると、協力的にそれを受け止めたからです。すぐにごめんなさいと言って、私のために祈ってくださいと懇願しました。まだへりくだっていたのです。しかし、このエレミヤの時代の民は、手がつけられないほど反抗的でした。エレミヤが神のことばを語るとあからさまに反抗しました。エレミヤは涙ながらに祈ったのに、そんなエレミヤを目の上のたんこぶのように、邪魔者扱いしました。ついには彼を殺そうとまでしたのです。エレミヤの思いに共鳴することなど全くありませんでした。そんな彼らに対して主は、たとえモーセやサムエルがとりなしてもわざわいを思い直されることはないと言われたのです。
2~3節をご覧ください。「2 彼らがあなたに『どこへ去ろうか』と言うなら、あなたは彼らに言え。『主はこう言われる。死に定められた者は死に、剣に定められた者は剣に、飢饉に定められた者は飢饉に、捕囚に定められた者は捕囚に。』3 わたしは四種類のもので彼らを罰する──主のことば──。切り殺すための剣、引きずるための犬、食い尽くして滅ぼすための空の鳥と地の獣である。」
それに対して彼らは主の言葉を軽く考えて、「追い出されるならどこへ行こうか」と応答していましたが、そんな彼らに主は事の重大さを明確に伝えます。それは14章にもありましたが、疫病によって死ぬか、剣で殺されるか、飢饉で死ぬかということです。そして生き残った者は捕囚として連れて行かれることになるということです。この四つしかありません。しかも、死んでも丁重に葬られることはありません。死体が獣に食われることになります。
しかし、だからと言って彼らに希望がないわけではありません。これを見たらとても希望を持ちえないと思うかもしれませんが、覚えていただきたいことは、神様は彼らを完全に滅ぼすことを望んでいないということです。私たちの神は一人として滅びることなく、すべての人が救われることを望んでおられるのです。ですから、神様はあえてこのような試練や困難を与えて、彼らがご自身のもとに立ち返るようにと矯正しておられるのです。徹底的な厳しい対処をしながらも、決して見捨てることはなさらないのです。だって、もし本当に滅ぼすつもりなら、こんな回りくどいことはしないでしょう。あのソドムとゴモラを滅ぼしたように、天から硫黄を降らせればいいわけですから。そうすれば、一瞬にして滅びてしまいます。わざわざ日照りにしなくてもいいのです。いろいろな種類の死を与える必要もありません。一つの種類で十分です。しかも一瞬でいいのです。しかし、主はあえてそういうことをなさらずに時間をかけながら、痛みを与えて、お尻をペンペンして、彼らが間違いを犯したことを思い知るようにさせたのです。それは彼らを滅ぼしたいからではなく救いたいからです。同じように主は私たちをも受け入れ、赦したいのです。またその関係を回復したいと願っておられるのです。子どもが間違いを犯して親に「ごめんなさい。許してください」という時、親が両手で抱きしめてくれるように、私たちを赦し抱きしめて受け入れてくださるのです。私たちの神様はそういう方なのです。ですから、これは滅ぼすことが目的なのではなく、あくまでも教育を目的とした試練なのです。バビロンに捕え移されることも、彼らにとっては異教的な環境の中で相当の苦難とストレスに苛まれることになりますが、このことを通して彼らは、あの頃がどんなに神様の恵みと憐れみに満ち溢れていたすばらしい時だったかを知るようになります。それがバビロン捕囚という70年間にわたる神の懲らしめの時だったのです。
それは1章10節のところで、すでに神様がエレミヤを通して語られていたことでした。「見なさい。わたしは今日、あなたを諸国の民と王国の上に任命する。引き抜き、引き倒し、滅ぼし、壊し、建て、また植えるために。」
これがエレミヤの使命でした。建て上げるために壊さなければなりません。植えるために引き抜かなければならないのです。バビロン捕囚の警告のメッセージは、まさに滅ぼすメッセージでしたが、実はそれは建て上げるためだったのです。建設的な目的でなされたのです。もしあなたが彼らほど頑なでなければ、神様はあなたにこういう扱いはされません。彼らは頑なで、どんなに口で言っても聞かなかったので、主は痛みを与えてまでも彼らを立ち返らせようとしたのです。そんな思いをしなくても「わかりました。ごめんなさい」と素直に受け入れたなら、それで済むことだったのです。
4節をご覧ください。ここには「わたしは彼らを、地のすべての王国にとって、おののきのもとにする。ユダの王ヒゼキヤの子マナセがエルサレムで行ったことのためである。」とあります。
主は彼らを、地のすべての王国にとって、おののきのもとにします。これは、地のすべての民が、ユダの民が通った悲劇を見て、恐れおののくようになるということです。どうして彼らはあんなにも恐ろしい体験をしなければならなかったのかと。バビロンが容赦なく彼らを殺したのも、さぞかし恐ろしかったことと思います。
しかし、ここで特に注目していただきたいことは、その原因が「マナセがエルサレムで行なったことのためである」と言われていることです。どういうことでしょうか。マナセはユダの王ヒゼキヤの子ですが、南ユダ王国史上最低の王でした。極悪王です。彼については歴代誌第二33章1~9節に書いてあるので参照していただきたいと思いますが、彼は12歳で王になると、エルサレムで55年間南ユダを治めました。彼は、主がイスラエルの子らの前から追い払われた異邦の民の忌み嫌うべき慣わしをまねて、主の目に悪であることを行いました。そして、父ヒゼキヤが取り壊した高き所を築き直し、バアルのためにいくつもの祭壇を築き、アシェラ像も造りました。また、彼は天の万象を拝んでこれに仕えたのです。こうして彼は、主がかつて「エルサレムにわたしの名がとこしえにあるように」と言われた主の宮に、いくつもの偶像の祭壇を築いたのです。そして、ベン・ヒノムの谷で自分の子どもたちに火の中を通らせたり、卜占(ぼくせん)とかまじないをし、呪術を行い、霊媒や口寄せをし、主の目に悪であることを行って、いつも主の怒りを引き起こしていたのです。彼はそのようにしてユダとエルサレムの住民を迷わせて、主がイスラエルの子らの前で根絶やしにされた異邦の民よりも、さらに悪いことを行わせたのです。そのために主は、それから約100年後のこのエレミヤの時代に、南ユダを滅ぼすと決めたのです。マナセがエルサレムで行ったことのために、南ユダは悲惨な状態に置かれることになってしまいました。一人の国家のリーダーの罪によって大きな弊害がもたらされることになるということです。それは今だけでなく後の時代にも影響を及ぼすことになります。そういう意味では、エレミヤの時代だけでなく、今の時代においても私たちはどうなのかが問われているのです。
Ⅱ.エルサレム滅亡の預言(5-9)
次に5~9節をご覧ください。「5 エルサレムよ、いったい、だれがおまえを深くあわれむだろう。だれがおまえのために嘆くだろう。だれが立ち寄って、おまえの安否を尋ねるだろう。6 おまえはわたしを捨てた。──主のことば──おまえはわたしから退いて行ったのだ。わたしはおまえに手を伸ばし、おまえを滅ぼす。わたしはあわれむのに疲れた。7 わたしはこの地の町囲みの中で、熊手で彼らを追い散らし、彼らに子を失わせ、わたしの民を滅ぼす。彼らはその生き方から立ち返らなかった。8 わたしはそのやもめの数を海の砂よりも多くする。わたしは若い男の母親に対し、真昼に荒らす者を送って、突然、彼女の上に苦痛と恐怖を臨ませる。9 七人の子を産んだ女は打ちしおれ、その息はあえぐ。彼女の太陽は、まだ昼のうちに沈み、彼女は恥を見て、屈辱を受ける。わたしは彼らの残りの者を、彼らの敵の前で剣に渡す。──主のことば。」」
エルサレム、ユダに対する神のさばきの宣告です。5節の「いったい、だれがお前を深くあわれむだろう。だれがおまえのために嘆くだろう。だれが立ち寄って、おまえの安否を尋ねるだろう。」とは、だれからも相手にされないということです。完全に見捨てられることになります。6節の「わたしはあわれむのに疲れた」とは、もう二度と憐れまないということです。その都度「ごめんなさい。もうしません」と言うものの、それは口先ばかりで、心が伴っていなからです。その場しのぎの謝罪にすぎません。同じことを繰り返しても謝れば赦してもらえると思っています。泣きつけば赦される、涙を見せれば赦されると思っているのです。主はそういうことに疲れたと言っておられるのです。主は心からの悔い改めを望んでおられます。表面的に悔い改めて罪の赦しを求めるというのではなく、主の御前に砕かれた悔いた心をもって出ることを求めておられるのです。「主よ、私はあなたの御前に罪を犯しました。私は滅ぼされてしかるべき者です。それでも、なお、あなたにすがります。どうかあわれんでください。」と、目を天に向けることもできず、胸を叩いて泣きながら、自分の心を注ぎ出して祈ったあの取税人のように祈るなら、主は必ず聞いてくださいます。ご自身の恵みによってすべての罪、咎を拭い去り、きよめてくださるのです。
でも、彼らはそうしませんでした。ただ適当に教会に来てればそれで神様に受け入れられると思っていました。日曜日の礼拝さえ守っていれば、それで十分だと思っていたのです。そういう人たちに対して主は、もうそれは飽きたと。もう疲れたと言っておられるのです。主が求めておられるのは砕かれた悔いた心です。主はそれをさげすまれません。
 7~9節は、エルサレム滅亡の預言です。「熊手」とは脱穀の時に用いられるもので、もみ殻と実をふるい分ける時、この熊手ですくい上げて空中に飛ばすと、軽いもみ殻だけが飛んで重い実が落ちますが、その時に使う道具です。神様はもみ殻を熊手でふるって殻を飛ばすように、ユダの民を追い散らすのです。その時に用いられるのがバビロンです。「彼らに子を失わせ、わたしの民を滅ぼす」の「彼ら」とは、そのバビロンのことを指しています。バビロンが侵攻して来て、妻子たちを奪って行くのです。8節の「やもめの数を海の砂よりも多くする」とは、男たちが戦いで死ぬため、皆やもめとなってしまうということです。9節には、息子を戦争に送り出した母親の嘆きが描かれています。「七人の子を産んだ女」とは、「七」が完全数であることから、これほど恵まれた女性はいない、これほど幸せな女性はいないという意味です。しかし、そのような女性でも打ちしおれてしまいます。それほどの悲劇だということです。
彼らは自分たちに降りかかる悲劇の根本的な理由が、彼らの罪にあることを悟るべきでした。エルサレムが滅亡した理由は、バビロンが強かったからではなく、イスラエルの罪のためでした。私たちは苦難の原因を他人や他の環境から探そうとするのではなく、自分自身から探さなければなりません。自分自身と神との関係はどうなのかを考えなければならないのです。私たちと神との関係が壊されるのと同時に、これまで努力して積み上げてきたすべての人間的な労苦は一瞬にして崩れ去ってしまうことになります。苦難の時に生きる唯一の道は、神との関係を回復することです。神に立ち返ることだけが生きる道なのです。神はそのような者にご自身の恵みとあわれみを注いでくださるのです。
Ⅲ.神の慰め(10-14)
第三のことは、そこに神の慰めがあるということです。10~14節をご覧ください。まず10節だけをお読みします。 「ああ、悲しいことだ。私の母が私を産んだので、私は全地にとって争いの相手、また口論する者となっている。私は貸したことも、借りたこともないのに、皆が私を呪っている。」
この「私」とはエレミヤのことです。エレミヤは、母が自分を生んでくれたので悲しいと言っているのではありません。そうではなく、こんな時代に生まれてしまったことの悲しみ、悲惨さを嘆いているのです。お母さんに産んでもらったのはありがたいことだけど、この時代が悪すぎる。こんな時代に生まれて、だれも幸せになんてなれない。あまりにも悲しい。いっそのこと生まれてこなければよかった。生まれてこない方が幸せだったと嘆いているのです。
続いてエレミヤはこう言っています。「私は全地にとって争いの相手、またまた口論する者となっている。」新共同訳聖書では、「国中でわたしは争いの絶えぬ男/いさかいの絶えぬ男とされている。」と訳しています。そういう意味です。エレミヤは国中の人たちから嫌われました。なぜ?神のことばをストレートに語ったからです。彼らが聞きたいようなことではなく聞きたくないようなこと、耳障りのよいことではなく悪いことばっかり語るので嫌われていたのです。誤解もされました。彼は本当の愛国者で、そのためには命を捨てても構わないというくらい同胞を愛していたのに、彼らはエレミヤを受け入れなかったどころか彼を憎み、彼を殺そうとまでしたのです。
「貸したことも、借りたこともないのに」とは、何の負債もないのに、という意味です。何の負債もないのですから、何の責任もないはずです。それなのに彼は、国中の人たちに嫌われ、憎まれ、のろわれ、迫害されました。あまりにも理不尽です。
それでエレミヤは自分が生まれて来たことを悲しんだのです。だったら生まれてこなかった方がよかったと。時として私たちもこのような自己憐憫に陥ることがあります。全く回りが見えず、自分の受けた傷にどっぷりと浸り、他のことを切り捨ててしまうのです。それは、人生を浪費させてしまう麻薬中毒のようなものです。あわれみは、人を愛の行動に駆り立てるアドレナリンのようなものですが、自己憐憫は、逆に自分からエネルギーを奪い取り、自分をだめにしてしまう麻薬中毒のようなものなのです。いったいどうしたらこの状態から抜け出すことができるのでしょうか。どうしたらこの問題を真に解決することができるのでしょうか。その鍵は、その問題を神様のもとに持って行くことです。
11~14節をご覧ください。「11 主は言われた。「必ずわたしはあなたを解き放って、幸せにする。必ずわたしは、わざわいの時、苦難の時に、敵があなたにとりなしを頼むようにする。12 人は鉄を、北からの鉄や青銅を砕くことができるだろうか。13 わたしは、あなたの財宝、あなたの宝物を、あなたの領土のいたるところで、戦利品として、ただで引き渡す。あなたの罪のゆえに。14 わたしはあなたを、あなたが知らない地で敵に仕えさせる。わたしの怒りに火がつき、あなたがたに向かって燃えるからだ。」」
アーメン!主はこう言われました。「必ずわたしはあなたを解き放って、幸せにする。」そうです、真の解決は主ご自身にあります。エレミヤは抜け出すことかできない長いトンネルの中で、自分の運命をのろいながら、生まれてこない方がよかったと嘆きましたが、そんな彼に対して主は、「必ずわたしはあなたを解き放って、幸せにする。」と言われたのです。神はエレミヤの嘆きを聞いてくださいました。神が知ってくださる。これ以上の慰めがあるでしょうか。
アブラハムの妻サラの女奴隷ハガルはアブラハムのために身ごもるとサラからいじめられたので、彼女のもとから逃げ去りました。主の使いは、荒野にある泉のほとり、シュルへの道にある泉のほとりで彼女を見つけとる、「あなたはどこへ行くのか。」「あなたの女主人のもとに帰り、彼女のもとで身を低くしなさい。」といいました。そうすれば、主は彼女の子孫を増し加えると。そして、生まれて来る子をイシュマエルと名付けるようにと言いました。
そこで、彼女は自分に語りかけた主の名を「エル・ロイ」と呼びました。意味は「私を見る神」です。主は私を見てくださる方、私の苦しみを知っておられる方、「エル・ロイ」と呼んだのです。自分の弱さのために悩むことが多い私たちの人生において、私を知ってくださる方がおられるということは、どれほど大きな慰めでしょう。これ以上の慰めはありません。
そして、神はエレミヤに、励ましのことばをかけてくださいました。「必ずわたしはあなたを解き放って、幸せにする。必ずわたしは、わざわいの時、苦難の時に、敵があなたにとりなしを頼むようにする。」と。あなたはそんなに落ち込んでいるようだけれども、わたしはあなたを見捨てることはしない。この民のためにとりなすあなたの労苦が報われる時が必ず来る。今あなたに敵対している敵が、わざわいの時、苦難の時に、あなたにとりなしを求めてやってくるようになる、とおっしゃられたのです。すごいですね、神様の励ましは。後になって、このことばが成就することになります。エレミヤ書21章1~2節、37章3節、42章1~6節にあります。彼らはバビロンが攻めて来たとき、エレミヤのところに来て、「私たちのため、この残りの者すべてのために、あなたの神、主に祈ってください。」(42:2)とお願いしています。するとエレミヤも「あいよ!」と言って応えます。「承知しました。見よ。私は、あなたがたのことばのとおり、あなたがたの神、主にいのり、主があなたがたにお答えになることはみな、あなたがたに告げましょう。あなたがたには何事も隠しません。」(42:4)と言っています。
皆さん、これが解決です。12節の「北からの鉄や青銅」とはバビロン軍のことです。また14節の「あなたが知らない地」もバビロンのことです。神様はエレミヤに、彼が語っていることは必ず成就するから恐れるな、と励ましてくださったのです。
エレミヤは、こんなことだったら生まれてこない方がよかったと、自分の運命をのろうほど疲れ果てていたというか、ほとんど鬱状態にまで陥っていましたが、そうやって神様はエレミヤを励まして、なおも彼が主に仕えることができるように助けを与えてくださったのです。私たちが自己憐憫に陥るような悲しみの中で、それでも励まされ、助けられ、立ち上がることができる力はここにあります。神様ご自身が私たちの慰めであり、励まし、助け、希望なのです。
あなたはどうでしょうか。あなたもエレミヤのように誤解されたり、迫害されたり、全く理不尽だと思うような扱いを受けて悲しんでいませんか。もう回りも見えなくなって、こんなことなら生まれてこない方がよかったと思うほど落ち込んでいませんか。でも恐れてはなりません。あなたが神様に目を留め、神様に信頼するなら、あなたの敵でさえも、あなたにとりなしを頼みに来るようになります。そう信じて、神様から勇気と力をいただこうではありませんか。

神のジレンマ エレミヤ書14章10~22節神のジレンマ 


聖書箇所:エレミヤ書14章10~22節(エレミヤ書講解説教31回目)
タイトル:「神のジレンマ」
きょうは、エレミヤ書14章10~22節から「神のジレンマ」というタイトルでお話します。いのちの泉である主を捨てて、自分たちのために壊れた水溜めを掘ったイスラエルに対して、主はエレミヤを通してご自身の許に立ち返るようにと語りますが、イスラエルの民はそれを無視して神様を悲しめるようなことを続けていました。そんなイスラエルの民に対して神様はあわれんで彼らを救いたいのですが、救えない。そのジレンマです。
Ⅰ.神のさばきの宣言(10-12)

