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人となられた神 ヨハネの福音書1章14節

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聖書箇所:ヨハネの福音書1章14節(新約P175)
タイトル:「人となられた神」

メリー、クリスマス!クリスマスおめでとうございます。本日はクリスマス礼拝ですが、こうして主の御降誕を祝い、共に主を礼拝できることを感謝します。本日は、ヨハネ1章14節のみことばから「人となられた神」という題で、クリスマスのメッセージをお届けしたいと思います。

くまモンの作者である小山(こやま)薫堂(くんどう)さんが、ホテルの料理屋に入ったときの事です。隣に外国人のおじいちゃんが寿司をつまんでいたそうです。目が合ったとき、彼は会釈してくれました。その後、このおじいちゃんは食事中、何度も小山さんのほうをチラチラ見るので、もしかしたら、くまモンの作者としての自分のことを知っているんじゃないか、と思ったそうです。それで思い切って話しかけてみようとしましたが、その時ちょうど待ち合わせの友人がやってきたので、とうとう話すことができませんでした。
ところが、次の日テレビを見てビックリしました。昨日のおじいちゃんがテレビの中で何かをしゃべっているではありませんか。字幕を見て驚きました。なんと、彼はクリント・イーストウッドだったのです。ハリウッドの俳優にして、映画監督ですね。彼は映画のプロモートのために日本に来ていたのでした。
それを知った小山さんは、たいへん悔しかったそうです。もしあの時話しかけていたら、話が盛り上がって、もしかしたらくまモンがハリウッドデビューしたかもしれない、と思ったからです。
偉大な人とつながるチャンスがあったのに、ちょっとした勇気がなかったために、すごい展開の可能性を逃してしまったのです。しかし、もっと大きな損失があります。それは、イエス・キリストとのコンタクトを取り損なうということです。
ある方にとっては、イエス・キリストと聞いても、ただの外国人のおじさんの一人くらいにしか思っていないかもしれませんが、しかし、この方こそ、私たちを罪から救ってくださる救い主です。(聖書と福音、No899から引用)。
聖書に、次のように書いてあります。「ことばは人となって、私たちの間に住まわれた。私たちはこの方の栄光を見た。父のみもとから来られたひとり子としての栄光である。この方は恵みとまことに満ちておられた。」
「ことば」とは、キリストのことです。キリストは人となって、私たちの間に住まわれました。なぜキリストは人となられたのでしょうか。今日は、その理由をご一緒に考えたいと思います。

Ⅰ.私たちに神を示すため

第一に、神がどのような方であるかを見える形で私たちに示すためです。
私は伝道しているとき、よく言われることがあります。それは「神がいるなら見せてくれ」ということです。「神がいるなら見せてくれ」と言われても、神は霊ですから、私たちの肉眼で見ることはできません。また、罪によって心がねじ曲がっている人間には、いくら説明しても見ることはできないのです。そこで神はご自分がどのような方であるのかを示すために、見える形で表わしてくださいました。それがイエス・キリストです。18節にはこうあります。
「いまだかつて神を見た者はいない。父のふところにおられるひとり子の神が、神を説き明かされたのである。」
いまだかつて神を見た者はいません。しかし、イエスを見るなら神を見ることができます。なぜなら、イエスは父のふところにおられたひとり子の神だからです。この方は永遠の初めからずっと神とともにおられました。ですから、完全に神を説き明かすことができたのです。

私には3人の娘がいますが、どの娘とは言いませんが、時々、私の行動を見抜く娘がいます。何人かで話しているとき、私が次に何と言うか、どんなことをするのかを言い当てるのです。そこにいる人たちに、「いい、見ていて。お父さんは絶対こうやるからね」と言って私を見ているのです。そしてその通りにすると、「ほら、言ったでしょう!」と自慢げに話すのです。なぜ彼女は私の行動を言い当てることができるのでしょうか。それはいつも私といっしょにいたからです。ずっといっしょにいて、じっと観察しながら、「あ、お父さんはこういう時にはこう言うんだな」とか、「こうするんだ」と見てきたのです。
でも残念ながら、すべてを知っているわけではありません。知っているつもりでも知らないことがたくさんあるわけです。「親の心、子知らず」ですよ。わずか20年くらいいっしょにいたからといってお父さんのことを理解するなんて無理です。彼女が知っているのは私のほんの一部であって、ほとんど知らないと言ってもいいでしょう。彼女が私の行動を言い当てることができたのは、彼女が喜ぶようにとこちらでそれに合わせていただけであって、その裏をかいていたからです。ま、こちらの方が一枚上手だったということです。
でもこの方は違います。この方は永遠の初めからずっと神とともにおられました。父のふところにおられたひとり子の神なので、完全に神を説き明かすことができました。

1章1~5節をご覧ください。「1:1 初めにことばがあった。ことばは神とともにあった。ことばは神であった。1:2 この方は、初めに神とともにおられた。1:3 すべてのものは、この方によって造られた。造られたもので、この方によらずにできたものは一つもなかった。1:4 この方にはいのちがあった。このいのちは人の光であった。1:5 光は闇の中に輝いている。闇はこれに打ち勝たなかった。」
初めにことばがあった。「ことば」とはキリストのことです。キリストをことば(ロゴス)と表現したのは、神を啓示するために、神の人格として現れた方であるということを示すためです。神の知恵、神ご自身が現れたということです。ですから、ここに「ことばは神であった」とあるのです。この方は初めに神とともにおられました。永遠の初めからずっと神とともにおられたのです。それだけではありません。この方は神であった、とあります。神とともにおられた神です。先ほどの18節では、「ひとり子の神」とありました。ひとり子の神として、父なる神とずっとともにおられたので、神を説き明かすことができたのです。
そればかりではありません。3節には、「すべてのものは、この方によって造られた」とあります。この方は創造主であられます。造られたもので、この方によらずにできたものは一つもありません。この方は、あの創世記1章にある創造の御業に携わっておられたのです。
また、ここには「この方にはいのちがあった」とあります。それは人の光としてのいのちです。この方こそいのちの源なのです。この方が人となって現われてくださいました。なぜでしょうか。そのことによって、神がどのような方であるかを見える形で示すためです。

ですから、弟子の一人であったピリポがイエスに「主よ、私たちに父を見せてください。そうすれば満足します。」(ヨハネ14:8)と言った時、イエスはこう言われたのです。「ピリポ、こんなに長い間、あなたがたと一緒にいるのに、わたしを知らないのですか。わたしを見た人は、父を見たのです。どうしてあなたは、『私たちに父を見せてください』と言うのですか。」(ヨハネ14:9)
イエスを見た人は父を見たのです。イエスを見れば、神がどのようなお方なのか、どんなに栄光に満ちた方であられるか、どんなに恵みとまことに満ちた方であるかがわるのです。

Ⅱ.私たちを罪から救うため

第二に、「ことば」が人となられたのは、私たちを罪から救うめでした。ここに「ことばは人となって、私たちの間に住まわれた」とあります。この「人となって」という語は欄外の説明にあるように、直訳では「肉」です。「肉を取られた」という意味です。詳訳聖書には「受肉した」と訳されています。「受肉」というのは神学用語で、「神の御子であられるキリストが、人間を救うために、自ら人間となられた」ということです。栄光に満ちた神が人として生まれてくださり、実に飼い葉桶にまで下ってくださいました。考えられないことです。当時の人々は、「肉」は弱いものですぐに朽ち果てていくものだと考えていました。ですから、ことばであられる神が人となるなんて考えられないことだったのです。けれども、その神が人となって私たちの間に住んでくださいました。なぜでしょうか。それは、私たちを罪から救うためです。というのは、私たち人間がどんなに頑張っても、自分の力でこの罪から聖められることはできないからです。「いや、できる!」という方がいらっしゃいますか?もし、そのような方がおられたら、その人はその時点で罪を犯していることになります。なぜなら、聖書の律法、モーセの十戒には、「あなたの隣人に対しし、偽りの証言をしてはならない。」とあるからです。つまり、嘘をついてはならないということですが、その時点で嘘をついていることになるからです。ですから、あなたは自分の力では聖くなることはできないし、神のみこころにかなった者になることはできないのです。聖書にこのようにある通りです。「義人はいない。ひとりもいない。」(ローマ3:10)
皆さん、義人はいません。一人もいません。ただこの方は違います。この方は聖霊によってみごもられた方、聖なる方、神の子でなので、全く罪を持っていません。そこで神はこの方を地上に送り、私たち全人類の罪の身代わりとして十字架にかけられたのです。それは私たちが神の律法を行うことによってではなく、それを完全に行うことができるキリストの贖いを信じることによって神に義とされるためです。それが、人となって来られたイエス・キリストです。
「神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに世を愛された。それは御子を信じる者が、一人として滅びることなく、永遠のいのちを持つためである」(ヨハネ3:16)
神は、それほどまでにあなたを愛してくださったのです。

今から六十年ほど前、カナダの宣教師ドン・リチャードソン夫妻がパプアニューギニアのイリアンジャワというところに入りました。そこでサウイ族の村に入り、キリストの福音を伝えたのです。ところが、いくら聖書の話をしても、全く通じませんでした。それどころか、金に目がくらんでイエス・キリストを裏切ったイスカリオテ・ユダの話をすると興奮状態になり、立ち上がって手を打ちながら、ユダをほめたたえたというのです。
実はこの部族のモラルは、現代社会と正反対のものでした。人生で一番優れたことは、いかにして相手を鮮(あざ)やかに欺いて裏切るか、という価値観で生きていたのです。そんな人生観の人々にとって、他人の身代わりになって十字架で死んだキリストは、単なるおバカさんでしかありませんでした。
ところで、裏切りを最高の美徳として生きていたら、結局どんなことになるでしょう。裏切りの競い合いが始まります。
しかし、裏切られた方は裏切り返しますね。こうしてこの部族で村同士が抗争を始め、それが何年間も何年間も続いたのです。やがて双方の村とも被害が大きくなり、このままでは別の部族の襲撃を心配しなければならないほど、人口が減ったのです。戦いに疲れ果てた彼らは、とうとう和解するのです。
しかしその和解が罠ではないという証拠はどこにあるのでしょう。実は例外的に、正真正銘の契約の結び方が、この部族にはあったのです。それは、タロップティムという習慣でした。訳すと、和解の子という意味です。争っている二つの部族の中から、生まれたばかりの赤ちゃんを双方の族長に渡して交換するんですね。その子どもが生きている間は、争いはしないという契約です。もし裏切れば、相手方に渡した自分たちの赤ちゃんが殺されてしまいます。それでこの儀式をもって取り交わす和解だけは、裏も表もない本物の和解だったのです。
ドン・リチャードソンはこの習慣に目を留めました。そしてこの習慣を用いて、神がしてくださったことを伝えたのです。すなわち神は、私たちと和解するためにご自分のひとり子イエス・キリストをこの世に渡され、そして十字架の上でさばいてくださったのだと。実はこの儀式で、戦いが終わることをみんなで喜ぶんです。しかしそんな大喜びの中で、例外的に涙が止まらない人がいます。それはその和解のためにわが子を手放した母親です。お腹を痛めて産んだ子、育ててきた子ども、自分たちを攻撃していた人々の手に、その愛する子が渡るのです。別れの時には胸が張り裂けんばかりになっているのです。
そのように神は、ご自分のひとり子をこの世に送って、十字架の上でさばいてくださったのです。母の涙ならぬ父の涙ですね。そしてこのひとり子イエス・キリストは死後三日目に、よみがえられたのです。
クリスマスは神が人の救いのために、イエス・キリストをこの世に送られたことを思い起こす時です。あなたの救いのために神はこのことを、成し遂げてくださったのです。

Ⅲ.私たちの間に住まわれるため

ことばが人となられた第三の理由は、神が私たちの間に住まわれるためです。ここに「ことばは人となって、私たちの間に住まわれた。」とあります。この「住まわれた」という言葉は「天幕を張られた」という言葉です。旧約時代において、神はイスラエルの民に、荒野において幕屋(礼拝の場)を建てさせそこに臨在されましたが、同じようにキリストは人となって私たちの間に臨在されました。それは、神は私たちとともにおられるという神の約束を実現するためです。

マタイ1章23節に「その名はインマヌエルと呼ばれる。それは、訳すと、『神がともにおられる』という意味である」とあります。御子イエスが人となって来られたことによって、神がともにおられるというこのみことばが実現しました。本来、神とともにおられる方は御子イエスだけです。しかし、キリストを信じることによって、その人の中に神の聖霊が宿り、神がともにおられるということが実現したのです。

そればかりではありません。神はいつでも、どんなときでも、ともにいて下さいます。マタイ28章20節に「見よ。わたしは世の終わりまで、いつもあなたがたと共にいます。」とあります。世の終わりまでいつもあなたとともにいてくださるのです。であれば、何があっても安心です。この方がいつもあなたとともにいてくださるからです。

今から14年前の3月11日、東日本大震災があったとき、日本にいた多くの外国人の方々はいっせいに帰国しました。しかし、その中で自分の国籍を捨てて逆に日本に移り住むという、思い切ったことをしたアメリカ人がいました。それは、日本文学研究者のドナルド・キーンという方です。彼は18歳のとき日本文学を読んで以来、日本の事を考えなかった日は一日もない、と言っています。彼は、一年の半分は日本にいて、東京に持っている自宅で生活していました。しかし、それまで日本でビジネスをし、収益をあげるためにきていた海外の人々が我先に日本を見棄てて出発するのを見たときに、今こそ日本を励ましたいと考え、アメリカ国籍を捨てて日本に帰化なさったのです。
私たちは、誰かを愛して、励ましたいと思ったとき、お金を送ったり、手紙を送ったりしますが、彼は自分自身を贈り物にしたのです。彼は、日本人の間に住むことによってそれを表しました。彼は日本に降り立ち、同じ空気を吸い、運命共同体の一員となることで、愛を表わしたのです。

それはキリストも同じです。キリストはあなたへの愛を現わすために、自分自身を贈り物にしたのです。彼は人となって、私たちの間に住んでくださいました。私たちと同じ空気を吸い、私たちが経験するいっさいの苦しみを経験し、そして私たちの罪を負って十字架の死にまでも従われました。そのことによって私たちに対するご自身の愛を現わしてくださったのです。神がいつもあなたとともにおられるためです。

そのためにことばは人となって、私たちの間に住んでくださいました。どうぞ、このことばなるキリストの愛を受け入れてください。そしてしっかりと神につながってください。あなたの人生の全てのプロセスは、ここから始まります。それによってあなたの人生を、輝くものへと導いて下さいます。ことばは人となって、私たちの間に住まわれました。「今日ダビデの町で、あなたがたのために救い主がお生まれになりました。この方こそ主キリストです。」(ルカ2:11)
この神からのすばらしいプレゼントを受け取り、最高のクリスマスを迎えることができますように。

