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わたしを呼べ エレミヤ書33章1~18節


聖書箇所:エレミヤ書33章1~18節(旧約P1355、エレミヤ書講解説教62回目)
タイトル:「わたしを呼べ」
きょうは、エレミヤ33章前半の箇所から、「わたしを呼べ」というタイトルでお話したいと思います。
Ⅰ.わたしを呼べ(1-9)
まず1~3節をご覧ください。「1 エレミヤがまだ監視の庭に閉じ込められていたとき、再びエレミヤに次のような【主】のことばがあった。2 「地を造った【主】、それを形造って堅く立てた【主】、その名が【主】である方が言われる。3 『わたしを呼べ。そうすれば、わたしはあなたに答え、あなたが知らない理解を超えた大いなることを、あなたに告げよう。』」
エレミヤは、ユダの王最後の王ゼデキヤによって監視の庭に監禁されていました。それは、ゼデキヤがバビロンの王の手に渡されるということをエレミヤが預言をしたからです。ゼデキヤにとってエレミヤは、ユダにとって不幸なことしか預言しない不吉な預言者のように思えたのでしょう。そのエレミヤがまだ監視の庭に監禁されていたとき、再びエレミヤに主のことばがありました。それは2節と3節にある内容です。「2 「地を造った【主】、それを形造って堅く立てた【主】、その名が【主】である方が言われる。3 『わたしを呼べ。そうすれば、わたしはあなたに答え、あなたが知らない理解を超えた大いなることを、あなたに告げよう。』」
主はエレミヤに「わたしを呼べ」と言われました。英語では「Call to me」、わたしを呼び求めよ、です。そうすれば、主はあなたに答え、あなたが知らない大いなることを、あなたに告げてくださいます。「大いなること」とは何でしょうか。これはエルサレムの回復のことです。神は、エルサレムの住民たちがカルデア人と戦っても、必ず敗北すると告げられました。なぜなら、5節にあるように、彼らのすべての悪のゆえに、主がエルサレムから御顔を隠されたからです。しかし、神は彼らを懲らしめて終わりではありません。そんな彼らを赦し、彼らを初めのように回復させ、建て直してしてくださるというのです。それが6~9節にある内容です。「6 見よ。わたしはこの都に回復と癒やしを与え、彼らを癒やす。そして彼らに平安と真実を豊かに示す。7 わたしはユダとイスラエルを回復させ、以前のように彼らを建て直す。8 わたしは、彼らがわたしに犯したすべての咎から彼らをきよめ、彼らがわたしに犯し、わたしに背いたすべての咎を赦す。9 この都は、地のすべての国々の間で、わたしにとって喜びの名となり、栄誉となり、栄えとなる。彼らは、わたしがこの民に与えるすべての祝福のことを聞き、わたしがこの都に与えるすべての祝福と平安のゆえに恐れ、震えることになる。』」
ユダとイスラエルを回復させ、以前のように彼らを建て直すなんてあり得ないことです。しかし、たとえ人間の目で不可能なことでも、神にはどんなことでもおできになります。あなたが神を呼び求めるなら、神はあなたの知らない理解を超えた大いなること、すなわち、エルサレムを初めのように回復させ、建て直してくださいます。もしあなたが神を信じ、神とともに歩み、神との交わりの中にいるなら、神はあなたが考えられないような偉大なことをしてくださるのです。でも私たちはそれを信じられないのでこういうのです。「ウッソ!」無理、無理、無理ですよ、どうやってそんなことができるんですか・・・。
このときのエレミヤもそうでした。神さまはイスラエルがバビロンに連れて行かれてから70年後に再び祖国に戻すとは聞いていましたが、いったいどのようにしてそれを無そうとしているのかはわかりませんでした。前回のアナトテの畑を買うこともそうです。神様は監禁されていたエレミヤに、アナトテにある畑を買いなさいと言われました。いったいどうして?崩壊寸前になっていたアナトテの畑を買ったって二束三文です。なぜ買わなければならないのか、さっぱりわかりませんでした。そんなエレミヤに、神さまはその理由を告げられるんですね。それが32章15節のみことばです。「なぜなら──イスラエルの神、万軍の【主】はこう言われる──再びこの地で、家や、畑や、ぶどう畑が買われるようになるからだ。』」つまり、彼らはそのバビロンから解放されて祖国に戻り、再びこの地で、家や、畑や、ぶどう畑が買われるようになるからです。いったい誰がそんなことを考えることができたでしょうか。70年ですよ、そんなに長い間バビロンで奴隷として生きていた彼らが、どうやって祖国に戻ることなどできるでしょうか。しかし、そんなエレミヤに神はこう言われました。「『わたしを呼べ。そうすれば、わたしはあなたに答え、あなたが知らない理解を超えた大いなることを、あなたに告げよう。』それはあなたにはわからないことです。しかし、あなたが神を呼ぶなら、神はあなたに答え、あなが知らない理解を超えた大いなることを、あなたに告げてくださいます。なぜなら、神さまは全能者であられるからです。
2節をご覧ください。ここには、「地を造った【主】、それを形造って堅く立てた【主】、その名が【主】である方が言われる。」とあります。主はこの天地を創られた創造主です。この方にとってできないことは一つもありません。ヨブは自分に降りかかる数々の災難がどうして起こるのかがわからず、そのことを神に問うわけですが、その中で彼が見出した答えは、これでした。神にはどんなことでもできるということです。「あなたには、すべてのことができること、どのような計画も不可能でないことを、私は知りました。」(ヨブ42:2)神にはどのような計画も不可能ではありません。そのこと信じなければなりません。神に「どうしてですか」と問う前に、あなたは神を呼び求めなければならないのです。そしてその声を聞かなければなりません。そうすれば、主はあなたに答え、あなたの知らない理解を超えた大いなることを告げてくださいます。
人は目先の現象に一喜一憂しやすいものです。しかし、自分には分からないことが沢山あることを謙虚に認めて主を呼ばなければなりません。そうすれば、主は、私たちの理解を超えた大いなることを告げてくださいます。
  たとえば、アブラハムが99歳になったとき、主はアブラハムと契約を結ばれました。それは彼が多くの国民の父となるということでした。でも彼にはまだ子どもがいませんでした。どうやって多くの国民の父になることができるでしょうか。そのとき神さまは具体的に彼に直系の男の子が与えられ、その名は「イサク」と言いますが、彼を通してその契約を成し遂げてくださると明かしてくれました。まさか100歳の者にどうやって子どもが与えられるでしょう。サラだって90歳になっていました。考えられません。なかなか信じられません。そんなアブラハムとサラに主はこのように言われました。「14 【主】にとって不可能なことがあるだろうか。わたしは来年の今ごろ、定めた時に、あなたのところに戻って来る。そのとき、サラには男の子が生まれている。」【主】はアブラハムに言われた。「なぜサラは笑って、『私は本当に子を産めるだろうか。こんなに年をとっているのに』と言うのか。」(創世記18:14)
皆さん、主にとって不可能なことは一つもありません。たとえあなたにとって不可能なことでも、主にとっては何でもないことです。あなたにとって必要なことは、この全能者であられる主を呼ぶことなのです。
6~9節をご覧ください。この時、主はエレミヤにエルサレムの傷を癒やし、回復し、彼らに平安と真実を豊かに示すと言われました。7節には、分断されていたユダとイスラエルを回復させるとあります。彼らが犯したすべての咎から彼らをきよめ、咎を赦すと約束させ、以前のように彼らを建て直というのです。主は、彼らが犯したすべての咎から彼らをきよめ、彼らの背いた咎をすべて赦してくださいます。でもこれらは彼らが良いことをしたからではありません。それは新しい契約に基づく神の一方的な恵みによるものです。 新しい契約については31章で見たように、御子イエスの血によって、信じるすべての者をきよめてくださるという神様の一方的な恵みの契約でした。御子イエスを信じる者は、すべての罪、咎がきよめられ、神がいつまでも共にいてくださいます。あなたがどんなにひどい罪を犯したとしても、あなたがその罪を認め、神に立ち返るなら、神はあなたを捨てることは絶対にありません。どんなに自分でこすり落とそうとアタックを使っても、あなたの罪は決して拭い落とせるものではありませんが、神さまはキリストの血によってそれを行なってくださったのです。「御子イエスの血はすべての罪から私たちをきよめます。」(1ヨハネ1:7)とある通りです。御子イエスの血は、すべての罪から私たちをきよめてくださいます。何という恵みでしょうか。神はキリストによって彼らと新しい契約を結んでくださいました。神はキリストによってあなたとこの契約を結んでくださいました。ですから、どんなことがあってもあなたが滅びることはありません。あなたが神を呼ぶとき、神はあなたに答え、あなたが知らない理解を超えた多いなることをしてくださることを信じましょう。
Ⅱ.その恵みはとこしえまで(10-11)
次に、10~11節をご覧ください。「10 【主】はこう言われる。「あなたがたが、人も家畜もいない廃墟と言うこの場所で、人も住民も家畜もいない、荒れすたれたユダの町々とエルサレムの通りで、11 楽しみの声と喜びの声、花婿の声と花嫁の声、【主】の宮に感謝のいけにえを携えて来る人たちの声が、再び聞かれるようになる。彼らは言う。『万軍の【主】に感謝せよ。【主】はまことにいつくしみ深い。その恵みはとこしえまで』と。わたしがこの地を回復させ、以前のようにするからだ──【主】は言われる。」」
人も家畜もいない廃墟となった場所で、人も住民も家畜もいない荒れすたれたユダの町が、いったいどうして楽しみと喜びの声が聞かれるようになるのでしょうか。それは、主がそうされるからです。主がこの地を回復させ、以前のようにされるのです。それは人の理解をはるかに超えた驚くべき大いなること、大いなる神の恵みでした。あれほど廃墟となった町が再び建て直されるなんて考えられないことです。いったいどうしてそのようなことが起こるのでしょうか。主がそれをしてくださいます。主は約束を反故にされ方ではありません。主が語られたことは必ず実現してくださるのです。主はそのように約束してくださいました。「見よ、その時代が来る──【主】のことば──。そのとき、わたしはわたしの民イスラエルとユダを回復させる──【主】は言われる──。わたしは彼らを、その父祖に与えた地に帰らせる。彼らはそれを所有する。」(イザヤ30:3) それはここだけではありません。エレミヤはバビロンに連れて行かれたユダの民が祖国に帰り、そこを元通りにすると何度も何度も語られました。主はそのことばりのとおりにされたのです。
アメリカに自動車を欲しがる息子がいました。彼は父親に大学の入学祝いに自動車を買ってくれとせがみました。父親は「自動車もいいが、みことばを読み、祈る生活をしなさい。」と言いました。そして、みことばと祈りには、自動車だけでなく人生に必要なすべてが込められていると言って、自動車の代わりに聖書をプレゼントしました。息子は大学の寮に入って学校が始まってからも父親からもらった聖書に一度も目を通しませんでした。父親が自動車を買ってくれなかったことに対する不満でいっぱいだったからです。
 休みで家に戻って来た息子は、まだ父親に腹を立てていました。そのことを察した父親は息子に、なぜ聖書を読まないのかと尋ねました。息子は「自動車を買ってくれないのに、なぜお父さんの言うことを聞かなければならないんですか」と反発しました。父親は「息子よ、ピリピ4章9節を開いてみなさい。そこには自動車があるはずだ」と言いました。そこで息子は大学の寮に帰ると、聖書を手に取り、ピリピ4:19を開きました。驚いたことに、そのページに自動車が買える小切手がはさまれてあったのです。そして、その箇所には線まで引いてあったのです。「私の神は、キリスト・イエスにあるご自身の栄光の富をもって、あなたがたの必要をすべて満たしてくださいます。」(ピリピ4:9)
廃墟となった町が、再び喜び踊る人々で満ち溢れるようになる。なんという劇的な変化でしょうか。主はご自身のあわれみと、ご自身のお約束のゆえに、必ずそれを実現してくださいます。私たちの嘆きを賛美に、悲しみを楽しみと喜びに変えてくださるのです。それは人にはできません。でも神にはどんなことでもできるのです。たとえあなたが今深い泥沼に沈んでいても、たとえ先が見えない絶望の中に置かれていても、あなたが神を呼ぶなら、神はあなたの声に答え、あなたが知らない理解を超えた多いなることをあなたに告げてくださるのです。11節に、「楽しみの声と喜びの声、花婿の声と花嫁の声、【主】の宮に感謝のいけにえを携えて来る人たちの声が、再び聞かれるようになる。彼らは言う。『万軍の【主】に感謝せよ。【主】はまことにいつくしみ深い。その恵みはとこしえまで』と。わたしがこの地を回復させ、以前のようにするからだ──【主】は言われる。」主はまことにいつくしみ深い。その恵みはとこしえまで。」とありますが、私たちもこの万軍の主に感謝し、賛美と感謝をささげようではありませんか。主はかならずあなたに大いなることをしてくださるからです。
Ⅲ.満ち満ちた神の恵み(12-13)
最後に、12~13節をご覧ください。「12 万軍の【主】はこう言われる。「人も家畜もいない廃墟であるこの場所と、そのすべての町に、群れを伏させる羊飼いたちの住まいが再びできる。13 山地の町々でも、シェフェラの町々、ネゲブの町々、ベニヤミンの地、エルサレムの近郊、ユダの町々でも、群れが再び、数を数える者の手の下を通り過ぎる──【主】は言われる。」」
人も家畜もいない廃墟であるこの場所と、そのすべての町に、群れを伏させる羊飼いたちの住まいが再びできるようになります。回復の範囲が、約束の地の全行に及ぶようになります。山地の町々でも、シェフェラの町々でも、ネゲブの町々、ベニヤミンの地、エルサレムの近郊、ユダの町々でも、群れが再び、数を数える者の手の下を通りすぎようになるのです。これは牧者が羊の数を数える場面を思い浮かべますが、これはユダの全地で羊を飼うことが日常化し、家畜が豊かにあふれることを表しています。神がなされる回復は完全であるということです。あなたの人生がどんなに荒廃していても、物質的に不足を感じることがあっても、ダビデが「まことに、私のいのちの日の限り、いつくしみと恵みが、私を追ってくるでしょう。」(詩篇23:6)と告白したように、神はあなたを豊かに満たしてくださるのです。神を読んでください。そうすれば、神はあなたに答え、あなたが知らない理解を超えた大いなることをあなたに告げてくださいます。
ある人が、神さまを信じてからも、古い習慣が根強く残っていました。それは、何かあるとすぐに人に頼り、聞いてもらい、答えを得る事でした。それで彼女は聖書の学びを通して、まず主に祈る事にしました。それまでは何か問題が起こると、その頃はまだ携帯が無かったので、次々と友人たちに電話をしました。ところが次々と電話しても、何と全員が出かけていて留守録だったのです。
 その時彼女はハッとして、このみことばを思い出しました。まず人に頼るのでなく、主に頼り、祈る事だと。主の示しを感じました。その問題をまず祈りに持って行きました。するとその祈りが次々と答えられるのを体験しました。ある時は経済的苦境に陥りました。突然の大変な出費があり、給料前で手元にお金が無くなった。赤ん坊のミルクとオムツが無い。どうしようもなく、未信者の夫が、友人に少し借りて来ると言いました。給料日にすぐに返せるからと。でも彼女は、まず主に祈り、主に頼りたかったのです。そして心の中でその事を祈りました。すると夫が、行く前に、近くに住む一人暮らしの義父をのぞいて来ると言いました。主に感謝して、夫が出た時間、必要を求めて、心を注ぎ出して祈りました。長く祈っていて、ふと背後に人の気配を感じました。すると何と夫が、両手にミルク缶とオムツの袋を持ち、立っていた。驚いて聞くと、行くと丁度、職場の上の人が義父の見舞いに来てくれ、見舞金を置いて行ったというのです。とりあえず必要な物を買って来たと。即、祈りに答えられ心から感謝しました。そして主のご愛に触れて、心は喜びで満ちたのです。
どうしてこういうことが起こってしまったのかと思うとき、あなたは自分で悩み、落ち込み、自分で解決することを止めて主を呼ぶことです。 「わたしを呼べ。そうすれば、わたしはあなたに答え、あなたが知らない理解を超えた大いなることを、あなたに告げよう。」主があなたのために立てている計画はわざわいではなく平安を与える計画であり、あなたに将来と希望を与えるためのものだと信じて、主を呼び求めましょう。主に祈り、主に信頼して歩みましょう。主があなたも知らない、あなたの理解をはるかに超えた大いなることをあなたに告げてくださるからです。

