イベント案内

知恵は人を成功させる 伝道者の書10章1~11節

2021年2月21日(日)礼拝メッセージ

聖書箇所:伝道者の書10章1~11節(旧約P1151)

タイトル:「知恵は人を成功させる」

 伝道者の書10章に入ります。8章1節に「知恵のある者とされるにふさわしいのはだれか。物事の解釈を知っているのはだれか。」とありますが、伝道者ソロモンは、どのような人が知恵のある人なのかを、そうでない者、すなわち愚かな者との対比によって語ってきました。日の下で行われる一切のわざを見る限り、そこに見られる様々な不条理に、食べて飲んで楽しむよりほかに人にとって何の幸いもないのではないかと思える中で、彼は、すべてが神のみわざであることに気付かされます(8:17)。それがどういうことなのか、人がどんなに労苦して探し求めても、見極めることはできません。けれども、すべてが神のみわざなのです。そのことに気付くのです。

 しかし、すべての人に同じ結末が起こるのを見ると、同じ結末というのは死ぬということですが、やはり生きていることにどんな意味があるのだろうかと疑問を抱きます(9:2)。けれども、生きていること自体に意味があります。生きている犬は死んだ獅子にまさる(9:4)。生きているからこそ悔い改めて、神に立ち返ることができます。イエス・キリストを救い主として信じることができます。そして、神の恵みの中で、神が与えてくださる一つ一つの恵みに感謝して生きることができるわけです。死んでしまったらそれも叶いません。

ですから、確かにこの地上の営みを見ると、そこにある様々な不条理に空しさを感じることもありますが、神の知恵は力にまさるのです。知恵のある者の静かなことばは、愚かな者の間での支配者の叫びよりもよく聞かれます。一方、知恵がないとすべてをぶち壊してしまうことになります。今日は、その続きです。知恵は人を成功させるということです。

Ⅰ.少しの愚かさはすべてを台無しにする(1-4)

 まず、1~4節をご覧ください。「死んだハエは、調香師の香油を臭くし、腐らせる。少しの愚かさは、知恵や栄誉よりも重い。知恵のある者の心は右を向き、愚かな者の心は左を向く。愚か者は、道を行くときにも思慮に欠け、自分が愚かであることを、皆に言いふらす。支配者があなたに向かって立腹しても、あなたはその場を離れてはならない。冷静でいれば、大きな罪は離れて行くから。」

「死んだハエは、調香師の香油を臭くし、腐らせる。」伝道者は9章18節で語った「一人の罪人は多くの良いことを打ち壊す」ということを、たとえで説明しています。良き物全体が、少しの愚かさによって台無しにしてしまうということです。たとえばここに調香師が調合した高価な香油があるとして、そこに一匹のハエが飛び込んで、死んでしまったとしたらどうでしょう。香油は悪臭を放ち、発酵し始めます。そんな香油をだれが使いたいでしょうか。たった一匹のハエが香油全体をダメにするのです。そのように、人間の評判も少しの愚かさで取り返しがつかないほど失墜してしまいます。それまでの業績や名声は、少しの失言や過ちによって台無しになってしまうのです。今巷を騒がせている女性蔑視発言もその一つでしょう。女性の話は長いと言っただけで、東京オリンピック・パラリンピックの組織の長が辞任することになりました。それに輪をかけるように、新たに就任した組織委員長を擁護しようとして発した「男勝り」ということばが破門を起こしました。一匹の死んだハエが、高価な香油全体をくさせてしまうのです。

2節には、「知恵のある者の心は右を向く。愚か者は左を向く」とあります。「右」とは正しい方向を指し、「左」とは悪の方向を指しています。創造訳聖書は「知恵のある人の心は、正しい道に行き、愚かな者の心は、悪の道に行く」と訳しています。知恵のある者の心は、自然に正しい方向に向かいますが、愚かな者の心は、悪い方に向かうのです。

3節には、「愚か者は、道を行くときにも思慮に欠け、自分が愚かであることを、皆に言いふらす。」とあります。これは恐ろしいですね。愚か者はただ道を行く時でさえ、自分が愚かであることを皆に言いふらすというのです。「この人は黙っていれば賢く見えるのに」と言うことがありますが、言わなくてもいいようなことを言ったり、やらなくてもいいようなことをやったりして、自分がいかに愚かな者であるかを、周り人に露呈するのです。

4節をご覧ください。ここには「支配者があなたに向かって立腹しても、あなたはその場を離れてはならない。冷静でいれば、大きな罪は離れて行くから。」とあります。これは、あなたの上に立つ人があなたに対して腹を立てるようなことがあっても、あなたはそこから離れてはならないということです。ではどうすれば良いのでしょうか?

そのためにはまず冷静になることです。冷静であれば、大きな罪は離れて行くことになります。つまり冷静になり、支配者の前で低くなり、ひたすら謝るなら、支配者からそれ以上の怒りを買うことはなくなるということです。これは結婚関係にも言えることですし、どのような関係にも言えることです。私たちはだれか支配者のような立場にある人から怒られるとすぐにカッとなってその場を離れようとする傾向がありますが、それはよくないことです。そのような時にはまず冷静になることが求められます。まあ、冷静になれるようであれば最初から問題も大きくならないと思いますが、問題はなかなか冷静になれないことです。すぐにカッとなってその場を離れようとします。些細なことでイライラし、怒りをぶちまけようとします。たとえば、車を運転している時に、前の車が遅かったりすると我慢できなくなって、カッとなってしまいます。「何だろう、40キロかよ。ここは50キロでしょ。何とかしてほしい・・」近年、あおり運転が問題になっていますが、そうしたニュースをみるとドキッとすることがあります。いつ自分がそうなってもおかしくないんじゃないか・・・と。だから自分はできるだけ車のハンドルを握らないようにしているというか、用がない限り運転しないようにしています。でも一番いいのは冷静でいることです。

箴言29章11節には「愚かな者は怒りをぶちまける。しかし知恵のある者はそれを内におさめる」(箴言29:11)とあります。この御言葉は、怒りやすい人は愚かな人であると教えています。箴言というのは、「安全に生きるためのマニュアル」です。聖書の時代の人たちは、隣人と争えば、命がけの戦争に巻き込まれてしまう可能性がありました。ですから、「どのようにすれば平和に生きることができるか」を、箴言から学んでいたわけです。箴言は、人間関係のマニュアルです。その箴言で言っていることは、「愚か者は怒りをぶちまける。しかし知恵のある者はそれをおさめる」ということです。知恵のある者になりたいてだすね。

その箴言の別の個所には、こうあります。「自分の心を制することができない人は、城壁のない、打ちこわされた町のようだ」(箴言25:28)

この聖句は、頭に血が上った時に思い出すべきものです。「ああ、今の私は城壁の壊れた、防御不能の町のようだ」と思えば、ちょっとは冷静になれるでしょう。現代人にも、平安な生活のためのマニュアルが必要です。怒りやすい人は、例外なしに人間関係の問題を抱えています。「怒りやすい人は愚かな人だ」ということを、思い出す必要があります。

では、どうすれば良いのでしょうか。アンガーマネージメントという怒りの感情をコントロールするノウハウが日本でも紹介されていますが、その中に「6秒ルール」と呼ばれるものがあります。この「6秒ルール」というのは、人間が怒りを覚えるとき、脳内では興奮物質のアドレナリンが激しく分泌されています。そのことによってより興奮してしまい、冷静ではいられなくなってしまうらしいのです。しかしこのアドレナリン分泌のピークは、怒りを発してから6秒後と言われていて、つまりその最初の6秒間を我慢してやり過ごすことができれば、その後は徐々に冷静さを取り戻すことができるというのです。だれかがあなたに腹を立てても、それにすぐに反応するのではなく6秒間待つのです。一番簡単な方法は、心の中で6秒数えるというものです。数を数えるといった単純な作業を行うことで、意識を自然とそちらに向けることができます。他にも「朝からの行動を順番に思い出してみる」とか、目に見えているものの名前、例えば、時計とか、本棚とか、パソコンとかを一つずつ心の中で読み上げる、などといったことも有効です。自分なりに「カッとなったらまずはこうする」というルールを作っておくことで、突発的な怒りに任せた行動を未然に防ぐことができるというのです。これは冷静であるためにはどうしたら良いのかを教える一つの助けになるでしょう。でも、怒りをおさめることは簡単なことではありません。どうすれば良いのでしょうか。自分はすぐに怒ってしまう愚かな者であると認め、それを悔い改めて、神に立ち返ることです。

そこが聖書のすばらしいところだと思います。私たち人間は本当に愚かな者で、すぐに左の方に行ってしまいます。冷静でいなければならないと分かっていても瞬間湯沸し器のようにすぐにカッとなってしまい、つまずいてしまいます。少しの愚かさどころか多くの愚かさによって、人生を台無しにしてしまうような者なのです。このような者に救いはあるのでしょうか。あります。それがイエス・キリストが来られた目的です。もしあなたがそのことを認め、悔い改めてイエス・キリストを信じるなら、あなたは何度でもやり直すことができます。それが、聖書が語っている主要なモチーフです。

ヨシュア記20章2節には、次のような御言葉があります。「イスラエルの子らに告げよ。「わたしがモーセを通してあなたがたに告げておいた、逃れの町を定めよ。」

ここに「逃れの町」が出てきます。これはイスラエルがカナンを制圧した直後に、主がヨシュアに語られたことです。この「逃れの町」とは、誤って人を殺してしまった者がそこに逃げ込むためなら、その人は仇討ちから免れ、罰を受けずに済むようになるためのものでした。イスラエル全体に6箇所定められていましたが、それは、だれでも、どこにいても逃げ込むことができるためでした。

なぜ神はこの逃れの町を制定されたのでしょうか。それはこの町の存在そのものが、神の本質を表していたからです。つまり神は私たちを裁くことを良しとし、その目を常に裁きに向けておられる方ではなく、私たちを愛し、赦すお方であられるということです。そういう愛のお方なのです。よく「神は愛なり」と言いますが、その「愛」とはどういうものなのでしょうか。神はこの逃れの町の制定によって具体的に愛するとはどういうことなのかを教えようとされたのです。それは私たち人間がいかに間違いやすく、失敗しやすい存在であるかということを神は知り尽くし、深く理解しておられるということです。逃れの町を作られた第一の理由は、ここにありました。

アメリカ第十六代大統領アブラハム・リンカーは、南北戦争の最中、自分の家族や側近者たちがこぞって南部の人たちを非難し、悪しざまに言うのを聞いて、「あまり悪く言うのはよしなさい。われわれだって立場を変えれば、きっと南部の人たちのようになるのだから。」と言いました。

リンカーンは、常に、盗人にも五部の理があるのを認め、断罪しない人物でした。相手の立場を見ることができました。その人にはその人なりの理由があるということを常に理解しようと努めたのです。彼の深い人間理解の故に、リンカーンは多くの人々に慕われ、今もなお尊敬され続けているのです。

へブル4章15~16節に、次のような御言葉があります。「私たちの大祭司は、私たちの弱さに同情できない方ではありません。罪は犯しませんでしたが、すべての点において、私たちと同じように試みにあわれたのです。ですから私たちは、あわれみを受け、また恵みをいただいて、折にかなった助けを受けるために、大胆に恵みの御座に近づこうではありませんか。」

キリストは私たち人間の弱さをすべて思いやることがおできになります。なぜなら、キリストご自身が罪は犯されませんでしたが、あらゆる試練に直面され、そこを通られたからです。キリストは私たちの弱さ、罪、醜さ、愚かさのすべてを知られ、理解しておられるのです。だから、私たちは安心して、折にかなった助けを受けるために、恵みの御座に近づくことができるのです。

ですから、この逃れの町が制定された目的は、愛の神が、誤った人々をもう一度立ち直らせるためであったということです。それが、聖書全体が語っている主要なモチーフなのです。すなわち、あなたはやり直すことができるということです。そのような実例を聖書から上げようと思えばきりがありません。モーセにしても、ダビデにしても、ペテロにしても、パウロにしても、皆神の赦しを体験し、信仰によって立ちあがった人たちです。それは神の愛に由来しています。パウロのように、ペテロのように、キリストは人々が立ち直り、やり直すことを願っておられるのです。神が用いられる人とは、何の過ちや欠点のない完璧な人ではなく、とりもなおさず失敗や過ちを悔い改めてやり直った人々であり、その人の失敗が大きければ大きいほど、神はそれに比例してその人を大きく用いられるのです。

イエス様の宣教の第一声は、「悔い改めなさい。天の御国が近づいたから。」(マタイ4:17)でしたが、これを現在の私たちの言葉で言い直すならば、「あなたはもう一度やり直すことができる。もう一度やりなおしなさい。」というメッセージなのです。そのためにキリストは十字架に掛かって死んでくださいました。私たちを失敗させ間違いを犯させる罪を打ち砕き、その罪から解放してくださるためです。この十字架の贖いこそ、私たちがもう一度やり直すことができる道筋です。ところが、多くの人はそれを知りません。環境を変え、場所を変えればやり直すことができるのではないかと考えるのです。しかし、それは錯覚であり無駄なことです。なぜなら、あなたの人生をやり直すことができる唯一の道は、十字架の前に立ち、その御前にへりくだって悔い改め、贖いの恵みを受け入れることだからです。キリストにあってすべての罪が洗い清められ、悪魔の力が粉砕されることによってのみ、私たちはもう一度新しくやり直すことかできるのです。

ですから、私たちは本当に愚かな者で、すぐにカッとなってその場を離れとしまう者ですが、そんな者でも神に深く愛されていることを覚え、悔い改めて、神に立ち返っていただきたいのです。そして、キリストとともに聖霊の力によって再スタートをきっていただきたいと思うのです。

Ⅱ.権力者から出る過失(5-7)

次に、5~7節までをご覧ください。「私は、日の下に一つの悪があるのを見た。それは、権力者から出る過失のようなもの。愚か者が非常に高い位につけられ、富む者が低い席に座しているのを、また、奴隷たちが馬に乗り、君主たちが奴隷のように地を歩くのを、私は見た。」

伝道者が日の下で見たもう一つの悪は、権力者から出る過失のようなものでした。権力者に部下を見る目がないということです。その結果、資格も能力のない者が高い地位につけられたり、逆に、能力のある者が、雑務をこなすだけに時間を費やすということが起こるのです。また、奴隷たちが馬に乗り、君主たちが奴隷のように地を歩くということが起こります。馬に乗るとは高い地位に着くということです。また、地を歩くとは、低い地位に下ろされるということです。権力者たちが見方を誤ると、このような結果となります。少しの愚かさが、大きな結果をもたらすことになります。人をどのように見るのか、その小さな知恵が、全く逆の結果をもたらすことになるのです。

ドイツを代表する文豪、ヨハン・ヴォルフガング・フォン・ゲーテ(1749~1832)は、こう言いました。「彼らが当然そうあるべきように、人々を扱いなさい。そうすればあなたは、彼らがそうあるべきものになるのを助けることになるだろう」これは、人を育てる時の大原則です。彼らが当然そうあるべきものになるように助けるのです。

この原則を、教育の現場で実践した人がいます。物理学者の大学教授フロイド・ベーカー博士です。彼は、学期初めにいつも学生たちに言いました。私は勉強しない学生は好きではない。だからキミたちは全力を尽くして頑張らなければならない。念のために言っておくが、キミたちのうち50%はパスしないだろう。それが、自分にならないように気をつけたまえ!」

不思議なことに、彼の予想は常に実現しました。つまり50%の学生が、いつも落第したのです。そして仲間の大学教授とは、最も落第生を多く出した者が最も優秀な教授なのだ、と言い合っていました。

そんな時彼は、妻と一緒に教会に通い始めました。聖書を読むうちに自分の学生たちをみる目が、いかに間違ったものであったかを知るようになります。そして、コリント人への手紙第一13章を読んでいる時、自分は愛のない教授であることを悟ります。

それから、彼の学生たちに対する態度が変わりました。彼は、学生たちに向かってこう言いました。「私は、キミたち全ての者がパスすることを望んでいる。君たちがパスするのを見ることが私の職務なのだ。課題は難しい。しかし、キミたちなら必ずパスできるはずだ。」

するどうでしょう。この後、クラスの雰囲気が以前のものとは違ったものになりました。そして学生たちは、全員がパスしたのです。Cを取った学生もいましたが、多くの者はBかAの成績を取ったのです。

どのように人を見るかです。その見方を誤ると、とんでもないような結果となってしまいます。教育の目的は、生徒を傷つけることではなく、生徒を信じて期待し、その可能性を掘り起こしてやることなのです。「愛は、すべてを信じ、すべてを期待し、すべてを耐え忍びます。」(Ⅰコリント13:7)

少しの愚かさが残念な結果をもたらすことがないように、知恵と知識の宝がすべて隠されているキリストに信頼し、神から知恵をいただいて、神のみこころに歩みたいと思います

Ⅲ.知恵は人を成功させる(8-11)

第三のことは、知恵は人を成功させるということです。8~11節までをご覧ください。「穴を掘る者

は自らそこに落ち、石垣を崩す者は蛇にかまれる。石を切り出す者は石で傷つき、木を割る者は木で危険にさらされる。斧が鈍くなったときは、刃を研がないならば、もっと力がいる。しかし、知恵は人を成功させるのに益になる。もし蛇がまじないにかからず、かみつくならば、それは蛇使いに何の益にもならない。」

ここにも、少しの愚かさが、どんなに大きな危険をもたらすかが語られています。8節と9節には、「穴を掘る者は自らそこに落ち、石垣を崩す者は蛇にかまれる。石を切り出す者は石で傷つき、木を割る者は木で危険にさらされる。」とあります。穴を掘る者がそこに落ち込み、石垣を崩す者が、そこにいる蛇にかまれ、石を切り出す者が、その石に押しつぶされ、材木を切り出す者が、その木で危険にさらされるということがあるということです。しかし、知恵はこのような危険から守ってくれます。

10節には「斧が鈍くなったときは、刃を研がないならば、もっと力がいる。しかし、知恵は人を成功させるのに益になる。」とあります。斧がよく切れなければ、刃を研がないと、もっと多くの力を要することになります。余分な労力が必要になるということです。しかし、刃を研ぐなら、その時間が無駄であるかのように思われますが、必ず報われることになります。道具を整えないのは愚かなことです。知恵は人を成功させるのに益になるのです。

皆さんはどうでしょうか。斧を研いでいますか。よりよく神に仕えるために、自分の能力のどの部分を高めたらよいかを考え、それを高めるための努力をしているでしょうか。それとも、鈍くなった斧で切ってはいないでしょうか。「Oh, No!」なんて。鈍い斧のままでは、時間とエネルギーが無駄になるだけです。まずは自分という道具を磨かなければなりません。それが知恵です。どうやったら自分を磨くことができるのでしょうか。

ローマ人への手紙5章3~5節に、次のようにあります。「それだけではなく、苦難さえも喜んでいます。それは、苦難が忍耐を生み出し、忍耐が練られた品性を生み出し、練られた品性が希望を生み出すと、私たちは知っているからです。」

何が希望を生み出すのでしょうか。練られた品性です。では練られた品性は、どのようにしてもたらされるのでしょうか。忍耐です。その忍耐は苦難によって生み出されます。そうです、自分という斧が磨かれるためには、神が与えてくださる苦難とか試練を忍耐することが求められます。試練こそその人が成長するための最も大きな糧なのです。

あるご婦人が、スイスを旅行した時のことです。散歩の途中に山腹にある羊の囲いの所に来たとき、中を覗いて見ると羊飼いがいて、彼の周りに沢山の羊がいました。ところが一匹の羊が、群れから離れて横に倒れて苦しんでいました。彼女は、羊飼いに声をかけました。

「あの羊はどうして倒れているのですか」

「あの羊は、足が折れているんです」

「どうして足が折れたのですか」と聞くと、

「私がわざと折ったのです」と、答えました。

彼女はびっくりして、「どうしてそんな可哀想なことをしたのですか」と尋ねると、羊飼いはその理由を説明してくれました。

「ミセス、私の羊の中で、こいつが一番言うことを聞かないんです。私の声に、絶対に従いません。そして危ない崖の上や、深い藪の中に勝手にどんどん入って行くのです。そして自分が行くだけでなく、他の羊も惑わして道連れにしてしまうんです。だから私は、この羊の性質を直すために、この羊の命を救うためにこの羊の足を折ったのです。今では、すっかり従順な羊になりました。私の手から餌を食べ、私の手を舐め、私に寄り添ってくるんです。まもなく足も回復するでしょう。そうしたらこの羊は、今度は他の羊の模範となるでしょう。仲間を惑わす代わりに、迷った仲間を連れ戻すでしょう。その時、私がこの羊の足を折った目的が達成されるのです」

私たちは迷える子羊です。そんな者が研がれるために、神は試練を与えられるのです。その試練を通し

て私たちは、謙遜や忍耐や従順といった練られた品性を身に着けるのです。

詩篇の記者は、こう言いました。「苦しみに会ったことは、私にとってしあわせでした。私はそれであなたのおきてを学びました。」(詩篇119:71)私たちは、試練を通して神のおきてを学びます。それによって成長いくのです。ですから、試練に出会って、そこから出てくるたびに、私たちの心の中に人生の真実を求める心が大きくなっていきます。そして、以前の自分よりも今の自分の方が、よりイエス様を愛するようになります。よりイエス様を愛しているなら、私たちは確実に成長しているのです。これが神の知恵です。あなたはこの知恵を働かせていますか。知恵を働かせることが、成功に至る鍵です。

しかし、もう一つのことがあります。それが11節の御言葉です。「もし蛇がまじないにかからず、かみつくならば、それは蛇使いに何の益にもならない。」どういうことでしょうか。口語訳には「蛇がもし呪文をかけられる前に、かみつけば、蛇使いは益がない。」と訳されています。ここでは物事を行うタイミングの重要性を教えています。蛇に呪文をかける前に蛇がかみつけば、蛇使いの存在価値はなくなってしまいます。そのように、成すべきこととその方法を知っていても、タイミングを逃すなら、その人は何の役にも立ちません。これが知恵です。

知恵は、人を成功させるのに益になります。少しの愚かさがすべてを台無しにします。どのように人を見るかによって、その結果も違ってきます。私たちの日常生活でも常に危険が潜んでいます。そのような人生の中で成功に導くのは神の知恵です。斧が鈍くなったら、刃を研がなければなりません。もし蛇がまじないをかけられる前に、かみつけば、蛇使いに何の益にもならないのです。自分に与えられた賜物を磨き、開発する知恵も求められます。またそのタイミングを見極める知恵も必要です。知恵は人を成功させるのに益になります。私たちは矛盾したこの世に生きていますが、この神の知恵によって、最後まで信仰を貫き、忠実に主にお従いしたいと思います。

知恵は力にまさる 伝道者の書9章11~18節

2021年2月14日(日)礼拝メッセージ

聖書箇所:伝道者の書9章11~18節(旧約P1150)

タイトル:「知恵は力にまさる」

 今日は、9章後半の箇所から「知恵は力にまさる」というタイトルでお話しします。前回の9章前半のところで伝道者は、すべての人に臨む死の問題を取り上げ、すべての人が死人のところに行くのであれば、生きていることに何の意味もないのではないかと問いかける中で、しかし、人には拠り所があることに気付かされます。生きている犬は死んだ獅子にまさるのです。どんなに偉大なライオンであっても死んでしまったら何の力もないように、生きていること自体に意味があります。生きている限りまだ望みがあるのです。救い主を信じて永遠のいのちを持つことができます。そして、その神のいのち、神の与えてくださる一つ一つの恵みを楽しむことができるのです。どんな恵みですか。それはパンやぶどう酒といった日ごとの糧もそうですし、ここには「あなたの愛する妻と生活を楽しむのがよい」とありますが、それぞれの伴侶もまた、神が与えてくださった恵みなのです。だからあなたはいつも白い衣を着よ、頭には油を絶やしてはならない、とあるのです(9:8)。「白い衣」とは祭りの装いのことでしたね。油は喜びの象徴です。ですから、私たちに与えられたこの地上でのいのちの日の間に救い主イエス・キリストを信じ、神が与えてくださった一つ一つの恵みを楽しめばいいのです。