 まず10~12節をご覧ください。「10 この民について、主はこう言われる。「このように、彼らはさまようことを愛し、その足を制することもしない。そのため、主は彼らを受け入れず、今、彼らの咎を覚えて、その罪を罰する。」11 主は私に言われた。「この民のために幸いを祈ってはならない。12 彼らが断食しても、わたしは彼らの叫びを聞かない。全焼のささげ物や穀物のささげ物を献げても、わたしはそれを受け入れない。かえって、剣と飢饉と疫病で、彼らを絶ち滅ぼす。」」
14章前半では、日照りのことについて主のことばがエレミヤにありました。そのことばに対してエレミヤは主に祈りました。主の御名にかけて神様に訴えたのです。それは7節にあります。「主よ、あなたの御名のために事を成してください。」(7)8節では「イスラエルの望みである方、苦難の時の救い主よ。」と呼びました。名は体を表します。主はイスラエルの望みの神です。苦難の時の救い主です。だから、自分たちを置き去りにしないでくださいと、必死に祈ったのです。それに対する答えがこれです。
何ということでしょうか。エレミヤが必死になって祈ったにもかかわらず、主の御名に訴えてとりなしたにもかかわらず、それに対する主の答えはまことに素っ気のないものでした。いや、ひどくがっかりさせるものでした。主はこう言われました。10節、「この民について、主はこう言われる。「このように、彼らはさまようことを愛し、その足を制することもしない。そのため、主は彼らを受け入れず、今、彼らの咎を覚えて、その罪を罰する。」
非常に厳しい言葉です。突き放されるような思いがします。11節では、極めつけのようなことばが語られます。それは「この民のために幸いを祈ってはならない。」という言葉です。耳を疑いたくなるような言葉です。本当に神様がこんなことをおっしゃったのかと。神様がこのように民のためにとりなしてはならないと言われたのはこれが3回目です(エレミヤ7:16,11:14)。しかし、ここではもっと踏み込んで言われています。単に彼らのために祈ってはならないと言うのではなく、「この民のために幸いを祈ってはならない。」と言われたのです。私たちの神は私たちに幸いをもたらしてくださる方ではないのですか。その神様が「幸いを祈ってはならない」というのはおかしいじゃないですか。何とも冷たく突き放されるような思いが致します。本当に神様はこんなことをおっしゃったのかと耳を疑いたくなってしまいます。
そればかりではありません。12節にはこうあります。「彼らが断食しても、わたしは彼らの叫びを聞かない。全焼のささげ物や穀物のささげ物を献げても、わたしはそれを受け入れない。かえって、剣と飢饉と疫病で、彼らを絶ち滅ぼす。」どういうことでしょうか。どんなに祈っても、どんなに献げても、すなわち、どんなに礼拝しても、神様はそれを受け入れないというのです。礼拝は形ではないからです。むしろ、剣と飢饉と疫病で彼らを絶ち滅ぼすことになります。それは彼らがいのちの水である主を捨てて、壊れた水溜めを慕い求めたからです。壊れた水溜めとは偶像のことです(2:13)。彼らはまことの神を捨てて偶像を慕い求めました。その結果、このような結果を招いてしまったのです。
皆さん、この世で最も恐ろしいこととは何でしょうか。それは神様に拒絶されることです。もし私たちがささげる祈りと賛美が神に受け入れられないとしたら、これほど悲しいことはありません。神様は私たちの究極的な希望であり救い主なのに、その神様に拒絶されるとしたらそこには何の希望もなくなってしまいます。それはまさに絶望であり、破滅と死を意味します。彼らは神に背いた結果、その破滅と死を招いてしまったのです。
ここには具体的にそれが三つの災害を通してもたらされると言われています。12節にあるように、一つは剣であり、もう一つは飢饉、そしてもう一つが疫病です。剣とは争いのこと、戦争のことです。飢饉とは食べ物が不足して飢えることです。14章の前半のところでは日照りについて語られましたが、その結果もたらされるものが飢饉です。あるいは、これは物質的なことばかりではなく霊的にも言えることです。霊的に満たされない状態のことでもあります。疫病とは伝染病のことです。新型コロナウイルスもこの一つです。これらのことは世の終わりの前兆として起こると、イエス様が言われたことでもあります。ルカ21章9~11節にこうあります。 「9 戦争や暴動のことを聞いても、恐れてはいけません。まず、それらのことが必ず起こりますが、終わりはすぐには来ないからです。」10 それから、イエスは彼らに言われた。「民族は民族に、国は国に敵対して立ち上がり、11 大きな地震があり、方々に飢饉や疫病が起こり、恐ろしい光景や天からの大きなしるしが現れます。」
皆さん、世の終わりにはこういうことが起こります。すなわち、戦争や暴動、飢饉や疫病です。それは世の終わりが来たということではなく、その兆候として起こることです。そういう意味では、この世は確実に終末に近づいていると言えます。ロシアがウクライナに侵攻して1年が経ちましたが、今後世界はどのようになっていくかわかりません。まさに一触即発の様相を呈しています。その結果、エネルギー価格が高騰しかつてないほどの深刻な食料危機が引き起こされています。また、新型コロナウイルスが発生してから3年が経過しましたが、まだ終息には至っておりません。いったい何が問題なのでしょうか。多くの人は戦争や異常気象が原因だと言っていますが、聖書はもっと本質的な問題を取り上げています。それは罪です。10節にこうあります。「このように、彼らはさまようことを愛し、その足を制することもしない。そのため、主は彼らを受け入れず、今、彼らの咎を覚えて、その罪を罰する。」主を受け入れず、さまようことを愛しています。いのちの水である主を捨てて、水を溜めることができない壊れた水溜めを自分たちのために掘ったのです。これが罪です。その結果、こうした剣や飢饉や疫病がもたらされました。私たちは、苦難の原因を他人や環境から探すのではなく、自分自身から探さなければなりません。自分自身と神様との関係が正しいかどうかを考えてみなければならないのです。私たちと神との関係が壊れると同時に、これまで努力して積み重ねてきたすべての人間的な労苦は一瞬にして崩れ去ってしまうことになるからです。ただ覚えておいていただきたいことは、たとえ壊れることがあったとしてもそれで終わりではないということです。そこに赦しと回復があります。悔い改めるなら主は赦してくださるのです。
毎年自ら命を絶つ人が後を絶ちません。ちなみに、昨年一年間に日本で自殺した人の数は21,584人でした。また、アルコール依存症(80万人)や神経症(400万人)を患っている人の数も増えています。これらのことから気付かされることは、私たちは成功するための訓練は受けていても、失敗した時の訓練は受けていないということです。失敗した時にどうすれば良いのかがわからなくて苦しんでいるのです。でも私たちの人生においては、成功するよりも失敗することの方がはるかに多いのです。また、豊かさよりも貧困の方が、目的を達成するよりも挫折する方がはるかに多いのです。そうした失敗に備えることがいかに重要であるかということがわかります。
その備えとは何でしょうか。その最大の備えは、悔い改めて神に立ち返ることです。問題はあなたが何をしたかということではなく、何をしなかったのかということです。あなたが失敗したかどうかではなく、悔い改めたかどうかが問われているのです。もしあなたが失敗しても、悔い改めるなら神は赦してくださいます。もしあなたが自分の罪を言い表すなら、神は真実で正しい方ですから、その罪を赦し、すべての罪からあなたをきよめてくださると聖書は約束しています。
私たちはいのちの水である主を捨て、すぐに壊れた水溜めを掘ってしまうような者ですが、それでもまだ希望があるということです。こうした神のさばきは世の終わりの前兆であって、まだ終わりではないからです。まだ希望があります。まだ間に合います。もしあなたが自分の罪を悔い改めて主に立ち返るなら、主はあなたを赦し、回復へと導いてくださるのです。
Ⅱ.偽りの預言者(13-18)
次に、13~18節をご覧ください。イスラエルの民に対して神がさばきを宣告されると、エレミヤはあきらめないで第二の祈りをささげます。13節です。「私は言った。「ああ、神、主よ。ご覧ください。預言者たちは、『あなたがたは剣を見ず、飢饉もあなたがたに起こらない。かえって、わたしはこの場所で、まことの平安をあなたがたに与える』と人々に言っているではありませんか。」」
ここでエレミヤは、偽預言者たちが民に偽りを語っていると訴えています。偽預言者たちは人々に、「大丈夫、あなたがたは剣なんか見ないし、飢饉もあなたがたには起こらない。かえって、わたしはこの場所で、まことの平安をあなたがたに与える」と言っていたのです。イエス様も世の終わりにはこうした偽預言者が大勢現れると言われました。彼らの特徴はどんなことでしょうか。それは人々にとって耳障りの良いこと、都合が良いこと、聞きやすいことを語ることです。否定的なことではなく肯定的なことを語ります。罪だとか、さばきだとか、滅びだとか、地獄だとか、悔い改めだとか、そういうことは一切言いません。聞く人にとって都合がよいことばかり、耳障りのよいことばかりを語るのです。ですから、彼らはエレミヤが語ることを全部否定しました。剣なんて見ることはないし、飢饉も起こらない。かえって、まことの平安が与えられると。エレミヤは相当困惑したことでしょう。自分が言っていることをすべて否定されるのですから。エレミヤだってそんなことは言いたくありませんでした。できれば平安を語りたい。災いが降りかかるなんて口が割けても言いたくないです。でも、主が言われるから、主が言われた通りに語ったわけですが、それとは全く反対のことを言う者たちがいたのです。偽預言者たちです。彼はここでそのことを訴えているのです。
それに対する主の答えが14~18節の内容です。「14 主は私に言われた。「あの預言者たちは、わたしの名によって偽りを預言している。わたしは彼らを遣わしたこともなく、彼らに命じたこともなく、語ったこともない。彼らは、偽りの幻と、空しい占いと、自分の心の幻想を、あなたがたに預言しているのだ。15 それゆえ、わたしの名によって預言はするが、わたしが遣わしたのではない預言者たち、『剣や飢饉がこの地に起こらない』と言っているこの預言者たちについて、主はこう言う。『剣と飢饉によって、その預言者たちは滅び失せる。』16 彼らの預言を聞いた民も、飢饉と剣によってエルサレムの道端に放り出され、彼らを葬る者もいない。彼らも、その妻も、息子、娘もそのようになる。わたしは、彼らの上に彼ら自身の悪を注ぎかける。17 あなたは彼らに、このことばを言え。『私の目は、夜も昼も涙を流して止まることのないように。おとめである娘、私の民の打たれた傷は大きく、それは癒やしがたい、ひどい打ち傷。18 野に出ると、見よ、剣で刺し殺された者たち。町に入ると、見よ、飢えて病む者たち。まことに、預言者も祭司も、地を行き巡って、仕事に精を出し、何も知らない。』」」
どういうことでしょうか。彼らは主の名によって預言していましたが、主は彼らを遣わしたこともなく、命じたこともなく、語ったこともない、と言われました。彼らは偽りの幻と、空しい偽りと、自分の心の幻想を、語っていただけでした。彼らは勝手に神の御言葉を解釈し、自分たちに都合がいいように適用していました。私たちも神の御言葉を預かる者ですが、彼らのように自分に都合が良いように解釈することがないように注意しなければなりません。「なぜなら、預言は決して人間の意志によってもたらされたのではなく、聖霊に動かされた人たちが、神からのことばを語ったのだからです。」(Ⅱペテロ1:21)
15節と16節には、神はそのような預言者を罰し、またその偽りの預言者に従った者も罰するとあります。そのような預言者だけではないのです。その偽りの預言者に従った者も罰せられることになります。なぜなら、民には、真の預言者と偽預言者とを判別する責任があったからです。ではどうやってそれを判別することができるのでしょうか。イエス様はこう言われました。「16 あなたがたは彼らを実によって見分けることになります。茨からぶどうが、あざみからいちじくが採れるでしょうか。17 良い木はみな良い実を結び、悪い木は悪い実を結びます。18 良い木が悪い実を結ぶことはできず、また、悪い木が良い実を結ぶこともできません。19 良い実を結ばない木はみな切り倒されて、火に投げ込まれます。20 こういうわけで、あなたがたは彼らを実によって見分けることになるのです。」(マタイ7:16-19)
実によって見分けることができます。茨からぶどうが、あざみからいちじくは採れません。良い木はみな良い実を結び、悪い木は悪い実を結びます。イエス様は、木と実のたとえによって、人の内面と外面との密接な関係性を語られました。木の品質は必ず実に現れるということです。それは人間も同じで、聖霊によって内面が霊的に生れ変っている人とそうでない人とでは外側からは分らないかも知れませんが、結ぶ実が違います。イエス様が問題にされたのはその人間の内面です。クリスチャンであるとはその内面の中心に関ることであって、単に行いのある部分がキリスト教的であるということではありません。クリスチャンであるとは、そうでない生き方にキリスト教的要素が少し付け加えることではないのです。御霊によって生まれ変わったクリスチャンは内面が変えられていくのです。人格の中心である心そのものが、自分中心から神中心へと変わるので、自我に囚われていた自分が神の僕(しもべ)となり、神がキリストを通して下さる全く新しい価値観や人生観、喜び、使命に生きる者へ変えられていくのです。勿論、完全にそうなるということではありません。失敗することもあります。でもその失敗しても本質的にそこに向かっているということです。
エレミヤ書に戻ってください。その上で主はこう言われるのです。17~18節です。「17 あなたは彼らに、このことばを言え。『私の目は、夜も昼も涙を流して止まることのないように。おとめである娘、私の民の打たれた傷は大きく、それは癒やしがたい、ひどい打ち傷。18 野に出ると、見よ、剣で刺し殺された者たち。町に入ると、見よ、飢えて病む者たち。まことに、預言者も祭司も、地を行き巡って、仕事に精を出し、何も知らない。』」どういうことでしょうか。
この「私の目は」の「私」は漢字で書かれているので、これはエレミヤの目のことですが、実は神の目でもあります。それはその後に「おとめである娘、私の民」とあることからもわかります。この「私」とは、明らかに神様のことです。ですから、エレミヤの目は、昼も夜も涙を流して止まることがなかったように、神様の目もまた涙を流し止まることがなかったのです。神はイスラエルの民にさばきを宣告しましたが、その心は一人も滅びることなく、すべての人が救われることを望んでおられたからです。ここに神のジレンマがあります。神様はこの民のために祈ってはならないと冷たく突き放しているかのようですが、実際は、神のおとめである神の民が一人も滅びることがないようにと憐れんでおられるのです。それなのにおとめである娘たちは頑なにそれを拒んでいました。神様の憐れみを受けたければ、頑なであることを止めなければなりません。砕かれなければならないのです。でも彼らは頑なであり続けました。ですから神は憐れみたかったのにできなかったのです。さばきの宣告をせざるを得ませんでした。それがこの涙に表れているのです。
イエス様も同じです。ルカ19章41~42節にこうあります。「41 エルサレムに近づいて、都をご覧になったイエスは、この都のために泣いて、言われた。42 「もし、平和に向かう道を、この日おまえも知っていたら──。しかし今、それはおまえの目から隠されている。」
エルサレムに近づいて、都をご覧になられたイエス様は涙を流されました。それはエルサレムが滅んでほしくなかったからです。神の民が滅んでほしくなかった。だからこの都のために泣いて、十字架にまでかかって死んでくださったのです。それなのに彼らは神の愛を受け入れませんでした。だからさばきを免れないのです。まさに断腸の思いです。腸が引きちぎれそうになる思いで語られたのです。
エレミヤも同じです。断腸の思いでした。もう涙せずにはいられませんでした。可哀そうだ!あまりにも不憫でならない!憐れまずにはいられない!でも、彼らはその憐れみを受け取ろうとしませんでした。だからさばきを宣言しなければならなかったのですそれが辛かったのです。そう言わなければ自分も偽りの預言者になってしまいますから。神はご自身を否むことがない真実で正しい方とありますが、そうでなくなってしまいます。だからさばきを宣告しなければならなかったのです。でも滅んでほしくない、救われてほしい、その狭間でエレミヤは苦しんでいたのです。
それは私たちも同じです。私たちも一人も滅びないでほしいからこそ必死になって福音を伝えています。でもその反応というのは、必ずしもこちらが期待するものではありません。世の終わりが来るとか、神のさばきがあるとか、地獄があるとか、そんなのどうでもいいとか、聞く耳を持ってくれません。だから、同時にさばきも宣言もしなければならないのですが、でもこんな厳しいことばを言ったら嫌われてしまいます。その人が心を閉ざしてしまうのではないか。今までの良好な関係だったのにその関係が壊れてしまうのではないかと恐れるのです。口も効いてもらえなくなるかもしれない。そう思うと耳障りのいいことを言ってしまう誘惑にかられるのです。今はちょっと頑なだけれども、ちょっとしたら柔らかくなるのではないか、それこそ寝たきりになったらチャンスかもしれないとか。でもその時が来るとは限りません。だから私たちはエレミヤのように必死になってとりなし、必死になって福音を語ったうえで、それでも聞かなければ聖書が言っていることをそのまま語らなければならないのです。これが私たちのミニストリーなのです。きついですね。信じるも信じないもあなた次第です、ではないのです。それでは偽預言者になってしまいます。本物の預言者は信じても信じなくてもいいではなく、信じるか、信じないかです。天国か地獄か、いのちか滅びか、祝福かのろいか、その中間はありません。信じなくてもいいなんていう選択はないのです。それは耳障りのいい話であり、偽りの平安です。それでは偽預言者になってしまいます。
最近、Facebookでつながっているある方から1冊の本が贈られてきました。タイトルは「セカンドチャンスの福音」です。またかと思って1ページを開いた「はじめに」のところに次のように書かれてありました。
クリスチャンは、「自分が死んだら天国へ行ける」と信じることができます。聖書にそう約束されているからです。では、私たちの身近な人や、家族や親族、友人などで、未信者の方が亡くなった場合はどうでしょうか。たとえばある親御さんが、こう打ち明けてきたら、あなたは何と答えますか。
「先月、長男が交通事故で亡くなってしまったのです。突然のことでした。大学卒業を間近に控えた時でした。神様にも関心を持つことはありませんでした。あの子は今どこにいるのですか。どうか教えてください。」 そう涙ながらに懇願された場合、答えに窮する方は多いのではないかと思います。
まず親御さんの気持ちに同情し、共に悲しむことが大切でしょう。その上で適切な答えをしてあげることが大切です。けれどもこの時、慰めと平安を与えることのできる人が、どれほどいるでしょうか。
このような時、間違っても「お子さんは未信者でしたから、地獄に行っています」と言ってはいけません。地獄に行っていないからです。お子さんは陰府(よみ)に行っています。陰府と地獄は別です。
一方、このとき明確な答えを避けて、「わかりません」「どこに行ったかは神様におまかせすることですよ」等と答える方もいるでしょう。しかしそのような答えでは、尋ねたかたは決して満足しないでしょう。その人は明確な答えを求めているからです。
もし、このような場合、明確な答えができない、あるいは慰めと平安を与える答えができないのであれば、それはあなたがまだ聖書的な死後観を持っていないということなのです。
もし聖書的な死後観を身につけるなら、このような場合にも明確で、慰めと平安の答えをすることができます。本書でこれから解説しようとするのは、そのような聖書的な死後観です。
皆さん、どう思いますか。聖書のことを知らなければ、「ああ、そうなのか、死んでからでも救われるチャンスがあるのか」と思ってしまうでしょう。これが聖書が言っている福音でしょうか。違います。聖書はそんなこと一言も言っていません。聖書が言っていることは、「光のある間に、光の子となるために、光を信じなさい」ということです。イエス様はこう言われました。「もうしばらく、光はあなたがたの間にあります。闇があなたがたを襲うことがないように、あなたがたは光があるうちに歩きなさい。闇の中を歩く者は、自分がどこに行くのか分かりません。自分に光があるうちに、光の子どもとなれるように、光を信じなさい。」(ヨハネ12:35-36)
ここで「光があるうちに」と言われているのは、直接的には光であられるイエス様が十字架に付けられて死なれるまでのことを意味していますが、私たちにとって、それは死という闇が襲ってくる時か、あるいはイエス・キリストが再び来られる時(再臨)の時かのいずれかの時です。その間にイエス・キリストを信じなければ、永遠に救いのチャンスは無くなってしまうということです。これがイエス様が言われたこと、聖書が教えていることです。これが福音です。それなのに、どうしてこの福音の真理を曲解するのでしょうか。先ほどの言葉を聞いていて何かお気づきになられたことがありませんか。そうです、それを聞いた人が慰めと平安を与えられるかどうかということに重きを置いていることです。確かに親御さんの気持ちに同情し、共に悲しむことが大切です。確かに「お子さんは未信者でしたから、地獄に行っています」と言うことは控えるべきでしょう。でも聖書にはどこへ行ったのかを明確に示されているので、それと違うことを言うのは控えなければなりません。確かに人は死んだらすぐに地獄に行くのではなく陰府へ行きますが、そこはもう一度悔い改めるチャンスが与えられるところではないのです。そこは死刑を待つ犯罪人が留置されている場所のようなところで、その行先が地獄であることが決まっています。ただ、福音を聞く機会のなかった人が聞くチャンスはあるかもしれません。でもそれは現代においてはあり得ないことです。なぜなら、現代では世界中のいたるところに十字架が掲げられているからです。しかし亡くなったご家族にそれをその場で伝えることはふさわしくないので、「わかりません」「神様にゆだねましょう」と答えるのが最善だと思います。あたかも死んでからでも救われる機会があると伝えることは間違っています。福音ではありません。それでは、ここに出てくる偽預言者たちのようになってしまいます。
エレミヤは嫌われても、拒まれても、神が語れと言われたことを忠実に語りました。でもそれがあまりも厳しかったので回りから嫌われ、憎まれ、殺されそうになりました。それでもエレミヤはただ神のさばきを宣言するだけで終わりませんでした。涙を流して、祈って、必死にとりなして、そのさばきを主にゆだねたのです。それが私たちにゆだねられているミニストリーなのです。
Ⅲ.だから悔い改めて(19-22)
ですから、第三のことは、だから悔い改めてということです。19~22節をご覧ください。「19 「あなたはユダを全く退けられたのですか。あなたはシオンを嫌われたのですか。なぜ、あなたは私たちを打ち、癒やしてくださらないのですか。私たちが平安を待ち望んでも、幸いはなく、癒やしの時を待ち望んでも、ご覧ください、恐怖しかありません。20 主よ、私たちは自分たちの悪と、先祖の咎をよく知っています。本当に私たちは、あなたの御前で罪の中にあります。21 御名のために、私たちを退けないでください。あなたの栄光の御座を辱めないでください。私たちとのあなたの契約を覚えていて、それを破らないでください。22 国々の空しい神々の中に、大雨を降らせる者がいるでしょうか。それとも、天が夕立を降らせるのでしょうか。私たちの神、主よ、それは、あなたではありませんか。私たちはあなたを待ち望みます。あなたが、これらすべてをなさるからです。」」
エレミヤの祈りに対する神の答えを聞いて、エレミヤはここで再度とりなしの祈りをささげています。必死に食い下がっているのです。つい先ほど、「この民のために幸いを祈ってはならない。」と言われたにもかかわらずです。これがエレミヤの心でした。そしてこれが神の心でもあったのです。幸いを祈ってはならないと言いながらも、そういう厳しいことを言いながらも、彼らにさばかれないでほしい。彼らが神様に立ち返ってほしい。神様はそう願っておられたのです。神様はあわれみ深い方なのです。エレミヤは預言者でしたが、預言者というのは神のことばを取り次ぐ人のことです。ですから、彼は預言者として神のことばを取り次いでいましたが、それだけでなく彼は、神の心も取り次いでいたのです。これが神の御心でした。エレミヤの姿を見て私たちも痛ましいほどの主の愛に心が動かされるのではないでしょうか。そこまで主は愛してくださるんだと。そこまで思ってくださるんだと。
  エレミヤも民に憎まれ、迫害されて、そんな連中なんてもうどうなってもいい、滅んだほうがいいとすら思っても当然なのに、そんな民のために必死になってとりなしました。それこそが、神が私たちに抱いている思いです。
ここでエレミヤはどのように祈っているでしょうか。21節を見ると、エレミヤは三つの理由を挙げて祈っています。第一に、御名のために私たちを退けないでほしいということです。ここに「御名のために、私たちを退けないでください。」とあります。この御名のためにというのは前回お話したように主のご性質にかけてということです。主は憐れみ深く恵み深い方なのにイスラエルを滅ぼすようなことがあるなら、神の御名に傷がつくことになります。そんなことがあってはならない。あなたの御名のために、この民を退けないでください、そう祈ったのです。
第二に、彼は栄光の御座を辱めないでくださいと祈りました。栄光の御座とは、神が臨在しておられる所です。神殿で言うなら、約の箱が置かれている至聖所のことです。そこは神の栄光で輝いていました。そこに主が臨在しておられたからです。その栄光の御座が辱められることがないために、自分たちを退けないでくださいと祈ったのです。
第三に、彼は「私たちとあなたの契約を覚えていて、それを破らないでください。」と祈りました。神がイスラエルの民との契約を破棄するなら、神のことばは信頼できないものになってしまいます。神が真実な方であるのは、その契約をどこまでも守られるからです。その契約を覚えていてくださいと訴えたのです。
八方塞がりになったとき、あなたはどこに希望を見出していますか。私たちが希望を見出すのはこのお方です。イスラエルの望みである方、苦難の時の救い主、私たちの主イエス・キリストです。この方は決してあなたを決して見離したり、見捨てたりすることはありません。あなたの罪のために十字架でいのちを捨ててくださるほど愛してくださった主は、そして三日目によみがえられた主は、世の終わりまでいつもあなたとともにいてくださいます。そして、あなたを絶望の中から救い出してくださいます。その恵みは尽きることはありません。私たちの主は真実な方だからです。神の激しいさばきの宣告の中にも、主の憐れみは尽きることがないことを覚え、悔い改めて今、主に立ち返ろうではありませんか。