アナトテの畑を買ったエレミヤ エレミヤ書32章1~44節

聖書箇所:エレミヤ書32章1~44節(旧約P1352、エレミヤ書講解説教61回目)
タイトル:「アナトテの畑を買ったエレミヤ」」
前回は、エレミヤ書ばかりか聖書全体のテーマである新しい契約についてお話しました。きょうは、この31章の最後の箇所となります。きょうは、この箇所から「イスラエルは滅びない」というテーマでお話します。
私たちは前回「新しい契約」について学びました。それは古い契約とは違います。どのように違うのかと申しますと、古い契約はモーセを通して与えられたシナイ契約のことですが、それは、もしイスラエルの民が神の声に聞き従い、神との契約を守るなら彼らは祝福されますが、そうでなければ、呪われるというものでした。でも、神との契約を完全に守ることができる人など一人もいないわけで、そういう意味ではそれはイスラエルも同じで、彼らは神の呪いを受けなければならない存在となってしまいました。でもそれでは困るわけです。もし神の民であるイスラエルが滅びてしまったらイスラエルを通して全世界を救おうとしておられた神の計画が頓挫してしまうことになってしまうからです。そこで神はどうされましたか?神は彼らに新しい契約与えてくださいました。それは古い契約が破棄されたというわけではありません。むしろ、その古い契約を実行する力を与えてくださったということです。それがイエス・キリストです。神はイエス・キリストを信じる者に神の聖霊を与えてくださり、その聖霊によって彼らの心に神の律法を書き記してくださったのです。もし石の板に書き記されたものならば、彼らは強制的にそれを行わなければならないということになりますが、彼らにはそんな力はありませんでした。そこで神はひとり子イエスをこの世に与え、この方を信じる者の心に聖霊を与えてくださり、それを成し遂げる力を与えてくださったのです。もう神の掟を守らなければならないというのではありません。もう守りたくて、守りたくてしかたがない。神様に喜ばれるように歩みたいと願うようになったのです。それが新しい契約です。これがイエス・キリストを通して神が私たちに与えてくださった一方的な恵みの契約なのです。ですから、私たちはあれもしなければならない、これもしなければならないといった律法から解放されて、聖霊の助けによって自発的に喜んで神に従うことができるようになったのです。それはイエスが十字架で死なれ、私たちの罪を贖ってくださったからです。これが新しい契約です。これが神の永遠の救いのご計画だったのです。ですから、イエス・キリストを救い主と信じた人の心には、聖霊なる神が住んでおられるのです。そしてこの聖霊を受けた人はどんなことがあっても救いを失うことは絶対にありません。これはあなたが救われていることの保証でもありますから。イエス・キリストを信じて罪が赦され、永遠のいのちを受けたのであれば、どんなことがあってもあなたは救いを失うことは絶対にありません。
「そんなことでは、救いが取り去られますよ」と言われて、不安に苛まれたことのあるクリスチャンも少なくないと思います。確かに自堕落な生活はしているし、信仰とは言っても名ばかりで、こんな汚れた者が救われるはずがないと思うことがあります。いったいどこまで奉仕をしたら認められるのか。信仰生活は苦しいことばかりで、疲れ切ってしまった…。そんな相談を度々受けることがあります。特に、カルト化している教会も少なくなく、そういった教会では、例外なく、救いが失われることもあると言うのです。でも自分の罪を認めて悔い改め、イエス・キリストを信じて救われた人が、その救いを失うことは絶対にありません。
このことについて聖書は何と言っているでしょうか。聖書は、あなたの状態やあなたの行いと関係なく、もしあなたが悔い改めてイエス・キリストを救い主として信じるなら、神はあなたをすべての悪からきよめてくださると約束しています。「もし私たちが自分の罪を告白するなら、神は真実で正しい方ですから、その罪を赦し、私たちをすべての不義からきよめてくださいます。」(Ⅰヨハネ1:9)
これが聖書の約束です。そして聖霊が神のことばと神の思いをその人の心にしっかり刻んでくださるので、もはや外側からの圧力やプレッシャーを受けることなく、あるいは人から何かを強要されることもなく、喜んで自分から神のことばに従いたいと思うようになるのです。
その結果、どのようなことが起こるのでしょうか。その結果、彼らはもはや、それぞれ隣人に、あるいはそれぞれ兄弟に向かって、「主を知れ」と言って教えることはなくなります。彼らはみな、身分の低い者から高い者まで、一人一人の内におられる聖霊によって主を知るようになるからです。また、主が彼らの罪を赦してくださるだけでなく、もう二度と彼らの罪を思い起こすことはありません。完全な赦しを受けるのです。すばらしいですね。これが福音です。
きょうの箇所には、この新しい契約の有効期限はいつまで続くのかについて語られています。皆さんはクレジットカードを持っておられると思いますが、そのカードには必ず有効期限が書かれてあります。そのカードの有効期限がいつまでなのか、何年何月までと記載してあるのです。もしその有効期限が切れていたらどうなるでしょうか。全く使い物になりません。カードとしての機能を果たすことができないわけです。おなじように、神は私たちと契約を結んでくださいました。それはクレジットカードのようなものではなく聖書の中に記されてあるわけですが、そこには何と書いてありますか。31章3節には「永遠の愛をもってわたしはあなたを愛した。」とあります。神様はあなたを永遠の愛をもって愛してくださいました。永遠ということは期限がないということです。ですから、延長保証などをする必要もりません。最近、家内が交通事故を起こし全損扱いとなってしまいました。保険会社からき、入っている車両保険の分をお支払いするので、その範囲内で車をお求めくださいと言われました。ところが、車の保険って高いんですね。大抵は1年間の保証は付いているのですが、それが2年、3年と伸ばすと一気に高くなるのです。また、1年間走ってみて問題なければそれでいいかと思ったら、担当のセールスマンの話では、その後が危ないというではありませなか。1年経った頃からいろいろ出てくると言うのです。確かにそうかもしれません。だから保険も高くなるんだろうと思いますが、その度に保険に入っていたら多額の保険料が必要になってしまいます。ですから、神様が守ってくださると信じて1年間の保険に入ることにしましたが、神様の契約は1年どころではありません。2年、3年でもない。それはずっと続きます。それは永遠の保証、永遠の契約なのです。このイスラエルの民に対する神の約束は永遠に破られることはありません。もしもあなたがこの天地を破壊することができるなら、つまり、神が定められた自然の法則を破ることができるなら、あるいは破られるということもあるかもしれませんが、実際にはそういうことはありません。であれば、イエス・キリストによってもたらされたこの神との新しい契約が破られるということは絶対にないのです。
Ⅰ.イスラエルは絶対に滅びない(35-37)
まず、35~37節をご覧ください。「35 【主】はこう言われる。太陽を与えて昼間の光とし、月と星を定めて夜の光とし、海をかき立てて波を騒がせる方、その名が万軍の【主】である方が。36 「もしも、これらの掟がわたしの前から去ることがあるなら──【主】のことば──イスラエルの子孫は絶えて、わたしの前にいつまでも一つの民であることはできない。」37 【主】はこう言われる。「もしも、上の天が測られ、下の地の基が探り出されることがあるなら、わたしも、イスラエルのすべての子孫を、彼らの行ったすべてのことのゆえに退ける。──【主】のことば。」」
どういうことでしょうか。36節には「もしも、これらの掟がわたしの前から去ることがあるなら、主のことば、イスラエルの子孫は絶えて、わたしの前にいつまでも一つの民であることはできない。」とあります。「これらの掟」とは、その前の35節にある「太陽を与えて昼間の光とし、月と星を定めて夜の光とし、海をかき立てて波を騒がせる」という、いわゆる自然法則のことです。もしもそうした掟が主の御前から去るようなことがあるなら、イスラエルの子孫も絶えてしまうことがあるもしれません。主の前にいつまでも一つの民であることはできないでしょう。でも実際そういうことは絶対にありません。これらの法則を与えられた神だからです。その神がここで言われている「これらの掟」すなわち、自然の法則を破らないかぎり、イスラエルの民が神によって滅ぼされるということは絶対にありません。イスラエルが神の前から退かれることは絶対にないのです。もしそのようなことがあるとしたら、それこそイスラエルの民が滅びる時ですが、そういうことは絶対にありません。つまり、神が与えてくださる新しい契約が破られることは絶対にないのです。
これはイスラエルに対する驚くべき神の約束です。イスラエルが滅びることは絶対にないというのですから。もしもイスラエルに対する約束を無効にしたいなら、その人はまず、太陽と月と星をミサイルとか何かで破壊しなければならないことになります。海流や波をすべて止めなければなりません。そんなことできますか?できません。神がイスラエルと結ばれた約束は同じです。絶対に破られることはありません。それほど強いのです。
皆さんも子どものころ何気なく口ずさんだことがあると思いますが、「指きり拳万、嘘ついたら針千本飲ます」ですね。これは恐ろしい誓いです。というのは、約束を破ったら「拳で1万回殴られ」、それに追加して「針を千本飲まされる」のですから。でも私たちは平気で破ってきました。もう拳で1万回殴られても仕方ないのです。針を千本飲まされても仕方ありません。だって約束を破ったんですから。でも聖書の神は違います。そういうことは絶対にありません。聖書の神は約束されたことは必ず守られます。それが私たちの信じている神です。ここにはその名が太字で「主」とありますが、この「主」と訳されている語はヘブル語では「ヤハウェ」と言って、「契約の神」であることを表しています。聖書の神はどんなことがあっても約束を守られる方なのです。太陽、月、星、海、波といった自然の法則が破られないように、主がイスラエルと結ばれた契約は絶対に破られることはありません。
37節をご覧ください。「【主】はこう言われる。「もしも、上の天が測られ、下の地の基が探り出されることがあるなら、わたしも、イスラエルのすべての子孫を、彼らの行ったすべてのことのゆえに退ける。──【主】のことば。」」
「上の天が測られ、下の地の基が探り出される」ことは、人間には不可能な事です。それはこの天地を創造された神にしかできない事です。もしも人間にそのようなことができるとしたら、神もイスラエルと結ばれた約束を退けることもあるかもしれませんが、人間にはこのようなことはできません。だれが上の天を測り、下の基を探り出すことなどできるでしょうか。だれもできません。ということはどういうことかというと、主がイスラエルに与えた祝福の約束は必ず実現するということです。だって、人間にはそのようなことはできないのですから。ですから、イスラエルが滅びたり、退けられたりすることは絶対にありません。あなたが神の救いを失うことは絶対にないのです。
これが31章3節で語られたことです。「主は遠くから私に現れた。「永遠の愛をもって、わたしはあなたを愛した。それゆえ、わたしはあなたに真実の愛を尽くし続けた」。主は永遠の愛をもって彼らを愛されました。永遠の愛をもってあなたを愛されました。永遠の愛とは何ですか。永遠の愛とは永遠の愛です。そこには終わりがありません。それはいつまでも続く愛です。人間にはこのような愛はありません。しかし主はこの永遠の愛をもってイスラエルを愛してくださいました。彼らがどのような状態になろうとも、どんなに神に背いても、神はずっと彼らを愛してくださいました。つまり、どんなに堕落しようとも、取り返しのつかないような罪を犯しても、そうした状態とは関係なく、ずっと愛してくださるということです。神の愛は永遠に変わることがないのです。ずっとイスラエルの上に注がれているのです。
これはヘブル語で「ヘッセド」ということばです。これは契約に基づいた愛です。神はイスラエルの民と契約を結んでくださいましたが、それはどんなことがあっても決して破られることがありません。たとえイスラエルが神に背き神との契約を破ったとしても、神は破ることはありません。神は永遠の愛をもって彼らを愛してくださいました。それは彼らが善人だったからではありません。あるいは優れていたからでもありません。それはただ神が愛されたからです。申命記7章7~8節にそうあります。「主があなたがたを慕い、あなたがたを選ばれたのは、あなたがたがどの民よりも数が多かったからではない。事実あなたがたは、あらゆる民のうちで最も数が少なかった。しかし、主があなたがたを愛されたから、またあなたがたの父祖たちに誓った誓いを守られたから、主は力強い御手をもってあなたがたを導き出し、奴隷の家から、エジプトの王ファラオの手からあなたを贖い出されたのである。」主が彼らを愛されたのは、彼らがどの民よりも数が多かったからではありません。神が彼らを愛されたのは、ただ主が彼らを愛されたから。また彼らの父祖たちに誓った誓いを守られたからです。強いて言うなら、神がイスラエルを愛したかったからです。ただそれだけのことです。ですから、主は力強い御手をもってイスラエルをエジプトから救われたのです。ですから、どんなことがあっても、彼らが救いを失うことは絶対にないのです。
これが神がクリスチャンである私たちと結ばれた約束でもあります。神は私たちを、イエス・キリストを通して、この永遠の救いの中に入れてくださいました。ですから、あなたが救いを失うことは絶対にないのです。たとえあなたが罪を犯し神に背くことがあったとしても、あなたの救いが無効になってしまうことはありません。というのは、私たちの救いは私たちの行いや私たちの状態に基づいているものではないからです。そうではなく、それは主と主のみことばの約束に基づいているものだからです。私たち自身や私たちの行いをみたらもう目も当てられないくらいひどいもので、とても信頼できるものはありませんが、私たちの救いはそうした自分自身の行いによるのではなく、一方的な主の恵み、十字架と復活という主の救いの御業にあるので永遠に変わることがないのです。だから信頼することができるのです。ですから、あなたがいつでも罪を認めて悔い改め、神に立ち返るなら、神はあなたをすべての罪からゆるしてくださるのです。あなたが本当にイエスを救い主と信じたのなら、あなたは絶対に救いを失うことはありません。
イエスはこう言われました。「神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに世を愛された。それは御子を信じる者が、一人として滅びることなく、永遠のいのちを持つためである。」(ヨハネ3:16) 永遠の命とは、決して失われることのない、永遠の救いそのものです。いのちのパン(福音)を食べ、いのちの水(聖霊)を飲んだ者は、いつまでも飢えることも、渇くこともありません(ヨハ6:25,4:13~14)。
イエスはまたこう言われました。「28わたしは彼らに永遠のいのちを与えます。彼らは永遠に、決して滅びることがなく、また、だれも彼らをわたしの手から奪い去りはしません。29 わたしの父がわたしに与えてくださった者は、すべてにまさって大切です。だれも彼らを、父の手から奪い去ることはできません。」(ヨハネ10:28-29)
 福音を信じた者はすべて主の御手の内にあります。神は彼らに永遠のいのちを与えます。彼らは永遠に、決して滅びることはなく、だれも彼らを主の御手から奪い去ることはできません。だれも彼らを、父の手から奪い去ることはできないのです。それが永遠のいのちなのです、私たちが一旦イエスを信じたなら、イエスは決してあなたを見捨てたり、見離したりはしません。あなたがイエスを見離さない、見捨てない限り、イエスは絶対にあなたを見離すことはしないのです。
何度か紹介している マーガレット・F・パワーズさんが書いた「あしあと」という詩があります。
ある夜、わたしは夢を見た。
わたしは、主とともに、なぎさを歩いていた。
暗い夜空に、これまでのわたしの人生が映し出された。
どの光景にも、砂の上にふたりのあしあとが残されていた。
ひとつはわたしのあしあと、もう一つは主のあしあとであった。
これまでの人生の最後の光景が映し出されたとき、
わたしは、砂の上のあしあとに目を留めた。
そこには一つのあしあとしかなかった。
わたしの人生でいちばんつらく、悲しい時だった。
このことがいつもわたしの心を乱していたので、
わたしはその悩みについて主にお尋ねした。
「主よ。わたしがあなたに従うと決心したとき、
あなたは、すべての道において、わたしとともに歩み、
わたしと語り合ってくださると約束されました。
それなのに、わたしの人生のいちばんつらい時、
ひとりのあしあとしかなかったのです。
いちばんあなたを必要としたときに、
あなたが、なぜ、わたしを捨てられたのか、
わたしにはわかりません。」
主は、ささやかれた。
「わたしの大切な子よ。わたしは、あなたを愛している。
あなたを決して捨てたりはしない。 ましてや、苦しみや試みの時に。
あしあとがひとつだったとき、わたしはあなたを背負って歩いていた。」
あなたが主を捨てても、主はあなたを捨てることはありません。あなたが主に背いても、主はあなたに対して常に真実であられます。それが永遠のいのちです。神はあなたを永遠に愛してくださいました。だからどんなことがあっても、あなたが滅びることは絶対にありません。あなたが自分の罪を認めて神に立ち返るなら、神はあなたのすべての罪を赦し、すべての悪からきよめてくださいます。それは神が堅固であるのと同様に確かな救いなのです。
神がイスラエルと結ばれた新しい契約とは、このようなものです。彼らはこのような神の愛で愛されているのです。それは私たちも同じです。私たちもイエスを信じたことで、この神の愛を受けました。だから、いつでも私たちは神に立ち返ることができるのです。どん底からも這い上がることができます。どんなに失敗を繰り返しても、あなたはやり直すことができるのです。この愛を信じるなら、この愛を見つけるなら、この愛に生きるなら、必ず立ち上がることができます。イスラエルは神に背いたことでバビロン捕囚の憂き目に会いましたが、それは彼らを滅ぼすことが目的ではありませんでした。それは彼らを回復し、建て直すことが目的だったのです。その日には、すなわち、イエスの血によって新しい契約が結ばれるとき、彼らは神の民として永遠に生き続けるようになります。イスラエルが滅びることは絶対にありません。イエスを信じる者が滅ぼされることは絶対にないのです。あなたが自分の罪を認め、悔い改めて神にすがるなら、神はあなたの罪を赦し、すべての悪からあなたをきよめてくださるのです。そして、あなたは永遠のいのちを受け、いつまでも主と共に生きるようになるのです。だれもあなたをキリストの愛から引き離すことはできません。
Ⅱ.新しいエルサレム(38-40)
最後に38~40節をご覧ください。それはイスラエルに対する約束だけでなく、イスラエルの都、神のエルサレムに対する約束について語られています。「38 「見よ、その時代が来る──【主】のことば──。そのとき、この都はハナンエルのやぐらから隅の門まで、【主】のために建て直される。39 測り縄は、さらにそれからガレブの丘に伸び、ゴアの方に向かう。40 死体と灰の谷の全体と、東の方ではキデロンの谷と馬の門の隅までの畑は、みな【主】の聖なるものとされ、もはやとこしえに、根こそぎにされず、壊されることはない。」」
ここにも、「見よ、その時代が来る」とあります。これも終末のことを預言する特徴的な言葉です。「そのとき、この都はハナンエルのやぐらから隅の門まで、主のために建て直される」ことになります。どういうことでしょうか。エルサレムは東西南北の隅々にまで再建されるということです。
そこには「死体と灰の谷の全体」と、「東の方ではキデロンの谷と馬の門の隅までの畑もふくまれますが、それらはみな主の聖なるものとされ、もはやとこしえに、根こそぎにされ、壊されることはないのです。「死体と灰の谷の全体」とは、これはヒノムの谷(ゲヘナ)のことです。そこでは人身供養が行われていました。最も主が忌み嫌うべきことが行われていた場所なのです。そのヒノムの谷でさえもきよめられ、主の栄光を現わす場所に変えられていくのです。
これがご自身の契約に基づいて、神がイスラエルに約束されたことです。イスラエルとエルサレムは永遠に滅びることはないのです。それは私たち異邦人クリスチャンにも約束しておられることです。私たちもイエス・キリストを通して、神の永遠の守りの中に入れられました。どんなに罪に汚れた人であっても、やがて新しいエルサレムのように聖別され、神の栄光を現わす存在となるのです。これがイエス・キリストの十字架の血をもって神があなたと結んでくださった新しい契約です。 神の一方的な恵みによってこの契約の中に入れて入れられていることを感謝し、どんなに汚れた者であっても、神の栄光を現わす存在とさせていただきましょう。

「礼拝拝メッセージ」(萩原師)

萩原師の礼拝メッセージ(MP3形式の音声ファイルです。)を聴きたい方は、下記の該当メッセージをクリックしてください。

2024/07/08 今がその時、共に、福音を! マルコ2章1-12節

2024/06/02 主の激しい憐れみ、主の栄光、福音、そして癒やしを伝える マルコ1章40-45節

2024/05/19 イエス様の祈りと弟子たちとの宣教 マルコ1章35~39節

礼拝メッセージ(近藤師)

『礼拝メッセージ』

近藤先生の礼拝メッセージ(MP3形式の音声ファイルです。)を聴きたい方は、下記の該当メッセージをクリックしてください。ご質問等ありましたら、近藤(0287-73-8624)まで、連絡下さい。