今日はその続きです。伝道者が再び、日の下で行われていることを見て、その不条理に空しさを感じるわけですが、その中で知恵について三つのことを見出します。第一に、すべてのことに神の時があるということです。しかも、人は自分の時を知らないのです。であれば、その時を支配しておられる神にすべてをゆだね、たとえ問題にぶつかったとしても、神に信頼して祈るべきです。第二に、知恵は力にまさりますが、その知恵さえ蔑まれることがあるということです。その知恵とはだれのことでしょうか。イエス・キリストです。キリストは、私たちを敵の攻撃から守り、滅びから逃れるために十字架に掛かって死んでくださったにもかかわらず、人々はこのキリストの愛を受け入れず、信じることもせず、自分勝手な道に進みました。貧しい者の知恵は蔑まれ、その人のことばは聞かれないのです。しかし、十字架のことばは、滅びる人たちには愚かであっても、救われる私たちには神の力です。(Ⅰコリント1:18)ですから、第三のことは、この十字架のことばに信頼し、このことばに従いましょう、ということです。知恵のある者の静かなことばは、愚かな者の支配者の叫びよりもよく聞かれるのです。

Ⅰ.人は自分の時を知らない(11-12)

 まず、11~12節をご覧ください。「私は再び、日の下を見た。競走は足の速い人のものではなく、戦いは勇士のものではない。パンは知恵のある人のものではなく、富は悟りのある人のものではなく、愛顧は知識のある人のものではない。すべての人が時と機会に出会うからだ。しかも、人は自分の時を知らない。悪い網にかかった魚のように、罠にかかった鳥のように、人の子らも、わざわいの時が突然彼らを襲うと罠にかかる。」

伝道者が再び日の下を見ると、そこにもう一つの不条理があるのを見ました。それは、競争は足の速い人のものではなく、戦いは勇士の者でもない。パンは知恵のある人のものではなく、富は悟りのある人のものではなく、愛顧は知識のある人のものではない、ということです。

「競争は足の速い人のものではなく」そうですね、足が速い人が、必ずしも競争に勝つかというとそうでもありません。今年の7月に延期になった東京オリンピック、開催されるかどうか微妙な状況ですが、たとえば、世界記録を持っているアスリートがオリンピックで必ずしも金メダルをとれるかというとそうとは限りません。思わぬハプニングが生じることがあるからです。

「戦いは勇士のものではない。」それでは、勇敢な兵士がいれば戦いに勝てるのかというと、そうでもありません。私は大河ドラマが好きでよく観ていますが、前回は「麒麟が来る」の最終回でした。戦国時代の武将たちを見ると、必ずしも力のある武将が天下を取ったかというとそうではありません。たとえば、武田信玄はその一人でしょう。「三方ヶ原(みかたがはら)の戦い」で、徳川軍を撃破すると、いよいよ織田信長の本拠地・尾張に攻め入ろうとした時、持病が悪化し、やむなく撤退を決めます。1572(元亀3年)年4月、武田信玄は病気が回復することなく、甲斐へ戻る途上で53歳の生涯を閉じました。戦国最強と謳われ、天下の織田信長を恐れさせながらも、天下を取ることは叶いませんでした。あの時、武田信玄が病気にならなかったら、歴史は代わっていたかもしれません。

「パンは知恵のある人のものではなく、富は悟りのある人のものではなく、愛顧は知恵のある人のものではない。」そうですよね、知恵があるからといって、裕福になるわけではないし、悟りがあるからといって、事業に成功するわけでもありません。「愛顧」とは、口語訳では「恵み」と訳しています。新共同訳では「好意」と訳していますね。「知識があるといって好意をもたれるのでもない。」と。そうですね、知恵があれば好意を持たれるかというとそうでもなく、逆に煙たがれることもあります。

いったいどうしてこのようなことが起こるのでしょうか。伝道者はその理由を次のように述べています。「すべての人が時と機会に出会うからだ」。どういうことでしょうか。すべての人が時と機会に出会うからだとは。これはすでに3章で言われてきたことです。3章1節に「すべてのことには定まった時期があり、天の下のすべての営みには時がある。」とあります。たとえば、生まれるのに時があり、死ぬのに時があります。植えるのに時があり、植えた物を抜くのに時があります。この時と機会に恵まれなければ、成功することはできません。どんなに力があっても、どんなに知恵や悟りがあっても、必ずしも成功するとは限らないのです。問題は、人は自分の時を知らないということです。12節には、「しかも、人は自分の時を知らない」とあります。残念ながら、人はその時を知りません。魚が網にかかるように、また、鳥が罠にかかるように、人の子らにも、突如として試練や不幸が襲いかかることがあるのです。そのようにして人はわざわいの時に捕らえられ、最後は死を迎えることになります。それはあんまりではありませんか。しかし、それが私たちの人生なのです。であれば、私たちはそのような不確かな世界にあってどのように生きれば良いのでしょうか。この時と機会を支配しておられる神に信頼し、すべてを神にゆだねて祈るべきです。

私たちクリスチャンは、神の許しなしには何も起こらないと信じています。また、神の愛に応答して全力で生きることが、神に喜ばれることであることも知っています。ですから、この神の主権を認め、神を恐れて生きればいいのです。そうすれば、何も恐れることはありません。すべての出来事は神の御手、神の摂理の中で起こりますが、神はすべての出来事の中に働いて益としてくださるからです。すべてを神にゆだね、神のみこころを求めて祈るならば、すべてのことが自分にとって最善となるのです。

主イエスは弟子たちを伝道に遣わされる際に、そこで遭遇するであろう様々な迫害に対して、どのように対処したらよいかを次のように教えられました。マタイ10章28~33節です。

「からだを殺しても、たましいを殺せない者たちを恐れてはいけません。むしろ、たましいもからだもゲヘナで滅ぼすことができる方を恐れなさい。二羽の雀は一アサリオンで売られているではありませんか。そんな雀の一羽でさえ、あなたがたの父の許しなしに地に落ちることはありません。あなたがたの髪の毛さえも、すべて数えられています。ですから恐れてはいけません。あなたがたは多くの雀よりも価値があるのです。ですから、だれでも人々の前でわたしを認めるなら、わたしも、天におられるわたしの父の前でその人を認めます。しかし、人々の前でわたしを知らないと言う者は、わたしも、天におられるわたしの父の前で、その人を知らないと言います。」(マタイ10:28-33)

有名なみことばですね、「そんな雀の一羽でさえ」。そんな雀の一羽でさえ、神の許しなしに地に落ちることはありません。そんな雀とはどんな雀なのかというと、ここに、二羽の雀が一アサリオンで売られているではありませんか、とありますね。一アサリオンというのはお金の単位ですが、当時の労働者の一日の賃金相当の額でした。そうですね、仮に時給1,000円とすると一日8,000円ですが、この十六分の一ですから、500円ということになります。そうすると一羽の雀の値段はその半分となりますから250円なのですが、そもそも雀は一羽では売りものにならないのです。二羽セットにしないと商品価値がありませんでした。「一羽の雀」とはそのように値がつかないくらい安いもの、価値の低いものを表しています。そんな一羽の雀でも、「あなたがたの父のお許しがなければ、地に落ちることはない」とイエス様はおっしゃったのです。つまり天の父である神様は、一羽では売り物にならないような全く無価値な雀でさえ、見守っておられ、心に留めておられるのです。であれば、勧めよりも価値があるあなたのために、神が何もしてくださらないということがあるでしょうか。私たちは自分のことを、全く価値がないとか、無力な者だと思っているかもしれません。自分の周囲には、立派な人がたくさんいて、あれも出来る、これも出来ると、いろいろな意味で恵まれている人が沢山いるのに、自分はその人たちに比べて何も出来ない、何もとりえがないと思っているかもしれない。あるいは、以前は自分もあれも出来たのにこれも出来たのに、社会の中である地位や役割を持っていたのに、年を取ってきて、あるいは病気になってしまったために、その地位や役割を失ってしまった、社会の人々の役に立たない者、むしろ迷惑をかける者になってしまったと思っている人もいるかもしれません。自分なんていなくなった方が世の中のためなのではないかと思っているかもしれません。私たちはそのように自分に自信が持てなくなり、無力感に苛まれ、生きている価値がないように思ってしまうことがあります。そういう私たちにイエス様はここで、神は一羽の雀さえも心に留め、見守っておられると言われたのです。

それは雀だけではありません。あなたの髪の毛のことも考えてみなさい、というわけです。30節には「あなたがたの髪の毛さえも、すべて数えられています」とあります。一本残らず数えられているのです。私たちは自分の髪の毛の数などありません。数えきれないのです。「ああ、また抜けたなぁ」とか、「大分少なくなってきたなあ」ということくらいはわかりますが、何本あるかなんて数えられません。しかし、神様はその数まで数えておられるというのです。つまり、私たちが自分のことを分かっていると思っている以上に神様は私たちのすべてのことを知っておられるということです。それだけしっかりと私たちのことを見ておられ、関心を持っておられ、私たちに関わろうとしておられるのです。だから、恐れることはないのです。問題は、あなたがこのすべてを支配しておられる神を認め、神を恐れて生きているかということです。あなたがこの神を認めるなら、神によってあなたも認められます。しかし、もし認めないなら、神に認められることもありません。人生の不条理の人生の中で神を恨み、人生を呪い、不平不満を言いながら生きるのではなく、神を認め、すべてを神にゆだね、神のみこころを求めて祈るべきです。そうすれば、すべてのことがあなたにとって最善となるのです。信じますか。

2014年10月号のリビングライフの中に、こんな証が載っています。白血病で闘病中の子どもがいました。その子の親はイエス様を信じていませんでした。ある日、教会学校の教師が子どもたちに「神様に送る手紙」を書かせました。そして子どもたちに「神様が住んでいるところは住所がなくて配達できないから、私が預かっておいて後から渡しますね」と伝えました。2,3年後、結婚して家の整理をしていたその教師は、子どもたちの手紙を見つけました。その中に、白血病を患って亡くなってしまったその子の手紙もありました。そこにはこのように書かれてありました。

「神様、ぼくは今、本当に痛くて死にそうです。でも、ぼくは自分よりもお父さんの方がかわいそうです。ぼくのせいで毎日やけ酒ばかり飲んでいるからです。ぼくは死んだら天国に行くけれど、お父さんはイエス様を信じていないので天国に行けません。神様!お父さんがイエス様に出会って救われて天国に行けますように。」

教師は子どもの家を探してその手紙を父親に渡しました。死んだ息子の手紙を、涙を流しながら読んでいた父親は、その場にひざまずいて叫びました。「神様、私を赦してください。あの子は今頃天国で私のために祈っているはずです。父である私が信じて救われてこそ、あの子の祈りが答えられるのではないでしょうか。私は、イエス様を信じます。」驚くべき救いのみわざが成し遂げられたのです。(リビングライフ、2014年10月号、P95「ついに答えられた祈り」)

私たちも様々な問題にぶつかることがあります。どうしてこのようなことが起こるのかわからないというような出来事に遭遇します。しかし、それがどういうことなのかがわからなくても、神はすべてをご存知であられます。すべてのことには定まった神の時があり、天の下のすべての営みには神の時があります。この神の主権を認め、すべてを神にゆだねて祈るとき、神があなたの人生にご介入くださり、ご自身のみわざをなさってくださいます。そう信じて、神に祈り続けましょう。

Ⅱ.知恵は力にまさる(13-16)

次に、13~16節までをご覧ください。「私はまた、知恵について、日の下でこのようなことを見た。それは私にとって大きなことであった。わずかの人々が住む小さな町があった。そこに大王が攻めて来て包囲し、それに対して大きな土塁を築いた。その町に、貧しい一人の知恵ある者がいて、自分の知恵を用いてその町を救った。しかし、だれもその貧しい人を記憶にとどめなかった。私は言う。「知恵は力にまさる。しかし、貧しい者の知恵は蔑まれ、その人のことばは聞かれない」と。」

伝道者はまた、知恵について、日の下でもう一つの不条理を見ました。それは彼にとって大きなことでした。それはどんなことかというと、わずかな人々が住む小さな町がありましたが、そこに強大な王、大王が攻めて来て包囲し、それに対して大きな土塁を築いたのです。土塁とは、敵や動物などの侵入を防ぐために築かれる防壁のことです。砦ですね。普通は攻めてくる敵の侵入を防ぐために築かれるものですが、ここでは逆に、その町を攻めるために築かれました。ですから、城壁を破って町に侵入するのも時間の問題です。

すると、その町に、一人の貧しい知恵のある者がいて、自分の知恵を用いてその町を救いました。それで彼は町の英雄になりましたが、だれもその人のことを記憶にとどめておくことはありませんでした。彼の存在は完全に忘れられてしまったのです。

それを見た伝道者は、こう言って嘆きます。16節、「私は言う。「知恵は力にまさる。しかし、貧しい者の知恵は蔑まれ、その人のことばは聞かれない」と。」どういうことでしょうか。

確かに、知恵は力にまさります。敵の攻撃から救い出す力があります。聖書は知恵の宝庫ですから、聖書からの知恵によって危機を脱出したという例がたくさん聞きます。しかし、その知恵がやがて蔑まれるようになり、だれにも顧みられなくなることがあるのです。そして、やがて忘れられてしまいます。つまり、知恵が無力に感じられことがあるというのです。

これは、私たちの信仰にも言えることではないでしょうか。この貧しい一人の知恵ある者ですが、これをイエス様に置き換えることがいます。だれですか?悪魔です。悪魔は、小さな町である私たちを攻め立てる大王です。そこに砦を築いて攻撃してくるので、私たちの力ではどうすることもできません。

しかし、その町にいる貧しい一人の知恵者が、その知恵を用いてその町を救ってくださいました。それが救い主イエス・キリストです。キリストは、私たちを敵の攻撃から守り、滅びから逃れる道を用意してくださいました。それが十字架のみわざです。神はキリストの十字架のみわざを通して、私たちを罪から救う道を用意してくださいました。にもかかわらず、多くの人はこの十字架のことばを受け入れず、キリストを信じることもせず、自分勝手な道に進んで行ってしまいました。貧しい者の知恵は蔑まれ、その人のことばは聞かれないのです。しかし、「十字架のことばは、滅びる者たちには愚かであっても、救われる私たちには神の力です。」(Ⅰコリント1:18)。

神はこの十字架のことばを通して、信じる人を救おうとされました。ユダヤ人はしるしを要求し、ギリシャ人は知恵を追及しますが、私たちは十字架につけられたキリストを宣べ伝えます。ユダヤ人にとってはつまずき、異邦人にとっては愚かであっても、召された者たちにとってキリストは、神の力、神の知恵なのです。神の愚かさは人よりも賢く、神の弱さは人よりも強いからです。それゆえ、キリストのことば、十字架のことばを受け入れ、キリストを通して父なる神に感謝をささげる人こそ幸いな人なのです。

あなたは、この貧しい人の知恵のことばを聞いていますか。そのことばを受け入れているでしょうか。その知恵のことば、十字架のことばに生きていますか。私たちは忘れっぽい者です。すぐに忘れてしまいます。しかし、私たちの人生で多くのことを忘れても、このことだけは忘れないでください。十字架のことばは、滅びる人たちにとっては愚かであっても、救われる私たちには神の力なのです。

 Ⅲ.知恵は武器にまさる(17-18)

 第三に、17~18節までをご覧ください。「知恵のある者の静かなことばは、愚かな者の間での支配者の叫びよりもよく聞かれる。知恵は武器にまさり、一人の罪人は多くの良いことを打ち壊す。」

 貧しい者の知恵は無視されたり、軽視されたり、忘れられたりしますが、それでも価値があります。ここには、「知恵のある者の静かなことばは、愚かな者の間で支配者の叫びよりも、よく聞かれる」とあります。愚かな権力者たちが大声で叫ぶよりも、知恵ある者が静かに語ることばの方が良く聞かれるのです。より力があるというのです。

例えば、Ⅰサムエル記を見ると、アビガイルという一人の女性が登場します。彼女はナバルという人の妻でした。ナバルはカルメルという所で事業をしていて、非常に裕福で、羊三千匹、やぎ千匹を持っていましたが、彼はその名のごとく「愚か者」でした。それで、そのすべての財を失いかけますが、その危機から救ったのが妻のアビガイルでした。

 ある日のこと、ダビデは彼のもとに10人の若者を遣わして、何か手もとにある物を与えてほしいと頼みました。長きにわたる放浪生活で食べ物がなく困窮していたのです。しかし、ナバルの答えはダビデの期待を裏切るというか、その気持ちを逆なでするようなものでした。彼はその若者たちに「ダビデとは何者だ。エッサイの子とは何者だ。このごろは、主人のところから脱走する家来が多くなっている。私のパンと水、それに羊の毛を刈る者たちのために屠った肉を取って、どこから来たかもわからない者どもに、くれてやらなければならないのか。」(Ⅰサムエル25:10-11)と大口をたたいてダビデの要請をきっぱりと断ったのです。

それを聞いたダビデは激怒し、部下たちに「各自、自分の剣を帯よ。」と命じ、ただちにナバル討伐に向かいました。すると、その出来事を聞いた妻のアビガイルは、多くの食べ物をもってダビデのもとに出で生き、ダビデの足もとに触れ伏してこう言いました。

「ご主人様、あの責めは私にあります。どうか、はしためが、じかに申し上げることをお許しください。このはしためのことばをお聞きください。ご主人様、どうか、あのよこしまな者、ナバルのことなど気にかけないでください。あの者は名のとおりの男ですから。彼の名はナバルで、そのとおりの愚か者です。はしための私は、ご主人様がお遣わしになった若者たちに会ってはおりません。ご主人様。今、主は生きておられます。あなたのたましいも生きておられます。主は、あなたが血を流しに行かれるのを止め、ご自分の手で復讐なさることを止められました。あなたの敵、ご主人様に対して害を加えようとする者どもが、ナバルのようになりますように。今、はしためが、ご主人様に持って参りましたこの贈り物を、ご主人様につき従う若者たちにお与えください。どうか、はしための背きをお赦しください。主は必ず、ご主人様のために、確かな家をお建てになるでしょう。ご主人様は主の戦いを戦っておられるのですから。あなたのうちには、一生の間、悪が見出されてはなりません。人があなたを追って、いのちを狙おうとしても、ご主人様のいのちは、あなたの神、主によって、いのちの袋にしまわれています。あなたの敵のいのちは、主が石投げのくぼみに入れて投げつけられるでしょう。主が、ご主人様について約束なさったすべての良いことをあなたに成し遂げ、あなたをイスラエルの君主に任じられたとき、理由もなく血を流したり、ご主人様自身で復讐したりされたことが、つまずきとなり、ご主人様の心の妨げとなりませんように。主がご主人様を栄えさせてくださったら、このはしためを思い出してください。」(Ⅰサムエル25:24-31)

彼女は自分の罪を認めて告白した上で、その罪を赦してほしいと懇願しました。また、自分がダビデのもとに来たことで、ダビデが自分の手で復讐することを主が止められたのだと告げ、その主が復讐してくださるようにと祈ったのです。それなのに、もしダビデがナバルと戦うというのであればそれは単なる復讐にすぎず、ダビデの名を汚すことになるので、そういうことをせず、主がダビデを栄えさせてくださるようにと祈ったのです。

これは、感情的になっていたダビデにとっては最善のアドバイスでした。もしダビデが感情的になってナバルを攻撃していたとすれば、彼の人生にとって大きな汚点となっていたことでしょう。ですから、アビガイルのことばは、そんなダビデを悪からから救ったといっても過言ではありません。

それでダビデは、イスラエルの神をほめたたえ、ナバル討伐をやめました。そして、アビガイルが持って来た贈り物を受け取り、彼女の願いのすべてを聞き届けたのです。ダビデはこのアビガイルと出会わせてくださった神をほめたたえ、神に感謝しました。そして、その後、主がナバルを打たれたので彼は死に、アビガイルはダビデの妻になりましたが、本当に聡明な女性です。彼女の知恵によって、ナバルの家だけでなく、ダビデ自身も罪を犯すことがないように守られたのですから。その忠告に耳を傾けたダビデもさすがですが、その忠告をダビデにしたアビガイルは実に知恵のある賢明な人でした。知恵のある者の静かなことばは、愚かな者の間での支配者の叫びよりも力があるのです。

 一方、一人の罪人は多くの良いことを打ち壊します。知恵は武器にまさりますが、一人の愚か者によってすべてのものがぶち壊されることがあるのです。例えば、今のアビガイルの例で言うなら、ナバルはそうでしょう。「ダビデとは何者だ」と大口をたたいて、すべてをぶち壊そうとしました。

それは、10章1節に出てくる死んだハエと同じです。10章1節に「死んだハエは、調香師の香油を臭くし、腐らせる。少しの愚かさは、知恵や栄誉よりも重い。」とあります。10章からは、その知恵ある者と愚かな者が対比されて語られていきますが、この愚かな者の言動がどのような影響を及ぼすのかを、死んだハエにたとえているのです。調香師が調合した香油には、高価な価値があります。しかし、そこに一匹のハエが飛び込んで来て、死んだとしたらどうでしょうか。すべてが台無しになってしまいます。香油は異臭を放ち、腐らせます。そんな香油を使いたいでしょうか。たった一匹のハエが香油全体をダメにするのです。ナバルの言動とは、まさにこの死んだハエのようでした。

 しかし、知恵のある者の静かなことばは、愚かな者の間で支配者の叫びよりも、よく聞かれます。知恵は武器にまさり、一人の罪人は多くの良いことを打ち壊す。私たちは愚かな人の叫びではなく、静かに聞こえる知恵ある者のことば、キリストのことばを心に刻まなければなりません。ひとりの知恵ある者が町を救ったのとは反対に、ひとりの罪人が共同体を壊すことがあります。私たちはこのような愚かな者にならないように、いつも悪魔の声、この世の声に警戒しなければなりません。そして、キリストのことばを心に蓄え、神の知恵、真理のことばによって共同体を建て上げる者でありたいと思います。この知恵によって歩む一人一人に、神の力、神の祝福が豊かにありますように。

神に会う備えをせよ 伝道者の書9章1~10節

2021年2月7日(日)礼拝メッセージ

聖書箇所:伝道者の書9章1~10節(旧約P1149)

タイトル:「神に会う備えをせよ」

 伝道者の書9章に入ります。今日は、9章前半の箇所から「神に会う備えをせよ」というタイトルでお話しします。伝道者ソロモンは、日の下で行われる一切のわざを見て、こう結論しました。8章17節です。「すべては神のみわざであることがわかった。人は日の下で行われるみわざを見極めることはできない。人は労苦して探し求めて、見出すことはない。知恵のある者が死っていると思っても、見極めることはできない。」

 ただ確かなことは、すべてのことが、すべての人に同じように起こるということです。正しい人も正しくない人も、みな死人のところに行きます。では、私たちの人生には、いったいどんな意味があるというのでしょうか。今日のところで伝道者はこう言います。4節、「しかし、人には拠り所がある。」生きている犬は死んだ獅子にまさっています。生きている限り、拠り所、希望があります。救い主イエス・キリストを信じ、永遠のいのちを得るという希望があるのです。だから、生きているってすばらしいことなのです。その主イエスを信じて、神によって与えられた一つ一つの恵みに感謝して生きることができます。あなたは、その救いを得ているでしょうか。神に会う備えができているでしょうか。

Ⅰ.死は終わりではない(1-3)

 まず、1~3節をご覧ください。「まことに、私はこの一切を心に留め、このことすべてを調べた。正しい人も、知恵のある者も、彼らの働きも、神の御手の中にある。彼らの前にあるすべてのものが、それが愛なのか、憎しみなのか、人には分からない。すべてのことは、すべての人に同じように起こる。同じ結末が、正しい人にも、悪しき者にも、善人にも、きよい人にも、汚れた人にも、いけにえを献げる人にも、いけにえを献げない人にも来る。善人にも、罪人にも同様で、誓う者にも、誓うのを恐れる者にも同様だ。日の下で行われることすべてのうちで最も悪いことは、同じ結末がすべての人に臨むということ。そのうえ、人の子らの心が悪に満ち、生きている間は彼らの心に狂気があり、その後で死人のところに行くということだ。」