力尽きたバビロン エレミヤ51章47-64節

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聖書箇所:エレミヤ書51章47~64節(旧約P1395、エレミヤ書講解説教87回目)
タイトル:「力尽きたバビロン」
これまでずっとエレミヤ書を学んできましたが、いよいよ最終章に近づいてきました。エレミヤ書は52章までありますが、52章はこれまで学んできたユダ王国の滅亡に関するバビロン捕囚の出来事が改めて記録されてありますが、その部分は誰かによって後にエレミヤ書に付加されたものです。従って、エレミヤのことばとしては今回が最後となります。64節の最後に、「ここまでが、エレミヤのことばである。」とある通りです。エレミヤの最後のことばは何だったのでしょうか。64節にはこうあります。
「このように、バビロンは沈み、浮かび上がれない。わたしがもたらすわざわいを前にして、彼らは力尽きる。」
それはバビロンの滅びでした。バビロンは沈み、浮かび上がることはありません。彼らは主がもたらすわざわいを前にして、力尽きるのです。この「彼らは力尽きる」という言葉ですが、新改訳第三版では「彼らは疲れ果てる」とあります。意味は同じですが、「疲れ果てる」の方がわかりやすいかもしれませんね。バビロンは沈み、浮かび上がることはありません。彼らは主がもたらすわざわいのために、疲れ果てるのです。
しかし、神の民はそうではありません。神の民はどんなに沈められても再び浮かび上がります。七転び八起きということわざがありますが、まさに七転び八起きです。決して力尽きることはありません。疲れ果てることはないのです。バビロン捕囚ならぬ罪の束縛から解放された者は、もう罪に悩んだり、苦しんだりすることはないからです。今日はこのことについて3つのことをお話します。
第一に、その時代が来るということです。その時代とは、バビロンが滅びる時のことです。その時バビロン捕囚から解放された者は、エルサレムに帰還することになります。ですから、立ち止まってはなりません。遠くから主を思い出し、エルサレムを心に思い浮かべなければなりません。
第二のことは、それは必ずなるということです。なぜなら、主は報復の神だからです。主はバビロンに報復されるので、バビロンは必ず力尽きることになります。それは主がなさることです。私たちがすべきことではありません。ですから、私たちは先走った判断をして人をさばくようなことをしないで、さばきを主にゆだねなければなりません。
第三のことは、バビロンは沈み、力尽きても、神の民であるクリスチャンは決して力尽きることはないということです。イエス・キリストがその重荷を負ってくださったからです。だからこそ私たちはイエス様から力をいただいて、天のエルサレムに向かって進んで行くことができるのです。
Ⅰ.その時代が来る(47-53)
まず、47~53節をご覧ください。47~48節には、「51:47 それゆえ、見よ、その時代が来る。そのとき、わたしはバビロンの彫像を罰する。この全土は恥を見、刺し殺された者はみなそのただ中に倒れる。51:48 天と地とその中にあるすべてのものは、バビロンのことで喜び歌う。北からこれに向かって、荒らす者たちが来るからだ──【主】のことば──。」とあります。
「その時代が来る」とは、バビロンが倒れる時代が来るということです。北からこれに向かって、荒らす者たちが来るからです。これはメディアとペルシャの連合軍のことを指しています。彼らはバビロンに来てこれを荒らすので、バビロンは倒れることになるのです。すると、天と地とその中にあるすべてのものは、バビロンのことで喜び歌うことになります。なぜでしょうか。
その理由が、49~51節にあります。それは、バビロンがイスラエルをさんざん苦しめたからです。これはその報復なのです。神は必ず復讐されるのです。それは過去においてそうだったというだけでなく、未来においてもそうなるということです。「その時代が来る」というのは終末において起こることをも預言しているからです。黙示録18:2に「倒れた。大バビロンは倒れた。」とありますが、それはこのことです。世の終わりにまると、悪の象徴であるバビロンは滅びるのです。その時、天にあるものは、黙示録19章にあるように主をほめたたえ、喜び踊るようになるのです。子羊との婚礼の時が来たからです。ですから、50節にこうあるのです。
「剣を逃れた者よ、行け。立ち止まるな。遠くから【主】を思い出せ。エルサレムを心に思い浮かべよ。」
剣を逃れた者とはユダの民、イスラエルのことです。彼らは神のさばきから逃れることができました。それゆえ、ただちにその地を出なければなりません。立ち止まってはならないのです。遠くから主を思い出し、エルサレムを心に思い浮かべなければなりません。捕囚の民にとってエルサレムを思い浮かべることは辛いことでした。なぜなら、他国人が主の宮に入り、そこを汚したからです。しかし、52節と53節にあるように、主は必ずバビロンの偶像を罰するという約束を与え、民を慰めます。「51:52 それゆえ、見よ、その時代が来る。──【主】のことば──そのとき、わたしはその彫像を罰する。刺された者がその全土でうめく。51:53 たとえバビロンが天に上っても、たとえ、砦を高くして近寄りがたくしても、わたしのもとから荒らす者たちがそこへ行く。──【主】のことば。」
それは、私たちにも言えることです。罪の束縛から解放された者は、そこに立ち止まってはなりません。遠くから主を思い出し、エルサレムを心に浮かべて前進しなければならないのです。そこに辿り着くまでにはいろいろなことがあるでしょう。踏みにじられたり、馬鹿にされたり、あからさまに罵られることもあるかもしれません。そういう思いをしながらも、遠くから主を思い出し、天のエルサレムを心に思い浮かべ、て前進しなければならないのです。
皆さんは「天路歴程」という本を読んだことがありますか。この本は、17世紀にジョン・バンヤンという人によって書かれた本です。バンヤンは許可なく説教をしたという罪で投獄されましたが、その獄中で書いたのがこの本です。
この物語の主人公のクリスチャンは、「自分の汚れた魂を救うためにはいったいどうすればよいか」と悩みます。すると一人の伝道者に出会いアドバイスをもらうんですね。「あの希望の光を目指してまっすぐに進みなさい」と。それで彼は「滅びの町」から逃れて天国への旅を始めますが、その中でイエス・キリストと出会い、自分の重荷をすべて十字架の御許に下すことができました。クリスチャンになったのです。しかし、天国への旅はさらに続きます。その途中で様々な試練や誘惑に直面します。最後の試練は、死の川を渡ることでした。それは辛く、苦しい川でしたが、「あなたが水の中を過ぎる時も、わたしはあなたとともにてる。川を渡るときも、あなたは押し流されず、火の中を歩いても、あなたは焼かれず、炎はあなたに燃えつかない。」(イザヤ43:2)の御言葉に励まされ、ついにあの希望の光、天のエルサレムにたどり着くのです。
こうしてクリスチャンの巡礼の旅は終わりますが、これを書き終えた時、ジョン・バンヤンは次のようなことばを書き残しています。
 「私はまだこの荒野にたたずんでいたのです。私はため息をついた後で祈りました。ああ、神様、私の巡礼の旅を早く終わらせ、無事に天の御国に導いてください。」
 ジョン・バンヤンは、まさに主に思いを馳せ、天のエルサレムを心に思い浮かべてこの地上の生涯を歩んだのです。
それは私たちも同じです。私たちもやがて天に帰ります。そこには神がともにおられ、あなたの目の涙をことごとくぬぐい取ってくださいます。もはや死はなく、悲しみも、叫び、苦しみもありません。以前のものが過ぎ去ったからです。ここに真の希望があります。だからこそ、私たちは今、前に進むことができるのです。確かにこの地上にあっては困難や苦難を避けることはできません。でも、約束の地、天のエルサレムに辿り着くことができるなら、すべてのことが喜びに変えられるでしょう。
私たちは今、「天路歴程」、その巡礼の旅を続けているのです。今の悲しみはいつまでも続くものではありません。その時代は必ず来ます。バビロンは倒れ、私たちは天のエルサレムに帰るのです。そのことを忘れないでください。この世というバビロンから解放された者として、遠くから主を思い出し、エルサレムに思いを馳せて、進んでいかなければならないのです。
Ⅱ.主は報復の神(54-58)
次に、54~58節をご覧ください。バビロンから、破滅の音が聞こえてきます。それは大波が襲う時のような響きです。荒らす者が攻めて来て、その勇士たちは捕えられ、その弓も折られるからです。主はその首長たちや知恵ある者、総督や長官、勇士たちを酔わせ、永遠の眠りにつかせるので、彼らは目覚めることはありません。
58節をご覧ください。ここには、「万軍の【主】はこう言われる。「バビロンの厚い城壁は完全にくつがえされ、その高い門にも火が放たれる。国々の民は無駄に労し、諸国の民は、ただ火に焼かれて、力尽きる。」とあります。
このようにして、バビロンは完全に崩壊することになります。難攻不落と呼ばれたバビロンも完全にくつがえされ、ただ火に焼かれて、力尽きるのです。注目すべきことは、どうしてそのようなことが起こるのかということです。56節をご覧ください。ここには「主は報復の神であり、必ず報復されるからだ。」とあります。
皆さん、主は報復の神です。自らを神と等しい位置に置く者に対して、必ず復讐されるのです。このことはこれまでも何度も語られて来たことです。そのバビロンへの報復として主が成さるわけです。それなのに、私たちは自分で報復しようと思うことがあります。しかし、それは私たちがすることではなく、神ご自身がなさることです。さばきを主にゆだねなければなりません。そうすれば、主はご自分の時に、ご自分の方法でさばいてくださいます。それがたとえ自分の方法やタイミングとは違っても、主は完璧なタイミングで、完璧な方法でなさってくださるのです。
パウロもローマ人への手紙の中でこう言っています。「12:19愛する者たち、自分で復讐してはいけません。神の怒りにゆだねなさい。こう書かれているからです。「復讐はわたしのもの。わたしが報復する。」主はそう言われます。12:20 次のようにも書かれています。「もしあなたの敵が飢えているなら食べさせ、渇いているなら飲ませよ。なぜなら、こうしてあなたは彼の頭上に燃える炭火を積むことになるからだ。」12:21 悪に負けてはいけません。むしろ、善をもって悪に打ち勝ちなさい。」(ローマ12:19-21)
私たちは、人に批判されたり、中傷されたり、理不尽な扱いを受けたりする時、怒りが湧き上がってくることがあります。どうしても感情的になってしまうのです。そんな時どうすれば良いのでしょうか。自分で報復するのではなく、神の怒りに任せるのです。怒りは罪ではありませんが、罪へと誘われやすいからです。
ダビデは、親切にしたナバルが自分を罵(ののし)っている事を耳にすると、すぐさま、報復の行動を取ろうとしました。しかし、賢明なナバルの妻アビガイルの機転と進言によって、自分で復讐し神の前に罪を犯す事を思いとどまりました。怒りは、底に憎しみが潜み、周囲に害毒を撒き散らします。ナバルがダビデを罵(ののし)った事も、神の許しのもとで起きたことでした。ダビデが神の視点に立ち、それを見ていたなら、軽率な行動に走る事から守られたでしょう。しかしこの事でダビデは学びました。後にシムイに呪われた時、冷静に対処することができました。報復しようとする部下に「放っておけ。彼に呪わせよ。主が彼に命じられたのだから」と言えたのです。これはダビデが学んだことです。「復讐はわたしのする事である。わたしが報いる」と。だから神の怒りに任せよと。さらには、善をもって悪に打ち勝ち、侮辱をもって侮辱に報いず祝福を与えよと。それは自分には不可能なことですが、内におられる聖霊がして下さいます。私たちはすべてを知りませんが、主はすべてを知っておられます。私たちは限られた情報とか、限られた知識で判断して、さばこうとしますが、主はすべてのことを完全に知っておられるので、正しいさばきをすることができます。
ですから、自分で復讐してはいけません。復讐は主がなさいます。神のさばきにゆだねなければなりません。このバビロンに対するさばきは、主の報復だったのです。
Ⅲ.力尽きたバビロン(59-64)
最後に、59~64節をご覧ください。ここまでが、エレミヤのことばです。エレミヤは、58節までにバビロンに対する預言を語り終えますが、その後で、この巻き物をある人物に託します。それは59節に出てくる「マフセヤの子ネリヤの子セラヤ」という人です。この人はエレミヤの書記をしていたバルクの兄弟だと思われます。というのは、バルクの父親の名前も「ネリヤ」だったからです。ネリヤという同じ父を持つ兄弟がバルクとこのネリヤだったのでしょう。ここには、彼が「宿営の長であった」とありますから、政治的に近い地位にある人物であったことがわかります。
エレミヤは、バビロンに下るすべてのわざわいが記された1つの巻物をセラヤに託してこう言いました。61~64節です。「あなたがバビロンに入ったときに、これらすべてのことばをよく注意して読み、51:62 こう言いなさい。『【主】よ。あなたはこの場所について、これを滅ぼし、人から家畜に至るまで住むものがないようにし、永遠に荒れ果てた地とする、と語られました。』51:63 そしてこの書物を読み終えたら、それに石を結び付けて、ユーフラテス川の中に投げ入れ、51:64 こう言いなさい。『このように、バビロンは沈み、浮かび上がれない。わたしがもたらすわざわいを前にして。彼らは力尽きる。』」
エレミヤはこれまでもいろいろな実物を使って預言しました。それは行動預言と呼ばれるもので、その行動を通して神のことばを預言するというものです。時には縄とかせを作り、それを首につけてゼデキヤ王とユダの民に「あなたがたはバビロンの王のくびきに首を差し出し、彼とその民に仕えて生きよ。」(27:12)と語ったこともありました。ここでも、セラヤがゼデキヤとともに捕囚の民としてバビロンに連れて行かれたら、そこでバビロンについて主が語られたことばが書き記された一つの書物を注意深く読み、それを読み終えたら、それに石を結び付けて、ユーフラテス川の中に投げ入れ、「このように、バビロンは沈み、浮かび上がれない。わたしがもたらすわざわいを前にして。彼らは力尽きる。」と言うようにと命じました。それは、バビロンは沈み、二度と浮かび上がれないということを象徴していました。あれほど権勢を誇ったバビロンでも、最終的には力尽きるということを、彼らの印象に残るように語られたのです。
しかし、それとは対照的に、主を待ち望む者は新しく力を得て、鷲のように翼をかって上ることができます。どんなに沈められても必ず浮かび上がります。もう滅ぼされた、もう二度と浮かび上がることはないだろうと思われても、必ず浮かび上がるのです。それはイスラエルの歴史を見てもわかります。彼らはA.D.70年にローマ帝国の迫害によって全世界に散らされて祖国を失うと、もう再起ができない状態になりましたが、何とそれから1900年後に再び祖国に戻り国を復興したのです。考えられません。1900年間も世界中に散り散りバラバラになっていた流浪の民が、もうだれもがイスラエルという国名も忘れていたのに、1900年という時空を経て再興するなんて。でも、本当にそうなりました。どうしてそのようになったのでしょうか。神が約束しておられたからです。神の約束は一つも違わずみな成就します。それは近い未来においてばかりでなく、遠い未来においてもそうです。現代の私たちの時代にも成就しているのです。
イスラエルに敵対した国々はことごとく滅ぼし尽くされました。これも聖書に書かれてある通りです。神はアブラハムに対して「あなたを祝福する者を祝福し、あなたを呪う者をのろう。」と約束されましたが、そのとおりになったのです。聖書に記された神のことばの通り、すべての歴史が動いているのです。それはこれからも同じです。必ずその通りになります。神のことばの通りにバビロンは力尽きましたが、神のことばの通りにイスラエルは復興しました。ですから、神の民は疲れ果てることはないのです。これは特に罪について言われていることです。イエス様はこう言われました。
「すべて疲れた人、重荷を負っている人はわたしのもとに来なさい。わたしがあなたがたを休ませてあげます。」(マタイ11:28)
救い主イエスを信じている人は何と幸いでしょうか。その人は、疲れ果てることがないからです。イエス様がその重荷を負ってくださいました。十字架の上で。イエス様が十字架で死んでくださったのは、あなたを罪から解放するためでした。ですから、あなたがイエス様を信じるなら、あなたは罪というバビロンから解放されるのです。もう罪に悩むことはありません。苦しむことはありません。あなたは罪から解放されたからです。ギリシャ語ではそれを「εὐαγγέλιον,エウアンゲリオン」と言います。これは、「良い(eu- エウ、”good”)知らせ(-angelion アンゲリオン、”message”)」、”good news” という意味で、「福音」のことです。皆さん、何が良い知らせなんですか。これが良い知らせです。あなたは罪から解放されました!これが良い知らせです。あなたのすべての罪は赦されました。あなたはもう疲れ果てることはありません。罪責感に苛(さいな)まれることもありません。いつまでも過去のことでくよくよしたり、後悔したり、苦々しい思いを抱いたり、恨み、つらみ、憤りにかられる必要はないのです。そういう生活は疲れ果てます。あなたから精力を奪っていきます。前に進むどころか、後ろ向きにしか生きることができません。でもあなたはそこから解放されました。イエス様があなたを招いてくださったからです。「すべて疲れた人、重荷を負っている人はわたしのもとに来なさい。わたしがあなたがたを休ませてあげます。」(マタイ11:28)と。
これはすべての疲れた人、重荷を負っている人に呼び掛けられていることばです。どんな人でも、どんな罪でも赦されます。どんな罪の重荷を抱えていても、イエス・キリストがその罪を負ってくださいました。十字架の上で。ですから安心してください。そして、この招きに応答してください。そうすれば、あなたも疲れ果てた人生から、力尽きた人生から、すぐに解放されます。あなたの疲れから回復はリポビタンDではなく、イエス様からもたらされます。それはたましいの回復からもたらさるからです。そしてイエス様があなたを休ませてくださいます。
ここはまだ真の意味での神の住まいではありません。これは仮の住まいです。教会は神の家ですが、究極的な神の家ではありません。究極的な神の家は天にあります。そこが私たちのほんとうの住まい、私たちの家です。私たちはそこを目指して生きています。そしてそこを目指して生きる人は、決して疲れ果てることはありません。この地上で生きなければならないとしたら、疲れ果てるでしょう。そこにはどこにも心休まるところはないからです。
でも私たちにはこのすばらしい知らせが与えられています。イエス様がたましいの疲れを休ませてくださいます。真の回復をもたらしてくださいました。このすばらしい知らせを、一人でも多くの人に知らせたいですね。あなたはこう罪から解放されました。バビロン捕囚から解放されたんですよ。バビロンは沈み、力尽きました。浮かび上がることはありません。でもあなたは大丈夫です。必ず回復します。あなたがイエスを信じるなら、沈んでも、必ず再び浮かび上がります。何度転んでも、起き上がります。七転び八起きの人生が、あなたにも約束されているんです。それはあなたがイエス様を救い主と信じたから。信じて罪から解放されたからです。それはこれからも同じです。あなたの巡礼の旅、天のエルサレムへの旅には様々な試練や苦難もあるでしょう。でも、あなたは必ず乗り越えることができます。だってイエス様がともにおられるんだから。ともにいて力を与えて助けてくださるんだから。あなたは決して疲れ果てることはありません。そんな人生があなたにも約束されているのです。このすばらしい人生の旅を、イエス様とともに、天の御国を目指して、歩ませていただきましょう。

「礼拝拝メッセージ」(萩原師)

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萩原師の礼拝メッセージ(MP3形式の音声ファイルです。)を聴きたい方は、下記の該当メッセージをクリックしてください。