苦難の時の救い主 エレミヤ書14章1~9節


聖書箇所:エレミヤ書14章1~9節(エレミヤ書講解説教30回目)
タイトル:「苦難の時の救い主」
きょうは、エレミヤ書14章1~9節から「苦難の時の救い主」というタイトルでお話します。それこそ、苦しい時の神頼みです。それでいいんです。苦しい時に本当に頼りになるのはこの方しかいないのですから。私たちの神様は、苦しい時に救ってくださる方です。きょうはこのことについてお話したいと思います。
Ⅰ.日照りのことについて(1-6)

 まず1~6節をご覧ください。ここにはユダの民の苦しみについて描かれています。「1 日照りのことについて、エレミヤにあった主のことば。2 「ユダは喪に服し、その門は打ちしおれ、地に伏して嘆き悲しみ、エルサレムは哀れな叫びをあげる。3 高貴な人は、召使いに水を汲みに行かせるが、彼らが水溜めのところに来ても、水は見つからず、空の器のままで帰る。彼らは恥を見、辱められて、頭をおおう。4 地には秋の大雨が降らず、地面は割れて、農夫たちは恥を見、頭をおおう。5 野の雌鹿さえ、子を産んでも捨てる。若草がないからだ。6 野ろばは裸の丘の上に立ち、ジャッカルのようにあえぎ、目も衰え果てる。青草がないからだ。」」
日照りのことについて、エレミヤに主のことばが下りました。「日照り」とは雨が降らない状態のことです。ここでは「日照り」ということばが複数形になっていますから、一度だけでなく何度も起こることを意味しています。その結果、ユダは悲惨な状態となります。それは自然災害ではなく、イスラエルの罪の結果もたらされるものでした。エレミヤ書2章13節に「わたしの民は二つの悪を行った。いのちの水の泉であるわたしを捨て、多くの水溜めを自分たちのために掘ったのだ。水を溜めることのできない、壊れた水溜めを。」とありますが、彼らは二つの悪を行いました。一つは「いのちの水の泉」である主を捨てたということです。そしてもう一つの罪は、「多くの水溜を掘った」ということです。しかも水を溜めておくことができない壊れた水溜めです。これは偶像のことです。彼らは自分たちを救うことができない偶像に頼りました。彼らにとって主なる神だけがまことの生ける水であったのに、主だけが渇いた心を潤すことができたのに、その主を捨てて偶像に走ってしまったのです。その結果、日照りがもたらされることになりました。
イスラエルでは、水は最も価値あるものでした。オイルとか鉱石といったものよりもはるかに貴重なものだったのです。日本では水が豊かで蛇口をひねればすぐに出てきますが、イスラエルでは水はまさにいのちを繋ぐものでした。水が無ければ生きていくことができませんでした。それは彼らにとって最も大事なもの、いのちよりも大事なものであったのです。あなたにとって最も大事なもの、欠かすことができないものは何ですか?それが私たちの神でなければ、それは壊れた水溜めに水を溜めておくようなものです。水を溜めておくことができません。渇きを満たすことはできないのです。一時的に潤すことができるかもしれませんが、ずっと満たすことはできません。
  イエス様はこう言われました。「この水を飲む人はみな、また渇きます。しかし、わたしが与える水を飲む人は、いつまでも決して渇くことがありません。わたしが与える水は、その人の内で泉となり、永遠のいのちへの水が湧き出ます。」(ヨハネ4:13-14)
  神だけがあなたの心を満たすことができます。神だけがあなたにいのちの水を与えることができるのです。ですから、この生ける水を捨てたら日照りになってしまいます。干ばつがあなたを襲うことになるのです。
それは、いにしえからの警告として彼らに与えられていたものでした。たとえば、申命記28章24節にはこうあります。「主はあなたの地に降る雨をほこりに変え、天から砂ぼこりが降って来て、ついにはあなたは根絶やしにされる。」
 聖書では、雨は祝福の象徴として描かれています。聖書が教えていることは、もし神の御声に聞き従うならば豊かに雨が降り、従わなければ日照りが来るということです。そのように警告されていました。ですからこれは初めてではないのです。エレミヤの時代から遡ること千年も前からモーセの律法を通して何回も繰り返して語られていたことでした。それが今ここでもう一度語られているのです。千年前のいにしえの警告が、このエレミヤの時代に現実のものとなりました。
その日照りのことについて何と言われているでしょうか。2~3節をご覧ください。「ユダは喪に服し、その門は打ちしおれ、地に伏して嘆き悲しみ、エルサレムは哀れな叫びをあげる。高貴な人は、召使いに水を汲みに行かせるが、彼らが水溜めのところに来ても、水は見つからず、空の器のままで帰る。彼らは恥を見、辱められて、頭をおおう。」
ユダは喪に服し、その門は打ちしおれ、地にひれ伏して嘆き悲しみ、エルサレムは哀れな叫び声を上げることになります。「門」とは権威のシンボルです。そこで政治や祭儀が執り行われていました。その門が打ちしおれることになります。一切の権威が失墜してしまうのです。
「高貴な人」とは、社会的に地位の高い人のことです。そうした高貴な人が、召使いに水を汲みに行かせますが、彼らが水溜めのところに来ても、水は見つからず、空の器のまま帰ることになります。「水溜め」とは「貯水槽」のことです。貯水槽が空っぽなので町が全く機能しないのです。政治、経済、宗教、その他すべての活動が停止状態になります。水がないと何もできないからです。
 同じように、いのちの水である神様がいなければ私たちも何もできません。イエス様はご自身をぶどうの木にたとえてこう言われました。「わたしはぶどうの木、あなたがたは枝です。人がわたしにとどまり、わたしもその人にとどまっているなら、その人は多くの実を結びます。わたしを離れては、あなたがたは何もすることができないのです。」(ヨハネ15:5)
 私たちもイエス・キリストなしでは何もすることができません。ただ渇くだけです。ここでは「彼らは恥を見、卑しめられて、頭をおおう。」とあります。「頭をおおう」とは、苦悶のしるしです。日本語で「頭を抱える」と言いますが、まさにそういった状態になるのです。
それはエルサレムだけではありません。4節をご覧ください。ここには、農村部までも日照りによって深刻な状態になることが言われています。「4 地には秋の大雨が降らず、地面は割れて、農夫たちは恥を見、頭をおおう。」
以前もお話しましたが、イスラエルには乾季と雨季がありますが、この雨季に雨が降らないと深刻な状態になります。その雨季は秋と春の二回です。秋の雨は、収穫が終わった後の9~10月頃に降る雨で「先の雨」と呼ばれています。この雨は、次の作物の種を蒔くために欠くことができません。そうでないと地面が割れて、種を蒔くことができないからです。一方、春の雨は3~4月頃に降る雨で「後の雨」と呼ばれています。この雨が降らないと収穫を期待することができません。作物が実らないからです。ここでは「地には秋の大雨が降らず、地面は割れて、農夫たちは恥を見、頭をおおう」とありますから、9~10月頃に降る秋の雨、先の雨のことを言っています。この雨が降らないと地面が割れて、種を植えることができません。それで農夫たちは恥を見、頭をおおうことになるのです。
それだけではありまん。5~6節をご覧ください。「5 野の雌鹿さえ、子を産んでも捨てる。若草がないからだ。6 野ろばは裸の丘の上に立ち、ジャッカルのようにあえぎ、目も衰え果てる。青草がないからだ。」
この日照りによって野山にいる動物たちも大きな影響を受けることになります。つまり、エルサレムだけでなく、農村部も野山も全部打撃を受けることになるということです。国全体が疲弊してしまうのです。しかも人間だけでなく動物までも。野の雌鹿さえ、子を産んでも捨てることになります。若草がないからです。自分が食べるのもやっとで、母乳をあげることもできません。子どもを捨てなければならないほど追いつめられるのです。雌鹿はイスラエルでは最も美しい動物のシンボルとなっています。その美しく優しい雌鹿ですら、そうならざるを得なくなるのです。
また、野ろばは裸の丘の上に立ち、ジャッカルのようにあえぎ、目も衰え果てる、とあります。青草がないからです。聖書では、野ろばは最もたくましい強靭な動物のシンボルとして描かれていますが、その野ろばですら、ジャッカルのようにあえぐようになります。ジャッカルは、廃墟と化した町に住む獣として聖書に描かれていますが、そのようになってしまうのです。青草がないからです。
つまり、国全体が日照りによって疲弊し、大打撃を受けることになるということです。いったいどうしてこのようなことになるのでしょうか。それは先に申し上げたように、イスラエルの民が彼らの神、主を捨てたからです。13章22節には、「あなたが心の中で『なぜ、こんなことが私の身に起こったのか』と言うなら、それは、あなたがたの多くの咎のためだ。」とある通りです。現代は、自分の力で何でもできると考えがちです。しかし、私たちと神様との関係が正しくなければ、神が天から雨を閉ざされることもあるということを覚えておかなければなりません。私たちの物質的祝福は、すべて天からの恵みとして与えられているのです。それは、神との関係によってもたらされるのです。それなら、私たちは神との関係をより親密なものにするようにすべきではないでしょうか。
新年の礼拝でホセア書6章3節からお話しました。「私たちは知ろう。主を知ることを切に追い求めよう。主は暁のように確かに現れ、大雨のように私たちのところに来られる。地を潤す、後の雨のように。」
 今は後の雨の時代です。主が暁の光のように確かに現れ、大雨のように私たちのところに来られ、私たちの心を聖霊の雨をもって潤してくださるように、主を知ることを切に追い求めましょう。
Ⅱ.主の御名のために(7)
次に7節をご覧ください。「7 「私たちの咎が、私たちに不利な証言をしても、主よ、あなたの御名のために事をなしてください。まことに私たちの背信は大きく、私たちはあなたの御前で罪の中にいます。」
このようなイスラエル、南ユダの状況を見せられて、エレミヤはいてもたってもいられなくなり、とりなしの祈りをささげます。7章16節には、「あなたは、この民のために祈ってはならない。」と言われていたにも関わらず、です。また、11章14節でも、「あなたは、この民のために祈ってはならない。彼らのために叫んだり、祈りをささげたりしてはならない。彼らがわざわいにあって、わたしを呼び求めても、わたしは聞かないからだ。」と言われていたにも関わらず、です。エレミヤは2回も彼らのために祈ってはならないと言われていたにも関わらず、それを破ってまでもとりなしの祈りをささげたのです。ユダの惨状を見て、黙っていることなどできなかったからです。
エレミヤはどのように祈りましたか。彼はまず「私たちの咎が、私たちに不利な証言をしても、主よ、あなたの御名のために事をなしてください。まことに私たちの背信は大きく、私たちはあなたの御前で罪の中にいます。」と祈りました。「彼らの咎が」ではなく「私たちの咎」です。「彼らの背信」ではなく「私たちの背信」です。「私たちはあなたの御前で罪の中にいます」と祈りました。つまり、エレミヤはユダの民と一つになっているのです。その上で、正直に自分の罪を認めて告白しました。「まことに私たちの背信は大きく、私たちはあなたの御前で罪の中にいます」と。エレミヤは罪の赦しを受けるために必要なことは何かを知っていました。それは罪を認め、主の御前に告白することです。Ⅰヨハネ1章9節には、「もし私たちが自分の罪を告白するなら、神は真実で正しい方ですから、その罪を赦し、私たちをすべての不義からきよめてくださいます。」とあります。私たちは罪人です。あなたの前に罪を犯しましたと認めてそれを言い表すなら、神はその罪を赦し、すべての悪からきよめてくださるのです。
もう一つのことは、エレミヤはここで「主よ、あなたの御名のために事をなしてください」と祈っていることです。私たちはこんなに苦しんでいるのですから、もうすべてを失ってしまったのですから、ですから私たちのために事をなしてくださいというのではなく、あなたの御名のために事をなしてくださいと祈ったのです。どういうことでしょうか。
 「名は体を表す」と言いますが、名はその人自身、その人の性質を表しています。たとえば、私は「大橋富男」という名前ですが、この名前は私を表しているんです。私は富んでいる男です。物質的には富んでいませんが、霊的には富んでいます。イエス様を信じたことで神の子とされ、神のすべての資産を受け継ぐ者とされました。ですから、富んでいる男なんです。いい名前ですね。お母さん、ありがとうです。それまではあまりいい名前だと思いませんでした。なんでこんな名前にしたんだろうと、ちょっとコンプレックスがありました。響きがよくない。どうせだったら、「翔平」が良かった。大橋翔平。どうしてこんな名前にしたのかとある時母に聞いたことがあります。そしたら母が教えてくれました。それは兄のクラスにとても頭のいい子がいて、その名前にすれば頭がよくなるんじゃないかと思ったと。何と単純な理由なんだろうとがっかりしましたが、クリスチャンになってから考えてみたら、いや、なかなかいい名前じゃないかと思うようになりました。私は神と人々の大きな架け橋となってイエス様の愛をもたらしていくという意味で富んでいる男だと。Big Bridge Rich Manです。このように、名は体を表しているのです。
エレミヤがここで「あなたの御名のために事をなしてください」と祈ったのは、この神のご性質に訴えたからです。自分たちの行いによるなら今受けている災いは当然の結果です。私たちが罪を犯したのですから、すべてを失って当たり前です。でもあなたはあわれみ深い方ですから、そのあわれみによって赦してくださいと祈っているのです。
出エジプト記34章6~7節にこうあります。「主、主は、あわれみ深く、情け深い神。怒るのに遅く、恵みとまことに富み、7 恵みを千代まで保ち、咎と背きと罪を赦す。」主は咎と背きの罪を赦される方です。主よ、あなたの御名のために事を成してください。あなたはこういう方ではありませんか。あわれみ深い方、情け深い方、怒るのに遅く、恵みとまことに富んでおられる方。ですから、主よ、あなたのその御名のために事をなしてくださいと祈ったのです。先ほど引用したⅠヨハネ1章9節もそうですね。「もし私たちが自分の罪を告白するなら、神は真実で正しい方ですから、その罪を赦し、私たちをすべての不義からきよめてくださいます。」ここには「神は真実な方」とあります。真実とは何ですか。約束を守られる方という意味です。ですから、私たちは罪を言い表すことができるのです。神は真実な方ですから。神はあわれみ深く、情け深い方ですから、怒るのに遅く、恵み深い方ですから、咎と背きの罪を赦してくださる方ですから、この御名によって祈ることができるのです。
Ⅲ.苦難の時の救い主(8-9)
第三に、エレミヤが訴えたもう一つの主の御名、主のご性質を見て終わりたいと思います。8~9節をご覧ください。「8 イスラエルの望みである方、苦難の時の救い主よ。どうしてあなたは、この地にいる寄留者や、一晩だけ立ち寄る旅人のようにされるのですか。9 なぜ、あなたは驚いているだけの人や、人を救えない勇士のようにされるのですか。主よ。あなたは私たちのただ中におられ、私たちはあなたの御名をもって呼ばれているのです。私たちを置き去りにしないでください。」」
エレミヤの祈りが続きます。ここでエレミヤは、「イスラエルの望みである方、苦難の時の救い主よ」と言っています。これも主のご性質です。主はイスラエルの希望である方、私たちの希望なる方です。エレミヤは今、エルサレムを見ても、農村を見ても、野山を見ても、どこにも希望を見出すことができませんでした。どこを見ても、あるのは絶望だけでした。今はそういう時代じゃないですか。どこに希望があるでしょうか。若い方々に聞いてみてください。希望がありますか?町に希望がありますか?田舎に希望がありますか?野山に希望がありますか?ありません。これから経済はどうなっていくんだろう。老後は大丈夫だろうか。年金を払ってももらえそうもないし。いくら政党が代わっても政治は変わらない。世界情勢はどうでしょう。最近発表された終末時計によると、世界に残された時間は90秒だそうです。ロシアがいつ核を使用するかわかりません。核戦争になったらどうなるかなんて誰でも知っていることです。自然環境はどうでしょう。地球温暖化で、世界中のあちらこちらで大洪水が発生しています。このままでは地球がどうなってしまうのかわかりません。明らかに20年前、30年前と時代が変わりました。どこにも希望が見出だせない、末恐ろしい時代となっています。
しかし、私たちには希望があります。それは主イエス・キリストです。この方こそ私たちの希望です。エレミヤの時代は、イスラエル、南ユダは、神ではなく外国との同盟関係に頼っていました。いわゆる外交とか軍事力、経済力といったものに頼っていたのです。でも、それらは本当の意味で望みとはなりませんでした。壊れた水溜めと同じで、一時的な気休めでしかなかったのです。むしろ、それらがもたらしたのは絶望でしかありませんでした。
でも、イスラエルの望みである方、私たちの神は、決して私たちを裏切りません。がっかりさせません。エペソ2章11~13節にこうあります。「11 ですから、思い出してください。あなたがたはかつて、肉においては異邦人でした。人の手で肉に施された、いわゆる「割礼」を持つ人々からは、無割礼の者と呼ばれ、12 そのころは、キリストから遠く離れ、イスラエルの民から除外され、約束の契約については他国人で、この世にあって望みもなく、神もない者たちでした。13 しかし、かつては遠く離れていたあなたがたも、今ではキリスト・イエスにあって、キリストの血によって近い者となりました。」 
かつて私たちは、肉においては神から遠く離れ、この世にあって望みもなく、神もない者でしたが、そのように遠く離れていた私たちも、今ではキリスト・イエスにあって、キリストの血によって神に近い者とされました。神様がおられることが希望なんです。何も持っていなくても、神様さえ持っていれば希望があります。すべてを失っても神様だけは決して失うことはありません。だから神様が希望なんです。他のものは失われ頼りにしていたものも変わりますが、神様はいつまでも変わることがありません。イスラエルの神は望みの神なのです。あなたはこの希望を持っておられますか。
またエレミヤはここで、イスラエルの望みの方を、苦難の時の救い主と呼んでいます。皆さん、私たちの主は苦難の時の救い主です。よく「苦しい時の神頼み」と言いますが、それでいいんです。私たちの主は苦しい時に救ってくださる神だからです。ピンチの時に頼りになるのはこの方だけです。日光東照宮に行ってもだめです。それはあなたを救ってはくれません。そこには3匹の猿がいますが、それらは「見ざる、言わざる、聞かざる」です。何も見えません。何も言わないし、何も聞こえません。田んぼの中のかかしのようなものです。何の頼りにもなりません。銀行に行っても無駄です。お金を貸してくれるかもしれませんが、あなたを窮地から救い出すことはできないからです。弁護士はどうでしょうか。確かにある程度はアドバイスしてくれるかもしれませんが、相当の弁護料が求められます。苦難の時にあなたを救うことができるのはたった一人だけです。それは私たちの主イエス・キリストです。主はまどろむこともなく、眠るここともありません。この方に頼むべきです。
家族のことで悩み苦しんでおられる方からメールをいただきました。自分のことなら我慢することができるけど、子ども、孫のこととなるとどうすることもできないのを痛切に感じます(涙)。神様は私、子ども、孫を通して何を伝えたいのでしょう。孫はもう終わりです。子どもは立ち上がることができません。それが何よりも悲しくて言葉になりません。
 このメールを見て私は思いました。このことを通して神様は何を伝えたいのでしょうか。それは、神様は苦難の時の救い主であるということです。「わたしに頼れ」とおっしゃっておられる。この方に信頼し、この方にすべてをゆだねるべきです。そうすれば、この方があなたを救ってくださいます。
詩篇50篇15節に、すばらしい約束があります。ご一緒に読んでみましょう。「苦難の日にわたしを呼び求めよ。わたしはあなたを助け出しあなたはわたしをあがめる。」苦難の日に主を呼び求めるなら、主があなたを助け出してくださいます。
また、詩篇91篇15節はこうあります。「彼がわたしを呼び求めればわたしは彼に答える。わたしは苦しみのときに彼とともにいて彼を救い彼に誉れを与える。」
 あなたが苦しい時に主を呼び求めるなら、主はあなたに答えてくださいます。主は苦難の時の救い主なのです。そんなの虫のいい話じゃないかと思うかもしれません。私のような者の叫びは聞いてくださらないと思うかもしれません。しかし、それはあなたが、主がどのよう方かを知らないからです。主がどのような方なのかを知れば、それがわかります。この方は苦難の時の救い主であるということを。私たちは真実でなくても、この方は常に真実な方です。ご自身を否むことかできないからです。ですから、苦難の時の救い主であられる主は、苦難の時の救い主であり続けてくださるのです。そんなの虫のいい話だと言われても、主は真実な方ですから、状況がどうであれ、私たちがどうであれ、苦難の時の救い主であり続けてくださるのです。
8節後半から9節までをご覧ください。ここでエレミヤは「どうして」「なぜ」ということばを連発して、主に必死に訴えかけています。「どうしてあなたは、この地にいる寄留者や、一晩だけ立ち寄る旅人のようにされるのですか。 なぜ、あなたは驚いているだけの人や、人を救えない勇士のようにされるのですか。」
言い換えると、これは、あなたの御名に反することではないですかということです。どうしてあなたは、この地にいる寄留者や、一晩だけ立ち寄る旅人のようにされるのですか。なぜ、あなたは驚いているだけの人や、人を救えない勇士のようにされるのですか。そんなことないでしょ。あなたはこのような方なのですからと、必死になって訴えでいるのです。私たちもこのように祈りたいですね。必死になって主の御名にかけてた祈るべきです。
アメリカン・フットボールのインディアナポリス・コルツチームの監督だったトニー・ダンジーさんは、息子が無くなったとき深い悲しみに打ちひしがれました。しかし、彼は葬儀場に慰めに来た人々にこう言いました。「皆さんにお伝えしたい重要なことがあります。私はここで涙を見せていますが、これは悲劇の中でなされるお祭りだということです。なぜなら、私たちの人生の目的と意味は、ただイエス・キリストにあるのですから。今、この瞬間にも主は私と皆さんの中に、その愛を現わしてくださいます。なぜ私にこのようなことが起こったのかも、なぜ息子が死んだのかも私にはわかりません。しかし、神がその答えを持っておられるということと、変わらずに私を愛しておられること、そして私のためのご自身のご計画があることを知っています。私は「なぜ」の代わりに、「何を」と質問するようになりました。「私がこれを通して何を学べるのか」「私がこれを通して神の栄光のために何をすることができ、ほかの人を助けるために何をすることができるのか」と問いながら歩んでいきます。」(ファン・ヒョンテク、「いつでも希望は残っている」)
 すばらしいですね。本当に主がどういうお方なのか、どのようなご性質なのかをよく知っていないと言えないことばだと思うのです。それを知れば「なぜ」の代わりに「何を」と質問することができるようになるはずです。このように主の御名を知って、主に従うなら、その人の人生にさらに多くの恵みが増し加えられるのは間違いありません。
エレミヤは、主の御名にかけて祈ったとき、一つの真実に到達しました。それは「主よ。あなたはわたしたちのただ中におられ、私たちはあなたの御名をもって呼ばれているのです。」ということです。主は私たちの真ん中にいてくださいます。ど真ん中にいてくださる。ここにもいてくださいます。その真理に目が開かれたのです。であれば、それで十分ではないでしょうか。
主は同じことを私たちに求めておられます。あなたは日照りで渇き切っていないでしょうか。どこを見ても希望はないと、嘆いておられないでしょうか。しかし、イスラエルの望みである方は、苦難の時の救い主であられます。この方に信頼してください。「あなたの道を主にゆだねよ。主に信頼せよ。主が成し遂げてくださる。」(詩篇37:5)とある通りです。あなたが素直になって自分の罪を認め、告白するなら、神様はあなたをきよめてくださいます。神様は苦難の時の救い主なのです。この方は、あなたのただ中にいてくださいます。この方に信頼して、歩んでいきましょう。