1節の「この一切」とか、「このことすべて」とは、8章9節にある「日の下で行われる一切のわざ」のことです。すなわち、この地上で行われるすべてのことであります。伝道者は、そのすべてを見て、心を注いだわけですが、その結果分かったことは何かというと、8章17節にあることでした。つまり、すべては神のみわざであるということ、そして、人は日の下で行われる神のみわざを見極めることはできないということです。どんなに労苦して探し求めても、どんなに知恵のある者が知っていると思っても、それを見極めることはできません。正しい人も、知恵のある人も、彼らの働きのすべてが神の御手の中にあるからです。それが愛から出ているのか、憎しみから出ているのかも、人には分かりません。

2節をご覧ください。すべてのことは、すべての人に同じように起こります。私たちの人生で最も不可解なことは、正しい人にも、正しくない人にも、善人にも、きよい人にも、信仰者も、不信仰者も、神に誓う人にも、誓うのを恐れる人にも、すべての人が同じ結末を迎えるということです。同じ結末とは何でしょうか。人はみな死ぬということです。死はすべての人にやって来ます、100パーセントの確立で。すべての人が死んで墓に葬られることになるのです。悪者が死んで墓に入るというのならわかりますが、正しい者も同じように死んで墓に入るというのは納得できません。このようにすべての人が同じ結末を迎えるならどういうことになるでしょうか。3節を見てくたさい。3節には、「人の子らの心が悪に満ち、生きている間は彼らの心に狂気があり」とあります。どうせ死ぬのだから、自分の好きなように生きればいい、ということになります。良いことをしようが、悪いことをしようが関係ありません。悪いことをしても別に何も変わらないのなら、自分の心の赴くままにすればいいと、人の心がますます悪に傾くようになるのです。これは空しいことです。なぜなら、私たちの人生は、死は終わりではないからです。日の上でのいのち、死後のいのちが神によって用意されているからです。

皆さんは、「ヒアアフター」という映画をご存知でしょうか。この映画は、死を身近で体験した3人の登場人物が、それぞれアメリカ、フランス、イギリスに住んでいるのですが、死後と向き合いながら生きていく中で、やがて一つにつながっていくという物語です。周りの人々は、「死後の世界があるなら誰かが証明しているはずだ!」と本気にしないのですが、死を身近に体験した人たちにとってはそうではありません。それが生と向き合うきっかけとなり、その生き方に大きな影響を及ぼすことになるのです。

米国の伝道者にスタンレー・ジョーンズ(1884-1973)という人がいましたが、彼はよく次の伝道地に向かう汽車の中で説教の準備をしていたと言われています。しかし、長いトンネルの中に入るとトンネルと周りの人々の騒々しい声が耳にささって、説教づくりを妨害するのです。以前から他の乗客の騒音でイライラしていた彼は、ついに我慢しきりなくなり怒鳴ろうとした時、期待にふくらんだ一人の少年の声を聞くのです。

「見て、見て、お母さん。ほら、明日だよ。」

少年がそう叫んだのは、暗くて長いトンネルを出て、太陽がまぶしく輝く世界を目にしたからでした。

死の向こう側にあるものを見ることができる人は幸いです。私たちの人生はこの地上だけで終わるものではありません。すべての人生の終着駅は死ですが、死には二種類あるのです。一つは「信じる者の死」で、もう一つは「信じない者の死」です。信じる者の死は、主イエスを信じて罪の赦しと永遠のいのちを受け、永遠の御国に入る門であり、「信じない者」の死は、永遠の滅びに入る門、地獄の門です。私たちはどちらの死を迎えるのかを選択しなければなりません。

Ⅱ.神に会う備えをせよ(4-6)

次に、4~6節までをご覧ください。すべての人が同じ結末を迎えるのであれば、生きていることにどんな意味があるというのでしょうか。「しかし、人には拠り所がある。生ける者すべてのうちに数えられている者には。生きている犬は死んだ獅子にまさるのだ。生きている者は自分が死ぬことを知っているが、死んだ者は何も知らない。彼らには、もはや何の報いもなく、まことに呼び名さえも忘れられる。彼らの愛も憎しみも、ねたみもすでに消え失せ、日の下で行われることすべてにおいて、彼らには、もはや永遠に受ける分はない。」

「しかし、人には拠り所がある」何ですか、「拠り所」とは?新改訳第三版では「希望」と訳しています。「すべて生きている者に連なっている者には希望がある」つまり、人は死んだら終わりですが、生きている限り、何かしらの希望があるということです。そのことをわかりやすく伝えるために用いているたとえが、その後に出てくる、生きている犬と死んだ獅子の話です。「生きている犬は死んだ獅子にまさるのだ」どういうことでしょうか。ここでは犬と獅子が対比されています。犬は最も劣った動物で、獅子は最も優れた動物であるという意味で対比されているのです。そんな犬でも、生きている限り、死んだライオンよりもまさっています。また、5節にあるように、生きている者は自分が死ぬことを知っていますが、死んだ者は何も知りません。生きているだけでましだということです。さらに、5節の後半には「彼らには、もはや何の報いもなく、まことに呼び名さえも忘れられる」とあります。死んでしまえば、もはや何の報いを受けることもなければ、その名前すら忘れられてしまいます。この地上での憎悪やみたみも消えうせ、この地上で起こることには全く関係が無くなってしまうのです。

しかし、これは、人は死ぬと眠りにつき意識がなくなるということを教えているのではありません。これまで何度も見てきたように、伝道者は「日の下」で行われているすべてのことを観察して、そのように語っているのです。すなわち、神様なしの、神様抜きの、人間の知恵と論理によって人生を観るならこうなるということです。つまり、聖書を持たない知者が、世界について、人生について、哲学的に思索を重ねると、このような結論に到達するということです。

しかし、このような人間的な思索の中でも、生きている限り希望があります。人は死ねば、神のさばきの前に立つ日が例外なくやって来ますが、生きている限り、そのことに備えてイエス・キリストを信じ、永遠のいのちを得る機会があるからです。しかし、死んだ者には何の望みもありません。

ある人たちは、Ⅰペテロ3章18~20節から、死んでからでも救われるチャンスがあると主張しています。いわゆるセカンドチャンス論です。そこにはこうあります。「キリストも一度、罪のために苦しみを受けられました。正しい方が正しくない者たちの身代わりになられたのです。それは、肉においては死に渡され、霊においては生かされて、あなたがたを神に導くためでした。その霊においてキリストは、捕らわれている霊たちのところに行って宣言されました。かつてノアの時代に、箱舟が造られていた間、神が忍耐して待っておられたときに従わなかった霊たちにです。その箱舟に入ったわずかの人たち、すなわち八人は、水を通って救われました。」

この「キリストは、捕らわれている霊たちのところに行って宣言されました。かつてノアの時代に、箱舟が造られていた間、神が忍耐して待っておられたときに従わなかった霊たちにです。」という言葉ですが、キリストは、よみに下り、囚われている人たちの霊のところに行って福音を宣べ伝えられた、と考えるのです。それはノアの時代に、箱舟を作られていた間に、神が忍耐して待っておられたときに従わなかった霊たちのところです。しかし、これはそういう意味ではありません。確かにキリストは十字架で死なれ、よみに下って行かれ、キリストの福音を信じなかった人たち、すなわち、捕われの霊たちのところへ行って神のことばを語られましたが、それは救いのことばではなく、さばきのことばでした。さばきの宣言だったのです。聖書は一貫して、死んでからも救われるチャンスがあるなどとは語っていません。聖書が言っていることは、人は死んだら神のさばきがあるということです。へブル9章27節にこうあります。「そして、人間には、一度死ぬことと死後にさばきを受けることが定まっているように、」

つまり、人は100%の確率で誰もが死んで行きますが、同じように死後神の前に立ち、神の裁きを受けるようになることも100%であるということです。死後に救われるチャンスがあるのではなく、死後にさばきを受けるのです。であれば、生きているうちに、この神のさばきに備えなければなりません。死んでからでは遅いのです。生きているから希望があるのです。拠り所があります。死んだ者は何も知りません。

クリスチャン音楽家の森繁昇さんが、「君は死んでゆく。用意はできてるか? Ready To Die」という歌を歌っておられます。もうかなり前になりますが、初めて聞いたときドキッとしました。人は死ぬということをストレートに歌っているからです。どうぞ心を準備してお聞きください。いいだすか、心の準備は出来ましたか?

おじいちゃんが死ぬ。おばあちゃんが死ぬ。 父さんが死に、母さんが死に、兄さん、姉さんも。

弟が死ぬ。 妹が死ぬ。 妻に夫、奥さん、主人に、ポチもタマも死ぬ。

息子が死ぬ。 娘が死ぬ。 嫁が死に、婿が死に、孫に曽孫も。

おじさんが死ぬ。おばさんが死ぬ。いとこにはとこ、甥も姪も、義理の父も母も死ぬ。

 「死ぬんだなんて嫌な気持ち、そんな話は聞きたかないよ!」

できるだけ考えないようにしている内に、 自分が死ぬっていう事を、忘れてしまうのさ、

目を覚ませ! 君は死んでゆく。用意はできてるか?

街で死ぬ。 村で死ぬ。山で、川で、海で、畑で、そこらじゅうで死ぬ。

病院で死ぬ。 自分の家で死ぬ。 台所か、居間か、風呂か、トイレか、玄関先で死ぬ。

金持ちが死ぬ。貧乏人が死ぬ。知ってる人が、知らない人が、友達が死ぬ。

有名人が死ぬ。 ホームレスが死ぬ。 朝でも、昼でも、夕暮れ時でも、真夜中でも死ぬ。

あの人だけが死ぬんじゃないよ。 この人だけが死ぬんじゃないよ。

他の人だけが死ぬんじゃないよ。君の番もくるからさ。

そんなに泣かなくてもいいさ、 涙や悲しみを無駄にしなくても。

君は死んでゆく。用意はできてるか?

交通事故で死ぬ。 飛行機事故で死ぬ。病気の人も、元気な人も、思いがけなく、死ぬ。

戦争で死ぬ。 自殺して死ぬ。撃たれて、刺されて、締めれて、叩かれ、殺人犯も死ぬ。

歩いてて死ぬ。走ってて死ぬ。働いていて、遊んでいて、ブラブラしていて、死ぬ。

がんばる人も、がんばらない人も年寄り、若者、子供に 赤ちゃん 生まれる前に死ぬ
ちょうど車にはねられて死んだ犬が 何度もひかれているうちに だんだん乾いてきてついには埃となって 完全に吹き飛ばされて無くなるように人も死に至るのさ 

君は死んでいく用意はできてるか

笑ってる人が死ぬ 泣いてる人も死ぬ 親切な人 いじわるな人 ガッツのある人も
怒りっぽい人も 優しい人も 威張っている人 だましている人 だまされている人も

会長が死ぬ 社長が死ぬ 専務に常務、部長に次長に課長に係長。

新入社員が死ぬ。サラリーマン全部死ぬ。政治家、先生、警察、お医者、葬儀屋も、死ぬ。

たとえ人が世界を全部、自分のものとしても、何になろう? もし、永遠のいのちを損じたら。

しかし、創造主の愛をもらう者が、死んでもまた、生きるのなら、

誰がこの話を聞き捨てに出来ようか?

創造主に罪を赦される者が、死んでもまた、生きるのなら、誰がこの話を聞き捨てに出来ようか?

「死ぬんだなんて嫌な気持ち、そんな話は聞きたかないよ!」

できるだけ考えないようにしている内に、 自分が死ぬっていう事を、忘れてしまうのさ、

目を覚ませ! 君は死んでゆく。用意はできてるか?

君は死んでゆく。用意は、 君は死んでゆく。用意は、君は創造主に会う用意は、できてるか?

初めて聞いた方はドキッとしたのではないかと思いますが、福音のメッセージがストレートに語られているすばらしい歌ではないかと思います。だれも、自分が死ぬなんて考えられません。いや、考えたくありません。死んだら終わりだと思っているからです。でも、その先に希望があることがわかっていれば、それに備えて生きるのではないでしょうか。その希望こそイエス・キリストです。キリストは神の御子であられ、罪を犯したことがない方でしたが、私たち罪人を愛して、私たちの罪の刑罰を受けて十字架で死んでくださいました。それは、キリストを信じる者が一人として滅びることがなく、永遠のいのちを持つためです。この方を救い主と信じるなら、どんな人であっても罪に定められることがなく、天国に入ることができます。永遠のいのちを得ることができるのです。この曲の最後の方に、「君は創造主に会う用意は出来ているか」とありますが、これこそ、創造主に会うための用意です。あなたは、その用意ができているでしょうか。

旧約聖書の預言者アモスは、こう言いました。「それゆえイスラエルよ、わたしはあなたにこのようにする。わたしがあなたにこうするから、イスラエルよ、あなたの神に会う備えをせよ。」(アモス4:12)

あなたは、神に会う備えが出来ていますか。それは生きている時でなければできません。生きているなら希望があります。4節にあるように、生ける者すべてのうちに数えられている者には、拠り所がるのです。死んでからでは遅いです。生きているうちに、その備えをしてください。それこそ、あなたが生かされている最大の目的です。この世での一番の祝福は何ですか。それは、多くの富や権力を持つことではありません。救い主イエスを信じて永遠のいのちを持つことです。救い主イエスを見出し、人生の正しい目的を見つけること、それが一番の祝福なのです。

2月4日の世界宣教祈祷課題は、ナイジェリアのために祈る日でしたが、2018年2月19日、ナイジェリア北部ヨベ州ダプチの科学技術教育学校から110名の女生徒と共に誘拐され、ボコ・ハラムの囚われの身となってしまったキリスト者の少女レア・シャリブ姉妹の事件に言及されていました。

ボコ・ハラムによる学生誘拐事件は、国際世論の非難の的となっていて、ナイジェリア政府や国際世論の強い圧力もあって、1ヶ月後の3月24日には、104名の少女らが解放されました。ところが当時14歳で、キリスト教徒のレアは、自身の信仰を棄ててムスリムに改宗することを拒んだため、彼女ひとりが残されてしまったのです。

解放された学友によると、全員が解放されたあの日、レアもすべての少女と一緒に解放されるはずでした。ところがボコ・ハラムは、レアがトラックに乗る直前、キリスト教徒からムスリムに改宗するためのいくつかの儀式的宣言をするように彼女に要求しましたが、彼女は「私はイスラム教徒ではないので、決してそれは言えません」と拒んだのです。

すると、彼らは怒って「お前がキリストを冒涜しないなら、我々とともに残ってもらおう!」と脅したのですが、なおも彼女はその要求を拒否しました。他の学友らも――おそらくは一時的なポーズだけでも――レアに改宗するよう促したのですが、このわずか14歳の少女は、決して主を否んで裏切ることはしなかったのです。

彼女は、自分だけが解放されないことを悟ると急いで母親への手紙を書き、それを解放される友人の手に託しました。その時の手紙には次のように記されてありました。

「お母さん、どうか私のことで心配しないでください。お母さんは、私がいなくなって、とても辛い思いをしていると思うけど、何処にいても私はきっと大丈夫だと伝えたくて、急いでこの手紙を書きました。私の神様は、このような試みの中でもずっと御自身を現わしてくださっています。お母さんが朝のデボーションで『神様は苦しんでいる人々により近く寄り添って下さる』と教えてくれた言葉の通りです。私は今、それが真実だと証明することができます。いつの日か、きっとお母さんに再会できると信じています。私は今お母さんのそばにいなくても、主なるイエス・キリストの内にいます。」 

レアの学友らは走り出すトラックから、ひとり残された彼女が見えなくなるまで見つめ、泣きながらいつまでも手を振っていたと言います。

私は、レアのことを思うと、信仰とは何なのかを考えさせられます。たった14歳の少女がいのちがけで守ろうとしたもの、それはまことの命ではないかと思うのです。人命尊重、人命尊重、と連呼される昨今、この14歳の少女は「人の人生には命よりも大切なものがある」ことを強烈に投げかけてやめないのです。

 Ⅲ.神が与えてくださった恵みを楽しむ(7-10)

 では、生きている間、私たちはどのように過ごせばよいのでしょうか。7~10節までをご覧ください。「さあ、あなたのパンを楽しんで食べ、陽気にあなたのぶどう酒を飲め。神はすでに、あなたのわざを喜んでおられる。いつもあなたは白い衣を着よ。頭には油を絶やしてはならない。あなたの空しい人生の間、あなたの愛する妻と生活を楽しむがよい。彼女は、あなたの空しい日々の間、日の下であなたに与えられた者だ。それが、生きている間に、日の下でする労苦から受けるあなたの分なのだ。あなたの手がなし得ると分かったことはすべて、自分の力でそれをせよ。あなたが行こうとしているよみには、わざも道理も知識も知恵もないからだ。」

 7節には、「さあ、あなたのパンを楽しんで食べ、陽気にあなたのぶどう酒を飲め。神はすでに、あなたのわざを喜んでおられる。」とあります。伝道者はここで、神が与えてくださるものを楽しむことが最善の生き方であると言っています。神がそれを許しておられるのだから、日々の生活を楽しめばよいというのです。これは、いわゆる快楽に溺れろということではありません。日ごとの糧に感謝して、それを喜び楽しみなさい、ということです。

 8節には、「いつもあなたは白い衣を着よ。頭には油を絶やしてはならない。」とあります。「白い衣」とは祭りの装いのことだと言われています。頭に油を絶やしてはならないとは、油は聖書では人の心を喜ばせるものとありますから(箴言27:9)、神が与えてくださる恵みの中で、祭りのように楽しみ、喜ぶ人生を生きるようにということでしょう。

 そして、9節には「あなたの空しい人生の間、あなたの愛する妻と生活を楽しむがよい。彼女は、あなたの空しい日々の間、日の下であなたに与えられた者だ。」とあります。すなわち、結婚関係も最大限楽しむべきであるということです。尾山令仁先生は、これを「この地上でのむなしい人生においては、妻と生活を楽しむに越したことはない。それが、あなたがこの地上で生きている間、神があなたの労苦に対して創造主が与えてくださる恵みである。」と訳しています。その恵みを楽しむのがよいのです。結婚して何年も経つと、それが恵みであることも忘れて、自分のペースで勝手気ままに振る舞うことが多いですが、あなたの愛する妻と生活を楽しむのがよいのです。アーメン。一緒に聖書を読んだり、祈ったり、チョコレートをかけてカードゲームするのもいいでしょう。たまには一緒に出かけるのもいいですね。いつも出かけていると有り難さに欠けるので、たまに出かけるのがいいのです。いずれにせよ、あなたの愛する妻と生活を楽しむのがよい。これが神のことばです。

 また10節には、「あなたの手がなし得ると分かったことはすべて、自分の力でそれをせよ。」とあります。今、自分の手でできることは、全力を尽くしてやりなさい、ということです。「あなたが行こうとしているよみには、わざも道理も知識も知恵もないからだ。」死んでからでは、働くことも、計画することも、知恵も知識もないからです。つまり、仕事であっても、知恵であっても、知識であっても、生きている今の時に、自分の手でできることは、全力を尽くしてやりなさい、というのです。

私の友人の牧師に、路傍伝道ネットワークの代表をしておられる菅野直基という牧師先生がいらっしゃいますが、フェイスブックで「今日を最後の日として生きよう」というショートメッセージをされました。

「私たちの人生はたった一度だけです。時間には限りがあり、あっという間に過ぎていくもの、だから人生はおもしろい。明日があると思えば、今日出来る事を明日に先延ばししてしまうことがあります。この世が永遠に続くと思うなら、後でしようと、急いだってしょうがないんじゃないの、ってなりますけれども、これは「もし」のことであって、聖書では、私たちの人生は70年、健やかであっても80年、どんなに生きても120年だとあります。そういう意味では、今日という日がどれほど大切でしょうか。もしかすると、今日が最後の日になるかもしれないのです。もし今日が最後の日だとしたらどう過ごしますか。誰と会うか、何をするか、どのように過ごしたいかを考えるのではないでしょうか。そして、そのように思い巡らす中で一番重要なことからやっていくのではないでしょうか。今日を最後の日として考えて生きるなら最高の一日になるはずです。それを毎日続けていったらものすごいことです。何気ない出会いも大切にしたいと思うでしょうし、険悪な関係だった人との関係も修復しておきたいと思うでしょう。今日を最高に生きるために、今日という日を、そして今を最後の日として生きていけたらいいですね。」

今日という日を、今を、最後の日として生きる。そうすれば、一番大切なことからやっていくはずです。一番大切なこと、それは、神に会う備えをするということです。そして、神が与えてくださった一つ一つの恵みに感謝し、これを喜び、楽しみ、自分の手でできることに、全力を尽くすということです。

あなたはどうですか。神に会う備えが出来ていますか。それはただイエス様を信じるというだけでなく、あなたの人生において神を認めて生きるということです。「心を尽くして主に拠り頼め。自分の悟りに頼るな。あなたの行く道すべてにおいて、主を知れ。主があなたの道をまっすぐにされる。」(箴言3:5)

心を尽くして主に拠り頼みましょう。自分の悟りに頼るのではなく、あなたの行くすべてにおいて主を認めましょう。主が与えてくくださる恵みに感謝しましょう。そうすれば、主があなたの道をまっすぐにしてくださいます。

すべては神のみわざ 伝道者の書8章9~17節

2021年1月31日(日)礼拝メッセージ

聖書箇所:伝道者の書8章9~17節(旧約P1149)

タイトル:「すべては神のみわざ」

 きょうは、伝道者の書8章後半の御言葉から学びます。1節に「知恵のある者とされるにふさわしいのはだれか。物事の解釈を知っているのはだれか。」とありますが、伝道者は知恵のある者とされるのにあさわしいのはだれかを、正しい者と悪しき者を対比して語っています。きょうの箇所でも、知恵のある者とはどのような者なのかを、三つのポイントで語っています。すなわち、第一に、知恵のある者は、神を恐れ、神の御前に生きる人であるということです。第二に、私たちの人生は矛盾に満ちているかのように見えることが多いですが、すべてのことが神のご支配の中で起こっているわけですから、神が与えてくださることに感謝し、満足する生き方を学ばなければなりません。そして第三のことは、すべては神のみわざであって、人は神のみわざを見極めることはできません。ですからすべてを神にゆだね、神に信頼して歩まなければなりません。そのような人こそ知恵のある者なのです。

Ⅰ.悪しき者には幸せがない(9-13)

 まず、9~13節をご覧ください。9節と10節をお読みします。「私はこのすべてを見て、私の心を注いだ。日の下で行われる一切のわざについて、人が人を支配して、わざわいをもたらす時について。すると私は、悪しき者たちが葬られて去って行くのを見た。彼らは、聖なる方のところから離れ去り、わざを行ったその町で忘れられる。これもまた空しい。」

「このすべて」とは、この地上で行われるすべてのことです。伝道者は、そのすべてを見て、心を注ぎました。すると、そこに人を支配し、傷つけている人がいるのを見たのです。また、10節、悪しき者たちが葬られて去って行くのを見ました。彼らは、聖なる方のところから離れ去り、わざを行ったその町で忘れられます。これもまた空しい。どういうことでしょうか。実はここはちょっと難解な箇所です。「聖なる方のところ」とは「神」のこと、あるいは、「神の宮」のことを指しています。その聖なる方のところから悪しき者が離れ去って行くことはありません。なぜなら、彼らは元々神から離れているからです。またここには、悪しき者がわざを行ったその町で忘れられるとありますが、それは結構なことなのに、ここには「空しい」とあるのです。どういうことでしょうか。

そこで口語訳聖書は、この「忘れられる」という言葉、へブル語で「イシュタッケフー」という言葉ですが、これを「ほめられる」という言葉、へブル語の「イシュタッベフー」に修正し、次のように訳しました。「彼らはいつも聖所に出入りし、それを行ったその町でほめられた。これもまた空である。」と「忘れられる」を「ほられる」に修正したんですね。そうすれば、悪しき者がほめられるのはおかしいですから、「これもまた空しい」ということになります。つながるわけです。

しかし、これはそういうことではありません。14節に「悪者」と「正しい者」とか対比されているように、ここでも悪者と正しい者が対比されているのです。つまり、悪しき者たちが葬られて去っていくことと、正しい者が、聖なる方の所を去り、そして、町で忘れられてしまうということです。ですから、新改訳第三版ではこのように訳しているのです。「そこで、私は見た。悪者どもが葬られて、行くのを。しかし、正しい行いの者が、聖なる方の所を去り、そうして、町で忘れられるのを。これもまた、むなしい。」ですから、この「彼ら」を「悪しき者」ではなく、「正しい者」と理解したわけです。これが、本文が語っていることです。この新改訳2017では「忘れられる」という原語を修正しなかったのは良かったのですが、主語を「彼ら」としたため、これが「悪しき者」を指しているように訳したため、意味が通じなくなってしまいました。正しい者が、聖なる方のところから離れ去り、その町で忘れられることがあるとしたら、それもまた空しいではないでしょうか。