2025/11/23 逆風の中で『わたしだ』と語られる主 マルコ6章45-56節

2025/11/04 小さな器、大きな恵み マルコ6章30-44節

2025/10/08 愛をもって真理を語る〜バプテスマのヨハネに学ぶ〜 マルコ6章14-29節

2025/09/07 12弟子の派遣 マルコ6章6b-13節

2025/08/31 故郷の人々の不信仰 マルコ6章1-6節

2025/08/10 信仰の手に応える主 – 癒しと新生の恵み マルコ5章25-34節

2025/07/06 恐れることなく信じる – イエス様の復活の力 マルコ05章21-24節、35-43節

2025/06/29 イエス様による解放と新たな使命 マルコ5章1-20節

2025/06/09 向こう岸へ渡ろう マルコ4章35-41節

2025/05/04 神の国の確かな前進 – 見えない恵みの成長 マルコ4章26-34節

2025/04/06 隠されているが、確かに実現する神の国 マルコ4章21-25節

2025/03/30 神様の言葉が実を結ぶ土地へと変えられていく私たち マルコ4章10-20節

2025/03/02 神の国の奥義を聞く耳を持とう マルコ4章1-9節

2025/02/02 神の家族、神の御心を行う人 マルコ3章31-35節

2025/01/13 イエス様の力と神の赦し マルコ3章20-30節

2024/12/29 十二使徒 – 多様性の中で用いられる私たち マルコ3章16-19節

2024/12/01 イエス様に選ばれ、共に歩む マルコ3章13-15節

2024/11/03 イエス様の真の姿と使命 マルコ3章7-12節

2024/10/27 安息日の主を信じなさい マルコ3章1-6節

2024/09/22 安息日は人のため マルコ2章23-28節

2024/09/01 新しいぶどう酒は、新しい皮袋に マルコ2章18-22節

2024/08/06 罪人を招いて救うために来られたイエス様 マルコ3章13-17節

2024/07/08 今がその時、共に、福音を! マルコ2章1-12節

2024/06/02 主の激しい憐れみ、主の栄光、福音、そして癒やしを伝える マルコ1章40-45節

2024/05/19 イエス様の祈りと弟子たちとの宣教 マルコ1章35~39節

その中から出て、自分自身を救え エレミヤ書51章11~46節

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聖書箇所:エレミヤ書51章11~46節(旧約P1391、エレミヤ書講解説教86回目)
タイトル:「その中から出て、自分自身を救え」
今日、私たちに与えられている御言葉は、エレミヤ書51章11~46節です。50章からバビロンに対するさばきの宣告が語られていますが、今日はその続きとなります。今日のメッセージのタイトルは、「その中から出て、自分自身を救え」です。45節にこうあります。「わたしの民よ、その中から出よ。主の燃える怒りから逃れ、それぞれ自分自身を救え。」
それは、その前の6節でも勧められていたことでした。「バビロンの中から逃げ、それぞれ自分自身を救え。バビロンの咎のために絶ち滅ぼされるな。これは、【主】の復讐の時、主がこれに報いをなさるからだ。」主はバビロンを滅ぼされるので、そこに留まって一緒に滅ぼされることがないように、その中から逃れるようにということです。そのことが繰り返して勧められているわけです。
このように繰り返して語られているということは、それだけ重要であるということです。バビロンから出ることがどうしてそれほど重要なのでしょうか。今日は、このことについて3つのポイントでお話します。
第一のことは、主はご自分にかけて誓われたことを必ず成し遂げられるということです。すなわち、主は必ずバビロンを滅ぼすということです。
第二のことは、たとえ理解できなくても従わなければならないということです。イスラエルを懲らしめる道具として用いられたバビロンが裁かれるのはおかしいのではないですか。それは主のご計画であって、そのために用いられたのに、そのバビロンがどうして滅ぼされなければならないのですか。全く理解できません。しかしたとえあなたの頭で理解できないことであっても、主が命じておられるならばそれに従わなければなりません。
第三のことは、だから、バビロンの中から出て、自分自身を救えということです。そうでないと、この世から聞こえてくるうわさによってあなたの心が弱くなってしまうからです。あなたが聞かなければならないのはこの世の声ではなく主なる神の声なのです。
Ⅰ.その御名は万軍の主(11-19)
まず、11~19節をご覧ください。14節までお読みします。「51:11 矢を研ぎ、小盾を取れ。【主】はメディア人の王たちの霊を奮い立たせられる。御思いは、バビロンを滅ぼすこと。それは【主】の復讐、ご自分の神殿の復讐だからである。51:12 バビロンの城壁に向かって旗を掲げよ。見張りを強くし、番兵を立て、伏兵を備えよ。【主】は計画を練って、バビロンの住民について語ったことを実行されるからだ。51:13 大水のほとりに住む、財宝に富む者よ。おまえの最期、おまえの寿命が尽きる時が来た。51:14 万軍の【主】はご自分にかけて誓われた。「わたしは必ず、バッタの大群のような人々でおまえを満たす。彼らはおまえに対して叫び声をあげる。」」
11節には、「矢を研ぎ、小盾を取れ。」と命じられています。これは、バビロンを攻撃する軍隊に向けて命じられていることばです。ここでは、バビロンを攻撃する軍隊が「メディア人の王たち」と複数形で書かれてあります。これは1節でも触れたようにメディアとペルシャの王たちのこと、あるいは、キュロス王とダリヨス王のことを指しているものと思われます。主はこうした王たちの霊を奮い立たせてバビロンを滅ぼされるのです。それはバビロンが主の神殿を破壊したからです。その復讐なのです。
12節には、バビロンの城壁に向かって旗を掲げよ、とあります。旗を掲げるとは、敵に向かって行動を起こすという意味です。それを命じられるのは主であって、主は計画を練って、バビロンの住民について語ったことを必ず実行されるのです。
13節には「大水のほとりに住む、財宝に富む者よ」とありますが、これはバビロンに住む者たちのことです。バビロンの真ん中にはユーフラテス川が流れていました。彼らはその恩恵を受けて富んでいたのです。しかしそのバビロンの住民に対して主は、「おまえの最期、おまえの寿命が尽きる時が来た」と宣告されます。彼らはユーフラテス川がもたらす恵みによって繁栄と豊かさを誇りましたが、その最期を迎えることになるというのです。それは14節にあるように、諸国の軍隊という大群のバッタのような人々でその地を満たされることによってです。
富であれ、名誉であれ、力であれ、こうしたものは究極的な救いをもたらすことはできないのです。それは、私たちも注意しなければなりません。これだけ富があれば、これだけ蓄えがあれば、この先、安心して暮らしていけると思ったら大間違いです。そうしたものが究極的な救いをもたらすことはできないからです。やがて寿命が尽きてしまう時が来るのです。
では、私たちに究極的な救いをもたすものは何でしょうか。15~19節をご覧ください。ここにはイスラエルの神と、バビロンの偶像が比較を通して、イスラエルの神、主がどれほど偉大な方であるかが示されています。
15~16節には、「主は、御力をもって地を造り、知恵をもって世界を堅く据え、英知をもって天を張られた。主の御声に、天では水のざわめきが起こる。主は地の果てから雲を上らせ、雨のために稲妻を造り、ご自分の倉から風を出される。」とあります。主は天地の創造主であられます。その力と知恵は創造された世界を見ればわかります。雲、稲妻、風といった自然現象は、その神の力を示しています。
一方、偶像はどうでしょうか。17~18節には「すべての人間は愚かで無知だ。すべての金細工人は、 彫像のために恥を見る。その鋳た像は偽りで、その中には息がない。それは空しいもの、物笑いの種だ。刑罰の時に、それらは滅びる。」とあります。偶像には息もなく、力もありません。そんな偶像に頼るのはまことに愚かなことです。それは空しいことであり、物笑いの種でしかありません。
しかし、主に信頼する者はそうではありません。19節に「ヤコブの受ける分は、このようなものではない。主は万物を造る方。イスラエルは主のゆずりの民。その御名は万軍の【主】。」とあるように、ヤコブが信じた神は、無力な偶像のようなものではなく、万軍の主です。だから、この方に信頼する者は決して失望することはないのです。問題は、あなたが何に信頼するか、誰に従うのかということです。あなたが従うものによってその結果も決まるのです。
アメリカのニューヨークにブルックリン・ダバナクルという教会があります。1972年にこの教会に牧師として赴任したのはジム・シンバラという牧師でしたが、彼は神学を学んだことがありませんでした。バスケットボールの選手として活躍が認められると、スポ―ツ特待生として大学に入りました。卒業後、就職してサラリーマンをしていたとき、妻の父親に「ニューヨークの小さな教会で牧会者として仕えてみないか」と勧められました。しかし、自信がなかったので「私に牧会ができるでしょうか。神学も学んだこともないし、運動ばかりして本もろくに読んだことがないのに」と断りました。その時、父の一言が胸に刺さりました。「資格が重要なのではない。神が召しておられるかどうかが重要なんだよ。」
 彼はその教会に赴任すると、見捨てられた人々にイエス様の愛を伝え始めました。麻薬中毒者、犯罪者、売春婦、ホームレスの人たちを対象に福音を宣べ伝えたのです。すると神の愛によって多くの人々が変えられました。彼は神に用いられ、ニューヨークを変えるほどの影響力のある人になったのです。
皆さん、資格が重要なのではありません。あなたがどのような人かは全く関係ないのです。重要なのは、「あなたを召し、用いてくださるのは誰か」ということです。まさにイエス様が「わたしは、この岩の上にわたしの教会を建てます。」(マタイ16:18)と言われたとおりです。それは主がなさることなのです。主が真理の御言葉の上にご自身の教会を建ててくださいます。主は万物を造る方、その御名は万軍の主です。あなたにはできなくても、神にできないことは一つもありません。あなたにとって難しいことでも、神にとっては何でもないことです。あなたの力で神の力をはかってはなりません。あなたの人生のすべてを神に明け渡してください。そうすれば、神があなたの人生を、祝福へと導いてくださいますから。
Ⅱ.たとえ理解できなくても(20-33)
第二のことは、たとえあなたが理解できなくても従うということです。20~33節をご覧ください。まず24節までお読みします。「51:20 「あなたはわたしの鉄槌、戦いの道具だ。わたしはあなたによって国々を砕き、あなたによって諸王国を滅ぼす。51:21 あなたによって馬も騎手も砕き、あなたによって戦車も御者も砕き、51:22 あなたによって男も女も砕き、あなたによって年寄りも幼い者も砕き、あなたによって若い男も若い女も砕き、51:23 あなたによって牧者も群れも砕き、あなたによって農夫もくびきを負う牛も砕き、あなたによって総督や長官たちも砕く。51:24 わたしはバビロンとカルデアの全住民に対し、彼らがシオンで行ったすべての悪に、あなたがたの目の前で報復する。─【主】のことば─」
ここには、「あなたによって」ということばが10回も出てきます。「あなた」とはバビロンのこと、「わたし」とは主なる神のことです。バビロンはかつて主の鉄槌、戦いの道具として諸国を砕く神の道具として用いられました。
しかし、24節を見ると、そのバビロンがシオンで行ったすべての悪のゆえに、イスラエルの民の目の前で裁かれることになるというのです。どういうことでしょうか。理解できません。神のご計画のためにその道具として用いられたバビロンが、今度はその神によってさばかれなければならないというのは。それは神様が計画されたことであって、バビロンはただそのために用いられただけなのに、どうしてバビロンがさばかれなければならないのでしょうか。勿論、やりすぎたことは否めません。彼らはあくまでも神の道具としてイスラエルを懲らしめるための器にすぎなかったのに、自分に与えられた分を越えて、神の領域にまで手を伸ばしてしまいました。主の神殿にあった器を自分たちの偶像の宮に飾ったり、それで酒を飲んだりしました。彼らは主に向かい、イスラエルの聖なる方に向かって高ぶってしまったのです。だからといって、神の道具として使われたバビロンがさばかれるというのは納得できません。
このようなことは、この世界を創造し、主権者として常に支配しておられる神の存在を認めることなくしては、なかなか受け入れることができないことです。人間の理性では納得できることがではないからです。それは神が一方的になしてくださったイエス・キリストによる贖いのみわざを、救いの恵みとして受け入れることも同じです。頭で理解することができません。それは理性だけではなく、信じることによってもたらされるものだからです。賛美歌に「ただ信ぜよ」という讃美がありますが、たとえ自分に理解できないことでも、神が言われることをただ信じて受け入れることが求められるのです。
ある目の見えない人が、眼球を提供されて手術を受けることになりました。手術が無事終わり、目の包帯を取る日が来ました。少しずつ包帯が取れて次第に物体が見え始めました。彼の目の前に広がったのは非常に美しい世界でした。うれしさのあまり、そばにいた母親に言いました。「お母さん、どうしてこんなに美しい世界を話してくれなかったの。」すると、母親は答えました。「毎日あなたにこの美しい世界のことを話して聞かせたわ。ただ、あなたがその言葉を理解できなかっただけよ。」
これと同じです。どんなに聖書に書かれてあっても、どんなに聞いても、その言葉を理解できないことがあります。しかし、終わりの日が来ると、すべてが明らかになります。人々は目の前のあまりにもすばらしい天国と、永遠の燃える火の世界があることを知るでしょう。その時、人々は「どうしてこんな世界があることをもっと早く教えてくれなかったのか」と言って泣き叫ぶでしょう。しかし、神はすでにそのことを多くの預言者たちを通して語られ、神の国に行く唯一の道であるイエス・キリストを送ってくださいました。大切なのはそれがあなたにとって理解できるかどうか、納得できるかどうかではなく、神のことばを信じるかどうか、信じて従うかどうかにかかっているのです。
今は天国におられる滝元明先生が書かれたトラクトに、こんな話があります。
 ひとりの実業家がイエス様を信じてクリスチャンになりました。彼は、人生があまりにも素晴らしく変えられ、うれしくて仕方がないので、誰にでもイエス・キリストを信じた喜びを伝えました。
 かつて学校の校長をしていたおじさんのところにも伝道に行き、イエス・キリストは神が遣わされた神の子であり、人間を罪から救うために、身代わりとなって十字架で死なれたこと、三日目に死の力を打ち破って、死人の中から復活されたこと、そして、イエスを信じるなら、救われて永遠のいのちを持つことができることを、30分ほど熱心に話しました。
 するとおじさんは大声で笑い出しました。
 「なに、キリストが死人の中から復活した?そんな馬鹿な話はするな。おれに話しても、他の人にそんな話をするのはやめておけ。」
 「おじさん、どんなに笑ってもいいよ。私は本気で信じているんだ。クリスチャンは死ぬことは恐ろしくないよ。死ぬのは永遠のいのちの始まりだから」
 それから数年後、そのおじさんはがんになり、がんセンターに入院しました。だんだん食欲もなくなり、目の前に死が近づいたことを知りました。夜になると死の恐れがおそってきて、眠ることもできなくなりました。
 「おれは死ぬ。死んだらどこに行くのか」と、毎晩苦しみ続け、数年前に聞いた言葉をふと思い出しました。
 「おじさん、クリスチャンは死ぬことは永遠のいのちの始まりだよ」
 本当にそんな心境になれるのだろうか・・・・。叔父さんは、奥さんに電話をかけてもらい、彼を呼び出しました。
 彼が病院に駆けつけると、伯父さんは言いました。
 「おまえの言っていたイエスの話を聞かせてくれ。ほんとうに死の恐れから救われることができるのか」
 危篤状態にある人に長い話はできません。
 「叔父さん、三つの話をするので聞いてください。一つ、聖書には「すべての人は罪を犯した」とあります。叔父さんも神の前に罪人だよ。そのことを認めますか?
 「おれは罪人だとわかっている」
 「もう一つ、『人間には、一度死ぬことと死後にさばきをうけることが定まっている』とあります。叔父さんも罪人のまま死んだら地獄に行くよ。わかる?」
 「もう一つ、主イエスを信じたら天国に行ける。なぜなら、罪のない神の御子イエスが人の罪の身代わりとなって十字架に死なれ、人類の誰も打ち破ることができなかった、死の力を打ち破って死人の中からよみがえられたから。このことを信じるだけで、罪の赦しを受けて、天国に行けるんです。」
 すると叔父さんがいいました。
 「おれはイエスを信じる。おれのために祈ってくれ」
 5分間ほどの会話でした。
 「主イエスさま、私は罪人です。お赦しください。主イエスさまを信じます。永遠のいのちをお与えください」
 二人は声を出して祈りました。その瞬間、伯父さんの上に平安が訪れました。
 「ああ、もうこれでいい。おれも天国に行ける」
 それから数日後、伯父さんは最期に次の言葉を筆で書きしるし、安らかに天国に行きました。
 「天国のいのちがあることがわかった。イエス・キリストを信じることができた」
 だれでも、主イエスを信じるだけで救われるのです。(Precius Vol7 )
このような不思議は、次の25節と26節にも出てきます。ここには、「51:25 全地を破壊する、破壊の山よ。見よ、わたしはおまえを敵とする。──【主】のことば──わたしはおまえに手を伸ばし、おまえを岩から突き落とし、おまえを焼けた山とする。51:26 だれもおまえから石を取って、要の石とする者はなく、礎の石とする者もない。おまえは永遠に荒れ果てた地となる。──【主】のことば。」」
ここには、バビロンの崩壊の様子が描かれています。「全地を破壊する破壊の山」とは、バビロンのことです。主はその破壊の山であるバビロンに手を伸ばし、彼を岩から突き落として、焼けた山とするのです。もう誰もバビロンから石をとって要の石、礎の石とする者はいません。バビロンは永遠に荒れ果てた地となるからです。
これが常識です。かつてどんなに権勢を誇り、栄華を極めたバビロンでも、そこから石を取って要の石、礎の石にする人はいません。しかし、そのように人に捨てられた石が、要の石、礎の石になったという例があります。それがイエス・キリストです。マルコ12章10~11節には「12:10 あなたがたは、次の聖書のことばを読んだことがないのですか。『家を建てる者たちが捨てた石、それが要の石となった。12:11 これは主がなさったこと。私たちの目には不思議なことだ。』」とあるように、イエス様は家を建てる者たちが捨てた石なのに、要の石となりました。要の石とは、その家を建てるに当たり、無くてはならない要の石のことです。イエス様はまさに、家を建てる者たちが捨てた石なのに、要の石になりました。これは私たちの目には不思議なことです。しかし、神はこのようなことをなさるのです。それは、人間の理解を越えた神のみわざです。私たちに求められているのは、私たちが理解できないことでも、それを神の救いの御業として受け入れることなのです。そうすれば、あなたは救われます。自分自身を救うことができるのです。
Ⅲ.それぞれ自分自身を救え(27-46)
ですから、第三のことは、その中から出て、自分自身を救え、ということです。「その中」とはとの中ですか?バビロンです。バビロンの中から出て、自分自身を救わなければなりません。これが、主が命じておられることです。27~46節をご覧ください。まず、32節までをお読みします。「51:27 この地に旗を掲げ、国々の中で角笛を鳴らせ。バビロンに向けて国々を聖別せよ。バビロンに向けて王国を召集せよ。アララテ、ミンニ、アシュケナズを。バビロンに向けて司令官を立て、群がるバッタのように、馬を上らせよ。51:28 バビロンを攻めるため国々を聖別せよ。メディアの王たち、その総督やすべての長官たち、その支配にある全土の民を。51:29 地は震え、もだえる。【主】はご計画をバビロンに成し遂げ、バビロンの地を住む者もいない荒れ果てた地とされる。51:30 バビロンの勇士たちは戦いをやめ、砦の中に座り込む。彼らの力は干からびて、女たちのようになる。その住まいは焼かれ、かんぬきは砕かれる。51:31 飛脚はほかの飛脚に走り次ぎ、使者もほかの使者に取り次いで、バビロンの王に告げて言う。「都は、くまなく攻め取られ、51:32 渡し場も取られ、湿地も火で焼かれ、戦士たちはおじ惑っています」と。」
神が諸国を招集し、バビロンに向かって旗を掲げるようにと命じるのは、これが3度目です(50:2,51:12)。その攻撃に加わるのは、アララテ、ミンニ、アシュケナズといった国々です。「アララテ」はノアの箱舟が漂着したところですが、現在のアルメニア地域のあたりです。「ミンニ」は、現在のイラン西部にあたります。「アシュケナズ」はアララテに近い所にあります。こうした国々が、バビロンを攻撃する軍隊に加わるのです。
これらの軍隊がバビロンを攻撃すると、バビロンの兵士たちは戦いをやめ、砦の中にこもり、力を失ってしまいます。やがて門のかんぬきは砕かれ、敗戦を告げる飛脚たちが走り継ぎ、バビロンの王にこのように告げます。「都は、くまなく攻め取られ、渡し場も取られ、湿地も火で焼かれ、戦士たちはおじ惑っています。」(31b-32)
この王とはバビロンの王ナボニドゥスです。息子のベルシャツァルは城内で酒を飲んで酔っ払っていたところを、メディアの王率いる軍隊によって殺されてしまいました。その知らせが父親のナボニドウスに伝えられるのです。当時、世界の七不思議の一つと言われた空中庭園を作り、その繁栄を誇示したバビロンが陥落したのです。
世の人は、それは時代の流れだと言います。平家物語の冒頭に、「祇園精舎(ぎおんしょうじゃ)の鐘の声、諸行無常(しょぎょうむじょう)の響あり、とあるように、この世のすべての現象は常に変化し、一瞬たりとも同じ状態を保つことはない。それこそ自然の成り行きだと自分にも言い聞かせ、美しいまでに寂しい歴史観を説明するかもしれませんが、しかし聖書は、繰り返し、繰り返し、そうではないと、私たちに訴えるのです。33節にも「イスラエルの神、万軍の【主】が、こう言われるからだ。」とあるように、それは主権者である神が、なされることなのです。
33節には、そのバビロンの滅亡が麦の打ち場にたとえられています。収穫の前には、その準備のために打ち場が作られます。そうすれば、誰もが、刈り入れの時がやって来たことを知ります。そのように、バビロンも刈り入れのとき、すなわち、神の審判の時が来たことを知るのです。そして、バビロンに神の審判が下ることになります。
その様子が36~44節に描かれています。44節には、「わたしはバビロンでベルを罰し、これが呑み込んだ物を吐き出させる。国々はもう、そこに流れ込むことはない。バビロンの城壁さえも倒れてしまった。」とあります。「ベル」はバビロンの偶像です。主はそのベルを罰し、これ呑みこんだ物を吐き出させます。これはバビロンに捕えられていたユダの民を、エルサレムに帰還させるということです。34節にあるように、バビロンの王ネブカドネツァルはユダの民を食い尽くし、竜のように呑み込み、それで腹を満たしますが、今度はその呑み込んだイスラエルを吐き出すわけです。こうしてバビロンは完全に滅びることになるのです。
だから、45節と46節に、こう勧められているのです。「51:45 わたしの民よ、その中から出よ。【主】の燃える怒りから逃れ、それぞれ自分自身を救え。51:46 そうでないと、あなたがたの心は弱まり、この地に聞こえるうわさを恐れることになる。今年、うわさが立ち、その後、次の年にも、うわさは立つ。この地には暴虐があり、支配者はほかの支配者に立ち向かう。」
「その中から出よ」とは、バビロンの中から出よということです。これは6節でも言われていたことです。そうでないと、バビロンとともに滅ぼされてしまうことになるからです。46節にはこうあります。「そうでないと、あなたがたの心は弱まり、この地に聞こえるうわさを恐れることになる。今年、うわさが立ち、その後、次の年にも、うわさは立つ。この地には暴虐があり、支配者はほかの支配者に立ち向かう。」
そうでないと、あなたの心は弱まり、この地に聞こえるうわさを恐れることになります。この「うわさ」とは何でしょうか。これは前回お話したように、バビロンとは「この世」の象徴ですが、あなたが救われてもこの世というバビロンから出ないと、この世がもたらすさまざまなうわさによって翻弄され、心が弱くなってしまうということです。世を恐れると、信仰が委縮してしまうからです。だからイエス様は、からだを殺してもたましいを殺せない者たちを恐れるな、と言われたのです。むしろ、たましいもからだもゲヘナで滅ぼすことができる方を恐れなさいと。そうするなら、世に対する恐れから抜け出すことができます。そして、世を制することができる真実な信仰者として、力強く歩むことができるのです。
「この世と調子を合わせてはなりません。むしろ、何が良いことで神に受け入れられ、完全なのかをわきまえ知るために、心の一新によって自分を変えなさい。」(ローマ12:2)
この世と調子を合わせてはなりません。そうでないと、この世のうわさに翻弄され、心が弱くなってしまいます。結果的にその中に埋没してしまうことになってしまうのです。そうではなく、むしろ、神のみこころは何か、何が良いことで神に受け入れられ、完全であるのかをわきまえ知るために、心の一新によって自分を変えなければなりません。たとえあなたが苦手な人にプレッシャーをかけられても、本当に恐ろしい存在は別にあると思い出せば、落ち着いて対応できるのではないでしょうか。
神のことばに従うのか、この世の声に従うのかによって結果は大きく変わります。神のことばに信頼を置いて行動しないなら、やがてこの世のうわさに翻弄され、心が弱くなってしまうのです。でも、神のことばを聞いてそれに従うなら、あなたは神によって力をいただき、鷲のように、翼をかって上ることができます。
先日、三原先生の奥様の鳩子さんのお母様が召されました。その告別式の中で鳩子さんがお母さんとの思い出を証しされました。
 前夜式が終わり寝る前にお父さんと二人で少し話ました。お父さんはこう言いました。
 「お母さんは、お父さんの事が好きだったんだな~。だから天に召される時も娘も息子も待たずに行ったんだろう。」
 来てくれた看護師さんが、召される直前の人は会いたい人が来るまで頑張れると父に教えてくれたそうです。確かに、お父さんと二人が良かったんだね。お母さんらしい!と思い笑ってしまいました。
 仲の良い両親の下に生まれたことは幸せであり、神様からの大きな恵みです。
 聖書には、「妻たちよ。主に従うように、自分の夫に従いなさい。」とあります。母の尊敬しているところは、父に従いなさいという命令に最後まで従ったところです。母は父がする事に反対した事がなかったそうです。私からすると、えっ?そんなことあるの?反対した事がないなんて・・・。
でも、私が信じている事は、聖書のみことばは、この世界を造られた神様に従うなら必ず幸せになれる!という事です。確かに、母は聖書のみことばに従いました。そして、幸せでした。これは、神さまと母からのチャレンジかもしれません。私も天に召されるその日まで、夫を愛し、夫に従う。頑張ります!
それは夫婦関係ばかりでなく、私たちの生活のすべてにおいて言えることです。皆さん、聖書のみことばに従えば、必ず幸せになれます。そして、神様から聖霊の力を受けることができます。走ってもたゆまず、歩いても疲れません。しかし、この世の声に従うなら、あなたの心は弱まり、そこから聞こえてくるうわさに翻弄されることになるでしょう。だから、あなたはそこから出て、主の燃える怒りから逃れ、自分自身を救わなければなりません。それは簡単なことではありません。この世の力が強く、日々その影響を受けながら私たちは生きているからです。しかしたとえその中にいても、私たちは主のもの、その牧場の羊です。いつも主を求め、主を見上げ、主の聖霊の助けをいただきながら、主の御声に聞き従う者でありたいと思います。そのときあなたは自分自身を救うことができます。たとえ意気消沈することがあっても主によって励まれ、勝利ある人生を歩むことができるのです。