酒壺に満たされた酒 エレミヤ書13章12~27節酒壺に満たされた酒 


聖書箇所:エレミヤ書13章12~27節(エレミヤ書講解説教29回目)
タイトル:「酒壺に満たされた酒」
きょうは、エレミヤ書13章12~27節のみことばから「酒壺に満たされた酒」というタイトルでお話します。前回の箇所でエレミヤは、主が命じられたとおり、亜麻布の帯を買い、それをユーフラテス川まで行って隠しました。するとかなりの日が経ってから、再び主からことばがありました。それは、もう一度ユーフラテス川へ行き、今度はそれを取り出すようにということでした。エレミヤは主の言われたとおりにすると、その帯はぼろぼろになって何の役にも立たなくなっていました。いったいこれはどういうことかと思っていたら再び主のことばがあり、それはユダとエルサレムの大きな誇りであると示されました。その帯がぼろぼろになったように、主は彼らの誇りをぼろぼろにすると言われたのです。それは彼らが主のことばを聞くことを拒み、その頑なな心のままに、ほかの神々に歩み、それに仕えたからです。彼らは主に結び付けられて主と一つとなり、主のために生きるように造られたのにそうではなかったからです。すごいですね、このように主はエレミヤの行動を通して、ご自身のみことばを示されたのです。ことばによる預言も力がありますが、このように行動を通しての預言はもっと強烈です。
きょうのところでは、一つのたとえを通して語られます。それは酒壺に満たされた酒のたとえです。イエス様も多くのたとえを用いて語られました。このたとえを通して主は何を語ろうとしたのでしょうか。結論から申し上げると、神の民イスラエルはいつまでも変わらないということです。いつまでも神に立ち返らないのです。それで主は彼らの酒壺に、ご自身の怒りの酒で満たされるのです。
Ⅰ.酒壺に満たされた酒(12-14)

