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すべての営みに時がある 伝道者の書3章1~15節

2020年10月18日(日)礼拝メッセージ

聖書箇所:伝道者の書3章1~15節(旧約P1141)

タイトル:「すべての営みに時がある」

 きょうは、伝道者の書3章前半から学びます。「空の空。すべては空」と言った伝道者は、その空しさを埋めるものを日の下で徹底的に追及してきました。たとえば、知恵と知識を身につけたり、快楽を味わってみたり、さらには事業を拡大して、ありとあらゆる金、銀、財宝を手に入れ、立派な邸宅を建て、森を造成したり、美しい庭を造り、そこで最高のエンターテインメントを催したりしましたが、それもまた空しいものでした。彼は、おおよそ人間が望むもの、これさえあれば、あれさえあれば、自分は満足できるのではないかといったすべてのものを手に入れましたが、それらのもので満たされることはなかったのです。「ヘベル、ヘベル。すべてはヘベル」です。日の下で行われるわざは、すべは空しく、風を追うようなものでした。

 そのような中で伝道者は、一つの真理を見出します。それは、「すべてのことには定まった時期があり、天の下のすべての営みには時がある。」ということです。きょうは、このことについてご一緒に考えたいと思います。

 Ⅰ.すべての営みに時がある(1-8)

 まず、1節から8節までをご覧ください。「すべてのことには定まった時期があり、天の下のすべての営みに時がある。生まれるのに時があり、死ぬのに時がある。植えるのに時があり、植えた物を抜くのに時がある。殺すのに時があり、癒やすのに時がある。崩すのに時があり、建てるのに時がある。泣くのに時があり、笑うのに時がある。嘆くのに時があり、踊るのに時がある。石を投げ捨てるのに時があり、石を集めるのに時がある。抱擁するのに時があり、抱擁をやめるのに時がある。求めるのに時があり、あきらめるのに時がある。保つのに時があり、投げ捨てるのに時がある。裂くのに時があり、縫うのに時がある。黙っているのに時があり、話すのに時がある。愛するのに時があり、憎むのに時がある。戦いの時があり、平和の時がある。」

 有名な「時の詩」です。天の下では、何事にも定まった時期があり、すべての営みには時があります。この「営み」とは、人間が意図的に行う行為のことです。ここには全部で28の営みを列挙していますが、これは、人生全体を示していると言えるでしょう。動詞に注目していただくと分かりますが、対句になっていて、それが14回繰り返されています。

 まず、2節をご覧ください。ここには、「生まれるのに時があり、死ぬのに時がある。植えるのに時があり、植えた物を抜くのに時がある。」とあります。人生には始まりと終わりの時があるということです。その時を自分で決めることはできません。親でさえ、わが子の誕生の時を知りません。誰もその時を選ぶことができないのです。生まれるときと死ぬ時は、神によって定まっているのです。これは単なる運命論ではありません。私たちは神の時に生まれ、神の時にこの地上での生涯を送り、神の時に召され、やがて神のもとに帰るのです。

 次にソロモンは、農業のサイクルに言及しています。「植えるのに時があり、植えたものを抜くのに時がある。」植える時と収穫の時は、神が決めた時があるのです。それを誤る徒、神の恵みを逃してしまうことになります。昨日はアジア学院で収穫感謝礼拝が行われましたが、講壇の前にはこの秋に収穫された作物がきれいに並べられていました。収穫のために、適切な収穫の時を与えてくださった主に感謝しました。

 3節をご覧ください。「殺すのに時があり、癒やすのに時がある。崩すのに時があり、建てるのに時がある。」

「殺すのに時がある」とは、人を殺すのに時があるということではありません。おそらく、人のいのちが取り去られることにも時があるということでしょう。それは事件や事故、戦争などすべての営みの中においてです。癒すのにも時があります。たとえば、大切な人と死別する時だれでも痛みや悲しみを持ちますが、その悲しみが癒されるのにも時があります。何らかのことで受けた心の傷が癒されるのも同じです。癒されるのに時があるのです。

また、古くなったものを取り壊し、そこに新しいものを建てるのにも時があります。それは建物だけではなく、たとえば、組織の態勢の立て直しにおいても言えることです。崩すのに時があり、建てるのに時があるのです。

4節には、「泣くのに時があり、笑うのに時がある。嘆くのに時があり、踊るのに時がある。」とあります。私たちの人生は悲劇と祝福の繰り返しです。良い事ばかりであればいいのすが、そういうわけにはいきません。逆に、どうしてこんなに不幸が続くのだろうと思うようなことがあっても、その中にも必ず良いことがあります。人生は悲しみと喜びの繰り返しですが、その時も神によって定められているのです。

5をご覧ください。「石を投げ捨てるのに時があり、石を集めるのに時がある。抱擁するのに時があり、抱擁をやめるのに時がある。」

「石を投げ捨てる」とは、耕作に適した農地を開墾するために、石を取り除くことを指しています。イザヤ5:2には、「彼はそこを掘り起こして、石を除き、そこに良いぶどうを植え、その中にやぐらを立て、その中にぶどうの踏み場まで掘り、ぶどうがなるのを心待ちにしていた。」とあります。これはイスラエルをぶどうの木にたとえ、良いぶどうがなるのを期待していた神が、農地を開墾して、石を取り除き、心待ちにしている様子を描いたものです。神はイスラエルが良い実を結ぶように石を取り除いて、開墾したのです。逆に、「石を集める」とは、家や塀などを作るのに石を集めることを示唆しています。それぞれの行為には、定まった時があるのです。

「抱擁するのに時があり、抱擁をやめるのに時がある」とは、愛を表現する時とそうでない時があるということです。抱擁をやめる時とは、愛すべき人と死別して抱擁したくてもできない時か、あるいは、抱擁をやめることによって愛を示さない時のことを言っていると思われます。それは不道徳の場合の時などです。ですから、やみくもに抱擁すればいいということではなく、抱擁するのにも時があり、抱擁をやめるのにも時があるのです。

6節には、「求めるのに時があり、あきらめるのに時がある。保つのに時があり、投げ捨てるのに時がある。」とあります。ビジネスや商売をやっている人はわかりますが、あるいは、それ以外の事に携わっている人にも言えることですが、求めるのに時があり、あきらめるのに時があります。すべての物事が順調に進んで行けばいいのですが、いつもそうとは限りません。今日はうまくいっても、明日はどうなるかなんてだれにもわかりません。自分の力ではどうしようもないこともあるのです。また、それがいつ逆転するかもわかりません。求めるのに時があり、あきらめるのに時があるのです。

また、保つのに時があり、投げ捨てるのに時があります。「断捨離」がブームですね。断捨離とは、不要なものを捨てるというイメージが強いですが、実はそうではなく、物の整理を通して人生が変わる効果的な方法だと言われています。その「もの」でさえ、保つのに時があり、捨てるのに時があるのです。

7節をご覧ください。「裂くのに時があり、縫うのに時がある。黙っているのに時があり、話すのに時がある。」

「裂く」と「縫う」とは、衣服に関する表現です。「裂く」とは、激しい悲しみを表現する際に衣を引き裂くという、イスラエルの習慣から来ています。創世記には、息子ヨセフが死んだと思い激しく痛み悲しんだヤコブが、自分の着ていた衣服を引き裂く場面があります(創世記37:34)。この裂く時が喪に服することを表現しているのならば、「縫う時」とは喪に服していた期間が終了した時のことを指していると考えられます。

黙っているのに時があり、話すのに時があります。私たちの人生には黙っているべき時と、反対に、口を開いて話さなければならない時があります。黙っていなければならない時に話し、話さなければならない時に話さないで失敗することがどれだけあるでしょう。黙っているのに時があり、話すのに時があることを心に留めたいと思います。

そして、8節です。「愛するのに時があり、憎むのに時がある。戦いの時があり、平和の時がある。」どういうことでしょうか。当時ソロモンの回りでも紛争が絶えなかったのでしょう。戦闘、殺戮、破壊といった悲劇的な事件が、日常的に繰り返されていました。そうした戦いに翻弄され、多くの涙が流されていたのです。そのような中で、束の間の愛する時、平和の時を経験していたのだと思います。

このように私たちの人生には定まった時期があり、すべての営みには時があります。その「神の時」に逆らうのではなく、今がどういう時なのかを見極めてその「時」に従って生きる人生こそ、幸いな人生だと言えるのです。

ドイツの作曲家ヨハン・ゼバスティアン・バッハは、1748年に両眼の視力を失ってしまいました。そのころライプチヒに来ていた英国の名医によって二度も手術を受けましたが、ついに全くの盲目になってしまいました。

それ以来、バッハの生活は昼も夜も暗黒に包まれてしまいました。しかし、作曲活動は依然として続けられ、ついにその暗黒の日々の中からカンタータ第106番「神の時は最上の時なり」を作り上げたのです。

「神の内に私たちは生き、動き、在在する 神の意思であるかぎり。

私たちは最善の時に神の中で死ぬ、神が望まれる時に。                   

あぁ主よ、私たちの心に刻んでください、我々が死すべき者であることを、我々が賢明になるために。

あなたの家を整理せよ。あなたは死ぬ 生き続けるのではない。

これが いにしえの契約;人は必ず死ぬ。   

そうです、主イエスよ、来てください!」

 (「カンタータ第106番「神の時は最上の時なり」対訳:國井 健宏

ここに、バッハの心の思いが表れています。私たちは、神の内に生き、動き、在在しているのです。そして、神の最善の時に死にます。この神の時が最上の時なのです。自分であれこれと頑張らなくてもいいのです。神の時を待ち望むことが重要なのです。すべてのことに定まった時があるのですから。それゆえ、この神にすべてをゆだね、神のみ旨に生きる人こそ、真に幸いな人だと言えるのではないでしょうか。

Ⅱ.神のなさることは時にかなって美しい(9-11)

次、に9-11節をご覧ください。「働く者は労苦して何の益を得るだろうか。私は、神が人の子らに従事するようにと与えられた仕事を見た。神のなさることは、すべて時にかなって美しい。神はまた、人の心に永遠を与えられた。しかし人は、神が行うみわざの始まりから終わりまでを見極めることができない。」

9節は、1節から8節までの結論です。すべてのことには定まった時期があり、天の下のすべての営みには時があるのならば、私たち人間がどんなに頑張ってもそれに何かを付け加えたり、差し引いたりすることはできません。したがって、私たちがどんなに労苦しても何の益も得られないということになります。

しかしその一方で、伝道者は「神のなさることは、すべて時にかなって美しい。」と言っています。すばらしいことばです。天の下のすべての営みには時がありますが、神がなさることは、すべて時にかなって美しいのです。

この「時」とは、へブル語で「エーマ」と言いますが、これは時間で計ることができる「時」ではなく、計ることができない時です。私たちは、有限な時間の中に生きていますが、この「神の時」はその時間の中に、突如として現れるものです。人生には、「あのとき、あの人に出会ったから、今ここにいる」とか、「あのときあの場所に行ったから、あの人に出会うことができた」ということがあります。あとから振り返ってみると、それは私たちの運命を決める決定的瞬間の「時」であったわけです。ある人はそれを偶然と言う人もいるし、神の摂理だという人もいますが、私たちの人生には、確かにそういう時があるのです。一瞬、時間が止まり、突然、神が介入したかのような不思議な「時」です。その時が人生を決めることがあります。神のなさることは、すべてその時にかなって美しいのです。

「神はまた、人の心に永遠を与えられた。」第三版には、「永遠の思いを与えられた」とあります。人は本能的に、有限な時間の先に何かがあることを感じながら生きています。なぜなら、神は人を造られた時、ご自身のかたちに創造さられたからです。永遠に神とともに生きるように造られました。ですから、人間の中にはどこか永遠の世界へのあこがれがあるのです。動物が巣に帰る、帰巣(きそう)本能があるように、人間も本来いるべきところに帰りたいという本能があるのです。この伝道者が「空の空。すべては空。」と言ったのはそのためです。心の赴くままに、ありとあらゆることを楽しんだとしても空しさを感じたのは、この地上は永遠の世界ではないからです。人の心に永遠の思いが与えられているならば、その永遠の今を生きることこそ、真の解決につながるのです。

ところで、その後の言葉を見てください。ここには、「しかし人は、神が行うみわざを始まりから終わりまで見極めることができない。」とあります。人間は絶対者であられる神が持っている計画の全貌を知ることができません。神の計画を知らないでいくら労しても、それは空しい結果をもたらすだけです。せっかく上向いてきた伝道者の心が、ここでまたトーンダウンしています。「やっぱりだめだ」という思いになっているのです。いったいこれはどういうことでしょうか。

すべての営みに時があります。そして、神のなさることは、すべてその時にかなって美しいのです。神は、私たちの思いをはるかに超えた神のタイミングで、また、想像もしなかったご自身の方法でその御業を成してくださいます。しかし、その時は隠されているため、人はその時を見極めることができないのです。確かに、生まれる時と死ぬ時は、どんなに知恵を尽くしても、力を尽くしても、人には知ることも、変えることもできません。私たちは、そのことを理解しているので、人間の誕生の神秘に驚いたり、死の厳粛さを覚えるのです。しかし、ほかの「時」はどうでしょうか。日々のスケジュールを自分で決めて、人生の選択を自ら下しながら生きています。そのため、自分の人生は自分で完全にコントロールしている、コントロールできるものだと思い込んでいます。

ですから伝道者はここで、「しかし人は、神が行うみわざの始まりから終わりまでを見極めることができない。」と言ったのです。「神の時」は、いつ、どんな形でやってくるかわかりません。であれば、私たちは、この「時」を支配しておられる神の前にひれ伏し、へりくだるしかありません。「神の支配」と聞くと、「自分の人生は自分で決めるんだ」と反発する人もいるかもしれません。もちろん、人生は各人が自由に選択して、主体的に生きていくべきです。しかし、神の行うみわざを、初めから終わりまで見極めることはできないのは事実です。であれば、私たちにできることは何でしょうか。その神の時に身を任せ、その中で、神の時を待ち望むことではないでしょうか。

愛喜恵のためにお祈りいただきありがとうございます。愛喜恵はシカゴの大学を卒業することができ、現在は来年1月から大学院で学ぶための準備をしています。しかし、生活のために何らかの仕事をしなければならないと、3月頃からずっと仕事を探していましたが、コロナウイルスの影響もあってなかなか見つけることができませんでした。車いすの状態ということもあって仕事も限られおり、どうしようかと悩んでいましたが、奇跡的に与えられました。それはノーストリッジグループという会社なのですが、電話でクレームの対応をしている人を評価する仕事です。その会社の顧客には日本の会社もあるので、日本語ができて、なおかつ日本人の心というか、文化もある程度理解できる人ということで採用されたようです。それは意外と時給も高く、チャレンジのある仕事で、自分のスケジュールに合わせて働くことができるので大学院での学びにも影響することがないという点でベストな仕事でした。本人もよほどうれしかったんでしょうね、珍しくラインでメッセージが届きました。

「神様は、いつも祈りに答えてくれる。それが、グレースが願っていた時と違うかもしれないけれども、神様は人生において、完璧な計画を持っていて、神様のタイミングで、恵みを与えてくださる!・・・3月から仕事を探していて、9からの仕事。半年間、仕事が見つかるかとか、インタビューしても、返事がなかったり、ストレスや困難が続いていたけれども、恵みに満たされて、神様はいつもその痛み、嘆きを聞いてくださる!」

本人としては、かなりストレスがあったんでしょう。そんな苦しみの中で主に祈ったとき、主がベストのタイミングで、ベストの仕事を与えてくださいました。

神のなさることは、すべて時にかなって美しい。このみことばは、あなたの人生においてもしかりです。神は、あなたの人生にも時にかなって美しいことをされるのです。そのことを信じて、神にすべてをゆだねて歩みたいと思います。

Ⅲ.神がなさることは永遠に変わらない (12-15)

最後に12-15節を見て終わりたいと思います。「私は知った。人は生きている間に喜び楽しむほか、何も良いことがないのを。また、人がみな食べたり飲んだりして、すべての労苦の中に幸せを見出すことも、神の賜物であることを。私は、神がなさることはすべて、永遠に変わらないことを知った。それに何かをつけ加えることも、それから何かを取り去ることもできない。人が神の御前で恐れるようになるため、神はそのようにされたのだ。今あることは、すでにあったこと。これからあることも、すでにあったこと。追い求められてきたことを神はなおも求められる。」