礼拝メッセージ(近藤師)

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『礼拝メッセージ』

近藤先生の礼拝メッセージ(MP3形式の音声ファイルです。)を聴きたい方は、下記の該当メッセージをクリックしてください。ご質問等ありましたら、近藤(0287-73-8624)まで、連絡下さい。

2025/11/09 恵みによって生きる エペソ2章1~10節

2025/10/27 完全なるものを目指して エペソ1章15~23節

2025/09/28 最高の贈り物 エペソ1章1~14節

2025/08/17 神の中に生き、動き、存在する 使徒の働き17章16-34節

2025/07/20 恩寵の人ペテロ ヨハネ21章1~17節

2025/05/18 いちじくの木が枯れる マタイ21:18~22

2025/04/20 ラザロよ出て来なさい ヨハネ11:38-46

2025/03/16 神の業が現れる時 ヨハネ9章1~12節

2025/02/16 主の恵みに感謝する ルカ17章11-19節

2025/01/19 もう一度触れられて マルコ8章22-26節

2024/12/15 マリアの讃歌 ルカ1章39-56節

2024/11/24 カナンの女の信仰 マタイ15章21-31節

2024/11/17 湖の上を歩かれたイエス マタイ14章22-33節

2024/10/20 パンの奇跡 ヨハネ6章1~15節

2024/10/07 悪循環からの開放 ヨハネ5章1~9節

2024/09/15 死を超える命 ルカ8章40-56節

2024/08/25 愛は人を救う マルコ2章1~12節

2024/07/28 生ける石として Ⅰペテロ2章4~9節

2024/06/30 湖上の奇跡 マルコ4章35-41節

2024/05/05 大漁の奇跡 ルカ5章1-11節

2024/04/21 百人隊長の信仰 ルカ7章1-10節

2024/03/24 十字架を見上げた女性達 ヨハネ19章23-30節

2024/03/03 イエスの権威 ルカ4章31-44節

2024/02/18 役人の息子の癒し ヨハネ4:46-54

2024/01/21 水がぶどう酒に変わる時 ヨハネ2:1-11

2023/12/24 クリスマスの光 イザヤ書9:1-7

2023/12/03 処女が身ごもる マタイ1:18-25

2023/11/19 タラントの喩 マタイ25:14-30

2023/10/09 大宴会の喩 ルカ14:7-24

2023/09/10 赦さないしもべの喩 マタイ18:21-35

2023/08/20 悪い農夫の喩 マタイ21:33~46

2023/07/16 不正の管理人の喩 ルカ16:1~13

2023/06/25 優先順位の問題 ルカ10:38~42

2023/06/18 羊と山羊の喩 マタイ25:31~46

2023/05/28 ぶどう園の労務者の喩 マタイ20:1-16

2023/04/16 復活の証人 ヨハネ20:1-8

2023/03/12 性悪な裁判官の喩 ルカ18:1-8

2023/02/19 愚かな金持ちの喩 ルカ12:13-21

2023/01/15 牧者と門の喩 ヨハネ10:1-18

2022/12/25 与える愛 マタイ2:1-12

2022/12/04 ここに、この胸に ルカ2:1-7

2022/11/20 サマリア人の喩 ルカ10:25-37

2022/10/16 放蕩息子の喩、兄息子 ルカ15:25-32

2022/09/11 放蕩息子の喩、弟息子 ルカ15:1-24

2022/08/21 神の国への招き 

2022/07/24 モーセの生涯⑰モーセとキリスト

2022/07/10 モーセの生涯⑯モーセの死 申命記34:1-12

2022/06/19 モーセの生涯⑮約束の地へ 申命記8:1-10

2022/05/15 再臨の時に備えて ルカ17:20-37

2022/04/17 死人のうちからよみがえるまでは マタイ17:1-9

2022/03/20 モーセの生涯⑭ヨシュアへのバトンタッチ 民数記27:12-23

2022/02/20  モーセの生涯⑬青銅の蛇 民数記21:1-9

2022/01/23  モーセの生涯⑫約束の地の偵察 民数記13:1-25

2021/12/26 シメオンが見ていたもの ルカ2:21-33

2021/11/07 モーセの生涯⑪幕屋の建設 出エジプト記35:4~35

2021/10/17 モーセの生涯⓾金の子牛事件出エジプト32:1-10

2021/09/19 モーセの生涯⑨十戒(2)出エジプト20:1-17

2021/08/22 頑張るって聖書的? へブル人への手紙4:1-11

2021/08/ 8 モーセの生涯⑧ 十戒 (1) 出エジプト19:1-20

2021/07/ 4 モーセの生涯⑦レフィディム 出エジプト記17:1~16

2021/06/13 モーセの生涯⑥水、うずら、マナ 出エジプト16:1-12

2021/05/16 モーセの生涯⑤葦の海渡渉 出エジプト14:15~31

2021/04/18 モーセの生涯④過越 出エジプト12:1-14

2021/03/21 モーセの生涯③ファラオとの交渉 出エジプト6:1-13

2021/01/24 生ける石として Ⅰペテロ2:4-10

2021/01/17 モーセの生涯②召命の時 出エジプト記3:1-14

2020/12/20 ダビデの町ベツレヘム ルカ2:1-12

2020/11/08 モーセの生涯①(モーセの誕生)出エジプト2:1-15

2020/10/11 聖書通読のすすめ 使徒の働き8:26-40

2020/9/13  神の御声を聴く(創世記と私達) 創世記50:1-26

2020/08/23 人の思い、神の思い イザヤ書55:6-13

2020/08/09 祝福の系図 創世記48:1-22

2020/7/12 エジプトに導かれる神 創世記 46:1-7, 28-34

2020/3/29 共に祈れることの幸い マタイ6:9-13

20203/15 神の救いの計画 創世記45:1-15

2020/2/16 エルシャダイ・全能の神  創世記43:1-15

2020/1/19   神様の織りなす織物 創世記42:1-25

2019/12/22  イエスとアウグストウス ルカ2:1-20

2019/12/8 神様の時 創世記41:37-57

2019/11/17  ヨセフと共におられた主 創世記39:1-23

2019/10/20 ヨセフの見た夢 創世記37:1-36

2019/9/22 祝福の継承 創世記 35:1-15

2019/8/18 和解への道 創世記33:1-20

2019/7/21 ペヌエル、神に勝たせる人生  創世記32:13-32

2019/6/23 信仰成長を求めて 詩編1編

2019/6/16 マハナイム、砕かれるとき 創世記32:1-12

2019/5/19  全てを見ておられる神 創世記31:1-13

2019/4/21 復活の力  ルカの福音書24:1-12

2019/3/17 私のベテル 創世記28:1-22

2019/2/10 憐れみの器 創世記25:19-34

20191/13 死の向こうを見つめて  創世記23:1-20

2018/12/23 救い主イエス  マタイ1:1-25

2018/11/11 信仰の高嶺を目ざして  創世記22:1-19

2018/10/21 望みが叶うとき 創世記21:1-7

2018/9/23 執り成しの祈り 創世記19:1-29

2018/8/19 神様の視点  創世記18:1-15

2018/7/22 信仰のリニューアル 創世記17:1-27

2018/6/10 神の愛の眼差し 創世記16:1-16

2018/5/13 神の一方的な愛 創世記15:1-21

2018/4/15 イエスと共に歩む ルカ24:13-35

2018/4/8 二人の王 創世記14:1-24

2018/3/18 御心を求めて生きる 創世記12:10-13:18

2018/2/25 アブラハムの旅立ち 創世記11:27-12:9

主のみわざを語ろう エレミヤ51章1-10節

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聖書箇所:エレミヤ書51章1~10節(旧約P1391、エレミヤ書講解説教85回目)
タイトル:「主のみわざを語ろう」
エレミヤ書51章に入ります。50章からバビロンに対するさばきの宣告が語られていますが、今日はその続きです。今日は、「主のみわざを語ろう」というテーマで、3つのことをお話します。
第一に、バビロンはさばかれるが、イスラエルは決して見捨てられることはないということです。
第二のことは、だからバビロンに留まって共倒れすることがないように、バビロンの中から逃げよということです。
第三のことは、ではバビロンから救われた者はどうすればいいんですか。バビロンから救われた者は、そのすばらしい主のみわざを語らなければならないということです。
Ⅰ.イスラエルは見捨てられることはない(1-5)
まず、1~5節をご覧ください。1節と2節をお読みします。「51:1 【主】はこう言われる。「見よ。わたしはバビロンに対し、レブ・カマイの住民に対して、滅ぼす者の霊を奮い立たせ、51:2 他国人たちをバビロンに送る。彼らはこれを吹き散らし、その地を滅ぼす。彼らは、わざわいの日に、四方からこれを攻める。」」
バビロンに対するさばきの宣告です。主はバビロンに対して、滅ぼす者の霊を奮い立たせ、他国人をバビロンに送ると言われました。「滅ぼす者の霊」とは、メディアの王のことです。11節には、「滅ぼす者たちの霊たち」と複数形であることから、これはメディアとペルシャの王たちの霊のこと、あるいは、キュロス王やダリヨス王の霊のことを指していると思います。「霊」はヘブル語で「ルアッハ」といいますが、原語では「息」とか「風」とも訳されることばです。創世記2章7節に「神である主は、その大地のちりで人を形造り、その鼻にいのちの息を吹き込まれた」とありますが、この「いのちの息」と訳されていることばが「ルアッハ」です。ですから2節に「吹き散らし」とあるわけです。主は滅ぼす者たちを奮い立たせ、その息、その風でバビロンを吹き散らされるのです。
3節と4節には、「51:3 射手には弓を引かせるな。よろいを着けて立ち上がらせるな。そこの若い男たちを惜しむな。その全軍を聖絶せよ。51:4 刺し殺された者たちが、カルデア人の地に、突き刺された者たちが、その通りに倒れる。」とあります。これはバビロンが徹底的に滅ぼされるということです。
しかし、イスラエルに対してはそうではありません。5節をご覧ください。ここには、「しかし、イスラエルもユダも、その神、万軍の【主】に見捨てられることはない。彼らはイスラエルの聖なる方から離れ、彼らの地は罪過で満ちていたが。」とあります。
イスラエルもユダも、主に対して罪を犯しました。イスラエルの聖なる方から離れ、彼らの地は罪過で満ちたのです。しかし、イスラエルもユダも、その神、万軍の主に見捨てられることはありません。ここがバビロンに対するさばきとイスラエルに対するさばきの大きな違いです。バビロンもイスラエルも主に対して罪を犯し、神のさばきを受けることになりましたが、同じさばきでもイスラエルが受けるさばきとバビロンが受けるさばきとでは全然違うのです。イスラエルが受けるさばきはさばきというよりも懲らしめであって、ここでバビロンに宣告されているようなものとは違います。確かに彼らも罪を犯したためバビロン捕囚という憂き目にあいましたが、バビロンのように徹底的に滅ぼされることはありません。なぜなら、イスラエルは神の民、契約の民だからです。神との契約の民は決して見捨てられることはないのです。
パウロはこのことをコリント人への手紙第一11章32節でこのように言っています。「しかし、私たちがさばかれるのは、主によって懲らしめられるのであって、それは、私たちが、この世とともに罪に定められることのないためです。」(Ⅰコリント11:32 第三版)
パウロはここで、私たちがさばかれるのはどういうことかを述べています。それは、私たちが、この世とともに罪に定められないため、永遠に滅びることがないために、主によって与えられる懲らしめなのです。discipline、訓練、しつけなのです。
へブル人への手紙12章には、神はイスラエルを子として扱っておられるとあります。自分の子どもを訓練しない親がいるでしょうか。もしいるとしたら、それは私生児であって、本当の子どもではありません(ヘブル12:8)。本当に親であるなら、自分の子どもの成長を願い、そのためにはむちさえもいとわないからです。ですから、確かにイスラエルもユダも、イスラエルの聖なる方から離れ、その地は罪過で満ちましたが、だからといって、彼らが主に見捨てられることはないのです。神と契約を結んだのであれば、神が契約を破らない限り、どんなことがあっても見捨てられることはありません。神は真実な方だからです。
いったいなぜイスラエルはそのような契約を結ぶことができたのでしょうか。それは彼らが特別に優れていたからではありません。真面目な民族だったからでもないのです。彼らが神と契約を結ぶことができたのは何か特別な理由があったからではなく、ただ神が彼らを愛されたからです。ただそれだけです。皆さんもよく知っておられるでしょう。彼らの祖先はヤコブです。イサクの双子の兄弟の弟ヤコブ。意味は「かかとをつかむ者」です。彼は兄エサウのかかとをつかんで生まれてきました。俺が先だと。案の定、彼は兄の弱みにつけこんで長子の権利を兄から奪ってしまいました。本当にずる賢い人だったのです。そんなイスラエルと神は契約を結ばれました。それは彼らがそれに値する民だったからではなく、ただ神が彼らを愛されたからです。また、彼らの先祖たちに誓った誓いを守られたからです。申命記7章7~8節にこうあります。「7:7 【主】があなたがたを慕い、あなたがたを選ばれたのは、あなたがたがどの民よりも数が多かったからではない。事実あなたがたは、あらゆる民のうちで最も数が少なかった。7:8 しかし、【主】があなたがたを愛されたから、またあなたがたの父祖たちに誓った誓いを守られたから、【主】は力強い御手をもってあなたがたを導き出し、奴隷の家から、エジプトの王ファラオの手からあなたを贖い出されたのである。」
すごいでいね。主は常に真実であられます。どこまでも約束に忠実な方なのです。主がそのようにすると約束されたのなら、どこまでもそれを守られるのです。ですから、イスラエルが神と特別な契約を結ぶことができたのはそこに何らかの特別な理由があったからではなく、神が一方的に彼らを愛されたからなのです。
それは私たちにも言えることです。神が私たちを救ってくださったのは何か私たちが特別なことをしたからではありません。神が一方的に私たちを愛し、神の御子イエスを信じるように、信じて神の民となるように予め選んでくださったからです。イエス様はこう言われました。「あなたがたがわたしを選んだのではありません。わたしがあなたがたを選び、あなたがたを任命したのです。それは、あなたがたが行って実を結び、そのあなたがたの実が残るためであり、また、あなたがたがわたしの名によって父に求めるものは何でも、父があなたがたにお与えになるためです。」(【新改訳改訂第3版】ヨハネ15:16)
私は18歳の時に信仰に導かれました。私は本当に肉的な人間で、クリスチャンにはほど遠いような者でした。私の友人はみんな思っていますよ。「へぇ、あいつがクリスチャンになるなんて考えられない」と。私もそう思います。15,16,17と私の人生暗かった。何のために生きているのか、どこに向かって進んで行ったらよいのかわからないで彷徨っていました。手あたり次第に、やりたい放題やろうと生きていました。高校3年生の時です。まさに地に足が着いていないという状態でした。