 まず12~14節をご覧ください。「12 あなたは彼らにこのことばを伝えよ。『イスラエルの神、主はこう言われる。酒壺には酒が満たされる。』彼らがあなたに『酒壺に酒が満たされることくらい、分かりきっているではないか』と言ったなら、13 あなたは彼らに言え。『主はこう言われる。見よ。わたしは、この地の全住民を、ダビデの王座に着いている王たち、祭司、預言者、およびエルサレムの全住民を酔いで満たし、14 彼らを互いにぶつけて砕く。父も子も、ともに─主のことば─。わたしは容赦せず、惜しまず、あわれみをかけずに、彼らを滅ぼす。』」
主はエレミヤに言われました。彼らにこのことばを伝えよと。「彼ら」とはイスラエルの民、南ユダの民のことです。彼らに伝えるべきことばとは、「酒壺に酒が満たされる」ということでした。酒壺とは、イスラエルの民のことを指しています。その中に満たされる酒、ぶどう酒とは、神の怒りのことです。ここでは、ぶどう酒が神の怒りとして用いられています。この酒壺は、ぶどう酒を約40リットルも入れることができる大きな容器でした。その酒壺が、神の怒りで満たされるのです。
それに対して、イスラエルの民が「酒壺に酒が満たされることなど当たり前ではないか、そのくらい、分かりきっていることだ」と言ったら、彼らにこう告げるようにと言われました。13~14節です。「見よ。わたしは、この地の全住民を、ダビデの王座に着いている王たち、祭司、預言者、およびエルサレムの全住民を酔いで満たし、彼らを互いにぶつけて砕く。父も子も、ともに─主のことば─。わたしは容赦せず、惜しまず、あわれみをかけずに、彼らを滅ぼす。」どういうことでしょうか。
これは、彼らは神様の徹底的なさばきを受けるようになるということです。彼らはそれがどういうことなのかわかりませんでした。だから、酒壺にぶどう酒が満たされるのは当然ではないかとのん気なことを言っていたのです。しかし、そんなのん気なことを言っている場合ではありません。そこには全く容赦のない神の怒りのぶどう酒が注がれるようになるからです。主はその地の全住民を、王から一般庶民に至るまで酔いで満たし、互いにぶつけて砕き、滅ぼされるのです。
いったい何が問題だったのでしょうか。15~17節をご覧ください。ここにその理由が述べられています。「15 耳を傾けて聞け。高ぶるな。主が語られたからだ。16 あなたがたの神、主に、栄光を帰せよ。まだ主が闇を送らないうちに、まだあなたがたの足が夕暮れの山でつまずかないうちに。あなたがたが光を待ち望んでも、主はそれを死の陰に変え、暗黒とされる。17 もし、あなたがたがこれに聞かなければ、私は隠れたところであなたがたの高ぶりのために嘆き、涙にくれ、私の目には涙があふれる。主の群れが捕らわれて行くからだ。」
それは彼らが高ぶっていたからです。彼らは主が語られることばを聞こうとしませんでした。主の御声に聞き従おうという気持ちは、これっぽっちもなかったのです。たとえば、その前のところに、主は「酒壺には酒が満たされる」と言われましたが、それに対して彼らは何と言いましたか。「そんなの当たり前じゃないか、酒壺はそのためにあるんだから」と言って、そのことばに秘められた神の思いを素直に受け取ろうとしませんでした。主はそんな彼らに、その高ぶりを捨てて、主に栄光を帰するようにと言われたのです。
ぶどう酒は、神の怒りの象徴であると同時に、神の祝福の象徴でもあります。たとえば、イエス様はカナの婚礼において水をぶどう酒に変えるという最初の奇跡を行い、その結婚式を祝福されました。また、最後の晩餐において御子イエスの血潮の象徴となったのはぶどう酒でした。ですから、ぶどう酒は神の怒りの象徴であると同時に、神の祝福の象徴ともなり得るのです。神の器であるあなたという壺の中に注がれているのは怒りのワインでしょうか。それとも、祝福のワインですか。神の怒りを祝福に変える唯一の方法は、高ぶりを捨てて、神に栄光を帰することです。神のためにと思って奉仕しながら、結果的に自分のためにしていることもあります。聖霊様によって、心を吟味していただきましょう。
ところで16節には、「まだ主が闇を送らないうちに、まだあなたがたの足が夕暮れの山でつまずかないうちに。」とあります。
  恵泉キリスト教会会津チャペル牧師で、山形大学名誉教授の三留謙一先生から、新年のご挨拶と一緒にご自身が書かれたトラクトを送ってくださいました。そのタイトルがなかなかなのです。「天の故郷への帰還・・・まだ可能です」先生は昨年心臓冠動脈のバイパス手術を受けられましたが、それはまさに、一度死んで復活した「死からの擬似体験」のようだったと言います。もしかするとそのまま死ぬかもしれないという不安の中で、これまで何回もクリスチャンは必ず天の故郷に帰れますとのメッセージを聞き、また自分も牧師として語ってきましたが、自分が死に臨むことは、全くの未知の領域でした。ですから手術前の一週間、「今週が人生最後かも」という思いが消えず、眠れない夜を過ごしました。
 しかし、手術室に向かう車椅子の上で、突然、天から平安が降ってきて、不安が消えていきました。これが、イエス様が、「わたしは、あなたがたにわたしの平安を与えます。」(ヨハネ14:27)と言われた平安なのかと、手術室に入っていきました。そして、手術は無事終わり翌朝目を目ましたとき、永遠のいのちの恵みのすばらしさ、凄さを改めて感じました。それは、天の故郷の朝のようだったと言います。新聖歌151番「永遠(とわ)の安き来たりて」の歌詞にある通りです。
 「神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに世を愛された。それは御子を信じる者が、一人として滅びることなく、永遠のいのちを持つためである。」(ヨハネ3:16)
  あなたも、この天の故郷への帰還が可能です。「イエス様、どうぞ私の心に来て、救ってください。」と祈るなら、あなたも天の故郷に帰ることができます。そして一度イエス・キリストを信じた者に対する神の約束は、何があっても変わることはありません。三留先生は、最後に次のように語って証を閉じています。
 「一度限りの人生、永遠のいのちほど価値あるものはありません。私も82歳になりましたが、80歳でも、天の故郷への帰還は、まだ可能です。輝かしいイエス様を見上げて、一緒に行きましょう。天国までの道を。」
 アーメンですね!天の故郷への帰還は、まだ可能なのです。しかし、それが閉じられる時がやって来ます。主が闇を送り、あなたがたの足が夕暮れの山でつまずくようになる時がやって来るのです。つまり、手遅れになる前に自分の罪を悔い改めてイエス様を信じなければなりません。今はまだやり直すチャンスが与えられています。でもそのチャンスが無くなる時がやって来ます。それは肉体の死を迎える時であり、また、イエス様が再臨する時です。それが終わりの時です。その後でどんなに歯ぎしりしてもその時は残されていません。その時が来たらもう遅いのです。大丈夫、セカンドチャンスがあるから・・・。ありません。皆さん、このような教えに惑わされないでください。ありませんから。そんなことは聖書のどこにも書いてありません。聖書が言っていることは、私たちが悔い改めるチャンスとして与えられているのは、私たちがこの地上に生きている間だけであるということです。どんなに有名な牧師が言ったとしても惑わされないでください。私たちが悔い改めるチャンスは、この地上に生きている時だけなのです。「今は恵みの時、今は救いの日です。」(Ⅱコリント6:2)ですから、その前に高ぶりを捨て、主に栄光を帰せなければなりません。悔い改めて、神に立ち返らなければならないのです。
16節の後半にあるとおりです。「あなたがたが光を待ち望んでも、主はそれを死の陰に変え、暗黒とされる。」どういうことですか。あなたがたが光を待ち望んでも、それはもう遅いということです。主はそれを死の陰に変え、暗黒とされるからです。ヨハネの福音書11章9~10節にこうあります。「9 イエスは答えられた。「昼間は十二時間あるではありませんか。だれでも昼間歩けば、つまずくことはありません。この世の光を見ているからです。10 しかし、夜歩けばつまずきます。その人のうちに光がないからです。」」
 主イエスは世の光として来てくださいました。この光がある間にご自身のところに来なければなりません。昼間歩けば、つまずくことはないからです。しかし、夜歩けばつまずきます。その人のうちに光がないからです。
  クリスチャン作家の三浦綾子さんは、「光のあるうちに」という本を書かれました。いつまでも光があるわけではありません。人それぞれ光のところに来る時が与えられています。それに応答しなければ、闇があるだけなのです。
もしこれに聞かなければどうなるでしょうか。17節にこうあります。ご一緒に読みましょう。「もし、あなたがたがこれに聞かなければ、私は隠れたところであなたがたの高ぶりのために嘆き、涙にくれ、私の目には涙があふれる。主の群れが捕らわれて行くからだ。」
 もし、主のことばに聞かなければ、主の群れが捕らわれて行くことになります。具体的には、バビロンに捕えられて行くことになるということです。バビロン捕囚のことです。そのことを聞いたエレミヤは嘆き、涙にくれました。エレミヤは「涙の預言者」と呼ばれていますが、ここでもその姿を見てとれます。何度語っても聞いてくれない、心を頑なにして神のことばを拒んだ結果、彼らは捕らえられてバビロンに連れて行かれることになってしまう。エレミヤはそのことを聞いて涙が止まりませんでした。私だったらムカついていたかもしれません。これだけ言っているのになぜわからないのかと。でもエレミヤは涙にくれました。目に涙があふれました。彼は自分の故郷アナトテの人たちから憎まれ、殺されかけていたんですよ。自分を殺そうとする人のために語ることばなどありません。そんな人なんてどうなっても構わないと思うのが普通です。それなのに彼はそのアナトテの人々をはじめ、ユダの人たちが捕らわれて行くのを見て嘆き、涙にくれたのです。エレミヤはまさに涙の預言者でした。
そして、これが私たちの主の涙でもあります。主の心です。エレミヤの姿は、私たちの主イエスの姿を表していたのです。そういえば、イエス様も自分を迫害する者たち、自分を殺そうとした人たちのために祈られました。「父よ、彼らをお赦しください。彼らは、自分が何をしているのかが分かっていないのです。」(ルカ23:34)
 これがイエス様の心です。ですから、エレミヤの涙はイエス様の涙、父なる神の涙だったのです。神の預言者として、神の思い、神の心を表していたのです。すなわち、神は一人も滅びることなく、すべての人が救われることを望んでおられるということです。どんなに頑な人でも、どんなにキリスト教は嫌いだという人でも、どんなに神なんて信じないと言う人でも、すべての人が悔い改めて、真理を知るようになることを望んでおられるのです。イエス様はそのために十字架にかかって死んでくださったのです。
ですから、私たちは高ぶりを捨てて、主に、栄光を帰せなければなりません。主があなたに闇を送らないうちに、まだあなたの足が夕暮れの山でつまずかないうちに。酒壺にぶどう酒が満たされないように、神の御前にへりくだり、神の御言葉に聞き従う者になりたいと思うのです。
Ⅱ.なぜこんなことが私の身に起こったのか(18-22)
次に、18~22節をご覧ください。「18 「王と王母に告げよ。『低い座に着け。あなたがたの頭から、輝かしい冠が落ちたから。』19 ネゲブの町々は閉ざされて、だれも開ける者はいない。ユダはことごとく捕らえ移される。一人残らず捕らえ移される。20 あなたがたの目を上げ、北から来る者たちを見よ。あなたに対して与えられた群れ、あなたの美しい羊の群れはどこにいるのか。21 最も親しい友としてあなたが教えてきた者たちが、あなたの上に、かしらとして立てられるとき、あなたは何と言うのか。激しい痛みがあなたをとらえないだろうか。子を産む女のように。22 あなたが心の中で『なぜ、こんなことが私の身に起こったのか』と言うなら、それは、あなたの多くの咎のためだ。それで、あなたの裾はまくられて、あなたのかかとは傷を負うのだ。」
高ぶって、主の御声に聞き従わなかったユダの民は、捕らえ移されることになります。その神のさばきが宣言されています。18節の「王」とは、先週「王と預言者」たちの一覧表を配布しましたが、南ユダの最後から二番目のエホヤキン王のことです。「王母」とは、その母親のネフシャタのことです。その前にエホヤキムという王様がいましたが、彼はバビロンの王ネブカデネザルに反逆したので、バビロンに捕え移されてしまいました。これが第一次バビロン捕囚です(B.C.597)。この時にダニエルも捕え移されました。その後を継いだのが、このエホヤキンです。この時彼はまだ18歳だったので、実質的には彼の母のネフシャタが後見人となって実験を握り、国を治めました。このことはⅡ列王記24章8節に記されてありますので後でご確認ください。そこには彼女の名前も出ています。その治世はわずか三か月でした。その後、ゼデキヤという王が立てられますが、このゼデキヤの時にエルサレムは完全に陥落することになります(B.C.586)。これが第二次バビロン捕囚です。
そのエホヤキン王と母親のネフシャタに告げられたことばがこれです。「低い座に着け、あなたがたの頭から輝かしい冠が落ちたから」どういうことでしょうか。彼らは王の位から引きずり落されるということです。彼は王となってわずか三か月でしたが、この預言のとおり、王位から引きずり降ろされることになります。彼だけでなくユダの民のすべてがことごとく捕え移されることになるのです。19節には「ネゲブの町々は閉ざされ、だれも開ける者はいない。」とありますが、ネゲブとは、南ユダの南端にある町です。ですから、ネゲブの町々は閉ざされ、だれも開ける者はいないというのは、南端に至るまですべてバビロンの支配下に置かれるということです。一部だけではありません。すべてです。南ユダ全体がバビロンの支配におさまることになるのです。
20節の「北から来る者たち」とは、そのバビロンのことです。イスラエルは神の羊にたとえられていますが、その美しい羊の群れがどこかに散らされてしまうことになるということです。彼らは羊飼いがいなければ生きていけない存在です。羊飼いがいればどんなに敵が襲ってきても全く恐れる必要はありませんでした。たとえ死の陰の谷を歩くことがあっても。「あなたがともにおられますから。」主がともにおられるので何も恐れる必要はないのです。でも、彼らは真の羊飼いではなく、他のものに頼りました。周辺諸国とかと同盟関係を結んで目の前の問題を解決しようとしたのです。神との関係よりもこの世との関係を重視しました。その結果、散らされてしまうことになったのです。それは私たちも同じです。神との関係が正しければあらゆる人間関係は正されすべての問題は解決しますが、その関係を無視し、この世に解決を求め、神をないがしろにするなら、このような結果を招いてしまうことになります。
それは21節にも見られます。「最も親しい友」とはバビロンのことです。南ユダは当初、台頭してきたアッシリヤという国の脅威に対して神様ではなくバビロンと手を結ぼうとしました。同盟関係を結んで共通の敵であるアッシリヤに対抗しようとしたのです。しかし、そのバビロンが彼らのかしらとして立てられ、彼らに激しい痛みを与えることになってしまいました。人間関係ってこんなものですよね。この人に頼ればと思ったのに裏切られ、ひどい目にあってしまうということがよくあります。ここでもそうです。バビロンに信頼したら、そのバビロンによって滅ぼされることになってしまいました。
その時、彼らは「なぜ、こんなことが私の身に起こったのか」と言うようになるでしょう。23節です。皆さん、なぜ、こんなことが自分の身に起こったのでしょう。その理由は明らかです。それはあなたの咎のためです。あなたの多くの咎のために、あなたの裾はまくられ、あなたのかかとは傷を負うのです。あらゆる不幸の原因はここにあります。すなわち、神を神としないことです。イザヤ書に書いてある通りです。「あなたがたの咎が、あなたがたと、あなたがたの神との仕切りとなり、あなたがたの罪が御顔を隠させ、聞いてくださらないようにしたのだ。」(イザヤ59:2)
交通事故を起こした人が、「このままでは、いつか事故を起こすかもしれないと予想していた」というのを聞いたことがあります。それと同じように、罪に対するさばきも、何の前触れもなくやって来るのではありません。神はさまざまな方法を通して、私たちに語りかけておられます。私たちはその語りかけを聞いたら、その時点で神に立ち返らなければならないのです。
Ⅲ.神に心を明け渡して(23-27)
では、どうしたら良いのでしょうか。ですから、第三のことは、あなたの心を神に明け渡してということです。23~27節をご覧ください。「23 クシュ人がその皮膚を、豹がその斑点を、変えることができるだろうか。それができるなら、悪に慣れたあなたがたも善を行うことができるだろう。24 わたしは彼らを、荒野の風に吹き飛ばされる藁のように散らす。25 これが、あなたへの割り当て、わたしがあなたに量り与える分である。─主のことば─あなたがわたしを忘れ、偽りに拠り頼んだためだ。26 わたしも、あなたの裾を顔の上までまくるので、あなたの恥ずべきところが現れる。27 あなたの姦淫、あなたの興奮のいななき、あなたの淫行のわざ──数々の忌まわしいものを、わたしは丘の上や野原で見た。ああ、エルサレムよ。あなたはいつまで、きよめられないままなのか。」
「クシュ人」とは、今のエチオピア人、スーダンの人たちのことです。いわゆるアフリカの黒人の人たちのことです。黒人の人がその皮膚を、変えることができるでしょうか。豹がその斑点を、変えることができるでしょうか。できません。それと同じように、悪に慣れた人を、善を行う人に変えることはできません。つまり、神の民の心を変えることは不可能だということです。しかし、人にはできないことでも、神にはどんなことでもできます。神は人の心さえも変えることができるのです。
使徒パウロはこう言っています。「だれでもキリストのうちにあるなら、その人は新しく造られた者です。古いものは過ぎ去って、見よ、すべてが新しくなりました。」(Ⅱコリント5:17)
だれでもキリストにあるなら、その人は新しく造られた者です。この「新しい」ということばは、根こそぎ新しくされるという意味です。それは「心を入れ替える」というレベルではありません。よく言うでしょう。「きょうから心を入れ替えて」と。そういうレベルではないのです。これは新しい創造のことです。全く新しい人として造り変えられることです。どんなに猫や猿を訓練し、良い服を着せたとしても、猫や猿が人間の子どもになることはできません。人間の子どもになるためには人間のいのちを持たなければならないからです。それと同じように、新しい人として生まれ変わるためにはイエス・キリストにあって神のいのち、聖霊を持たなければならないのです。一般に良い人間になろうとすることは人間の努力や教育によって進歩することを意味しますが、キリストによって新しく生まれるとは、キリストを信じることによって神のいのちである聖霊を受け入れ、聖霊に心の内に住んでいただくことを意味します。つまり、イエス・キリストを信じることによって、神の聖霊をいただき、私たちの魂に宿っていただくことによって、神の子どもとして新しい人間として生まれ変わるのです。
それは人にはできません。ただ神だけができることです。だれでもキリストのうちにあるなら、その人は新しく造られた者です。古いものは過ぎ去って、すべてが新しくなります。もう過去に捉われたり、縛られたりする必要はありません。過去に受けた傷をもう一度思い起こす必要もありません。自分はどうしてそうなったのかと精神分析を始める必要もないのです。すべての罪が赦されたからです。キリストにあって、あなたの過去はすべて過ぎ去るのです。イエス様は水をぶどう酒に変えられたように、罪人を聖人に変えることができるのです。一瞬にして。私たちはこういうでしょう。それは無理だ!持って生まれた性格を変えるなんて不可能だと。もし変えられるとしても、10年、20年、30年、いや100年かかると。100年も待っていられません。しかし、安心してください。だれでも、キリストにあるなら、その人は新しく造られます。一瞬にして、です。どうやってそんなことが可能なのでしょうか。「キリストにあって」です。「だれでもキリストにあるなら、その人は新しく造られた者です。」キリストを信じ、キリストの御霊、神の聖霊を受け入れ、内に住んでいただくことによって、あなたも新しくなることができるのです。
使徒パウロは、ローマ人への手紙7章24節でこう叫んでいます。「私は本当にみじめな人間です。だれがこの死のからだから、私を救い出してくれるのでしょうか」。しかし次の瞬間、彼はこう言うのです。「私たちの主イエス・キリストを通して、神に感謝します。」(ローマ7:25)どうして彼はそのように言うことができたのでしょうか。主イエス・キリストを通してです。
 「キリスト・イエスにあるいのちの御霊の律法が、罪と死の律法からあなたを解放したからです。肉によって弱くなったため、律法にできなくなったことを、神はしてくださいました。神はご自分の御子を、罪深い肉と同じような形で、罪のきよめのために遣わし、肉において罪を処罰されたのです。それは、肉に従わず御霊に従って歩む私たちのうちに、律法の要求が満たされるためなのです。」(ローマ8:2-4)
それは人にはできないことです。でも、神にはどんなことでもできるのです。神は肉によって弱くなった私たちのために、ご自分の御子を、罪深い肉と同じような形で、罪のきよめのために遣わし、肉において罪を処罰してくださいました。キリストの十字架の血は、私たちのすべての罪を完全にきよめることができるのです。ですから、今や、キリスト・イエスにある者が罪に定められることは決してありません。だれでもキリストにあるなら、その人は新しく造られるからです。神は真黒な罪人をまっ白にしてくださいます。雪よりも白く、羊の毛よりも白くしてくださるのです。聖書にそう約束されています。私たちはクシュ人の肌の色どころじゃない、墨よりも黒い、真黒な心を持っています。しかし、キリストはそうした心さえも変えてくださいます。外見はちっとも変ってないかのように見えるかもしれませんが、いや以前よりもシミが増えてきたなぁと思う人もいるかもしれませんが、中身は全く新しい人です。だれでもキリストのうちにあるなら、その人は新しく変えられるからです。
27節の最後のことばをご覧ください。ここには「ああ、エルサレムよ。あなたはいつまで、きよめられないのか。」とあります。この言葉を心に刻みつけたいと思います。これは神の心の痛み、心の叫びです。あなたはいつまで、きよめられないのか。マタイの福音書23章37節でイエス様は、神の招きを好まず拒んでいるイスラエルの民を嘆き、涙してこう言われました。「ああ、エルサレム、エルサレム。預言者たちを殺し、自分に遣わされた人たちを石で打つ者。わたしは、めんどりがひなを翼の下に集めるように、あなたの子らを幾たび集めようとしたことか。それなのに、あなたがたはそれを好まなかった。」何度も何度も悔い改めるチャンスを与えらたのにその招きに応じず、自ら滅びに向かって突き進んで行ったご自身の民を嘆かれたのです。
この神の思いを感じていただきたいと思います。神様はたださばきを宣告しているのではありません。そうした厳しい現実の中にも神のあわれみは尽きることがないということを知ってほしいと思います。神は一人も滅びないで、すべての人が救われることを願っておられるのです。その思いをしっかりと受け止めていただきたいのです。そしてへりくだって、神の御声に聞き従いましょう。あなたの神、主に、栄光を帰してください。イエス様は「自分に光があるうちに、光の子どもとなれるように、光を信じなさい。」(ヨハネ12:36)と言われましたが、闇が来る前に、夕暮れが迫る前に、光であられる主イエスを信じましょう。そして、あなたの心を神に明け渡し、聖霊によってきよめていただこうではありませんか。

ぼろぼろになった帯 エレミヤ書13章1~11節

聖書箇所:エレミヤ書13章1~11節(エレミヤ書講解説教28回目)
タイトル:「ぼろぼろになった帯」

きょうは、エレミヤ書13章1~11節から「ぼろぼろになった帯」というタイトルでお話します。ここからまたエレミヤを通して新しいメッセージが語られます。それはことばを用いてのメッセージではなく、エレミヤの行動を通してのメッセージです。それは「行動預言」と呼ばれるものです。普通に語ったのでは耳を傾けないイスラエルの民に対して、主はエレミヤの行動を通して語られるのです。それがこの「ぼろぼろになった帯」です。

Ⅰ.ぼろぼろになった帯(1-7)

まず1~7節をご覧ください。「1 主は私にこう言われた。「行って亜麻布の帯を買い、それを腰に締めよ。水の中に入れてはならない。」2 私は主のことばのとおり、帯を買って、腰に締めた。3 再び次のような主のことばが私にあった。4 「あなたが買って腰に着けているその帯を取り、ユーフラテス川に行って、そこの岩の割れ目にそれを隠せ。」5 そこで、主が私に命じられたとおり、私は行って、それをユーフラテス川のほとりに隠した。6 多くの日を経て、主は私に言われた。「さあ、ユーフラテス川へ行き、わたしが隠せとあなたに命じたあの帯を取り出せ。」7 私はユーフラテス川に行って掘り、隠した場所から帯を取り出した。すると見よ。その帯はぼろぼろになって、何の役にも立たなくなっていた。」

主はエレミヤに、亜麻布の帯を買って、それを腰に締めるようにと言われました。日本人は着物を着る習慣があるので、帯というと着物の帯を想像するかもしれませんが、これは祭司の服装に用いられた帯で、腰に巻く短いスカートのようなものです。エレミヤは祭司の家系で生まれたので「亜麻布の帯を買い、それを腰に締めよ」と言われたとき、すぐにピンときたと思います。しかし、それを「水の中に入れてはならない」ということには少し抵抗があったかもしれません。なぜなら、「水の中に浸してはならない」とは水で洗ってはならない、つまり、洗濯してはならないということだからです。洗濯しなければ臭くなってしまいます。神に仕える祭司なのに何週間も身に着けた帯を洗わないというのは不衛生です。しかし、エレミヤは主が言われたとおり、帯を買って、それを腰に締めました。
  ここで重要なのは、エレミヤが「主のことばのとおり」にしたということです。エレミヤは自分には理解できないことであっても、主が言われたとおりにしました。心の中では「どうしてこんなことを言われるのだろう」とか、「そんなことをしていったいどうなるというのか」という思いもあったかもしれませんが、彼は主が言われるとおりにしたのです。
  ここがエレミヤのすばらしい点です。彼はそれがどういうことなのかがわからなくても、ただ主のことばのとおりにしました。これは私たちが模範とすべき点です。私たちも聖書を読んでいると、どうして主はこんなことを言われるのだろうかとかと思うことがありますが、エレミヤのように主のことばのとおりにすることが大切です。