ここでのキーワードは「知った」という言葉です。この言葉が繰り返して使われています。伝道者は何を知ったのでしょうか。まず12節には、「私は知った。人は生きている間に喜び楽しむほか、何も良いことがないのを。」とあります。彼は、人の心には永遠の思いが与えられていることを知っていました。しかし、働く者が労苦して何の益もないとしたらも、果たして人生にはどんな意味があるというのでしょうか。彼は、人は生きている間に喜び楽しむことのほかは、何も良いことがないことを知ったのです。しかし、これまでの心境に変化が見られるのは、それだけで終わっていないことです。13節では、「また、人がみな食べたり飲んだりして、すべての労苦の中に幸せを見出すことも、神の賜物であることを。」と言っています。人が食べたり飲んだりして、すべての労苦の中に幸せを見出すことができるとしたら、それもまた神の賜物だということも知ったのです。

伝道者はまた、神がなさることはすべて、永遠に変わらないことも知りました。それゆえ、それに何かをつけ加えたり、取り去ったりすることはできません。人間は何かとつけ加えたがります。たとえば、神の救いについても、キリストの十字架だけでは足りないと、それに何かをつけ加えようとするのです。たとえば、信じるだけでは足りない、もっと聖書を読まなければならない。もっと祈らなければならない。もっと奉仕をしなければならない。もっと献金をしなければならない。もっと伝道しなければならない。もっといい人にならなければない、といろいろとつけ加えようとするのです。律法主義と呼ばれるものです。そうでないと救われないし、神に祝福してもらえない、神に認めてもらえないと考えるのです。しかし、そうではありません。神の救いの御業は完了しているのです。あなたはそれに何かをつけ加える必要は全くないのです。私たちは神の一方的な恵みによって、救い主イエス・キリストを信じる信仰によって救われたのであって、その神に感謝し、喜んで主に仕えるのです。これが福音です。

 また、取り去ろうとしてもなりません。神が語られることについて、それをすべて自分に語られたこととして受け入れなければなりません。それが他人について語られている分にはうなずいて、その通りだと言いますが、自分に語られていることだと思うと、どこか割り引いて受け止めようとする傾向があります。そして、自分に都合の良い部分だけを選り好みして聞いてしまうのです。そのように自分の都合に合わせた受け止め方、自分主体になるのではなく、神主体に、神が語られたすべてを受け入れなければならないのです。それは、私たちが神を恐れるようになるためであり、神の計画に従って生きるためです。

15節には「今あることは、すでにあったこと。これからあることも、すでにあったこと。追い求められてきたことを、神はなおも求められる。」

神が支配される歴史は、同じことの繰り返しです。今あることは、すでにあったこと、これからあることも、すでにあったことです。追い求められてきたことを、神はなおも求められます。つまり、永遠に変わることのない完全な神の御業を認め、その神を恐れて生きることこそ、それがすべての問題の解決なのです。

私たちの人生は空です。それはほんの束の間です。しかしその空しい人生は、神が定めた「時」に支配されています。その不思議な神の時で満ちた人生は、謎に満ちていると言うほかありません。生まれる時も、死ぬ時も、いや私たちの人生のすべてが、神の時で満ちているのです。

人間は、有限な時間のあとを追いかけるようにして生きています。しかし、どんなに「時」をつかもうとしても、決して掴むことはできません。この手で「時をつかんだと思っても、すぐに指の間からこぼれ落ち、手には何も残りません。それだけではありません。人生には、どんなに避けようとしても、避けられない「時」もあります。すべてのことには定まった時があるのです。その「時」は、悪い時だけではありません。今、悪い時と思っても、あとから振り返ると、意味のある時だったとわかる時がくるでしょう。そんな今という「時」が、神からの賜物として私たち一人一人に与えられているのです。

であれば、たとえ人生が空、ヘベルであっても、あるいは、人生に悲しみや痛み、辛さといったものがあっても、いや、そうした現実だからこそ、むしろ、神から与えられた今という「時」を生きるようにと伝道者は語っているのではないでしょうか。すべての営みには時がある。その神の時を見極めながら、神のなさることに期待して、永遠の今を生きていきたいと思うのです。

神のみこころのままに 伝道者の書2章12~26節

2020年10月4日(日)礼拝メッセージ

聖書箇所:伝道者の書2章12~26節(旧約P1139)

タイトル:「神のみこころのままに」

 伝道者の書から学んでおります。きょうは、2章後半の箇所から「神のみこころのままに」というタイトルでお話しします。

エルサレムの王、ダビデの子、伝道者ソロモンは、日の下で行われるすべてのことを見て、そこに何の益も見出すことができないと、「空の空。すべては空」と言いました。たとえば、この自然界を見てもそうです。一つの時代が去り、次の時代が来ますが、地はいつまでも変わることがありません。日は昇り、日は沈み、また、元の昇るとこへと帰ってきます。風は南に吹いたかと思うと、巡り巡って北に吹きますが、結局のところ、巡る道に帰って来ます。川はみな海に流れ込みますが、また元の場所に戻ってきます。つまり、同じことを繰り返しているだけなのです。

私たちの人生はどうでしょうか。私たちの人生も、もっと何かがあると思って、その満ち足りない心を埋めようとしますが、川が海を満たすことがないように、決して、人の心が満たされることはありません。「これを見よ。これは新しい」と言われるものがあっても、よく調べてみると、昔からすでにあったものにすぎません。

そこで伝道者は、日の下に何か益になるものはないかと探究します。彼はまず、知恵と知識を得ました。しかし皮肉なことに、知恵が多くなると悩みも多くなり、知識が増すと苛立ちも増しました。

次に試してみたのは、笑いと快楽でした。しかし、それもまた、空しいものでした。

それでは、事業を拡張したらどうでしょうか。そこで彼は自分の事業を拡張し、自分のために邸宅を建て、いくつものぶどう畑を設け、いくつもの庭と園を造り、そこにあらゆる種類の果実を植えました。木の茂った森を潤すために、いくつもの池も造りました。たくさんの男女の奴隷を得、多くの牛や羊、金、銀、財宝を集めました。毎晩有名なエンターテーナーを招き、ショーを催しました。人の子らの快楽である、多くの女性も手に入れました。彼は心の赴くままに、あらゆることを楽しみましたが、すべては空しく風を追うようなものでした。日の下には何一つ益になるものはなかったのです。

これが私たちの人生です。日の下でどんなに労苦しても、それらのものは私たちの人生に何の益ももたらしません。あの人はいいなぁ、あんたにお金持ちで、あんな豪邸に住んで、優秀な家族がいて、社会的にも地位があって、どんなに幸せなんだろうと思うことがありますが、そうでもないということです。日の下で、神様の抜きの生活は、たとえ心の赴くままに、あらゆることを楽しんだとしても、実に空しいのです。風を追うようなものなのです。それでは、どうしたらいいのでしょうか。ソロモンは、さらに二つのことに着目してその解決を求めます。

Ⅰ.知恵の空しさ(12-17)

まず、知恵です。12節から17節までをご覧ください。14節までをお読みします。「私は振り返って、知恵と狂気と愚かさを見た。そもそも、王の跡を継ぐ者も、すでになされたことをするにすぎない。私は見た。光が闇にまさっているように、知恵は愚かさにまさっていることを。知恵のある者は頭に目があるが、愚かな者は闇の中を歩く。しかし私は、すべての者が同じ結末に行き着くことを知った。」

伝道者が行ったさまざまな探究は、空しい結果に終わりました。そこで彼は、次に知恵ある生き方と愚かな生き方を比較し、どちらの方が優れているかを探ろうとしました。その結果は、彼の跡を継ぐ後継者たちにも伝えられます。なぜなら、後継者たちがこれ以上のことを発見することはないからです。1:9に、日の下には新しいものは一つもないとあったように、「これを見よ。これは新しい」と言われるものがあっても、それは前の時代にすでにあったものにすぎません。ですから、彼の後継者たちが、これ以上のものを発見することはありません。

そして、わかったことは何ですか。知恵は愚かさに勝っているということです。光が闇にまさっているように、知恵は愚かさにまさっています。当たり前と言えば当たり前のことですが、14節には、「知恵のある者は頭に目があるが、愚かな者は闇の中を歩く。」とあります。知恵のある者は頭に角があるのではなく目があります。これはどういうことかというと、先が見通せるということです。将来の具体的な人生設計まで描くことができます。しかし、愚かな者はそれができません。愚かな者は闇の中を歩くからです。闇の中を歩く者は、心が盲目なので先を見ることができないのです。だから、闇の中を歩くしかありません。

しかし、です。確かに知恵のある者は愚かな者にまさっています。しかし、両者の結末はどうでしょうか。同じ結末に行き着きます。同じ結末とは、死ぬということです。どんなに知恵があっても、あるいは愚かであっても、結局のところ、どちらも死ぬわけです。死ぬときは何も持って行くことができません。よく言われますよね。「あなた、どんなに稼いだって、死ぬときは何も持っていけないのよ。」人は皆裸で生まれ、裸で死んで行きます。どんなに棺桶の中にいろいろな物を入れたとしても、すべて焼かれて無くなってしまいます。あの世には何も持っていくことはできないのです。どんなに知恵があっても・・。

そこで伝道者は何を思うのでしょうか。15節をご覧ください。「私は心の中で言った。「私も愚かな者と同じ結末に行き着くのなら、なぜ、私は並外れて知恵ある者であったのか。」私は心の中で言った。「これもまた空しい」と。」

伝道者はこう考えます。もし自分も愚かな者と同じ結末を迎えるのであれば、なぜ、知恵を追及する必要があるのか。死の現実を考えると、生涯をかけて知恵を追及することに、いったい何の意味があるというのでしょう。これもまた空しいことです。

16-17節を見てください。「事実、知恵のある者も愚かな者も、いつまでも記憶されることはない。日がたつと、一切は忘れられてしまう。なぜ、知恵のある者は愚かな者とともに死ぬのか。私は生きていることを憎んだ。日の下で行われるわざは、私にとってはわざわいだからだ。確かに、すべては空しく、風を追うようなものだ。」

事実、知恵ある者も愚かな者も、いつまでも記憶されることはありません。どんなに有名な人でも、ノーベル賞を取るような偉大な人でも、死んでしまうと、いつかは忘れられてしまいます。悲しいですね。

「大田原キリスト教会の牧師、だれだったか覚えている。」

「ええと、大橋富男という人じゃない。」

「あっ、そう」

「だれ、それ?」

こんな感じです。でも、これが現実です。すぐに忘れ去られてしまいます。その現実を悟った伝道者は何と言っていますか。「私は生きていることを憎んだ。」と言っています。生きていること自体を憎むようになりました。最近、テレビのドラマで俳優の三浦春馬さんを見ることがあります。亡くなる前に収録されたのでしょう。番組の終わりには、「三浦春馬さんは・・お亡くなりになりました。ご冥福をお祈りいたします。」というテロップが流れます。生前の三浦春馬さんのお顔を見ながら、いったいどんなお気持ちだったんだろうと思います。つい最近も、私の好きな女優さんで竹内結子さんが亡くなりました。詳しい事情はわかりませが、もしかしたら、この伝道者と同じような気持ちだったのかもしれません。伝道者は、「日の下で行われるわざは、私にとってわざわいだからだ。」と言っています。すべては空しく、風を追うようなものだったのです。

人生を真剣に考えれば考えるほど、同じような結論に達するのではないでしょうか。死という現実の前に、私たちは何の成す術もありません。この伝道者の絶望は、私たち現代人の絶望でもあります。日の下でどんなに労苦しても、それが人にとっていったい何の益になるでしょうか。すべては空しく、風を追うようなものです。私たちの人生は、この地上生涯を越えたところに生きる目標を持たない限り、何の希望も見出せず、空しいままで終わってしまうのです。

Ⅱ.労苦のむなしさ(18-23)

次に伝道者が着目したのは「労苦」です。18~19節をご覧ください。「私は、日の下で骨折った一切の労苦を憎んだ。跡を継ぐ者のために、それを残さなければならないからである。その者が知恵のある者か愚か者か、だれが知るだろうか。しかも、私が日の下で骨折り、知恵を使って行ったすべての労苦を、その者が支配するようになるのだ。これもまた空しい。」

伝道者は、日の下で骨折った一切の労苦を憎みました。なぜでしょうか。跡を継ぐ者のために、それを残さなければならないからです。なぜそれが問題なのでしょうか。立派なことじゃないですか。そうです、立派なことです。跡を継ぐ者のために自分が労苦して残してあげる。立派なことです。問題はその跡を継ぐ者がどういう者であるかがわからないことです。その者が知者なのか、それとも愚かな者なのか、だれも知ることができません。その知らない者が、自分が骨折り、知恵を使って築いてきた財産を、支配するようになるのです。

事実、ソロモンの後継者はレハブアムという息子でしたが、彼は本当に愚かな者でした。ソロモンが築いた国の繁栄と栄華を、国家を二分させることで台無しにしたからです。彼については列王記第一12:6以降に記されてありますが、父ソロモンが生きている間ソロモンに仕えていた長老たちの助言を退け、自分に仕えている若者たちの助言を受け入れてイスラエルの民のくびきを重くしたため、結局、国が二分されることになってしまいました。そしてそれ以降、北はアッシリア帝国に、南はバビロニア帝国に捕囚され衰退の一途をたどることになりました。ソロモンが建てたエルサレムの神殿も破壊されてしまいます。日本でも、初代起こして、二代目まずまず、三代目につぶれるということを耳にすることがありますが、自分の跡を継ぐ者がどういう者であるかが、企業においても、教会においても、非常に重要なことです。しかし、それがどういう者なのかが分からないのです。ソロモンの場合は、自分のすぐ下、二代目でつぶれました。イスラエル王国はダビデによって盤石なものとされ、ソロモンによって黄金期を迎えましたが、三代目のレハブアムの時に衰退の一途をたどることになったのです。ですから、自分がどんなに汗水たらして一生懸命働き、立派なものを残したとしても、それを継ぐ者がそれをちゃんと使ってくれるかというと、その保証はありません。これはまた空しいことです。そういう目的のために労苦することも空しいことです。せっかく努力して築き上げたものが台無しにされてしまうのですから。逆に、そうしたものが仇になってしまうことさえあります。こうやって見ると、聖書って非常に現実的ですね。

20~21節をご覧ください。「私は、日の下で骨折った一切の労苦を見回して、絶望した。なぜなら、どんなに人が知恵と知識と才能をもって労苦しても、何の労苦もしなかった者に、自分が受けた分を譲らなければならないからだ。これもまた空しく、大いに悪しきことだ。」

伝道者は、日の下で骨折った一切の労苦を見回して、絶望しました。21節には、「これもまた空しく、大いに悪しきことだ」とあります。「大いに悪しきことだ」は、第三班では「非常に悪いことだ」と訳されています。これが悲観主義の根底にあるものです。「非常に悪い」という感情に支配されることです。非常に悪いという感情に支配されますと、悲観的になってしまいます。どんなに人が知恵と知識と才能をもって労苦しても、何の労苦もしなかった者に、自分が受けた分を譲らなければならないとしたら、そして、その築き上げたものが台無しにされてしまうとしたら、いったい労苦そのものに何の意味があるというのでしょう。何もありません。これもまた空しいことです。最悪です。

それゆえ伝道者は、この労苦について次のように結論しました。22~23節です。ご一緒に読みましょう。「実に、日の下で骨折った一切の労苦と思い煩いは、人にとって何なのだろう。その一生の間、その営みには悲痛と苛立ちがあり、その心は夜も休まらない。これもまた空しい。」

日の下で骨折った一切の労苦と思い煩いは、人にとって何の意味もありません。その営みには悲痛と苛立ちがあり、その心は夜も休めないのです。なかなか眠れません。どうですか、皆さん、共感するところがあるのではないでしょうか。毎日、朝から晩まで働いても、その労苦と思い煩いは、いったい何なのでしょうか。そう考えると早く退職して、自分の好きなことでもして、ゆっくりと過ごしたいと思うのもわかります。やっとその歳になったかと思ったら、病気にかかって死んでしまうということも少なくありません。そうであるなら、日の下だけを見て労苦することがどんなに空しく、悲しいことであるかがわかります。そこには絶望しかありません。