2024/06/30 湖上の奇跡 マルコ4章35-41節

2024/05/05 大漁の奇跡 ルカ5章1-11節

2024/04/21 百人隊長の信仰 ルカ7章1-10節

2024/03/24 十字架を見上げた女性達 ヨハネ19章23-30節

2024/03/03 イエスの権威 ルカ4章31-44節

2024/02/18 役人の息子の癒し ヨハネ4:46-54

2024/01/21 水がぶどう酒に変わる時 ヨハネ2:1-11

2023/12/24 クリスマスの光 イザヤ書9:1-7

2023/12/03 処女が身ごもる マタイ1:18-25

2023/11/19 タラントの喩 マタイ25:14-30

2023/10/09 大宴会の喩 ルカ14:7-24

2023/09/10 赦さないしもべの喩 マタイ18:21-35

2023/08/20 悪い農夫の喩 マタイ21:33~46

2023/07/16 不正の管理人の喩 ルカ16:1~13

2023/06/25 優先順位の問題 ルカ10:38~42

2023/06/18 羊と山羊の喩 マタイ25:31~46

2023/05/28 ぶどう園の労務者の喩 マタイ20:1-16

2023/04/16 復活の証人 ヨハネ20:1-8

2023/03/12 性悪な裁判官の喩 ルカ18:1-8

2023/02/19 愚かな金持ちの喩 ルカ12:13-21

2023/01/15 牧者と門の喩 ヨハネ10:1-18

2022/12/25 与える愛 マタイ2:1-12

2022/12/04 ここに、この胸に ルカ2:1-7

2022/11/20 サマリア人の喩 ルカ10:25-37

2022/10/16 放蕩息子の喩、兄息子 ルカ15:25-32

2022/09/11 放蕩息子の喩、弟息子 ルカ15:1-24

2022/08/21 神の国への招き 

2022/07/24 モーセの生涯⑰モーセとキリスト

2022/07/10 モーセの生涯⑯モーセの死 申命記34:1-12

2022/06/19 モーセの生涯⑮約束の地へ 申命記8:1-10

2022/05/15 再臨の時に備えて ルカ17:20-37

2022/04/17 死人のうちからよみがえるまでは マタイ17:1-9

2022/03/20 モーセの生涯⑭ヨシュアへのバトンタッチ 民数記27:12-23

2022/02/20  モーセの生涯⑬青銅の蛇 民数記21:1-9

2022/01/23  モーセの生涯⑫約束の地の偵察 民数記13:1-25

2021/12/26 シメオンが見ていたもの ルカ2:21-33

2021/11/07 モーセの生涯⑪幕屋の建設 出エジプト記35:4~35

2021/10/17 モーセの生涯⓾金の子牛事件出エジプト32:1-10

2021/09/19 モーセの生涯⑨十戒(2)出エジプト20:1-17

2021/08/22 頑張るって聖書的? へブル人への手紙4:1-11

2021/08/ 8 モーセの生涯⑧ 十戒 (1) 出エジプト19:1-20

2021/07/ 4 モーセの生涯⑦レフィディム 出エジプト記17:1~16

2021/06/13 モーセの生涯⑥水、うずら、マナ 出エジプト16:1-12

2021/05/16 モーセの生涯⑤葦の海渡渉 出エジプト14:15~31

2021/04/18 モーセの生涯④過越 出エジプト12:1-14

2021/03/21 モーセの生涯③ファラオとの交渉 出エジプト6:1-13

2021/01/24 生ける石として Ⅰペテロ2:4-10

2021/01/17 モーセの生涯②召命の時 出エジプト記3:1-14

2020/12/20 ダビデの町ベツレヘム ルカ2:1-12

2020/11/08 モーセの生涯①(モーセの誕生)出エジプト2:1-15

2020/10/11 聖書通読のすすめ 使徒の働き8:26-40

2020/9/13  神の御声を聴く(創世記と私達) 創世記50:1-26

2020/08/23 人の思い、神の思い イザヤ書55:6-13

2020/08/09 祝福の系図 創世記48:1-22

2020/7/12 エジプトに導かれる神 創世記 46:1-7, 28-34

2020/3/29 共に祈れることの幸い マタイ6:9-13

20203/15 神の救いの計画 創世記45:1-15

2020/2/16 エルシャダイ・全能の神  創世記43:1-15

2020/1/19   神様の織りなす織物 創世記42:1-25

2019/12/22  イエスとアウグストウス ルカ2:1-20

2019/12/8 神様の時 創世記41:37-57

2019/11/17  ヨセフと共におられた主 創世記39:1-23

2019/10/20 ヨセフの見た夢 創世記37:1-36

2019/9/22 祝福の継承 創世記 35:1-15

2019/8/18 和解への道 創世記33:1-20

2019/7/21 ペヌエル、神に勝たせる人生  創世記32:13-32

2019/6/23 信仰成長を求めて 詩編1編

2019/6/16 マハナイム、砕かれるとき 創世記32:1-12

2019/5/19  全てを見ておられる神 創世記31:1-13

2019/4/21 復活の力  ルカの福音書24:1-12

2019/3/17 私のベテル 創世記28:1-22

2019/2/10 憐れみの器 創世記25:19-34

20191/13 死の向こうを見つめて  創世記23:1-20

2018/12/23 救い主イエス  マタイ1:1-25

2018/11/11 信仰の高嶺を目ざして  創世記22:1-19

2018/10/21 望みが叶うとき 創世記21:1-7

2018/9/23 執り成しの祈り 創世記19:1-29

2018/8/19 神様の視点  創世記18:1-15

2018/7/22 信仰のリニューアル 創世記17:1-27

2018/6/10 神の愛の眼差し 創世記16:1-16

2018/5/13 神の一方的な愛 創世記15:1-21

2018/4/15 イエスと共に歩む ルカ24:13-35

2018/4/8 二人の王 創世記14:1-24

2018/3/18 御心を求めて生きる 創世記12:10-13:18

2018/2/25 アブラハムの旅立ち 創世記11:27-12:9

イスラエルは滅びない エレミヤ書31章35~40節 


聖書箇所:エレミヤ書31章35~40節(旧約P1351、エレミヤ書講解説教60回目)
タイトル:「イスラエルは滅びない」
前回は、エレミヤ書ばかりか聖書全体のテーマである新しい契約についてお話しました。きょうは、この31章の最後の箇所となります。きょうは、この箇所から「イスラエルは滅びない」というテーマでお話します。
私たちは前回「新しい契約」について学びました。それは古い契約とは違います。どのように違うのかと申しますと、古い契約はモーセを通して与えられたシナイ契約のことですが、それは、もしイスラエルの民が神の声に聞き従い、神との契約を守るなら彼らは祝福されますが、そうでなければ、呪われるというものでした。でも、神との契約を完全に守ることができる人など一人もいないわけで、そういう意味ではそれはイスラエルも同じで、彼らは神の呪いを受けなければならない存在となってしまいました。でもそれでは困るわけです。もし神の民であるイスラエルが滅びてしまったらイスラエルを通して全世界を救おうとしておられた神の計画が頓挫してしまうことになってしまうからです。そこで神はどうされましたか?神は彼らに新しい契約与えてくださいました。それは古い契約が破棄されたというわけではありません。むしろ、その古い契約を実行する力を与えてくださったということです。それがイエス・キリストです。神はイエス・キリストを信じる者に神の聖霊を与えてくださり、その聖霊によって彼らの心に神の律法を書き記してくださったのです。もし石の板に書き記されたものならば、彼らは強制的にそれを行わなければならないということになりますが、彼らにはそんな力はありませんでした。そこで神はひとり子イエスをこの世に与え、この方を信じる者の心に聖霊を与えてくださり、それを成し遂げる力を与えてくださったのです。もう神の掟を守らなければならないというのではありません。もう守りたくて、守りたくてしかたがない。神様に喜ばれるように歩みたいと願うようになったのです。それが新しい契約です。これがイエス・キリストを通して神が私たちに与えてくださった一方的な恵みの契約なのです。ですから、私たちはあれもしなければならない、これもしなければならないといった律法から解放されて、聖霊の助けによって自発的に喜んで神に従うことができるようになったのです。それはイエスが十字架で死なれ、私たちの罪を贖ってくださったからです。これが新しい契約です。これが神の永遠の救いのご計画だったのです。ですから、イエス・キリストを救い主と信じた人の心には、聖霊なる神が住んでおられるのです。そしてこの聖霊を受けた人はどんなことがあっても救いを失うことは絶対にありません。これはあなたが救われていることの保証でもありますから。イエス・キリストを信じて罪が赦され、永遠のいのちを受けたのであれば、どんなことがあってもあなたは救いを失うことは絶対にありません。
「そんなことでは、救いが取り去られますよ」と言われて、不安に苛まれたことのあるクリスチャンも少なくないと思います。確かに自堕落な生活はしているし、信仰とは言っても名ばかりで、こんな汚れた者が救われるはずがないと思うことがあります。いったいどこまで奉仕をしたら認められるのか。信仰生活は苦しいことばかりで、疲れ切ってしまった…。そんな相談を度々受けることがあります。特に、カルト化している教会も少なくなく、そういった教会では、例外なく、救いが失われることもあると言うのです。でも自分の罪を認めて悔い改め、イエス・キリストを信じて救われた人が、その救いを失うことは絶対にありません。
このことについて聖書は何と言っているでしょうか。聖書は、あなたの状態やあなたの行いと関係なく、もしあなたが悔い改めてイエス・キリストを救い主として信じるなら、神はあなたをすべての悪からきよめてくださると約束しています。「もし私たちが自分の罪を告白するなら、神は真実で正しい方ですから、その罪を赦し、私たちをすべての不義からきよめてくださいます。」(Ⅰヨハネ1:9)
これが聖書の約束です。そして聖霊が神のことばと神の思いをその人の心にしっかり刻んでくださるので、もはや外側からの圧力やプレッシャーを受けることなく、あるいは人から何かを強要されることもなく、喜んで自分から神のことばに従いたいと思うようになるのです。
その結果、どのようなことが起こるのでしょうか。その結果、彼らはもはや、それぞれ隣人に、あるいはそれぞれ兄弟に向かって、「主を知れ」と言って教えることはなくなります。彼らはみな、身分の低い者から高い者まで、一人一人の内におられる聖霊によって主を知るようになるからです。また、主が彼らの罪を赦してくださるだけでなく、もう二度と彼らの罪を思い起こすことはありません。完全な赦しを受けるのです。すばらしいですね。これが福音です。
きょうの箇所には、この新しい契約の有効期限はいつまで続くのかについて語られています。皆さんはクレジットカードを持っておられると思いますが、そのカードには必ず有効期限が書かれてあります。そのカードの有効期限がいつまでなのか、何年何月までと記載してあるのです。もしその有効期限が切れていたらどうなるでしょうか。全く使い物になりません。カードとしての機能を果たすことができないわけです。おなじように、神は私たちと契約を結んでくださいました。それはクレジットカードのようなものではなく聖書の中に記されてあるわけですが、そこには何と書いてありますか。31章3節には「永遠の愛をもってわたしはあなたを愛した。」とあります。神様はあなたを永遠の愛をもって愛してくださいました。永遠ということは期限がないということです。ですから、延長保証などをする必要もりません。最近、家内が交通事故を起こし全損扱いとなってしまいました。保険会社からき、入っている車両保険の分をお支払いするので、その範囲内で車をお求めくださいと言われました。ところが、車の保険って高いんですね。大抵は1年間の保証は付いているのですが、それが2年、3年と伸ばすと一気に高くなるのです。また、1年間走ってみて問題なければそれでいいかと思ったら、担当のセールスマンの話では、その後が危ないというではありませなか。1年経った頃からいろいろ出てくると言うのです。確かにそうかもしれません。だから保険も高くなるんだろうと思いますが、その度に保険に入っていたら多額の保険料が必要になってしまいます。ですから、神様が守ってくださると信じて1年間の保険に入ることにしましたが、神様の契約は1年どころではありません。2年、3年でもない。それはずっと続きます。それは永遠の保証、永遠の契約なのです。このイスラエルの民に対する神の約束は永遠に破られることはありません。もしもあなたがこの天地を破壊することができるなら、つまり、神が定められた自然の法則を破ることができるなら、あるいは破られるということもあるかもしれませんが、実際にはそういうことはありません。であれば、イエス・キリストによってもたらされたこの神との新しい契約が破られるということは絶対にないのです。
Ⅰ.イスラエルは滅びることはない(35-37)
まず、35~37節をご覧ください。「35 【主】はこう言われる。太陽を与えて昼間の光とし、月と星を定めて夜の光とし、海をかき立てて波を騒がせる方、その名が万軍の【主】である方が。36 「もしも、これらの掟がわたしの前から去ることがあるなら──【主】のことば──イスラエルの子孫は絶えて、わたしの前にいつまでも一つの民であることはできない。」37 【主】はこう言われる。「もしも、上の天が測られ、下の地の基が探り出されることがあるなら、わたしも、イスラエルのすべての子孫を、彼らの行ったすべてのことのゆえに退ける。──【主】のことば。」」
どういうことでしょうか。36節には「もしも、これらの掟がわたしの前から去ることがあるなら、主のことば、イスラエルの子孫は絶えて、わたしの前にいつまでも一つの民であることはできない。」とあります。「これらの掟」とは、その前の35節にある「太陽を与えて昼間の光とし、月と星を定めて夜の光とし、海をかき立てて波を騒がせる」という、いわゆる自然法則のことです。もしもそうした掟が主の御前から去るようなことがあるなら、イスラエルの子孫も絶えてしまうことがあるもしれません。主の前にいつまでも一つの民であることはできないでしょう。でも実際そういうことは絶対にありません。これらの法則を与えられた神だからです。その神がここで言われている「これらの掟」すなわち、自然の法則を破らないかぎり、イスラエルの民が神によって滅ぼされるということは絶対にありません。イスラエルが神の前から退かれることは絶対にないのです。もしそのようなことがあるとしたら、それこそイスラエルの民が滅びる時ですが、そういうことは絶対にありません。つまり、神が与えてくださる新しい契約が破られることは絶対にないのです。
これはイスラエルに対する驚くべき神の約束です。イスラエルが滅びることは絶対にないというのですから。もしもイスラエルに対する約束を無効にしたいなら、その人はまず、太陽と月と星をミサイルとか何かで破壊しなければならないことになります。海流や波をすべて止めなければなりません。そんなことできますか?できません。神がイスラエルと結ばれた約束は同じです。絶対に破られることはありません。それほど強いのです。
皆さんも子どものころ何気なく口ずさんだことがあると思いますが、「指きり拳万、嘘ついたら針千本飲ます」ですね。これは恐ろしい誓いです。というのは、約束を破ったら「拳で1万回殴られ」、それに追加して「針を千本飲まされる」のですから。でも私たちは平気で破ってきました。もう拳で1万回殴られても仕方ないのです。針を千本飲まされても仕方ありません。だって約束を破ったんですから。でも聖書の神は違います。そういうことは絶対にありません。聖書の神は約束されたことは必ず守られます。それが私たちの信じている神です。ここにはその名が太字で「主」とありますが、この「主」と訳されている語はヘブル語では「ヤハウェ」と言って、「契約の神」であることを表しています。聖書の神はどんなことがあっても約束を守られる方なのです。太陽、月、星、海、波といった自然の法則が破られないように、主がイスラエルと結ばれた契約は絶対に破られることはありません。
37節をご覧ください。「【主】はこう言われる。「もしも、上の天が測られ、下の地の基が探り出されることがあるなら、わたしも、イスラエルのすべての子孫を、彼らの行ったすべてのことのゆえに退ける。──【主】のことば。」」
「上の天が測られ、下の地の基が探り出される」ことは、人間には不可能な事です。それはこの天地を創造された神にしかできない事です。もしも人間にそのようなことができるとしたら、神もイスラエルと結ばれた約束を退けることもあるかもしれませんが、人間にはこのようなことはできません。だれが上の天を測り、下の基を探り出すことなどできるでしょうか。だれもできません。ということはどういうことかというと、主がイスラエルに与えた祝福の約束は必ず実現するということです。だって、人間にはそのようなことはできないのですから。ですから、イスラエルが滅びたり、退けられたりすることは絶対にありません。あなたが神の救いを失うことは絶対にないのです。
これが31章3節で語られたことです。「主は遠くから私に現れた。「永遠の愛をもって、わたしはあなたを愛した。それゆえ、わたしはあなたに真実の愛を尽くし続けた」。主は永遠の愛をもって彼らを愛されました。永遠の愛をもってあなたを愛されました。永遠の愛とは何ですか。永遠の愛とは永遠の愛です。そこには終わりがありません。それはいつまでも続く愛です。人間にはこのような愛はありません。しかし主はこの永遠の愛をもってイスラエルを愛してくださいました。彼らがどのような状態になろうとも、どんなに神に背いても、神はずっと彼らを愛してくださいました。つまり、どんなに堕落しようとも、取り返しのつかないような罪を犯しても、そうした状態とは関係なく、ずっと愛してくださるということです。神の愛は永遠に変わることがないのです。ずっとイスラエルの上に注がれているのです。
これはヘブル語で「ヘッセド」ということばです。これは契約に基づいた愛です。神はイスラエルの民と契約を結んでくださいましたが、それはどんなことがあっても決して破られることがありません。たとえイスラエルが神に背き神との契約を破ったとしても、神は破ることはありません。神は永遠の愛をもって彼らを愛してくださいました。それは彼らが善人だったからではありません。あるいは優れていたからでもありません。それはただ神が愛されたからです。申命記7章7~8節にそうあります。「主があなたがたを慕い、あなたがたを選ばれたのは、あなたがたがどの民よりも数が多かったからではない。事実あなたがたは、あらゆる民のうちで最も数が少なかった。しかし、主があなたがたを愛されたから、またあなたがたの父祖たちに誓った誓いを守られたから、主は力強い御手をもってあなたがたを導き出し、奴隷の家から、エジプトの王ファラオの手からあなたを贖い出されたのである。」主が彼らを愛されたのは、彼らがどの民よりも数が多かったからではありません。神が彼らを愛されたのは、ただ主が彼らを愛されたから。また彼らの父祖たちに誓った誓いを守られたからです。強いて言うなら、神がイスラエルを愛したかったからです。ただそれだけのことです。ですから、主は力強い御手をもってイスラエルをエジプトから救われたのです。ですから、どんなことがあっても、彼らが救いを失うことは絶対にないのです。
これが神がクリスチャンである私たちと結ばれた約束でもあります。神は私たちを、イエス・キリストを通して、この永遠の救いの中に入れてくださいました。ですから、あなたが救いを失うことは絶対にないのです。たとえあなたが罪を犯し神に背くことがあったとしても、あなたの救いが無効になってしまうことはありません。というのは、私たちの救いは私たちの行いや私たちの状態に基づいているものではないからです。そうではなく、それは主と主のみことばの約束に基づいているものだからです。私たち自身や私たちの行いをみたらもう目も当てられないくらいひどいもので、とても信頼できるものはありませんが、私たちの救いはそうした自分自身の行いによるのではなく、一方的な主の恵み、十字架と復活という主の救いの御業にあるので永遠に変わることがないのです。だから信頼することができるのです。ですから、あなたがいつでも罪を認めて悔い改め、神に立ち返るなら、神はあなたをすべての罪からゆるしてくださるのです。あなたが本当にイエスを救い主と信じたのなら、あなたは絶対に救いを失うことはありません。
イエスはこう言われました。「神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに世を愛された。それは御子を信じる者が、一人として滅びることなく、永遠のいのちを持つためである。」(ヨハネ3:16) 永遠の命とは、決して失われることのない、永遠の救いそのものです。いのちのパン(福音)を食べ、いのちの水(聖霊)を飲んだ者は、いつまでも飢えることも、渇くこともありません(ヨハ6:25,4:13~14)。
イエスはまたこう言われました。「28わたしは彼らに永遠のいのちを与えます。彼らは永遠に、決して滅びることがなく、また、だれも彼らをわたしの手から奪い去りはしません。29 わたしの父がわたしに与えてくださった者は、すべてにまさって大切です。だれも彼らを、父の手から奪い去ることはできません。」(ヨハネ10:28-29)
 福音を信じた者はすべて主の御手の内にあります。神は彼らに永遠のいのちを与えます。彼らは永遠に、決して滅びることはなく、だれも彼らを主の御手から奪い去ることはできません。だれも彼らを、父の手から奪い去ることはできないのです。それが永遠のいのちなのです、私たちが一旦イエスを信じたなら、イエスは決してあなたを見捨てたり、見離したりはしません。あなたがイエスを見離さない、見捨てない限り、イエスは絶対にあなたを見離すことはしないのです。
何度か紹介している マーガレット・F・パワーズさんが書いた「あしあと」という詩があります。
ある夜、わたしは夢を見た。
わたしは、主とともに、なぎさを歩いていた。
暗い夜空に、これまでのわたしの人生が映し出された。
どの光景にも、砂の上にふたりのあしあとが残されていた。
ひとつはわたしのあしあと、もう一つは主のあしあとであった。
これまでの人生の最後の光景が映し出されたとき、
わたしは、砂の上のあしあとに目を留めた。
そこには一つのあしあとしかなかった。
わたしの人生でいちばんつらく、悲しい時だった。
このことがいつもわたしの心を乱していたので、
わたしはその悩みについて主にお尋ねした。
「主よ。わたしがあなたに従うと決心したとき、
あなたは、すべての道において、わたしとともに歩み、
わたしと語り合ってくださると約束されました。
それなのに、わたしの人生のいちばんつらい時、
ひとりのあしあとしかなかったのです。
いちばんあなたを必要としたときに、
あなたが、なぜ、わたしを捨てられたのか、
わたしにはわかりません。」
主は、ささやかれた。
「わたしの大切な子よ。わたしは、あなたを愛している。
あなたを決して捨てたりはしない。 ましてや、苦しみや試みの時に。
あしあとがひとつだったとき、わたしはあなたを背負って歩いていた。」
あなたが主を捨てても、主はあなたを捨てることはありません。あなたが主に背いても、主はあなたに対して常に真実であられます。それが永遠のいのちです。神はあなたを永遠に愛してくださいました。だからどんなことがあっても、あなたが滅びることは絶対にありません。あなたが自分の罪を認めて神に立ち返るなら、神はあなたのすべての罪を赦し、すべての悪からきよめてくださいます。それは神が堅固であるのと同様に確かな救いなのです。
神がイスラエルと結ばれた新しい契約とは、このようなものです。彼らはこのような神の愛で愛されているのです。それは私たちも同じです。私たちもイエスを信じたことで、この神の愛を受けました。だから、いつでも私たちは神に立ち返ることができるのです。どん底からも這い上がることができます。どんなに失敗を繰り返しても、あなたはやり直すことができるのです。この愛を信じるなら、この愛を見つけるなら、この愛に生きるなら、必ず立ち上がることができます。イスラエルは神に背いたことでバビロン捕囚の憂き目に会いましたが、それは彼らを滅ぼすことが目的ではありませんでした。それは彼らを回復し、建て直すことが目的だったのです。その日には、すなわち、イエスの血によって新しい契約が結ばれるとき、彼らは神の民として永遠に生き続けるようになります。イスラエルが滅びることは絶対にありません。イエスを信じる者が滅ぼされることは絶対にないのです。あなたが自分の罪を認め、悔い改めて神にすがるなら、神はあなたの罪を赦し、すべての悪からあなたをきよめてくださるのです。そして、あなたは永遠のいのちを受け、いつまでも主と共に生きるようになるのです。だれもあなたをキリストの愛から引き離すことはできません。
Ⅱ.新しいエルサレム(38-40)
最後に38~40節をご覧ください。それはイスラエルに対する約束だけでなく、イスラエルの都、神のエルサレムに対する約束について語られています。「38 「見よ、その時代が来る──【主】のことば──。そのとき、この都はハナンエルのやぐらから隅の門まで、【主】のために建て直される。39 測り縄は、さらにそれからガレブの丘に伸び、ゴアの方に向かう。40 死体と灰の谷の全体と、東の方ではキデロンの谷と馬の門の隅までの畑は、みな【主】の聖なるものとされ、もはやとこしえに、根こそぎにされず、壊されることはない。」」
ここにも、「見よ、その時代が来る」とあります。これも終末のことを預言する特徴的な言葉です。「そのとき、この都はハナンエルのやぐらから隅の門まで、主のために建て直される」ことになります。どういうことでしょうか。エルサレムは東西南北の隅々にまで再建されるということです。
そこには「死体と灰の谷の全体」と、「東の方ではキデロンの谷と馬の門の隅までの畑もふくまれますが、それらはみな主の聖なるものとされ、もはやとこしえに、根こそぎにされ、壊されることはないのです。「死体と灰の谷の全体」とは、これはヒノムの谷(ゲヘナ)のことです。そこでは人身供養が行われていました。最も主が忌み嫌うべきことが行われていた場所なのです。そのヒノムの谷でさえもきよめられ、主の栄光を現わす場所に変えられていくのです。
これがご自身の契約に基づいて、神がイスラエルに約束されたことです。イスラエルとエルサレムは永遠に滅びることはないのです。それは私たち異邦人クリスチャンにも約束しておられることです。私たちもイエス・キリストを通して、神の永遠の守りの中に入れられました。どんなに罪に汚れた人であっても、やがて新しいエルサレムのように聖別され、神の栄光を現わす存在となるのです。これがイエス・キリストの十字架の血をもって神があなたと結んでくださった新しい契約です。 神の一方的な恵みによってこの契約の中に入れて入れられていることを感謝し、どんなに汚れた者であっても、神の栄光を現わす存在とさせていただきましょう。