そればかりではありません。11~12節前半までを見てください。「悪い行いに対する宣告がすぐ下されないので、人の子らの心は、悪を行う思いで満ちている。悪を百回行っても、罪人は長生きしている。」

この世では悪い行いに対する宣告がすぐに下されるどころか、むしろ、悪人が称賛されることがあります。それを見て人の子らの心は悪を行う心で満ちるのです。彼らは悪を百回行っても、長生きしています。そんなことってありますか?あるんです。あの人はあんなに悪いことばかりしているんだから、罰が当たってすぐに死んでしまうだろうと思いきや、意外と長生きしているのです。しかも、祝福されたりして・・。そのような状況を見ると、何とも不条理な世の中だと思ってしまいます。だったら悪いことをしていた方が得じゃないかとさえなります。

しかし、伝道者はそのような不条理を嘆きつつ、悪者には真の幸せがないと強調しています。それが12節の真中にある「しかし」です。12節の「しかし」から13節までを読んでみましょう。「しかし私は、神を恐れる者が神の御前で恐れ、幸せであることを知っている。悪しき者には幸せがない。その生涯を影のように長くすることはできない。彼らが神の御前で恐れないからだ。」

悪者に対して神のさばきが下るどころか、もっと栄えているかのように見えることで、人々は大胆に悪を行っていますが、その生涯を影のように長くすることはできません。神の御前での恐れがないからです。しかし、神を恐れ、真実に生きる人を、神は必ず顧みてくださいます。そして、彼らの生涯を美しいものにしてくださるのです。

大正時代に八木重吉という詩人がいました。東京高等師範学校の学生の時、クリスチャンの同級生の勧めで聖書を読み始め、キリストと出会いクリスチャンとなりました。その後、千葉県の東葛飾中学校で英語の教師をしていましたが、大正15年、28歳の時、肺結核を発病し30歳で天に召されました。

しかし、この2年間の病床生活の中で、彼の信仰は飛躍的に成長しました。彼が親戚の人に送った手紙に次のように書き残しています。

「私は色々と経てきた後、死と生の問題におびえました。また善と悪の問題に迷いました。しかし遂に一人の人に出会いました。私はその人の言葉と行いに完全なる善を感じました。何とも言えぬ美しい魂のひらめき、崇高なる魂の魅力、それをその人に感じました。それこそ自分が長い間捜していたものだと信じます。霧が少しずつ晴れるように、私の生活は少しずつ明るく、しっかりと血色がよくなって来ました。ここにおいて、私の自らの心の問題、広く人生に対する問題が、氷が解けるように解けていくのを感じました。」

八木重吉は、イエス・キリストとの出会いによって、神を見出し、神の御前で恐れ、幸せであることを体験したのです。その八木重吉が、「雨」という詩を残しています。

雨の音がきこえる
 雨が降っていたのだ
 あの音のようにそっと 

世のためにはたらいていよう

雨があがるように

しずかに死んでいこう

とても含蓄のある詩だと思います。雨の音のように そっと世のために働いていよう、雨があがるように、しずかに死んでいこう。この世と真逆ですよね。この世ではいかに自分を見せるかと、自分が中心の世界ですが、キリストと出会った重吉は、神を恐れ、神の御前で生きる生涯へと変えられたのです。神を恐れて生きる人の人生を、神はこのように美しいものにしてくださるのです。

Ⅱ.神が与えてくださるささやかな幸せ(14-15)

次に、14~15節ご覧ください。14節には、「空しいことが地上で行われている。悪しき者の行いに対する報いを受ける正しい人もいれば、正しい人の行いに対する報いを受ける悪しき者もいる。私は言う。「これもまた空しい」と。」とあります。

ここで伝道者は、なおもこの世にはあまりにも不条理なことが多いことを嘆いています。例えば、悪しき者が受けるべき報いを正しい人が受けたり、正しい人が受けるべき報いを悪しき者が受けるというようなことです。これまでも伝道者は一般原則と例外的な事例とが頻繁に逆転するのを見て、人生の空しさを覚えてきましたが、ここでも同じです。悪しき者が受けるべき報いを悪しき者が受け、正しい人が受けるべき報いを正しい人が受けるとすれば納得できるのですが、そうでないことが起こると、人生は本当に空しいなぁと感じます。

そのような空しさを見た伝道者は、次のような結論に至ります。15節です。「だから私は快楽を賛美する。日の下では、食べて飲んで楽しむよりほかに、人にとっての幸いはない。これは、神が日の下で人に与える一生の間に、その労苦に添えてくださるものだ。」

そうでしょう、そんな不条理なことがまかり通るのであれば、いったい私たちの人生にはどんな意味があるというのでしょうか。ここで伝道者が言っているように、日の下では、食べて飲んで楽しむよりほかに、人にとっての幸いはない、ということになります。伝道者はこれまでも同じことを語ってきました。3章22節や5章18節にも、繰り返して語られてきました。人生には何の目的も、意味もなければ、食べて飲んで楽しむよりほかに、何の楽しみもありません。ここには「快楽を賛美する」とありますが、そういう人生になってしまいます。

実際、この世はそうじゃないですか。私も学校を出て4年間この世の企業で働いたことがありますが、みんなそうでしたよ。「大橋君、今晩は飲みにでも行こうか、パッと行こうぜ」。私はその頃はもうクリスチャンになっていたので別に行きたいわけではありませんでしたが、これも社会勉強になるかなぁと思ってついて行くと、みんな会社にいるときとは全然違う顔になるんです。快楽を賛美しているのです。これもまた空しいことです。酔っぱらっていい気分になったかと思ったら、また翌日には厳しい現実が載っていて、悪い気分になるのですから。

しかし、日の上には喜びがあります。神への賛美で溢れています。黙示録4:11には、天国での賛美の様子が描かれています。24人の長老たちは、御座に着いておられる方の前にひれ伏して、世々限りなく生きておられる方を礼拝し、また、自分たちの冠を御座の前に投げ出してこう言いました。「主よ、私たちの神よ。あなたこそ 栄光と誉と力を受けるにふさわしい方。あなたが万物を創造されました。みこころのゆえに、それらは存在し、また創造されたのです。」(黙示録4:11)

救い主イエスを信じ、「神共にいまし」を体験した人は、日の下にあっても、このような神への賛美と感謝に満ち溢れた生活を送ることができるのですから。

パウロの時代にも、同じように快楽を賛美していた人たちがいました。彼らは、自分たちはどうせ死ぬのだから、今さら善を求めてもしかたがないと考えていたのです。そんな彼らに対してパウロはこのように言いました。「もし死者がよみがえらないのなら、「食べたり飲んだりしようではないか。どうせ、明日は死ぬのだから」ということになります。惑わされてはいけません。「悪い交際は良い習慣を損なう」のです。」(Ⅰコリント15:32-33)

もし、どうせ死ぬのだから、という考えに立つなら、生きることにどんな意味があるというのでしょうか。何の意味もありません。であれば、生きている間、おもしろおかしく生きるしかありません。「さあ、食べたり飲んだりしようではないか。どうせ明日は死ぬのだから」ということになります。

けれども、私たちは死んで終わりではありません。よみがえるのです。終わりのラッパとともに、たちまち、一瞬のうちに変えられます。ラッパがなると、死者は朽ちないものによみがえり、私たちは変えられるのです。霊のからだに復活するということです。これがクリスチャンの希望です。クリスチャンは死んで終わりではありません。やがてキリストがご再臨されるとき、朽ちないからだ、霊のからだによみがえるのです。そんなことあるはずないじゃないですか。あるなら、だれかが証明しているはずです。そう言うでしょう。そうです、ある方がそれを証明してくださいました。イエス様が十字架で死なれ三日目によみがえられたことで、キリストを信じる者が同じように復活するということを証明してくださったのです。聖書ではそれを「初穂」という言葉で表しています。イエス様はその初穂でした。同じように、私たちも復活するのです。

ですから、死は終わりではありません。死は永遠の入口にすぎないのです。死んでからのいのちがあります。そのいのち、永遠のいのちを与えるためにキリストはこの世に来てくださり、十字架に掛かって死んでくださいました。それは、キリストを信じる者が一人として滅びることなく、永遠のいのちを持つためです。

死んでからのいのちがあるのなら、私たちには希望があります。生きている意味があるのです。天からの報いを期待することができますから。この地上で行われていることだけを見たら、この世の矛盾に失望するだけでしょう。ここでソロモンが言っているように、「これもまた空しい」ということになります。「さあ、食べて飲んで楽しもう」ということになるのです。だって、それ以外に楽しみがないのですから。

しかし、日の上には喜びが満ち溢れています。ダビデは、「あなたの御前には喜びが満ち、あなたの右には、楽しみがとこしえにあります。」(詩篇16:11)と賛美しましたが、神の御前には喜びと楽しみが溢れています。であれば、たとえこの世がどんなに矛盾と混乱に満ちていても、私たちは神が与えてくださるささやかなことに感謝し、満足して生きることができるのです。

ナポレオンの時代に、シャネットという男が無実の罪で牢獄に入れられました。何か月もそこで過ごした彼は自暴自棄になり、死を覚悟しました。

その独房には毎日、わずかな日の光が差し込むスポットがありました。ある朝、驚いたことに固い土の中から小さな草が芽を出しているのにシャロネットは気が付きました。彼にはそれが、神が与えてくださった希望の光のように思えたので、感謝と喜びをもって、毎日その草に水をやりました。やがてその草は大きくなり、ついに美しい紫色と白色の花を咲かせました。

この一連の出来事を見守っていた看守たちは、この話を家に帰って妻たちに話しました。やがてこの話は、ナポレオンの妻ジョセフィーヌの耳にも届きました。彼女はこの話に心を動かされ、これほど花を愛する者が犯罪者であるはずがないと確信し、ナポレオンに裁判のやり直しを願い出ました。そしてその結果、彼は疑いが晴れて釈放され、自由の身になったのです。

私たちも同じです。日の下だけを見るなら自暴自棄になるでしょう。しかし、そこからわずかに差し込む神の光、神の恵みに感謝して生きるなら、そこに人生の意味を見出し、快楽ではなく神を賛美する人生へと変えられるのです。

聖書学者のマシュー・ヘンリーは、ある時、強盗に財布を盗まれました。彼はその日の日記にこう記しています。

「今日は感謝な日だった。まず強盗に遭ったのは初めてであり、今まで守られてきたことを感謝する。次に財布は盗まれたが、命は奪われなかったことを感謝する。さらに全財産を盗られたが、その額はたいしたものではなかったことを感謝する。最後に自分は強盗に遭ったのであって、自分が強盗をしたのではないことに感謝する。」

こうやってみると、私たちが心の目を開くとき、私たちには感謝すべき材料がいくらでもあることに気付きます。神は、あなたの一生の間にも、その労苦に添えて豊かな恵みを注いでおられるのです。

「いつも喜んでいなさい。絶えず祈りなさい。すべてのことにおいて感謝しなさい。これが、キリスト・イエスにあって神があなたがたに望んでおられることです。」(Ⅰテサロニケ5:16-18)

これが、キリスト・イエスにあって神があなたに望んでおられることです。神が与えてくださるささやかなことに感謝し、満足しながら、神を賛美する人生を歩ませていただきましょう。

Ⅲ.すべては神のみわざ(16-17)

第三に、16~17節をご覧ください。「私が昼も夜も眠らずに知恵を知り、地上で行われる人の営みを見ようと心に決めたとき、すべては神のみわざであることが分かった。人は日の下で行われるみわざを見極めることはできない。人は労苦して探し求めても、見出すことはない。知恵のある者が知っていると思っても、見極めることはできない。」

伝道者は、不眠不休でこの地上で行われている人の営みを見極めようとしましたが、できませんでした。人はどんなに労苦して探し求めても、神がなさることを見極めることはできないのです。こうした人間の知恵の限界は、神のみわざがどれほど不思議なものであるのかを教えています。本当に神がなさることは不思議ですね。それは、私たちの考えや思いをはるかに超えています。

例えば、旧約聖書の中にエステル記という書があります。もちろん、主人公はエステルという一人の女性です。彼女の人生は時代の流れに翻弄されるところから始まります。祖国イスラエルはバビロンという国の捕囚の身となり強制移住させられ、彼女もその一人として流れ着きます。しかも両親は早くに亡くなり、養父モルデカイのもとで暮らす不幸な身の上でした。そんな彼女が、ペルシャ帝国下でやがて世界に君臨した王の妃として立てられるのです。

まさか自分がペルシャ王の王妃に選ばれようとは、夢にも思わなかったでしょう。ところが、「まさかそんな大それたことを、自分が」と叫びたくなるような事件に巻き込まれていくのです。

養父モルデカイがユダヤ人のため、当時の権力者であった王の家来ハマンに頭を下げなかったことで、ユダヤ人皆殺しの法令が発布されてしまったのです。

ユダヤ民族絶滅の危機に際して、もし救えるとしたら、王のすぐ隣の席にいたユダヤ人の王妃エステルしかいませんでした。逃げられない袋小路のような重圧の中で、彼女は信仰によってジャンプします。いくら王妃とはいえ、当時、王の許可なく勝手に王の許に進み出るようなことをすれば、死刑に処せられました。けれども、彼女はそのことを百も承知で、ユダヤ民族救出のために決心したのです。

「たとい法令に背いても私は王のところにまいります。私は、死ななければならないのでしたら、死にます。」(エステル4:16)

その結果、ユダヤ人絶滅を謀ったハマンは、自らがユダヤ人モルデカイをつけるために作った処刑柱にかけられ、ユダヤ人は絶滅の危機から救われたのです。悲しみが喜びに、敗北が勝利に一変しました。

ユダヤ人はこのことを記念してプリムの祭りを制定し、今日でも祝い続けています。このエステル記には神ということばも奇跡も出てきませんが、背後に神がおられるとしか説明のしようがない、不思議な神のみわざが記されてあるのです。

そうです、すべては神のみわざなのです。であれば、私たちに出来ることは何でしょうか。私たちに出来ることは、私たちの人生も神が用意されたパズルであることを覚え、すべてを神にゆだね、神が定められたことに従って生きていくことです。そのとき、私たちの思いをはるかに超えた、神の偉大なみわざが、私たちの人生にも現されることになります。

昔、殿様のお気に入りの梅の絵を描くために、有名な絵師が城に招かれました。いざ描こうとした時、猫が一匹現れて真っ白い紙の上をトコトコ駆け抜けて行きました。紙の上には猫の足跡がくっきりと残りました。

家来たちは大慌てで、切腹を覚悟した者もいました。しかし、その時、絵師は何事もなかったかのように筆を取り、絵を描き始めました。すると名人の手によって、ある足跡は梅の花びらに用いられ、ある足跡は梅の木の節目に用いられ、絵が完成した時、どこに猫の足跡があったか全く分からなくなりました。

同じように、私たちが全能なる神の御手に人生で起こるすべてのことを委ねるなら、苦しみも悲しみも痛みもすべてが益と変えられ、私たちの人生にすばらしい彩り(いろどり)を添えてくれるのです。すべては神のみわざです。理解できないこの世の不条理すらすべて益としてくださる神に信頼し、神にすべてを委ねましょう。神はあなたを顧みてくださり、あなたの生涯を必ずや美しいものにしてくださるからです。

礼拝メッセージ(近藤牧師)

『礼拝メッセージ』

近藤先生の礼拝メッセージ(MP3形式の音声ファイルです。)を聴きたい方は、下記の該当メッセージをクリックしてください。ご質問等ありましたら、近藤(0287-73-8624)まで、連絡下さい。

2021/01/24 生ける石として Ⅰペテロ2:4-10

2021/01/17 モーセの生涯②召命の時 出エジプト記3:1-14

2020/12/20 ダビデの町ベツレヘム ルカ2:1-12

2020/11/08 モーセの生涯①(モーセの誕生)出エジプト2:1-15

2020/10/11 聖書通読のすすめ 使徒の働き8:26-40

2020/9/13  神の御声を聴く(創世記と私達) 創世記50:1-26

2020/08/23 人の思い、神の思い イザヤ書55:6-13

2020/08/09 祝福の系図 創世記48:1-22

2020/7/12 エジプトに導かれる神 創世記 46:1-7, 28-34

2020/3/29 共に祈れることの幸い マタイ6:9-13

20203/15 神の救いの計画 創世記45:1-15

2020/2/16 エルシャダイ・全能の神  創世記43:1-15

2020/1/19   神様の織りなす織物 創世記42:1-25

2019/12/22  イエスとアウグストウス ルカ2:1-20

2019/12/8 神様の時 創世記41:37-57

2019/11/17  ヨセフと共におられた主 創世記39:1-23

2019/10/20 ヨセフの見た夢 創世記37:1-36

2019/9/22 祝福の継承 創世記 35:1-15

2019/8/18 和解への道 創世記33:1-20

2019/7/21 ペヌエル、神に勝たせる人生  創世記32:13-32

2019/6/23 信仰成長を求めて 詩編1編

2019/6/16 マハナイム、砕かれるとき 創世記32:1-12

2019/5/19  全てを見ておられる神 創世記31:1-13

2019/4/21 復活の力  ルカの福音書24:1-12

2019/3/17 私のベテル 創世記28:1-22

2019/2/10 憐れみの器 創世記25:19-34

20191/13 死の向こうを見つめて  創世記23:1-20

2018/12/23 救い主イエス  マタイ1:1-25

2018/11/11 信仰の高嶺を目ざして  創世記22:1-19

2018/10/21 望みが叶うとき 創世記21:1-7

2018/9/23 執り成しの祈り 創世記19:1-29

2018/8/19 神様の視点  創世記18:1-15

2018/7/22 信仰のリニューアル 創世記17:1-27

2018/6/10 神の愛の眼差し 創世記16:1-16

2018/5/13 神の一方的な愛 創世記15:1-21

2018/4/15 イエスと共に歩む ルカ24:13-35

2018/4/8 二人の王 創世記14:1-24

2018/3/18 御心を求めて生きる 創世記12:10-13:18

2018/2/25 アブラハムの旅立ち 創世記11:27-12:9

知恵のある者はだれか 伝道者の書8章1~8節

2021年1月10日(日)礼拝メッセージ

聖書箇所:伝道者の書8章1~8節(旧約P1148)

タイトル:「知恵のある者はだれか」

 きょうは、伝道者の書8章前半から「知恵のある者はだれか」というタイトルでお話しします。1節に「知恵のある者とされるにふさわしいのはだれか。物事の解釈を知っているのはだれか。」とあります。だれが知恵のあるような人となり、物事の道理を悟ることができるのでしょうか。きょうは、このことについて御言葉から学びたいと思います。

Ⅰ.人の知恵はその人を輝かせる(1)

 まず1節をご覧ください。「知恵のある者とされるにふさわしいのはだれか。物事の解釈を知っているのはだれか。人の知恵は、その人の顔を輝かせ、その顔の固さを和らげる。」

 伝道者は、これまで人の知恵によっては人生の諸問題を解決することはできないと語ってきました。しかし、知恵のある者のすばらしさを称賛しています。たとえば、7:19では「知恵は町の十人の権力者よりも、知恵のある者を力づける」と述べました。知恵は、それほど力があるのです。ここには、その知恵のすばらしさを別の言葉で表現しています。それは、「人の知恵は、その人の顔を輝かせ、その顔の固さを和らげる」ということです。「和らげる」という言葉は、欄外を見ると、直訳「変える」とあります。人の知恵は、その人の顔を輝かせ、その顔を変えるのです。整形手術をするということではありません。その顔の固さが和らかくなるということです。輝くのです。内面が変わると外面も変わります。そういう意味では、私たちの顔は内面を映す鏡のようなものなのです。

 皆さんは、自分の顔がお好きでしょうか。1912年にノーベル賞を受賞したフランスの物理学者アレキシス・カレルは、著書「人間 ─ この未知なるもの」の中で次のように述べています。

 「私たちの知らない間に、私たちの顔つきは、心の状態によって少しずつ造られていく。そして年齢を経るにつれて、それは増々はっきりとし、人間としての私たちの感情・欲望・希望など、すべてのものを表す看板のようになる」

ですから、私たちの顔は、私たちの心を映す鏡であるというのは本当なのです。

 アブラハム・リンカーンもこのように言いました。「男は四十歳を過ぎたら、自分の顔に責任を持たなければならない」それで、リンカーンが人を雇う時は、その人が四十歳以上の人であれば、その人の顔を見て選んだそうです。その人がどれほど有能であるかとか、どんな経験をしてきたかとかといったことではなく、その人がどんな顔かによって選びました。それは、その人がどんなにハンサムであるかとか器量がいいかといったことではなく、どのような表情をしているかということです。その表情が柔らかくて、輝いている人を選びました。なぜなら、その人の顔にその人の心の状態が映し出されることを知っていたからです。四十歳と言えばある意味で人格的にも成熟している年齢です。その心の持ちようが表情に表れるということを経験として学んでいるはずですから、その心を制御することができないとしたら良い仕事をすることもできないでしょう。それで彼は、男は四十歳を過ぎたら、自分の顔に責任を持たなければならない、と言ったのです。

 では、その人の顔を輝かせ、その顔を和らげるものは何でしょうか。ここには、人の知恵は、その人の顔を輝かせ、その顔の固さを和らげる、とあります。ですから、その人の知恵がどれほど重要であるかがわかります。

 このことは詩篇でも言われています。詩篇10:4には、「悪しき者は高慢を顔に表し、神を求めません。「神はいない。」これが彼の思いのすべてです」とあります。ここでは悪しき者の顔がどのような顔なのかが表現されています。悪しき者は高慢を顔に表し、神を求めません。彼らは「神はいない」と言うのです。天地万物を造られた創造主なる神を信じないし、信じようともしません。これが不信者の顔です。その特徴は何かというと「高慢」であるということです。ですから、どんなに自分が器量のいい人間であるかを装っても、本質的に高慢なので顔が固いのです。そんな顔でどうやって輝かせることができるでしょうか。どんなに顔にフェイスクリームを塗ってもだめです。高慢が顔に表れるからです。

 箴言15:13も開いてください。ここにも「喜んでいる心は、顔色を良くする。心の痛みの中には、打ちひしがれた霊がある」とあります。新改訳改訂第3版では、「心に喜びがあれば顔色を良くする。心に憂いがあれば気はふさぐ」となっています。心に喜びがあれば顔色を良くしますが、心に憂いがあれば気はふさぎます。その人の心が表情に一番よく表われるというわけです。ですから、あの人何だか元気がなさそうだなぁという時には、やはり心に悩みがあるわけです。隠そうとしてもだめです。すぐに顔に表れますから。表情によってその人の心の状態をある程度判別することができるのです。

 箴言27:19も開いてください。ここには、「顔が、水に映る顔と同じであるように、人の心は、その人に映る」とあります。顔が鏡にたとえられているのです。顔が、水に映る時と同じように、その人の心は、その人の顔に映ります。ですから、顔を見ればその人の心がどういう状態であるかを知ることができるのです。

 ですから、自分がどれだけ立派な者であるかとか、どれだけ器量のいい人間であるかをアッピールする必要はありません。それよりも、自分の品性を磨くことの方が重要です。ですから、聖書はこう言っているのです。「力の限り、見張って、あなたの心を見守れ、いのちの泉はこれからわく。」(箴言4:23)その根源である心を見守ることが重要なのです。まさに知恵は、その心を磨くものなのです。

 イソップ物語に、「金の卵を産むガチョウ」の話があります。このガチョウは、毎日1個ずつ金の卵を産んでくれるのですが、若者は早く金持ちになりたいと思い、このガチョウを殺し、お腹の中を探しました。しかし何も出て来ませんでした。この物語は「欲張りの人は結局損をする」「今を感謝しない人は大切なものを失ってしまう」ということを教えてくれます。知恵がどれほど重要であるかがわかるのではないでしょうか。