しかし、私たちは日の下だけではなく、日の上があることを知っています。そして、日の下での私たちの労苦はその日の上でのためであり、そこでもたらされる報いにつながるものであるということを知っているのです。Ⅰコリント15:58には、「ですから、私の愛する兄弟たち。堅く立って、動かされることなく、いつも主のわざに励みなさい。あなたがたは、自分たちの労苦が主にあって無駄でないことを知っているのですから。」とあります。「ですから」とは、私たちは、一瞬のうちに変えられるのですから、という意味です。すなわち、終わりのラッパが鳴るとき、死者は朽ちないからだ、栄光のからだ、霊のからだによみがえるからです。そのとき、「死は勝利に呑まれた」と記されたみことばが実現します。そうです、神は、私たちの主イエス・キリストによって、私たちに勝利と希望を与えてくださいました。「ですから」です。この死に対する勝利、永遠の希望が与えられている人にとって、日の下での私たちの労苦は決して無駄ではありません。確かにどんなに労苦しても、人は死ななければならない存在であることを思うと、この地上での労苦に何の意味も見出せないかもしれませんが、しかし、日の下での労苦が日の上に続くものであることを知るなら、それは決して無駄ではないことがわかるのです。この地上で主に対して行われた労苦が、天の上でもたらされる報いから漏れることがないということを思うとき、むしろ、喜んで主のわざに励むことができるのです。

Ⅲ.神のみこころを求めて(24-26)

ですから、第三のことは、神のみこころを求めて生きましょうということです。24~26節をご覧ください。「人には、食べたり飲んだりして、自分の労苦に満足を見出すことよりほかに、何も良いことがない。そのようにすることもまた、神の御手によることであると分かった。実に、神から離れて、だれが食べ、だれが楽しむことができるだろうか。なぜなら神は、ご自分が良しとする人には知恵と知識と喜びを与え、罪人には、神が良しとする人に渡すために、集めて蓄える仕事を与えられるからだ。これもまた空しく、風を追うようなものだ。」

「食べたり、飲んだりして」とは、ただいのちをつなぐだけの人生のことです。人には、食べたり飲んだりして自分の労苦に満足を見出すことよりほかに、何も良いことがありません。しかし、そのようにすることもまた、神の御手によるのです。つまり、それもまた神の恵みによるのであって、神を除外してはあり得ないことなのです。実に神から離れては、だれも食べだれも楽しむことはできません。イエス様はマタイ6:34で、「ですから、明日のことまで心配しなくてよいのです。明日のことは明日が心配します。苦労はその日その日に十分あります。」と言われました。明日のための心配は無用です。明日のことは、明日が心配します。労苦はその日その日に十分あります。だれが、明日どうなるかを知っているでしょうか。私たちは、しばらくの間現れてすぐに消えてしまう霧にすぎません。であれば、「主のみこころであれば、私たちは生きて、このこと、あるいは、あのことをとよう」と言うべきではないでしょうか。ヤコブは、彼の手紙の中でそのように勧めています(ヤコブ4:13-15)。それなのに私たちは、「今日か明日、これこれの町に行き、そこに一年いて、商売をしてもうけよう」と言うのです。これは、神を無視して富だけを追及する罪人たちへの警告であります。罪人は神を無視して富だけを追い求めるので、日毎に与えられる糧にさえ満足できないのです。使徒パウロは言いました。「この世で富んでいる人たちに命じなさい。高ぶらないように。また、たよりにならない富に望みを置かないように。むしろ、私たちにすべての物を豊かに与えて楽しませてくださる神に望みを置くように。」(Ⅰテモテ6:17)

それゆえ、伝道者の結論は何かというと、26節です。ご一緒に読みたいと思います。「なぜなら神は、ご自分が良しとする人には知恵と知識と喜びを与え、罪人には、神が良しとする人に渡すために、集めて蓄える仕事を与えられるからだ。これもまた空しく、風を追うようなものだ。」

神のみこころにかなう生き方をする人には知恵と知識と喜びが与えられるが、罪人には労苦の人生が与えられることになります。この伝道者の書のことばで言うなら、こういうことです。12:13-14、「結局のところ、もうすべてが聞かされていることだ。神を恐れよ。神の命令を守れ。これが人間にとってすべてである。神は、善であれ悪であれ、あらゆる隠れたことについて、すべてのわざをさばかれるからである。」

あなたはどうですか。食べること、飲むことに執着するあまり、それを豊かに与えておられる神に目を向けているでしょうか。

リビングライフのエッセイに、韓国のイ・チェチョルさんの証があります。ハンさんという聖徒が日曜日に礼拝をささげるために子どもたちと一緒にタクシーに乗りました。料金を払おうとして1万ウォンを出すと、運転手はおつりがないと言いました。ハンさんは子どもたちから小銭を借りて支払いましたが、その運転手から1万ウォンを返してもらっていないことに気付きました。しかし、手遅れでした。タクシーはもう行ってしまったのです。ハンさんは不愉快になりました。しかし、その瞬間「心の貧しい者は幸いです。天の御国はその人のものだからです。」(マタイ5:3)とのみことばが思い浮かび、「神様がお金に対する執着を捨てる訓練をさせてくれているのだ」と悟り、心が平安になりました。

子どもから借りたお金を返そうと近所の店で両替していると、子どもが叫びました。「お母さん!さっきタクシーのおじさんが、道の向こう側から窓の外に1万ウォンを振りながら小道に入って行ったよ。行ってみよう。」

しかし、ハンさんは次のように答えました。「いいのよ。あのおじさんは、あのお金を受け取る価値がある人なの。あの1万ウォンよりももっと大切な平安をお母さんにくれたんだから。」そして道を歩きながら心の中で祈りました。「イエス様、もしあの人がイエス様のことを知らないなら、きょうをきっかけに主を信じて、この平安が与えられますように。」

すごいですね。生活のすべてに主が生きて働いています。「主のみこころなら、私たちは生きて、このこと、あるいは、あのことをしよう」というみことばに生きておられます。これこそ、伝道者が見出した結論でした。

あなたはどうですか。人は、神から離れては真の幸福を得ることはできません。それがなかったら、すべてが空しいだけでなく、絶望的な人生となってしまいます。しかし、神を恐れ、神とともに生きるなら、そこに感謝と喜びと平安が溢れるようになります。実に、人の幸せは神の御手にかかっているのです。神が恵みを施してくださらない限り、私たちは生きることがでないのです。神を喜ぶ人、神を喜ばせる人、神を第一にして生きる人に、神はこの世の知らない平和と喜びとあらゆる恵みを与えてくださいます。人の手ではなく、神の御手によるものが、私たちを幸せにするのです。

あなたの心を満たすもの  伝道者の書2章1~11節

2020年9月27日(日)礼拝メッセージ

聖書箇所:伝道者の書2章1~11節(旧約P1139)

タイトル:「あなたの心を満たすもの」

 前回から伝道者の書を学んでおります。前回もお話ししたように、この書のポイントはこれです。1:3「日の下でどんなに労苦しても、それが人に何の益になるだろうか。」「日の下」というのは「日の上」に対する表現で、神様抜きの、神様なしのという意味です。神様なしの人生は、実に空しい。どんなに楽しいことやすばらしいことをやっても、イマイチ心が満たされません。喜び、平安がありません。全然ないと言っているのではありません。イマイチなのです。それをやっている時はいいのですが、その後で急に空しさが襲って来ることがあります。日の下でどんなに労苦しても、それは人にとって何の益にもならないのです。

伝道者は「空の空。すべては空。」という言葉を繰り返して語っています。「空」という言葉は、文字通り「空っぽ」という意味です。実がないのです。見てくれは良くても、中身は空っぽです。それは煙のようにつかみようがありません。伝道者はいろいろな人生の経験を通して、このことを語るのです。たとえば、知恵とか知識ですね。人はみないろいろなことを学びたいし、知りたいです。私たちは好奇心でいっぱいですのでどの本屋さんも、どの図書館も、いつも人が絶えません。新しい情報、新しい知識、そうした知的関心や好奇心が旺盛なのです。しかしこの伝道者は、1:16に「今や、私は、私より前にエルサレムにいただけよりも、知恵を増し加えた。」とあるように、いろいろなことを知ろうと熱心に知恵、知識を増しました。もう知識王ですよ。もしクイズ王決定戦にでも出ようものなら、ピンポーン、ピンポーンと、すぐにスイッチを押して答えられるような人でした。本当にいろいろなことを知っていて、彼に抜きん出るような人はいませんでした。それほどよく学んだ人だったのです。

 ところが、それほど多くの知識を得た伝道者は何と言いましたか。1:17には、「それもまた、風を追うようなものだ。」とあります。「空」です。「ヘベル」です。いろいろなことを学び、いろいろなことを探究しましたが、彼の心にあったものは、風を追うようなもの、つまり、何とも掴みようのないもの、ヘベルだったのです。むしろ、知恵が多くなることで皮肉なことに悩みも多くなりました。知識を増したことで、苛立ちも増しました。何か物事が整理できたかというとそうではなく、学べば学ぶほど、聞けば聞くほど、知れば知るほど、逆に心の中には喜びや満足感といったものが消え失せ、不安や恐れ、空しさが残ったのです。きょうの箇所はその続きです。

Ⅰ.快楽を味わってみて (1-2)

まず、1節と2節をご覧ください。「私は心の中で言った。「さあ、快楽を味わってみるがよい。楽しんでみるがよい。」しかし、これもまた、なんと空しいことか。笑いか。私は言う。それは狂気だ。快楽か。それがいったい何だろう。」

 伝道者が次に試してみたのは快楽でした。快楽を味わってみるということです。彼は心の中でこう言いました。「さあ、快楽を味わってみるがよい。楽しんでみるがよい。」彼は人生を十分楽しむことができれば、人は幸せになることができるのではないかと考えたのです。ソロモン王は最高の知者であるのみならず、富者、大金持ちでもありました。列王記第一10章を見ると、彼がどれほどの富を持っていたかがわかります。彼のところには1年間に666タラント、すなわち、数億円もの金が入ってきました。このほかに、隊商から得たもの、貿易商人の商いから得たもの、アラビアのすべての王たち、およびその地の総督たちからのものがありました。彼は、大縦1つに六百シェケルの金を使いました。大盾とは、足から頭まですっぽりおおってしまう大きな盾のことですが、これをすべて延べ金で作ったのです。六百シェケルは数十万円の価値になるでしょうか。金ですから、初めから戦うための実用性はなく、威光を表していた過ぎません。また延べ金で盾三百を作り、レバノンの森の宮殿に置きました。そこには大きな象牙の王座を作り、これにも純金をかぶせました。彼が飲み物に用いる器もすべて金です。レバノンの森の宮殿にあった器もすべて純金で、銀の物はありませんでした。銀はソロモンの時代には価値あるものとは見なされていなかったのです。それだけ富んでいたということです。私の名前も富んでいる男ですが、数億倍、いやそれ以上の違いがあります。信じられないほど富んでいました。ということはどういうことかというと、どんな快楽でも味わうことができたということです。

 まあ、私たちも庶民の快楽を味わうことがあります。この辺は温泉も近いですから、ちょっと車を走らせるとゆったりと温泉に入ることができます。佐久山温泉。那須温泉。大田原温泉。喜連川温泉。いろいろありますね。私も温泉に入るのは好きですが、もう一年以上行っていません。寒い日などに行くことがありますが、本当に気持ちがいいです。他にも、楽しいことはたくさんあります。私の趣味は食い道楽なんですが、さくらに向かう途中、佐久山温泉の近くに小さな和菓子屋さんがあって、そこを通るたびに「アンドーナッツあります」という張り紙がしてあるんです。しかも、土日限定です。私は小さい時から母が買ってくれた「あぶら饅頭」の味を忘れられず、そこを通るたびに「ああ、食べたい」「ああ、食べたい」と言うものですから、家内が「だったら買って食べたら」と言うので買おうと思っても、いつも「本日完売」の張り紙が出ているのです。そうなると、ますます食べてみたくなるでしょう。ある日曜日さくらの教会に行く途中で言ってみたらありました。しかも最後の1袋でした。1袋に3つしか入っていなかったので、教会の皆さんの分はないなと、家内に1つ、私が2つ食べました。しかし、思っていたような味じゃなくてがっかりしました。でも楽しいものです。食べ歩きは。

 中にはカフェに行ったり、映画を観たり、野山を散策したり、釣りに行ったり、スポーツを観戦したり、農作物を作ったりと、いろいろなことを楽しんでおられるのではないかと思いますが、ソロモンが味わったのは私たちのそれとは比較にならないものでした。ありとあらゆる快楽を味わうことができたのです。そのソロモンが感じたことはどんなことだったか。1節、「しかし、これもまた、なんと空しいことか。」何とも冷めた言い方です。そうした快楽や楽しみは全く無意味なものであり、何の実りももたらさなかったのです。

 2節をご覧ください。ここには、「笑いか。私は言う。それは狂気だ。快楽か。それがいったい何だろう。」とあります。第三版は、「笑いか。ばからしいことだ」と訳しています。笑いは、内容にもよりますが、おもしろいですよね。私はよく「笑点」をよく見ますが、一つのお題に対して回答者が答えるわけですが、実におもしろい。よくぞまあこんなことを考えられるものだなあと感心してしまいます。何だか心が軽くなるのを感じます。でもそんな笑いさえも、この伝道者は狂気だと言い切るのです。もちろん、ここで伝道者が言っていることはそうした笑いそのものがばかばかしいとか、趣味や楽しいことが全く無意味だということではありません。ここで伝道者が言っていることは、日の下で行われること、つまり、神を抜きにしての快楽や笑いは空しいということです。人間が自らの手で満足を作り出そうとすることの愚かさを言っているのです。というのは、その背後には狂気と悲しみが潜んでいるからです。この新改訳聖書2017で、「笑いか。それは狂気だ。」と訳しているのはそのためです。神を無視した人生において、どんなに快楽と笑いを求めても、結局それは意味のないことであり、何の役にも立たないのです。

 心に病を抱えているひとりの男の人が、精神科医を訪ねました。彼は、極度のうつ病で苦しんでいたのです。それであらゆることを試してみましたが、なんの効果もありませんでした。朝目が覚めると、心に重いものがありました。その状態は、時間の経過とともに悪化して行きました。彼はこのままでは生きていくことができないと思い、助けを求めて精神科医のところに行きました。

 その日の診察が終わって部屋を出ようとした時、精神科医からこんな提案を受けました。「町の劇場でショーが行われているから、それを観に行くといいですよ。イタリア人のピエロが出ています。彼は毎晩、腹がよじれるほど観客を笑わせてくれます。あなたもそれを観て苦しいことを忘れ、2時間ほど笑ったらどうですか。治療効果があると思いますよ。」

 するとその患者は、無表情でこう答えました。「私がそのピエロなんです。」

 ですから、ここで伝道者はやみくもに快楽や笑いはみな悪いものだとか、必要ないものだと言っているのではありません。クリスチャンはこうした楽しいことをすべて避けるようにと勧めているわけでもないのです。むしろ、クリスチャンも笑いのある楽しい生活であったらいいと思います。しかし、その楽しみというのはこの世の楽しみとは違い、日の上での楽しみ、神の御前で喜ぶことです。

 ダビデは、人生における真の喜びについてこのように歌っています。「あなたは私に、いのちの道を知らせてくださいます。あなたの御前には喜びが満ち、あなたの右には、楽しみがとこしえにあります。」(詩篇16:11)

 クリスチャンの喜びとはこれでしょう。神の御前での喜びです。ダビデが経験した喜びは、この喜びでした。「日の下」ではなく、「日の上」での喜び、神の御前での喜びだったのです。あなたの御前には喜びが満ち溢れ、あなたの右には楽しみがとこしえにあります。

 いつだったか忘れましたが、私がまだ20代の頃、アメリカの家内を日本に派遣した教会の礼拝に行った時のことです。その教会の青年の方々が私たちを歓迎して礼拝後にポットラックパーティーを開いてくれました。その教会の牧師は、今はもう天国におられますがキュースターという牧師で、日本の宣教にとても重荷をもっておられた方で、私たちがアメリカに帰国するたびにいつも暖かくもてなしてくれました。その牧師から依頼されたのでしょう。青年の方々が私たちのために楽しい時を計画してくれたのです。

私たちが連れて行かれたのはある若い夫婦の家でした。バックヤードにはプールがあって、バーベキューができるスペースもありました。彼らはそこで思いっきりはしゃいでいました。私たちをウエルカムするのかと思ったら、私たちのことはそっちのけで、キャー、キャー言いながら自分たちが思いっきり楽しんでいるのです。そうかと思ったらランチの後で私たちについて話を聞きたいと言い、真剣に聞いて祈ってくれました。オンとオフがはっきりしているんですね。別に気取らないし、かた苦しさもないのです。本当にリラックスした一時でした。日の上での喜び、神の御前での楽しみというのはこういうことなんだなぁということを教えられたような気がしました。

 Ⅱ.愚かさを身につけてみて(3-8)

次に、3節から8節までをご覧ください。3節には、「私は心の中で考えた。私の心は知恵によって導かれているが、からだはぶどう酒で元気づけよう。人の子がそのいのちの日数の間に天の下ですることについて、何が良いかを見るまでは、愚かさを身につけていよう。」とあります。