私は4人兄弟の末っ子として生まれましたが、母は本当に私をかわいがってくれました。目の中に入れても痛くないという感じだったんじゃなにいかと思います。みんなから「富男くんは本当にいい子だ」と言われ、自慢の子どもだったのかもしれません。だからなのか、私にはこうしろとか、ああしろとか、もっと勉強しろとか、もっと真面目に生きろとか、一切言わなかったんです。私は心には深い葛藤を抱えていましたがそれを表に出そうとはせず、常に明るく、いたって活発に、いたって楽しく生きていました。そんな私が高校3年生の時、後に結婚することになる妻に誘われて教会に行くようになるわけですが、私が自転車を引いて家の近くの坂道を上っていたとき、母が私にこう言ったんです。「トミちゃん、あんまり深入り知らんなよ。」
 心配だったんでしょうね。目の青い人に誘われて教会に行くようになったのを。もしかしたら誰かに言われたのかもしれません。教会に行っているようだけど大丈夫か、とか。私は、「大丈夫、深入りなんてしないから」と言いましたが、深入りしちゃいました。そして、そういう母もやがて信仰に導かれ、バプテスマの恵みに与りました。65歳の時です。
イエス様を知らない人はみんなそうですよ。何だか後戻りできない世界に足を踏み入れるようで怖いんだと思います。私もそうだったし母もそうだった。しかし、神様の恵みによってイエス様を信じることができました。それは私が何かしたからではなく、そういう類の人だったからでもなく、神様が永遠のご計画の中で選び、一方的に愛してくださったからです。
ですから、私たちが救われたのはただ神の恵みなんです。神からの賜物です。神様は、そのようにしてイスラエルと、また私たちと契約を結んでくださいました。そして神と契約を結んだのであれば、すなわち、神を信じたのであれば、たとえ異邦人であったとしてもだれでも救われるのです。そうでなければただの罪人です。それゆえ、契約外の民として滅ぼされることになってしまいます。しかし、神と契約を結び神の民とされたのなら、どんなことがあっても見捨てられることはありません。あなたが過去にどんな罪を犯したとしても、また、現在罪を犯しているとしても、あるいは、将来犯すであろう罪も、悔い改めて神に立ち返るならすべて赦されるのです。それが神のことばである聖書が約束していることです。それはイエス様が十字架で死なれ、その罪を贖ってくださったからです。そのイエスを信じて永遠のいのちを受けることができたからです。それは永遠の契約なのです。永遠の腕があなたの下にあるのです。ですから、神の御子イエスを信じて神の子とされたのなら、その神、万軍の主に見捨てられることはありません。
確かに、懲らしめはあるかもしれません。しかし、それは主があなたを愛しておられるからであって、あなたが成長するようにと与えておられる訓練なのです。バビロン捕囚は辛いことです。多くのものを失うでしょう。想像することもできないような辛い思い、悲しい思いを経験するかもしれません。それでも、その神、万軍の主に見捨てることは決してないのです。
Ⅱ.バビロンの中から逃れよ(6~8a)
ですから、第二のことは、バビロンの中から逃れよ、ということです。6節をご覧ください。「バビロンの中から逃げ、それぞれ自分自身を救え。バビロンの咎のために絶ち滅ぼされるな。これは、【主】の復讐の時、主がこれに報いをなさるからだ。」
バビロンは滅びてしまうので、そこに留まれば一緒に滅ぼされることになります。だから、そこから逃れるようにというのです。そこから逃れて、自分自身を救わなければなりません。しかし、残念ながら、そこから逃れた人はごくわずかでした。B.C.539年にペルシャの王キュロスによってバビロンが陥落すると、キュロスは寛容な政策を取りました。バビロンに捕えられたイスラエルの民に対して、エルサレムに帰還することを許したのです。それなのに、それに応じたのは、本当にわずかな人たちでした。たった5万人です。残りの人たちは皆バビロンに留まりました。なぜ?住み慣れたバビロンから出ようとは思わなかったのです。そこにいれば安定して暮らしていけると思ったからです。しかしそれは、バビロンと同じ運命をたどることになるということを意味していました。彼らに求められていたのはその中から逃れることです。そこから逃れて自分のいのちを救うことです。バビロンの咎のために絶ち滅ぼされることがないようにすることだったのです。
それは私たちにも言えることです。黙示録17章、18章を見ると、このバビロンとは神に敵対するこの世の勢力のことです。せっかく神の一方的な恵みによってこの世から救い出されたのに、そこに留まろうとすれば、私たちも共に倒れてしまうことになります。だから聖書はこういうのです。「この世と調子を合わせてはいけません。いや、むしろ、神のみこころは何か、すなわち、何が良いことで、神に受け入れられ、完全であるのかをわきまえ知るために、心の一新によって自分を変えなさい。」(ローマ12:2)
皆さん、この世と調子を合わせてはいけません。むしろ、何が良いことで、神に受け入れられ、完全であるのかをわきまえ知るために、心の一新によって自分を変えなければならないのです。
しかし、それがなかなか難しいのです。なぜでしょうか。さくらチャーチでは月に一度、礼拝後に尾山令仁先生の「信仰生活の手引き」を用いて学びの時を持っておりますが、前回のテーマは、神の御心に従うにはどうすれば良いかということでした。皆さん、神の御心に従うにはどうすれば良いのでしょうか。その中にこうありました。そのためには、まず神の御心を知らなければなりません。そのためにはまず自分が当面している具体的な問題に対する好きとか嫌いといった自分の考えとか意見、感情を、すべて神にささげることです。そうしたものをもったまま、神の御心を知ろうとすることは、こわれた磁石で方向を知ろうとするようなもので、分かりません。そして、どうしても神のみこころが記されている聖書を読まなければなりません。聖書には、あらゆる具体的な問題に対する解決の原則が記されているからです。聖書をよく読んでいる人なら、これで神のみこころの90パーセントは知ることができます。では、残りの10パーセントは何か。残りの10パーセントは、聖霊の導きを求め、聖霊が私たちの心の中にはっきりとした確信を与えてくださるまで祈ることです。聖霊は必ず御言葉と矛盾しないことを示されるはずですから、いつもよりもっと熱心に祈らなければなりません。そのように祈り求めて、そこに動くことのない心の平安が与えられたら、それを神の御心と信じて、すぐに従わなければならないのです。ところが、多くの人たちが失敗するのは、神の御心を知ろうとして、実は自分の感情を無意識のうちに当てにしているからです。自分の願っていることが出てくるまで、それを神の御心とは思わないのです。このような態度では、結局のところいつまでたっても、神の御心を知ることはできません。それは、ちょうどラジオで、周波数の違うところに合わせていて、自分の聞こうとしている放送が入らなくて焦っているようなものです。
なるほど、私たちの多くは自分の願っていることが出てくるまで、それを神の御心と思わないんですね。すると、ある姉妹が、「いや、今はどこに行っても自分を大切にするようにとか、自分を愛しなさいとか、自分を信じなさいとか、聖書と全く逆のことを勧めているのでわからなくなる時があるんです。」と言われました。
今はそういう時代なんです。どんなに神の御言葉が語られても、結局は自分を中心に考えるように動いているのです。そのような中で自分の考えや感情や意見を、すべて神にささげてしまうようにと言われても、なかなかできることではありません。
しかし、あなたが神の御心に従いたいと思っているなら、この世というバビロンから逃れたいと願っているならば、この世と調子を合わせるのではなく、神の御心は何か、すなわち、何が良いことで、神に受け入れられ、完全であるのかをわきまえ知るために、心の一新によって自分を変えなければなりません。バビロンに留まりたいという思いを捨て、バビロンの中から逃れて、自分のいのちを救わなければならないのです。
あのロトの妻はどうして滅びてしまったのでしょうか。神がソドムの町を滅ぼされたとき、そこから出るようにと言われ、後ろを振り向いてはならないと言われたのに、振り向いてしまったからです。どうして彼女は後ろを振り向いたのでしょうか。ソドムの町がどうなったのか気になったのかもしれません。でも、一番の理由は、彼女がそこに執着していたからです。その結果、彼女は塩の柱になってしまいました。それは私たちに対する教訓でもあります。主は「この世」というバビロンをさばかれますが、もしあなたがこの世に執着しているなら、バビロンと一緒にさばかれてしまうことになります。あなたはその中から逃れる備えをしなければなりません。バビロンの中から逃げて、自分のいのちを救わなければならないのです。
7~8節の前半をご覧ください。「51:7 バビロンは【主】の手にある金の杯。すべての国々はこれに酔い、国々はそのぶどう酒を飲む。それゆえ、国々は正気を失う。51:8 バビロンは、たちまち倒れて砕かれる。」
バビロンは主の手にある金の杯です。多くの国々はそれでぶどう酒を飲んで酔いしれるわけです。良い思いをさせてもらったということです。まさにお酒を飲んで酔いしれるような思いです。黙示録17章と18章を見ると、このバビロンによって利益を得ている国々が、その酔いによってすっかり騙されていたことが記されてあります。18章23節には、「なぜなら、おまえの商人たちは地上の力ある者どもで、すべての国々の民がおまえの魔術にだまされていたからだ。」(【新改訳改訂第3版】黙示録18:23)とあります。
それは地上の商人たちばかりでなく私たちも言えることです。私たちは世が提供するものによって騙されてしまうことがありますが、しかし、そのようなものはすべて滅びていくことになります。そのことに私たちも気付かなければなりません。この世があなたに約束するもの、それは善悪の知識の木の実のようなものかもしれません。それを食べるそのとき、あなたは死ぬ、と聖書にあります。だから、注意しなければなりません。この世というバビロンに留まっているのではなく、その中から逃れていのちを得なければならないのです。なぜなら、8節にあるように、バビロンは、たちまち倒れて砕かれることになるからです。
Ⅲ.主のみわざを語ろう(8b-10)
ですから、第三のことは、私たちの神、主のみわざを語ろう、ということです。8節後半~10節をご覧ください。「51:8バビロンのために泣き叫べ。その痛みのために乳香を取れ。もしかしたら、癒やされるかもしれない。51:9 私たちはバビロンを癒やそうとした。だが、それは癒やされなかった。私たちはこれを見捨てて、それぞれ自分の土地へ帰ろう。バビロンへのさばきが、天に達し、大空まで上ったからだ。51:10 【主】は私たちの義を明らかにされた。さあ、私たちはシオンで、私たちの神、【主】のみわざを語ろう。」
ここには、バビロンのために泣き叫べ。その痛みのために乳香を取れ。とあります。もしかすると、癒されるかもしれないから。これは誰に対して語られているのでしょうか。9節には「私たちはバビロンを癒そうとした。だが、それは癒されなかった。私たちはこれを見捨てて、それぞれ自分の土地へ帰ろう」とあります。この「私たち」とはだれのことでしょうか。ハーベスタイムの中川健一先生や新聖書講解シリーズのエレミヤ書注解を書かれた服部嘉明先生は、これをバビロンの同盟軍たちと考えていますが、そうじゃないと思います。というのは、これはイスラエルに対して勧められている文脈の中で語られているからです。これはバビロンに捕えられ、バビロンに移住したイスラエルの神を信じる忠実な者たちのことです。そこにはダニエルやシャデラク、メシャク、アベデ・ネゴといった3人の友人たちもいました。彼らはいのちをかけてイスラエルのまことの神を証し、バビロンが癒されるために、彼らが神に立ち返っていのちを得るようにといろいろな働きかけをしました。その結果、ネブカドネツァル王は最終的にイスラエルの神を認めましたが、孫のベルシャツァルは認めませんでした。応答したのはほんのわずかな人たちだけで、結果的に、バビロンは癒されませんでした。その罪が天にまで達し、大空まで上ったからです。
それで彼らはこう言うのです。10節です。「【主】は私たちの義を明らかにされた。さあ、私たちはシオンで、私たちの神、【主】のみわざを語ろう。」
シオンとはエルサレムのことです。だからバビロンではなくエルサレムに帰り、そこで主が彼らのためにどんなことをしてくださったのか、そのすばらしい主のみわざを証しようというのです。これがバビロンから救われたユダの民、イスラエルに求められていることでした。バビロンから救われたイスラエルに求められていたことはバビロンの中に留まることではなく、その中から逃れて、シオンで、彼らの神、主がどんなことをしてくださったのか、どんなにあわれんでくださったのかを語ることだったのです。
それは、神の一方的な恵みによってこの世というバビロンから救われた私たちに求められていることです。私たちはどういうところから救われて来たのかを思い巡らしながら、神があなたに、どんなに大きなことをしてくださったのか、どんなにあわれんでくださったのかを知らせなければなりません。神が聖書を通してあなたに約束してくださったことがたくさんあるはずです。それがかなったならば、あなたの身に成就したならば、あなたはそのことを生きた証人として証しなければなりません。それが神によって救われ、神の契約の民とされた者に与えられた責任なのです。それは、福音の真理を論理的に説明し、キリストの信仰の決断をせまるというものではありません。それは、神が私たちの身の上になしてくださったみわざをほかの人々に語ることです。
マルコの福音書5章には、ゲラサ人の男の話があります。彼は悪霊に取り憑かれ、墓場に住みついていて、もはやだれも、鎖を使ってでも、縛っておくことができませんでした。彼が足かせや鎖をひきちぎり、足かせも砕いてしまい、だれも彼を抑えることができなかったからです。それで、彼は昼も夜も墓場や山で叫びつづけ、石で自分のからだを傷つけていたわけですが、そんな彼をイエス様が癒してくださいました。悪霊から解放してくださったのです。それで彼は感動してイエス様にお供させてほしいと懇願しましたが、イエス様はそれをお許しにならず、彼にこう言われました。
「あなたの家、あなたの家族のところに帰りなさい。そして、主があなたに、どんなに大きなことをしてくださったか、どんなにあわれんでくださったかを知らせなさい。」(マルコ5:19)
それで彼は立ち去り、イエスが自分にどれほど大きなことをしてくださったのかを、デカポリス地方で言い広めると、人々はみな驚きました。悪霊によってあれほどひどい状態だった人が癒されて、正気に返ったからです。
これが私たちにも求められていることです。私たちは多くの悪霊に取り憑かれていた者です。パウロのことばでいうなら、自分の罪過と罪との中に死んでいたものです。そうした不従順らの子らの中にあって、かつては自分の欲のままに生き、肉と心の望むことを行い、ほかの人たち同じように、生まれながら御怒りを受けるべき子らでした。それなのに、あわれみ豊かな神は、私たちを愛してくださったその大きな愛のゆえに、罪過の中に死んでいた私たちを、キリストとともに生かしてくださいました。何という恵み、何というあわれみでしょう。その驚くべき神の恵みを語らなければならないのです。それはもう語らなければならないといった性質のものではなく、もう語らずにはいられないという性質のものです。自分がどれほど罪深い者であり、神がその中から救い出してくださったということを本当に体験しているならばそうなるでしょう。
皆さんもよくご存じだと思います。「アメイジング・グレイス」(おどろくばかりの)の作詞者はジョン・ニュートンという人です。彼は18世紀、イギリスで奴隷貿易の船長をしていました。彼は荒くれ者で、奴隷に対して冷酷な扱いをしていました。しかしある日の航海で大きな嵐に遭遇し、死に直面して初めて、「神様、助けてください」と叫んだのです。すると、神は彼をあわれんで、奇跡的に命を救ってくださいました。
 「どうして、この私が。」
 その時、彼はその嵐が神の与えてくださった試練と守りだったと確信し、7歳の時に亡くした母親が残してくれていた聖書を読み始め、イエス・キリストを、自分の罪を赦してくださる救い主として信じてクリスチャンとなり、新しく生まれ変わったのです。それは彼が23歳の時でした。彼は悔い改め、一転して、奴隷を人として親切に扱うようになったばかりか、さらに船を降り、神に仕えるようになります。
 そんな彼が、「こんな愚かな、どうしようもない者をも神は救ってくださった」という「おどろくばかりの恵み」を歌ったのが、この讃美歌です。