新しい契約 エレミヤ書31章31~34節 

2024年6月2日(日)礼拝メッセージ
聖書箇所:エレミヤ書31章31~34節(旧約P1351、エレミヤ書講解説教59回目)
タイトル:「新しい契約」
きょうは、エレミヤ書全体の中心部である31章の中の、さらに中心テーマの一つである「新しい契約」についてお話します。31節をご覧ください。ここには、「見よ、その時代が来る──【主】のことば──。そのとき、わたしはイスラエルの家およびユダの家と、新しい契約を結ぶ。」とあります。「その時代」という語は、未来のこと、特に世の終わりのことを預言している時に用いられている語です。エレミヤ書の中では、この語が用いられるのはこれで8回目ですが、ここでも終末の預言が語られているわけです。それはどんなことでしょうか。それは、そのとき、主はイスラエルの家およびユダの家と、新しい契約を結ぶということです。どういうことでしょうか。きょうは、この新しい契約についてお話したいと思います。
Ⅰ.古い契約(31-32)
まず第一に、それは古い契約とは違うということです。32節をご覧ください。「32 その契約は、わたしが彼らの先祖の手を取って、エジプトの地から導き出した日に、彼らと結んだ契約のようではない。わたしは彼らの主であったのに、彼らはわたしの契約を破った──【主】のことば──。」
ここには、主がイスラエルの民と結ばれる新しい契約がどのようなものなのかが説明されています。それは、主が彼らの先祖たちの手を取って、エジプトの地から導き出した日に、彼らと結んだ契約のようなものではありません。それは古い契約のことです。古い契約とは、広い意味では旧約聖書全体を指しますが、狭い意味では、主がイスラエルをエジプトの地から導いた日に、モーセを通して、モーセを仲介者として、主が彼ら結ばれた契約のことです。これはシナイ山で結ばれたので「シナイ契約」とも呼ばれています。それはこのようなものでした。出エジプト19章5節を開いてください。「今、もしあなたがたが確かにわたしの声に聞き従い、わたしの契約を守るなら、あなたがたはあらゆる民族の中にあって、わたしの宝となる。全世界はわたしのものであるから。」
これがシナイ契約の中心です。つまり、もしイスラエルが神の声に聞き従い、神との契約を守り行うなら、彼らはあらゆる民族の中にあって、主の宝の民とされるということ、つまり、彼らは祝福されるということです。しかし、そうでなければ、その反対に呪いがもたらされるというものです。実際どうなったでしょうか。ご存知の通り、彼らは神様との契約を破ってしまいました。もしかしたら最初は守れたのかもしれませんが、いつの間にか守れなくなってしまい、ついには守っていないにもかかわらず、自分たちは守っていると錯覚するようになってしまいました。なぜそのようなことになってしまったのでしょうか。それは彼らの心に原因がありました。心がついていかなかったからです。頭ではわかっていても、心では守りたくなかったのです。つまり、彼らにはそれを実行する力が備えられていなかったのです。これが古い契約の弱点だったのです。でも、それでは困るわけです。なぜなら、もし彼らが契約を破り彼らに呪いがもたらされたら、神様の計画が頓挫してしまうことになるからです。神様の計画とは、イスラエルを通して全世界を救うことでした。それなのにイスラエルが滅びてしったら、その計画が成し遂げられなくなってしまいます。
ここに神のジレンマがありました。契約は守らなければなりません。もし守られなければ、神様ご自身が不真実な者となってしまうからです。でも神は真実であられます。イスラエルが不真実であっても、神は常に真実であられるからです。神はご自身を偽ることはできません。ではどうしたら彼らを救うことができるのでしょうか。それが新しい契約です。神様はご自身との契約を破ったイスラエルに対して、古い契約ではなく新しい契約を結ぶという仰天プランを立てられたのです。
Ⅱ.新しい契約(33)
それはどのようなものでしょうか。33節をご覧ください。「これらの日の後に、わたしがイスラエルの家と結ぶ契約はこうである──【主】のことば──。わたしは、わたしの律法を彼らのただ中に置き、彼らの心にこれを書き記す。わたしは彼らの神となり、彼らはわたしの民となる。」
新しい契約の最も大きな特徴は、主はご自身の律法を彼らのただ中に置き、彼らの心に書き記すということです。モーセによって結ばれた古い契約はそうではありませんでした。それは2枚の石の板に書き記されたわけですが、新しい契約は彼らの心に書き記されるのです。どういうことでしょうか。それは強制的に神との契約を守らなければならないというのではなく、自ら進んで守りたいという思いを授けてくださるということです。神様に従わなければならないというのではなく、従わずにはいられなくなるのです。それが新しい契約の中身です。これが新約聖書の内容です。
ちなみに、私たちが持っている聖書は旧約聖書と新約聖書の両方を含んでいますが、この違いは何かというと、これなんです。「旧約聖書」ということばを聞くと、中にはどうしてこんな面倒くさいことが書いてあるんだろうと思われる方もいらっしゃると思いますが、旧約聖書が破棄されたわけではないのです。取り払われたわけではありません。神の律法がどこに書かれたのか、それが石の板なのか、心の中なのかの違いです。石の板に書かれたものは強制的に守らなければなりませんが、心に書き記されると守らずにはいられなくなるのです。いやむしろ、古い契約、旧約聖書があるからこそ自分の弱さ、自分の罪深さ、自分の愚かさに気付かされ、そこからの救いをより求めるようになるのです。そういう意味では、パウロも言っているように、「律法は私たちをキリストへ導くための養育係」であると言えます。パウロはガラテヤ3章24節でこう言っています。「律法は私たちをキリストへ導くための私たちの養育係になりました。私たちが信仰によって義と認められるためなのです。」(ガラテヤ3:24)神様はこの古い契約を生かしつつ、その教えを行うことができるように、神のみこころにかなった行動ができるようにしてくださったのです。それが救い主イエス・キリストです。ですから、旧約聖書と新約聖書は切り離すことはできないのです。神はモーセを通してイスラエルとの古い契約を石の板に書き記されましたが、新しい契約はその古い契約(旧約聖書)が預言しているメシア(救い主)、キリストを通して、彼らの心に書き記されるのです。
これは具体的にどういうことかというと、救い主イエスを通して私たちの心の中に聖霊を与えてくださるということです。聖霊についてはヨハネ14章16節に「もうひとりの助け主」とあるように、イエスのように私たちを助けてくださるお方です。全く自分勝手な者がもっと神様を愛したい、もっと神のために生きる者でありたい、もっと聖書を読みたい、もっと祈りたい、そう思うのは、この聖霊のお働きによるのです。イエスは、敵を愛し、迫害する者のために祈りなさい、と言われましたが、普通なら無理な話です。でも聖霊が与えられるとそのようにしたいと思うようになるのです。なぜなら、この方が来ると、すべての真理に導いてくださるからです。神様のみことばに従うことができるように、神様のみこころに歩めるように導いてくださるのです。それが心に書き記されるということです。であれば、問題は、どうすればこの神の聖霊を受けることができるのかということです。どうしたら聖霊が私たちの心の中に住んでくださるのかということです。
残念ながら、聖霊はその名のごとく全くきよいお方なので、人間のように汚れた心に住むことはできません。聖霊は汚れと同居することができないからです。聖霊が私たちの心の中に住まわれるためには、私たちの心が完全にきよくなければならないのです。とは言っても、私たちが人間である以上完全にきよくなることなどできません。エレミヤ書17章9節には「人の心は何よりもねじ曲がっている。」とあるように、人の心は何よりも陰険なのです。また、ローマ書には、「義人はいない。一人もいない。悟る者はいない。神を求める者はいない。すべての者が離れて行き、だれもかれも無用の者となった。善を行う者はいない。だれ一人いない。」(ローマ3:10-12)とあります。であれば、私たちはみんなアウトです。こんな汚れた者の心に聖霊が住んでくださることなどできないのです。
しかし、私たちにできないことを神はしてくださいました。神はそのひとり子(イエス)をこの世に与え、私たちが負わなければならない罪の代価を彼に負わせ、私たちの罪を贖ってくださいました。それが十字架での死です。死がなければ命を贖うことができないからです。レビ記17章11節にこうあります。「いのちとして宥めを行うのは血である。」。いのちとして宥めを行うのは血です。血が流されることがなければ罪の赦しはありません。ですから、神はひとり子をこの世に送り、古い契約違反の責めを私たちにではなくキリストに負わせることによって、私たちを律法の呪いから解放してくださったのです。ですから、だれでもキリストを自分の罪からの救い主として信じるならその人の心は完全にきよめられ、聖霊が住んでくださるのです。この聖霊の助けによって、私たちは喜んで神のみこころに歩みたい、神に喜ばれる人生を歩みたいと思うようになるのです。つまり、この新しい契約はイエス・キリストの十字架と復活という一方的な神の恵みによってもたらされる契約なのです。
そのためにあなたがしなければならないことは何一つありません。あなたが罪から救われ、聖霊があなたの心に住んでくださるための唯一の条件は、あなたのために十字架で死なれ、三日目によみがえられたイエスを、あなたの罪からの救い主と信じるだけなのです。もしあなたの口でイエスを主と告白し、あなたの心で神はイエスを死者の中からよみがえらせたと信じるなら、あなたは救われるからです。(ローマ10:10)
その時、あなたはもはや自分でこうしなければならないとか、ああしなければならないという律法に捉われることから解放され、聖霊が導いてくださる通りに、聖霊が教えてくださる通りに、聖霊の助けによって喜んで神に従うことができるようになります。これがクリスチャンです。これが新訳聖書の中身なのです。クリスチャンとは、もはやああしなければならないとか、こうしなければならないという律法から解放されて、聖霊によって喜んで神の律法に従いたいと思う人たちなのです。聖書の原則から言えばそうです。それが本当に救われている人たちです。もしそうでないという人がいるとしたら、その人は新しい契約とはどのようなものなのかをまだよく理解していないか、それとも古い契約に縛られて神の恵みの豊かさを享受していないかのいずれかです。
それはまたエレミヤ31章3節のみことばに対する応答でもあります。ご一緒に読んでみましょう。「【主】は遠くから私に現れた。「永遠の愛をもって、わたしはあなたを愛した。それゆえ、わたしはあなたに真実の愛を尽くし続けた。」」
 神は永遠の愛をもってあなたを愛してくださいました。これだけの愛で愛されているのであれば、ひとり子を与えるほどの愛で愛されているのであれば、もう感動で、ただただ感謝しかないはずです。そして喜んでその愛に応答したいと思うようになるでしょう。教会に行かなければならないとか、聖書を読まなければならない、祈らなければならない、献金しなければならない、奉仕もしなければ、ディボーションもしなければといった律法的、義務的なことはもうどうでもよくなるはずです。喜んでその愛に応答したいと思うようになるからです。教会に行きたくて、行きたくて、しょうがない。もっと聖書を読みたい、もっと祈りたい、もっと自分にできることがあれば喜んで奉仕したい。十分の一とは言わず、自分のすべてを献げたいと思うようになるからです。
かつて私が福島で牧会していた時、同じ福島県の浜通りで牧会しておられ佐藤彰先生からお聞きした話ですが、その教会に70歳を過ぎた信仰に熱心な婦人の方がおられました。確か半谷さんというお名前だったかと思いますが、半谷さんはある日娘さんを仙台の病院に連れて行くため電車に乗ったとき、たまたま向かい側に一人の宣教師が座っていて、その会話の中で「あなたは神を信じますか」と尋ねられたそうです。神を信じていますかって、信じていないわけじゃないし、信じているとも言えないし、何と答えたらいいか返答に迷いました。そんな悶々とした思いを抱えていた時、その町にある教会で3日間の伝道集会があるという看板を見ました。思い切って教会に行ってみると、そこでお話をされていたのがあの宣教師、ホレチョク先生でした。驚いた半谷さんは最初の夜だけでなく二日目、三日目も集会に行く中でイエス様を自分の罪からの救い主と信じることができました。
ところが、当時は耶蘇教と揶揄されていた時代です。しかも自分が嫁いだ先はお寺の総代を務めているような由緒ある家で、お姑さんから教会に行ってはいけないと言われ、仕方なく聖書は厠(トイレ)にはいって読んでいたそうです。でもそんな半谷さんの献身的な姿に心を打たれたご主人がやがてイエス様を信じて天国へ召されると、彼女は自分の生涯を主にささげ、ありとあらゆることをされました。礼拝では奏楽のご奉仕をし、週報を作成したり牧師の説教をまとめたりと、自分にできるだけのことをしました。そのために70歳を過ぎてからワープロを習い始めたそうです。その半谷さんに癌があることが判明し、牧師からあまり無理しないでくださいと言われたとき、牧師にこう言いました。「先生、私から奉仕を取り上げないでください。私は自分にできるだけのことをしたいのです」。これは、神の恵みを経験した人でないと言えないことばです。奉仕をしなければならないのでなく、させていただきたいのですと心から言えるとしたら、それは本物でしょう。彼女の心に働いておられる神の霊、聖霊の御業なのです。
その半谷さんがまだお元気なうち、彼女は教会から少し離れた小高町という町に広い土地を持っていたのですが、それを教会に献げたいと言われたそうです。息子さんたちはどう思われるか、家族で話し合いをもったところ、「母がそういうのなら、それが一番いいことだと思います」と息子さんたちも同意し、その土地を献げられました。そればかりか、そこに会堂を建てるために必要な資金のほとんどを献げたのです。そこには今ノアの箱舟の形をした会堂が立てられ、福音宣教の働きが続けられています。それは永遠の神の愛に感動し心を動かされた人が心からした奉仕だったのです。
実に神の働きは、こうした神の愛と恵みに触れた人たちがその愛に感動し、聖霊の働きに促されて勧められていくのです。神にすべてを献げたい。いくらでも献げられるだけ献げたい。それで自分の生活の質が落ちたとしても構わない。あなたの愛を受けているので、私は献げたいのです。人が何と言おうと関係ありません。私はそうしたいからするのです。それが教会というところです。聖霊が私たちの心に住むことをイエス様が実現してくださいました。私たちはただただこの新しい契約の仲介者であられるイエス様に目を向けて、イエス様の愛に心から応答する者でありたいと思うのです。
Ⅲ.神を知るようになる(34)
第三に、このように主がイスラエルと新しい契約を結んでくださることによって、どういうことが起こるのでしょうか。34節をご覧ください。「彼らはもはや、それぞれ隣人に、あるいはそれぞれ兄弟に、『【主】を知れ』と言って教えることはない。彼らがみな、身分の低い者から高い者まで、わたしを知るようになるからだ──【主】のことば──。わたしが彼らの不義を赦し、もはや彼らの罪を思い起こさないからだ。」。」
ここには、主がイスラエルと新しい契約を結ぶことによって二つのことが起こるとあります。第一のことは、彼らはもはや、それぞれ隣人に、あるいはそれぞれ兄弟に、「主を知れ」と言って教えることはありません。なぜなら、彼らはみな聖霊によって、身分の低い者から高い者まで、主を知るようになるからです。どういうことですか。老若男女、すべて神を個人的に人格的に知るようになるということです。それまではそうではありませんでした。石の板に書かれたものであれば、絶えず「主を知れ」と言って互いに教えなければなりません。私たちの外側にある規則によって半強制的に押し付けられなければ行動に移すことができなかったのです。たとえ行動に移したとしても、それはあくまでも表面的なものにすぎませんでした。でも聖霊が与えられ、聖霊が心に住まわれるようになるとそうではありません。喜んで主のことばに従いたいと思うようになるのです。旧約では人々は律法を守ることに集中しましたが、新約ではそうではありません。新約ではその律法を与えてくださった方、またそれを完全に成し遂げることができるお方、すなわち神を知ること、神と交わることに集中するのです。皆さん、これがクリスチャンにとってもっとも大切なことです。神を知るなら、それが自然と行動に表れるようになるからです。
第二のことは、主は彼らの不義を赦し、もはや罪を思い起こすことはなさいません。完全な赦しを与えるということです。完全な赦しを与えるということは、不完全な赦しもあるということです。不完全な赦しとは忘れない赦しです。赦すけど忘れません。私たちにはそういうことがあるのではないでしょうか。私はあなたを赦すけど忘れないからね!でも神の赦しは違います。神は彼らの罪を赦し、もはや彼らの罪を二度と思い起こすことはありません。あなたが過去においてどんな罪を犯したとしても、その罪を思い起こすことはないのです。すべて忘れてくださいます。認知症だからではありません。イエス・キリストの血潮によって流されて、父の記憶からすべて完全に消し去ってくださるのです。イザヤ43章25節にある通りです。「わたし、このわたしは、わたし自身のためにあなたの背きの罪をぬぐい去り、もうあなたの罪を思い出さない。」
ですから、もしあなたがイエスの血にすがって罪を認めて悔い改めるなら、神はあなたの不義を赦し、すべての悪からきよめてくださいます。もはやあなたの罪を思い起こすことはありません。その記憶から完全に消し去ってくださってくださるのです。もし悔い改めた翌日に同じ罪を犯してしまったらどうでしょう。その時にあなたが「ごめんなさい。またやってしまいました。赦してください。」と祈ったら、神は赦してくださいます。「またやったのか、とんでもないヤツだ。人生そんなに甘いもんじゃないよ。昨日は赦してやったけど、今日はだめだ。二度あることは三度あるからな」などとは言いません。もはやあなたの罪を思い起こすことはないからです。
カール・ヒルティーは、こう言っています。「赦すとは忘れることである。赦しはするが忘れないというのは、赦していないということなのである。」は赦すとは忘れることなのです。これが神の赦しです。神はこのような赦しを与えてくださるのです。
日本の有名な牧師の一人で、「ちいろば」の著者でもある榎本保朗先生はこう言っておられます。「自分が赦された存在であるということを忘れるところから、人を赦さないという行為が出てくるのである。」これを忘れてはいけません。忘れてもいいことは、人があなたに何をしたか、何を言ったかということです。でも忘れてはならないことは、自分が赦された存在であるということです。これだけは忘れてはいけません。これを忘れると私たちの中に赦さないとか、赦せないという気持ちが出てくるからです。でも、自分も赦された存在であるということがわかったら、人を赦すことができるようになります。
こうした赦しはキリストの十字架によってもたらされます。つまり、この新しい契約は、イエスが十字架で死なれ三日目によみがえられたという御業に基づく一方的な神の恵みの契約であるということです。私たちの罪が赦されるのは私たちのうちに神に認められる何かがあるからではありません。私たちが何かささげものをしたからとか、一生懸命に奉仕したからではなく、一方的な神の恵み、神のあわれみによるのです。すべては十字架のイエスに対して神様が約束されたことを実行してくださるのです。これが、神がイスラエルと約束された新しい契約です。これが、神があなたと約束してくださったことです。私たちもイエスの十字架において与えられたこの新しい契約に生きる者とさせていただきましょう。そして聖霊によって神がどれほど恵み深くあわれみ深い方なのかを知り、その恵みに生きる者でありたいと思います。