 私たちは毎日何気なく仕事をしていますが、この仕事をすることについても、その態度には三つの段階があると言われています。

 一番下の段は「仕事をさせられている」と思いながら働いている人です。こういう人は一日の終わりには疲労感がどっと押し寄せてきます。

 次の段は「仕事をしてやっている」と思いながら働いている人です。これらの人々は、自分の収入や労働環境について、いつも不平不満でいっぱいです。仕事を喜びとすることができないのです。

 一番上の段は「仕事をさせていただいている」という感謝の心に満ちている人です。これらの人々は、仕事を喜びとし、置かれている環境を感謝して受け取ります。

 どの段階の人が、輝きを放っているかは一目瞭然です。一番上の段にいる人です。人の知恵は、その人を輝かせ、その顔の固さを和らげるからです。

 ですから、聖書はこう教えているのです。「いつも喜んでいなさい。絶えず祈りなさい。すべてのことにおいて感謝しなさい。これが、キリスト・イエスにあって神があなたがたに望んでおられることです。」(Ⅰテサロニケ5:16-18) 

 あなたの心に喜びがあるなら、また、あなたの心に祈りがあるなら、そして、あなたの心に感謝があるなら、あなたの顔は輝き、力がみなぎるようになります。いのちの泉はそこからわくからです。あなたは、この知恵によって生きていらっしゃるでしょうか。

いったいこのような知恵は、どこから来るのでしょうか。Ⅱコリント3:18を開いてください。ここには、「私たちはみな、覆いを取り除かれた顔に、鏡のように主の栄光を映しつつ、栄光から栄光へと、主と同じかたちに変えられていきます。これはまさに、御霊なる主の働きによるのです。」とあります。どうしたら鏡のように主の栄光を反映させながら、栄光から栄光へと、主と同じ姿に変えられていくのでしょうか。これは、まさに御霊なる主の働きによるのです。自分の力でできることではありません。御霊なる主の働きによるのです。もし自分の力で輝こうとすれば、偽善者のようになってしまいます。そうではなく、主の向かい、主と交わりを持つことによって、主と同じ姿に変えられていくのです。これはまさに、御霊なる主の働きによるからです。

実は、このみことばは、出エジプト記34章の出来事が背景となっています。そこには、モーセが神と交わるためにシナイ山に登って行ったことが記されてありますが、モーセが山から下ると彼の顔が輝いていました。つまり、それはモーセが神と親密な交わりを持った結果与えられたものだったのです。

それは、今の私たちも同じです。私たちが主に向かい、主と親密な交わりを持つことによって、私たちの顔は輝きを放つようになるのです。そんなにフェイスクリームを塗らなくても大丈夫です。それよりも、主イエスと交わることによってピカピカと輝き、すべすべとした柔らかなお肌となります。なぜなら、主イエスこそ、神の知恵であられるからです。人の知恵でもその人の顔を輝かせるなら、神の知恵は、どれほどその人を輝かせることでしょうか。

ですから、もしあなたが輝いていないとしたら、それは、あなたの心がキリストに向いていないからであって、自分に向いているからです。また、御霊なる主にゆだねないで自分の力で輝こうとしているからです。人の知恵は、その人を輝かせ、その顔の固さを和らげます。あなたの心がどこを向いているかを点検し、今、主のもとに立ち返らせていただきましょう。「力の限り、見張って、あなたの心を見守れ、いのちの泉はこれからわく」からです。

Ⅱ.知恵のある者は神の命令を守る(2-5a)

第二に、知恵のある者は神の命令を守ります。2~5節の前半までをご覧ください。「私は言う。王の命令を守れ。神への誓約があるから。王の前から慌てて出て行くな。悪事に荷担するな。王は自分の望むままを行うから。王のことばには権威がある。だれが、王に「何をするのか」と言えるだろうか。命令を守る者はわざわいを知らない」

伝道者は、知恵のある者は、王の命令を守れ、と命じています。ここでの「王」とは、地上の王と解釈することもできますし、神と解釈することもできますが、どちらも同じ意味になります。というのは、ここでは権威に対する従順が命じられているからです。「神への誓約があるから」とは、神の御前で忠誠を誓ったのだからという意味です。神の御前で忠誠を誓った以上、その誓いを果たすのは当然のことです。つまり、王の命令を守るとは、その王を立てたのは神ご自身の命令を守ることであり、そのような人こそ知恵のある者とされるふさわしい人であるということなのです。

このことはローマ13章で教えられていることです。ローマ13:1-2には、「人はみな、上に立つ権威に従うべきです。神によらない権威はなく、存在している権威はすべて、神によって立てられているからです。したがって、権威に反抗する者は、神の定めに逆らうのです。逆らう者は自分の身にさばきを招きます」とあります。

上に立つ権威とは、職場であれば上司のことであり、家庭であれば夫であり、父親のことです。また、もっと広い意味で言うなら、それは市長のことであり、県知事のことでもあります。また、この国の政府のことでもあります。伝道者の書ではこれを「王」に置き換えられているのです。人はみな、上に立つ権威に従うべきです。なぜなら、神によらない権威はなく、存在している権威はすべて、神によって立てられているからです。たとえあなたの上に立つ者が尊敬できないような人であっても、たとえあなたの上司がノンクリスチャンであったとしても、へりくだってその権威に従うべきです。なぜなら、その権威は神によって立てられたものだからです。そうでないと、神の御前に過ちを犯してしまうことになります。これは知恵のないことです。

ちょうど今、祈祷会でⅡサムエル記を学んでいますが、ダビデはその模範者であると言えるでしょう。ダビデは、サウル王に妬まれそのいのちを狙われて逃げ回っていましたが、その中で何度も彼を殺すチャンスがありました。けれども彼は一切サウルに手を出そうとはしませんでした。なぜなら、サウルは主に油注がれた者であり、主によって立てられた王であったからです。主に油注がれた者に手を出すことは主に背くことになると考えていたのです。ダビデは、上に立つ権威が神によるものだということを認識していました。ですから、自分の力でサウルに取って代わろうともしませんでしたし、サウルを非難したり、攻撃したりもしませんでした。神が立てられたのであれば、神が取り去ることもあると信じ、そのすべてを神にゆだねたのです。ですから、サウルが死んだということを聞いた時もほっとしたとか、安心したというのではなく、むしろその死を悼み悲しみました。それは、サウルが神に立てられた王であると受け止めていたからです。私たちも、自分の上に立つ者に不平不満があっても、たとえその人が問題だらけで間違いを犯すような人物であっても、あるいは、理不尽な人であっても、それは神によって立てられた権威であると認め、あとはすべて神にゆだねるべきなのです。神が立てたのであれば、神は取り去ることもあるからです。自分で手を出すべきではありません。

いったいダビデはどうしてサウルに従うことができたのでしょうか。ここには「神への誓約があるから」とあります。つまり、ダビデは、その背後には神がおられるということを見ていたのです。詩篇16:8にはこうあります。「私はいつも主を前にしています。主が私の右におられるので私は揺るがされることがありません。」これはダビデのミクタムです。「ミクタム」とは、「最高に美しい詩」という意味です。その詩の中でダビデは、「私はいつも主を前にしています」と告白していたのです。新改訳改訂第3版では「私はいつも、私の前に主を置いた」となっています。ダビデはいつも自分の目の前に主を置いたのです。サウルにいのちを狙われている時でも、敵の領地に逃げ込まなければならない苦境の時でも、いつも目の前に主イエスを置いていました。つまり、主イエスをフィルターとして見ていたのです。主イエスを通して向こうにいるサウルを見ていたのです。

皆さんの上司との関係、夫や妻との関係、上に立つすべての権威との関係も同じです。いつも主イエスを置いて見なければなりません。そうすれば、主に従うように夫に従うことができるはずです。主に仕えるように上に立つ権威にも仕えることができます。「嫌だなぁ、あの上司、最悪!」と思えても、主に従うように喜んで従うことができるようになるのです。

3節には、「王の前から慌てて出て行くな。悪事に荷担するな。王は自分の望むままを行うから。」とあります。これは、王の前から慌てて退出するなということです。つまり、王の言葉や態度に怒ったり、驚いたり、失望して、王の前を去ってはならないということです。また、悪事に荷担して、王への反逆を企ててもなりません。どうしてでしょうか?それは先ほども申し上げたように、神によって立てられた権威だからです。しかしそれだけではなく、ここにもう一つの理由が記されてあります。それは、王は自分の望むままを行うからです。つまり、王は絶対的な権威を持っており、それを自分の思うままに用いることができるからです。王に対して「何をするのですか」とか、「どうしてそのようなことをするのですか」とか、「このようにした方がいいんじゃないですか」などと言うことはできません。王には絶対的な権威があるからです。

これは、私たちと神との関係にも言えることです。究極的な王であられる神は、絶対的な権威をもっておられます。神は主権者であって、その権威を自由に用いることかできるのです。その神に向かって「どうしてこんなことを許されるのですか」とか、「どうしてこんなことが私の人生にふりかかるのですか」ということはできません。なぜなら、神は主権者であられるからです。その方が何を成さろうと、どのように成さろうと、それは神がお決めになられることであって、私たちが口をはさむことではないのです。私たちにできることは、その方の権威を認めて、その方にすべてをおゆだねすることです。

パウロは、このことをローマ9:20-21で、陶器師と陶器のたとえを用いてこのように言っています。「人よ。神に言い返すあなたは、いったい何者ですか。造られた者が造った者に「どうして私をこのように造ったのか」と言えるでしょうか。陶器師は同じ土のかたまりから、あるものは尊いことに用いる器に、別のものは普通の器に作る権利を持っていないのでしょうか。」

まさに、私たちは土のかたまりにすぎません。そのような者が陶器師に対して「どうして私をこんなふうに造ったんですか」と言うことはできません。私たちにはそのような権利はないからです。陶器師がどのように造るかは陶器師の自由であって、私たちが口をはさむことではないからです。それなのに私たちはすぐに「どうしてですか」と理由を問いたくなるわけです。知らないと気が済みません。知っても気が済みませんが、知らないともっと気が済みません。それで「どうしてですか」と問うわけです。「主よ、どうしてですか・・・」しかし、私たちはそのような立場にはないのです。私たちは陶器にすぎないものです。であれば、陶器師であられる主がなさることに信頼し、それがどうしてなのかがわからなくても、なぜこんな理不尽なことが起こるのかという時でも、すべてを主にお任せすればいいのです。あなたのために愛する御子を惜しまずに与えてくださった方が、あなたのために酷いことをするはずはありません。あなたのために最善のことをしてくださるでしょう。ですから、私たちはこの神の愛に信頼して「主よ、どうしてですか」と問うことを止め、「主よ、あなたにゆだねます」と祈るべきなのです。

5節の前半をご覧ください。「命令を守る者はわざわいを知らない。」どういう人がわざわいを知らないのでしょうか。命令を守る者です。王の命令を守る者、すなわち、神の命令を守る者です。そういう人はわざわいを知りません。わざわいがないと言っているのではありません。クリスチャンにもわざわいはあります。でもそれはわざわいとはならないのです。なぜなら、そのようなわざわいさえも神は益としてくださるからです。この世の人から見たら何と不幸だと思うようなことでも、クリスチャンはそのような中にも幸いを見つけることができるのです。ローマ8:28に、このような約束があります。

「神を愛する人たち、すなわち、神のご計画にしたがって召された人たちのためには、すべてのことがともに働いて益となることを、私たちは知っています。」

ここに「すべてのことを働かせて」とあります。この「すべてのこと」の中には、良いことも悪いこともすべてです。ですから私たちは、わざわいの中でも益を見出すことができます。それゆえ、神の命令を守る者はわざわいを知らないのです。

Ⅲ.知恵のある者は神の時と方法を見分ける(5b-8)

第三に、知恵のある者は神の時と方法を見極めます。5b~8節をご覧ください。「知恵ある者の心は時とさばきを知っている。すべての営みには時とさばきがある。人に降りかかるわざわいは多い。何が起こるかを知っている者はいない。いつ起こるかを、だれも告げることはできない。風を支配し、風をとどめておくことのできる人はいない。死の日を支配することはできず、この戦いから免れる者はいない。そして、悪は悪の所有者を救い得ない。」

すべての営みには時があることについては、3章で語られました。すべてのことには定まった時期があります。天の下のすべての営みには時があるのです。知恵のある者の心は、その時とさばきを知っています。この「さばき」とは「方法」のことです。創造主訳聖書では「知恵がある人の心は、時と方法を知っている」と訳しています。つまり、知恵のある人の心は、どのようなタイミングで、またどのような方法で王に従えばよいのかを知っている、ということです。

それは、王に従うことだけではありません。すべての営みにおいて言えることです。6節には「すべての営みには時とさばきがある」とあります。知恵のある人は、その時と方法を見分けることができるのです。知恵に欠ける者は、それを見分けることができません。なぜなら、すべてのことの適切な時期や方法を知るためには、神からの分別力をいただかなければならないからです。しかし、どんなに知恵がある者でもわからないことがあります。たとえば何でしょうか、7節には「何が起こるかを知っている者はいない」とあります。将来何が起こるのか、いつそのようなことが起こるのか、について知っている人はいません。だれも告げることができないのです。

また、8節には「風を支配し、風をとどめておくことのできる人はいない。死の日を支配することはできず、この戦いから免れる者はいない。そして、悪は悪の所有者を救い得ない」とあります。

「風」と訳されていることばには※印が付いていますが、欄外の説明を見ると、あるいは「霊」「息」とあります。「風」も「霊」も同じ原語が使われているのです。ですからこれを、霊を支配し、霊をとどめておくことのできる人はいない、と訳すこともできます。そのように訳すと、次のみことばとのつながりが見えてきます。つまり、人は、自分のいのちをとどめておくこともできなければ、死の日を支配することができません。つまり、将来何が起こるのか、いつ起こるのかがわからないだけでなく、自分のいのちのことさえも自分で決めることができないということです。しかも、この戦いから逃れることができる人はひとりもいません。そして、悪は悪の所有者を救い得ないのです。どんなに悪に傾こうが、悪は悪を行う者を救うことができない、という意味です。つまり、善人でも悪人でも、死に対する戦いに勝利することができる人は一人もいないのです。

しかし、この死に勝利できる方がおられます。だれですか?そうです、死からよみがえられた方、私たちの主イエス・キリストです。主は、実際に十字架に掛かって死なれましたが、三日目によみがえられました。この方が死につながれていることなどあり得ないからです。イエス様は死に勝利されました。ですからこのように宣言されたのです。「わたしはよみがえりです。いのちです。わたしを信じる者は死んでも生きるのです。」(ヨハネ11:25)

何と力強い約束でしょうか。「わたしはよみがえりです。いのちです。わたしを信じる者は死んでも生きるのです。」この死との戦いから逃れることができます。主を信じる者は主と同じようによみがえり、天の御国に入れられるからです。これこそ真の希望です。人は希望がなければ前に進むことができません。しかし、ここに希望があります。死からよみがえられ、死に勝利された方、主イエス・キリストを信じる者は死んでも生きることができるのです。この方に信頼して歩めることは何と幸いなことでしょうか。

知恵のある者とされるにふさわしいのはだれでしょうか。その人は力の限り、見張って、心を見守ります。知恵の源であられる主との交わりを欠かしません。また、その人は神の命令を守ります。それが自分に理解できないことであっても、主は最善に導いてくださると信じているからです。そして、すべての営みには神の時とさばき(方法)があると信じて、神にすべてをゆだねるのです。なぜなら、神は人の死さえも支配しておられる方だからです。すなわち、神を恐れ、神の視点で人生を見ることのできる人、それこそ知恵のある人なのです。

作家のサン・デグジュペリは「星の王子さま」の中で、地球について王子さまに次のように言わせています。

「みんな特急列車に乗り込むけれど、今はもう何を探しているのかわからなくなっている。だから皆ソワソワしたり、堂々巡りしたりしているんだ。」

「大切なものは目に見えない。肝心なことは心で見ないと見えないんだよ。」

これはまさに、現代の社会に向けて語られているメッセージではないでしょうか。みんな特急列車に乗り込んでいるように忙しくしているけれども、何を探しているのかわからなくなっています。だから皆ソワソワしたり、堂々巡りしたりしているわけです。でも、大切なものは目には見えません。肝心なことは心で見ないと見えないのです。それは、神の視点で見るということです。

知恵のある者とさせていただきましょう。「主を恐れることは知恵の初め、聖なる方を知ることは悟りである。」(箴言9:10)主を恐れることから始めましょう。聖なる方を知ることから始めましょう。この方の視点で人生を見つめ、その命令を守り、そのみわざにすべてをゆだねることを大切にしていきたいと思います。いのちの泉はここからわくからです。この主を恐れ、へりくだって主のみこころに歩もうとする人に、主はご自身の知恵で満たしてくださり、その顔を輝かせてくださるようにお祈りします。

キリストにあって歩みなさい 伝道者の書7章15~29節

2020年1月3日(日)礼拝メッセージ

聖書箇所:伝道者の書7章15~29節(旧約P1147)

タイトル:「キリストにあって歩みなさい」

 主の2021年、明けましておめでとうございます。この新しい年、皆さんはどのような御言葉が与えられたでしょうか。私は詩篇92:13の御言葉が与えられました。「彼らは、主の家に植えられ、私たちの神のおお庭で花を咲かせます。」悪者は青草のように萌え出でますが、主を愛する者は、主の家に植えられ、神の大庭で花を咲かせます。この新しい年も、主の大庭、主の幕屋の庭で花を咲かせる年になりたいと思います。

さて、この朝私たちに与えられている御言葉は、伝道者の書7章15節からの御言葉です。伝道者は7章前半のところには、何が人のために良いことなのかを、知恵のある者と愚かな者の対比を通して学びました。その中心は何かというと、13節にあるように「神のみわざに目を留めよ」ということでした。神が曲げたものをだれもまっすぐにすることはできません。すなわち、神の成されたことをだれも変更することはできないのですから、それをありのままに受け入れ、それが神の最善と信じて前進するのがベストです。どのように受け入れれば良いのでしょうか?14節にあるように、「順境の日には幸いを味わい、逆境の日にはよく考えよ」ということでしたね。なぜなら、「順境日も」も「逆境の日」も共に神がお与えになられたものだからです。これもあれも、神のなさることなのです。ですから、そのすべてが神の主権によって成されていることを覚え、その神にすべてをゆだねることが求められているのです。今回はその続きとなります。

Ⅰ.正しすぎてはならない、悪すぎてはいけない(15-20)

 まず、15~20節までをご覧ください。「私はこの空しい人生において、すべてのことを見てきた。正しい人が正しいのに滅び、悪しき者が悪を行う中で長生きすることがある。あなたは正しすぎてはならない。自分を知恵のありすぎる者としてはならない。なぜ、あなたは自分を滅ぼそうとするのか。あなたは悪すぎてはいけない。愚かであってはいけない。時が来ないのに、なぜ死のうとするのか。一つをつかみ、もう一つを手放さないのがよい。神を恐れる者は、この両方を持って出て行く。知恵は町の十人の権力者よりも、知恵のある者を力づける。この地上に、正しい人は一人もいない。善を行い、罪に陥ることのない人は。」

 非常に含蓄のある言葉ではないでしょうか。この新年礼拝にふさわしい御言葉だと思います。15節の「すべてのことを見てきた」とは、人生におけるすべてのことです。その中には考えられないようなこと、信じられないようなこともあります。何とも理不尽だなぁ思えるようなことも含まれています。たとえば、その後にあるように「正しい人が正しいのに滅び、悪しき者が悪を行う中で長生きすることがある。」というようなことです。私たちもこのような現実に直面することがあるのではないでしょうか。そして、その度に、イエス様を信じ、神様に信頼して歩むことにいったいどんな意味があるのだろうかと考えさせられるわけです。中には、そのような不条理を経験する中で、「聖書はもういらない」と信仰から離れてしまう人もいます。しかし、そのような現実の中にあっても、神を恐れて生きることを学ばなければなりません。

伝道者ソロモンは、その理由を次のように語るのです。16~18節です。「あなたは正しすぎてはならない。自分を知恵のありすぎる者としてはならない。なぜ、あなたは自分を滅ぼそうとするのか。あなたは悪すぎてはいけない。愚かであってはいけない。時が来ないのに、なぜ死のうとするのか。一つをつかみ、もう一つを手放さないのがよい。神を恐れる者は、この両方を持って出て行く。」

どういうことでしょうか。正しい人が正しいのに滅び、逆に、悪しき者が悪を行う中で長生きすることがありますが、これもあれも、神がなさることなのです。私たちにはわからないことがあります。そうかといって正しい人であることが問題なのではありません。たとえ、正しい人が滅びていくかのように見えても、正しい人であること、イエス様を信じて義と認めていただくことは、神に受け入れていただく唯一の道であることに変わりはありません。問題は、自分で義と認めてもらおうとあくせくすることです。ですからここには「あなたは正しすぎてはならない。自分を知恵のありすぎる者としてはならない。」とあるのです。そうかと言って、悪すぎればいいのかというとそうでもありません。正しすぎるのはよくありませんが、悪すぎてもいけないのです。なぜなら、自分を滅ぼしてしまうことになるからです。

それが18節で言っていることです。「一つをつかみ、もう一つを手放さないのがよい。神を恐れる者は、この両方を持って出て行く。」この「一つをつかみ」とは、正しすぎることであり、知恵ありすぎることです。そして「もう一つを手放さないのがよい」の「もう一つ」とは、悪すぎることであり、愚かであることです。どちらも手放さないで、両方持っているのが良いのです。つまり、神に信頼し、すべてを神にゆだね、神がなさることを受け入れて、神に感謝して生きることです。それが神を恐れて生きる人なのです。

20節にその理由が述べられています。「この地上に、正しい人は一人もいない。善を行い、罪に陥ることのない人は。」この地上には正しい人など一人もいないからです。それなのに、自分を正しい者とするなら、あの律法学者やパリサイ人たちのように、人をさばいてしまうことになります。彼らは自分たちには神の律法が与えられているので、優れた者、正しい者だと思い込んでいました。その結果、そうでない人たちをさばいていたのです。そのようなことが私たちにもあります。私たちももし自分を正しい者とするなら、同じ誤りに陥ってしまいます。それは最初の人アダムの罪そのものです。彼の問題は何だったのでしょうか。それは自分を善悪の基準としたことです。神ではなく自分を基準にしました。その結果、神から「あなたは、食べてはならない、とわたしが命じた木から食べたのか」と問われたとき、「私のそばにいるようにとあなたが与えてくださったこの女が、あの木から取って私にくれたので、私は食べたのです。」と答えたのです。あろうことか、神と妻のエバとを非難したのです(創世記3:11,12)。

残念ながら、今も「あなたのせいで・・・」と罵り(ののしり)合う夫婦喧嘩がどれほどあるでしょう。問題は、正しすぎることです。「私は正しい。悪いのはあなただ」と徹底的に主張するなら、結婚関係は破綻してしまいます。それはすべての人間関係、また国と国との関係にも当てはまることです。そのようにして自分を滅ぼすことになってしまうのです。

また、「知恵がありすぎる」のも問題です。そこには大きな落とし穴があります。ソロモン王はこの世の誰よりも知恵がありましたが、多くの妻を持つことで妻たちの偶像崇拝に陥り、神からの警告にも耳を傾けなくなってしまいました。自分こそ知者だと思う人は、神にも人にも聞くことができなくなります。ですから、「正しすぎる」ことも「知恵がありすぎる」ことも、神と人のありがたさを忘れさせるきっかけになってしまい、人を滅ぼしてしまうことになります。

そうかといって、悪すぎるのもよくありません。ここには、「あなたは悪すぎてはいけない。愚かであってはいけない。」とあります。これは、悪すぎなければ多少の悪は赦されるということではありません。これは、悪や愚かさであることを開き直ることは危険であるという意味です。「どうせ、私は・・なんだから」と開き直るなら、自分を滅ぼしてしまうことになります。また、「神のかたち」に造られたすべての人には良心があり悪いことをしたら心が痛みますが、悪いことをし過ぎると、それさえも感じなくなってしまいます。その結果、生ける屍のような状態になってしまうわけです。

では、どうしたらいいのでしょうか。Ⅰヨハネ2:1をご覧ください。ここに解決があります。「私の子どもたち。私がこれらのことを書き送るのは、あなたがたが罪を犯さないようになるためです。しかし、もしだれかが罪を犯したら、私たちには、御父の前でとりなしてくださる方、義なるイエス・キリストがおられます。」