創世記に出てくるノアもそうでした。創世記6章22節には、「ノアは、すべて神が命じられたとおりにし、そのように行った。」とあります。神様は、地上に人の悪が増大し、その心に図ることがみな、いつも悪に傾くのをご覧になられた時、人を造ったことを悔やみ、すべての人を地の面から消し去ろうとしました。しかし、ノアは主の心にかなっていたので、主はノアとその家族を救おうと、ノアに箱舟を作るようにと命じました。ノアの箱舟です。しかしそれはかなり大きいもので、アメリカンフットボールのコートの1つ半の長さで、高さは4階建てのビルに匹敵するほどの高さでした。どれだけ時間がかかったでしょうか。一説によると70~100年くらいかかったのではないかと言われています。70~100年ですよ。気の遠くなるような話です。皆さんだったら作りますか?しかしノアは神から命じられると、そのとおりにししました。たとえ何年かかろうとも、たとえそれがどういうことなのかわからなくても、主が言われたとおりにしたのです。

時々私たちは、まさか主がそんなことを言われるはずはないと勝手に解釈して従おうとしないことがありますが、あるいは、それはあくまでもたとえであってそのとおりに受け止める必要はないと考えてしまうことがありますが、勿論、それが明らかにたとえである場合は別として、そうでない時には基本的にそれを文字通り受け止めそれに従うことが求められます。エレミヤは主が言われるとおりにしました。それがどういうことかよくわからなくても、主のことばのとおり、帯を買って、それを腰に締めたのです。

すると、どうなったでしょうか。3節をご覧ください。ここには、「再び次のような主のことばがあった」とあります。これは彼が最初にあった主のことばに従ったからです。つまり、再びエレミヤに主のことばがあったのは最初に主のことばがあったとき、彼がそれに従ったからです。従わなかったら次のことばはありませんでした。私たちはよく「聖書が言っていることがよくわかりません」とか、「主のことばが入って来ないんです」と言うことがありますが、もしかするとそれは最初に語られた主のことばにあなたが従っていなことに原因があるのかもしれません。主のことばに従わないと次の命令が来ないからです。最初のステップを踏まないと次の指示が来ないのです。

エレミヤはどうして主がそのように言われるのかわかりませんでしたが、主の言われるとおりにすると、再び彼に主のことばがありました。それは4節にあるように、「あなたが買って腰に着けているその帯を取り、ユーフラテス川に行って、そこの岩の割れ目にそれを隠せ。」ということでした。どういうことでしょうか。全く意味不明です。亜麻布を買って、それを腰に締めよというのはわかりますが、ユーフラテス川に行って、そこの岩の割れ目にそれを隠せというのは考えられないことです。なぜなら、この時エレミヤはエルサレムにいましたが、ユーフラテス川まではかなりの距離があったからです。地図をご覧ください。エルサレムからバビロンまでのルートを記しておきました。ユーフラテス川はその途中にありました。それは直線距離で約800㎞です。800㎞もありました。800㎞といったら、ここから広島辺りまでの距離に相当します。しかも当時は新幹線も高速道路もありませんでした。野を越え、山を越え、谷を越え、また広大な砂漠を通って行かなければなりませんでした。エズラ記によると、ユーフラテス川の先にあるバビロンからエルサレムまで帰還するのに四か月かかったと記されてあります(エズラ7:9)。ですから、相当の日数を要したのは間違いありません。それで学者によってはユーフラテス川というのは間違いで、これはアナトテの町の北東5kmにある「ワディ・ファーラ―」という町のことではないかと考える人もいます。ヘブル語で発音すると「ワディ・ファーラ―」と「ユーフラテス」の発音が似ているからです。あるいは、これはエレミヤが見た単なる「夢」ではないかという人もいます。違います。これは実際にエレミヤが神様から与えられた命令です。そのように受け止めた方が、この後の説き明かしの際に神が意図していたことが明確になるからです。

その命令に対してエレミヤはどのように応答したでしょうか。5節です。「そこで、主が私に命じられたとおり、私は行って、それをユーフラテス川のほとりに隠した。」
 エレミヤは主が命じられたとおりにしました。ユーフラテス川まで行き、それを岩の割れ目に隠したのです。すごいですね、エレミヤは常識では考えられないことでも、主が言われたとおりにしたのです。なぜなら、主は常識を超えておられる方だからです。常識だから従うというのは信仰ではありません。信仰とは、常識を超えたことでも主が語られたので従うことです。これが信仰です。

ヘブル11章1節には「信仰は、望んでいることを保証し、目に見えないものを確信させるものです。」とあります。信仰とは、望んでいる事がらを保証し、目に見えないことを確信させるものなのです。「望んでいる事がら」とは、自分が望んでいることではなく、神によってもたらされる天における報いことです。それは目には見えませんが、必ず与えられると信じています。なぜなら、主がそのように約束してくださったからです。創造主訳聖書では、「将来に起こることを確かなものとしてつかむ手であり」と訳しています。とてもわかりやすい表現ですね。私たちの希望として持っている天の御国は目に見えませんが、将来に起こる確かなものとしてつかむのです。それをしっかりとつかむ手、それが信仰なのです。それは常識をはるかに超えたものですが、主が言われたことは必ずそうなるからです。これは盲従とは違います。盲従といっても「猛獣」のことではありません。盲目的に従うことを「盲従」と言いますが、それとは違います。盲従とは何も考えないで従いますが、信仰とは主が語ってくださることに応答することです。たとえそれが自分に理解できないことであっても、主がみことばによって命じられたので従うのです。それが信仰です。
 エレミヤは主が命じられるとおりにユーフラテス川まで行き、そこに帯を隠しました。どうしてそんなことをしなければならないのかわかりませんでしたが、主がそう言われたのでそのとおりにしたのです。

するとどうでしょう。するとエレミヤに三度目の主のことばがありました。6節です。「多くの日を経て、主は私に言われた。『さあ、ユーフラテス川へ行き、わたしが隠せとあなたに命じたあの帯を取り出せ。』」
 「えっ!」ですよね。ユーフラテス川まで行ってそれを隠せというからそうしたのに、今度はそのユーフラテス川にもう一度行って、あの帯を取り出すようにというのです。だったら、最初からしなければよかったじゃないですかと言いたくなります。800㎞ですよ。その距離をまた往復しなければならないのです。それはあんまりです。しかしエレミヤは神の人でした。彼は主が言われるとおりもう一度ユーフラテス川に行って堀り、隠しておいた場所から帯を取り出しました。もしかすると彼は何かを期待していたかもしれません。その帯にキャビアがついているとか・・・。皆さん、知っていますか?キャビア。世界三大珍味の一つで、高級食材として有名です。インターネットで調べてみたらチョウザメの卵らしいです。ちなみに世界三大珍味とは他に、フォアグラとトリュフだそうです。まぁ、どうでもいいことですが。もしかしたら、そういうものが付いていると思ったのかもしれません。とにかく彼はユーフラテス川へ行き、隠した場所から帯を取り出しました。

するとどうでしょう。その帯はぼろぼろになっていました。ぼろぼろに腐っていて、何の役にも立たなくなっていたのです。エレミヤは「何だ、これ?」と思ったかもしれません。いったい何のためにここまで来なければならなかったのか、こんな腐った帯を掘り出すためにわざわざ命をかけて来たのか・・・・と。しかし重要なことは、主がせよと言われたことをしたことです。たとえそれが自分に理解できないことであっても、たとえそれが常識を超えたことであっても、主が命じられたとおりにすることが重要です。なぜなら、そうすることで、その次につながるからです。なぜ神様がそのように言われたのか、それがどういう意味なのかが明らかになるからです。

Ⅱ.エルサレムの大きな誇り(8-10)

いったいそれはどういうことだったのでしょうか。次に、その意味について考えたいと思います。8~10節をご覧ください。「8 すると、私に次のような主のことばがあった。9 主はこう言われた。「わたしはこのように、ユダとエルサレムの大きな誇りをぼろぼろにする。10 わたしのことばに聞くことを拒み、その頑なな心のままに、ほかの神々に従って歩んで、それらに仕え、それらを拝むこの悪しき民は、何の役にも立たないこの帯のようになる。」

すると、エレミヤに次のようなことばがありました。「わたしはこのように、ユダとエルサレムの大きな誇りをぼろぼろにする。」と。この帯は、イスラエルの民の大きな誇りを表していました。主はその誇りをこの帯のようにぼろぼろにするというのです。それは具体的にはバビロン捕囚のことを表していました。バビロンに捕え移すということです。バビロンという国はユーフラテス川の対岸にありますが、そこまで連れて行かれるということです。なるほど、だからユーフラテス川だったんですね。わざわざユーフラテス川まで行って帯を隠すようにと言われたのは、このことを表していたのです。しかもエレミヤは、ユーフラテス川まで2回も行かなければなりませんでした。実は、バビロン捕囚の出来事は2回にわたって行われました。第一回目は、ユダの王エホヤキムの時(B.C.597)です。これが第一次バビロン捕囚と呼ばれている出来事です。そしてもう一回が、南ユダの最後の王ゼデキヤの時(B.C.586)です。これが第二次バビロン捕囚で、この時エルサレムが完全に陥落することになります。ですから、エレミヤが2回もユーフラテス川まで行かなければならなかったのは、これら一連の出来事を預言していたのです。これらの出来事のすべてが、エレミヤが行った行動預言の中に含まれていたのです。すごいですね。神様のなさることは。エレミヤも何が何だかわからず、ただ神がせよと言われるからそのようにしただけでしたが、そういう意味があったと知って、後で驚いたのではないでしょうか。

いったいイスラエルの民はどういう点で誇っていたのでしょうか。10節には彼らの三つの誇りが取り上げられています。第一に、彼らは主のことを聞くことを拒みました。ここに、「わたしのことばを聞くことを拒み」とあります。皆さん、誇り、高慢とはどういうことでしょうか。高慢とは、神のことばを聞こうとしないことです。神の判断を仰がないで自分で判断し、自分の考えで進もうとすること、これが高慢であるということです。そこには神様が入り込む余地がありません。逆に謙遜であるとは、神のことばに聞き従うことです。20世紀のプロテスタントに大きな影響を与えたマルチン・ロイドジョンズは、自身が書いた「山上の垂訓」の中で、心が貧しい、謙遜であるということを、「Empty」と表現しました。空っぽであるということです。古いぶどう酒を全部吐き出さないと新しいぶどう酒を入れることができないように、自分の心を全部吐き出してEmptyにしないと、神のことばに満たされることはできません。その空になった心を神のことばで満たしそのことばに生きること、それが謙遜であると言うのです。もし神様の判断を仰ごうとせず自分の考えで動こうとしているなら、それは謙遜であるかのようですが高慢であるということです。皆さんはいかがですか。神様はそのような誇りを腐らせるのです。

第二に、彼らは頑なな心のままに歩もうとしました。これも高慢な人の特徴的な性質です。心が堅いのです。いくら言ってもわかりません。わかろうとしないのです。もう自分の中で決めていますから。だから主のことばが入って行かないのです。心に響きません。それは神のことばを語る側にも問題があるかもしれませんが、最大の問題はここにあります。主のことばを聞こうとしないのです。もう自分で決めていますから。聖書のことばは参考までに聞きますという程度です。この道を行くと自分で決めているので、どんなに主が「これが道だ。これに歩め。」と言っても、聞く耳を持つことができないのです。「そういう道もあるでしょうね。参考までお聞きしておきますが」とか、「でも私には私の考えがありますから」となるのです。それが頑なな心のままに歩むということです。イスラエルの民の心は、実に頑なでした。

第三に、ほかの神々に従って歩んで、それらに仕え、それらを拝むということです。これも大きな誇りです。勿論、イスラエルの民は主なる神、ヤーウェーも信じていました。でも、主だけを信じていませんでした。ほかの神々にも信頼していたのです。主を礼拝しながらバアルも、アシュタロテも、マモンも、その他いろいろな神々を信じ、それらに仕えていました。盆も正月もクリスマスもお祝いするみたいな感じです。これは日本人の宗教観に近いものがあります。それが寛容な心だと思っているわけです。全部拝めばそれだけご利益もあるしと。でもそれは大きな誇りです。主なる神を信じていると言いながらほかの神々に歩み、それらに仕えているとしたら、それは誇りでしかありません。主はそうした大きな誇りをぼろぼろにすると言われたのです。

あなたはどうですか。イスラエルの民のような誇り、プライドはないでしょうか。神のことばを聞こうとせずその心をかたくなにして、「私は私の道を行く」と自分の考えに固執していることはないでしょうか。そしてほかの神々にも従って歩み、それらに仕えているということはないでしょうか。イエス様は「心の貧しい者は幸いです。天の御国は、その人のものだからです。」(マタイ5:3)と言われました。主はご自身の前で心を低くし全面的に主に拠り頼む人を、御国の民としてくださるのです。

Ⅲ.主に結び付いて(11)

ではどうしたらいいのでしょうか。ですから、第三のことは主に結び付いてということです。11節をご覧ください。「帯が人の腰に着けられるように、わたしはイスラエルの全家とユダの全家をわたしに着けた─主のことば─。それは、彼らがわたしの民となり、名声となり、栄誉となり、栄えとなるためだった。しかし彼らはわたしに聞き従わなかったのだ。」

ここで主はものすごいことを言われます。それは「帯が人の腰に着けられるように、わたしはイスラエルの全家とユダの全家をわたしに着けた。」ということばです。第三版では「結びつけた」と訳しています。「なぜなら、帯が人の腰に結びつくように、わたしは、イスラエルの全家とユダの全家をわたしに結びつけた。」意味としてはこちらの方が近いです。イスラエルは神に結びつけられたのです。一つとなるように。帯が人の腰に結び付けるように、主はイスラエルの全家をご自身に結びつけてくださったのです。これは神様にとってイスラエルの民がそこまで近い存在であり、一体であることを表しています。その神と私たちを結び付ける帯がぼろぼろだったらどうでしょうか。使い物になりません。仕事にならなければ戦いにもなりません。そして、これは祭司の帯だと申し上げましたが、祭司の帯であるとしたら祭司の務めは礼拝ですから、礼拝にもならないということです。でも主は私たちをご自身と一つに結び付けてくださいました。主はそこまで私たちと一つになりたいのです。それが神の願いなのです。

これはイエス様の祈りを見てもわかります。イエス様は十字架に付けられる直前に、ゲッセマネの園で最後の祈りをされました。それは汗が血のしずくのように滴り落ちるほどの壮絶な祈りでしたが、その祈りの中で主はこう祈られました。「父よ。あなたがわたしのうちにおられ、わたしがあなたのうちにいるように、すべての人を一つにしてください。彼らもわたしたちのうちにいるようにしてください。あなたがわたしを遣わされたことを、世が信じるようになるためです。」(ヨハネ17:21)
 イエス様の祈りは、すべての人を一つにしてくださいというものでした。イエス様が父なる神と一つであるように、イエスを信じるすべての人が、互いに一つとなるようにと祈られたのです。それはイエスが父によって遣わされたことを、この世が信じるようになるためです。その一つに結び合わせるものが帯です。「愛」という帯なのです。「愛は結びの帯として完全です。」(コロサイ3:14)その神の愛という帯によって一つになり、互いに結び合うようにと祈られたのです。

それは何のためでしょうか。11節後半をご覧ください。ここにその理由が書いてあります。「それは、彼らがわたしの民となり、名声となり、栄誉となり、栄えとなるためだった。」
 これが、イスラエルの民が神に結び付けられた目的です。これがイスラエルの民が存在している目的でもあり、私たちクリスチャンが存在している目的でもあります。あなたは何のために存在していますか。それはあなたが神の民となり、神の名声となり、神の栄誉となり、神の栄えとなるためです。神様はあなたをそのようにしたいと願っておられるのです。あなたはそのために主に結びつけられたのです。決して離れることがないように、愛の絆でしっかりと結び付けられたのです。それなのに、イスラエルの民は神の御声に聞き従いませんでした。神と彼らを結び付けていた帯はぼろぼろに腐ってしまい、何の役にも立たなくなってしまったのです。私たちはそういうことがないように気をつけたいと思います。そして、神と私たちを結び付けている帯がぼろぼろにならないように、しっかりと主と一つになることを求めていきたいと思うのです。

 あなたが誇りとしているものは何ですか。私たちが誇りとすべきもの、それは主との関係です。主を知っているということを誇るべきです。私たちは誰か有名な人を知っていると、「私はあの人を知っている」と自慢します。でも私たちが自慢すべきなのは、私たちが主を知っていることです。誤解しないでください。主を知っているということは聖書の知識がどれだけあるかということではありません。また、主のためにどれほど熱心に活動しているかということでもありません。クリスチャンとしてこの社会でどれだけ立派に生きているかということでもありません。主を知っているとは、主との関係を意味しています。この結びの帯で主と一つに結ばれているかどうかということです。

パウロは「私にとって生きることはキリスト、死ぬことは益です。」(ピリピ1:21)と言っています。このことです。生きるにしても、死ぬにしても、その身によってキリストが現わされることを切に願うことです。長谷川先生が金太郎飴のお話をされました。どこを切っても金太郎が出てくるように、私たちのどこを切ってもイエス・キリストが出てくるような生き方です。そのためにはキリストと一つに結ばれていなければなりません。キリストの苦難にもあずかり、キリストの死と同じ状態になり、何とかして死者の中からの復活に達したいと願う。そんな信仰の歩みです。私たちはそのために造られたのですから。どうか、私たちの身を通して神の御名が崇められますように。その存在が神の名声となり、神の栄誉となり、神の栄えとなりますように。そのような者とさせていただきましょう。そのためにぼろぼろの帯ではなく、キリストの愛という帯によって神様と一つに結びつけていただきたいと思います。

絶望の中にある神の希望 エレミヤ書12章7~17節 

聖書箇所:エレミヤ書12章7~17節(エレミヤ書講解説教27回目)
タイトル:「絶望の中にある神の希望」

クリスマス礼拝、新年礼拝とありましたので、前回のエレミヤ書の説教から大分時間が経ちましたが、再びエレミヤ書の講解説教に戻ります。前回は、12章前半の箇所から、「どうして、どうして、どうして」というタイトルでお話しました。エレミヤは、なぜ、悪者が栄え、裏切りを働く者がみな安らかなのかわかりませんでした。そんなエレミヤに対して主はずっと沈黙されたままでしたが、その口を開かれるとこう言われました。5節です。「あなたは徒歩の者と競争して疲れるのに、どうして馬と走り競うことができるだろうか」徒歩の者と競争して疲れているとは現在の状況のことを表しています。そして、馬と走り競うとは将来のことです。つまり、現在のことでそんなに疲れ果てているならこれから先どうするのかということです。これから先もっと大きな困難が待ち受けているのだから、今の状況に一喜一憂するのではなく、すべてをご存知であられる主に信頼して前進するようにということでした。