あなたのたましいを満たす神 エレミヤ書31章23~30節 

聖書箇所:エレミヤ書31章23~30節(エレミヤ書講解説教58回目)
タイトル:「あなたのたましいを満たす神」
エレミヤ書31章から学んでいますが、きょうは、この31章23~30節から、「あなたのたましいを満たす神」というテーマでお話します。25節に「わたしが疲れたたましいを潤し、すべてしぼんだたましいを満ち足らせるからだ。」とあります。前回の箇所で、主はご自身のもとに立ち返るイスラエルの民に一つの新しいことを創造されると約束されました。それは何ですか。それは22節にあるように、「女の優しさが一人の勇士を包む」ようになるということです。これは女であるイスラエルが、一人の勇士である主を求めるようになるということでした。それまではまったく自分のことしか考えられなかった者が、神を求めるようになるのですから。そんなイスラエルを神は祝福してくださいます。主が疲れたたましいを潤し、すべてのしぼんだたましいを満ち足らせてくださるからです。あなたのたましいはいかがですか。疲れていませんか。しぼんでいませんか。主はそんなあなたのたましいを満ち足らせてくださるのです。
Ⅰ.わたしが彼らを元どおりにする(23-26)
まず、23~26節をご覧ください。「23 イスラエルの神、万軍の【主】はこう言われる。「わたしが彼らを元どおりにするとき、彼らは再び次のことばを、ユダの地とその町々で語る。『義の住まい、聖なる山よ、【主】があなたを祝福されるように。』24 ユダとそのすべての町の者はそこに住み、農夫たちも、群れを連れて回る者たちも一緒に住む。25 わたしが疲れたたましいを潤し、すべてのしぼんだたましいを満ち足らせるからだ。」26 ここで、私は目覚めて、見回した。私の眠りは心地よかった。」
ここからユダ、イスラエルに対する回復のメッセージが語られます。「わたしが彼らを元どおりにするとき」とは、バビロンによって破壊されたユダの町々を元通りにする、ということです。そのとき、ユダの町々は主によって回復し、復興し、再び繁栄を取り戻すことになります。そのとき彼らはユダの地とその町々で、次のように語ることになります。「義の住まい、聖なる山よ、主があなたを祝福されるように。」。
「義の住まい」とは、具体的にはエルサレムの神殿のことです。また、「聖なる山」とは、シオンの山のこと、つまり、エルサレムのことです。ですから、この「義の住まい」と「聖なる山」という語は同義語で使われているわけです。かつてエルサレムには神殿が建っていましたが、バビロンの王ネブカドネツァルによって前586年に完全に破壊されてしまいました。それが元どおりになるというのです。具体的には、70年の捕囚の期間を経て南ユダは祖国を取り戻し、復興するということです。神殿も再建されます。それは預言者エレミヤによって預言されていたことでした。つまり、神の預言は必ず成就するということです。
24節をご覧ください。「ユダとそのすべての町の者はそこに住み、農夫たちも、群れを連れて回る者たちも一緒に住む」。エルサレムに帰還し元通りの生活を営むようになるということです。いったいどうしてそのようなことになるのでしょうか。
25節にこうあります。「わたしが疲れたたましいを潤し、すべてのしぼんだたましいを満ち足らせるからだ。」それは帰還民が頑張ったからではありません。ここにはひらがなで「わたしが」とありますが、聖書にひらがなで「わたし」とある時は、主なる神のことを指して言われています。つまり、主が彼らの疲れたたましいを潤し、すべてのしぼんだたましいを満ち足らせてくださるからです。あくまでも、主語は「わたし」なのです。この主語が大切です。誰が回復を与えてくださるのかというと、「わたし」であるということ、「主」であるということです。これは23節でも言われていることです。「イスラエルの神、万軍の主はこう言われる。「わたしが彼らを元どおりにするとき・・」。イスラエルの神、万軍の主が彼らを元通りにしてくださいます。勿論、ユダの民も頑張ったでしょう。あの3.11の後で「ガンバレ!東北」を合言葉に震災復興に取り組んだように、「ガンバレ!イスラエル」を合言葉に、必死に復興に取り組んだことでしょう。でも、彼らの頑張りだけではどうすることもできませんでした。「わたしが彼らを元どおりにするとき」とあるように、そこに主が働いてくださったから、主がそれを成し遂げてくださったので出来たのです。私たちの働きではなく、徹頭徹尾、主の働きによるのです。自分の罪の結果、自分の人生、自分の家庭、自分の持ち物、自分の何もかもすべて失ってしまった、台無しにしてしまったという人がいるなら、ここから慰めを受けてほしいと思います。自分でその失ったものを取り戻そうものなら、自分でその壊れたものを修復しようものならとても無理だと諦めるしかないでしょう。でも、神があなたを元どおりにしてくださいます。神があなたの繁栄を取り戻してくださるのです。ここに希望があります。彼らの回復は神主導であったということです。そのことを忘れないでください。あなた主導ではありません。わたし主導でもない。神主導なのです。神主導ならば、神が成し遂げてくださいます。私たちはただ神に任せればいいのです。神にはおできにならないことは一つもありません。無から有を創造された方は、あなたが失ったものを元どおりにすることができるのです。
ヨブはまさにそうでした。彼はすべてのものを失いました。自分の家族、財産、健康、何もかも。それは彼の罪によってではなく、神から与えられた試練によってでしたが、後に彼はその目で神を見たとき、ちりと灰の中で悔い改めました。すると主はヨブを元どおりにされました。主はヨブの財産をすべて、二倍にされたのです。その時、ヨブはこのように祈りました。「あなたには、すべてのことができること、どのような計画も不可能ではないことを、私は知りました。」(ヨブ42:2)
そうです、神にはどんなことでもおできになります。どのような計画も不可能ではありません。だから神は、あなたが失ったものを元どおりにすることができるのです。
特に25節には、「わたしが疲れたたましいを潤し、すべてのしぼんだたましいを満ち足らせる」とあります。神だけが、あなたのたましいを潤すことができます。神だけが、あなたのしぼんだたましいを満たすことができるのです。この世の何であろうと、また誰であろうと、あなたのたましいを完全に潤すことができるものはありません。ただ神だけが満たすことができるのです。
ヨハネ4章13~14節にこうあります。「この水を飲む人はみな、また渇きます。しかし、わたしが与える水を飲む人は、いつまでも決して渇くことがありません。わたしが与える水は、その人の内で泉となり、永遠のいのちへの水が湧き出ます。」これはイエスのことばです。イエスはある日サマリヤのスカルという所で、たましいに飢え渇いた、一人の女の人に出会いました。その女の人はかつて人生の幸せを求め5回も結婚しましたが、その心は満足を得ることはできませんでした。しかし、泉のほとりでイエスに出会い、イエスと話し合い、イエスを信じたとき、飢え渇いたたましいを、いのちの水で満たしていただくことができました。イエス・キリストはたましいを満たすことができるお方なのです。イエス・キリストだけが、あなたの疲れたたましいを潤し、疲弊しきったしぼんだたましいを満ち足らせることができるのです。だからイエスは、このように言われたのです。「すべて疲れた人、重荷を負っている人はわたしのもとに来なさい。わたしがあなたがたを休ませてあげます。」(マタイ11:28)
皆さん、遠慮する必要はありません。あなたのたましいを完全に満たすことができるイエスが、あなたを招いておられるのです。「すべて疲れた人、重荷を負っている人はわたしのもとに来なさい。」と。「わたしがあなたを休ませてあげます」と。いや、私のような者はとても無理です。あなたの前には出られるような者ではありません。だって私はこんな者ですから・・・。過去にこんなことをやったんですよ。そんな者が赦されるはずがないじゃないですか・・。でも、あなたが疲れていると自覚しているなら、あなたが病んでいると自覚しているなら、イエスのもとに行ってください。イエスがあなたを休ませてくださいますから。なぜなら、イエスはまさにそのような人のために来られたのですから。イエスはこう言われました。「医者を必要とするのは、丈夫な人ではなく病人です。わたしが来たのは、正しい人を招くためではなく、罪人を招くためです。」(マルコ2:17)
 丈夫な者に医者はいりません。医者を必要とするのは丈夫な者ではなく罪人です。イエスは、その罪人のために来られたのです。もしあなたが罪人であると自覚しているなら、もしあなたが自分は病んでいると自覚しているなら、もしあなたが疲れていると自覚しているなら、イエスのもとに来てください。イエスがあなたを休ませてあげます。イエスがあなたのたましいを潤し、あなたのしぼんだたましいを満ち足らせてくださいます。あなたのたましいを潤すことができるのは、あなたのたましいの救い主、イエス・キリストだけなのです。
ユダの民は、バビロン捕囚によってすべてを失ってしまいました。親も、子も、孫も、財産も、国も、すべてです。でも一つだけ失わないものがありました。何ですか?そうです、神です。彼らは神だけは失いませんでした。神を失うと希望はありません。でも、すべてを失っても神を失わなければ希望があります。そしてあなたが神を信じるなら、あなたは神を失うことは決してありません。どんなことがあっても、神はあなたを見捨てることはないからです。いつまでもあなたと共にいてくださいます。それが、聖書が約束していることです。だからあなたには希望があるのです。あなたが本当に神を信じているなら、あなたがイエス・キリストを信じて救われているなら、あなたがクリスチャンなら、神はいつまでもあなたとともにいてくださいます。これが私たちの希望です。
26節をご覧ください。「ここで、私は目覚めて、見回した。私の眠りは心地よかった。」「私」とはエレミヤのことです。ここでエレミヤは目を覚ましました。彼は夢の中で神から啓示を受けていたのです。それは心地よかったとあります。なぜそんなに心地よかったのでしょうか?ぐっすり眠ることができたということもあるでしょうが、それよりも、今回の啓示は祝福のメッセージだったからです。これまではずっとイスラエルに対してさばきのメッセージばかりだったのに、今回は祝福のメッセージでした。さばきのメッセージを語ることはタフなことですが、祝福のメッセージを語ることは心地よいことです。エレミヤはユダの民イスラエルに対して、主が彼らを元どおりにするという祝福のメッセージを語ったのです。
Ⅱ.今度は、彼らを立て直し、また植える(27-28)
次に、27~28節をご覧ください。「27 「見よ、その時代が来る──【主】のことば──。そのとき、わたしはイスラエルの家とユダの家に、人の種と家畜の種を蒔く。28 かつてわたしが、引き抜き、打ち倒し、打ち壊し、滅ぼし、わざわいを下そうと彼らを見張っていたように、今度は、彼らを建て直し、また植えるために見張る──【主】のことば──。」
ここからは、エレミヤが目を覚ましてから語った預言です。「見よ、その時代が来る」。これは世の終わりに起こることを示す特徴的なことばです。それは、イエス・キリストが王の王、主の主、さばき主として再びこの世に来られる時のことです。そのとき、主はイスラエルの家とユダの家に何をなさいますか。そのとき、主はイスラエルの家とユダの家に、人の種と家畜の種を蒔かれます。どういうことでしょうか?
28節には、「かつてわたしが、引き抜き、打ち倒し、打ち壊し、滅ぼし、わざわいを下そうと彼らを見張っていたように、今度は、彼らを建て直し、また植えるために見張る」とあります。「かつて」とは、以前にとか、過去においてという意味です。かつて主はイスラエルの民を引き抜き、打ち倒し、打ち壊し、滅ぼし、わざわいをくだそうと見張っておられましたが、今度は違います。今度は彼らを立て直し、また植えるために見張られます。それはアッシリアとバビロン捕囚によって成就しましたが、今度は、そんな彼らを立て直し、また植えるために見張られるのです。覚えていますか、エレミヤが召命を受けた時、主は、「引き抜き、引き倒し、滅ぼし、建て、また植えるために」(1:10)と言われましたが、主がイスラエルに計画しておられたことは引き抜き、引き倒し、滅ぼすことだけでなく、立て直し、再び植えることであったのです。つまり、彼らが引き抜かれたのは、これは具体的にはバビロンに捕囚のことですが、バビロンによって彼らを滅ぼすためではなく、そこから彼らを解放してエルサレムに帰還させるため、すなわち、新たに植えるためであったのです。それと同じようなことが世の終わりにも起こります。キリストが再び来られる時、彼らは建て直されることになるのです。
それは遠い未来のことではありません。というのは、もう既に1948年5月14日にイスラエルが国家として認められたからです。1900年もの間流浪の民として世界中に散らされていたユダヤ人が祖国に帰還し、建国を果たしたのです。それは全く考えられない出来事でしたが、その考えられないことが実際に起こったのです。どうしてそのようなことが起こるのでしょうか。それはここにそうなると預言されていたからです。イスラエルの家とユダの家は、建て直され、また植えられると。
でも、この預言はイスラエルが国として建て直されるということだけでなく、さらにその後に起こることも示しています。すなわち、キリストが再臨する時、彼らの先祖がやりで突き刺したキリストを自分たちがメシヤとして認め、悔い改めて信じるようになるということです。こうしてイスラエルはみな救われるという聖書の預言が実現することになります。それがローマ人への手紙11章で言われていることです(11:26)。近い将来、その日が必ずやって来ます。
であれば、私たちはそれに備えていなければなりません。それに備えるとはどういうことかというと、ここに「今度は、彼らを立て直し、また植えるために見張る」とあるように、たとえ今あなたの人生が引き抜かれ、打ち倒され、打ち壊されているようであっても、神は再び建て直し、また植えてくださると信じて、ただ神のみこころを求めて歩まなければならないということです。
Ⅲ.だれでも、酸いぶどうを食べる者は歯が浮く(29)
最後に29~30節をご覧ください。その日には、イスラエルの家が建て直され、植えられるだけではありません。だれでも、酸いぶどうを食べる者は歯が浮く、と言うようになります。「29 その日には、彼らはもはや、『父が酸いぶどうを食べると、子どもの歯が浮く』とは言わない。30 人はそれぞれ自分の咎のゆえに死ぬ。だれでも、酸いぶどうを食べる者は歯が浮くのだ。」
ここにも「その日には」とあります。これも未来的預言です。その日にはどんなことが起こるのでしょうか。「その日には、彼らはもはや、『父が酸いぶどうを食べると、子どもの歯が浮く』とは言わない。」どういうことでしょうか?これは当時よく使われていた格言、ことわざです。エゼキエル書18章2~4節にもありますが、父が(親が)犯した罪のために、子どもが苦しむ、という意味のことわざです。日本のことわざにも「親の因果が子に報い」ということばがありますが、これと同じです。たとえば、自分が何らかのわざわいを受けるとき、自分は何も悪いことをしていないのにどうしてこういうことになるのかと原因を究明して、それを親のせいにするのです。親が悪いからこんなことになったんだと。これは実際、捕囚の民として連れて行かれたユダの民が使っていました。彼らは自分たちが捕囚になったのは先祖たちのせいだと嘆いていまたのです。自分たちが悪いんじゃない。悪いのは親たちで、親のせいでこんな目に遭っているんだと。確かにそういう面もありますが、でも子どもたち自身も罪を犯しているというのも事実でした。
でもその日には、「父が酸いぶどうを食べると、子どもの歯が浮く」とは言わないで、こう言うようになります。「人はそれぞれ自分の咎のゆえに死ぬ。だれでも、酸いぶどうを食べる者は歯が浮くのだ。」と。これは申命記24章16節で言われていることです。「父が子のために殺されてはならない。子が父のために殺されてはならない。人が殺されるのは自分の罪過のゆえでなければならない。」父が子のために殺されたり、子が父のために殺されたりということがあってはなりません。人が殺されるのは自分の罪のためであって、父親や子供の犯した罪のためではないからです。
これは世代間における罪の報いは存在しないということを示しています。日本人ではこのような考えが根強くあります。先祖代々いろいろな汚れを背負って来ているからたたりがあるんだからと、何かお清めをしないといけない。御祈祷もしてもらわないと。お祓いをしなければならない。そう考えるのです。これが人間の作った宗教です。そのような人間のことわざや考えに付け込んで、人間がそれをビジネスにするのです。それが宗教です。それがほとんどの日本の古来の宗教や新興宗教に見られるものです。ここでは親と子の連帯責任が問われていますが、親子間において連帯責任はありません。ですから、クリスチャンはこのことをちゃんと理解しておく必要があります。確かに親の悪い影響を子どもが受けることはありますが、でも必ずしもそれによって子どもの歯が浮くわけではありません。子どもが不幸になるということはないのです。子どもには子どもの人格なり意志というものがあるので、悪い影響を受け入れるかどうかは、子ども自身が決めなければならないことなのです。ですから、父が酸いぶどうを食べると、子どもの歯が浮くことはありません。人はそれぞれ自分の咎のゆえに死ぬのです。だれでも、酸いぶどうを食べる者は歯が浮くのです。
それはイエス様が言われたことでもあります。イエス様が通りすがりに生まれたときから目の見えない人をご覧になったとき、弟子たちはイエス様に尋ねました。この人が盲目で生まれたのは、だれが罪を犯したからですか。この人ですか。それともこの人の両親ですか。するとイエス様はこう言われました。「この人が罪を犯したのでもなく、両親でもありません。この人に神のわざが現れるためです。」(ヨハネ9:3)そして地面に唾をして、その唾で泥を作られその泥を彼の目に塗って、「シロアムの池で洗いなさい。」と言われました。すると彼見えるようになりました。
であれば、問題は、その自分の咎をどのように清めるのかということです。というのは、だれも完全な人などいないわけで、人はみな自分の咎を負って生きているからです。だれでも、酸いぶどうを食べるので、歯が浮くことになります。歯が浮くというのは入れ歯だからじゃないのです。罪を犯すからなのです。人はそれぞれその咎のため死ななければなりません。どんなに自分で清めようとしてもできません。どうしたらいいのでしょうか。
ここに救いがあります。神はそんな私たちの咎を負うために、御子をこの世に送ってくださいました。それがイエス・キリストです。キリストはあなたが担い切れない罪、払いきれない贖いの代価として、十字架で死んでくださいました。それは御子を信じる者が一人も滅びることなく、永遠のいのちを持つためです。ヨハネ3章16~18節にこうあります。「16 神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに世を愛された。それは御子を信じる者が、一人として滅びることなく、永遠のいのちを持つためである。17 神が御子を世に遣わされたのは、世をさばくためではなく、御子によって世が救われるためである。18 御子を信じる者はさばかれない。信じない者はすでにさばかれている。神のひとり子の名を信じなかったからである。」(ヨハネ3:16~18)
ですから、あなたが御子イエスを信じるなら、あなたのすべての罪は赦されるのです。イザヤ書45章25節に「わたし、このわたしは、わたし自身のためにあなたの背きの罪をぬぐい去り、もうあなたの罪を思い出さない。」とありますが、あなたの罪はもう二度と思い出されることはありません。これが良い知らせ、これが福音です。その日には、彼らはもはや、父が酸いぶどうを食べると、子どもの歯は浮くとは言いません。人はそれぞれ自分の咎のために死にます。でも、イエス・キリストを信じるなら、あなたの罪を贖うために十字架で死なれたキリストを見上げるなら、あなたは死ぬことはありません。神が御子を世に遣わされたのは、世をさばくためではなく、御子によって世が救われるためだからです。
イギリスに、チャールズ・H・スポルジョンという牧師、伝道者がいました。彼は1834年生まれですから、今から190年も前の人です。200年近く昔の人なのに今も生きて語りかける偉大なキリスト教の伝道者です。
 彼は15歳の時に信仰に入り、20歳の時にはロンドンでも有数な教会、ニューパーク・ストリート教会の牧師になり、40年近く牧会して1万3千人の大教会となりました。毎年平均438人が新しくクリスチャンとなったと言われています。そして今でも彼の著した著書によって数千、数万、何百万という人々が救われているという人です。彼が救われたということは世界的に大きなことでした。
 彼は吹雪きの日、家の近くの10人か15人ぐらいが集まっている小さな教会に行きました。痩せ型の牧師が立ち上がって説教しました。スポルジョン一人に呼び掛けるように、「地の果てのすべての者よ。わたしを仰ぎ見て救われよ。わたしが神である。ほかにはいない。」(イザヤ45:22)「Look! Look! Look! 」と叫びました。スポルジョンは彼に向かってストレートに呼び掛けるこの声を活ける神の声として受け止め、パチッと目を開けて十字架上のイエス・キリストに心の目を開けたのです。その日彼は救われました。そして彼を通して数限りのない人々が救いに導かれるようになったのです。
あなたも十字架のキリストに心の目を開いてください。イエス・キリストは、あなたを罪から救うことができるお方です。この方以外には、だれによっても救いはありません。天の下でこの御名のほかには、私たちが救われるべき名は与えられていないからです。「地の果てのすべての者よ。わたしを仰ぎ見て救われよ。」イエス・キリストを仰ぎ見てください。イエス・キリストは、あなたをすべての罪から救ってくださいます。「その日には」とありますが、今がその時なのです。