そこで伝道者が次に考えたことは、ぶどう酒によって元気づけられることでした。ぶどう酒は伝道者が好んでいたものです。最良のぶどう酒を飲めば、からだは元気づけられるだろうと思ったのです。さらに「愚かさ」も身に着けてみることにしました。「愚かさ」とは1:17にも出てきましたが、「知恵」と真逆のものです。そこにも、知恵と知識を、そして、念のためにその真逆の狂気と愚かさを知ろうと心に決めたとあるように、自由奔放に生きる方が楽しいとは思うが、何が良いかを見つけるまでは、念のために愚かさも試してみようとしたのです。しかし彼の心は知恵によって導かれていたので、完全に愚かになることはありませんでした。心のどこかでブレーキをかけながら、からだはぶどう酒で元気づけようとしたのです。そういう時がありますよね。ちょっと羽目を外してみようと思っても、心のどこかでブレーキをかけているということが。そうやって少し愚かさを試してみようとしましたが、それでも彼の心が満たされることはありませんでした。

そこで伝道者が次にしたことは、自分の事業を拡張することでした。4-6節をご覧ください。「私は自分の事業を拡張し、自分のために邸宅を建て、いくつものぶどう畑を設け、いくつもの庭と園を造り、そこにあらゆる種類の果樹を植えた。木の茂った森を潤すためにいくつもの池も造った。」

すごいじゃないですか。彼は自分に与えられた仕事や、さまざまな事業をどんどんやる人でした。今日でもすばらしい事業家、サクセスストーリーを歩んでいる人がいます。ソロモンも彼は彼なりにその時代、自分に与えられた仕事に一生懸命打ち込み、事業を拡大していったのです。そして豪邸も建てました。広々としたぶどう畑もいくつも造りました。立派な庭園も造りました。そんな暮らしにあこがれませんか。私の家の前はセブンイレブンなので、もっと静かで森に囲まられたところでクラスことができたらなぁと思うことがあります。ソロモンにはそれがありました。いくつもの庭と園を造り、そこにあらゆる種類の果樹も植えました。いいですね。園を歩きながらリンゴを取っては食べられる。いろいろな果実をとってそれをシリアルに入れれば、あとは牛乳を注ぐだけです。そして、その森を潤すために池も造りました。もう彼の右に出る人はいませんでした。それくらいのすばらしい事業を展開していたのです。

一方でまた男女の奴隷もいました。7-8です。「私は男女の奴隷を得、家で生まれた奴隷も何人もいた。私は、私より前にエルサレムにいただれよりも、多くの牛や羊を所有していた。私はまた、自分のために銀や金、それに王たちの宝や諸州の宝も集めた。男女の歌い手を得、人の子らの快楽である、多くの側女を手に入れた。」

ここをよく見ると、家で生まれた奴隷も何人もいたとあります。つまりお金で買った奴隷だけでなく、自分が所有していた奴隷が生んだ奴隷がいたということです。それだけ多くの奴隷がいたわけです。当時はどれだけ奴隷を所有しているかも、その人の豊かさのステータスであり、一つのバロメーターだったのです。そして同じ7節には、「私は、私より前にエルサレムにいただれよりも、多くの牛や羊を所有していた。」とあります。羊何頭、牛何頭を所有していたというのも、その人がいかに豊かな人であったか、富裕な人であったかを表していました。

そしてまた彼は、自分のために金や銀、それに王たちの宝や諸州の宝も集めました。もう珍しい金銀財宝をいっぱい手にすることができたのです。先ほども紹介したように、列王記第一10章を見ると、彼は銀を石ころのように使ったとあります。そしてシェバの女王など、諸国が宝をもって彼のところに貢ぎました。かつては無名の若い青年でした。そのソロモンが一代でここまで築くことができたというのはすごいことです。普通なら先代の成し遂げた事業の上にそれを拡張していくわけですが、彼は一代でここまで財を築きました。どれほど頑張って来たかがわかります。

さらに彼は男女の歌い手を得ました。ニューヨークのエンターテーメント、音楽、ショーを、毎晩自由に楽しむことかできたということです。そして人の子らの快楽である、多くの側女も手に入れました。列王記第一11章には、彼には七百人の王妃としての妻と、三百人のそばめがいたとあります。そんなに妻がいれば名前を覚えるも大変だったと思いますが、彼はそれだけの女性がいれば充足できるのではないかと思ったのです。しかし残念ながらその結果は、そうした妻たちによって心が転じられてしまうということでした。彼の心がほかの神々へと向けられ、イスラエルの神、主から離れることになってしまったのです。結局、そのようなものによって心が満たされることはありませんでした。後に残ったのは何ですか?ただの空しさだけでした。

いったい何が問題だったのでしょうか。決して事業を拡張したり、邸宅を建てたり、いくつものぶどう畑を設けたり、きれいな庭や園を造ったりすることが問題なのではありません。問題は、それがすべて自分のためであったことです。この4節から8節までには「自分のために」ということばが繰り返して用いられていることがわかります。「自分の事業を拡張し」、「自分のために邸宅を建て」、「自分のためにいくつものぶどう畑を設け」、「自分のためにいくつもの庭と園を造り」、「自分のためにそこにあらゆる種類の果樹を植え」ました。また、「自分のために銀や金」を集め、「自分のために男女の歌い手を得、人の子らの快楽である、多くの側女を手に入れました。」全部自分のためです。それは、自分の欲求にしたがって事業をするのだという意図です。

イザヤ書55:2にはこうあります。「なぜ、あなたがたは、食糧にもならないもののために金を払い、腹を満たさないもののために労するのか。わたしによく聞き従い、良いものを食べよ。そうすれば、あなたがたは脂肪で元気づく。」神に聞き従うことが、私たち人間にとって最良の食物なのです。自分のためではなく、神のために働き、神のために邸宅を建て、神のためにぶどう畑、庭や園、池を造り、神のために金銀財宝が用いられるなら、神の喜びと栄光で満たされるのです。

Ⅲ.すべてが空しい(9-11)

第三に、その結論です。9節から11節までをご覧ください。「こうして私は偉大な者となった。私より前にエルサレムにいただれよりも。しかも、私の知恵は私のうちにとどまった。自分の目の欲するものは何も拒まず、心の赴くままに、あらゆることを楽しんだ。実に私の心はどんな労苦も楽しんだ。これが、あらゆる労苦から受ける私の分であった。しかし、私は自分が手がけたあらゆる事業と、そのために骨折った労苦を振り返った。見よ。すべては空しく、風を追うようなものだ。日の下には何一つ益になるものはない。」

こうして彼は偉大な者となりました。それ以前にエルサレムにいただれよりも、です。彼は最高の富める者、富者になりました。しかも、その間、彼は知恵を失うことはありませんでした。9節後半の「私の知恵は私のうちにとどまった」とは、知恵を失うことがなかった、つまり、正気を保ったということです。もう知恵も豊かで、近くの国の王たちが謁見にやって来るほどでした。彼はそれほど知恵においても、働きにおいても、富においても、何事においても、成功した人だったのです。いろんな苦労もあったでしょう。しかし10節を見てもわかるように、彼はどんな苦労もいとわず、その苦労に立ち向かっていきました。しかし、どんなに物を手に入れても、いくら心の赴くままに、あらゆることを楽しんでも、彼の心が満たされることはありませんでした。彼は自分が手がけたあらゆる事業と、そのために骨折った労苦を振り返った結果、こう言いました。11節です。「見よ。すべては空しく、風を追うようなものだ。日の下には何一つ益になるものはない。」

本当に信じられないことばです。あんなにビジネスで成功し、立派な邸宅を建て、多くの財を築き、何もかもうまく行き、心の赴くままに、ありとあらゆることを楽しむことができたソロモンが、その労苦を振り返って発した言葉は、「見よ。すべては空しく、風を追うようなものだ。」ということだったのです。ここには書いてありませんが、ため息を入れるとピッタリするかもしれませんね。「見よ。すべてが空しいことか。ハァ~。風を追うようなものだ。日の下には何一つ益になるものはない。」これが、この時点における伝道者の正直な思いでした。私たちから見ればもっと喜んでいいはず、もっと感謝していいはず、もっと幸せですと言っていいはず、もっと私の人生は本当にすばらしいと言っていいはずなのに、彼は「空しい」と言ったのです。「すべては空しく、風を追うようなものだ」と。

何がこの伝道者の心に足りなかったのでしょうか。何が彼をしてそのように言わしめたのでしょう。その答えは11節の最後に書かれてあります。つまり、「日の下には何一つ益になるものはない。」ということです。「日の下」とは、先ほども申し上げたように、神様なしの、神様を無視した、ただ自分のために生きる人生という意味です。それが人の目にどんなに魅力的なもののように見えても、神様抜きの生活は空しいのです。それは、人は神のかたちに造られているからです。人は神と交わりを持ち、神のいのちをいただいてこそ、真に生きることができるからです。前回も紹介しましたが、そのことをパスカルは、「私の心には、本当の神以外には満たすことができない、真空がある」と言いました。私たちの心には、本当の神以外には満たすことができない真空があるのです。それが満たされて初めて、人は生きることができるのです。それを満たすことができるのは、唯一まことの神と、神が遣わされたイエス・キリストだけです。「永遠のいのちとは、唯一のまことの神であるあなたと、あなたが遣わされたイエス・キリストを知ることです。」(ヨハネ17:3)とあるとおりです。ですから、救い主イエス・キリストを信じ、罪を赦していただいて、神のいのち、永遠のいのちをいただき、神と共に生きるとき、私たちは何をしても喜ぶことができるし、感謝することができるのです。それが上からの知恵です。

現代を生きる私たちも、この伝道者の生き方から学ぶべきです。物や快楽は、私たちに本当の喜びや満足をもたらすことはできません。大切なのは「何を手に入れ、何を成し遂げたか」ということではなく、「どのような人になり、どのように生きたか」ということです。あなたは何を求めて生きていらっしゃいますか。この世の富や快楽、名誉ですか。そうした物欲による葛藤や競争ではなく、日の上の喜び、神の国とその義を第一に求める生き方こそ、私たちが求めなければならないものです。

アメリカ中西部になだたる金持ちがいました。彼は、愛する娘にどのような遺産を残こしたらよいかを考えました。現金、証券類、株、不動産などと考えていきましたが、それらの遺産では満足できませんでした。そうした物質的なもので人は幸せになれないことを、十分に経験していたからです。

「信仰以外に、人を真に幸福にするものはない」

ついに彼は、信仰が最も安心できる遺産であるとの結論に達しました。しかし、そこには大きな問題がありました。彼はお金持ちではありましたが、信仰を持っていなかったからです。そのうえ、信仰というものは娘自身が選び取らなければなりません。

「そうと決まったら、自分自身がまずその信仰を手に入れることだ」と、彼は聖書を読み始め、ついにイエスこそ救い主であると信じるに至りました。その結果、娘を誘って教会に行くようになったのです。

どうぞ、この伝道者のことばを聞いてください。「見よ。すべては空しく、風を追うようなものです。日の下には何一つ益になるものはない。」(11)しかし、日の上には、あなたを真に満たすものがあります。神を愛する者たち、すなわち、神のご計画に従って召された人々のためには、神がすべてのことを働かせて益として下さるということを、私たちは知っています。この神の下に来てください。イエス・キリストがあなたの救い主です。イエスはあなたを満たすことがおできになります。この地上のことに振り回された生き方から、主のみこころにかなった生き方へと、主体的に生きることができるようになります。それは、真にあなたの心を満たしてくれるでしょう。私たちは今朝、私たちに与えられているものがどんなに価値があり、真に私たちの心を満たすものであるかを知り、主だけで満足する人生を選び取る者でありたいと思います。

空の空 すべは空 伝道者の書1章1~18節

2020年9月13日(日)礼拝メッセージ

聖書箇所:伝道者の書1章1~18節

タイトル:「空の空 すべは空」

今日からご一緒に伝道者の書を学びたいと思います。4月から放映されているNHKこころの時代、宗教・人生という講座で東神大の小友聡(おとも さとし)先生が、この「伝道者の書」からお話しされておりますが、そのタイトルは、「それでも生きる」です。私が観たのは1度だけで、その内容もほとんど覚えていませんが、そのタイトルだけはずっと心に残っていました。今、社会はコロナウイルスの問題で表向きには平和に見えていても、そこに生きる人々は、先が見えず、息苦しさに喘いでいるのではないかと思います。ある意味でそれは闇の中を歩むようなものです。しかし、それでも生きよと、この書は語りかけているのです。それは、空しさを生きることへの励ましです。「あなたのパンを水の上に投げよ。ずっと後の日になって、あなたはそれを見出す。」(11:1)とのメッセージは、現代の私たちに向けられた将来への希望のメッセージでもあります。私たちは、この書を通して空しいかのように見えるこの世にあって真の希望を見出し、「それでも生きよ」と語りかけてくださる主の御言葉に励まされながら、力強く生きる者でありたいと思うのです。きょうは、1章全体から学びます。

Ⅰ.空の空 すべては空 (1-3)

まず、1~3節までをご覧ください。「エルサレムでの王、ダビデの子、伝道者のことば。空の空。伝道者は言う。空の空。すべては空。日の下で、どんなに労苦しても、それが人に何の益になろう。」

これはこの書全体の序論であり、読者である私たちに対する問題提起です。1節には、「エルサレムでの王、ダビデの子、伝道者のことば。」とあります。エルサレムの王で、ダビデの子と言えば、ソロモンですから、これはソロモンのことばと考えて良いでしょう。

しかし、この「伝道者」という語が、へブル語では「コヘレト」と言いますが、これは集会を主催する人、あるいは説教者という意味のことばであることから、この書の著者はイスラエルの知者であり、ユダヤ教の会堂に人々を集めて「知恵」を語っていた人で、その人が賢王ソロモンの名を借りて語ったのではないかと考える人もいます。それで新共同訳ではこの伝道者という語の原語である「コヘレト」から、これを「コヘレトの言葉」と呼んでいます。また英語の聖書では、「伝道者のことば」を「The words of the Preacher」、説教者のことばとなっています。

では、伝道者は何を伝えたかったのでしょうか。伝道者はその基本的なメッセージを一番最初と最後にまとめています。2節をご覧ください。ここには「空の空。伝道者は言う。空の空。すべては空」とあります。「空」と訳されたことばは、へブル語で「ヘベル」です。これは「蒸気」とか「煙」のことを表しています。伝道者は、人生とはどのようなものかを表す比喩として、このことばを38回も使っています。つまり、人生とは煙のようにつかの間のもので、はかなく消えていくものであり、謎と矛盾に満ちているものであるということです。皆さん、煙を掴んだことがありますか。煙は確かにそこにあるのに、掴もうとしても掴めません。たとえば、この世には美しいもの、良いものがたくさんありますが、それを楽しんでいる最中に悲劇が起こるとすべてが吹き飛んでしまいます。また、人は正義を信じていますが、往々にして善良な人々に悪いことが起こります。旧約聖書に登場するヨブの人生はまさにそうでしょう。そのように人生とは予想がつかず、安定せず、伝道者のことばを借りれば風を追うようなもの、つまり、「へベル」なのです。この「空の空」という言い方は、「主の主、王の王」という言い方と同じで、「空の中の空」という意味です。つまり、最も強い空しさを表しています。「何という空しさ。何という空しさ。すべては空しい。」ということです。「ヘベル、ヘベル、すべてはヘベル」これが、伝道者が伝えたかったことです。何とも気がめいってしまうような話です。しかし、伝道者はそれだけで終わっていません。ずっと「ヘベル、ヘベル、すべてはヘベル」と語りながら、最後にこう言うのです。

「結局のところ、もうすべてが聞かされていることだ。神を恐れよ。神の命令を守れ。これが人間にとってすべてである。」(12:13)

これが、伝道者の結論です。伝道者が本当に言いたかったことです。この世のすべては空しいのだから、どこに希望を置くのか、何を見て生きるのか、どのように生きるべきなのか、そうです、結局はこれなのです。神を恐れること、神の命令を守ること、これが人間にとってすべてなのです。伝道者は、このことが言いたくて、この世がどれだけ空しいものなのかを、これでもか、これでもか、というくらいたたみかけるのです。

おそらく私たち日本人は、このことば、すなわち「空の空。すべては空。」ということばを聞くと、変に納得するものがあるのではないかと思います。ある雑誌の中で、脚本家の山田太一さんがこのことばを読んで「たぶんキリスト教には行かないが、信仰の芽は私にもあると思う」と感想を述べておられます(「考える人」2010年春豪、新潮社)。それほど私たち日本人の心を引き寄せることばでもあるのです。それは、仏教の経典の一つである「般若心経」に、これに通じるところがあるからです。