今日の説教のタイトルは、「絶望の中にある希望」です。ユダの民、イスラエルの民は主を捨てて自分勝手な道に進んで行きました。その結果主のさばきを受けることになりますが、その中でも主は彼らを憐れんでくださり、再び回復してくださるという希望を語られます。

Ⅰ.神の悲しみの歌(7-11)

まず7~11節をご覧ください。ここには、最愛の者から裏切られた神の悲しみが、エレミヤに伝えられます。「7 わたしは、わたしの家を捨て、わたしのゆずりの地を見放し、わたしが心から愛するものを、敵の手中に渡した。8 わたしのゆずりの民は、わたしにとって、林の中の獅子のようだ。それはわたしに向かって、うなり声をあげる。それゆえ、わたしはこの地を憎む。9 わたしのゆずりの民は、わたしにとって、一羽の斑の猛禽なのか。それを猛禽どもが取り巻いているではないか。さあ、すべての野の獣を集めよ。それらを連れて来て、食べさせよ。10 多くの牧者が、わがぶどう畑を荒らし、わたしの地所を踏みつけて、わたしの慕う地所を恐怖の荒野にした。11 それは恐怖と化し、荒れ果てて、わたしに向かって嘆き悲しんでいる。全地は荒らされて、まことに、だれも心に留める者はいない。」

ここには、「わたし」ということばが強調されています。これは神様のことです。新改訳聖書ではひらがなの「わたし」と漢字の「私」を区別して記していますが、このようにひらがなで「わたし」とあるのは神様のことを指しています。この「わたし」という言葉が何回も使われているのは、ここに神様の思いというか気持ちがよくあらわれているということです。その神様の気持ちとはどういうものでしょうか。

7節には「わたしの家」とか「わたしのゆずりの地」という言葉がありますが、これはイスラエルの民のことを指しています。「わたしが心から愛するもの」もそうです。そのイスラエルの家を捨て、相続地を見離し、主が心から愛するものを、敵の手に渡されました。これは、敵であるバビロンの手に渡したということです。バビロン捕囚の出来事です。バビロンによって捕えられ、捕囚の民として連れて行かれることになるのです。なぜでしょうか?8節に、その理由が書かれてあります。それは彼らが神にとって林の中の獅子のようだったからです。林の中の獅子とは、神に対して敵対するライオンのことです。彼らは主に向かってうなり声をあげました。「うなり声をあげる」とは敵対するという意味です。林の中のライオンが「ウォー、ウォー」とうなり声を上げるように、神に対して敵対したのです。それゆえ、主はこの彼らを憎まれたのです。

また9節を見ると、彼らは主にとって、「一羽の斑の猛禽」のようだとあります。「猛禽(もうきん)」とは、肉食の鳥のことです。ここではただの猛禽ではなく「(まだら)の猛禽」とあります。この斑の猛禽とはイスラエルの民のことを指しています。斑の猛禽には一つの習性があり、それは、仲間以外のものを攻撃するということです。つまり、彼らにとってイスラエルの神は自分たちの仲間ではなかったのです。それで神に敵対して激しく襲い掛かかりました。

そんな一羽の斑の猛禽を、猛禽どもが取り巻いていました。この猛禽どもとはバビロンのことです。一羽の斑の猛禽が主に対して襲い掛かったので、主は他の猛禽どもに命じて、すべての野の獣を集めて、斑の猛禽を連れて来て、食べさせるようにと命じているのです。神様の目から見たらバビロンも猛禽どもにすぎません。旧約聖書には、猛禽は食べてはならない汚れた動物とされています。また、いけにえとして神にささげることもできませんでした。神に受け入れてもらえない動物だったのです。ですから、ここでは一羽の斑の猛禽が猛禽どもに取り巻かれているとありますので、汚れた民であるバビロンによって、神の民が取り巻かれ、滅ぼされることになると預言されているのです。何とも悲惨な話です。それは彼らが神である主に敵対し、主に向かって襲いかかったからです。

10節をご覧ください。「わがぶどう畑」とか「わたしの地所」もイスラエルの民のことです。それを踏みつけて、「恐怖の荒野」にしたのは、「多くの牧者たち」、つまり、イスラエルの指導者たちでした。指導者たちの誤った判断が、民を滅びに導いたのです。

結局、イスラエルの民は、神から捨てられることになってしまいました。でも誤解しないでください。神様はただ厳しく断罪しているのではありません。むしろ、愛をもってそのように為さるのです。本当はそんなことしたくないのです。だから7節には「わたしの家」とか、「わたしのゆずりの地」、「わたしが心から愛するもの」と呼ばれているのです。10節の「わたしの慕う地所を」とも言われています。「どうしようもない、罪深い、虫けら同様の連中を、敵の手に渡した」などと言われていません。「わたしが心から愛する者を」と言われました。たましいから愛する者を敵の手に渡したと言っているのです。

ここには「わたし」ということばがたくさん使われていると申し上げました。それはそのことばに託されたイスラエルに対する神の御思いが表現されているからです。この表現から、神の心の痛み、心痛を感じていただきたいと思います。それは不本意だと。本当はそんなことをしたくないのです。本当なら彼らを助けてあげたい。救ってあげたい。でも、彼らがそれを拒みました。そして、林の中のライオンのように、一羽の斑の猛禽のように、神に襲い掛かってきたのです。それでしょうがなくて神はそのようにされるのです。彼らが悔い改めさえすれば、そのさばきを免れることができたのです。バビロンに捕囚の民として連れて行かれる必要はありませんでした。神はこれまで散々愛のことばをかけて表現してきたのに、彼らは受け入れませんでした。たとえば、出エジプト記19章4~6節にはこうあります。「4 『あなたがたは、わたしがエジプトにしたこと、また、あなたがたを鷲の翼に乗せて、わたしのもとに連れて来たことを見た。5 今、もしあなたがたが確かにわたしの声に聞き従い、わたしの契約を守るなら、あなたがたはあらゆる民族の中にあって、わたしの宝となる。全世界はわたしのものであるから。6 あなたがたは、わたしにとって祭司の王国、聖なる国民となる。』これが、イスラエルの子らにあなたが語るべきことばである。」

これは、すごい愛の言葉だと思うんですね。なぜなら、ここで主は彼らを「わたしの宝」と呼んでいるからです。「あなたがたはあらゆる民族の中にあって、わたしの宝となる」。神様は彼らを宝物だとおっしゃってくださったのです。あなたが夫から「あなたはわたしの宝だ」なんて言われたらどうでしょうか。うれしいですよね。もう天に昇ったような気持ちになるのではないでしょうか。「あなたはわたしの誇りだ」と言われたらどうでしょうか。誇りと言ってもダスト(埃)のことじゃないですよ。プラウドです。アメリカに住んだことのある人やアメリカ人の友達がいれば一度は聞いたことのあるフレーズに‟I’m proud of you”という言葉があります。直訳すると「私はあなたを誇りに思う」でしょうか。妻が子どもに言うのをよく聞いたことがあります。‟I’m proud of you”、‟You are my treasure”と言われたら、子どもは本当に胸がいっぱいになります。うれしくて、うれして、言葉にできない♫。そういうことを神は惜しげもなくご自身の民におっしゃってくださったのです。イザヤ書にもありますね。イザヤ書43章4節です。「わたしの目には、あなたは高価で尊い。わたしはあなたを愛している。」

ですから、その愛するものが敵の手に渡されるなんて考えられないことなのです。その土地が荒れ果てるなんて考えられません。そこは神が大好きな土地であり、大好きな人たちがいます。その民がバビロンに滅ぼされて踏みにじられるのです。平気でいられるはずがありません。本当にそれを神が「よし」と思われるでしょうか。絶対にそんなことはありません。絶対に神はそんなことを望んでおられません。

ですから、これはただの冷酷なさばきの宣言ではないのです。神はご自分の民が罪を犯すと契約で定められたのろいを下されますが、しかし、さばかれる神の心は決して容易ではありません。苦しくて、苦しくて、胸が痛んでおられるのです。神はさばきながらも、彼らを「わたしの家」、「わたしのゆずりの地」、「わたしが心から愛するもの」、「わたしの慕う地所」と呼んでくださいました。このような表現には、さばきを受けて大きな苦しみの中にいるときでさえも、イスラエルの民が神に立ち返ることを切に願っておられる神の思いが込められているということを知っていただきたいと思うのです。

Ⅱ.自ら招いた恥(12-13) 

次に、12~13節をご覧ください。その結果、イスラエル、南ユダ王国はどうなるでしょうか。「12 荒野にあるすべての裸の丘の上に、荒らす者が来た。主の剣が、地の果てから地の果てに至るまで食い尽くすので、すべての肉なる者には平安がない。13 小麦を蒔いても、茨を刈り取り、労苦しても無駄になる。あなたがたは、自分たちの収穫で恥を見る。主の燃える怒りによって。」

「荒らす者」とは、バビロンのことです。エルサレム、南ユダ王国は、バビロンの侵略によって滅びてしまいます。ここには「主の剣」とあることからもわかるように、バビロンが神のさばきの道具として用いられるのです。その主の剣が、地の果てから地の果てに至るまで、食い尽くすようになります。地の果てから地の果てまでとは、残されているところはもうどこにもないということです。完全に征服されてしまうことになります。

それゆえ、すべての肉なる者には平安がありません。そればかりか、小麦を蒔いても、茨を刈り取り、労苦しても無駄になります。すべてが徒労に終ってしまうのです。期待しても期待外れ、希望は絶望に終わります。それは彼らが偶像礼拝にふけったために、自らの上にさばきを招いてしまったからです。あなたがたは、自分たちの収穫で恥を見るとあるとおりです。

愛する者をさばかざるを得ない神の悲しみがどれほどのものか、あなたに届いているでしょうか。神は、ひとりも滅びることを願わず、すべての人が救われることを望んでおられます。放蕩息子の父親が、息子の帰りを待っていたように、父なる神は、あなたが神に立ち返ることを待っておられるのです。それなのに、神を裏切り、神の預言者を(さげす)み、神のみことばに背くなら、その身に恥を招くことになります。

アメリカの中西部に、キリスト教が嫌いなひとりの農夫がいました。日曜日になると、周りの人たちは教会に行きましたが、それを見ながら彼は、こぶしを振り上げ、自分だけは畑を耕し続けました。

10月になって、彼は人生で最高の収穫を得ました。彼の収穫量は、州で一番でした。収穫が終わると、彼は、クリスチャンの信仰をあざ笑うかのように、地元の地方紙に意見広告を掲載しました。その広告の最後は、次のように締めくくられていました。

「私のような者がこんなに栄えるとするなら、神に対する信仰も大した意味がないということになる。」

その地域のクリスチャンたちは、静かに、礼儀正しく応答しました。翌日の地方紙に小さな広告が載りました。そこには、こう書いてありました。

「神が、すべての清算を10月になさるとは限らない。」

「思い違いをしてはいけません。神は侮られるような方ではありません。人は種を蒔けば、刈り取りもすることになります。自分の肉に蒔く者は、肉から滅びを刈り取り、御霊に蒔く者は、御霊から永遠のいのちを刈り取るのです。失望せずに善を行いましょう。あきらめずに続ければ、時が来て刈り取りをすることになります。」(ガラテヤ6:6-9)

あなたはどのような種を蒔いていらっしゃいますか。人は種を蒔けば、その刈り取りもすることになります。ですから、御霊に蒔いて、御霊から永遠のいのちを刈り取りましょう。失望せずに善を行いましょう。あきらめずに続け、やがて時が来る時に、豊かな収穫を刈り取らせていただきたいと思うのです。

Ⅲ.絶望の中にある神の希望(14-17)

第三のことは、そうしたさばきの中にも神のあわれみがあること、絶望の中にも希望があるということです。14~17節をご覧ください。「14 主はこう言われる。「わたしの民イスラエルに受け継がせたゆずりの地に侵入する、悪い隣国の民について。見よ。わたしはその土地から彼らを引き抜き、彼らの間からユダの家も引き抜く。15 しかし、彼らを引き抜いた後、わたしは再び彼らをあわれみ、彼らをそれぞれ自分のゆずりの地、あるいは自分の土地に帰らせる。16 彼らがかつて、バアルによって誓うことをわたしの民に教えたように、もし彼らがわたしの民の道をよく学び、わたしの名によって『主は生きておられる』と誓うなら、彼らはわたしの民のうちに建てられる。17 しかし、彼らが聞かなければ、わたしはその国を根こそぎ滅ぼす─主のことば。」」

ここで主は引き続き語られます。それは「わたしはその土地から彼らを引き抜き、彼らの間からユダの家も引き抜く」ということです。彼らとは「悪い隣国の民」のことです。イスラエルの民がバビロンによって捕囚に連れて行かれて以降、カナンの地に侵入する隣国の民がいました。その一つがアモン人であり、またエドム人であり、モアブ人であり、ペリシテ人などです。こうした隣国の民は、バビロン捕囚以降カナンの地に侵入してきました。彼らは「悪い隣国の民」です。なぜなら、それは「わたしの民イスラエルに受け継がせたゆずりの地」、相続地だからです。その地に侵入してくることは悪いことなのです。そこで主は、そうした隣国の悪い民について、彼らをその土地から引き抜くと言われました。彼らを植えてくださった主は、引き抜く権威も持っておられます。神はバアルを崇拝したユダの民だけでなく、彼らにバアル崇拝を教えた周辺諸国も引き抜かれるのです。神の関心はユダの民だけでなく、周辺諸国にまで及んでいました。

しかし、神にとって「引き抜く」ことだけが最終目標ではありませんでした。15節を見ると、「しかし、彼らを引き抜いた後、わたしは再び彼らをあわれみ、彼らをそれぞれ自分のゆずりの地、あるいは自分の土地に帰らせる。」とあります。主はユダの民を引き抜いた後に、再び彼らをあわれみ、彼らをそれぞれ自分のゆずりの地、自分の土地に帰らせると約束してくださったのです。これは、バビロン捕囚から帰還できるということです。その期間は70年です。25章11~12節、29章10~11節にそのように預言してあります。25章11~12節にはこうあります。「11 この地はすべて廃墟となり荒れ果てて、これらの国々はバビロンの王に七十年仕える。12 七十年の終わりに、わたしはバビロンの王とその民を─主のことば─またカルデア人の地を、彼らの咎のゆえに罰し、これを永遠に荒れ果てた地とする。」

ここに、「これらの国々はバビロンの王に七十年仕える」とあります。七十年の終わりに、主はバビロンの王とその民を罰し、これを永遠に荒れ果てた地とするのです。それは七十年間限定の捕囚だったのです。

また、29章10~11節にはこうあります。「10 まことに、主はこう言われる。『バビロンに七十年が満ちるころ、わたしはあなたがたを顧み、あなたがたにいつくしみの約束を果たして、あなたがたをこの場所に帰らせる。11 わたし自身、あなたがたのために立てている計画をよく知っている─主のことば─。それはわざわいではなく平安を与える計画であり、あなたがたに将来と希望を与えるためのものだ。」

ここにも「七十年」という期間が記されてあります。バビロンに七十年が満ちるころ、主はユダを顧みて、彼らにいつくしみの約束を果たして、この場所エルサレムに帰らせてくださるのです。これが神の計画です。それはわざわいではなく、平安を与える計画であり、彼らに将来と希望を与えるためのものでした。すばらしいですね。

ちなみに、キリスト教国際NGO「ワールド・ビジョン」の英国支部が行ったデジタル調査(英語)によると、世界で最も人気のある聖書の一節(最も検索された節、210万回)はヨハネの福音書3章16節ですが、それに次いで2位だったのがこの聖句でした。エレミヤ書29章11節(8万千回)と、ピリピ人への手紙4章13節「私を強くしてくださる方によって、私はどんなことでもできるのです。」でした。

これが聖書の中で二番目に人気のある個所です。それはここに将来と希望が約束されているからです。その将来と希望とは何でしょうか。それは彼ら引き抜かれるが、主は再び彼らをあわれみ、彼らを自分の土地に帰らせるということです。バビロン捕囚から七十年後に、また祖国に戻れるという希望を与えてくださいました。主は決して民を見捨てることをなさらない、あわれみ深いお方です。時折示す厳しさは、愛情の表れでもあるのです。

これはイスラエルの民、ユダの民に特別に与えられたものですが、16節を見ると、その枠を超えてもし周辺諸国でも、異教徒であっても、イスラエルの神、主を信じて、主に立ち返るなら、神の民の一人として、約束の地に帰還することができると約束されています。つまり、私たち日本人にも約束されていることなのです。「彼らがかつて、バアルによって誓うことをわたしの民に教えたように、もし彼らがわたしの民の道をよく学び、わたしの名によって『主は生きておられる』と誓うなら、彼らはわたしの民のうちに建てられる。」

すばらしいですね。エペソ人への手紙2章によれば、私たちはかつて、肉によれば異邦人で、そのころは、キリストから遠く離れ、イスラエルの民から除外され、約束の契約については他国人で、この世にあって望みもなく、神もない者たちでした。しかし、かつて遠く離れていた私たちも、今ではキリスト・イエスにあって、キリストの血によって近い者とされた、とあります。そうです、私たちも、イエス・キリストを信じる信仰によって、同じ神の民とされたのです。「こういうわけで、あなたがたは、もはや他国人でも寄留者でもなく、聖徒たちと同じ国の民であり、神の家族なのです。」(エペソ2:19)

アーメン。何とすばらしい約束でしょうか。何とすばらしい希望、何とすばらしい救いのご計画でしょうか。これはすべて神の約束に基づいたものです。その約束とは、創世記12章1~3節で、神がアブラハムに約束されたものです。「あなたは、あなたの土地、あなたの親族、あなたの父の家を離れて、わたしが示す地へ行きなさい。2 そうすれば、わたしはあなたを大いなる国民とし、あなたを祝福し、あなたの名を大いなるものとする。あなたは祝福となりなさい。3 わたしは、あなたを祝福する者を祝福し、あなたを呪う者をのろう。地のすべての部族は、あなたによって祝福される。」

ここには「あなたを祝福する者を祝福し、あなたを呪う者をのろう。地のすべての部族は、あなたによって祝福される。」とあります。「あなた」とはアブラハムのことですが、ここではアブラハムの子孫から出るメシヤ、ダビデの子イエス・キリストのことです。神のメシヤ、イエス・キリストを自らの救い主として信じ受け入れる者は祝福される、すなわち、この神の国の民の一員に加えていただけるということです。その祝福に与れるということです。そこにはユダヤ人も異邦人もありません。救い主イエス・キリストを信じる同じ国民であり、神の家族なのです。神の聖なる国民として、あの神の宝の民の一員としていただけるのです。

ですから、最後は二つに一つの選択となります。このアブラハム契約に従ってイスラエルを祝福するか、それとものろうか。それによって私たちの運命が決まるのです。それによってこの国の運命が決まります。それは歴史が証明しています。イスラエルを祝福するかどうかです。そして、イスラエルの神、主イエス・キリストをどのように扱うかによって、その人の運命が決まるのです。ヨハネの福音書3章36節にあるとおりです。