あなたの将来には望みがある エレミヤ書31章15~22節


聖書箇所:エレミヤ書31章15~22節(エレミヤ書講解説教57回目)
タイトル:「あなたの将来には望みがある」
エレミヤ書31章から学んでいます。29書から31章にかけてはエレミヤ書の中心部です。31章1節には「そのとき」とありますが、これは近い未来に起こることとしてはバビロン捕囚から解放される時のこと、遠い未来においては、世の終わりの患難時代を通り抜けたイスラエルの民が、再臨のキリストを見て悔い改め彼こそ自分たちのメシヤ、救い主であると信じる時のことです。そのとき何が起こるのでしょうか。「そのときー主のことばーわたしはイスラエルのすべての部族の神となり、彼らはわたしの民となる。」という神の約束が実現することになります。その約束が実現するのです。
Ⅰ.あなたの目の涙を止めよ(15-17)
まず、15~17節をご覧ください。「15 【主】はこう言われる。「ラマで声が聞こえる。嘆きとむせび泣きが。ラケルが泣いている。その子らのゆえに。慰めを拒んでいる。その子らのゆえに。子らがもういないからだ。」16 【主】はこう言われる。「あなたの泣く声、あなたの目の涙を止めよ。あなたの労苦には報いがあるからだ。──【主】のことば──彼らは敵の地から帰って来る。17 あなたの将来には望みがある。──【主】のことば──あなたの子らは自分の土地に帰って来る。」
15節には「ラマ」という地名と、「ラケル」という人名があります。「ラマ」はエルサレムの北方8㎞にある町です。「ラケル」は、ヤコブの最愛の妻でした。このラケルにはヤコブとの間に二人の息子がいました。ヨセフとベニヤミンです。しかし、下の弟ベニヤミンが生まれた時、ラケルは死んでしまいました。息子を産むと同時に死んでしまったのです。そのラケルが葬られた所が「ラマ」でした。それはあまりにも悲しいことでした。せっかく命をかけて産んだのに、産んだとたんに死んでしまったのですから。ここにはその悲しみが表現されているのです。そのような悲しみがバビロン捕囚の時にも起こるということです。
興味深いことに、この箇所はマタイ2章17~18節に引用されています。「17そのとき、預言者エレミヤを通して語られたことが成就した。18 「ラマで声が聞こえる。むせび泣きと嘆きが。ラケルが泣いている。その子らのゆえに。慰めを拒んでいる。子らがもういないからだ。」」
このエレミヤを通して語られたことというのが、この31章15節のことばです。このマタイの福音書の前後の文脈を読んでいただくとわかりますが、これはメシヤについての預言が成就したことを表しています。キリストが生まれた時、それがユダヤの王として来られたと聞いたヘロデ大王はキリストを殺し損ねたので、ベツレヘム周辺の2歳以下の男の子を皆殺しにしました。バビロン捕囚の時に嘆き悲しんだ母親たちの嘆きが、ヘロデ大王によって皆殺しにされた母親たちの悲しみによって成就したということです。ですから、これは一読しただけですとバビロン捕囚の嘆き悲しみが語られているかのようですが、実はメシヤ預言について語られている深い箇所なのです。それは何を示しているのかというと、こうした悲しい出来事の先にキリストが生まれたということです。悲しみの先に希望があるということです。確かに悲しみは避け通れません。でもその悲しみの向こうに希望があるということがわかっていたらどうでしょうか。その悲しみを乗り越えることが出来ます。確かにバビロン捕囚は悲しい出来事ですが、その70年後に彼らは祖国に帰ることができるのです。それはイスラエルの民にとって大きな希望だったのです。それはイスラエルの民だけのことではありません。私たちクリスチャンにとっても同じです。私たちはイエス・キリストを信じたことで、この世というバビロンから解放されて天の御国に帰るのです。それこそ真の希望です。これほどすばらしい希望はありません。であれば私たちは、この世では悲しい出来事があっても、その先にある希望に目を留めることによって、喜びと感謝をもってこの地上の旅路を全うすることができるのです。
だから主はこう言われるのです。16節と17節をご覧ください。「あなたの目の涙を止めよ」と。「16 【主】はこう言われる。「あなたの泣く声、あなたの目の涙を止めよ。あなたの労苦には報いがあるからだ。─【主】のことば─彼らは敵の地から帰って来る。17 あなたの将来には望みがある。─【主】のことば─あなたの子らは自分の土地に帰って来る。」
あなたの目の涙を止めなければなりません。どんなに辛いことがあっても、どんなに悲しいことがあっても、あなたの将来には望みがあるからです。敵の地から帰って来るようになります。あなたの子らは自分の土地に帰って来るのです。確かに彼らは罪を犯したことでその刈り取りをしなければなりませんが、その労苦は報われることになります。その「労苦」とはバビロン捕囚のことを指しています。それは報われることになるのです。あなたの将来には希望があるのです。
この希望については、既に29章11節で語られました。「わたし自身、あなたがたのために立てている計画をよく知っている─【主】のことば─。それはわざわいではなく平安を与える計画であり、あなたがたに将来と希望を与えるためのものだ。」
神はあなたのために計画を立てておられます。それはわざわいではなく平安を与える計画であり、将来と希望を与えるためのものです。この「将来と希望」ということばは、最後は希望だということだと説明しました。最後は希望なんです。私たちの人生にはいろいろなことがあるでしょうが、最後は希望なのです。終わり良ければすべて良し!です。それが、神が私たちのために立てている計画です。ですから、たとえ今どんなに辛くても、どんなに苦しくても、どんなに時間がかかっても、最後は希望なんだという神様の約束を信じて、あなたの目の涙を止めなければならないのです。
Ⅱ.エフライムは、わたしの大切な子(18-20)
いったいなぜ神はあなたの将来にこのような希望を与えてくださるのでしょうか。それは、あなたをこよなく愛しておられるからです。18~20節をご覧ください。「18 わたしは、エフライムが悲しみ嘆くのを確かに聞いた。『あなたが私を懲らしめて、私は、くびきに慣れない子牛のように懲らしめを受けました。私を帰らせてください。そうすれば、帰ります。【主】よ、あなたは私の神だからです。19 私は立ち去った後で悔い、悟った後で、ももを打ちました。恥を見て、辱めさえ受けました。若いころの恥辱を私は負っているのです』と。20 エフライムは、わたしの大切な子、喜びの子なのか。わたしは彼を責めるたびに、ますます彼のことを思い起こすようになる。それゆえ、わたしのはらわたは彼のためにわななき、わたしは彼をあわれまずにはいられない。──【主】のことば─」
ここには、主はエフライムが悲しみ嘆くのを確かに聞いた、とあります。エフライムとは北イスラエルのこと、総じてイスラエル全体のことを指すようになりました。主はイスラエルが嘆き悲しむのを聞きました。これは自己憐憫の嘆きでありません。悔い改めの嘆きです。ルカの福音書に放蕩息子の話がありますが、彼が父のところに行って「お父さん、私は天に対して罪を犯し、あなたの前に罪ある者です。もう、息子と呼ばれる資格はありません。雇人の一人にしてください。」(ルカ15:18-19)と悔い改めように、イスラエルもまた自分の罪を嘆き悔い改めているのです。主はそのような悔い改めの嘆きを聞き逃すことはありません。必ず聞いてくださいます。あなたがひとたび悔い改めて嘆き悲しむなら、神様は確かに聞いてくださるのです。
18節をご覧ください。ここには「私を帰らせてください。そうすれば、帰ります。」とあります。これはどういうことかというと、私たちは自分の力では神のもとに帰れないということです。自分の力では悔い改めることはできないのです。悔い改めは神の賜物であり、神の御業です。私たちは自分の意志で悔い改めますが、それさえも実は悔い改めるようにと神が促してくださるから出来ただけのことであって、自分の力ですることはできません。私たちの中には悔い改める気持ちなんてサラサラないからです。それが私たち人間です。エレミヤ17章9節のことばを覚えていらっしゃいますか。「人の心は何よりもねじ曲がっている。それは癒しがたい。」皆さん、人の心は何よりも陰険なのです。それは直りません。パウロはローマ人への手紙7章で、私たちの心には善は住んでいないと言っています。自分では良いことをしたいという願いがあるのに、したいと願う善を行わないでしたくない悪を行ってしまうからです。これは正直な告白ではないでしょうか。私たちの内には善が住んでいないのです。だから、悔い改める気持ちなんて微塵もないのです。それほどねじ曲がっています。もうどうしようもない、救いようがありません。でも神は、そんな私たちに悔い改めの心を起こしてくださいます。これは実に神の御業でしかないのです。
いったい私たちはなぜ悔い改めて神に立ち帰ることができるのでしょうか。18節の後半にこうあります。「主よ、あなたは私の神だからです。」ここに「私の神」ということばが使われています。これは神様と個人的な関係がなければ言えないことばです。神は私の神だから、私を帰らせてください。そうすれば、私はあなたのもとに帰ります。神は「私の神」です。あなたの神は誰ですか?聖書の神を「私の神」と、はっきり宣言することができるでしょうか?それほど親しい交わりをもっていらっしゃるでしょうか。聖書の神、イスラエルの神が私の神ですと、胸を張ってそう言えるかどうかが問われているのです。
19節をご覧ください。ここはすばらしい箇所です。神は私たちが悔い改めることができるように、「もも」を打たれます。ここに「私は立ち去った後で悔い、悟った後でももを打ちました」とあります。これは原語では、男性の性器を打ったという意味です。同じことばが創世記32章に出てきます。叔父ラバンの下で20年間仕えたヤコブは、自分の家、自分故郷に帰ることになりました。しかし、兄のエサウとの対面を前にして非常な不安と恐れに苛まれました。そこで彼はヤボクの渡しの所まで来たとき、そこで神と一晩中格闘しました。それは祈りの格闘をしたということです。ヤコブは言いました。「私を祝福してください。祝福してくださるまではあなたを去らせません。」それは執拗なまでの祈りでした。その結果彼は神に勝利して神の祝福を受けましたが、その代償にもものつがいを打たれ、足をひきずって歩くことを余儀なくされました。自分の力では歩けない状態になってしまったのです。それは人を出し抜いて、人を騙して生きるような性質が打ち砕かれたことを表していました。彼は自分の知恵や力では生きていくことはできない。神様に寄りすがって、神の支えがなければ一歩も進めないということを知ったのです。それで彼の名は「イスラエル」となりました。「イスラエル」とは神によって勝利する者、神の力、神の支えによって生きる者という意味です。ももを打たれるとはそういうことです。
しかし、これはとても痛いことです。それは男性の性器を打たれるような痛みです。男性が急所を打たれたらどうなるか、女性の皆さんにはわからないかもしれませんが、非常に痛いんです。聞いたところによると、それは陣痛よりも痛いそうです。「ちょっとためしてみますか」なんて言わないでください。悶絶すると思いますから。私は先週の日曜日にこれと似た経験をしました。痛いです。尿管結石は。何とか礼拝でのご奉仕をしてからと我慢していたのですが、あまりにも痛くて我慢することができませんでした。その痛みにのたうちまわりました。大橋富男は救急車とは無縁の男だと思っていらっしゃる方が多いかと思いますが、これは痛い。死ぬかと思うほどの痛みでした。まあ、私もももを打たれたわけですね。そういう一撃を受けました。そういう痛い思いをしたのです。でも確かにそれは痛いことですが、その痛みによって彼は自分の罪の悲しみ、嘆きを知ったのです。イエス様は山上の説教の中で「悲しむ者は幸いです」と言われましたが、まさに罪に悲しむ人は幸いです。その人は慰められるからです。
20節をご覧ください。ここには「エフライムは、わたしの大切な子、喜びの子なのか。わたしは彼を責めるたびに、ますます彼のことを思い起こすようになる。それゆえ、わたしのはらわたは彼のためにわななき、わたしは彼をあわれまずにはいられない。─【主】のことば─」とあります。
これもすばらしいことばです。これまでエレミヤは一貫として神の怒りと裁きを語って来ましたが、その時主はどのような思いでいらっしゃったのかが描かれています。主はイスラエルの罪を責めるたびに、ますます彼らのことを思い起こしたおられました。主は彼らを責めるたびに知らんぷりしていたのではありません。お前なんてもうどうなったっていい、勝ってにしやがれ!なんていう気持ちではありませんでした。ますます彼らのことを思い起こしておられたのです。神様の頭の中、心の中は、もう彼らのことで一杯だったのです。
「それゆえ、わたしのはらわたは彼のためにわななき、わたしは彼をあわれまずにはいられない。」これが、私たちの信じている神様です。これが私の神、これがあなたの神です。神は厳しい裁きを宣告されるかもしれませんが、その都度、神はあなたのことを思っておられるのです。ますます思い起こしてくださる。常に思っていてくださいます。それは「はらわたがわななくほど」だとあります。はらわたが煮えくりかえるのではありません。はらわたがわななくほどです。「断腸の思い」という言葉がありますが、まさに腸が引きちぎれるような思いをしておられるのです。ルターはこれを「彼のゆえに、私の心臓は破れる。」と訳しました。胸が張り裂けるような思いです。西欧では感情の座はお腹ではなく胸にあるという感覚を持っているので、心臓が張り裂けるような思いと訳したのです。でもはらわたがわななくような思いにせよ、心臓が張り裂けるような思いにせよ、言っていることは同じです。これが、神が私たちに感じておられる思いなのです。神が厳しいさばきを宣告する時、神はあなたのことを思って、もうはらわたがわななくような思い、引きちぎれるような思いになっておられるのです。もう死んでしまいたいと思うほど痛い思いをしているのです。もうあわれまずにはいられません。想像もつかないほどあなたのことを思っていらっしゃるのです。これが神の愛です。神はそれほどまでにあなたをあわれんでおられるのです。ですから、私たちはこの神のもとへ帰るべきです。「帰らせてください。そうすれば、帰ります。主よ。あなたは私の神だからです。」そう宣言して、神のもとに帰らせていただきましょう。
Ⅲ.一つの新しいことを創造される(21-22)
最後に、21~22節を見て終わります。「21 あなたは自分のために標識を立てて道しるべを置き、あなたが歩んだ道の大路に心を留めよ。おとめイスラエルよ、帰れ。これらの、あなたの町に帰れ。22 背信の娘よ、いつまで迷い歩くのか。【主】はこの地に、一つの新しいことを創造される。女の優しさが一人の勇士を包む。」」
ここには「標識」とか「道しるべ」を置くようにと言われています。なぜでしょうか?なぜなら、その道のりは長いからです。その道のりとは、バビロン捕囚からの帰還の道のりです。その道のりは長いので、どこから来たのかを忘れないために標識や道しるべを置かなければならないのです。その道のりを忘れてはいけません。彼らは必ず敵の地から帰ってくるようになるからです。だから、イスラエルよ、帰れ、と呼び掛けられています。いつまで彷徨っているんですか。あなたは自分の町に帰ることになるのです。
彼らが帰るとき、どんなことが起こるのでしょうか。22節をご覧ください。ここには、「主はこの地に、一つの新しいことを創造される。」とあります。主はその地に一つの新しいことを創造されます。この「創造する」ということばはヘブル語で「バーラー」と言いますが、これは、何もないところから何かを創造する時に使われることばです。たとえば、創世記1章1節には「はじめに、神が天と地を創造された。」とありますが、この「創造された」ということばが「バーラー」です。神は何もないところに天と地を創造されました。既にあるものに何かを使って作り直すということではありません。それは「アーサー」という別のヘブル語が使われます。でも、ここでは「アーサー」ではなく「バーラー」です。つまり、以前には全くなかったものを新しく創造するということです。それは何でしょうか。
22節の最後のことばを見てください。ここには「女の優しさが一人の勇士を包む」とあります。どういうことでしょうか。これは難解な箇所です。新改訳第3版では、「ひとりの女がひとりの男を抱こう」と訳しています。口語訳も「女が男を保護することである」と訳しています。新共同訳も同じです。「女が男を保護するであろう」です。
英語の訳もほとんど同じです。NIVは、「a woman will surround a man」、NKJVは「A woman shall encompass a man.」、TEVは「a woman protecting a man.」です。
英語でも守るとか、囲むとか、保護するという意味にとらえています。でも、ひとりの女がひとりの男を守る、とはどういうことなのか。
 新聖書注解書では、これは女であるイスラエルが、男であるヤハウェをやさしく愛して抱くようになることだと説明しています。女であるイスラエルが、男であるヤハウェをやさしく愛して抱くとはどういうことなのでしょうか。そこで古い注解者たちの中には、これは処女マリヤがその胎内に男の子を抱くということを意味していると考える学者もいますが、それは少し読み込みすぎだと思います。
この箇所を最も適切に訳していると思われるのは創造主訳聖書です。創造主訳聖書ではここを「イスラエルがわたしを求めるようになる」と訳しています。これは新しいことです。なぜなら、これまで反逆に反逆を重ねてきたイスラエルがまことの神を愛し、まことの神を求めるようになるのですから。それは彼らが新しく創造されなければできないことです。人の心は何よりも陰険だと申し上げましたが、神はそんなイスラエルを新しく造り変えてくださるとしたら、それこそ新しい創造です。主はこの地にそのようなすばらしい御業を成してくださるのです。

ダビデは詩篇51篇10節で「神よ、私にきよい心を造り、揺るがない霊を、私のうちに新しくしてください。」と言っていますが、まさにそのことです。それは人にはできないことです。でも神にはどんなことでもできます。神は何もないところから全く新しいものを造り出すことができる方であり、あなたの心を新しくすることがおできになるのです。神はあなたにきよい心を与え、揺るがない霊を、あなたのうちに新しくすることがおできになるのです。バカは死んでも直らないということわざがありますが、死ななくても直すことができます。神があなたを新しく造り変えることによって。あなたがイエス・キリストを信じるなら、あなたも新しく造り変えていただくことができるのです。
「ですから、だれでもキリストのうちにあるなら、その人は新しく造られた者です。古いものは過ぎ去って、見よ、すべてが新しくなりました。」(Ⅱコリント5:17)
私たちは、キリスト・イエスにあって新しく造られた者です。古いものは過ぎ去って、すべてが新しくなるのです。女の優しさが一人の勇士を包む、すなわち、私たちが神を愛し、神を慕い求める者、神によって勝利する者、イスラエルとして、神とともに歩むようになるのです。いや、無理です。これは親から引き継いだ性格だからどうしようもないんです。変わりようがありません。あなたはそう言われるかもしれませんが、神はそんなあなたの心さえも新しく造り変えることができるのです。主は創造主、この地に、一つの新しいことを創造することができるお方なのです。
ですから、この神を信じてください。神はあなたも新しく創造してくださいます。あなたが悔い改めて神に立ち返るなら、神はあなたが想像することもできないようなことをしてくださるのです。全く新しい人に作り変えてくださいます。神はあなたが願っている以上のことをしてくださるのです。そのことを信じて、今、神のもとに帰らせていただきましょう。あなたの将来には望みがあるからです。