般若心経は仏教の教えを262文字に集積した経典ですが、そのなかに「色即是空(しきそくぜくう)、空即是色(くうそくぜしき)」という言葉が出てきます。これは、すべての営みは過ぎ去る風のように空しく、ただ繰り返され、後には何も残らない。それゆえ、この世の移り変わる物は実体ではなく、人間の体も思いも実体ではない。いつか死に、無くなるものであることを理解し、それを嘆くのではなく、自分自身が無常であることを受け止めるというものです。あの平家物語の冒頭に出てくる「祇園精舍の鐘の声、諸行無常の響きあり。」に似ているところがあります。  すべてが空であることを悟るなら、富や貧しさ、快楽や苦しみ、老いることにも死ぬことにも、煩わさされることはありません。空を悟ることにより、嘆くことなく前を向いて歩むことが出来る。これが「空即是色」です。  仏教では神の救いがないので、救いを何に求めるかというと、この「無の境地」です。この世の煩わしさに捉われずに、心を空(カラ)にするとき、一切の煩悩から解き放たれて歩めるようになる。これが悟りです。仏となるということなのです。しかし、それらは人間の理想であり、おおらかな慈悲深い心をもって歩みたいという人間の希望にしかすぎません。心と精神の理想を追い求めるという点で仏教は素晴らしい宗教だと言えますが、うがった見方をするなら人間の限りない欲求の追及でもあるのです。

伝道者は、釈迦が生まれる500年も前に、般若心経が成立する1000年も前に、このことばを語っています。彼はすでに仏教でいう一切が諸行無常であることを悟り、人がむなしいことや、すべての営みが繰り返されているだけに過ぎないことを認めていますから、聖書の教えは卓越していると言えるでしょう。

それにしてもなぜ伝道者はこんなことを語ったのでしょうか。聖書と言えば、キリスト教の正典であり、敬虔で神聖な言葉が書かれている書だと誰もが思っています。「いつも喜んでいなさい。絶えず祈りなさい。すべてのことにおいて感謝しなさい。これが、キリスト・イエスにあって神があなたがたに望んでおられることです。」(Ⅰテサロニケ5:16-18)と聞くと、そうだ、こんなことでつぶやいていちゃだめだ。いつも喜び、絶えず祈り、すべてのことについて感謝しなきゃいけない。さすが、聖書の教えは違うな。神の教えだ、と思うでしょう。「ですから、明日のことまで心配しなくてよいのです。明日のことは明日が心配します。苦労はその日その日に十分あります。」(マタイ6:34)と聞けば、そうだな、なんで明日のことをそんなに心配しているんだろう。明日のことは明日が心配するんだから、神様にすべてをゆだねよう。感謝!となるのですが、「空の空。すべては空。」とあると、何だから生きる気力が削がれてしまうようで、何とも力が湧いてきません。それはこれを書いた伝道者が、物事を斜に構えて見ては皮肉なことばかりを語るニヒリストであったからではありません。むしろ、こうした現実を突きつけることによって、ある一つの真実を強く訴えたかったからなのです。その真実とは何ですか。それは、神を抜きにしての人生がいかに無意味であるかということです。一般に人々は、究極的には意味のないどうでもいいことに多くの時間とエネルギーを費やしては一喜一憂しているわけですが、果たしてそこにどれだけの価値を見出すことができるのかということです。そのことを伝えるために彼は、逆説的に「ヘベル。ヘベル。すべてはヘベル。」「空の空。すべては空。」「何という空しさ。何という空しさ。すべては空しい。」と最上級の表現を用いて、そうではないと、神を信じて生きることの重要さを訴えたかったのです。

その空しさの一つの事例が、「日の下で労苦すること」です。3節には、「日の下でどんなに労苦しても、それが人に何の益になるだろうか。」とあります。この「日の下で」ということばも、この書のキーワードの一つです。全体で29回、「地上」ということばと合わせると、全体で35回も使われています。これは地上の目に見える世界のことを表しています。それは神を忘れた人間の世界であり、神を抜きにした人生のことを意味しています。その日の下でどんなに労苦しても、いったいそれが人に何の益になるでしょうか。なりません。

人間は常に、より良い世界、より住みやすい世界を作り出そうと頑張ってきました。しかし、この驚くべき文明の発展が、どれだけ人の幸せにつながっているでしょうか。たとえば、この30年の間にインターネットは驚くべき発展を遂げ、社会はとても便利になりました。カナダのバンクーバーにお住まいの方が、私たちの教会のライブ配信を毎回楽しみにご覧になっておられますが、祈祷会の配信がなかったとき、それはちょうど九州で豪雨災害があったときですが、メールをくださいました。「熊本の川が氾濫した様子をネットで見ると、栃木県には荒川も鬼怒川も箒川もあるし・・・と悪い方向へ考えが向いてしまい おまけに今日の祈祷会がないとなるとこれはもしかしたら大変な状況になっているのかもしれない と想像しておりました。」いや、大田原での祈祷会そのものが隔週で行われているためライブ配信もなかったのですが、このインターネットの時代ですから、寸時に様子を知ることができるので、心配してくださったのです。家内もついにスマホデビューし、家族の皆とラインでつながりましたが、あまりにも早いスピードについて行けず毎日「面倒くさい!」とヒーヒー言っています。国際金融や貿易に関わっておられる方は、昼夜を問わずに仕事をせざるを得なくなって疲れ果てています。つまり、技術の進歩が競争を世界的なレベルに広げ、私たちの心の余裕をますます奪っているのです。まさに、「日の下でどんなに労苦しても、それが人に何の益になるだろうか。」です。適度な労働は、神が人間に与えてくださった祝福ですが、アダムとエバが罪を犯して以来、人間が神から離れてしまったことでその労働の真の意味が色あせてしまい、むなしいものになってしまったのです。

Ⅱ.日の下には新しいものが一つもない(4-11)

次に、4節から11節までをご覧ください。日の下で、つまりこの世の人生には何の益もないということを述べるにあたり、伝道者はここでその理由を3つの角度から語ります。まず、4節です。「一つの世代が去り、次の世代が来る。しかし、地はいつまでも変わらない。」

人生の空しさの最初の理由は、人生はうつろいやすいということです。地はいつまでも変わりませんが、人は過ぎ去って行きます。新共同訳聖書ではこう訳されています。「一世代過ぎればまた一世代が起こり、永遠に耐えるのは大地。」しかし、その大地でさえ消え去ると聖書は言っています。ペテロはこう言っています。「しかし、主の日は盗人のようにやって来ます。その日、天は大きな響きを立てて消え去り、天の万象は焼けて崩れ去り、地と地にある働きはなくなってしまいます。」(Ⅱペテロ3:10)こうやって見ますと、変わらないものは何もないということになります。過ぎ去るのは人間の命だけでなく、大地もまたそうなのです。

第二の理由は、5節から7節までにあります。「日は昇り、日は沈む。そしてまた、元の昇るところへと急ぐ。風は南に吹き、巡って北に吹く。巡り巡って風は吹く。しかし、その巡る道に風は帰る。川はみな海に流れ込むが、海は満ちることがない。川は流れる場所に、また帰って行く。」

次に伝道者が上げる理由は、自然現象の繰り返しです。自然界は同じ動きを繰り返しているだけで、何か益があるものを作り出しているわけではありません。たとえば、日は上り、日は沈みます。そしてまた、元の昇るところへと戻って行きます。また、風は南に吹いたかと思うと、巡って北に吹きます。つまり、ぐるぐると巡り巡って吹いているのです。これは科学的にも証明されていることです。伝道者はそれを、今から三千年も前に既にわかっていました。川はどうでしょうか。7節、川はみな海に流れ込みますが、それで海が満ちるかというとそうではありません。なぜ?水は蒸発して元の場所に戻って行くからです。すごいですね。どの川も同じ行程を繰り返しているだけなのです。水の循環システムです。私たちにとっては当たり前のことですが、このことは近代まで証明させていませんでした。ですから、日が昇ったり、風が吹いたり、雨が降ったりしても、実質的には昔から何も変わっていないのです。それらは単調な、延々とした繰り返しで、何の変化もありません。

では、私たちの人生はどうでしょう。8節から11節までをご覧ください。次に伝道者は、私たちの人生も同じであることを語ります。「すべてのことは物憂く、人は語ることさえできない。目は見て満足することがなく、耳も聞いて満ち足りることがない。昔あったものは、これからもあり、かつて起こったことは、これからも起こる。日の下には新しいものは一つもない。「これを見よ。これは新しい」と言われるものがあっても、それは、私たちよりはるか前の時代にすでにあったものだ。前にあったことは記憶に残っていない。これから後に起こることも、さらに後の時代の人々には記憶されないだろう。」

どういうことでしょうか。人生も同じで、満たされることはないということです。もっと、もっとと、何かあると思って、その満ち足りない心を埋めようとしますが、川が海を満たすことがないように、決して、人の心が満たされることはありません。

人間の労苦も同じことで、過去にあったものの繰り返しです。新しいものは何一つありません。「これを見よ。これは新しい」と言われるものがあっても、よく調べてみると、それも昔からあったものにすぎいということがわかります。たとえば、新しい技術の発達ですね。コンピューターやインターネットのおかげで文章を書くときや通信手段は便利になりましたが、どうでしょう、そのおかげで漢字が書けなくなったという人が多いのではないでしょうか。また通信が便利になったおかげで、必要もないことに時間をかけてしまい、大切な時間を無駄にしてしまったということがあります。こんなことになるなら手で書いた方がよっぽど楽だ・・と。ですから、やっていることは昔と変わらないというのが現状なのです。むしろ退化しているということも言えるでしょう。流行はどうですか。新しいファッションは、実は昔あったものと同じものであることが多いのです。考え方にしてもそうです。何か奇抜なアイデアのようなものでも、ずっと昔に既に考えられていたものであることが多いのです。たとえば、ビル・ゲイツなどの名経営者が愛読したことでも知られる孫子の兵法は、現代の企業経営のバイブルとして用いられていますが、それは、紀元前500年頃に既に書かれていたものです。そして、私たちが手にしている聖書ですが、これは紀元前1400年から紀元100年頃までに40人の著者を用いて書かれたものです。これは現代でも変わらず用いられています。人間の本質は昔も今も変わらないので、また、どの民族にも適用できる普遍的なことばなので、毎年のベストセラーであり、本の中の本、本当の本と言われているのです。何も変わりません。日の下には新しいものは何一つないのです。「これを見よ。これは新しい」と言われるものは何一つありません。

しかし、新約聖書を知っている私たちは、新しいものがあることを知っています。何ですか?それは霊の誕生です。Ⅱコリント5:17を開いてください。ここには、「ですから、だれでもキリストのうちにあるなら、その人は新しく造られた者です。古いものは過ぎ去って、見よ、すべてが新しくなりました。」とあります。だれでも、キリストのうちにある者は、新しく造られた者です。ソロモンは、日の下には新しいものは一つもないと言いましたが、日の上には新しいものがあります。神は、新しい創造をされました。イエス・キリストを信じる者は、だれでも新しく造られるのです。古いものは過ぎ去って、すべてが新しくなるのです。それは、今までになかったものです。ですから、聖書にはイエス・キリストを信じた人は新しい人と呼ばれているのです。それに対して古い人もいます。考え方が古いというのではありません。イエス・キリストによって新しく生まれ変わっていない人のことです。イエス・キリストを信じるなら、だれでも新しく造られます。その新しさを私たちは知っているのです。ですから、私たちは日の下に新しいものが一つだけあることを知っているのです。この新しい創造です。キリストによって新しく造られた者は、たとえ無意味なように思える日の下にあっても、空しさに囚われることなく、創造的に生きることができるのです。

11節には、「前にあったことは記憶に残っていない。これから後に起こることも、さらに後の時代の人々には記憶されないだろう。」とあります。過去のことは忘れられてしまいます。これは老人になって記憶が衰えてしまうということではありません。どれほど偉大なことをしてもそれはその時のことだけで、後の時代の人々がずっと覚えていることはないということです。たとえば、もうすぐ総理大臣の指名選挙が行われますが、ちょっと前の時代の総理大臣のことを覚えているでしょうか。一つクイズを出しましょう。当たった人には豪華な景品があります。あの小渕官房長官が「平成」と書いて始まった時の総理大臣はだれですか。もう忘れているでしょう。「竹下登」です。私も忘れていたのでネットで調べましたが、そうやって調べないと出てきません。私たちが今話題にしていることや注目していることも、少し時間が経てばすぐに忘れ去られてしまいます。そのような一時的なもののために自分の人生のすべてを費やしているとしたら、それは本当に空しいことではないでしょうか。そのように語る伝道者のことばは、実に私たちの人生の空しさを的確に言い当てています。

映画やテレビの脚本を数多く手がけ、随筆集「花の百名山」を書いたことでも知られている田中澄江さんは、23歳のとき東京にある聖心女子学院の教師になりました。そのとき、彼女は英国人のマザー・ラムから、公教要理の講義を受けました。
「人は何のために生まれましたか。神を知るためですね。」
これは彼女に取って衝撃的なことばでした。「『神を知るためだ』と言われたとき、大粒の涙が机の上にこぼれ落ちて、『そうだ、ほんとうにそうだ、神を知るために生まれたのだ」と全身で叫びたい思いになった。以来半世紀を経て、いまだにその感激が胸の底に燃えているような気がする。』」と言いました。

あなたはいったい何のために生きていますか。私たちももし神を知らなかったら、どんなに有名人になったとしても、決して心の飢え渇きを満たすことはできません。それは、神を知り、救い主イエス・キリストを信じることによってもたらされる恵みです。イエス・キリストを信じたことで永遠の命が与えられ、永遠の命に至る食物のために働く者とされたことを感謝しましょう。

Ⅲ.知的探求の空しさ(12-18)

第三に、知的追及です。しかし、伝道者はそうは言いつつも、ここで改めて知恵の限りを尽くして、人生の満足を見いだそうといくつかのことを試みました。まず知恵の探究です。12節から18節までをご覧ください。「伝道者である私は、エルサレムでイスラエルの王であった。私は、天の下で行われる一切のことについて、知恵を用いて尋ね、探り出そうと心に決めた。これは、神が人の子らに、従事するようにと与えられた辛い仕事だ。私は、日の下で行われるすべてのわざを見たが、見よ、すべては空しく、風を追うようなものだ。曲げられたものを、まっすぐにはできない。欠けているものを、数えることはできない。私は自分の心にこう言った。「今や、私は、私より前にエルサレムにいただれよりも、知恵を増し加えた。私の心は多くの知恵と知識を得た。」私は、知恵と知識を、狂気と愚かさを知ろうと心に決めた。それもまた、風を追うようなものであることを知った。実に、知恵が多くなれば悩みも多くなり、知識が増す者には苛立ちも増す。」

ここで伝道者は、改めて自分の立場を書き記します。「伝道者である私は、エルサレムでイスラエルの王であった。」つまり、彼はエルサレムでイスラエルの王であり、富も地位も力も持っていたということです。彼は天の下で行われる一切のことについて、知恵を用いて尋ね、探り出そうとしました。つまり、知的探求によって人生の意味を見いだそうとしたのです。しかしそれは、神が人の子らに、従事するようにと与えられた辛い仕事でした。つまり、人は「何のために生きるのだろう」「この人生の苦しみに意味があるのだろうか」などと思い巡らしているうちに、そのこと自体に疲れ果ててしまったというのです。17世紀のフランスの哲学者であり、科学者、数学者でもあったパスカルは、「人間は考える葦である」(パンセ347)と言いましたが、確かに人が他の被造物に勝っているのは考えるという能力ですが、しかし、どんなに考えても究極的な答えを見出すことができなかったのです。結局のところ、伝道者が見出した結論は次のことでした。14-15節です。「私は、日の下で行われるすべてのわざを見たが、見よ、すべては空しく、風を追うようなものだ。曲げられたものを、まっすぐにはできない。欠けているものを、数えることはできない。」

伝道者は、日の下で行われるすべてのわざを見ました。彼は最高の教育を受け、科学、哲学、歴史、芸術、文化、宗教などあらゆる分野において豊かな知識を得ました。しかし、彼が経験したすべてのことは空しく、風を追うようなものでした。「風を追うようなもの」とは、あの「ヘベル」、「空」であるということです。「ヘベル」とは、蒸気とか、煙のことだと申し上げましたが、煙のように確かにそこにあるのに、掴もうとしても掴めません。風も同じです。確かに吹いているのに、どんなに掴もうとしても掴むことができません。つまり、風を追うように、空しく、空虚で、無意味であるということです。