私たちはキリストによって罪が贖われ、神の前に義人とされました。しかし、私たちが罪を犯さずに生きることは不可能です。作家の三浦綾子さんは、その著「孤独のとなり」の中で「わたしたち人間は罪を犯さずには生きていけない存在だということである」と言っておられますが、罪を犯さずに生きていくことなどできないのです。…正しく歩もうとすればするほど、自分の愛のなさ、内側の醜さに心を痛めずにはいられません。しかし、私たちには、御父の前でとりなしてくださる方がおられます。その方は義なるイエス・キリストです。ですから、あなたが罪を犯したなら、その罪を悔い改めて、神に立ち返り、キリストにとどまることです。そうすれば、あなたの罪は赦されるのです。

18節に「一つをつかみ、もう一つを手放さないのがよい。」とあるのは、このことです。つまり、正し過ぎるのではなく、かといって悪すぎるのでもなく、謙虚になって自分の罪を認め、神の恵みとイエス様のとりなしに生きることこと、これが神の知恵であるということです。神を恐れる者は、この両方を持って出て行くのです。

あるとき、一人の若いクリスチャンの女性が、自分の弱さを率直に認めながら、真心から「私はイエス様なしには生きてゆけない・・」と言っているのを聞いたことがありますが、その謙遜な姿にとても感動したのを覚えています。自分を義とするのではなく、神の義、イエス・キリストの義に生きること、それが神の知恵なのです。

19節をご覧ください。「知恵は町の十人の権力者よりも、知恵のある者を力づける。」この知恵は、十人の権力者よりも、知恵ある者を力づけます。もっと力があるという意味です。なぜでしょうか?この地上に罪を犯さない人などひとりもいないからです。義人はいない。一人もいない。みんな罪を犯さずには生きていくことができません。そのような日々の歩みの中で私たちを真に力づけるのはこの神の知恵なのです。

Ⅱ.人の語ることばをいちいち心を留めてはならない(21-22)

次に、21~22節をご覧ください。ここにもう一つの知恵が語られています。「また、人の語ることばをいちいち心に留めてはならない。しもべがあなたをののしるのを聞かないようにするために。あなた自身が他人を何度もののしったことを、あなたの心は知っているのだから。」

人の語ることばをいちいち心に留めてはなりません。そうでないと、つまらないことに気が奪われてしまうことになります。それを気にしてどれだけ多くの人々が心を痛めていることでしょうか。ネットの書き込みで自殺する人も跡を断ちません。しかし、悪意ある者のことばは気まぐれです。そんなことばにいちいち躓き、心をかき乱されるのも馬鹿馬鹿しいことです。イギリスの有名な牧師チャールズ・スポルジョンはこう言いました。「人の舌を止めることはできない。だったら、自分の耳を閉じて、話されたことを気にしないことである」と。

22節には、どうして人の語ることばをいちいち心に留めてはならないのか、その理由が書かれてあります。それは「あなた自身が他人を何度もののったことを、あなたの心は知っているのだから。」です。なるほど、考えてみると、自分自身もよく人の悪口を言ってしまいます。自分も他人をののしるのだから、他人もあなたをののしるのは当然じゃないかというのです。自分は人から批判されたり、非難されたりするのが嫌なのに、自分は平気で人の悪口を言ってしまう。これが人間の性です。

大川従道先生が、ご自身の説教集「風は己が好む所に吹く」という本の中で、聖霊がご自身の教会を好んでいない、ということを感じた時があったと言っておられます。それは、先生がよく信徒を裁いていたことが原因でした。少し長いですが、その部分を引用させていただきます。

「私は鈴木健二さんの気くばりの本が出る前から、「気くばり牧師」と言われていました。日曜日、朝から晩まで私は気を配っていたのです。絶対に人から後ろ指さされないように気をつかっていたのです。老人には優しくし、青年にも仕え、人間的な努力で、電話の取り方、言葉づかい、カウンセリング、あらゆることに配慮していました。

日曜日の夜は疲れきり、コカコーラとスルメを買ってきて、妻を相手に信徒の悪口を言うのが楽しみでした。若い牧師が一生懸命頑張っているのだから、日曜日の夜くらい信徒の悪口を言わせてもらわなければ、と思っていたのです。

「あの役員は言うことは言うけれど金は出さないね。いつになったら給料上がるかね」

「婦人会の彼女はしゃべること喋ること。ありゃ、口から生まれてきたのかね」

「今の若者はしつけがなってないねえ。親の顔が見たい」信徒を裁くと溜飲(りゅういん)が下がり、「スカッとさわやかコカコーラ」でした。そして、また月曜日からさわやかに伝道する、というのを繰り返していました。

その点を、私は主から厳しく指摘されました。

・・・

しかし、私は神様から言われました。

「何を言うか。お前に必要だから、この人をここに置くのだ」

・・・

私は主の御前に涙を流しながら、「イエス様、ごめんなさい。あなたの愛する信徒を裁いていました。あなたが置いてくださったのに、「あいつの根性が悪い」などと思っておりました。赦してください!」

気持ちが変わらないうちに、次の日曜日にこんな説教をしました。

「愛する皆さん、私に御言葉が与えられました。この御言葉通りに生きれば絶対に祝福されると思います。それは、「風は己が好む所に吹く」という御言葉です。聖霊様は人格を持っておられて、人を裁くことがお嫌いです。それを示されました。皆さんの中にはお気づきの方もいらっしゃるかもしれませんけれど、私はけっこう皆さんを裁いておりました」

うなずいている人がいました。

「私はそれがいけないことだと分かりましたから、もう、どんなことがあっても皆さんを裁かない牧師になります。どうか私を赦してください。ところで、皆さんも、事によると、私を裁いていたでしょう」

またうなずいている人がいました。

・・・

それから教会に人が増え始め、試練もありましたが、ものすごく祝福され、教会堂も建てられました。大川先生いわく、祝福の原点は何でしょう。「裁き合わない」ことです。神様がくださった人生を裁き合わないことです。そうすれば、聖霊様は喜んでくださり、私たちの人生を祝福してくださいます。

私たちも他人を何度ののしったことでしょう。だから、他人があなたをののしるのは当然なことなのです。でもそのようなことにいちいち心を留めてはなりません。そうでないと、つまらないことに気を遣わなければならなくなるからです。むしろ、私たちは人をののしるのではなく神の愛で人を評価し、その人の良さを見つけ、その人のためにとりなしの祈りをささげていくべきです。そのように人を否定的な眼ではなく、肯定的な眼で見るなら、あなたもそのように観られるようになるでしょう。人の悪口、陰口は、自分に返ってくるものです。

米国の伝道者スタンレー・ジョーンズが、ある国の有力な将軍と話をしていたときのことです。この将軍は密かに女を囲っていました。

彼はしきりに、他のクリスチャンの悪口を言い出しました。ジョーンズは、このような状態の人のことをよく知っていました。

「悪意の背後には、自分自身の堕落を隠そうとする動機があるということ」を。

そこでジョーンズは、将軍の語る批判の言葉をさえぎって言いました。

「将軍、ペテロがヨハネについて『主よ、この人はどうですか』とイエスに尋ねたとき、主はこう言われました。『それがあなたと、何のかかわりがありますか。あなたはわたしに従ってきなさい。』(ヨハネ21:22)」

すると将軍は素直に、「どうも負けました」と自分の非を認めました。

大切なのは、他の人があなたのことを何と言っているかということではなく、主があなたに何と言っておられるかということであり、主に従っていくことです。

Ⅲ.キリストにあって歩みなさい(23-29)

最後に、23~29節をご覧ください。まず、23~25節までをお読みします。「私は、これらの一切を知恵によって試みた。私は言った。「私は知恵のある者になりたい」と。しかし、それは私には遠く及ばないことだった。今までにあったことは、遠く、とても深い。だれがそれを見極めることができるだろうか。私は心を転じて、知恵と道理を学び、探り出し、探し求めた。愚かさの悪と、狂気の愚かさを知ろうとした。」

伝道者は、人生におけるすべてのことを見極めるために知恵を得ようと決心しましたが、それは無理なことでした。知恵は遠いかなたにあって、だれもそれを見出すことはできないからです。そこで、彼は知恵と物事の道理を追及し、捜し求めました。すると、そこにあったのは人間の悪行と狂気の愚かさばかりでした。

その一つが26節にあることです。「私は、女が死よりも苦々しいことに気がついた。女は罠であり、その心は網、その手は、かせである。神に良しとされる者は女から逃れるが、罪に陥る者は女に捕らえられる。」

ここをちょっと見ると、女性の皆さんは憤慨してしまうかもしれませんね。でもこれは女性を蔑視したり、差別しているのではなく、私たちが陥りやすい罠について警告しているのです。それが「女」であり、「男」であるということです。つまり「異性」です。この「女」という言葉ですが、これは「娼婦」のことを指しています。伝道者は、こうした娼婦が死より苦々しいということを実感したのです。ソロモンには千人もそばめがいましたから、それがどれほど男を捕らえる罠であり、網であり、手かせであるのかを実感していたのでしょう。

しばらく前に、NHKBSプレミアムで「洞窟おじさん」というスペシャルドラマを放映しました。これは、親の虐待から逃れ13歳で家出をした少年が、43年間も洞窟で生活したという実話です。山奥の洞窟で一体どうやって43年間も1人で生活することができたのでしょうか。この少年はヘビや木の実で食いつなぎながら、やがて山の幸を売って大金を稼ぐ知恵を身につけていくのです。その中に自力でイノシシを狩るシーンが出て来るのですが、どうやって狩るのかというと罠を使ってです。土を深く掘りそこに竹を槍の形に鋭く切ったものを並べ、その上にうっすらと土をかぶせて元のように見せかけるのです。そして、イノシシの前に自分の姿を現して襲わせるのです。逃げるふりをした少年はその罠のそばを駆け抜け、イノシシがその罠に落ちるようにするのです。自分が落ちたら大変ですが、そうやってイノシシを捕まえて食いつないだのです。まさに女は罠であり、その心は網、その手は、かせです。神に喜ばれる者は女の罠から逃れますが、罪に陥る者は女に捕らえられるのです。

27~28節をご覧ください。「伝道者は言う。見よ。私が道理を見出そうとして、一つ一つに当たり、見出したことは次のとおりである。私のたましいは、なおも探し求めたが、見出すことはなかった。私は千人のうちに、一人の男を見出したが、そのすべてのうちに、一人の女も見出さなかった。」

「道理」とは、物事の正しいすじみち。また、人として行うべき正しい道のことです。伝道者はこの道理を見いだそうと一つ一つ当たりましたが、何も見出すことができませんでした。彼が見出したのは、千人のうちで心の真実な人は、男はせいぜい一人ぐらいしかいないということ、女の人に至っては一人もいませんでした。なんだ、やっぱり女性蔑視ではないかと思われるかもしれませんが、それは今の私たちの感覚とはかけ離れています。というのは、聖書は男女が等しい価値感を持っていると教えているからです。いずれにせよ、人として行うべき正しい道を知っている人はほとんどいませんでした。

そこで伝道者はこういうのです。29節をご覧ください。これが伝道者の結論です。ご一緒に読みましょう。「私が見出した次のことだけに目を留めよ。神は人を真っ直ぐな者に造られたが、人は多くの理屈を探し求めたということだ。」

伝道者は、知恵の探求の結果、正しい結論に至りました。それは、神は人を真っ直ぐな者に造られたが、人は多くの理屈を探し求めたということです。どういうことでしょうか。神は人を真っ直ぐな者として創造されたが、人は勝手に向きを変え、罪の生活へと向かって行った、ということです。「真っ直ぐな者に造られた」とは、正しい者に造られたという意味です。それは神のかたちに造られたということです。神を愛し、神と交わり、神の栄光を現す者として私たち人間を造られたのに、人は、本来造られた目的から離れて自分勝手な道に向かってしまいました。

これこそが、人間の本当の問題です。私たちの根本的な問題は神から離れてしまったことです。聖書ではこれを罪と言っています。「罪」とはギリシャ語で「ハマルティア」と言いますが、それは「的外れ」を意味します。本来なら神という的に向かって矢が放たれなければならないものを、その的を外してしまいました。それが「罪」です。その本質は「自分中心」です。神中心ではなく自分中心であること、それが罪です。罪を英語で書くと「SIN」と書きますが、真中にあるのは何でしょうか?「I」、「私」です。これが罪の本質なのです。

ですから、もし私たちが本当に満たされたいと願うなら、この罪を解決し、再び元々の状態、真っ直ぐな者に造り変えていただかなければなりません。神のかたちに再創造していただく必要があるのです。どうしたら新しく造り変えていただくことができるのでしょうか。Ⅱコリント5:17にこう約束されてあります。「ですから、だれでもキリストのうちにあるなら、その人は新しく造られた者です。古いものは過ぎ去って、見よ、すべてが新しくなりました。」

だれでも、キリストにあるなら、その人は新しく造られた者です。罪という古い性質が過ぎ去って、すべてが新しくされます。もしあなたが人生に答えを見出したいなら、満ち足りた人生を送りたいと願っているなら、キリストにあって神が造られた元の状態に造り変えられなければならないのです。

それは自力ではできません。ソロモンもそうでした。彼も自分の力で何とかしようとしましたができませんでした。日の下でどんなに労苦しても、「空の空。すべては空。」なのです。しかし、ここにソロモンよりも偉大な方がおられます。私たちを「真っ直ぐな者」、「正しい者」に造り変えてくださる方がおられるのです。それはイエス・キリストです。だれでも、キリストのうちにあるなら、新しく造り変えられます。それは完全無欠な人間に変えられるということではありません。神の目には、イエス・キリストのうちにいる者とされるということです。私たちはイエス・キリストのうちにいなければただの罪人にすぎません。しかし、イエス・キリストのうちにいるなら、私たちの罪が覆われるのです。キリストという義の衣を着せられるからです。イエス・キリストの義の衣を着て、神に再び受け入れられた者となり、本来の姿に造り変えられるのです。それ以外にいかなる理屈を探しても答えは見つかりません。唯一の答えは、イエス・キリストにあります。コロサイ2:3に「このキリストのうちに、知恵と知識の宝がすべて隠されています。」とありますが、このキリストに知恵と知識の宝がすべて隠されているからです。

あなたはどこに知恵を求めていますか。神の知恵はこの方、イエス・キリストにあります。ですから、このキリストを求め、キリストによって新しく造り変えられ、キリストの知恵に生きる者とさせていただきたいと思います。これが私たちの教会の今年の目標です。「キリストにあって歩む」。「このように、あなたがたは主キリスト・イエスを受け入れたのですから、キリストにあって歩みなさい。」(コロサイ2:6)

このキリストにあって歩むお一人お一人の上に、神の知恵と知識が豊かに満ち溢れますようにお祈りします。

知恵ある者と愚かな者 伝道者の書7章1~14節

伝道者の書7章に入ります。伝道者ソロモンは、6章の終わりで、何が人のために良いことなのかを、誰も告げることはできない、と言いました。しかし、この7章では、何が人にとって良いことなのかについて、よいものと、よりよいもの、知恵ある者と愚かな者の対比を用いて語っています。

Ⅰ.死ぬ日は生まれる日にまさる(1-4)

まず、1~4節までをご覧ください。1節には、「名声は良い香油にまさり、死ぬ日は生まれる日にまさる。」とあります。名声とは、その人の性質であり、評判のことです。また、良い香油とは、高価な香油のことです。つまり、よい評判を得ることは、高価な香油を持つよりもまさっているということです。リビングバイブルでは、「良い評判は、最高級の香水より値打があります。」と訳しています。では良い評判とはどのような評判なのでしょうか。

1節の後半を見てください。ここには、「死ぬ日は生まれた日にまさる。」とあります。ギョッとするような言葉です。私たちは普通命が誕生した時ほど喜ばしい日はないと思っています。ですから、その人の誕生日を記念してHappy Birthday!と祝福するわけですが、ここでは、その生まれた日よりも死ぬ日のほうがまさっているというのです。どういうことでしょうか。「死ぬ日は生まれる日にまさる」とは、生きるよりも死ぬ方が良いという意味ではありません。むしろ、私たちの人生は死によって終わるということをきちんと受け止めることが重要であるということです。ですから、良い評判を得る人とは、人生には終わりがあるということをきちんと認識し、死について真剣に考える人のことなのです。私たちはどちらかというと名声よりも良い香油を求めてしまいます。すなわち、裕福で何不自由のない生活、社会的な地位を得ること、あるいは、教会の奉仕に勤しむことなどです。それらのことが悪いと言っているのではありません。それよりももっと良いものがあると言っているのです。それは何か、それは名声です。良い評判です。あなたの中身の方が大切なのです。あなたが死について真剣に考え、それに備えた生き方をすることの方がずっとまさっているのです。

それは、2節を見てもわかります。2節には、「祝宴の家に行くよりは、喪中の家に行くほうがよい。」とあります。祝宴に行くよりも、葬式に行くほうがよい、というのです。なぜでしょうか?「そこには、すべての人の終わりがあり、生きている者がそれを心に留めるようになるから」です。これは、決して結婚披露宴などどうでも良いということではありません。結婚披露宴も良いものです。イエス様もカナの婚礼で水をぶどう酒に変えるという最初の奇跡を行い、その結婚式を祝福されました。しかし、それよりもよいのは、喪中の家に行くことです。なぜなら、死について深く考えさせられるからです。人生の終わりが死であることを意識する人は、日々の生活を律し、有意義な地上生涯を送るようになるからです。

私は、いろいろな式に関わることがありますが、正直、お葬式の時が一番考えさせられます。実際、多くの人が聖書の話に真剣に耳を傾け、人生観とか、死生観について考えるのではないでしょうか。その一方で祝宴となると、どんなに聖書の話をしても、ほとんどの人が耳を貸そうとしません。もう冗談を言ったり、茶化したり、受け流したりするわけです。しかし、お葬式になると他人事のように話を聞くということがほとんどありません。死という現実が目の前に突きつけられて、真剣に考えざるを得ないのです。だから、祝宴の家に行くよりは、喪中の家に行くほうがよいのです。

3節をご覧ください。「悲しみは笑いにまさる。顔が曇ると心は良くなる。」どういうことでしょうか。尾山令仁先生が訳された創造主訳聖書では、「悲しみは笑いに勝る。悲しみによって、心は良くなる。」と訳されています。つまり、人は悲しみを体験することによって人生の意味について深く考えるようになるということです。そして、生きていることのありがたさを思うようになるということです。

イエス様は山上の説教の中でこのように言われました。「心の貧しい者は幸いです。天の御国はその人たちのものだからです。悲しむ者は幸いです。その人たちは慰められるからです。」(マタイ5:3-4)

これは、イエス様が教えられた「至福の教え」です。「至福の教え」といっても、自分の腹を肥やす「私服の教え」ではありません。どのような人が幸いな人なのかという意味の至福の教えです。イエス様はこの中で8つの事を教えておられますが、その一部がこれです。それは、心の貧しい者であり、悲しむ者です。この貧しさとか、悲しみというのは単に物質的な貧しさとか、感情的な悲しみのことではなく霊的な貧しさ、霊的な悲しみのことです。一般に人はこうし貧しさや悲しみを避けようとする傾向がありますが、こうした貧しさや悲しみを体験することによって、人生の意味を考えるようになり、たましいの救いを求めるようになります。また、神を信じる者にとっては、そうした悲しみや苦難の中に神の目的と意味を見出すきっかけとなります。ですから、詩篇の作者は、このように言っています。「苦しみにあったことは、私にとって幸せでした。それにより、私はあなたのみおしえを喜んでいます。」(詩篇119:71)

アメリカの主婦の方で、メアリー・ネメック・ドーレマスという方がおられますが、彼女はウイルスに冒されてからだが麻痺し、全身が機能不全に陥りました。

彼女は、車いすの生活をしながら、日中は30分おきに薬を飲み、夜間も数回飲むことによって、かろうじて全身麻痺から守られています。しかし、私はいったいどうしてこんな目にあうのかを、神さまに尋ねることはしませんでした。むしろ私は、いつもこういうふうに祈りました。

「神様、私に何をお望みなのでしょうか。私はどこへ行くことになっているのでしょうか。」と。

人生には目的があり、しかるべき時にそれが示されることを知りました。私は理由を知りたいという気持ちを放棄しましたが、この態度は自分にとってとても健康的なことでした。

彼女は、こうした苦しみの中で、その神との関係が深められ、信仰が強められていったのです。まさに、苦しみにあったことはわたしにとって幸せでした。それにより、神のみおしえを学ぶからです。

それに対して、笑いは一時的なものであり、単に時間を浪費するだけの結果で終わってしまいます。 6節には「愚かな者の笑いは、鍋の下の茨がはじける音のよう。」とあります。

皆さん、茨を燃やしたことがありますか。茨を燃やすとすぐによく燃えますが、残念なことにすぐに燃え尽きてしまいます。ですから、たとえ鍋の下に置いてもパチパチとはじけるだけで、大した火力とはならないのです。愚か者の笑いも同じです。その時だけです。その時は一時的に元気になったかのように感じてもすぐに元に戻ってしまいます。それは空しいことです。すべての笑いがそうだと言うわけではありませんが、愚か者の笑いはそうなのです。そんな笑いを求めてあくせくするよりも、人生で経験する様々な悲しみ、苦しみから学ぶことのほうがどれほどよいでしょう。

4節をご覧ください。「知恵のある者の心は喪中の家にあり、愚かな者の心は楽しみの家にある。」

これは2節でも言われてきたことと同じことです。知恵ある者の心は喪中に向きます。なぜなら、彼の人生観は、死を前提として築き上げられているからです。しかし、愚か者の心はそうではありません。死の現実を直視することができないので、楽しい家にしか心が向きません。人生の空しさや虚無感に浸っているよりも、おもしろおかしく生きたほうがましだと思っているからです。そんなことを考えても暗くなるばかりだし、どうせ考えても答えなんか出ないのだから、だったらおもしろおかしくい生きればいいんじゃないかというのです。でも聖書は、こういう人は愚かな人だと言っています。

あなたの心はどこに向いていますか。神の人モーセはこう祈りました。「どうか教えてください。自分の日を正しく数えることを。そうして私たちに、知恵の心を得させてください。」(詩篇90:12)

喪中の家に行くとは、人生には限りがあるということを悟り、その限られている時間の中で、神様から知恵をいただき、また導いていただいて、与えられている一日一日を、一瞬一瞬を大切に生きていくことにほかなりません。祝宴の家に行くよりは、喪中の家に行くほうがよい。このことを心に留めて、自分の日を正しく数え、知恵の心を得させていただきたいものです。

Ⅱ.忍耐は、うぬぼれにまさる(5-12)

次に、5~12節までをご覧ください。5節をお読みします。「知恵のある者の叱責を聞くのは、愚かな者の歌を聞くのにまさる。」

知恵のある者の叱責とは、建設的な批判や助言のことです。そのような声に耳を傾けるなら、その人はより成長し栄誉を得ることになります。しかし、それとは逆に、愚かな者の歌をいくら聞いても何も残るものありません。この愚か者の歌とは何を指しているのかわかりません。ある人は、これは酔っ払いの歌ではないかという人がいますが、それが酔っ払いの歌とようよりも、「知恵の初め」である神様抜きの、人間中心の歌と理解するのが良いと思います。そのような歌は何の益ももたらしません。

7節をご覧ください。「虐げは知恵のある者を狂わせ、賄賂は心を滅ぼす。」どういうことでしょうか。虐げとは、虐待とか辛い出来事のことです。こういうものがあると知恵のある者を狂わせてしまいます。つまり、判断力を失い、愚かにふるまうようになってしまうということです。知恵のある者を狂わせてしまうもう一つのものは、賄賂です。賄賂は人の心を狂わせます。リビングバイブルでは、「わいろは人の判断力を麻痺させる」と訳しています。正しい判断ができなくなってしまうのです。ではどうしたらいいのでしょうか。最初から賄賂を受け取らないことです。政治の世界では贈賄事件があとを断ちません。それは必ず明るみに出ます。ですから、一番良いのは最初からそれを拒否することです。それがまことの知恵なのです。