主の恵みに満ち足りる エレミヤ書31章7~14節

聖書箇所:エレミヤ書31章7~14節(エレミヤ書講解説教56回目)
タイトル:「主の恵みに満ち足りる」
エレミヤ書31章から学んでいます。エレミヤ書30章、31章は、エレミヤ書の中心部、まさに心臓部にあたる箇所です。前回は、この31章1~6節のみことばから、「永遠の愛をもって、わたしはあなたを愛した」というテーマで学びました。今回は、その後の7~14節から、「主の恵みに満ち足りる」というテーマでお話します。13~14節にこうあります。「そのとき、若い女は踊って楽しみ、若い男も年寄りも、ともに楽しむ。「わたしは彼らの悲しみを喜びに変え、彼らの憂いを慰め、楽しませる。祭司のたましいを髄で潤す。わたしの民は、わたしの恵みに満ち足りる。─【主】のことば。」」
「そのとき」とは、バビロンに捕えられていたイスラエルの民が解放されるときのことです。そのとき、主は彼らを喜びと楽しみで満ち足らせてくださいます。これは二重の預言でもあります。近い未来に起こることとしてはバビロン捕囚からの解放のときですが、遠い未来における預言としては、世の終わりの7年間にわたる患難時代をイスラエルの民が生き残ったときのことです。そのとき、主は彼らの悲しみを喜びに変え、彼らの憂いを慰め、楽しませてくださり、主の恵みに満ち足らせてくださいます。
これは同時に、私たちクリスチャンに対する神の約束でもあります。バビロンはこの世を象徴していますが、クリスチャンはこの世というバビロンから解放され天の御国に行くとき、すべての苦しみから解き放たれ、悲しみを喜びに、憂いを慰め、楽しみに変えられ、主の恵みで満ち足りるようになるのです。
Ⅰ.エフライムはわたしの長子(7-9)
まず、7~9節をご覧ください。「7 まことに、【主】はこう言われる。「ヤコブのために喜び歌え。国々のかしらに向かって叫べ。告げ知らせよ、賛美して言え。『【主】よ、あなたの民を救ってください。イスラエルの残りの者を。』8 見よ。わたしは彼らを北の国から連れ出し、地の果てから彼らを集める。その中には、目の見えない者も足の萎えた者も、身ごもった女も臨月を迎えた女も、ともにいる。彼らは大集団をなして、ここに帰る。9 彼らは泣きながらやって来る。わたしは彼らを、慰めながら連れ戻る。わたしは彼らを、水の流れのほとりに、つまずくことのない平らな道に導く。まことに、わたしはイスラエルには父であり、エフライムはわたしの長子である。」」
ヤコブ、イスラエルに対する二重の預言が続いています。7節の「イスラエルの残りの者」とは、バビロンから帰還した残りの民のことです。また、遠い未来のことで言うなら、世の終わりの患難時代を生き抜いたイスラエルの民のことです。言い換えると、神に対して最後まで忠実であり続けた人たち、真の信仰者たちのことです。
8節には、主は彼らを北の国から連れ出し、地の果てから集めるとあります。北の国とはアッシリヤのことであり、バビロンのことです。また、新約聖書の時代で言うならローマのことです。あるいは、その後に起こる強大な諸国のことです。主はそこから彼らを集められるのです。それは今この時代にも起こっています。1800年代後半からシオニズムという運動が起こり、世界中に離散していたユダヤ人がイスラエルの地に集められています。1948年には正式にイスラエル共和国が建国されました。ここでは特にバビロンから集められることが言われています。
その中にはあらゆる人たちがいます。8節には「その中には、目の見えない者も足の萎えた者も、身ごもった女も臨月を迎えた女も」とありますが、これは盲人や足の不自由な人、妊婦や産婦のことですが、そういう移動が困難な人まで含まれています。そういう人たちも皆、何の差別もなく手厚い保護を受けて確実に帰って来るようになるのです。
9節には、「彼らは泣きながらやって来る」とあります。これは勿論、悲しみま涙ではありません。喜びの涙です。祖国に帰れることがうれしくて、うれしくて、喜びの涙を流さずにはいられないのです。主の慰めと、手厚い保護を受けながら。いったいどうして彼らはそのように祖国に帰還することができるのでしょうか。その理由が、9節にあります。「まことに、わたしはイスラエルには父であり、エフライムはわたしの長子である。」
どういうことでしょうか?1節には「わたしはイスラエルのすべての部族の神となり、彼らはわたしの民となる。」とありますが、ここではさらに一歩進んで、神と民の関係から父と子の関係として描かれています。つまり、彼らは神と特別な関係にあるということです。父と子という親密なレベルまで引き寄せられるのです。神は彼らの父であり、彼らは神の子どもです。そういう個人的な関係を持ってくださるのです。それは、エフライムが主の長子であるからです。どういうことですか?
「エフライム」とは、ヨセフの二人の子どもマナセとエフライムの内、弟のエフライムのことですが、このエフライムが後に北イスラエルを表すことばとなり、さらにイスラエル全体を指すようになりました。ですから、これはイスラエル主の長子であるという意味です。
でも、先程申し上げたように、マナセとエフライムではマナセが長子でエフライムは次男です。それなのに、不思議なことに次男のエフライムが長子の扱いを受けました。これはどういうことかというと、どちらが先に生まれたかということではなく、どちらが長子の権利を受けたのかということです。つまり、誰が相続権を得たのかということです。おもしろいことに、このような記述は聖書の他の箇所にも見られます。たとえば、このエフライムのお祖父ちゃんにあたるヤコブがそうでした。ヤコブはイスラエルの始祖となる人物ですが、元々彼は次男でした。長男はエサウです。でも次男のヤコブが長子の権利を得ました。同じようなことが、孫のエフライムにも起こったのです。長男のマナセではなく、次男のエフライムが長子の権利を持つ者となりました。これはエフライムがマナセよりも先に生まれたということではなく、マナセが受けるはずの長子の権利を持つ者となったということです。その権利とは相続権のことです。ですから、聖書で言う「長子」というのは、単に先に生まれということでなく、相続権を持つ者であるという意味なのです。
これが聖書全体を貫いている真理です。それはイエス様についても言われていることです。聖書にはイエス様は長子と呼ばれていますがどういう意味で長子と呼ばれているのかというと、この神の相続権を持つ者であるという意味です。エホバの証人はイエス様が一番最初に生まれた者であるという意味で長子と呼ばれていると解釈したため、イエス様を被造物の一つ、すなわち、エホバによって最初に造られた者と主張するようになりました。でもそれは聖書で言っているこの「長子」ということの意味をよく理解していないために生じた誤解です。聖書で言う「長子」というのは必ずしも先に生まれたものということではなく、「相続権を持つ者」です。つまりイエス様は父なる神の相続権を持つ者、すなわち、神の相続者であり、神ご自身であられる方なのです。ですから、そんなことを言われても驚かないでください。
「そうなんですか!」「やっぱりそうなんですね。おかしいなあと思っていたんですよ」なんて。
「そうですか、でも聖書ではそういう使われ方をしてないんですよ。エフライムを見てください。エフライムは長子であるとあるじゃないですか。これは先に生まれたということじゃなく、神の相続権を持つ者であるという意味なんですよ」と。
「エフライムはわたしの長子である。」。つまり、イスラエルは神の長子なので、神の所有のものを相続することができるようになったのです。
これは私たちクリスチャンのことも言えることです。私たちはイエス・キリストを信じたことで神の子どもとしての特権をいただきました。ヨハネ1章12節にこうあります。「しかし、この方を受け入れた人々、すなわち、その名を信じた人々には、神の子どもとなる特権をお与えになった。」
イエス様を信じることによって神の子どもとされました。神の子どもであるということは、神のものを相続する立場に置かれているということです。それは特権なのです。
使徒パウロは、そのことをローマ8章14~18節で次のように語っています。「14 神の御霊に導かれる人はみな、神の子どもです。15 あなたがたは、人を再び恐怖に陥れる、奴隷の霊を受けたのではなく、子とする御霊を受けたのです。この御霊によって、私たちは「アバ、父」と叫びます。16 御霊ご自身が、私たちの霊とともに、私たちが神の子どもであることを証ししてくださいます。17 子どもであるなら、相続人でもあります。私たちはキリストと、栄光をともに受けるために苦難をともにしているのですから、神の相続人であり、キリストとともに共同相続人なのです。18 今の時の苦難は、やがて私たちに啓示される栄光に比べれば、取るに足りないと私は考えます。」
神の御霊に導かれる人はみな、神の子どもです。その人は、人を恐怖に陥れるような奴隷の霊を受けたのではなく、子とする御霊を受けたのです。この御霊によって私たちは神を「アバ、父」と呼べるようになったのです。すごいですね。ヨブ記には、神の至高性の前に人は虫けらのようだ、うじ虫にすぎないとありますが(25:4~6)、まさに虫けらのような存在にすぎない者が、キリストによって神の子とされ、キリストとともに共同相続人とされるとしたら、それは神の恵み以外の何ものでもありません。罪人である私たちは神の光に照らされるなら、うじ虫のようなものにすぎませんが、このような者を神の子としてくださり、キリストと肩を並べられるような立場に置いてくださるのです。ここに神の恵みの豊かさがあります。そしてやがて天の御国へと帰らせてくださる。私たちはそこへ帰るのです。泣きながら。当然でしょう。嬉しいですから。
であれば、たとえ今、さまざまな試練の中にあっても問題ではありません。なぜなら、私たちはやがてものすごい栄光の中に入れられるということを知っているからです。それは、やがて私たちにもたらされる栄光に比べれば、取るに足りないものです。私たちが神の子どもとされたということがどういうことなのか、それがどんなにすばらしい栄光なのかを思い巡らして、神の約束にしっかりと目を留めようではありませんか。
Ⅱ.遠くの島々に告げ知らせよ(10-11)
次に、10~11節をご覧ください。「10 諸国の民よ、【主】のことばを聞け。遠くの島々に告げ知らせよ。「イスラエルを散らした方がこれを集め、牧者が群れを飼うように、これを守られる」と。11 【主】はヤコブを贖い出し、ヤコブより強い者の手から、これを買い戻されたからだ。」
これは主が成されることです。主はイスラエルを散らされましたが再び集め、牧者が群れを飼うように、これを守られます。すなわち、ヤコブ、イスラエルを約束の地に戻されます。主はヤコブを贖い、ヤコブより強い者の手から、これを買い戻されるからです。「ヤコブより強い者」とは、具体的にはアッシリヤでありバビロンのことです。また、ローマや世の終わりの患難時代においてイスラエルを滅ぼそうとする反キリストのことを指しています。主はそこからイスラエルの民を買い戻されるのです。
これは私たちクリスチャンにも言えることです。クリスチャンはこの世の神、この世の支配者であるサタンによって罪の奴隷とされていましたが、神はそんな私たちを罪の奴隷から買い戻すために、御子イエスを十字架にかけていのちの代価を支払い贖ってくださいました。約束の地、天の御国へ私たちを導くために。何という恵みでしょうか。それは自分たちの力ではどうすることもできないことでした。どんなにもがいても、このサタンの力、罪の支配から解放されることはできませんでした。でも、主がそれを成してくださったのです。
だから、10節にはこう呼び掛けられているのです。「諸国の民よ、主のことばを聞け。遠くの島々に告げ知らせよ。」。皆さん、どうでしょう。ここには、遠くの島々に告げ知らせよと呼び掛けられていますが、そんなことを言われなくてもこの罪の支配から解放されたら自然にそうなるのではないでしょうか。黙ってなどいられません。
マルコの福音書1章40~45節には、ツァラアトに冒されていた人が癒された出来事が記録されていますが、イエス様はツァラアトが癒された男に「だれにも何も話さないように気をつけなさい。ただ行って、自分を祭司に見せなさい。」(マルコ1:44)と厳しく命じられたにも関わらず、彼は出て行って、この出来事を言い広めてしまいました。なぜですか?嬉しかったからです。ツァラアトに冒され社会から隔離されて生きなければならなかった彼は、イエス様の深いあわれみによって癒していただいた時、嬉しくて、嬉しくて、黙っていることなどできませんでした。同じです。自分を罪に縛り付けていたサタンの力から解放されたなら、黙っていることなどできません。
実際、イスラエルから遠く離れた島々であるこの日本にまでその知らせが伝わってきました。それを伝えてくれたのは他ならぬキリストの十字架を目の当たりにした人々、そしてそれが我ためであったと信じて救われたキリストの弟子たちでした。彼らが全世界に出て行って自分たちが体験したことを告げ知らせてくれたので、この日本にまで良い知らせが伝わって来たのです。
私たちもこの極東の島において、イエス様が成されたことを体験的に知ったものとして、黙っているわけにはいきません。私たちも出て行って造られたすべてのものに福音を伝えなければなりません。ただそれをするのは、あくまでもこの救いを体験した者です。あなたが本当に救いを体験したなら、黙ってなどいられないはずです。想像してみてください。バビロンという国に捕らえられ70年間もその支配を受けていた人がそこから解放されたのです。祖国に帰ることができる。それはもう大きな喜びであったはずです。これほどの喜びはありません。この喜びの知らせが「福音」と呼ばれるようになりました。「福音」(ギリシャ語でユーアンゲリオン)とはバビロン捕囚から解放されたという良い知らせです。私たちもバビロンというこの世で罪の奴隷として生きてきましたが、そこから解放されました。それは本当に感激で、これを黙っていろという方が難しいでしょう。告げ知らせよという命令に従う方がよっぽど楽です。私たちはこの素晴らしい知らせを、遠くの島々に、まだ聞いたことがないような人たちに告げ知らせなければなりません。力強い主の救いの御業を宣べ伝えなければならないのです。
Ⅲ.主の恵みに満ち足りる(12-14)
第三に、そのように神の恵みによって強い者の手から救われた人たちはどうなるでしょうか。12~14節をご覧ください。主の恵みに満ち足りるようになります。ここには、帰還した彼らを待っていた祝福がどのようなものであったかが書かれてあります。「12 彼らは来て、シオンの丘で喜び歌い、【主】が与える良きものに、穀物、新しいぶどう酒、オリーブ油、羊の子、牛の子に喜び輝く。彼らのたましいは潤った園のようになり、もう再び、しぼむことはない。13 そのとき、若い女は踊って楽しみ、若い男も年寄りも、ともに楽しむ。「わたしは彼らの悲しみを喜びに変え、彼らの憂いを慰め、楽しませる。14 祭司のたましいを髄で潤す。わたしの民は、わたしの恵みに満ち足りる。─【主】のことば。」」
帰還した彼らを待っているのは、物質的祝福と霊的祝福の両面における祝福でした。シオン、エルサレムには神殿が再建され、たくさんのいけにえがささげられるようになります。そこはささげもので溢れるようになるのです。14節には「祭司のたましいを髄で潤す」とありますが、これはどういうことかというと、「髄」とは、骨の中心にある柔らかい組織のこと、すなわち、物事の中心であり、奥深い大事なところを指しています。ですから、髄で潤すとは、祭司のたましい、祭司の心を満たすということです。口語訳では「祭司の心を飽かせ」と訳しています。それは祭司のたましい、祭司の心を満たすほどであるということです。どういうことかというと、祭司は神にささげられたいけにえを屠ったり、神にささげたりという働きをしますが、その働きの報酬としてその一部を分け前として受けますが、それがあまりにもたくさんであったため、彼らのたましいが、彼らの心が潤されるほどであったということです。それは自分たちの受ける分が多くなったからではありません。そうやって心から神にいけにえをささげる民の姿に励まされたからです。それほどたくさんのささげものがささげられるのです。教会で言うなら、みんな喜んで主にささげものをして献金が満ち溢れている状態です。あるいは、奉仕者がたくさん与えられて、何をしていただくのかを探さなければならないような状態です。もう当番制ではありません。どうか私にさせてくださいという人で満ち溢れるからです。それほど、主の恵みに満ち足りるのです。
なぜでしょうか?みんな喜んで捧げるようになるからです。強制されてではありません。解放された喜びのゆえに、自ら進んでささげるようになるのです。そういう時がやって来ます。かつてバビロンから解放されたイスラエルの民が喜んで主にささげたように、主の教会が主の恵みで満ち溢れるようになる時がやって来るのです。それは世の終わりの時まで待たなければならないということではありません。主の十字架の贖いの御業を体験した人は、このように変えられるはずです。そうでないとしたら、救いに関して何かがおかしいと言えるかもしれません。
パウロはマケドニアの諸教会に与えられた神の恵みについて、コリントの教会にこのように書き送っています。「彼らの満ちあふれる喜びと極度の貧しさは、苦しみによる激しい試練の中にあってもあふれ出て、惜しみなく施す富となりました。私は証しします。彼らは自ら進んで、力に応じて、また力以上に献げ、聖徒たちを支える奉仕の恵みにあずかりたいと、大変な熱意をもって私たちに懇願しました。そして、私たちの期待以上に、神のみこころにしたがって、まず自分自身を主に献げ、私たちにも委ねてくれました。」(Ⅱコリント8:2-5)いったいなぜ彼らはこの「恵みのわざ」にあふれるようになったのでしょうか。それはキリストの恵みを知ったからでした。体験したからです。すなわち、主は富んでおられたのに、彼らのために貧しくなられたということです。それは、彼らがキリストの貧しさによって富む者となるためです。そのキリストの恵みを知ったからです。
先日、英語の礼拝で普段ワーシップをリードしている兄弟が所要で礼拝を休まれるということで、代わりにジャマイカから来日している姉妹がリードしてくださいました。それが本当にすばらしいリードだったので「今日のワーシップのリードありがとう。本当に感謝しています。」と言うと、その姉妹がこう言いました。「私は自分にできることをしただけです。私にできることなら何でもしたいです。だから、必要があったら教えてください。この前、礼拝堂にあるポットの水を交換したら、日本語の礼拝の方がそれを捨ててくれましたが、私は毎週その水を交換しているので捨てないでくださいと伝えてください。そのくらいのことしかできないですが、喜んでしたいのです。」と。
私はそれを聞いてとても感動しました。彼女は自分に出来ることとして、自ら進んでやってくれたからです。なぜ?神の恵みを知ったからです。体験したからです。
皆さん、教会はそういうところではないでしょうか。神によって罪が赦された者が喜んで教会に集い、心から主を賛美し、いけにえをささげ、奉仕をささげるのです。自ら進んで。主の恵みを知ったからです。奉仕しろと言われて、ささげろと言われて、伝道しろと言われたのでするというのではなく、何も言われなくても、黙っていても、一人一人が聖霊によって喜び、神の恵みに応答してささげるので、ささげものが満ち溢れるのです。それが主の教会です。そこでは若い女が喜び踊り、若い男も年寄りも、ともに主を喜び楽しみます。主が彼らの悲しみを喜びに変え、彼らの憂いを慰め、楽しませてくださるからです。そこは主の喜びで満ち足り、主の楽しみで満ち溢れるのです。それは完全な神の国、天の御国ではないかもしれませんが、その前味を味わうことができるのです。私たちはそれこそ主が喜ばれる教会であることを知り、それを目指して歩まなければなりません。
先月、さいたまの教会で礼拝のご奉仕をさせていただきました。その教会は私が共立基督教研究所で学んでいた時に一緒に学んだ牧師が35年前にゼロから開拓した教会です。どれほどのご苦労があったことかと思いますが、35年たった今、それが見事に実を結びました。30代の多くの若い青年たちが結婚に導かれ、教会の役員をはじめ、礼拝の全体をリードしていました。霊的によく訓練されたすばらしいリードでした。いったいどうやってそのようになったのか、いろいろお話を聞いているうちにわかりました。35年前に救われた数人の婦人たちが子どもたちにしっかりと信仰の訓練をして信仰を継承させ、その子供たちが結婚して家庭を築き、教会の中心的な役割を担うようになったからです。そのためには時間がかかります。30年の時間がかかりました。しかし、やがてそのような教会になると決断して取り組んだ結果、そのようになったのです。
教会は建物とか、人数ではありません。主に罪贖われた一人一人が喜びと感謝をもって主に仕えているかどうかです。そのためには時間もかかるでしょう。でもどんなに時間がかかっても、それが主が望んでおられることであり、私たちが目指しているものであると受け止めて、一人一人が十字架の贖いに感謝し、神の子とされた喜びをもって自ら進んでささげるなら、必ずそのようになるはずです。わたしの民は、わたしの恵みに満ち足りる、と言われるようになります。私たちもそのような教会とさせていただきましょう。神の恵みがあなたの霊と心と体を満ち溢れさせてくださいますように。