曲げられたものをまっすぐにすることはできません。欠けているものを、教えることはできません。これは、この世には不可解なものがたくさんありますが、それを人間の知恵で理解したり、修正したりすることはできないということです。ではどうすれば良いのでしょうか。どうすれば曲げられたものをまっすぐにすることができるのでしょうか。どうすれば、欠けているものを、数えることができるのでしょうか。

伝道者は、続いてこう述べています。16-18節です。「私は自分の心にこう言った。「今や、私は、私より前にエルサレムにいただれよりも、知恵を増し加えた。私の心は多くの知恵と知識を得た。」私は、知恵と知識を、狂気と愚かさを知ろうと心に決めた。それもまた、風を追うようなものであることを知った。実に、知恵が多くなれば悩みも多くなり、知識が増す者には苛立ちも増す。」

彼は、自分はエルサレムにいただれよりも豊富な知恵と知識を増し加えたと言っています。そればかりではありません。知恵と知識とともに、狂気と愚かさも知ろうとしました。念のために、両極端を試してみたというわけです。その結果わかったことはどんなことでしたか。それもまた、風を追うようなものであるということです。知恵と知識だけでなく、反対の狂気と愚かさも試してみて、それもまた、風を追うようなものであったというのは、何をやってもダメだということです。風を追うようなもの、ヘベルです。すべては空なのです。それどころか、彼は重要な真理を見出しました。それは何ですか。18節です。「実に、知恵が多くなれば悩みも多くなり、知識が増す者には苛立ちも増す。」知恵が多くなればなるほど悩みも多くなり、知識を増せば増すほど苛立ちも増します。このことがわかっただけでも大したものです。なぜなら、人は、知的探求の道に限界を感じる時、神を見上げるようになるからです。

ひとりのインテリ青年が牧師のところへきて、科学的、文学的にキリスト教に対して難解な質問をあびせかけ、牧師を困らせました。ついに牧師は答えに行き詰り、沈黙してしまいました。すっかり得意になってしまった青年は、牧師に別れを告げて意気揚々と帰ろうとしました。その時、その牧師が静かに言いました。
「もしもあなたに、謙遜があったなら」
このひとことが青年の胸を打ちました。彼は、自分はさまざまな知識を持ち、立派な人間だと思っていましたが、謙遜がなかったことに気がついたのです。そして心から悔い改め、その夜、彼は救われました。この青年こそ、後に伝道者になった河辺(かわべ)貞(てい)吉(きち)(1864~1953)という人です。彼は、日本自由メソジスト教会の創立者となり、説教者として活躍しました。

そうです。知識は人を高ぶらせ、愛は人を育てます。自分は何かを知っていると思う人がいたら、その人は、本当に知るべきことをまだ知らないのです。しかし、だれかが神を愛するなら、その人は神に知られています。本当の知恵は、イエス・キリストにあります。キリストは神の知恵、神の力と呼ばれました。ですから、この神の知恵であるキリストを知り、キリストを愛するなら、人生の生きる意味が教えられ、空しさから解放され、心満たされて生きることができるのです。空の空。すべては空。日の下でどんなに労苦しても、それが人に何の益になるというのでしょうか。何の益にもなりません。しかし、キリストを知り、キリストを愛するなら、すべてが益になります。「神を愛する人たち、すなわち、神のご計画にしたがって召された人たちのためには、すべてのことがともに働いて益となることを、私たちは知っています。」(ローマ8:28)とあるとおりです。

日の下には、新しいものは一つもありませんが、しかし、だれでも、キリストのうちにあるなら、その人は新しく造られたものです。古いものは過ぎ去り、すべてが新しくなります。どんなに知恵を求めても、どんなに知識を求めても、あるいは、その逆のことを求めても、日の下にはあなたの心を真に満たすものは何もありません。それらのことは、すべて空しく、風を追うようなものなのです。しかし、神の知恵であられるイエス・キリストを求めるなら、あなたの心は真の満たしを受けるでしょう。これが、伝道者が見出したことでした。

先ほどのパスカルですが、彼は、「私の心の中には、本当の神以外にはとても満たすことができない、真空がある。」という有名なことばを残しています。彼は、ソロモン王のように様々な知識を探究しいろいろな発見もしましたが、それらのものが自分の中にある空洞を満たすことはできないことに気付いたとき、回心して、キリスト教に入信しました。彼が23歳の時でした。
しかし、残念ながらその後彼は、数学や物理の研究に熱中するあまり、生ける神から離れてしまいました。そして31歳になったとき、真の悔い改めに導かれ、神に立ち返ることができました。その時の彼の祈りが記録されています。それは1654年のことでした。

「アブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神よ。あなたは哲学者や学者の神にあらず。感動、歓喜、平安。ああイエス・キリストの父なる神よ。あなたが私の神となって下さったとは。キリストの神が私の神。私は、あなたを除くこの世のすべてと、その一切のものを忘れ去ります。福音書に示された神こそ真実の神です。私の心は大きく広がります。正しき父よ。世はあなたを知りません。しかし、私はあなたを知っています。歓喜、歓喜、歓喜、歓喜の涙。私はあなたから離れていのちの水の源を塞いでいましたが、わが神よ。あなたは私を捨てたりなさいませんでした。どうか私がこれより後、永久にあなたから離れませんように。永遠のいのちとは、唯一まことの神であるあなたと、あなたの遣わされたイエス・キリストを知ることです。イエス・キリスト、イエス・キリスト、私は、彼から離れて、彼を避け、彼を捨てて、彼を十字架につけました。しかし、これより後、私が彼から離れることが永遠にありませんように。福音書に記されたあなたこそ、まことの神です。ああ、全き心、心地よい自己放棄、イエス・キリストよ、私はあなたと、あなたのしもべたちに全く従います。私の地上の試練の1日は、永遠の歓喜となりました。私はあなたのみことばを永遠に忘れません。アーメン。」

この祈りの中には、彼の充実した思いが込められています。これまで知的に探究することで満たされるであろうと思っていた心の真空は満たされませんでしたが、イエス・キリストを知り、イエス・キリストを信じたことによって与えられた神の霊によって、彼の心の空洞は完全に満たされたのです。

イエス様はこう言われました。「この水を飲む人はみな、また渇きます。しかし、わたしが与える水を飲む人は、いつまでも決して渇くことがありません。わたしが与える水は、その人の内で泉となり、永遠のいのちへの水が湧き出ます。」(ヨハネ4:13-14)

あなたは、イエス様が与える水を飲みましたか。この水を飲む者はみな、また渇きます。しかし、わたしが与える水を飲む者は、いつまでも渇くことがなく、その人の内で泉となり、永遠のいのちへの水が湧き出るのです。

あなたが探究しているものは何ですか。日の下で行われるものは、すべてヘベルです。空です。しかし、日の上から与えられるもの、イエス様が与えてくださるものは、あなたの心を完全に満たしてくださいます。どうぞこのイエス・キリストを信じてください。もう信じている方は、パスカルのように、もう一度自分の心を点検しましょう。あなたの心がキリストから離れていないかどうかを。そして、もし離れているなら、悔い改めて、主に立ち返りましょう。そして、主が与えてくださる永遠のいのちを受け取ろうではありませんか。イエス・キリストはあなたを満たしてくださいます。この方は、決してあなたを裏切ることはありません。ここに答えがあります。このキリストにすべてをゆだね、キリストに従い、あなたも真の満たしを受けてください

真理とは何なのか ヨハネ18章28~40節

2020年9月6日(日)礼拝メッセージ

聖書箇所:ヨハネ18章28~40節(P223)

タイトル:「真理とは何なのか」

 きょうは、ヨハネ18:28~40から「真理とは何なのか」というタイトルでお話しします。これは、ポンテオ・ピラトがイエス様に尋ねたことです。38節には、「ピラトはイエスに言った。「真理とは何なのか。」とあります。

いったいどれだけの人が真理を求めているでしょうか。大抵の人は、真理とは何かということにあまり関心がありません。関心があるのは、目に見えることやこの世のことです。どうしたらお金が儲かるかとか、何が楽しいことで、どこに美味しいものがあるか、どこで良い商品を格安で買うことができるかといった目先のこと、過ぎ去ってしまうことです。また、自分の立身出世や名声をあげることなど、自分に関することばかりです。

しかし、真理を正しく知らなければ、悪に負けてしまうことになります。その結果、そうした目に見えるものまでも失ってしまうことにもなりかねません。それは畑に隠された宝のように、貴いものなのです。真理に関心のないこの世において、鈍くなっている私たちの心の目を開けさせていたただき、真理とは何かということを正しく知り、真理に従う者でありたいと思います。

Ⅰ.イエスのことばが成就するため (28-32)

まず28~32節までをご覧ください。「さて、彼らはイエスを、カヤパのところから総督官邸に連れて行った。時は明け方であった。彼らは、過越の食事が食べられなくなることのないように、汚れを受けまいとして、官邸に入らなかった。そこで、ピラトは彼らのところに出て来て言った。「あなたがたは、この人に対して何を告発するのですか。」彼らはピラトに答えた。「もしこの人が悪いことをしていなかったら、私たちはこの人をあなたに引き渡しはしなかったでしょう。」そこでピラトは彼らに言った。「あなたがたがこの人を引き取り、自分たちの律法に従ってさばきなさい。」ユダヤ人たちは彼に言った。「私たちには、だれを死刑にすることも許されてはいません。」これは、ご自分がどのような死に方をされるのかを示して話されたイエスのことばが成就するためであった。」

 「彼ら」とは、ユダヤ人の下役たちのことです。彼らはイエスをカヤパのもとから総督官邸に連れて行きました。大祭司カヤパのもとでの裁判の様子は、マタイ、マルコ、ルカの他の三つ福音書に詳しく書かれてありますが、ヨハネはそれを省略し、アンナスのもとでの尋問の後、ただちにローマ総督ポンテオ・ピラトによる裁判の出来事に入ります。それはヨハネがこの福音書を書いたのが他の福音書よりもずっと後であったということ、そして、そのことについては既にみんな知っている事実であったからです。

イエス様がローマ総督ピラトのもとに連れて行かれたのは、明け方のことでした。アンナスのもとでの尋問とカヤパのもとでの裁判を受け、イエス様は一睡もせずにピラトのもとに連れて来られたわけです。かなり疲れておられたことでしょう。彼らはイエスをカヤパのもとから連れて来ましたが、官邸の中には入りませんでした。それは、過越の食事が食べられるようにするため、汚れを避けようとしたからです。どういうことかというと、ユダヤ人たちは、異邦人の家に入ることは宗教的に汚れてしまうことだと考えていたのです。しかし、実際には律法にはそうした決まりはなく、それは彼らが勝手に考え出した言い伝えにすぎませんでした。彼らはこのような細かなことを守ることを気にしていながら、律法が本当に言わんとしていたことを理解していませんでした。それは、神が遣わされたメシヤを受け入れるということです。こうした彼らの偽善的な態度を、ヨハネはここで皮肉たっぷりに伝えているのです。なぜ彼らはそのことに気付かなかったのでしょうか。真理がわからなかったからです。真理がわからないとこうした態度を取ってしまうことになります。あるいは、自分がそうした態度を取っていることにさえ気付きません。

それで、ピラトは外に出て、ユダヤ人たちのところに来て言いました。「この人に対して何を告発するのか。」(29)ピラトは、イエス様に何の罪も見出せませんでした。

すると、彼らは答えました。「この人が悪いことをしていなければ、あなたに引き渡したりはしません。」悪いことをしたから引き渡したのであって、ちゃんと調べたらわかるはずだというのです。

でも、ピラトはわかりませんでした。というよりも、彼はこれが宗教的な問題であるということを知っていたので、「おまえたちがこの人を引き取り、自分たちの律法にしたがってさばくがよい。」と言いました。そのようなことには関わりたくなかったのです。自分たちのことは自分たちでさばいたらいいんじゃないかと。

するとユダヤ人たちはこう言いました。「私たちはだれも死刑にすることが許されていません。」これは事実です。ローマ帝国は紀元30年にユダヤ人から死刑を執行する権利を剥奪していました。ですから、彼らにはイエスを死刑にする権限はありませんでした。しかし、ピラトはここで、「おまえたちがこの人を引き取り、自分たちの律法にしたがってさばくがよい」と言っているのですから、これはある意味で許可したと同じことです。だったら「ああそうですか。わかりました。」と言ってイエスを引き取り、死刑にすればよかったはずです。それなのに彼らがそのようにしなかったのは、群衆を恐れていたからです。群衆はイエスをメシヤだと信じていました。そのイエスをユダヤ教の指導者が殺したとなると、群衆も黙っていないでしょう。そうならないように、ローマの権限のもとでイエスを処刑しようと企んだのです。

しかし、実はそれ以上の理由がありました。ヨハネはその理由をここに述べています。32節をご覧ください。「これは、イエスがどのような死に方をするかを示して言われたことばが、成就するためであった。」どういうことでしょうか。ユダヤ人の律法にしたがってイエスがさばかれたとしたら、石打ちにさけなければなりませんでした。しかし、それではイエス様がこれまで語ってこられたことが偽りであったということになります。というのは、イエスはご自分が十字架につけられて死なれると預言しておられたからです。マタイ20:17-19にはこうあります。「さて、イエスは、エルサレムに上ろうとしておられたが、十二弟子だけを呼んで、道々彼らに話された。「さあ、これから、わたしたちはエルサレムに向かって行きます。人の子は、祭司長、律法学者たちに引き渡されるのです。彼らは人の子を死刑に定めます。 そして、あざけり、むち打ち、十字架につけるため、異邦人に引き渡します。しかし、人の子は三日目によみがえります。」」

これはまだイエス様がエルサレムに上っていない時に弟子たちに語られたことですが、イエス様はどのように死なれるのかを弟子たちに話され話されました。すなわち、十字架につけるさめに、異邦人に引き渡されるということです。もしユダヤ人の手によって石打ちにされたとしたら、ここでご自身が言われたことと違うことになってしまいます。

また、ヨハネ12:32-33には、「わたしが地上から上げられるなら、わたしはすべての人を自分のところに引き寄せます。」イエスは自分がどのような死に方で死ぬかを示して、このことを言われたのである。」とあります。イエス様はここで、ご自分がどのような死に方をされるのかを示されました。それは、「地上から上げられる」ということです。地上から上げられるなら、すべての人をご自分のもとに引き寄せられます。それは十字架で死なれることを示していました。ですから、石打ちではだめだったのです。十字架でなければなりませんでした。ユダヤ人の手によってではなく、異邦人に引き渡されなければならなかったのです。イエスの十字架は、ローマ人の権力や異邦人の悪巧みによるものに見えますが、実は神のご摂理の中で起こったことだったのです。

もちろん、ユダヤ人たちはそんなことを考えていたわけではなかったでしょう。ただ群衆を恐れていただけです。しかし、それはイエス様が十字架で死なれるというこの聖書のことばが成就するために用いられたのです。どんなことでも、何一つとして神の御手の外で起こることはありません。それは、主のみこころに従った人だけでなく、このような悪人たちが行ったことさえも、です。主は、そうしたすべてのことを支配しておられるのです。

それは創世記に出てくるヨセフの人生にも見られます。ヨセフは17歳の時、ある夢を見ました。それは、兄弟たちが畑で束を作っていたとき、突然、自分の束が起き上がり、まっすぐに立ったかと思ったら、兄たちの束が彼の周りに来て、彼の束を伏し拝んだというものでした。また、彼はもう一つの夢を見ました。それは、太陽と月と11の星が自分を伏し拝んでいたというものです。それは、彼の家族が彼を伏し拝むようになるという神からの啓示でした。

その後、彼はどうなりましたか。私たちは何度も聞いてもうその結末を知っています。そのことのゆえに彼はエジプトに売られてしまいますが、そこでエジプトの王ファラオの夢を解き明かしたことで、エジプトの総理大臣にまで上り詰めました。彼が30歳の時です。そして、ファラオが見た夢のとおり飢饉が全地に及ぶと、全地は穀物を買うためにエジプトのヨセフのところに行きました。それはヤコブの兄弟たちも例外ではありませんでした。そこで、ヨセフの兄たちは顔を地に付けてヨセフを伏し拝みました。彼がかつて見た夢のとおりになったのです。いったいそれは何のためだったのでしょうか。ヨセフはその理由を次のように言っています。

「神が私をあなたがたより先にお遣わしになったのは、あなたがたのために残りの者をこの地に残し、また、大いなる救いによって、あなたがたを生き延びさせるためだったのです。」(創世記45:8)