8節をご覧ください。「事の終わりは、その始まりにまさり、忍耐は、うぬぼれにまさる。」「事の終わりは、その始まりにまさり」とは、1節から4節で語られてきたことに通じるところがあります。つまり、事の結果を見るまでは軽はずみに物事の判断をすべきではないということです。人生の終わりとは何ですか。それは死です。その死の結果を見るまでは、その人の人生がどうであったのかを判断することはできません。たとえ生きている間にどれほど裕福であったとしても、真のいのちを損じたら何の意味もありません。イエス様はこのことを、畑が豊作であったあの金持ちのたとえで教えられました。彼は作物が豊作だったとき、自分のたましいにこう言いました。「どうしよう。作物をしまっておく場所がない。そうだ!倉を壊してもっと大きいのを建て、そこに穀物や財産をすべてしまっておこう。そして、自分のたましいにこう言おう。「わがたましいよ、これから先何年分もためられた。さあ休め。食べて、飲んで、楽しめ。」(ルカ12:17-19)

しかし、神は彼にこう言われました。「愚か者、おまえのたましいは、今夜おまえから取り去られる。おまえが用意した物は、いったいだれのものになるのか」(ルカ12:20)

彼の問題はどこにあったのでしょうか。人のいのちが財産にあると思ったことです。けれども、そのいのちが取り去られるとしたら、いったいそこにどんな意味があるというのでしょうか。そのいのちの良し悪しは、事が終わってみないとわからないのです。この地上での生涯は苦労が絶えないものであっても、その生涯の中で救い主イエス・キリストと出会い、天の御国に引き上げられる終わりであるなら、その人の終わりは、その始まりにまさるのです。私は、そのような人を何人も見てきました。たとえその人の生涯がどんなに悲惨なものであったとしても、それが天につながる生き方であるなら、それこそ幸いな一生であったと言えるのではないでしょうか。

ですから、事の結果を見るまでは忍耐すべきで、軽々しく心を苛立たせてはなりません。あなたは心をイラってしていませんか。私たちはちょっとしたことですぐにイライラしてしまいます。それは愚か者の心に宿るものです。でも知恵のある者は違います。知恵のある者の心に宿るのは、忍耐です。「忍耐はうぬぼれにまさる。」とあります。忍耐して後悔することはありませんが、うぬぼれると、高ぶると破滅の一途をたどることになります。箴言16:18には、「高慢は破滅に先立ち、高ぶった霊は挫折に先立つ。」とあります。それは、罪の性質の一つなのです。私たちはうぬぼれではなく、忍耐を身につけましょう。軽々しく心を苛立たせるのではなく、イエス・キリストによって神との平和が与えられていることを感謝し、この平和が心を支配するように祈ろうではありませんか。

心が平和であるために必要なもう一つのことは何かというと、今に感謝し、今を大切に生きることです。10節をご覧ください。ここには、「「どうして、昔のほうが今より良かったのか」と言ってはならない。このような問いは、知恵によるのではない。」とあります。

「昔のほうがよかった」というのは、過去に生きている人の口癖です。昭和の古き良い時代を知っている人は、ついつい言ってしまいます。「昔のほうがよかった」と。しかし、それは過去に生き続けていることです。確かに、昭和の時代の方が良かったなあと思います。私は別に昭和の初期から生きているわけではありませんが、そのように感じることがよくあります。でも、それは知恵によるのではありません。愚問にすぎません。なぜなら、どんなに過去が良くても、私たちは今を生きなければならないからです。であれば、今がいかに困難な状況であっても、この今をどのように生きるかを考えることのほうがもっと重要なのです。もしこのように言うことがあるとしたら、何が問題なのでしょうか。どこに原因があるのでしょうか。それは終わりまで待つことができずイライラしてしまう心と、すぐにそのように判断してしまう思いです。だから伝道者は8節で、「事の終わりは、その始まりにまさり、忍耐は、うぬぼれにまさる」と言ったのです。私たちは「待てない」のです。すぐに結果を求めてしまいます。すぐに判断してしまうのです。そんな私たちに聖書は、「あわてない、あわてない。一休み、一休み」と問いかけているようです。事の終わりは、その始まりにまさり、忍耐は、うぬぼれにまるのですから。私たちはすぐに結果を求めるのではなく、事の終わりがどうなのかを見て判断しなければなりません。終わり良ければすべて良し、です。それまでは神の平安の中でじっと忍耐し、神に示されることをコツコツと行っていけばいいのです。大切なのは自分がどう思うのか、どう感じるのかではなく、永遠に変わらない神のことばである聖書が何と言っているのかであり、そのみことばに堅く立ち続けることです。

11節と12節をご覧ください。「資産を伴う知恵は良い。日を見る人に益となる。知恵の陰にいるのは、金銭の陰にいるようだ。知識の益は、知恵がその持ち主を生かすことにある。」

「資産を伴う知恵は良い」とはどういう意味でしょうか。新共同訳では、「知恵は遺産に劣らず良いもの。日の光を見る者の役に立つ。」と訳しています。創造主訳聖書では、「知恵は、相続財産のように価値がある。いやそれ以上に、人々に有益だ。」と訳しています。ここでは10節の「知恵によるのではない」にかけて、知恵をたたえているのです。それは遺産に劣らず価値があり、いや、それ以上に人々にとって有益であるということです。

なぜでしょうか。その理由が12節にあります。それは、金銭と同様に人を守ってくれるからです。「陰」というのはそういうことですね。金銭は、たとえば病気をしたり、災害にあったりした時にとても役に立ちます。そういう意味で守ってくれるわけです。「金銭の陰にいるようだ」というそういう意味です。それと同じように、知恵はその人を道徳的堕落から守ってくれます。いや、知恵はその持ち主を生かすという点でもってすぐれています。考えてみるとそうですよね。どんなに資産があっても、どんなに金銭があっても、それが人を生かすことにはなりません。むしろ、その人をダメにしてしまうことさえあります。しかし、そこに知恵が伴うことによってそうした資産や金銭が生かされるだけでなく、ひいてはその人自身を生かすことになります。そういう点で、知恵は金銭よりもさらにまさっていると言えるのです。

皆さん、私たちにはこの知恵が与えられています。コロサイ2:3には「このキリストのうちに、知恵と知識との宝がすべて隠されています。」とあります。どこに知恵と知識の宝が隠されているのですか。「このキリストのうちに」です。神の恵みによってキリストを信じ、キリストのうちにある者とされた私たちは、この知恵と知識が与えられているのです。それは金よりも、純金よりも慕わしいものです。それなのにどうしてあなたは金がないと嘆くのでしょうか。私たちには金よりももっとすぐれた知恵と知識が与えられていることを覚え、日々感謝と喜びをもってキリストに聞き従う者でありたいと思うのです。

Ⅲ.順境の日には喜び、逆境の日には反省せよ(13-14)

最後に、13節と14節を見て終わりたいと思います。「神のみわざに目を留めよ。神が曲げたものをだれがまっすぐにできるだろうか。順境の日には幸いを味わい、逆境の日にはよく考えよ。これもあれも、神のなさること。後のことを人に分からせないためである。」

それゆえ、伝道者はこのように勧めるのです。「神のみわざに目を留めよ。神が曲げたものをだれがまっすぐにできるだろうか。」神のみわざを、だれも変更することはできません。起こったことは受け入れ、それが神の最善と信じて前進するのです。それが知恵のある人です。

でも、私たちの人生には順境の日ばかりではなく、逆境の日もありますね。そういう時にはどうしたらよいのでしょうか。ここには、「順境の日には幸いを味わい、逆境の日には良く考えよ。」とあります。新改訳聖書第三版では、「順境の日には喜び、逆境の日には反省せよ。」となっています。私はこちらの訳のほうが好きですね。順境の日には喜び、逆境の時には反省すればいいのです。なぜなら、「順境」も「逆境」も共に神がお与えになるからです。どうせなら「順境の日」ばかりだといいのですが、そういうわけにはいきません。私たちの人生には「順境の日」も、「逆境の日」もあります。どうして神様は順境の日ばかり与えてくれないのでしょうか。それは、もし順境の日ばかりなら、人は反省することを忘れて高慢になり、神をないがしろにするからです。逆に、逆境の日ばかりならば、人は喜びと希望を失い失意に沈み込んで、神を忘れてしまうでしょう。ですから神は、私たちの人生に順境の時と逆境の時をバランスよく与えてくださり、すべての主権が神にあることを教え、神に信頼することを求めておられるのです。

順境の日と逆境の日、あなたは今、どちらの日を迎えていますか。順境の日には喜び、逆境の日なら反省しましょう。それがどちらであっても、それも神のみわざであることを思い、神の主権を認め、神に信頼したいと思うのです。

過去の偉人たちも挫折を乗り越えて成功に導かれています。エイブラハム・リンカーンは小学校を中退し、若いときには、ピジネスのトラブルにより無職になります。恋人が病気で亡くなると鬱になり、州議会、上院、下院選挙に立候補するも計8回落選しました。しかし、最後に彼は大統領になりました。51歳の時です。

彼は、このような言葉を残しています。「転んでしまったことなど気にする必要はない。そこからどうやって立ち上がるかが大事なのだ。」まさに、逆境の日には反省せよ、ですね。彼がそのようにして立ち上がることができたのは、彼が神に信頼し、聖書を通して神の知恵に生きていたからです。

発明王として有名なトーマス・エジソンは、若いころ「生産性がなさすぎる」という理由で解雇されました。電球の発明のために失敗を繰り返しますが、「千回の失敗をしたのではなく、千回のステップを経て電球の発明ができた」と語ったそうです。

ウォルト・ディズニーといえば、今では知らない人はいません。しかし、彼は若いころ、新聞社を解雇されましたが、「彼は想像力に欠け、良い発想は全くなかった」と言われていました。彼は、ディズニーランドを建てる前に何度も倒産を経験しています。

偉人たちの生涯をみると、大きな働きをする人ほど、周りに理解されず辛い日々を過ごしていたように思います。しかし、周囲の評価に左右されない信念を持っていたことが分かります。

イスラエルには砂漠の花園と呼ばれる地域があります。普段は砂漠で全く何もないような所ですが、いったん雨が降ると、一週間後には一面の花園が出現します。雨が降らなければ、2年でも3年でも花を咲かせるために待機するのです。私たちの人生にも砂漠の時、逆境の時があります。けれども、時がくれば、必ずや神様が花を咲かせてくださいます。大切なのは、その逆境の時をどのように過ごすのかということです。順境の日には喜び、逆境の日には反省せよ。どんな日でも共にいてくださる神様に目を留め、神のみわざに期待しながら、神のみことばに学び、根を深く張っていきたいと思います。それが聖書の言う、知恵のある者の生き方なのです。

大きな喜びの知らせ ルカ2:8-12

2020年12月20日(日)クリスマス礼拝メッセージ

聖書:ルカ2:8-12(新約P110)

タイトル:「大きな喜びの知らせ」

 主の年2020年のクリスマスを迎えました。おめでとうございます。聖書には、イエス・キリスト誕生という驚くべきニュースが最初に伝えられたのは、ユダヤの田舎のベツレヘムという町で、羊を飼っていた羊飼いたちのところでした。彼らが野宿をしながら、羊の群れの夜番をしていると、突然、主の使いが彼らのところに来て、こう告げたのです。

「御使いは彼らに言った。『恐れることはありません。見なさい。私は、この民全体に与えられる、大きな喜びを告げ知らせます。今日ダビデの町で、あなたがたのために救い主がお生まれになりました。この方こそ主キリストです。あなたがたは、布にくるまって飼葉桶に寝ているみどりごを見つけます。それが、あなたがたのためのしるしです。』」(ルカ2:10-12)

 どうしてこれが喜びの知らせなのでしょうか。救い主が生まれたからといって、彼らの人生が劇的に変わるわけではありません。救い主が生まれようが生まれまいが、彼らは依然として羊飼いを続けていかなければなりません。いったいなぜこれが喜びの知らせなのでしょうか。 きょうは、その三つの理由を見ていきたいと思います。かなわち、第一に、キリストはダビデの町でお生まれになられたということ、第二に、キリストは飼い葉桶に寝かせられたということ、そして第三に、あなたの救い主としてお生まれになられたということです。

 Ⅰ.ダビデの町で生まれた救い主(11)

 まず、11節をご覧ください。ここには「今日ダビデの町で、あなたがたのために救い主がお生まれになりました。この方こそ主キリストです。」とあります。

キリストは、どこで生まれのでしょうか。ダビデの町です。ダビデの町とは、ユダヤのベツレヘムという小さな町です。実は、旧約聖書においては、「ダビデの町」はいずれもエルサレムでした。Ⅱサムエル5:7には、「しかし、ダビデはシオンの要害を攻め取った。これが、ダビデの町である」とあります。「シオン」とは「エルサレム」のことです。ですから、ダビデの町というのはエルサレムのことなのです。それなのに、ここには「ベツレヘム」とあります。どうしてルカはベツレヘムをダビデの町と言ったのでしょうか。それは、このベツレヘムこそダビデが生まれた出身地であったからです。Ⅰサムエル記17:11をご覧ください。ここには「 さて、ダビデは、ユダのベツレヘム出身の、エッサイという名のエフラテ人の息子であった。」とあります。元々、ダビデとはダビデの出身地のベツレヘムでしたが、ダビデがエルサレムを攻め取ったとき、そこをイスラエルの政治的、宗教的な中心地としたことから、これをダビデの町と呼ぶことにしたのです。しかし、ルカはそうではなく、ベツレヘムであることを強調しました。なぜでしょうか。なぜなら、キリストが生まれるのはペレツへ無でなければならなかったからです。旧約聖書にそのように預言されていたました。ミカ書5:2を開いてください。ここには「ベツレヘム・エフラテよ。あなたはユダの氏族の中で最も小さいものだが、あなたのうちから、わたしのために、イスラエルの支配者になる者が出る。その出ることは、昔から、永遠の昔からの定めである。」(ミカ5:2)」とあります。

 これは、キリストが生まれる約700年前に預言されたものですが、ここには、イスラエルの支配者となる者が、ベツレヘムから出ると預言されてありました。イスラエルの支配者とはイスラエルを治める者のことですが、それはユダ族のベツレヘムという小さな町から出ると言われていたのです。それはダビデの家系につながる方ですが、ダビデ王とは違いダビデの家系から将来出てくる支配者のことです。つまり、キリストはエルサレムではなくベツレヘムから生まれるという預言だったのです。それは、昔から、永遠の昔から定めでした。キリストはそのとおりにお生まれになられたのです。ということはどういうことかと申しますと、この方こそ間違いない救い主であるということです。

 まさか偶然でしょう、と思われる方もいるかもしれません。しかしこれは偶然ではありません。もしこの預言だけが的中したというのなら、あるいは偶然だと言えるかもしれません。しかし、キリストに関する預言の成就はここだけでなく、聖書の至るところに見ることができます。たとえば、キリストの誕生に関して言うなら、皆さんもご存知のように処女から生まれると預言されていましたが、その通りになりました。イザヤ書7:14です。「それゆえ、主は自ら、あなたがたに一つのしるしを与えられる。見よ、処女が身ごもっている。そして男の子を産み、その名をインマヌエルと呼ぶ。」有名な「インマヌエル」預言です。この預言のとおりに、キリストは処女マリヤからお生まれになられました。

そればかりではありません。イザヤ書9:6~7には、この方がどのような方であるかも預言されてありました。「ひとりのみどりごが私たちのために生まれる。ひとりの男の子が私たちに与えられる。主権はその肩にあり、その名は「不思議な助言者、力ある神、永遠の父、平和の君」と呼ばれる。その主権は増し加わり、その平和は限りなく、ダビデの王座に就いて、その王国を治め、さばきと正義によってこれを堅く立て、これを支える。今よりとこしえまで。万軍の主の熱心がこれを成し遂げる。」とあります。やがて来られるみどりごは、「不思議な助言者、力ある神、永遠の父、平和の君」です。その方はダビデ王のように王座に就きますが、ただの王座ではなくとこしえの王座です。その王座に就いて、王国を治め、さばきと正義によってこれを堅く立て、これを支えるのです。だれがこんなことができるでしょう。だれもできません。しかし、神はおできになります。万軍の主の熱心がこれをするのです。その方はだれでしょう。そうです、神の子イエス・キリストです。

 このように、キリストに関する預言は旧約聖書の中にたくさんあります。直接的な預言だけで少なくても300以上あります。間接的なものも含めると、実に400以上あります。そのすべての預言が成就したのは、この人類の歴史上、イエス・キリスト以外にはおられません。イエス・キリストこそ、永遠の昔から、神が定めておられた救い主なのです。これはすばらしい喜びの知らせではないでしょうか。

皆さんはあまり見たことがないと思いますが、1万円札の肖像となっている人物が誰だかわかりますか?そうです、福沢諭吉です。慶応義塾大学の創設者ですね。彼は、私たちが思っている以上に聖書の影響を受けていました。自分の子どもたちに、日々の教えという人生訓を書き残しましたが、そこには、天地万物を造られた神を敬うようにと書いていました。

それはともかく、彼が生まれたのは大阪にあった中津藩の蔵屋敷でした。彼の活躍を称えて、大阪の中津藩蔵屋敷があったところには福沢諭吉誕生の地という石碑が建っています。

偉大な生涯を歩んだ人の誕生を記念する、というのはよくありますが、約束通りに生まれたことを確認し、それを喜ぶためにお祝いするというようなことは聞いたことがありません。けれども、キリストは旧約聖書に約束された通りに生まれ、その通りの生涯を歩まれました。偉大な生涯を歩んだためにその人の誕生を記念する、というのではなく、約束通りに生まれたことを確認し、喜ぶためにお祝いするのがクリスマスなのです。

 Ⅱ.飼い葉桶に寝ているみどりご(12)

 第二のことは、キリストは飼い葉桶で生まれたということです。12節に、「あなたがたは、布にくるまって飼い葉桶に寝ておられるみどりごを見つけます。」とあります。飼い葉桶で生まれたことが、どうして大きな喜びなのでしょうか。

皆さんは、飼い葉桶という言葉を聞くと、家畜小屋に置かれた家畜のえさを入れる箱を思い浮かべるかと思いますが、当時の飼い葉桶は、桶といっても大きな石や岩に細い溝が掘られただけのものでした。そこに動物のエサになる藁が敷かれてあったのです。その上にキリストは寝かされました。また、飼い葉桶があったということは、そこが家畜小屋であったことを意味していますが、当時の家畜小屋も私たちが想像しているような木で作られた小屋ではなく、一般に洞穴を掘って作られただけのものでした。その中に家畜を入れていたのです。キリストが生まれたのはそのような所でした。それがどうして喜びなのでしょうか。最悪じゃないですか。皆さんに待望の赤ちゃんが生まれたら、そんなところに寝かせるでしょうか。だれでも暖かくて柔らかいベッドに寝かせたいと思うでしょう。それなのに、キリストは冷たくて堅い、しかも汚いベッドに寝かせられました。ベッドじゃありません。エサ置きですよ。キリストはそんなところで生まれてくださったのです。どうしてこれが喜びの知らせなのでしょうか。ここには、「それが、あなたがたのためのしるしです。」とあります。これは羊飼いたちにとってのしるしだったのです。どんなしるしだったのでしょうか。

第一に、それはだれでも、どんな人でもこの方の許に行くことができるというしるしです。もしイエス様が王宮のような所で生まれたなら、羊飼いたちは行くことかできなかったでしょう。そこに行くことができるのは本当に限られた人だけです。しかしイエス様は飼い葉桶に寝かせられました。ですから、社会的に最も低い職業であると思われていた羊飼いでも、行くことができました。どんなに汚れた人でも、どんなにみじめな人でも、どんなに貧しい人でも、どんなに孤独な人でも、どんなに問題を抱えている人でも行くことができたのです。

昨日は、スーパーキッズのクリスマスがありまして、「したきりすずめのクリスマス」を劇でやりました。そこには、欲張りなばあさんや人を殺した罪人をはじめ、自分は正しいと思っていたじいさんなど、いろいろな人物が登場するのですが、イエス様はそのすべての人の罪を負って十字架にかかり、死んでくださいました。だからこそ、すべての人の悩み、すべての人の苦しみ、すべての人のも問題を解決することができるのです。へブル2:10には「多くの子たちを栄光に導くために、彼らの救いの創始者(イエス様)を多くの苦しみを通して完全な者とされたのは、万物の存在の目的であり、また原因でもある神に、ふさわしいことであったのです。」とあります。それはイエス様にふさわしいことでした。多くの子たちを栄光に導くために、キリストは多くの苦しみを通られたのです。もしキリストがこうした苦しみや痛みを通らなかったら、そのような人たちを十分理解することも、助けることもできなかったでしょう。けれども、キリストは飼い葉桶で生まれてくださいました。それは、そのような境遇の中いるすべての人々を助け、救うことができるためです。

キリストが飼い葉桶に寝かせられたことのしるしの第二は、そのことによってイエス様がどのようなお方であるのかを示していました。先ほど、当時の家畜小屋は天然の洞窟を掘って作られたものであると申し上げましたが、これらの洞穴にはもう一つの使い道がありました。何だと思いますか。そうです、お墓です。当時ユダヤ人は遺体を布に包んで天然の洞穴の中に安置しました。イエス様が葬られたのもこのようなお墓でした。ですから、その入口に大きな石が置かれてあったのです。そして、ここでは赤ん坊のイエス様が布に包まれて天然の洞穴に寝かされていました。それは当時の人々の目には墓場に置かれた遺体を連想させるものでした。どうしてこれが喜ばしい知らせなのでしょうか。キリストは人々から喝采を受けるためではなく、人々の罪を背負い、十字架にかかって死ぬために来られたということを示していたからです。このことによって、いかなる罪人も赦されるという道が開かれたのです。

ここに、神様の愛が表されています。「神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに、世を愛された。それは御子を信じる者が、ひとりとして滅びることなく、永遠のいのちを持つためである。」(ヨハネ3:16)

また、マルコ10:45には、「人の子(イエス様)が来たのも、仕えられるためではなく、かえって仕えるためであり、また、多くの人のための、贖いの代価として、自分のいのちを与えるためなのです」とあります。

イエス様が来られたのは、仕えられるためではなく、かえって仕えるため、贖いの代価として、自分のいのちを与えるためだったのです。この全宇宙の創造主であられる方が人の姿を取ってこの世に来てくださったというだけでも奇跡なのに、そればかりか、私たちを救うために十字架にかかって死んでくださいました。これこそクリスマスの奇跡です。これはすばらしい喜びの知らせではないでしょうか。

Ⅲ. あなたのための救い主(11)

第三のことは、キリストはあなたの救い主として生まれてくださったということです。11節をご覧ください。ここには「今日ダビデの町であなたがたのために救い主がお生まれになりました。この方こそ主キリストです。」とあります。この方は、あなたのために救い主として生まれてくださいました。

先日NHKの番組で「サードマン現象」を扱うものを見ました。「サードマン」というのは「第三の人」という意味です。実はこの世界には崩壊するビルの中から一人脱出できたり、深海の洞窟の中で命綱を失ったのに戻って来ることが出来たり、宇宙空間でトラブル続きのステーションで落ち着きを与えられたりして、九死に一生を得た人々が沢山いらっしゃいます。彼らは皆、異口同音に「ピンチの時、誰かの声に導かれて平安を取り戻し、すべきことが分かり、正しい選択を奇跡的に積み重ねて脱出することが出来た」と証言しています。この声を彼らにかけた存在をサードマン、第三の人と呼んでいるのです。 それは、私たちの人生においても言えることで、私たちが絶体絶命のピンチに陥った時、このような存在がいたら、どれほど大きな助けとなることでしょう。この助けこそ、あなたのために生まれてくださったキリストです。キリストは、単にピンチの時に助けというだけでなく、私たち人間の本質的な問題である罪を解決し、その罪から救ってくださるためにこの世に来てくださいました。これこそ、私たちにとっての真の希望です。

今は「イベントオリエンテッド」の時代であると言われています。これは、人々は、何か楽しみをもたらすできごとやイベントがあってはじめて喜びを感じることができる、というものです。そしてそれが過ぎ去ってしまうと、急に虚しさがやって来るのです。「イベント」やお金の多い少ないといった外側のものに喜びの基礎があるなら、ジェットコースターのように喜んだかと思ったら次の瞬間には落ち込んでしまうことの繰り返しになります。しかし、キリストが与える喜びは罪の赦しによってもたらされる神との平和であり、神がいつも私とともにいて、私を支えてくださるという喜びです。それは永続的なものですから、いつでも喜びで満たされていることができます。のどが渇けば水を飲めば潤されますが、また渇きます。しかし、キリストが与える水を飲む人はいつまでも決して渇くことがなく、その人の中で泉となり、永遠のいのちへの水が湧きでるのです。