死んでも生きる ヨハネの福音書11章25~26節

聖書箇所:ヨハネの福音書11章25~26節
タイトル:「死んでも生きる」
皆さん、イースターおめでとうございます。キリストの復活を心からお祝いいたします。今日は、このキリストが復活された日を記念するイースターに、聖書のみことばから「死んでも生きる」というメッセージを皆さんにお届けしたいと思います。
皆さん、私たち人間にとって、どうやっても太刀打ちできない問題に「死」があります。この「死」への不安を克服することができたら、どれほど力強く生きていけるでしょうか!クリスチャン作家の三浦綾子さんは、「毎日が感動です!」と言いました。その理由は、「私の不可能を、キリストが可能にしてくださった」からです。「私の不可能」とは、病気と死に対する解決です。彼女は1922年(大正11年)に北海道旭川(あさひかわ)市に生まれ、1939年(昭和14年)旭川市立高等女学校を卒業すると、17歳から7年間小学校教員を勤めました。しかし、間もなく肺結核と脊椎カリエスを併発して13年間の闘病生活を余儀なくされることになりました。この苦しみの中、病床でキリスト教信仰へと導かれるのです。彼女は自らを〝病気のデパート〟と呼ぶくらい、肺結核と脊椎カリエスの他、心臓発作、帯状疱疹、直腸癌、パーキンソン病等、度重なる病魔に襲われました。それでも常に人生を前向きにとらえ、クリスチャンとしての信仰に根ざした作家活動を積極的に続けることができたのは、このキリストの十字架と復活の信仰があったからです。キリストの十字架と復活は、三浦綾子さんが抱えていた罪と死の不安を解決し、罪の赦しと永遠のいのちを与えてくれました。それで彼女は、「毎日が感動です!」と言ったのです。
それは私たちも同じです。人間は逆境に陥るとどうしても気持ちが落ち込んでしまいます。特に彼女のように次々と重い病気にかかると、生きる意欲もなくしてしまいがちです。でもこの「死」の問題を克服することができるなら、私の不可能を可能にしてくださるキリストの復活と永遠のいのちに与ることができるなら、三浦綾子さんのように「毎日が感動です!」と言うことができるのではないでしょうか。いったいどうしたらこの「死」の問題を解決することができるのでしょうか。
きょうの聖書の箇所でイエスは、死後4日も経過した親友ラザロを前に、その姉妹のマルタにこう言われました。「わたしはよみがえりです。いのちです。わたしを信じる者は死んでも生きるのです。また、生きていてわたしを信じる者はみな、永遠に決して死ぬことがありません。あなたは、このことを信じますか。」(ヨハネ11:25-26)
どうやっても解決できなかった「死」への完全な勝利がここにあります。それは、イエス・キリストです。イエスはその死からよみがえられました。そしてそのイエスを信じる者はイエスと同じように死んでも生きるようになります。また、生きていてイエスを信じる者はみな、永遠に死ぬことがありません。すばらしいで約束ですね。あなたがこのことを信じるなら、あなたも死に対する解決が与えられ、力強く生きていくことができるようになるのです。
きょうは、この復活の希望について、ヨハネの福音書11章にあるラザロの復活から見ていきたいと思います。
Ⅰ.死に対して無力な人間(1-19)
まず、1~19節をご覧ください。「1 さて、ある人が病気にかかっていた。ベタニアのラザロである。ベタニアはマリアとその姉妹マルタの村であった。2 このマリアは、主に香油を塗り、自分の髪で主の足をぬぐったマリアで、彼女の兄弟ラザロが病んでいたのである。3 姉妹たちは、イエスのところに使いを送って言った。「主よ、ご覧ください。あなたが愛しておられる者が病気です。」4 これを聞いて、イエスは言われた。「この病気は死で終わるものではなく、神の栄光のためのものです。それによって神の子が栄光を受けることになります。」5 イエスはマルタとその姉妹とラザロを愛しておられた。6 しかし、イエスはラザロが病んでいると聞いてからも、そのときいた場所に二日とどまられた。7 それからイエスは、「もう一度ユダヤに行こう」と弟子たちに言われた。8 弟子たちはイエスに言った。「先生。ついこの間ユダヤ人たちがあなたを石打ちにしようとしたのに、またそこにおいでになるのですか。」9 イエスは答えられた。「昼間は十二時間あるではありませんか。だれでも昼間歩けば、つまずくことはありません。この世の光を見ているからです。10 しかし、夜歩けばつまずきます。その人のうちに光がないからです。」11 イエスはこのように話し、それから弟子たちに言われた。「わたしたちの友ラザロは眠ってしまいました。わたしは彼を起こしに行きます。」12 弟子たちはイエスに言った。「主よ。眠っているのなら、助かるでしょう。」13 イエスは、ラザロの死のことを言われたのだが、彼らは睡眠の意味での眠りを言われたものと思ったのである。14 そこで、イエスは弟子たちに、今度ははっきりと言われた。「ラザロは死にました。15 あなたがたのため、あなたがたが信じるためには、わたしがその場に居合わせなかったことを喜んでいます。さあ、彼のところへ行きましょう。」16 そこで、デドモと呼ばれるトマスが仲間の弟子たちに言った。「私たちも行って、主と一緒に死のうではないか。」
17 イエスがおいでになると、ラザロは墓の中に入れられて、すでに四日たっていた。18 ベタニアはエルサレムに近く、十五スタディオンほど離れたところにあった。19 マルタとマリアのところには、兄弟のことで慰めようと、大勢のユダヤ人が来ていた。」
エルサレムの東3㎞にあるオリーブ山の南東に広がる斜面にベタニアという小さな村がありました。そこには3人の兄弟マルタとマリアとラザロが住んでいました。イエス様はエルサレムに来られたとき度々彼らの家を宿とし、そこで教えを説いておられました。この兄弟は早くに両親を亡くしていたようで、年長と思われるマルタが何かにつけて母親の役割を果たしていました。そして、ラザロは末っ子であったと一般的に考えられていますが、それだけに3人は強い兄弟愛で結ばれ、仲も良かったと思われます。ところが、この平和な家庭に悲劇が起きました。ラザロが重い病気にかかってしまったんです。マルタとマリアはイエス様のもとに使いを送り、助けを求めました。姉妹はイエス様がすぐにでも飛んで来てラザロを癒してくださるものと思っていました。イエス様がラザロを深く愛しておられたことをよく知っていたからです。
しかし、イエス様はラザロの許に直行されませんでした。6節にあるように、イエス様はそのときにいた場所になお二日とどまられたのです。その行動は、ラザロを愛しておられたという5節のことばと矛盾しているように見えますが、どうしてイエス様はなおもそこに二日間とどまられたのでしょうか。一つの理由は4節にあります。ここには「これを聞いて、イエスは言われた。「この病気は死で終わるものではなく、神の栄光のためのものです。」とあります。それは、ラザロを生き返らせることによって、神の栄光がより顕著に現れるためでした。つまり、人々がイエス様の内に働く神の力を見、イエス様を神の子と信じ、イエス様が与えてくださるいのちに与るようになる、ということです。ラザロの奇跡は、イエス様には病気を癒す力だけではなく、死人にいのちを与える権限もあるということを明らかにしたのです。
もう一つの理由は、弟子たちの霊的訓練、または教育のためです。14節と15節をご覧ください。ここには「そこで、イエスは弟子たちに、今度ははっきりと言われた。「ラザロは死にました。あなたがたのため、あなたがたが信じるためには、わたしがその場に居合わせなかったことを喜んでいます。さあ、彼のところへ行きましょう。」」とあります。イエス様は弟子たちがご自分を死の征服者として信じるようになることを望んでおられたのです。あとわずかしか残されていない地上での生涯において、イエス様は彼らにこの真理を深く学ばせようとしておられたのです。私たちも問題に突き当たる時、主がすぐに飛んで来て問題を解決してくださることを期待することがあっても、現実的にはそうならなくて落ち込むことがあります。イエス様に愛されていることがわかっているので、そのように期待するのはある意味当然のことですが、そのような時に私たちが考えなければならないことは、すぐに助けてほしいという私たちの思いの他に、様々なことが絡んでいる可能性があるということです。そのことを忘れてはなりません。私たちの立場から見れば、とにかく問題が少しでも早く解決されればそれでいいという話になりますが、神様の大きなご計画の中に神様がなさろうとしておられることがたくさんあるんです。私たちにはそのことを全く知らされていませんが、主の助けを期待しつつすべてを主の御手にゆだねなければなりません。主が最善を成してくださることを堅く信じて御業を待ち望まなければならないのです。祈りの答えが遅れているとしたら、そこには必ずそれなりの理由があるということです。
7節をご覧ください。二日が過ぎてからイエス様はようやく弟子たちに「もう一度ユダヤへ行こう」と告げられました。しかし、たった今、石打にしようとする者たちから逃れて来たばかりだというのに、その渦中に自ら飛び込むのは止めた方がいいと、弟子たちは考えました(8)。ベタニアはエルサレムと目と鼻の先にあった所なので、確かにそこへ行くことは命の危険を意味していました。でも、自分の身を案じてくれる弟子たちに向かってイエス様は、自分には父が定められた時があると言われました。それが9節と10節のことばです。「イエスは答えられた。「昼間は十二時間あるではありませんか。だれでも昼間歩けば、つまずくことはありません。この世の光を見ているからです。しかし、夜歩けばつまずきます。その人のうちに光がないからです。」」
どういうことでしょうか?昼間歩くとは、聖霊の光によって照らされた道を歩むということです。言い換えると、神様のみこころに従うということです。神様に従っていればどんな敵が眼前に待ち受けていても、それは恐れるに足りません。昼間歩く人は決してつまずくことなどないからです。でも、夜歩けばつまずきます。なぜなら、そこには霊的な光がないからです。神様に逆らい、自分勝手な方向に進もうとすれば、間違いなくつまずくことになります。
イエス様の確固とした決意を知らされた弟子たちは、自分たちには一つの道しか残されていないと考えたようです。何でしょうか?それはイエス様に同行して一緒に死ぬということです。トマスの悲そうなことばが、弟子たちの気持ちをよく表しています。16節です。「私たちも行って、主と一緒に死のうではないか。」ある意味、英雄的ともいえる感動的な決意です。彼は本当にイエス様と一緒に死ぬつもりでいたのだと思います。
イエス様がベタニアに行ってみるとどうだったでしょうか。ラザロは死んで墓に葬られて、すでに四日たっていました。兄弟を亡くし悲嘆に暮れているマルタとマリアを慰めるために、そこには大勢のユダヤ人が来ていました。ちなみにユダヤの葬式は七日間続きます。最初の三日間は泣き暮れる日です。イエス様がベタニアに着かれたのは、その泣く日が終わった時でした。死という現実を前にして、人は泣くこと以外には何もできないものです。しかし、イエス様は違います。ベタニアに出発するにあたり、その死んだラザロを眠りから起こしに行くと言われたのです。普通、弔問客は死んだ人に用があって来るのではありません。死んだ人の家族を慰めるため来ます。ここでも一般の弔問客はマルタとマリアのところに来たのであって、死んだラザロに用があったわけではありません。でもイエス様は死んだラザロのところに来られたのです。イエス様のベタニア訪問の理由は、一般の弔問客のそれとは根本的に異なっていました。すなわち、イエス様は死者のもとに命の主として来られたのです。
人間にとって死は、死以外の何ものでもありません。それは滅びです。「主よ、もう臭くなっておりましょう」とマルタが39節で言っているように、死後すぐにからだの腐敗が始まります。私たち人間はだれ一人この死を回避することはできません。死に向かって歩む以外の何ものでもないのです。そういうふうに言えるでしょう。だからトマスは、イエス様と一緒に死のうと言ったのです。人間にできるのは死に向かって英雄的に進んで行く決意をすることくらいです。避けられない死を美化して華々しく死ぬことによってしか死に対処できない人間というのは、何と小さくはかない存在なのでしょうか。しかもこの悲そうな英断も、死はあくまでも死であり、滅びであるという現実を少しも変えることはできないのです。
Ⅱ.死からよみがえられたイエス(20-27)
でも、この死に対して完全に勝利された方がおられます。それは死からよみがえられたイエス様です。20~27節をご覧ください。「20 マルタは、イエスが来られたと聞いて、出迎えに行った。マリアは家で座っていた。21 マルタはイエスに言った。「主よ。もしここにいてくださったなら、私の兄弟は死ななかったでしょうに。22 しかし、あなたが神にお求めになることは何でも、神があなたにお与えになることを、私は今でも知っています。」23 イエスは彼女に言われた。「あなたの兄弟はよみがえります。」24 マルタはイエスに言った。「終わりの日のよみがえりの時に、私の兄弟がよみがえることは知っています。」25 イエスは彼女に言われた。「わたしはよみがえりです。いのちです。わたしを信じる者は死んでも生きるのです。26 また、生きていてわたしを信じる者はみな、永遠に決して死ぬことがありません。あなたは、このことを信じますか。」27 彼女はイエスに言った。「はい、主よ。私は、あなたが世に来られる神の子キリストであると信じております。」」
イエスの到着の知らせを聞いて、マルタは村の入口まで迎えに出て来ました。この21節のことばには、なぜもっと早く来てくださらなかったのですかという、恨み節が込められているように思われます。しかしそれとは裏腹に、イエス様がおられたら兄弟は必ず助かったはずだという、イエス様に対する信頼もみられます。また22節の告白もそうです。この「今でも」ということばに注目してください。絶望的な状況の中にあっても、なお期待して「今でも」と言える信仰はすばらしいものです。
イエス様はそのようなマルタに対して、重大な宣言をされました。それは23節のことばです。「あなたの兄弟はよみがえります。」これが、イエスがベタニアに来て最初に言われた言葉です。マルタはイエス様を全能の神としてよりも、一人の祈りの勇者として信じていたようです。だから22節で彼女は「あなたが神にお求めになることは何でも、神があなたにお与えになることを、わたしは知っています。」と言っているのです。でもイエス様は単なる祈りの勇士ではなく、全能の神ご自身であられます。そんな彼女の信仰を正すためにイエス様は、「あなたの兄弟はよみがえります」と言われました。いつ、どのようにして生き返らせるのかといったことには一切触れず、ただラザロはよみがえる、ラザロは生き返ると言われたのです。このことばには、イエス様の力強い意志を感じます。勿論、わたしが求めることなら神は何でもお与えくださいますが、それだけでない。わたし自身がラザロにいのちを与えてよみがえらせることができる。あなたの兄弟ラザロはよみがえるのですと。
それに対してマルタは何と言いましたか。25節です。「終わりの日のよみがえりの時に、私の兄弟がよみがえることは知っています。」どういうことですか?「終わりの日」とは世の終わりの日のことで、キリストが再臨される日のことです。その日にクリスチャンがよみがえるということは知っています。でも、それは今自分たちが直面している問題に対しては何の解決も与えてくれないということです。彼女はイエス様を信じていながらも死を前にしては何も成す術もありませんでした。もしイエス様を信じていても、それが単なる心の気休め程度で、現実の生活には何の役にも立たないとしたら、それは本当に空しいものです。イエス様が望んでおられたのはそのような信仰ではなく、実際の生活の中で生かされる信仰です。それは死に勝利する信仰と言えるでしょう。ですから、イエス様は彼女に力強いことばを宣言しました。25節と26節の言葉です。ご一緒に読みましょう。
「イエスは彼女に言われた。「わたしはよみがえりです。いのちです。わたしを信じる者は死んでも生きるのです。また、生きていてわたしを信じる者はみな、永遠に決して死ぬことがありません。あなたは、このことを信じますか。」」
イエスは、「わたしはよみがえりです。いのちです。」と言われました。これは、イエス様ご自身がよみがえりそのものであり、いのちそのものであられるということです。ヨハネの福音書を見ると、イエス様はこれまで「わたしは・・・です」と4回語られたことが記録されてあります。
①「わたしはいのちのパンです」(6:35)
②「わたしは世の光です」(8:12)
③「わたしは羊たちの門です」(10:7)
④「わたしは良い牧者です」(10:11)
これらはすべてイエス様がどのようなお方なのかを比喩として語られたものですが、今回は違います。今回は単なる比喩としてではなく、イエス様がどのようなお方なのかをズバリ語られたのです。つまり、イエス様はよみがえりであり、いのちであられるということです。これはどういうことかと言うと、イエスはよみがえりそのものであり、いのちそのものであられるということです。そのような者であるということではなく、そのものズバリです。
ここに死に対する解決の道、勝利の道があります。死に対して勝利する道は、「わたしはよみがえりです。いのちです。」と言われたイエス様の内にあります。神様は御子を信じる者に賜物として永遠のいのちを与えてくださいます。私たちはこのイエスを信じた瞬間、このいのちを持つことができるのです。このいのちは肉体的な死さえも奪い取ることができないいのちです。私たちはこれまで死に支配されて生きてきました。死んだら終わりという世界です。死の勢力は私たちを恐れさせ、虚しくし、悲しくし、運命の奴隷としてきました。死は人からすべての生命、希望、喜びを奪って行きます。しかし、いのちの世界に移されると状況は全く変わります。そこでは、死が支配することができません。代わりにいのちが支配するようになります。いのちの世界は光の世界であり、喜びと希望の世界です。いのちの世界に生きている人はもはや虚しさにさいなまれることはありません。もう運命に支配されることはないのです。
パウロは、これを「死は勝利に呑みこまれた」と言っています。Ⅰコリント15章50~58節をお読みします。「50 兄弟たち、私はこのことを言っておきます。血肉のからだは神の国を相続できません。朽ちるものは、朽ちないものを相続できません。51 聞きなさい。私はあなたがたに奥義を告げましょう。私たちはみな眠るわけではありませんが、みな変えられます。52 終わりのラッパとともに、たちまち、一瞬のうちに変えられます。ラッパが鳴ると、死者は朽ちないものによみがえり、私たちは変えられるのです。53 この朽ちるべきものが、朽ちないものを必ず着ることになり、この死ぬべきものが、死なないものを必ず着ることになるからです。54 そして、この朽ちるべきものが朽ちないものを着て、この死ぬべきものが死なないものを着るとき、このように記されたみことばが実現します。「死は勝利に呑み込まれた。」55 「死よ、おまえの勝利はどこにあるのか。死よ、おまえのとげはどこにあるのか。」56 死のとげは罪であり、罪の力は律法です。57 しかし、神に感謝します。神は、私たちの主イエス・キリストによって、私たちに勝利を与えてくださいました。58 ですから、私の愛する兄弟たち。堅く立って、動かされることなく、いつも主のわざに励みなさい。あなたがたは、自分たちの労苦が主にあって無駄でないことを知っているのですから。」
皆さん、私たちは、死に対する完全な勝利を得ています。人類にとって最も大きな問題が解決されているんです。だからこそ今、力強く生きていくことができるのです。たとえ今、困難な状況にあってもなお気落ちせずにチャレンジし続けることができる。あなたの主にある労苦は決して無駄ではありません。わたしはよみがえりです。いのちです。とおっしゃる方のための労苦だからです。わたしはよみがえりです。いのちです。とおっしゃる方と共に頑張って来た働きだからです。私たちの恐れの最後の砦である「死」に打ち破り、勝利を与えてくださった主に、心からの感謝しようではありませんか。そして、それは私たちが死んでからだけのことばかりではなく、生きていて、イエスを信じる者は決して死ぬことがないということ、ある人たちはこれを携挙のことを指していると理解していますが、そのようにも理解できないことはないですが、これは携挙のことではなく、生きている時にもたらされる永遠の命のこと、神との交わり、神の臨在のことです。この地上にあってさながら天国を生きることができるという意味です。つまり、この永遠のいのちが肉体の死も含めた人間のすべての問題に勝利することができるということです。私たちはここに 慰めと希望を持ちたいと思うのです。
Ⅲ.あなたは、このことを信じますか(26-27)
最後に、26節のことばを見て終わりたいと思います。イエス様は「わたしはよみがえりです。いのちです。わたしを信じる者は死んでも生きるのです。また、生きていてわたしを信じる者はみな、永遠に死ぬことがありません。」と言われると、マルタに「あなたは、このことを信じますか。」と問われました。
このイエス様の問いかけは、そのまま私たちへの問いかけでもあります。私たちは昨日よりも今日、今日よりも明日と、確実に死に向かって歩んでいます。そんな世界にあって、死が死に終わらず、滅びに至らない、死に対する勝利の道を、神様はイエス様において備えてくださいました。しかし、私たちはそのことを信じなければなりません。
2018年12月29日のことです。ある著名な若手俳優が、神奈川県のある教会を訪れて、約1時間半にわたってその教会の牧師と聖書について話し合いました。具体的に言うと、このヨハネの福音書11章にあるラザロに関する質問を、牧師にぶつけたのです。彼が出演することになっていた「罪と罰」という舞台の役作りのためです。「罪と罰」はドストエフスキーの代表作で、貧困にあえぐ元大学生ロスコーリニコフが主人公ですが、その主人公が独自の理屈で罪を犯します。世の中のためになるのであれば罪を犯してもいいのではないかという考えの下に、強欲で狡猾な金貸しの老婆を殺して金を奪い、その金を社会のために役立つために使おうとします。しかし、老婆だけでなく殺害の現場に偶然に居合わせたその妹までも殺してしまうのです。目的は果たしたものの思いがけないさらなる殺人に罪の意識が沸き上がり、ロスコーリニコフは自らの犯罪を肯定する思いと罪の意識の狭間で苦しむことになります。結局、知り合いの女性に説得されて自主することになるのですが、罪と罰の台本にヨハネの福音書11章の話が出てくるんです。その若手俳優はこの箇所を丸暗記していたそうですが、牧師に対していのちと死と復活について真剣なまなざしで質問をぶつけました。するとその若手俳優は納得した様子で帰って行かれたということですが、その後彼は自殺しました。それが俳優の三浦春馬さんです。
三浦さんは聖書の教えを理解しようと思って教会の門を叩きました。わたしはよみがえりです。いのちです。というイエス様のみことばに関する牧師の解説を聞いて感動しました。しかし、彼は信じませんでした。牧師はイエス様のように「あなたは、このことを信じますか」と信仰の決心を迫るまでには至らなかったのです。続いて何度か教会に来てもらえれば徐々に信仰に導けると考えたようです。しかし、そのチャンスは二度と訪れませんでした。三浦さんの自殺の報道を聞いた時牧師はショックのあまりしばらく眠ることができなかったそうです。またかなり自責の念にかられたということですが、その後1冊の著書を書かれました。それは「永遠と復活」という本ですが、その中で先生は、人は生きている間に別にイエス・キリストを信じなくてもハデスで悔い改めるチャンスが与えられていると述べています。そこで悔い改めれば救われると。三浦さんはきっとそこで悔い改めて救われると信じていると語っておられますが、それは聖書が教えていることではありません。死んでからでもハデスで悔い改めれば救われるという、いわゆるセカンドチャンス論は聖書に反する教えです。「このことを信じますか」という主の問いかけに対して、私たちは今生きている間に応答しなければなりません。死んだ後では遅いんです。生きている間に、イエス様を信じる者は死んでも生きる。生きていてイエス様を信じる者はみな、永遠に決して死ぬことがないということを信じなければなりません。
イエス様がよみがえりです。いのちです。イエス様はご自身の身をもってそのことを証明してくださいました。イエス様は私たちの罪を贖い十字架で死なれただけでなく、三日目によみがえられました。死に勝利されたのです。だから、このイエスを信じる者は死んでも生きるのです。また、生きていてイエスを信じる者はみな、永遠に決して死ぬことはありません。キリストのこの復活のいのちが与えられるからです。あなたは、このことを信じますか。あなたもよみがえられたイエス様を信じて永遠のいのちをいただき、このいのちに満ち溢れた勝利ある人生を共に歩もうではありませんか。