それは、イスラエルを救うための神のご計画でした。神は兄たちの悪巧みを用いて、ご自身のご計画を成就してくださったのです。

ルツも同じです。単純に言うなら、彼女はただ姑ナオミに誠実に仕えただけでした。モアブ人でしたが、故郷を捨ててイスラエルに行き、白い目に耐えながらも異国の地で仕えました。そこで何が起こるかなんてわかりませんでした。しかし、そこでボアズという男性と出会い、結婚して子どもを産みました。ただそれだけです。ところが、後にその子孫からダビデが生まれ、旧約聖書にルツ記となって彼女の話が収められ、新約聖書の1ページにその名が刻まれることになります。モアブ人であるルツがキリストの先祖になったのです。自分の人生が聖書に収められ、自分が救い主の先祖になるなどと、だれが考えることができたでしょう。同じように私たちの人生も神のご計画の中に組み込まれているのです。その役割がどのようなものかは天の御国に着くまで完璧にはわかりませんが、それでいいのです。ただ、今は自らの前にある、越えなければならないハードルに挑戦し、祈りによって越えるのです。

娘が小さいとき、プラレールというおもちゃを買ってあげた時がありました。結構高かったですが、誕生日だったかクリスマス時だったか忘れましたがとても喜びました。最初のうちは・・。子供は小さいので目線が電車と同じくらいの高さなので、電車がいつ通るかわからないのです。ですからトンネルから急に電車が出てくると大はしゃぎです。そんな娘に、「いい、もうすぐ出てくるよ。3、2、1、バアー」と言うと、「オー!」と歓声を上げます。お父さんは何でわかるのか不思議な顔をするのです。この時はまるで私が神様にでもなったかのような気分です。何でわかるのって、上から見ているからです。上からだとすべてが見えます。子供には突然電車がやって来たかのように見えても大人には全体が見えるので、いつ電車が来るのかがわかるのです。

神の国も同じです。私たちは目先しか見えないため、私たちが全体のどの部分にいるのか、全体がどうなっているのかはわかりません。しかし神様は、何千年という救いの歴史をずっと見ておられ、そのご計画の中で私たちを用いておられるのです。であれば、私たちはその神にすべてをゆだね、神に敵対する人生ではなく、神のみこころにしたがって生きていくことが求めていかなければなりません。

Ⅱ.あなたはユダヤ人の王なのか(33-37)

次に、33~37節前半までご覧ください。「そこで、ピラトはもう一度官邸に入って、イエスを呼んで言った。「あなたは、ユダヤ人の王ですか。」イエスは答えられた。「あなたは、自分でそのことを言っているのですか。それともほかの人が、あなたにわたしのことを話したのですか。」ピラトは答えた。「私はユダヤ人ではないでしょう。あなたの同国人と祭司長たちが、あなたを私に引き渡したのです。あなたは何をしたのですか。」イエスは答えられた。「わたしの国はこの世のものではありません。もしこの世のものであったなら、わたしのしもべたちが、わたしをユダヤ人に渡さないように、戦ったことでしょう。しかし、事実、わたしの国はこの世のものではありません。」そこでピラトはイエスに言った。「それでは、あなたは王なのですか。」イエスは答えられた。「わたしが王であることは、あなたが言うとおりです。わたしは、真理のあかしをするために生まれ、このことのために世に来たのです。真理に属する者はみな、わたしの声に聞き従います。」

そこで、ピラトは再び総督官邸に入り、イエスにこう尋ねました。「あなたはユダヤ人の王なのか。」これは、イエスがカイザルに反逆しているかどうかを調べるための尋問です。ローマ人にとって王とは一人しかいませんでした。それ以外に王がいるとしたら、それは政治的な王としてローマに反逆する者であることを意味していました。ですから、イエス様はここでその質問の意味をはっきりさせる必要がありました。それで、このように答えられました。「あなたは、自分でそのことを言っているのですか。それともほかの人が、あなたにわたしのことを話したのですか。」

他の福音書を見ると、それに対して主は、「そのとおりです」と答えています(マタイ27:11、マルコ15:11、ルカ23:3)が、ヨハネの福音書ではそのことが省略されています。しかし、イエス様はそのことを前提にして答えておられるのです。あなたは自分でそのことを言っているのですか、それともわたしのことを、ほかの人々があなたに話したからですかと。つまり、それはあなた自身の考えなのか、それとも、ほかの人々から聞いたのでそのように言っているのか、ということです。このことは非常に重要なことです。というのは、多くの人は、自分で考え、自分で確信して言っているのではなく、ほかの人が言ったことを、あたかも自分の考えであるかのように言っているからです。皆さんはどうですか。皆さんもイエス様を信じているでしょう。でもどのように信じたのですか。自分でそう確信したからですか。それとも、だれかほかの人がそのように言ったからでしょうか。他の人の証言を信じたとしても救いという点では問題ありません。しかし信仰生活という点では、どこか確信に欠けてしまうところがあります。頭だけの、観念的なものになりやすいのです。「この方以外に救いはない!」という確信に満ちた信仰となるために、誰かほかの人がそう言ったからではなく、自分で聖書を読んで確かめ、頭で考え、日々の生活の中で祈ることによって神を体験する必要があります。

するとピラトは答えました。「私はユダヤ人なのか。あなたの同胞と祭司長たちが、あなたを私に引き渡したのだ。あなたは何をしたのか。」どういうことですか。私はユダヤ人ではないでしょう。それなのにあなたの同胞ユダヤ人たちが、あなたを私に引き渡したのです。でもこれはローマの問題ではなくあなたがたユダヤ人の問題でしょう。であれば、あなたがたで解決しなければならない問題です。いったいあなたは何をしたんですか。そんなニュアンスです。

するとイエスは答えられました。36節です。ご一緒に読みましょう。「わたしの国はこの世のものではありません。もしこの世のものであったなら、わたしのしもべたちが、わたしをユダヤ人に渡さないように、戦ったことでしょう。しかし、事実、わたしの国はこの世のものではありません。」どういうことでしょうか。

イエス様は王の王、主の主であられますが、この世の王ではありません。確かにイエスは王であられますがそれは神の国の王であって、この世のものではないのです。もしこの世のものであったら、ご自身のしもべたちが、ご自身をユダヤ人たちに渡さないように戦ったでしょう。事実、イエス様がゲッセマネの園で捕らえられた時、ペテロが大祭司のしもべに切りかかりました。それは、ペテロがイエスをこの世の王と思っていたからです。しかしイエスはペテロが切り落としたしもべの耳を癒されました。戦ったのではなく敵の耳を癒されたのです。そしてペテロに言われました。「剣にさやに収めなさい。剣を取る者はみな剣で滅びます。それとも、わたしが父にお願いして、十二軍団よりも多くの御使いを、今すぐわたしの配下に置いていただくことが、できないとでも思うのですか。」(マタイ26:52-53)

イエス様は天の軍勢を呼んで彼らを滅ぼすこともできました。しかし、そうされなかったのは、イエスが来られたのは彼らを滅ぼすためではなく、彼らを救うためだったからです。もし彼らを滅ぼされたなら、こうならなければならないと書いてある聖書の言葉が成就することはありませんでした。つまり、イエス様は王であられますが、この世の王ではないのです。では何の王なのですか。

37節をご覧ください。それでピラトが、「それでは、あなたは王なのか。」と再度尋ねると、イエスはこう言われましたか。「わたしが王であることは、あなたが言うとおりです。わたしは、真理のあかしをするために生まれ、このことのために世に来たのです。真理に属する者はみな、わたしの声に聞き従います。」どういうことですか。イエスが王であることについてはピラトが言っている通りです。しかし、王は王でもその治めている国が違います。イエス様が来られたのは政治的な王としてこの世を治めるためではなく、真理について証しするためでした。それがクリスマスです。100%神であられる方が、100%人の姿を取って来てくださいました。それは、真理について証しするためです。そして、真理に属する者はみな、イエス様の声に聞き従います。あなたはどうですか。あなたは何に聞き従っていますか。あなたが何に聞き従っているかによって、あなたが何に属しているかがわかります。真理に属している人は、真理に従うのです。

もしかするとあなたは真理に従うことに失望感を持っておられるかもしれません。キリストを信じる信仰のとおりに生きても、だれも気付いてくれないのに、どうしてそのように生きる必要があるのか。そのようにする価値があるのだろうか。日曜日、なぜ毎週早く起きて教会学校の奉仕をし、夜遅くまで教会に残っているのか。そのことにどんな価値があるのか。少しでも長く寝ていたいのに、毎朝、早起きして30分も祈ったり聖書を読んだりする時間を持つことは、そんなに大切なことなのか。福音について話したために友だちを失うことになってしまったが、それでも話す必要があったのか。家を失った人や希望のない人々に、イエスの御名によって仕えているが、だれもそのことに気付いてくれない。それでもその働きを続けるだけの意味があるのか。どんなに神様のみことばに従って生きても、全世界が正反対の方向に進んでいるようだけれど、最後まで信仰生活を続けて少数派に属そうと努力することは、それほど尊いことなのか・・。もちろんです!クリスチャンとして敬虔に生きるということは、どんな代価を払ったとしても、何度でもそのように繰り返すだけの価値があります。なぜでしょうか。そうすることを願われるイエス様が、それほどの価値がある方だからです。真理に属する者はみな、真理であられるキリストに従うのです。

Ⅲ.真理とは何なのか(38-40)

では、真理とは何でしょうか。最後にそのことを見て終わりたいと思います。38-40節をご覧ください。「ピラトはイエスに言った。「真理とは何なのか。」こう言ってから、再びユダヤ人たちのところに出て行って、彼らに言った。「私はあの人に何の罪も認めない。過越の祭りでは、だれか一人をおまえたちのために釈放する慣わしがある。おまえたちは、ユダヤ人の王を釈放することを望むか。」すると、彼らは再び大声をあげて、「その人ではなく、バラバを」と言った。バラバは強盗であった。」

それで、ピラトはイエスに言いました。「真理とは何なのか」これはとても重要な問いです。もっとも、彼は真剣に真理を求めていたわけではありません。彼は立場のある人でした。知識もあり、権威もありました。ですから、そのような得にならないような話には興味がありませんでした。「真理とは何なのか」という彼の言葉は、皮肉を込めて言ったものでした。「だったら真理って何なの」といった感じです。というのは、彼がそのように言うと、再びユダヤ人たちのところに出て行ったからです。そして、「私はあの人に何の罪も認めない。」というと、彼らに一つの取引を持ちかけました。それは、過越の祭りでは、だれか一人をユダヤ人たちのために釈放する慣わしがありましたが、イエスを釈放することを望むかということでした。もしイエスに何の罪もなければ釈放すればいいのに、彼はそのようにしませんでした。なぜ?ユダヤ人たちを恐れたからです。そのことでユダヤ人が怒り、騒動を起こすことになったら大変です。もしそんなことになったら総督としての自分の立場を失うことになってしまいます。仕事を失うかもしれない。これは一般の人が一番恐れていることでしょう。でもキリストには罪がないことも知っていたので、何とか釈放したかったわけです。いったいどうしたらよいものか・・。でもそれを自分から言い出すわけにはいかなかったので、ユダヤ人たちの方からその訴えを取り下げる方法を考えたのです。その時ユダヤ人の慣わしを思い出しました。そうだ、過越の祭りでは、だれか一人をユダヤ人のために釈放することになっているが、彼らがユダヤ人の王として訴えたこのイエスを釈放するように話をもちかけたらいいのではないか。

しかし、彼の企みは見事に失敗します。というのは、彼らはイエスではなく、別の人物の釈放を求めたからです。40節をご覧ください。「すると、彼らは再び大声を上げて「その人ではなく、バラバを」と言った。バラバは強盗であった。」

何と彼らが釈放を要求したのはイエスではなく、バラバでした。バラバはどういう人でしたか。ここには、バラバは強盗であったとありますが、ルカ23:25には、「暴動と人殺しのかどで牢に入れられていた男」とあります。彼はただの強盗ではありませんでした。強盗で人殺しでした。一方、イエス様は何をしたんですか。何も悪いことはしませんでした。人々を愛し、人々をあわれんで、病気の人を癒し、悪霊を追い出し、貧しい人々に福音を宣べ伝えられました。イエス様は心優しく、へりくだったお方でした。ピラトも、「あの人に何の罪も認めない。」と宣言したほどです。それなのに、彼らはイエス様ではなくピラトを釈放するように要求したのです。なぜでしょうか。それは彼らが真理に属していなかったからです。彼らは完全に自分たちの王を拒みました。そして、全く罪のない方を十字架につけて殺したのです。しかし十字架は、神が私たちを罪から救うたった一つの方法でした。全く罪のない方、神の子イエス・キリストが私たちの身代わりとなって十字架で死んでくださることによって、私たちの罪に対する神の怒りが宥められたのです。そして、三日目に死からよみがえられることによって、救いの道を完成してくださいました。ですからだれでも、このイエスを信じる者はすべての罪が赦され、永遠のいのちが与えられるのです。

ですから、イエス様はこう言われたのです。「わたしが道であり、真理であり、いのちなのです。わたしを通してでなければ、だれも父のみもとに行くことはできません。」

 イエスが道であり、真理であり、いのちです。イエスを通してでなければ、だれも父のみもとに行くことはできません。イエス様が真理です。イエス様はこの真理を証しするために来られました。ですから、

真理に生きるためには、イエス・キリストを受け入れなければなりません。その時、真理はあなたがたを罪の縄目から解放してくださるのです。

 先日、静岡県にある「ぶどうの木」というところから、「真実の愛」という冊子が送られてきました。これは、精神崩壊した一人の女子校生が、イエス様によって救われた証しです。この少女は高校1年生の時、両親はじめ周りの大人の声を聞き、それに従い、応えようと一生懸命になった末、ついに頭も心もパンクしてしまい、学校を飛び出して、自殺も考えました。この世の心療内科やカウンセリングも勧められましたが、牧師による霊のカウンセリングによって心を開き、イエス様に救われました。そこから、囚われてきた悪霊との戦いと、無条件の赦しを体験し、神の力によって精神疾患が癒されたのです。

 それにしても、このお母さんの証しがすばらしい。それまで自分の子育てを自負していました。子供が生まれてからというもの、自分の時間を惜しみなく子育てに捧げてきました。子供の声に耳を傾け、愛情をかけて、ベストな選択でわが子を導いてきたつもりでした。現に子供たちは地元でいういわゆるエリートコースを歩んでいるのが何よりもの証拠で、自分の全力子育ては間違っていないという自信がありました。このプライドがのちに神のカウンターパンチを食らうことになるわけですが。

 初めて招かれた教会の集会で示されたのは、コリント人への手紙第一13章4~8節のみことばでした。「愛は寛容であり、愛は親切です。また人をねたみません。愛は自慢せず、高慢になりません。礼儀に反することをせず、自分の利益を求めず、苛立たず、人がした悪を心に留めず、不正を喜ばずに、真理を喜びます。すべてを耐え、すべてを信じ、すべてを望み、すべてを忍びます。愛は決して絶えることがありません。」

 このみことばを読んだとき、自分が注いできた愛情がいかに自己中心で「愛」とは真逆のものであったか、自分が誇ってきた子育てがいかに愚かで子どもの心に悪い種を蒔いてきたか、全ては自分の価値観によるものであったことに気付かされました。

 とはいえ、悲しみに明け暮れる苦悩の日々はしばらく続きました。イエス様の愛に目覚めた娘の言動は学校で問題となり、何度も呼び出しを受ける有様でした。また、娘のことでご主人との関係も悪化し、身も心もボロボロでした。

 身体が聖書を拒否するようになると、主はコリント第二6:13のみことばをもって歩み寄ってくださいました。「私は子どもたちに語るように言います。私たちと同じように、あなたがたも心を広くしてください。」

 そして、「ですから、私たちは落胆しません。たとえ私たちの外なる人は衰えても、内なる人は日々新たにされています。私たちの一時の軽い苦難は、それとは比べものにならないほど重い永遠の栄光を、私たちにもたらすのです。」(Ⅱコリント4:16-17)と宣言し、希望を与えて下さいました。自分のすべてのことをご存知の神が、終わりの見えない今の苦悩を「一時の軽い患難」と言われ、その先に祝福を約束してくださったのです。娘に何と言われようが、どんな誤解を受けようが、イエス様がいつかこの思いを光に出して下さると信じ、言葉を慎むことに意思を傾けることにしたのです。