  1. 驚くばかりの 恵みなりき
    この身の汚れを 知れるわれに
  2. 恵みはわが身の 恐れを消し
    任(まか)する心を 起(おこ)させたり
  3. 危険をもわなをも 避け得たるは
    恵みの御業と 言うほかなし
  4. 御国に着く朝 いよよ高く
    恵みの御神を たたえまつらん
    (新聖歌 233)
    彼はやがて教会の牧師となり、多くの讃美歌を書き、死ぬまで、この「恵み」を語り続けました。彼は、晩年失明に苦しみましたが、「アメイジング・グレイス」で歌われているように、彼の心の目は開かれ、はっきりと見えるようになっていました。
    「私はかつての自分ではありません。神の恵みによって今の自分があるのです」「多くの危険、労苦、わなを通って、私はここまで来ました。ここまで私を安全に導いてくださったのは恵みです。そしてこの恵みは、私を天のわが家まで導いてくださるでしょう」(ジョン・ニュートン)
    私たちもそう告白するものでありたいですね。私はかつての自分ではありません。神の恵みによって今の自分があるのですと。それが罪赦された者、神の恵みに与った者、バビロンの中から救い出された私たちに与えられている使命なのです。

聞け、バビロンに対して立てられた主の計画を エレミヤ書50章21~46節

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聖書箇所:エレミヤ書50章21~46節(旧約P1389、エレミヤ書講解説教84回目)
タイトル:「聞け、バビロンに対して立てられた主の計画を」
前回からバビロンに対する神のさばきの宣告から学んでいます。今回はその続きとなりますが、50章後半の箇所から、「聞け、バビロンに対して立てられた主の計画を」というタイトルでお話します。三つのポイントでお話します。
第一に、バビロンが滅ぼされた理由です。それは神に対しておごり高ぶったことです。神は高ぶる者を退け、へりくだる者に恵みをお授けになられます。
第二のことは、バビロンに対するさばきは、同時にイスラエルに解放と贖いをもたらしました。イスラエルを贖われる方は強いのです。この方にできないことは一つもありません。
第三のことは、ですから、あなたに対して立てられている主のご計画を聞かなければならないということです。
Ⅰ.高ぶったバビロン(21-32)
まず、21~32節をご覧ください。21節には「メラタイムの地、ペコデの住民のところに攻め上れ。彼らを追って、殺し、聖絶せよ。──【主】のことば──すべて、わたしがあなたに命じたとおりに行え。」とあります。
 これはペルシャの王キュロスに対して語られたことばです。「メラタイム」とはバビロンの南部にある地名ですが、「2倍の反抗」という意味があります。「ペコデ」とは地名ではなくバビロンの南部、チグリス川東岸に住むアラム人の部族の名前です。意味は「罰する」です。つまり、神は2倍の反抗を重ねてきたバビロンを罰するというのです。
23節と24節をご覧ください。ここには「50:23 全地を打った鉄槌は、どうして折られ、砕かれたのか。バビロンよ、どうして国々の恐怖のもととなったのか。50:24 バビロンよ。わたしがおまえに罠をかけ、おまえは捕らえられた。おまえはそれを知らなかった。おまえは見つけられて捕まえられた。【主】に争いを仕掛けたからだ。」とあります。
「全地を打った鉄槌」とは、バビロンのことです。バビロンは鉄槌のように他国を破壊してきましたが、今度はそのバビロンが砕かれることになります。どうしてでしょうか。それは24節にあるように、主が彼を捕えたからです。全地を打った鉄槌のようなバビロンも、主の支配下に置かれていたということです。彼らはそれを知りませんでしたが、主はちゃんと覚えておられました。なぜなら、24節の最後にあるように、彼らは「主に対して争いを仕掛けたから」です。
これはどういうことかというと、彼らはやりすぎたということです。これは前回のところにもありました。14節です。そこには「彼女が主に対して罪を犯したからだ」とありました。ここでは「主に争いを仕掛けたからだ」と言われています。これが、バビロンが滅ぼされた最大の理由だったのです。彼らが主に捕まえられたのは、彼らが主に対して罪を犯したからです。主に争いを仕掛けたからなのです。彼らはイスラエルを懲らしめる道具として主に用いられましたが、やりすぎてしまいました。イスラエルの神にまで手を伸ばすべきではなかったのです。
それは具体的にはどういうことかというと、28節にあるとおりです。ここには「バビロンの地から逃れて来た者の声がする。シオンで、私たちの神、【主】の復讐のこと、その神殿の復讐のことを告げ知らせている。」とあります。これはエルサレムの神殿が汚されたということです。勿論、汚したのはバビロンです。彼らは、神殿の祭儀で用いる金の器とか銀の器を持ち出して自分たちの偶像の宮に飾ったり、それで酒を飲んだりしたのです。いわゆる、神にケンカを売ったわけです。これはいけません。彼らはあくまでもイスラエルを懲らしめるための神の道具として用いられただけであって、その役割を果たしたならばそれで手を引くべきだったのに、調子にのってその神にまで手を伸ばし神を冒涜するようなことをしたのです。ですからここに「主の復讐」とあるわけです。バビロンの地から逃れて来た者たちは、主の復讐のことを告げ知らせていたとはそのことです。
29節の最後のところには、そのことがもっと端的に表現されています。ここには、「【主】に向かい、イスラエルの聖なる方に向かって高ぶったからだ。」とあります。これが彼らの最大の問題でした。彼らは、イスラエルの聖なる方に向かって高ぶったのです。それゆえ、その日、その若い男たちは町の広場に倒れ、その戦士たちもみな、黙らされることになったのです。
この彼らの「高ぶり」については、31節と32節にも繰り返して語られています。「50:31 高ぶる者よ。見よ、わたしはおまえを敵とする。──万軍の【神】、主のことば──おまえの日、わたしがおまえを罰する時が来たからだ。50:32 そこで、高ぶる者はつまずき倒れ、これを起こす者もいない。わたしは、その町々に火をつける。火はその周りのものすべてを焼き尽くす。」」
いったいバビロンはなぜ滅びてしまったのでしょうか。それは彼らがイスラエルの聖なる方、主に向かって、高ぶったからだったからなのです。
ところで、高ぶるとはどういうことでしょうか。イザヤ14章12~15節を見ると、それがどういうことなのかがわかります。「14:12 明けの明星、暁の子よ。どうしておまえは天から落ちたのか。国々を打ち破った者よ。どうしておまえは地に切り倒されたのか。14:13 おまえは心の中で言った。『私は天に上ろう。神の星々のはるか上に私の王座を上げ、北の果てにある会合の山で座に着こう。14:14 密雲の頂に上り、いと高き方のようになろう。』14:15 だが、おまえはよみに落とされ、穴の底に落とされる。」
ここには、「暁の子、明けの明星」が天から落ちたことが記されています。これが悪魔の起源と考えられています。皆さん、悪魔はどこから来たんですか?それは神が造ったのではありません。「暁の子、明けの明星」が堕落して悪魔になったのです。この「暁の子、明けの明星」はラテン語では「ルシファー」と言いますが、ルシファーは天使たちの中でも最も高い位置にいた天使でした。彼は光に輝いていたのです。そのルシファーがどうして天から落ちてしまったのでしょうか。それは彼が心の中でこう言ったからです。「私は天に上ろう。神の星々のはるか上に私の王座を上げ、北の果てにある会合の山で座に着こう。密雲の頂に上り、いと高き方のようになろう。」
これが高ぶるということです。皆さん、高ぶるとは神を神としないことです。神に代わって自分が神になろうとすることなのです。「俺は神だ」と言う人がいますが、恐ろしいことです。「罪」は英語で「sin」と言いますが、その真ん中には文字は何がありますか。「I」ですね。「自分」です。神ではなく自分、神中心ではなく自分中心であること、それが罪の本質です。ですから、罪とは神を信じないで、自分を信じること、神に従わないで自分の思いで生きることです。そしてこの高ぶりこそありとあらゆる罪の根源なのです。この罪の結果、明けの明星、暁の子、ルシファーは天からよみの穴の底に落とされてしまいました。この罪の結果、バビロンはさばかれ、滅ぼされることになったのです。それは彼らが主に対して罪を犯したからです。主に争いを仕掛けたからです。主に向かい、イスラエルの聖なる方に向かって高ぶったからです。
それは、私たちとも無縁ではありません。だれもがこの罪にさらされています。たとえば、もしあなたが何かをする時、別に祈らなくてもいい、自分でできるから大丈夫だと思っているなら、それは無意識のうちに高ぶっていることになります。なぜなら、特に神は必要ではないと思っているからです。私たちは神の助けがなければ一歩も前に進むことができないどころか、生きていくことすらできないのに、いつしか自分の力でできると思い込んでいます。無意識のうちにこの高ぶりの罪に陥っているわけです。悪魔の誘惑は本当に巧妙ですね。そのように思い込ませるわけですから。しかし、神は高ぶる者を退け、へりくだる者に恵みをお授けになられます。私たちに求められているのは、すべてを支配しておられる神の力強い御手の下にへりくだることなのです。
Ⅱ.イスラエルを贖う方は強い(33-34)
次に、33節と34節をご覧ください。「50:33 万軍の【主】はこう言われる。「イスラエルの子らとユダの子らは、ともに虐げられている。彼らを捕らえて行った者はみな、彼らを固くつかんで解放することを拒んでいる。」50:34 彼らを贖う方は強い。その名は万軍の【主】。主は、必ずや彼らの訴えを取り上げて、その地を憩わせるが、バビロンの住民は震え上がらせる。」
これはバビロンではなくイスラエルに対して語られたことばです。バビロンに対するさばきは、イスラエルには解放と贖いをもたらしました。それは前回もお話したように、1枚の紙の表裏のようなもので、表がバビロンに対するさばきなら、裏にはイスラエルに対する解放と贖いがあります。彼らはどのようにして解放されるのでしょうか。その鍵となることばは、ここにある「彼らを贖う方は強い」ということばです。イスラエルはかつて400年間エジプトに捕えられていましたが、どのようにしてそこから解放されましたか。主の一方的な御業によってです。それは第二の出エジプトと呼ばれているこのバビロン捕囚にも言えることで、彼らは力強い主の御業によって70年にわたるバビロン捕囚から一方的に解放されました。それは人にはではないことです。しかし、神にはどんなことでもできます。彼らを贖われる方は強いからです。この方は最強なのです。今、東京で世界陸上が行われていますが、男子棒高跳びのディプランティスを観ましたか。すごかったですね。6メートル30センチですよ。世界新記録です。しかも3回目で。憎いですね。私はテレビで観戦していて、思わず叫びました。「ディプランティス、すごい!最強だ!」そう叫びながら、「あれ、ちょっと待てよ。最強はディプランティスではなく、イスラエルを贖われる方だな。比較にもならない。だってイスラエルを贖う方は6メートル30センチどころか、天の天まで飛ぶことができるんだから」。当時はバビロンが絶大な力を持って諸国を支配しましたが、バビロンがどんなに強くても、イスラエルを贖われる方には全くかないません。ですから、バビロンが彼らを解放することをどんなに拒んでも、この方はそれを成し遂げられるのです。いったいどのようにして主はバビロンからイスラエルを解放されたのでしょうか。
35~37節をご覧ください。ここには、「50:35 「剣がカルデア人に下り、──【主】のことば──バビロンの住民、その首長たち、知恵ある者たちに下る。50:36 剣が易者たちにも下り、彼らは愚かになる。剣がその勇士たちにも下り、彼らは気をくじかれる。50:37 剣が、その馬と車、そこに住む混血の傭兵にも下り、彼らは女たちのようになる。剣がその財宝にも下り、それらはかすめ取られる。」とあります。ここには「剣」ということばが5回も繰り返して使われています。「剣」がカルデア人に下るのです。この剣とは神の審判、神のさばきを表しています。神の審判、神のさばきが彼らの上にくだるのです。どのように?それが38節に書かれてあります。ここには、「日照りがその水の上に下り、それは涸れる。」とあります。どういうことでしょうか。
この水とはユーフラテス川のことを指しています。バビロンの真ん中にはユーフラテス川が流れていました。ですから、どんなに兵糧攻めにしても落とすことはできなかったのですが、神はその川を干上がらせることによってこれを落としました。具体的には、B.C.539年にメド・ペルシャの連合軍がこの城壁を取り囲むとユーフラテス川を堰き止めて支流を作ると、人工的に川の流れを変えたのです。するとここにあるようにバビロンを流れていたユーフラテス川が涸れ、川底まで見えるようなりました。それでペルシャ軍はその川底をくぐって場内に侵入することができたのです。それだけだったらさすがにバビロンを落とすことはできなかったでしょう。なぜなら、仮に場内に侵入することができたとしても、そこには青銅の扉があり、それを打ち破らなければならなかったからです。それは至難の業でした。しかし、神はこれを難なく討ち破られました。どうやって討ち破ったかというと、そこには続きがあります。何と敵であるバビロンをお酒で酔わせたのです。誰も攻めてくることなどできないと高をくくっていたバビロンの王ベルシャツァルは、城内で酒を飲んで酔っ払っていました。それで鍵をかけるのを忘れてしまったのです。それで無防備となっていたバビロンは難なくメド・ペルシャ軍によって攻め落とされてしまったのです。偶然でしょうか。いいえ、違います。神がそのようにされたのです。神はすべてのことを支配しておられ、この難攻不落と呼ばれたバビロンをそのような方法で討ち破られたのです。これが、神がなさることです。神様は本当に不思議なことをされるのです。このような方はほかにはいません。この方に優る者はだれもいないのです。イスラエルを贖う方は強いのです。この方が私たちの救い主であられます。34節後半に「主は、必ずや彼らの訴えを取り上げて、その地を憩わせる」とありますが、主は必ずあなたの訴え、あなたの祈りを取り上げて、あなたを憩わせてくださるのです。
Ⅲ.聞け、あなたに対して立てられた主の計画を(41-46)
ですから、第三のことは、あなたに対して立てられた主の計画を聞くように、ということです。まず、41~44節をご覧ください。41節には「見よ、一つの民が北から来る。大きな国と多くの王が、地の果てという果てから奮い立つ。」とあります。
「北から来る一つの民」とは、メディアとペルシャの連合軍のことです。さらに多くの王たちが地の果てから攻めてきます。彼らは弓と投げ槍をもってバビロンに襲いかかります。それは残忍で、あわれむことがありません。それは獅子がヨルダンの密林から突如して上ってくるように、一瞬にして彼らを追い出してしまうのです。注目すべきことは、そのために神は「選ばれた人をそこに置く」と言われたことです。44節をご覧ください。「見よ。獅子がヨルダンの密林から常に潤う牧場に上って来るように、わたしは一瞬にして彼らをそこから追い出し、選ばれた人をそこに置く。だれがわたしのようであろうか。だれがわたしを呼びつけるだろうか。だれがわたしの前に立つことができる牧者であろうか。」ここに「選ばれた人をそこに置く」とあります。この「選ばれた人」とはだれでしょうか?それはバビロンの王ネブカドネツァルではありません。彼はイスラエルを懲らしめるために神によって選ばれた人でしたが、ここではそのバビロンを滅ぼすために選ばれた人ですから、これはペルシャの王キュロスのことを指していることがわかります。神はそのためにキュロスを選び、そこに置かれたのです。
不思議なことは、そのことがエレミヤから遡ること100年も前の預言者イザヤに名指しで告げられていたことです。イザヤ45章1節をご覧ください。「【主】は、油注がれた者キュロスについてこう言われる。「わたしは彼の右手を握り、彼の前に諸国を下らせ、王たちの腰の帯を解き、彼の前に扉を開いて、その門を閉じさせないようにする。」(イザヤ45:1)
イザヤはエレミヤから遡ること100年も前の預言者ですよ。その時にはまだアッシリア帝国の時代で、バビロンはまだ新興国の一つにすぎませんでした。ましてメディアとかペルシャといった国はどこにあるかもわからない小さな国だったのです。そんな時代に主はイザヤを通してご自身の民をバビロンから解放するためにキュロス王を選び、そこに置くと言われたのです。すごいですね。だれがこんなことを考えることができるでしょうか。だれもできません。しかし、神にはできます。神は光を造り出し、闇を創造され、平和をつくり、わざわいを創造されました。主はこれらすべてを行うことができる方なのです。このような神はほかにはいません。神はその全知全能の御手をもってすべてを導いておられたのです。
ですから、結論は何かというと、45節にあることです。ここには、「それゆえ、聞け。バビロンに対して立てられた主の計画を。カルデア人の国に対して練られた策を。」とあります。主がバビロンに対してどのような計画を持っておられたのかを聞かなければなりません。そして、主があなたに対して立てられている主の計画を聞かなければならないということです。
もしかするとあなたは、今、自分が置かれた状況を見て、「主よ、どうしてですか」とつぶやいておられるかもしれません。それは自分が考えていたこととは違います。むしろ全く反対です。私が願っていたのは平凡でもいい、貧しくてもいい、ささやかでもいい、「ああ、本当にしあわせだ」と感じるような人生なのに、どうしてこんなに苦しまなければならないのですか。どうして苦難の連続なんですか。どうして・・・。
でも、主はこう言われるのです。聞け。バビロンに対して立てられた主の計画を。これがバビロンに対して立てられた主の計画です。これがあなたに対して立てられた主の計画なのです。あなたにとって必要なことは、どうしてこんなに苦しいのかと嘆く前に、主がどのような方なのかを知り、この力強い御手のもとにへりくだることです。十字架に架けられる前夜、イエス様はゲッセマネの園でこう祈られました。「父よ、みこころなら、この杯をわたしから取り去ってください。しかし、わたしの願いではなく、みこころがなりますように。」(ルカ22:42)それは私たちの模範です。私たちも、それが自分の願いとは違って、主が私たちにも確かにご計画を持っておられると信じ、その主のみこころに従うことが求められているのです。
皆さんも聞いたことがあるでしょう。ニューヨークにあるリハビリテーションセンターの受付の壁に「ある病者の祈り」が掲げられています。作者不詳とされていますが、含蓄のある祈りだと思いますので紹介したいと思います。
大事をなそうとして
力を与えて欲しいと神に求めたのに
慎み深く従順であるようにと
弱さを授かった。
より偉大なことができるように
健康を求めたのに
よりよきことができるようにと
病弱を与えられた。
幸せになろうとして
富を求めたのに
賢明であるようにと
貧困を授かった。
世の人々の賞賛を得ようとして
権力を求めたのに
神の前にひざまずくようにと
弱さを授かった。
人生を享受しようと
あらゆるものを求めたのに
あらゆることを喜べるようにと
生命を授かった。
求めたものは一つとして与えられなかったが
願いはすべて聞き届けられた。
神の意にそわぬ者であるにもかかわらず
心の中の言い表せない祈りはすべてかなえられた。
私はあらゆる人の中でもっとも豊かに祝福されたのだ
私がこの詩を読んで思ったことは、これを書いた人がだれかはわかりませんが、この人は自分に対する神の計画を知り、それに生きた人ではないかということです。だれも失敗なんてしたくありません。病気にもなりたくない。貧しいのなんて嫌です。できるだけ楽しく、できるだけ豊かに、できるだけ明るく生きていきたい、そう思っています。それにも拘わらず、病気や苦しみ、失敗、貧しさ、弱さ、悲しみがあるとしたら、それこそ、自分が謙虚であるようにと、神が与えてくれた恵みなのだと。その神の計画を聞き、すべてを支配しておられる神のみ旨に従うことこそ、神が私たちに求めておられることなのです。
先週、那須の礼拝に千葉県浦安市で牧師をしておられる小塚朝生先生が出席されました。礼拝後に、近くのレストランで会食しながら交わりの時を持たせていただきましたが、その時先生が私にこの本(「心通わせて」)をプレゼントしてくれました。この本は重い障害を持って生まれたご次男の和基君と過ごした23年間の記録をまとめたものです。先生は銀行で30年余り働いた後で献身し牧師となられましたが、先生をそのように導かれたのは何だったのかと思いながら読ませていただきましたが、それはこの和基くんとの関わりを通して与えられた思いであったことを知りました。銀行の世界では効率や成果を求められますが、重い障害者の世界では、ただそこに存在するだけの世界です。そういう人も天国に行けるのでしょうか。答えはイエスです。先生はそれを聖書のみことばから確信を与えられ、同じように重い障害を持って生まれた人がいる家族にその希望を伝えたいという思いが与えられたのです。それが先生に対して立てられた主の計画でした。確かにそれは厳しい戦いの連続だったかと思いますが、そのことを通して先生ご自身が深い主の恵みに触れさせていただいたのではないかと思ったのです。
同じように主は、あなたにも深い計画を持っておられます。それはエレミヤ29章11節にあるように、わざわいではなく平安を与える計画であり、将来と希望を与えるためのものです。だったらなぜそんな苦難があるんですかと思われる人もいるでしょう。それはあなたの人生には何の苦難もないという意味ではありません。あなたの人生のすべてがバラ色で、楽しく、豊かで、希望に満ちた人生であるということを約束しているわけではないないのです。それはその時にお話しましたが、終わってみたらすべてが恵み、すべてが感謝だという意味です。あなたがその人生を終えるとき、振り返ってみたら、そこには平安と希望があると言っているのです。それがクリスチャンに約束されていることです。それがあなたに約束されていることです。だから、たとえあなたの人生において苦難が尽きないようであっても、終わってみたら感謝と言えるような人生を、神様はあなたに用意しておられるのです。私たちは今、その全容を知ることはできませんが、やがて天の御国に行くとき、「ああ、こういうことだったのか」ということを知り、神を崇めるようになるでしょう。ですから、どうぞ聞いてください。あなたに対して立てられている主の計画を。
それは必ずなります。主がすべてを支配し、導いておられるからです。このような神はほかにはいません。彼らを贖う方は強いのです。その名は万軍の主。この力強い神の御手の下にへりくだりましょう。そして、あなたの思い煩いを、いっさい神にゆだねましょう。神があなたのことを心配してくださるからです。神は、ちょうど良い時に、あなたを高く上げてくださるのです。