「御子を信じる者は永遠のいのちを持っているが、御子に聞き従わない者はいのちを見ることがなく、神の怒りがその上にとどまる。」

ですから私たちは、主の約束に従って、創造主の御前に悔い改めて「主は生きておられる」と告白しようではありませんか。主の名によって「主は生きておられる」と誓うなら、あなたも神の民のうちに建てられるのです。そのように約束してくださる主に感謝し、主のみこころに歩みたいと思います。

主を知ることを切に追い求めよう ホセア書6章1~3節主を知ることを切に追い求めよう 

聖書箇所:ホセア書6章1~3節
タイトル:「主を知ることを切に追い求めよう」

新年おめでとうございます。皆さんは、どのような思いをもって新年を迎えられたでしょうか。今年は1月1日が日曜日となり、こうして1年の最初の日に共に主を礼拝できることを感謝します。

毎年、新年に示されたみことばから新年の教会の目標を掲げておりますが、今年は、昨年礼拝で示されたみことばから特に私の心に響いてきた聖句を目標に掲げました。それは、エレミヤ9章3節にこうあります。「彼らは弓を張り、舌をつがえて偽りを放つ。地にはびこるが、それは真実のゆえではない。悪から悪へ彼らは進み、わたしを知らないからだ。」
 イスラエルの民が、悪から悪へと進み、主に対して真実でなかったのは、主を知らなかったからです。その結果、悪から悪へと進み、人間関係がギクシャクし、社会全体が混乱するようになりました。これは私たちにも言えることです。すべはこの「主を知る」ということで決まるのです。

それできょうはその「主を知る」ことについて、ホセア書6章1~3節のみことばからお話したいと思います。特に6章3節が、今年の教会の目標聖句となります。ご一緒に読んでみましょう。「私たちは知ろう。主を知ることを切に追い求めよう。主は暁のように確かに現れ、大雨のように私たちのところに来られる。地を潤す、後の雨のように。」
 これはB.C.790年頃に、神が預言者ホセアを通して北王国イスラエルの民に対して語ったことばです。当時の王様はヤロブアム2世という王様でしたが、国全体に偶像礼拝が蔓延(はびこ)っていました。その最大の原因は、彼らが主を知らなかったからです。そんなイスラエルの民に対してホセアは、「主を知ることを切に追い求めよう」と語るのです。
 これはいつの時代でも、どの民族にも言えることです。私たちの人生における問題は、このことに関わっています。ですから、私たちは今年このみことばを心に留め、主を知ることを切に追い求める年でありたいと思うのです。

Ⅰ.さあ、主に立ち返ろう(1)

それでは、本文を見ていきましょう。1節をご覧ください。ここには、「さあ、主に立ち返ろう。主は私たちを引き抜いたが、また、癒やし、私たちを打ったが、包んでくださるからだ。」とあります。

ホセア書は神に背き神から離れて行ったイスラエルの民との関係を、ホセアとその妻ゴメルとの関係を通して語ります。すなわち、ホセアとゴメルという夫婦関係を通して、神に背いたイスラエルが神に立ち返るようにと勧告するのです。夫ホセアの愛は人知をはるかに超えた愛でした。夫を裏切り、不貞を働いた妻ゴメルを、その結果、奴隷として身を売る羽目になっていた妻ゴメルを見離さず、見捨てず、お金を払って買い取のです。そして、こう呼びかけてくださいます。「さあ、主に立ち返ろう。主は私たちを引き抜いたが、また、癒やし、私たちを打ったが、包んでくださるからだ。」

このことばは、その前にある5章14~15節のことばを受けてのことばです。そこには、「14 わたしが、エフライムには獅子のようになり、ユダの家には若い獅子のようになるからだ。わたし、このわたしが引き裂いて歩き、さらって行くが、助け出す者はだれもいない。15 わたしは自分のところに戻っていよう。彼らが罰を受け、わたしの顔を慕い求めるまで。彼らは苦しみながら、わたしを捜し求める。」とあります。

ここで主は姦淫の妻ゴメルのように神から離れて偶像に走って行ったイスラエルの民に対して、彼らを引き裂くと言われました。これは、具体的にはアッシリアという国によって滅ぼすということです。だれも彼らを助けることはできません。そうすることで、もしかすると彼らは自分の罪を悔い改めて神に立ち返り、神を慕い求めるようになるかもしれません。それまで当たり前だった神の存在が感じられなくなることで、神を慕い求め、神を捜し求めるようになるかもしれない。それまでは自分のところに戻っていよう、引っ込んでいようと、主は言われたのです。

それを受けてホセアは、北王国イスラエルの民に「さあ、主に立ち返ろう」と呼び掛けるのです。それはいつですか?今でしょ。今が主に立ち返る時だと。主が御顔を隠しておられるのは、私たちが主を慕い求めるようになるまでなのだから、今、立ち返ろうではないかと呼び掛けているのです。これはすばらしい招きです。なぜなら、ここに「主は私たちを引き裂いたが、また、癒やし、私たちを打ったが、包んでくださるからだ。」とあるからです。もし主に立ち返るなら主が癒し、包んでくださいます。主は引き裂かれるだけでなく癒やしてくださる方です。打つことはあっても包んでくださいます。事実、主は彼らを引き裂かれました。主が預言者を通して何度も何度も主に立ち返るように語ったのにそうしなかったので、アッシリアという国を用いて彼らを引き裂かれるのです。でもそれは彼らを滅ぼすことが目的ではありません。そうではなく、建て上げることが目的なのです。癒すために引き裂くのです。包むために打たれるのです。誤解しないでください。神様があなたを引き裂かれるようなことがあるとしたら、それはあなたを滅ぼすためではなく癒すためです。ちょうど外科医がメスを入れてあなたを(むしば)んでいる悪いものを取り除き、その痛んだ傷を包帯で巻くように、主はあなたを蝕んでいる罪を取り除くためにメスを入れ悪いところを取り除いてくださいます。そして、取り除いた後はちゃんと巻いて包んでくださいます。彼らはアッシリアに引き裂かれることになりますが、その後で癒され、包んでいただくことになります。だから主に立ち返らなければならないのです。

Ⅱ.生き返らせてくださる主(2)

次に2節をご覧ください。ここには、「主は二日の後に私たちを生き返らせ、三日目に立ち上がらせてくださる。私たちは御前に生きる。」とあります。どういうことでしょうか。

聖書に「三日目」とある時、それはイエス・キリスト復活との関係で書かれてある場合がありますが、ここもその一つと言えるでしょう。たとえば、Ⅰコリント15章3~4節でパウロはこう言っています。「私があなたがたに最も大切なこととして伝えたのは、私も受けたことであって、次のことです。キリストは、聖書に書いてあるとおりに、私たちの罪のために死なれたこと、また、葬られたこと、また、聖書に書いてあるとおりに、三日目によみがえられたこと、」
 ここに「聖書に書いてあるとおりに」とありますが、これは旧約聖書のことを指しています。旧約聖書の中のどこにイエス・キリストが私たちの罪のために十字架で死なれ、葬られ、三日目によみがえるということが預言されているのでしょうか。たとえば、ヨナ書はそうですね。ヨナは主の命令に背いてニネベではなくタルシシュに逃れようとしましたが、大嵐に遭い船が転覆しそうになりました。それで、いったいだれのせいでこんなことになったのかとくじを引いたところ、それはヨナのせいであることが判明しました。それで水夫たちは彼を海に投げ込むと、神様は大きな魚を備えておられたので、その魚に呑み込まれてしまいました。三日三晩です。彼は魚のお腹の中に三日三晩いました。そこで彼は悔い改めるわけですが、この三日三晩というのはイエス様が十字架で死なれ、三日目によみがえることの予表でした。

ここでもそうです。主は二日の後に私たちを生き返らせ、三日目に立ち上がらせてくださいます。それは、主がひとり子イエス・キリストを死からよみがえらせたように、ご自身のもとに立ち返り、ご自身の御名を信じる者を生き返らせ、立ち上がらせてくださるということです。そのように言っても間違いではないでしょう。古代教父のテルトリアヌスもそのように理解しています。

あれからどのくらいが経ったでしょうか。あれからというのはイエス様が死からよみがえられてから、復活してからです。あれから二千年が経ちました。聖書には、一日は千年のようであり、千年は一日のようだとありますが、そういう意味ではこの「二日の後」とは二千年の後とも受け止めることができると思います。イエス様が復活してから二千年が経ちました。主は二日の後に私たちを生き返らせ、三日目に立ち上がらせてくださいます。その日は限りなく近いのです。

Ⅲ.主を知ることを切に追い求めよう(3)

では、どうしたら主に立ち返ることができるのでしょうか。第三に、それは主を知ることによってです。3節をご覧ください。ご一緒に声に出して読みましょう。「私たちは知ろう。主を知ることを切に追い求めよう。主は暁のように確かに現れ、大雨のように私たちのところに来られる。地を潤す、後の雨のように。」

イスラエルの民が主に背いたのは、本当の意味で主を知らなかったからです。それはホセアの妻ゴメルにも言えることです。ゴメルが他の人を慕い求めたのはどうしてでしょうか。それは夫のホセアの愛を知らなかったからです。それがどんなに大きなものであるか、どんなに真実の愛であるのかを知りませんでした。そして、その愛をもって愛されているということがわかりませんでした。

それで神はゴメルがその愛を知るために、ホセアにこのように言われました。3章1節です。「再び行って、夫に愛されていながら姦通している女を愛しなさい。ちょうど、ほかの神々の方を向いて干しぶどうの菓子を愛しているイスラエルの子らを、主が愛しているように。」
 ホセアとゴメルの婚姻関係は完全に破綻していました。夫に愛されていながらゴメルが他の男と姦通したからです。しかし、主はホセアに「再び行って、夫に愛されていながら姦通している女を愛しなさい。」と言われました。ある人がこの箇所から「再婚」という題で説教しました。皆さんがホセアだったらどうですか。嫌ですよ。そのような妻と再婚することを誰が望むでしょうか。カール・ヒルティは、「許すことは忘れることである」と言いました。それは記憶から消すことではありません。痛みを忘れるということです。許すとは、痛みを忘れることなのです。相手から受けた痛みが残っている以上、本当の意味で許していることにはなりません。本当に許すとは忘れることなのです。でもそう簡単に忘れることなどできません。でも神様は忘れてくだいました。私たちの罪を、十字架と復活の御業を通して完全に忘れてくださったのです。イザヤ43章25節にこうあります。「わたし、このわたしは、わたし自身のためにあなたの背きの罪をぬぐい去り、もうあなたの罪を思い出さない。」すばらしいですね。主はあなたの背きの罪をぬぐい去り、あなたの罪を思い出すことはなさいません。これが私たちの主の約束です。

ホセアはこの神の愛を知っていました。ですから、彼はゴメルを受け入れることができたのです。いや、彼はこのような痛みが与えられたのは、その痛みによってそれまで以上により深く神を知り、神と交わるためであるという意味を悟ることができました。そうです、『どんなに酸っぱいレモンでも、レモネードを作ることができる』のです。皆さん、知ってますか? 『どんなに酸っぱいレモンでも、レモネードを作ることができる』ということを。これは、「This is us」という映画の中で、産婦人科の医師が語ることばです。ある夫婦が三つ子の赤ちゃんを身ごもるのですが、1人目と2人目は無事に生まれてきたものの3人目は死産します。涙する夫を慰めようと医師は彼の隣に座り、こう告げるのです。『どんなに酸っぱいレモンでも、レモネードを作ることができる』。

それでホセアは主が命じられた通りにしました。3章23節です。「それで私は、銀十五シェケルと、大麦一ホメルと大麦一レテクで彼女を買い取り、彼女に言った。「これから長く、私のところにとどまりなさい。もう姦淫をしたり、ほかの男と通じたりしてはいけない。私も、あなたにとどまろう。」
 ホセアは、自分を裏切って他の男と姦通していた妻ゴメルのためにお金を払って彼女を買い取りました。再婚したのです。当時、成人男子の値段は30シェケル(銀30枚)でした。未成年男子は20シェケル(ヨセフが売られた値段)、女や奴隷は15シェケルでした。ですから、相当の金額を支払って買い戻したわけです。「買い取った」という言葉は、完全に他人の所有権の中にあったことを表しています。この世的に言えば、他の男の所有になっていたということです。そんなゴメルを買い取ったのです。

神を信じないという罪、いわゆる原罪ですね、そういう罪も、夫を持った後に犯す姦淫の罪も、罪は代価を払わずに消されることはありません。主の十字架の血こそ、15シェケルや大麦などの代価そのものでした。「血を流すことがなければ、罪の赦しはありません。」(ヘブル9章22節)。とあるとおりです。

同じように神様も私たちに実際のわざによって、その愛を示してくださいました。それが十字架の愛です。この十字架を通して主を知ることが本当の救いです。ヨハネ17章3節にこうあるとおりです。「永遠のいのちとは、唯一のまことの神であるあなたと、あなたが遣わされたイエス・キリストを知ることです。」

つまり、神を知るというのは、神に対しての知識を持つというだけではなく、この十字架と復活の御業を通して体験的に知るということなのです。このことについては既にエレミヤ書の中でもお話しましたが、「ヤダー」というヘブル語でしたね。これは創世記4章1節にある「人は、その妻を知った。」の「知った」ということばと同じです。それはアダムがエバと対面してその存在を知ったということ以上のことで、もっと親密なレベルで、体験的に知ったということです。それが夫婦であれば性的関係を持つことを意味しています。これ以上に親密なレベルはありません。そのように知ろうと言っているのです。

そのように主を知るとどうなりますか。ここには「主は暁ように確かに現れ、大雨のように私たちのところに来られる。地を潤す、後の雨のように。」とあります。

「暁」とは、暗い夜を追い払う朝の光のことです。主を知ることを切に追い求めるなら、主は暁の光のように確かに現れてくださいます。5章15節では、主は自分のところに戻っていよう、引っ込んでいようと言われましたが、時として主がどこにおられるのかわからないことがあります。暗闇の中にいるように感じることがあります。しかし、主を知ることを切に追い求めなら、暗闇の中で主を捜し求めるなら、主は暁の光のように確かに現れてくださるのです。主はいつまでも身を隠しておられる方ではありません。いつまでもあなたから遠ざかっておられる方ではないのです。あなたが主を知ることを切に追い求めるなら、主は暁の光のように確かに現れてくださるのです。

そればかりではありません。ここには「大雨のように私たちのところに来られる。地を潤す、後の雨のように。」とあります。「大雨」とは、12~2月頃に降る雨のことで、「先の雨」とも呼ばれているものです。イスラエルには雨季と乾季という2つの季節しかありません。雨が降らない乾季は、土地がカラカラに乾いています。その乾いた土地がこの大雨によって潤されるのです。

そして3~4月に大雨が降ります。これが「後の雨」です。これは春に降る雨なので「春の雨」とも言われますが、夏の収穫のためには絶対に欠かすことができない雨です。それは穀物を実らせる祝福の雨なのです。この雨が降らなければ作物は実りません。真っ先に冬に雨が降って地が潤され、その後に春の雨、「後の雨」降って豊かな収穫がもたらされるのです。

実り豊かな人生を送るためには、この雨が必要です。あなたが主を知ることを切に追い求めるなら、先の雨、大雨によってカラカラに乾いたあなたの心が潤され、後の雨によって多くの収穫がもたらされるのです。ですから、この雨は恵みの雨なのです。主を知ることによって、このような恵みの雨があなたの心に注がれるようになるのです。感謝ですね。

日本のキリスト教の大衆伝道者に笹尾鉄三郎という牧師がおられますが、彼は「これは再臨の前に来るべき聖霊の大傾注を意味している。」と言っています。つまり、先の雨がペンテコステの時の聖霊降臨であるとすれば、後の雨とは、世の終わりにおけるリバイバルのことでもあるというのです。そのようにも言えるでしょう。それは主を知ることを切に追い求めることによってもたらされるものです。それは、主との関係のことなのです。決して何かをすることによってではありません。何らかのイベントや活動によるのではないということです。それはただ主を知ることによってもたらされる聖霊の御業なのです。

ゼカリヤ10章1節に、「主に雨を求めよ、後の雨の時に。主は稲光を造り、大雨を人々に、野の草をすべての人に下さる。」とあります。それは主を知ることを切に追い求めることによってもたらされるものです。ですから、私たちは今年、主を知ることを切に追い求めたいと思うのです。そして、主が後の雨、実りの雨、収穫の雨、聖霊が豊かに注がれることを祈り求めようではありませんか。

最後に、一つだけ注意すべきことを見て終わりたいと思います。それは4~6節にあることですが、一時的なもので終わらないようにということです。「4 「エフライムよ、わたしはあなたに何をしようか。ユダよ、わたしはあなたに何をしようか。あなたがたの真実の愛は朝もやのよう、朝早く消え去る露のようだ。5 それゆえ、わたしは預言者たちによって彼らを切り倒し、わたしの口のことばで彼らを殺す。あなたへのさばきが、光のように出て行く。6 わたしが喜びとするのは真実の愛。いけにえではない。全焼のささげ物よりむしろ、神を知ることである。」

彼らの真実の愛は朝もやのよう、朝早く消え去る露のようでした。一時的なものだというのです。「さあ、主に立ち返ろう」という招きのことばを聞いて、「主を知ることを切に追い求めよう」と言われ、「わかった!そうしよう」と思うのですが、それが一時的であって夕方になる頃には消えて無くなってしまってはダメだと言うことです。そうだ!明日は箱根駅伝だ。今年は駒沢か、青学か、それとも順天堂か、あるいは東京国際かということで心が一杯になり、すっかり主のことを忘れてしまうのです。これは私のことです。私はスポーツが大好きですから、そういうことにすぐに熱中するのですが、あまりにも熱中するあまりいつしか主がどこかに行ってしまうことがあります。皆さんもそうでしょう。それがスポーツでないにしても、皆さんの関心が心を奪い、全く主を忘れてしまうということが。朝もやのように、朝早く消え去る露のように、その思いがすぐに消え去ってしまうことがあるのではないでしょうか。あるいは、明日のこと、この先のこと、老後のこと、いろいろなことを考えて不安になり右往左往してしまうことがあるのではないでしょうか。それではダメです。朝もやのように、露のように消えてしまうことがないように、このみことばを心に刻まなければなりません。6節です。ご一緒に読みましょう。「わたしが喜びとするのは真実の愛。いけにえではない。全焼のささげ物よりむしろ、神を知ることである。」

皆さん、主が喜びとするのは真実の愛です。いけにえではありません。全焼のささげものでもありません。全焼のささげものよりも、神を知ることなのです。どうか朝もやのようにならないようにしましょう。朝早く消え去る露のようにならないようにしましょう。主を知ることは今日だけでなく、この1年を通して、いや、私たちの信仰生活のすべてにおいて追い求めていかなければならないことなのです。そのような中でも、特に今年、この新しい年、このことを切に求めたいと思うのです。神を知ることです。その時主が暁の光のように現れ、大雨のように私たちのところに来られて、地を潤し、豊かな収穫をもたらしてくださいます。この一年がそのような年となりますように。主を知ることを切に追い求めましょう。