2018年のノーベル医学・生理学賞を受賞したのは、京都大学の本庶佑教授でした。薬物療法、手術治療、放射線治療に続く第4の手法として免疫療法を確立した功績が評価されたのです。彼の発見はガン免疫治療薬オプジーボの開発に繋がりました。この薬でガンを克服できた方がインタビューに答えて「命の恩人です。感謝し尽くせません。」と言っていました。その気持ちがよくわかります。しかし、キリストはそれ以上です。なぜなら、キリストは肉体だけでなく、永遠のいのちの恩人だからです。

2015年に同じ分野でノーベル賞を受賞した大村智教授も、メクチザンという薬の開発に貢献しました。この薬は、河川盲目症に対する特効薬です。この病気はアフリカ、中南米の熱帯地域に蔓延していて、毎年1800万人が感染、そのうち約27万人が失明し、50万人が視覚障害になってしまうという恐ろしい感染症でした。ところがこの薬を飲むと一回で完全にその感染症を防ぐことができるのです。

大村さんと製薬会社は、この薬を感染地域の人々にプレゼントし、当時は3億人の人々を失明の危機から救ったと言われています。この大村さんがアフリカのガーナに行き、子どもたちとお話をしたことがありました。ジャパンとかトウキョウと言っても、誰も知らないそうですが、でもメクチザンという薬の名前を出すと、みんな「知ってる!」と言うのです。通訳の人が「この人がメクチザンを造った先生です。」と紹介するとひときわ高く、歓声が上がり「メクチザン、メクチザン」と口々にはやし立てました。子どもたちの喜ぶ顔が目に浮かぶようですね。人類の命を守る働きに貢献した人を称え、記念に覚えることは当然のことでしょう。しかしここに、肉体のいのちだけでなく、霊的ないのち、肉体は朽ちても永遠に生きる真のいのちを人類にもたらした方がおられます。それがイエス・キリストです。

あなたは、この喜びを受け取られたでしょうか。多くの人にとって自分の主人は自分自身です。あなたのために生まれてくださったのに、多くの人たちは「いらないよ」とか、「No, Thank you」と言うのです。しかし自分を超えた本物の救い主を信じ、この方にあなたの人生の舵取りをしていただくなら、あなたもこの喜びを得ることができます。

10節には、「恐れることはありません。見なさい。私は、この民全体に与えられる、大きな喜びを告げ知らせます。」とあります。私たちにもいろいろな恐れと不安があります。孤独だという方もおられるでしょう。まさに一寸先は闇です。しかし、この世がどんなに暗くても恐れることはありません。きょう、ダビデの町であなたのために救い主がお生まれになりました。この方が主キリストです。この方はあなたの心の闇を照らすまことの光です。どうぞこの方をあなたの救い主として心に迎えてください。また、既にこの方を信じておられる方は、あなたの人生の舵取りをしてくださる主としてください。あなたの心が家畜小屋のようにどんなに汚れていても、また、どんなに酷い状態であっても、キリストあなたの心に喜びを与えてくださいます。クリスマスの奇跡は2000年前のことだけではなく、今もあなたに起こる大きな喜びの知らせなのです。

人のために良いこと 伝道者の書6章1~12節

2020年12月6日(日)礼拝メッセージ

聖書箇所:伝道者の書6章1~12節(旧約P1145)

タイトル:「人のために良いこと」

 伝道者の書6章に入ります。きょうのタイトルは、「人のために良いこと」です。12節に「だれが知るだろうか。影のように過ごす、空しい人生において、何が人のために良いことなのかを。」とあります。何が人のために良いことなのでしょうか。影のように過ごす、空しい人生において、何が人のために良いことなのかを知ることが出来る人はそれほど多くはいません。でも私たちは神のことばである聖書を通して、それを知ることができます。きょうは、このことについてご一緒に学びたいと思います。

Ⅰ.楽しめない財産(1-6)

 まず、1~6節までをご覧ください。1節には「私が日の下で見た悪しきことがある。それは人の上に重くのしかかる。」とあります。 新改訳第三版では、「私は日の下で、もう一つの悪があるのを見た。それは人の上に重くのしかかっている。」と訳しています。これまで伝道者は、日の下での労苦を見て、「空の空。すべては空。」と語ってきましたが、ここで彼は、もう一つの悪しきことがあるのを見たのです。「もう一つの悪しきこと」とは、「もう一つの不幸」のことです。それはどんなことでしょうか。それは、神から与えられた富を楽しむことができず、ほかの人がそれを奪ってしまうことです。2節には「神が富と財と誉れを与え、望むもので何一つ欠けることがない人がいる。しかし神は、この人がそれを楽しむことを許さず、見ず知らずの人がそれを楽しむようにされる。これは空しいこと、それは悪しき病だ。」

とあります。

「見ず知らずの人」とは「他人」のことです。神から与えられた富と財産が見ず知らずの他人に全部持って行かれてしまうのです。たとえば、自分の土地と建物が差し押さえになったり、競売にかけられたりするというケースです。自分の望む富と名誉をすべて手に入れても、それを楽しむことができないばかりか、それを見ず知らずの人の手に渡ってしまうとしたら、どんなに空しいことでしょうか。

 そればかりではありません。3節をご覧ください。「もし人が百人の子どもを持ち、多くの年月を生き、彼の年が多くなっても、彼が良き物に満足することなく、墓にも葬られなかったなら、私は言う。彼よりも死産の子のほうがましだと。」

 子宝に恵まれ、長寿を全うすることができたらどうでしょう。それは大きな祝福ですが、それでももしその人が人生に満足することなく死に、しかも自分の子供たちから蔑まれ、墓に葬られることもないとしたら、悲しいことです。不幸です。伝道者は言います。それは、日の目を見ずに死産で生まれた子どものほうがはるかにましです。死産で生まれてくるというのは最初から日の目を見ることができないわけですから、それほど悲しいことはないかと思うのですが、そのほうがましだというのです。それほどひどいということです。

このようなことは、4:2~3でも言われていました。4:2には「いのちがあって、生きながらえている人よりは、すでに死んだ死人に、私は祝いを申し上げる。」とあります。これは日の下で行われている一切の虐げを見てのことばです。いのちがあっても、虐げられながら生きるのなら、死んだほうがましだということです。それほど苦しいということです。4:3でも「また、この両者よりももっと良いのは、今までに存在しなかった者、日の下で行われる悪いわざを見なかった者だ。」とあります。「この両者」とは、「いのちがあって生きながらえている人」と「すでに死んだ死人」のことを指していますが、この両者よりももっと良いのは、今までに存在しなかった者、最初から生まれて来なかった者だというのです。最初から生まれて来なければ、日の下で行われる悪いわざを見ることがないからです。同じようにこの6章でも、もし富と財と誉が与えられていても、それを楽しむことができず、他人がそれを楽しむようなことになったり、どんなに子宝に恵まれても、その子供たちから蔑まれ、人生を楽しむことなく死ぬような人のことを指しています。親にとって子供は自分のいのちよりも大切だと思って育てても、その気持ちが子供に伝わっているかというと必ずしもそうではなく、むしろ、その子供に蔑まれるようなことがあるなら、死産の子のほうがましだ、日の目を見ないほうがましだというのです。これは伝道者がこの世に存在することを否定しているのではなく、日の下で行われている現実がいかに空しいものであるのかを誇張して述べているのです。最初から生まれて来なければ、日の下で行われる悪いわざを見ることはないし、虐げられることもないからです。

旧約聖書に出てくるヨブも全ての財産を失い、足の裏から頭の天辺まで、悪性の腫物で打たれました。その時彼は自分が生まれた日を呪って言いました。「私が生まれた日は滅び失せよ」(ヨブ3:3)と。ここで伝道者が「死産の子のほうがましだ」とか、4節で「この子の方が彼より安らかだ」と言っているのは、それだけ、酷いことであるということです。

 6節をご覧ください。ここには「彼が千年の倍も生きても、幸せな目にあわなければ。両者とも同じ所に行くではないか。」とあります。「千年の倍」とは二千年です。すなわち、どれだけ長く生きても、その命に幸せを見出することができなければ、両者とも同じところに行くわけですから、全く意味がない、と言っています。「両者とも」とは、長寿を全うした人と、死産の子のことです。同じところとは、死ぬことを指しています。どんなに長寿を全うしても、そこに幸せを見出すことができなければ、全く意味はありません。命はその長さではなく質だからです。たとえ千年の倍、二千年生きたとしても同じなのです。

 このように、すべてのものを神から与えられていてもそれを楽しむことができないとしたら、そのような人の一生は何と不幸なことでしょうか。私たちはこの地上のことであれこれと関心を払い、一生懸命に富を蓄え、健康を維持し、長寿を全うしようとありとあらゆる努力を重ねますが、もしそこに神がいなければ、すなわち、神を無視して生きるとしたら、それは不幸なものなのです。1節には「日の下で」とありますが、それはこのことを指しています。神を無視し、神がいない生涯は、前回のところで学んだように、闇の中で食事をするようなものなのです。それゆえ、私たちは私たちの目を、日の下から日の上に向けなければなりません。この地上にありながら天の御国、永遠のいのちに心を留め、神とともに生きる生活を始めていかなければならないのです。

 米国の先住民伝道にその若き生涯をささげ、29歳でこの世を去ったデイビット・ブレイナードは、死の床でこう語りました。

 「私は永遠の世界へ行きます。永遠を生きることは、私にとって快いことです。

永遠に続くということが、懐かしさを感じさせるのです。

しかし、邪悪な人々の永遠は、いったいどうでしょう。

私はそれを説明したり、考えたりすることができません。

それを考えること自体が、あまりにも恐ろしいことです。」

 邪悪な人々の永遠は暗闇です。それが地獄です。それはこの地上ですでに始まっています。もし、神がともにいなければ、暗闇の中を生きるようになります。ですから、罪を悔い改めて神に立ち返らなければなりません。救い主イエス・キリストを信じて、心に受け入れなければならないのです。デービッド・ブレイナードの生涯は29年という短いものでしたが、実に快いものでした。充実していました。なぜなら彼は、永遠を見つめていたからです。日の下での生涯、この地上の生涯は、まばたきをするようにほんの一瞬にすぎません。しかし、永遠の世界はいつまでも続きます。その永遠に目を向けて生きることで、神から与えられたものに満足し、それを楽しむことができるようになります。神が与えてくださった日常の中で、御言葉と祈りを通して人生の意味を見出し、与えられたものに感謝しながら、大いに楽しむことができるのです。

 Ⅱ.満たされない食欲(7-9)

次に、7~9節をご覧ください。「人の労苦はみな、自分の口のためである。しかし、その食欲は決して満たされない。知恵のある者は、愚かな者より何がまさっているだろう。人の前でどう生きるかを知っている貧しい人も、何がまさっているだろうか。目が見ることは、欲望のひとり歩きにまさる。これもまた空しく、風を追うようなものだ。」

「人の労苦はみな、自分の口のためである。」これはどういうことかというと、人はみな食うために働いている、ということです。私はよく「あなたは何のために生きていますか」と聞くことがありますが、その答えで一番多いのがこれです。「私は食うために生きている」。しかし、不思議なことに、その食欲が満たされることは決してありません。収入が増えれば、それだけ欲しいものも増えるからです。ですから、どんなに働いても欲望が満たされることはないのです。

「知恵のある者は、愚かな者より何がまさっているだろう」知恵がある者も、愚かな者も同じである、ということです。どんなに知恵があっても、欲望を押さえることができなければ、愚か者となんら変わりがありません。貧しい人々の中にも、いかに生きるべきかを知っている人がいますが、しかし、そのような人でさえ、より多くの物を所有したいという欲望に打ち勝つことができなければ、結局のところ愚か者と同じことなってしまいます。

結局、「目が見ることは、欲望のひとり歩きにまさる。」のです。どういうことでしょうか。これは謎めいた言葉です。新改訳改訂第3版ではこれを、「目が見るところは、心があこがれることにまさる。」と訳しています。「欲望のひとり歩き」を、「心があこがれること」と訳したんですね。どうですか、皆さん、わかりますか?もうちょっとわかりやすいかもしれませんね。目で見えるものに満足することは、心であこがれることを追い求めることよりもまさる、ということです。

もっとわかりやすいのは新共同訳ではないかと思います。新共同訳ではこのように訳しています。「欲望が行きすぎるよりも 目の前に見えているものが良い。」つまり、もっと良いものを、もっと良いものをと、もう少し上の贅沢を追い求めて生きるよりも、目の前に置かれた食事で満足するほうが良い、ということです。まあ、これを何も食事に限定することはないと思います。食事でも、物でも、置かれた状況でも同じです。つまり、自分に与えられているものです。ことわざに、「隣の芝生は青く見える」ということわざがありますが、他人が持っているものは、自分のものよりよく見えるものです。それでもっと良いものを、もっと良いものをと、欲望が満たされることを求めて走り回りがちですが、それよりも今自分に与えられたものを感謝して生きることのほうがずっと良いのです。

どうでしょう、現代は本当に忙しい時代ですね。少しも心休まる時がありません。一つの事が終わったらまた次のことをしなければなりません。次から次にやらなければならないことがあるのです。いったい何が問題なのでしょうか。「目が見ることは、欲望のひとり歩きにまさる」です。もっと欲しい、もっと欲しいと、欲望が満たされることを求めて走り回ることです。あれも、これもしようと思えば、どんなに時間があっても足りません。私はいつもいろいろな機会に言うのですが、私たちの指は10本しかありません。その10本の指を何に使うかを考えなければならないのです。もし10本の指をすべて仕事のために使えば、残りの指は無くなってしまいます。限られたもの、時間なり、お金なり、体力といったものを何に使うのかよく祈って求めなければなりません。イエス様はこう言われました。「まず神の国とその義を求めなさい。そうすれば、これらのものはすべて、それに加えて与えられます。」(マタイ6:33)まず、神の国とその義を求めなさい。まず、神の国とその義を求めるのです。そのために、何本の指を使うかわかりませんが、まず神の国とその義のために使い、食べ物や飲み物、着物など残りのことのために、残りの指をバランスよく用いなければなりません。そうすれば、それに加えてすべてのものが与えられます。大切なのは時間があるか、ないかということではありません。何のために用いるかということです。神のために、神との交わりのために用いるなら、それに加えて、すべてのものが与えられます。そのためには、自分に与えられたものを感謝し、それを満足することを学ばなければなりません。

人は何かを手に入れることで満足を得られるのではないかと考えますが、実際にはそうではありません。人の満足というのは何かを手に入れることによって得られるものではなく、その心がどうであるかで決まります。それは条件の問題ではなく、心の問題だからです。基本的な欲求は神から与えられたものですが、それを越えた欲望、貪欲は、神から離れた空白から生じます。ですから、あらゆるものをつかんでも、次から次に空しさや飢え渇きが襲ってくるのです。ですから、目の前に置かれた食事で満足するほうが、もっと良いものを、もっと良いものをと、欲望がひとり歩きするよりも良いのです。

箴言17:1には、「一切れのかわいたパンがあって、平和であるのは、ごちそうと争いに満ちた家にまさる。」とあります。これは私が好きな御言葉の一つです。日本の多くの家庭では外面的には物であふれていて、一見、幸せそうに見えますが、実際には争いが絶えず、本当に平和な家庭は稀にしかないというのが現実です。人間は対物ではなく対人関係の中に生きていますから、対人関係が良くないとどんなに物が溢れていても幸せではないのです。その対人関係が豊かであるためには神を恐れ、神の知恵をいただき、その知恵に生きることが必要です。そうでなければ、空しく、風を追うような人生となってしまいます。その知恵、神の知恵とは何でしょうか。「目が見ることは、欲望のひとり歩きにまさる」ということです。ぜひこのことを心に留めていただきたいと思います。

おそらくこれは、だれよりもこの伝道者ソロモン自身が痛感していたことでしょう。彼は、美しい宮殿に住み、多くの女性に囲まれながら、毎日のように贅沢な生活をしていましたが、それでも心が満たされませんでした。彼はおいしいご馳走をいっぱい食べても、争いに満ちた家に住むよりも、心の底からの平安を求めていたのです。

それは、ソロモンだけではありません。ご馳走なんてなくてもいい、豪邸になんか住まなくてもいい、本当の平和な家庭が欲しい!と思っている人は、案外と多いのではないでしょうか。家庭の平和と真の幸福は、決して物質の豊かさにあるのではない、と聖書は教えています。人間が神と和解するために、神がお遣わしになった救い主イエス・キリストを信じ受けて入れる時に心に平和と喜びと満足が与えられ、神との交わりを楽しむことができ、また、他人の過ちや失敗を心から赦し、愛することができるようになります。

少し前に「赦しの力」という映画を観ました。素晴らし映画です。ぜひ皆さんにも観ていただきたいと思いますが、この映画は、高校でクロスカントリー競技をしていたハンナという少女の話です。彼女はある時コーチのジョンから父親が病院に入院していることを聞きます。彼女の父親もかつてクロスカントリーをやっていて、州で3位に入るほどの実力者でしたが、次第に傲慢になり、酒と麻薬と女に溺れ、人生のどん底に落ちてしまいました。当然、妻とも別れ、生まれたばかりの娘ハンナも妻の母親に預けたのです。

あれから15年、彼は、神のあわれみによって神に立ち返ることができ、悔い改めて、イエス・キリストを救い主と信じ、すべての罪が赦され、神の子とされて新しい人生を歩むことができました。しかし、その代償は大きく、糖尿病などの合併症によって両目の視力を失ったばかりか、今は死を待つばかりの状態になっていました。

驚いたのはハンナの方です。というのは、彼女は、両親は彼女が生まれるとすぐ死んだと祖母から聞かされていたからです。自分を捨てていなくなったなんて寝耳の水でした。今さらそんな父親を赦すことなどできません。それでも父親に会いに病院に行ったハンナは、彼にはっきりと言うのです。「私は、あなたを赦しません」それはそうでしょう。自分を捨てた父親を赦すことなどできません。父親は、どんなことがあったのかを正直に話し、そんな自分を神があわれんでくださったので神に立ち返ることができたことを伝えました。

そんな時、彼女が通う学校の校長先生から、神がどれほどハンナを愛しておられるのかを聞くのです。神はそのためにご自分の御子イエス・キリストを与えてくださったと。それを聞いたハンナは、自分の罪を認め、イエス様を信じて心に受け入れました。そして校長先生のアドバイスにしたがってエペソ書1,2章を読みながら自分が何者であるかをノートに書き止めるのです。自分は罪が贖われた者、罪が赦された者、神の子、クリスチャン。彼女は罪が赦されたその大きな神の愛のゆえに、父親を赦そうと決心しました。そして、病院に行ってみると彼はICUに入っていましたが、そのことを告げたのです。

そして、クロスカントリーの州大会で、コーチのジョンはある秘策を思いつきました。レースをイメージさせて父親に彼女へのアドバイスを録音させたのです。それを聞きながら走った彼女は、奇跡的に州大会で優勝するのです。そして、金メダルを病院のベッドにいる父親の首にかけてやるのですが、神に赦された、赦しの力がどれほど大きなものであるかを強く感じました。

イエス・キリストは、あなたの罪のために、身代わりとなって十字架で死んでくださいました。そして、三日目によみがえられました。この方を信じる時、あなたのすべての罪は神の前に赦され、本当の意味で幸福な者となることができます。当然、その結果として家庭にも平和が訪れるのです。そうした貪欲からも解放されます。目が見ることは、欲望のひとり歩きにまさるという、このみことばを実践できるようになるのです。

Ⅲ.神は知っている(10-12)

最後に、10~12節をご覧ください。「存在するようになったものは、すでにその名がつけられ、それが人間であることも知られている。その人は、自分より力のある者と言い争うことはできない。多く語れば、それだけ空しさを増す。それは、人にとって何の益になるだろうか。だれが知るだろうか。影のように過ごす、空しい人生において、何が人のために良いことなのかを。だれが人に告げることができるだろうか。その人の後に、日の下で何が起こるかを。」

存在しているものはすべて名前がつけられています。それは「人間」についても言えることです。人間とはどのようなものなのかも神に知られているのです。神である主は、土地のちりで人を形造り、その鼻にいのちの息を吹き込まれました。それで人は生きるものとなったのです(創世記2:7)。ですから、地のちりにすぎない者が、創造主に対して言い争うことなどできません。この「自分より力ある者」を「死」と解釈し、人は死に逆らうことはできないと理解する人もいますが、ここでは「神」のことであると解釈すべきです。というのは、その後の11節には「多く語れば、それだけ空しさを増す」とあるからです。これは、神の定めにいくら言い逆らったとしても、それはただ空しさを増すだけだという意味です。つまり、ここで伝道者が言わんとしていたことは、私たち人間がどのような者であるかを知っておられる神と言い争っても、何の意味もないということです。

それなのに、私たちは愚かにもこの「力ある方」と言い争うことがあります。なぜですか?なぜこのようなことが起こるのでしょうか。なぜ夫は私を捨てたのですか。なぜ仕事に失敗したのでしょうか。なぜこんな災いがふりかかったのですか。なぜですか・・と。しかし、どんなに神と言い争っても事態は何も変わりません。むしろ、多く語れば語るほど、それだけ空しくなるだけです。それは、人にとって何の益にもなりません。むしろ、人間の限界を悟り、その人間を造られた神を恐れることです。そして、変わらない神の真実に目を向けることです。神はあなたをどんなに愛しておられるか、そのために、神はご自分の御子をあなたに与えてくださいました。自分のいのちよりも大切な御子イエス・キリストをお与えになられたのです。それほどまであなたを愛しておられるのです。ヨハネ3:16には「神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに世を愛された。それは御子を信じる者が、一人として滅びることなく、永遠のいのちを持つためである。」とあります。

神はそれほどまでに、あなたを愛しておられるのです。何があっても私は愛されている。そのために御子を与えてくださったほどに愛されているんだと、この事実に目を留めて、神と言い争うのを止めなければなりません。そうすれば、たましいに安らぎが来ます。私たちの心に平安がないのはこの御言葉の約束の上に立たないで、自分の感情の上に立っているからです。それで、神様どうしてですか、と神と言い争うのです。でも事態は何も変わりません。結果的に、自分がみじめになるだけです。ではどうしたら良いのでしょうか。12節をご覧ください。ご一緒に読みたいと思います。「だれが知るだろうか。影のように過ごす、空しい人生において、何が人のために良いことなのかを。だれが人に告げることができるだろうか。その人の後に、日の下で何が起こるかを。」

影のように過ぎて行く、短く、むなしい人生において、何が人のために良いことなのでしょうか。そのことを人に告げることができる人はだれもいません。だれも将来何が起こるのかを教えてくれることもできません。でも神は知っています。何が人のために良いことなのかを。何が人にとって必要なことなのかを。何が人にとっての真の幸福なのかを。神は私たちに対する完全なご計画を持っておられるのです。そこには痛みや悲しみもあるかもしれませんが、それは神のご計画の一部でしかありません。私たちに求められているのは、私たちは神と言い争ったり、神を呪ったりするのではなく、神を恐れ、すべてを神にゆだねて生きることです。これが、この書全体の結論です。12:13、「結局のところ、もうすべてが聞かされていることだ。神を恐れよ。神の命令を守れ。これが人間にとってすべてである。」

パウロはこのことを、陶器師と陶器のたとえで説明しています。陶器師は同じ土のかたまりから、あるものは尊いことに用いる器に、別のものは普通の器に作る権利を持っています。造られた者が造った者に、「どうして私をこのように造ったのか」などと言うことはできません。どのように造るかは、それを造る陶器師の手(思い)にかかっているからです。私たちにできることは、その陶器師であられる神によって造られていることを感謝し、その神を恐れ、神のみこころに生きることです。それこそ真の満足が与えられる、幸せで祝福された人生なのです。

あなたはどうですか。自分より力ある方と言い争ってはいませんか。「主よ、どうしてですか。どうしてこのようなことを見て難ともお思いにならないのですか。どうしてこのようなことが起こるのですか・・・。」しかし、私たちの主は私たちを造られた創造主です。その方にすべてをゆだね、この方を恐れて生きること、それこそ私たち人間にとってすべてなのです。