バビロンは滅びる エレミヤ書50章1~20節

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聖書箇所:エレミヤ書50章1~20節(旧約P1387、エレミヤ書講解説教83回目)
タイトル:「バビロンは滅びる」
エレミヤ書50章に入ります。これまで、ユダ及び周辺諸国に対する主のことばを見てきましたが、いよいよバビロンについての預言が語られます。バビロンは主なる神様の許しの中で、ユダ及び周辺諸国に対する神の道具として用いられてきましたが、今度はそのバビロンにも主のさばきが及ぶことになります。バビロンに対する預言はすでに25章12節で語られていましたが、ここではもっと具体的に語られます。
今回はその最初の部分から三つのポイントでお話したいと思います。第一に、あの大バビロンでも滅びるということです。それは人にはできないことですが、神にはどんなことでもできます。神はご自身が語られたことを必ず成就されるのです。だから、この神のことばに信頼しましょうということ。第二のことは、バビロンが滅びたのはどうしてでしょうか。それは彼らが主に対して罪を犯したからです。その結果彼らは傲慢になり、やりたい放題になってしまいました。だれに対して罪を犯したのかという正しい認識を持たなければなりません。第三のことは、バビロンに対する審判は、同時にご自身の民イスラエルに対する回復と救いをもたらすということです。もしあなたが罪を言い表すなら、神は信じて正しい方ですから、その罪を赦し、すべての悪からきよめてくださいます。この三つのことです。それでは本文を見ていきましょう。

Ⅰ.バビロンは滅びる(1-10)
まず、1~10節をご覧ください。1~2節をお読みします。「50:1 【主】が預言者エレミヤを通して、バビロンについて、すなわちカルデア人の地について語られたことば。50:2 「国々の間に告げ、旗を掲げて知らせよ。隠さずに言え。『バビロンは攻め取られた。ベルは辱められ、メロダクは打ちのめされた。その像は辱められ、その偶像は打ちのめされた。』」
2節の「旗を掲げて知らせ」とは、この預言を広く公に告げ知らせるという意味です。バビロンは、すでに学んできたようにパレスチナのほとんど全土に至るまで、そしてエジプトにまでもその勢力を伸ばし、諸国を制圧してきましたが、そのバビロンについて語られた主のことばを、国々の間に広く告げ知らせるようにというのです。
その中心的なメッセージは何かというと、バビロンは滅びるということです。2節には、「バビロンは攻め取られた。ベルは辱められ、メロダクは打ちのめされた。その像は辱められ、その偶像は打ちのめされた。」とあります。「ベル」も「メロダク」もバビロンの代表的な守護神です。「ベル」は「主」とか「主人」という意味がありますが、バビロンの主神でした。「メロダク」は一般には、「マルドゥク」と呼ばれていて、意味は「あなたの反逆」です。「メロダク」はまさに主に反逆する存在でしたから、それにふさわしい名前と言えます。そのベルは辱められ、メロダクは打ちのめされます。古代オリエントにおいては、その国の敗北は、その背後にある神の敗北と考えられていました。つまり、バビロンの守護神であったベルとメロダクが辱められ、打ちのめされることによって、真の神はどなたであるのかが明らかにされるのです。皆さん、真の神はどなたですか。ベルじゃありません。メロダクでもありません。真の神は、イスラエルの神、「主」です。それはご自身を父と子と聖霊という御名で表わされた三位一体の神なのです。
いったいバビロンはどのようにして滅ぼされるのでしょうか。3節をご覧ください。ここには、「まことに、北から一つの国がそこに攻め上り、その地を荒れ果てさせた。そこには住むものもない。人から家畜に至るまで逃げ去った。」とあります。
「北から攻め上る一つの国」とは、メディアとペルシャの連合軍のことです。バビロンは、北から来るメディアとペルシャの連合軍によって滅ぼされるというのです。それは文字通りに成就しました。B.C.539年にペルシヤの王キュロスがバビロンを陥落させたのです。難攻不落と言われたバビロンが陥落したのです。だれがそんなことを考えることができたでしょうか。バビロンは二重の城壁に囲まれていました。その周囲は65キロメートルもあったと言われています。城壁の高さは90メートルです。高いところで100メートルもありました。厚さは24メートルです。ですから、何台もの馬車が城壁の上を走ることが出来たのです。そんな分厚い壁をどうやって打ち破ることができるでしょうか。無理です。そんな壁をよじ上ることができる人など一人もいません。そんなことをしたら塔の上で見張っていた者から矢を放たれてしまいます。だったら土を掘って地下から侵入したらいいじゃないかと思う人もいるかもしれませんが、それもできません。なぜなら、城壁が地下深くまで築かれていたからです。その深さ、実に11メートルもありました。ですから、この城壁を打ち破るのは人間的には不可能なことでした。しかし、人にはできなくても、神にはどんなことでもできます。神はかつて小国だったメジィアとかペルシャを用いて、あの大バビロンを滅ぼされるのです。ここに書かれてあることが文字通り成就するのです。
4節と5節をご覧ください。ここには「50:4 その日、その時──【主】のことば──イスラエルの民もユダの民も、ともにやって来る。彼らは泣きながら歩みつつ、その神、【主】を尋ね求める。50:5 彼らはシオンを求め、その道に顔を向けて言う。『さあ、私たちは【主】に連なろう。忘れられることのない永遠の契約によって』と。」
これはバビロンに対する預言ではなく、イスラエル民とユダの民に対する預言です。「その日、その時」とは、メディアとペルシャの連合軍によってバビロンが滅ぼされる時のことです。その日、その時、どんなことが起こるのでしょうか。その日、その時、イスラエルとユダの民は、ともにやって来て、泣きながら、彼らの神、主を尋ね求めるようになります。70年にわたるバビロン捕囚から解放され、祖国に帰還するようになるということです。彼らは泣きながら歩みつつ、その神、主を尋ね求めます。詩篇137篇1節に、彼らが捕囚の民としてバビロンに連行された時の詩があります。「バビロンの川のほとりそこに私たちは座りシオンを思い出して泣いた。」
まさに彼らはバビロンの地で、故郷エルサレムのことを思い出して泣いていました。それはただ感傷にふけって泣いたというよりも、心の底から悔い改めた涙です。偶像礼拝という罪のゆえに、また7年ごとの安息年を守らなかった罪のゆえに、バビロンでの70年にわたる捕囚の生活を強いられていたわけですが、その中で彼らは自分たちが犯してきた罪の愚かさに気付いて泣いたのです。そして70年の時を経て、彼らはシオン(エルサレム)に帰還するわけですが、その時は以前の彼らとは違います。彼らは心から主を尋ね求めて、こういうようになります。「さあ、私たちは【主】に連なろう。忘れられることのない永遠の契約によって」
すばらしいですね。一度は自分たちの罪によってバビロン捕囚を経験して涙しても、それがやがて喜びに変えられるのです。詩篇30篇5節に「まことに御怒りは束の間いのちは恩寵のうちにある。夕暮れには涙が宿っても朝明けには喜びの叫びがある。」とありますが、まさに「夕暮れには涙が宿っても朝明けには喜びの叫びがある。」ということを文字通り体験するのです。
いったいどうやってそれが実現するのでしょうか。ここには「忘れられることのない永遠の契約によって」とあります。それは彼らの力によってではありません。忘れられることのない永遠の契約によってです。「永遠の契約」って何ですか?それは31章3節に「永遠の愛をもって、わたしはあなたを愛した。それゆえ、わたしはあなたに真実の愛を尽くし続けた。」とありましたが、永遠の愛のことです。神の愛は変わることがありません。彼らがどんなに神に背いても、悔い改めて神に立ち返るなら、神はそれを赦し、すべての悪からきよめてくださいます。神の愛はどんなことがあっても変わることがないのです。彼らはこの永遠の愛によって救われるのです。
それは、歴史的にはB.C.539年にペルシャのキュロス王がバビロンを打ち破り、そこに捕らわれていたユダの民を解放することによって実現しますが、これはその時のことだけではありません。ここに「その日、その時」とありますが、これはこれまで何度も説明したように、終末において起こること表す時に用いられる特徴的なことばです。つまり、このエレミヤの時代にはバビロン捕囚から解放されてエルサレムに帰還することを表していましたが、それだけでなく、遠い未来においては、終末における起こる同様の出来事を表しているのです。すなわち、終末においてイスラエルはみな救われるという出来事が起こるということです。それはキリストが再臨の時に起こります。ゼカリヤ書12章10節にこうあります。
「わたしは、ダビデの家とエルサレムの住民の上に、恵みと嘆願の霊を注ぐ。彼らは、自分たちが突き刺した者、わたしを仰ぎ見て、ひとり子を失って嘆くかのように、その者のために嘆き、長子を失って激しく泣くかのように、その者のために激しく泣く。」(ゼカリヤ12:10)
  「自分たちが突き刺した者」とは、神のひとり子であられるイエス・キリストのことです。彼らはやがてその方を仰ぎ見るようになります。いつですか?キリストが再臨される時です。その時イスラエルは自分たちが突き刺した方を見て嘆き、激しく泣いて悔い改めます。このようにして、イスラエルはみな救われるのです。彼らは忘れられることのない永遠の愛によって愛されているからです。
黙示録17章と18章に書かれているのはこのことです。17章5節には「大バビロン」という淫婦たちのことが出てきますが、これは17章18節を見ると、「地の王たちを支配する大きな都のことです。」とあります。それはもはや国名というよりも神に反逆する勢力のことを指していることがわかります。その大バビロンが倒れるのです(18:2)。神が聖徒たちのためにさばかれるからです。そして19章に入ると天が開かれ、「確かで真実な方」と呼ばれ、義を持ってさばき、戦いをされる方が現れます。それはイエス・キリストのことです。そうです、主イエスが再臨されるのです。そのとき、彼を見るすべての者たちが悔い改めて嘆き悲しむのです。黙示録1章7節にあるとおりです。「見よ、彼が、雲に乗って来られる。すべての目、ことに彼を突き刺した者たちが、彼を見る。地上の諸族はみな、彼のゆえに嘆く。しかり。アーメン。」(黙示録1:7)
こうしてイスラエルはみな救われるのです。そして神が用意された千年王国に入り、やがて新しい天と新しい地に入れられます。ですから、このバビロンがさばかれ、神の民が悔い改めて救われるという内容は、今から2,500年前の話だけでなく、今の私たちの時代から後の近い将来に起こることの預言でもあったのです。
それは必ず成ります。なぜなら、聖書の預言は100%みな成就するからです。皆さん、聖書は預言の書です。実に全体の三分の一が預言で占められています。そしてその預言の95%がこれまでの歴史の中で成就しました。残りは5%です。それはいつ成就するのでしょうか。これからです。これから成就します。私たちはそういう歴史のただ中にいるのです。これまで95%が成就したのであれば、これからの5%も必ず成就するということは、だれにでもわかることです。私たちは世の終わりにいるわけですが、それを見るかどうかはわかりません。しかし、たとえ見なくても必ずその通りなります。その日、その時、あなたは忘れられることのない永遠の契約によって、キリストが支配する神の御国を受け継ぐようになるのです。そう信じて神のことばに信頼して歩みたいと思います。
Ⅱ.主に対して罪を犯したバビロン(6-18)
いったいバビロンの問題はどこにあったのでしょうか。それは彼らが主に対して傲慢であったことです。6~18節には、そのバビロンの傲慢さが指摘されています。まず、6~7節には、「50:6 わたしの民は、迷った羊の群れであった。その羊飼いたちが彼らを迷わせ、山々へ連れ去った。彼らは山から丘へと行き巡り、休み場も忘れた。【50:7 彼らを見つける者はみな彼らを食らい、彼らの敵は言った。『私たちには責めはない。彼らが、義の住まいである【主】、彼らの先祖の望みであった【主】に対して罪を犯したためだ』と。」とあります。
「わたしの民」とは、神の民イスラエルのことです。彼らが迷ったのはその羊飼いが彼らを迷わせたからです。それはイスラエルの指導者たちのことを指しています。ここでは特ににせ預言者たちのことを指しています。彼らに従った結果、民は安息を味わうどころかさまよってしまい、バビロンの支配のもとで70年を過ごさなければなりませんでした。
7節の「彼らを見つける者」とはバビロンのことです。彼らはみなその羊たちを食らい、こう言いました。「私たちには責めはない。彼らが、義の住まいである【主】、彼らの先祖の望みであった【主】に対して罪を犯したためだ」と。
 これはバビロンが言ったことばです。バビロンは、イスラエルが陥落したのはイスラエルの民が自分たちの神に対して罪を犯したからであり、その結果我々に滅ぼされたのだと。確かにイスラエルがさばかれたのは彼らが罪を犯したからであり、そのために主はバビロンの王ネブカドネツァルを用いられたのは事実です。しかし、かといってバビロンがした侵略行為や略奪行為が正当化されるわけではありません。それは明から神の目には悪なのです。
それで主は、ご自身の計画を成し捕囚の民の回復の約束を果たすために、そのようにおごり高ぶるバビロンに対して、彼らを滅ぼすと告げられました。それが8~10節にあることです。9節の「大国の集団」とはペルシャのことです。主はペルシャを奮い立たせ、バビロンに攻め上らせるのです。そのようにしてカルデア(バビロン)は略奪されることになるのです。
そのことは、11~13節でも言われています。「50:11 わたしのゆずりの地を略奪する者たちよ。おまえたちは楽しみ、喜び躍り、打穀する雌の子牛のようにはしゃぎ、荒馬のようにいななくが、50:12 おまえたちの母はひどく恥を見、おまえたちを産んだ者は屈辱を受ける。見よ。彼女は国々のうちの最後のものとなり、荒野となり、砂漠と荒れた地となる。50:13 【主】の御怒りによって、そこに住む者はなく、ことごとく廃墟と化す。バビロンの近くを通り過ぎる者はみな呆気にとられ、そのすべての打ち傷を見て嘲笑する。」
「わたしのゆずりの地を略奪する者たち」とは、バビロンのことです。ここで注目したいことは、イスラエルは「わたしのゆずりの地」と言われていることです。神のゆずりの地、神の相続地であるということです。彼らがイスラエルを略奪したのは単にイスラエルの地を略奪したというよりも、それは「わたしのゆずりの地」とあるように、主のゆずりの地、主が相続した主の土地を略奪したということなのです。要するに、彼らの罪とは、主に対して犯した罪だったのです。これが、バビロンが滅ぼされた最大の原因です。バビロンはイスラエルの民を滅ぼし、大喜びしながら、その地を略奪しました。その傲慢な罪のゆえに、主はバビロンを滅ぼし、そこを廃墟と化すのです。
そのことは、さらに14~16節のところで明確に語られます。14節には「すべて弓を引く者よ。バビロンの周りに陣備えをし、これを射よ。矢を惜しむな。彼女が【主】に対して罪を犯したからだ。」とあります。
「すべて弓を引く者よ」とは、そのペルシャに対する呼びかけです。主はペルシャに対して、バビロンの周りに陣備えをし、これを射るようにと命じておられます。なぜですか?なぜなら、彼らが主に対して罪を犯したからです。ですから、15節のところで、これは「主の復讐だ」と言われているのです。主に対して罪を犯したから、主が復讐されるわけです。ペルシャの王キュロスはこのことをどれだけ理解していたかわかりませんが、バビロンが滅ぼされた最大の理由はここにあったのです。
皆さん、主に対して罪を犯すなら、主に対して傲慢であるならば、主が復讐されることになります。私たちも主に対して罪を犯していないかを考えなければなりません。というのは、私たちが罪を犯す時、それは神に対してというよりも、むしろ人に対して罪を犯したという意識の方が強いからです。あの人に対して申し訳ないことをした、あんなことをやってしまった、こんなことを言ってしまった、あのことで傷つけた、このことで迷惑をかけたという思いが強いのです。しかし、本来、罪というのは人に対してというよりも神に対して犯すものです。確かにバビロンはイスラエルを滅ぼしその地を略奪しましたが、それはイスラエルに対してというよりも、神に対して犯した罪だったのです。
この認識がなければ、それは真の悔い改めではありません。真の悔い改めとは人に対してではなく神に対してなされるものだからです。人に対して罪を犯したという思いだけで終わっているならば、それは単なる後悔にすぎません。結果、また同じことを繰り返すことになります。なぜなら、神に対して罪を犯したという認識が欠如しているからです。神がどれほど心を痛めておられるかを考えたことがあるでしょうか。よくわかりませんと言う方がいたら、十字架のキリストを見てください。よくわかると思います。神に対して罪を犯すということがどういうことなのかを。
クリスチャンのシンガーソングライターに岩渕まことさんが、「父の涙」という歌を作りました。
  1.心にせまる父の悲しみ
    愛するひとり子を十字架につけた
    人の罪は燃える火のよう
    愛を知らずに今日も過ぎていく

   ※十字架からあふれ流れる泉 それは父の涙
     十字架からあふれ流れる泉 それはイエスの愛

  2.父が静かに見つめていたのは
    愛するひとり子の傷ついた姿
    人の罪をその身に背負い
    父よ 彼等を許して欲しいと
この曲は、岩渕さんが当時8歳だった娘の亜希子さんを亡くした悲しみの中で生まれた曲だそうです。亡くなられた亜希子さんの姿と、彼女を亡くした御自身の悲しみが、イエス様と父なる神様に重なりました。愛するひとり子を十字架につけるというのはどれほどの悲しみなのか。そこには父の涙が流れていました。それは私たちの罪の身代わりとして死なれたイエスの愛だったと。
だから、十字架のキリストを見上げるとわかるのです。そのキリストの姿をじっとこらえてご覧になられ、そのキリストにご自身の怒りを注がなければならなかった父なる神の涙から、神の御思いがひしひしと伝わってくるのではないでしょうか。
神に対して罪を犯すとはそういうことです。それがわかると短絡的に罪を犯そうという思いにはなれません。人に対して罪を犯したと思っていると、あれほど申し訳ないと思ったことでも忘れてしまうこともあります。でも、神に対して罪を犯しているという認識を持つならば本物の悔い改めの涙があふれて来て、もう二度とこんなことはしたくない、できないという思いになるはずです。
ですから、私たちにとって重要なのはだれに対して罪を犯しているのかという正しい認識を持つことです。それがなければ主の前に傲慢な者となり、自分のやりたい放題になってしまいます。主が許容された範囲を超えてやり過ぎてしまい、ついにはバビロンのように滅ぼされてしまうことになるのです。
それが17~18節にあることです。17節には「イスラエルは雄獅子に散らされた羊。先にはアッシリアの王がこれを食らい、今度はついに、その骨をバビロンの王ネブカドネツァルが食らった。」とあります。
17節の「雄獅子」とは複数形で書かれています。これは2頭の雄獅子のことで、アッシリアとバビロンのことを指しています。イスラエルはかつて2頭の雄獅子に滅ぼされました。先にはアッシリアの王がこれを食らい、今度はついて、その骨をバビロンの王ネブカドネツァルが食らいました。これは、歴史的にはB.C.722年にアッシリアが北王国イスラエルを滅ぼしたことと、バビロンがB.C.586年に南ユダを滅ぼした出来事を指しています。しかしネブカドネツァルの場合はやりすぎました。アッシリアの王もイスラエルを食らいましたが、バビロンの王はただ食らったのではなく、彼らは骨まで食らいました。やり過ぎたのです。それゆえ、イスラエルの神、万軍の主はこう言われます。18節です。「見よ。わたしはアッシリアの王を罰したように、バビロンの王とその地を罰する。」
神を恐れず、神に対して罪を犯しているという認識を持たないと、自分のやりたい放題となり、ついにはバビロンにように滅びてしまうことになるということを覚え、神の前にへりくだる者でありたいと思います。
Ⅲ.イスラエルの回復の恵み(19-20)
最後に、19~20節を見て終わります。ここにはイスラエルの回復について書かれてあります。「50:19 わたしはイスラエルをその牧場に帰らせる。彼はカルメルとバシャンで草を食べ、エフライムの山とギルアデで満ち足りる。50:20 その日、その時──【主】のことば──イスラエルの咎を探しても、それはない。ユダの罪も見つからない。わたしが残す者を、わたしが赦すからだ。」」
「カルメルとバシャ」、「エフライムとギルアデ」は、北イスラエル王国にあった地域です。そこはかつてアッシリアの王によって略奪されたところですが、そこが先に回復していきます。ですから、これはただユダの民がエルサレムに帰還するというだけでなく、北イスラエルも南ユダ王国も、統一王国として回復するという預言なのです。それはユダの民がバビロンから解放されエルサレムに帰還するということ以上のことです。それはここに「その日、その時」とあるように、世の終わりにおいて成就する預言なのです。
20節はすばらしいですね。ご一緒に読みましょう。「その日、その時──【主】のことば──イスラエルの咎を探しても、それはない。ユダの罪も見つからない。わたしが残す者を、わたしが赦すからだ。」
北イスラエルと南ユダがどれほどの罪を重ねてきたか、どれほどおぞましいことをしてきたか、そこには自分の子どもを偶像に犠牲としてささげるというモレク礼拝もありました。そういう罪をこれでもかというくらい繰り返してきました。決して許されないことです。それなのに、ここで主は何と言っていますか。
「イスラエルの咎を探しても、それはない。ユダの罪も見つからない。わたしが残す者を、わたしが赦すからだ。」
神の赦しは、罪の一切合切を帳消しにするのです。つまり、神が赦すとき、神は私たちの罪をすべて忘れてくださるのです。人の赦しには限界があります。「私は赦します」と言っても、脳の中には記憶として残っています。確かに赦すとは言っても、あの時はこうだった、ああだったと、しばらくしてからまた思い起こし、蒸し返して、それで人を責めたりします。あるいは赦したはずなのに、苦々しい思いとか、怒りとか、恨みとかがこみ上げてきますが、神は違います。「またやったのか」というようなことは一切言われません。すべてを帳消しになさるのです。31章34節に「わたしが彼らの不義を赦し、もはや二度と彼らの罪を思い起こさない。」とあるように、完全に忘れてくださるのです。有難いですね。
ですから、神様があなたの罪を赦してくださったのなら、あなたはもうその罪を思い起こす必要はありません。過去の罪でいつまでも悔やまないでください。あなたがはっきりと「私は神様の前で罪を犯しました」と正直に告白し、神の赦しを請うなら、あなたの罪はイエス・キリストの十字架によって完全に赦されているのです。赦されているということは、あなたはもう思い起こす必要もないし、人から何か言われても、サタンがあなたの耳元で何をささやいても、もうそれに囚われる必要はないということです。神が忘れたと言われるなら、あなたもそのようにみなすべきです。もう私も忘れたと。そうやって私たちは過去の罪から解放されていくのです。
神のみこころは、あなたがいつまでも過去の罪に囚われていじいじしながらいつも過去を振り返り、後ろ向きに生きるのではなく、もう過去の罪から解放されて、そのような過去はなかったかのように生きることです。うしろのものを忘れること。それが神のみこころです。もしまだ罪を悔い改めていないなら、罪を言い表していないなら、それこそ最優先に成されるべきことです。赦されたなら、もう悩む必要はないのです。
生涯、罪責感にさいなまれてきた老婦人がいました。彼女は17歳で嫁いだ後すぐに夫が満州に徴用され、妊娠したまま実家に戻ってきました。当時は木の皮まで食べた苦しい時代だったので、実家の家族の視線は冷たいものでした。そして、生まれた子どもは双子でしたが、両方に満足に乳を飲ませることができず、片方は死んでしまいました。
 「神様の前に出て、この罪をどうすればよいのかわからない」と罪の重荷をずっと背負って生きてきました。
そんな時、牧師から「神はイエスを通して、子どもを死なせてしまった母親の罪を赦されました。神様はその罪を二度と思い起こさず、あなたを神様の娘とされたのです」という話を聞きました。おばあさんはその言葉に号泣し、十字架の贖いの福音によって笑顔を取り戻すことができました。(リビングライフ、2010年9月号、P35)
私たちは神の愛と恵みをその時々の状況によって判断してしまいます。物事がうまくいけば「神は私を愛しておられる」と言い、うまくいかなければ「なぜ神は私をこのように苦しめるのだろう」と神の愛を疑います。しかし、神の愛はその時ごとに確認するようなものではありません。それは、すでに確証された事実です。すでに神はあなたを愛することを決められ、あなたの罪をきよめてくださったのです。
これが神の約束です。この神のことばを素直に受け取ることができた人々は、たとえその現実がどれほど苦しく、耐えがたいものであっても、湧き出るような神が与えてくださる希望に満たされ、その前途は、トンネルのかなたに明るい出口を見え始めたようなものです。それは、神のことばを真剣に受け取る者に与えられる恵みなのです。
それは、今日同じように神のことばを真剣に聞いているあなたにも言えることです。バビロンに対する神の審判の日は、イスラエルの民に回復と救いをもたらす時でした。まことに審判と救いは一枚の紙の両面のようなものであり、切り離して考えることはできません。そのような回復と希望があなたにも与えられていることを信じて、まことの羊飼いであられる主イエスについて行きたいと思います。