 こうしてイエス様と一対一の関係が築けたことで、自分がどれほど子どもの教育や学歴、富や名誉に翻弄されてきたかを知りました。娘は周囲を見返したい、関心を買いたい、期待に応えたい一心で女優を目指していましたが、牧師は「動機がそれではかわいそう。仮になれたとしても世間から見放されたらまた同じ」だと言いました。どんなに優秀な学校に合格しても、華やかな職業に着いたとしても、精神が崩壊したら何の意味もありません。子どもに変わってほしければ、まず親が変わらなければならないと示され、お母さんもこれまで握ってきた価値観を手放し、新たな道の端に立ちました。そして、悔い改めて、イエス様を信じて心に受け入れました。

 あれから1年以上が経ち、娘は無邪気さを取り戻し、神経質や妄想癖からも解放され、目の前に与えられた学業や人間関係に感謝して向き合うことができるようになりました。そして、世界情勢や地球環境、国際問題に関心を向けるようになり、世界中で多くの子どもたちが戦争や資本主義の犠牲になっている事実を知り、そのように苦しんでいる子供たちの代弁者となる目標に向かって一歩踏み出すことができました。きらびやかな世界に憧れ、自分の内側しか見えていなかった1年半前とはまるで別人です。一度は自分を見失い、夢も未来も閉ざされたかのように思えた娘が、聖書から生きる力を得て、喜び、前進することができるようになったのです。

 彼女もお母さんも、この世の見方、考え方で生きていた時には、自分のほんとうの姿というものに気付きませんでしたが、真理を知り、真理に属し、真理であられるキリストの声に聞き従ったとき、全く違った人生が開かれていきました。それは私たちも同じです。真理はあなたがたを自由にします。しかし、真理に心を開き、それに従わなければ闇のままです。どうか真理であられるイエス・キリストを信じ、真理に属してください。そして、このイエスにあなたの人生のすべてをゆだね、その声に聞き従ってください。あなたの人生が真理によって導かれ、真理によって開かれ、真理によって祝福されたものとなりますように。

イエスを否定したペテロ ヨハネ18章12~27節

2020年8月16日(日)礼拝メッセージ

聖書箇所:ヨハネ18章12~27節(P222)

タイトル:「イエスを否定したペテロ」

 きょうは、ヨハネ18:12~27から「イエスを否定したペテロ」というタイトルでお話しします。ゲッセマネの園でイエスは、イスカリオテのユダの裏切りにより一隊のローマ兵士と祭司長たちによって送られた下役によって捕えられました。しかし、イエスはご自分に起ころうとしていることをすべて知っておられたので、自ら進み出て、「だれを捜しているのか」と彼らに言われました。ここで著者のヨハネが示そうとしていたのは、自ら進んで十字架に向かおうとしおられた主イエスの姿です。それとは裏腹に、このゲッセマネの園は人間の弱さも示していました。ペテロはイエスを捕らえるためにやって来た人たちの一人、大祭司のしもべに切りかかり、右の耳を切り落としてしまいました。なぜそんなことをしたのでしょうか。そんなことをすれば捕らえられてしまうことになります。剣は真の解決をもたらしません。それでイエスは、ペテロに「剣をさやに収めなさい」と言ってこのしもべの耳を癒されました。イエスの最後の奇跡は、何とペテロの失敗をカバーするものでした。誘惑や試練に会うとき、私たちは愚かな判断、行動をしてしまうものなのです。

きょうの箇所にも、ペテロの失敗、弱さが記されてあります。彼はイエス様のためなら、いのちも捨てますと言いましたが、その数時間後には、「私はあの人の弟子ではない」と言ってイエスを否定するのです。三度も。きょうは、このペテロの弱さと、それとは対照的に、どんな場合でも堂々と真実を告白されるイエス様の姿からご一緒に学びたいと思います。

Ⅰ.ペテロの弱さ (12-18)

まず12節から14節までをご覧ください。

「一隊の兵士と千人隊長、それにユダヤ人の下役たちは、イエスを捕らえて縛り、まずアンナスのところに連れて行った。彼が、その年の大祭司であったカヤパのしゅうとだったからである。カヤパは、一人の人が民に代わって死ぬほうが得策である、とユダヤ人に助言した人である。」

 一隊の兵士と千人隊長、それにユダヤ人の下役たちは、イエスを捕らえると、まずアンナスのところに連れて行きました。彼が、その年の大祭司であったカヤパのしゅうとだったからです。彼自身も、以前大祭司を務めていたこともあり今はもう引退していましたが、娘の婿となったカヤパが大祭司になっていたこともあり、まだ相当の影響力をもっていました。いわば陰の実力者だったのです。それで、彼らはまずアンナスのところに連れて行き、そこで不当な裁判が持たれました。その後、現大祭司のカヤパのもとに連れて行かれますが、ヨハネはここでそのカヤパを紹介するにあたり、彼が以前ユダヤ人に助言した言葉をもう一度引用しています。14節です。それは「一人の人が民に代わって死ぬ方が得策である」という言葉です。これはカヤパが自分たちの利益のみを考えて語った言葉でしたが、はからずもそれがイエス・キリストの身代わりの贖いを予告していたものであったことから、この福音書を書いたヨハネは再びそれを引用することによって、イエスの身代わりの死がいよいよ始まろうとしていることを、示そうとしたのです。

 15~18節までをご覧ください。

「シモン・ペテロともう一人の弟子はイエスについて行った。この弟子は大祭司の知り合いだったので、イエスと一緒に大祭司の家の中庭に入ったが、「ペテロは外で門のところに立っていた。それで、大祭司の知り合いだったもう一人の弟子が出て来て、門番の女に話し、ペテロを中に入れた。すると、門番をしていた召使いの女がペテロに、「あなたも、あの人の弟子ではないでしょうね」と言った。ペテロは「違う」と言った。しもべたちや下役たちは、寒かったので炭火を起こし、立って暖まっていた。ペテロも彼らと一緒に立って暖まっていた。」

シモン・ペテロともう一人の弟子はイエスについて行きました。「もう一人の弟子」とは、この福音書を書いているヨハネのことです。イエスが捕らえられると、他の弟子たちはイエスを見捨てて一目散に逃げて行きましたが、ペテロとヨハネはイエスについて行きました。ヨハネは大祭司の知り合いだったので、イエスと一緒に大祭司の中庭に入りましたが、ペテロはそうでなかったので、門の外で遠くから中の様子を眺めていました。この大祭司とはアンナスのことです。先ほども申し上げたように、現役の大祭司はカヤパですが、ここにある大祭司とはアンナスのことを指しています。アンナスも大祭司とみなされていたのです。

そのアンナスとヨハネがどうして知り合いだったのかきよくわかっていません。これについては大きく二つの説があります。一つは、ヨハネの父ゼベダイはガリラヤ湖で魚を捕っていた漁師でしたが、そこでとれた魚を大祭司の家まで届けていたことで、知り合いになったのではないかという説です。しかし、いくら魚を届けていたとしても、漁師と大祭司とでは身分が違いすぎます。それに、ヨハネの父親が漁をしていたのはガリラヤ湖ですから、大祭司アンナスが住んでいたエルサレムまで届けるにはあまりにも遠すぎます。

もう一つの説は、ヨハネの母はサロメですが(マタイ27:56)、サロメはイエスの母マリヤの親戚でした。そしてマリヤの親戚には、バプテスマのヨハネの母エリサベツがいました。エリサベツの夫はだれですか。そうです、祭司ザカリヤです。それでヨハネは大祭司とも知り合いだったのではないかというのです。この説の方が有力ではないかと思いますが、いずれにせよ、ヨハネは大祭司の知り合いだったので、イエスと一緒に大祭司の中庭に入ることができました。

しかし、ペテロはどうでしたか。16節、ペテロは、門のところで立っていました。でもこれはただ立っていたというよりも、どこかペテロの心の状態を表しているかのようです。彼は以前、「あなたのためならいのちも捨てます」と言いましたが、今は臆病になって中に入って行くことができませんでした。門の外に立ってその様子を遠くから眺めていたのです。それで、ヨハネが門番の女に話をして、彼を中に入れてもらうようにしました。

すると、門番をしていた召使いの女がペテロに、いきなりこう言いました。「あなたもあの人の弟子ではないでしょうね」ドキッ!不意打ちを食らったかのような突然の質問に、ペテロは驚きを隠すことができませんでした。それで冷静にふるまいながら、「違う」と言いました。彼女としてはあまり見た顔ではなかったので、ただ軽く聞いた程度だったのでしょうが、ペテロとしては息がとまるのではないかと思うくらい焦ったのではないかと思います。辺りは薄暗かったので互いの顔がはっきり見えない状態だったので、とっさに「違う」と答えたのです。彼はイエス様に「あなたのためなら、いのちも捨てます」と言った人ですよ。また、ゲッセマネの園では、ローマ兵とユダヤの神殿警備隊がイエスを捕らえるためにやって来た時、剣を取って大祭司のしもべの耳を切り落とした人です。そのペテロが、門番をしていた召使いの女が放ったたった一つのことばに、シュ~ンとなっていました。びくびくしていたのです。なぜでしょうか。それは、彼も捕らえられてしまうのではないかと恐れていたからです。彼は、「あなたのためなら、いのちも捨てます」と言いましたが、それは人間的な強がりや意志にすぎなかったのです。いざとなると、自分を守ることしか考えられませんでした。それはペテロだけではありません。私たちも同じです。私たちも、主の支えがなければ何も出来ない弱い者であるということがわかっていないと、この時のペテロのようになってしまいます。自分では信仰があると思っていても、それは信仰とは全く異質の人間的な強がりや意志にすぎない場合があるのです。

それは、18節のペテロの態度にも表れていました。しもべたちや下役たちは、寒かったので炭火を起こして立って暖まっていましたが、ペテロも彼らと一緒にいて、立って暖まっていました。これは過越の祭りの期間でした。過越の祭りは3月末から4月中旬までの間に行われますから、まだ肌寒いわけです。しかも真夜中であれば相当寒かったでしょう。それでしもべたちや下役たちが炭火を起こして暖まっていたのですが、ペテロもちゃっかりとそこにいて暖まっていました。彼自身は気付いていなかったでしょうが、これは大変危険なことでした。敵の火で暖まっていたのですから。これは、外の気温だでなく彼の心も冷えていたということです。ペテロの心も寒かった。それで彼は、敵の火で暖めてもらっていたのです。私たちにもこういうことがありますね。イエス様は何と言われましたか。イエス様はいつもの場所、ゲッセマネの園に来られると、「誘惑に陥らないように祈っていなさい。」(ルカ22:40)と言われました。イエス様は十字架を前に、悲しみのあまり死ぬほどでした。ですから、苦しみもだえながら、いよいよ切に祈られたのです。それは汗が血のしずくのように滴り落ちるほどでした。ところが、弟子たちは何をしていましたか。彼らは眠りこけていました。「どうして眠っているのですか。誘惑に陥らないように、起きて祈っていなさい。」(ルカ22:46)と言われても、彼らはまた眠りこけてしまいました。同じことが三度繰り返されました。確かに彼らは疲れていましたが、ただ疲れていたのではありません。霊的に眠った状態だったのです。祈るべき時に祈らないと危険です。私たちは本当に弱い者であり、どんなに信仰があると言っても、祈らないで行動すると簡単に失敗し躓いてしまうことになります。敵の火で暖まってしまうような結果になってしまうのです。それはただ気温が寒かったからということではなく、ペテロの心が寒かったから、ペテロの信仰が寒かったからです。ペテロの失敗の本当の原因はここにありました。私たちも誘惑に陥らないように、目を覚まして祈っていなければなりません。

Ⅱ.イエスの強さ(19-24)

次に、19節から24節までをご覧ください。

「大祭司はイエスに、弟子たちのことや教えについて尋問した。イエスは彼に答えられた。「わたしは世に対して公然と話しました。いつでも、ユダヤ人がみな集まる会堂や宮で教えました。何も隠れて話してはいません。なぜ、わたしに尋ねるのですか。わたしが人々に何を話したかは、それを聞いた人たちに尋ねなさい。その人たちなら、わたしが話したことを知っています。」イエスがこう言われたとき、そばに立っていた下役の一人が、「大祭司にそのような答え方をするのか」と言って、平手でイエスを打った。イエスは彼に答えられた。「わたしの言ったことが悪いのなら、悪いという証拠を示しなさい。正しいのなら、なぜ、わたしを打つのですか。」アンナスは、イエスを縛ったまま大祭司カヤパのところに送った。」

場面がペテロのシーンからイエスの裁判に移っています。場所は同じ大祭司の中庭ですが、映画のシーンのように、ペテロとイエスのシーンを交互に映し出しています。ここでも、大祭司とは、元大祭司のアンナスのことです。これは実際の裁判ではなく、実際の裁判が行われ前の予備尋問のようなものです。最初からイエスを有罪と決めつけての尋問ですから、訴訟手続きそのものが間違っています。彼はどんなことを尋問しましたか。彼は弟子たちについて、また、その教えについてイエスに尋問しました。弟子たちについて尋問したのは、ローマ帝国に対する反逆罪で弟子たち全員を総督ピラトに告発するためでした。イエスの教えてについて尋問したのは、その異端性を暴き、冒涜罪に当たることを立証するためでした。

それに対してイエス様は何と答えましたか。20-21節にこうあります。「わたしは世に対して公然と話しました。いつでも、ユダヤ人がみな集まる会堂や宮で教えました。何も隠れて話してはいません。なぜ、わたしに尋ねるのですか。わたしが人々に何を話したかは、それを聞いた人たちに尋ねなさい。その人たちなら、わたしが話したことを知っています。」(20-21)

イエス様は弟子たちに関しては沈黙されましたが、その教えに関しては、それは公然となされたのだから、それを聞いた人たちに尋ねればわかるはずだと反論されました。問題があるなら、その人たちに聞くべきだというのです。というのは、律法の中には、裁判において証言するのは本人ではなく、二人か三人の証言者によるという規定があるからです。ですからイエス様は、質問をする大祭司に向かって、「なぜ、わたしに尋ねるのですか」と言われたのです。

すると、そばに立っていた下役の一人が、「大祭司にそのような答え方をするのか」と言って、平手でイエスを打ちました。最初に神の子に手を出したのは、正義を行うはずの下役たち、ユダヤ教の神殿警察の者でした。恐れ多くも神の子イエスを平手で打ったのです。しかし、この下役の言葉と行動には注目すべきものがあります。というのは、彼は「大祭司にそのような答え方をするのか」と言っているからです。下役は自分が平手で打った方がどういうお方であるかを知りませんでした。「大祭司にそのような答え方をするのか」と言って彼が平手で打ったお方こそ、実は真の大祭司だったのです。イエス・キリストは永遠の大祭司であり、神様と人をとりなすお方です。このとりなしの働きを示すために、人間の大祭司が一時的に立てられたわけですが、その人間の大祭司の権威を認め、その権威を尊重することはとても大切なことです。ですから、この下役が取った態度は間違いではありませんでした。彼の過ちは、自分の目の前にいるお方が真の大祭司であったということを知らなかったことです。もしもこの役人の霊的な目が開かれていて、自分の目の前にいるお方が聖なるお方、全能の神、メシアであることを知っていたなら、彼の行動は全く違ったものになっていたことでしょう。彼は即座にキリストの足元にひれ伏して礼拝したに違いありません。

すると、イエスは彼に答えて言われました。「わたしの言ったことが悪いのなら、悪いという証拠を示しなさい。正しいのなら、なぜ、わたしを打つのですか。」

イエス様は、たとえ彼がご自分のことを知らなかったとは言え、悪に対しては毅然とした態度で立ち向かいました。相手が受け入れないということがわかっていても、正しいことを語られたのです。もしかすると、また平手で打たれるかもしれません。いや、今度はグーパンチを浴びせられるかもしれません。しかし、イエス様は動じることはありませんでした。「わたしの言ったことが悪いのなら、悪いという証拠を示しなさい。正しいのなら、なぜ、わたしを打つのですか。」と、堂々と応じたのです。イエス様こそまことの神、王の王、主の主なのです。

ある国の皇太子が、クルージングを楽しんでいました。やがて霧が出て来て前方を遮りました。すると灯りが見えます。このままでは衝突してしまいます。相手にメッセージを送りました。

「そちらの進路を変更されたし!」

すると相手から返事が返って来ました。

「そちらこそ進路を変えてください」

皇太子は頭に来て、改めてメッセージを送りました。

「そっちが変更しろ!こっちは皇太子である」

すると再び相手から返事がありました。

「進路を変えるのはそちらです。こちらは灯台です」

もし、あなたが皇太子ならどうしますか?

まさにイエス様は世の光です。灯台なるお方です。進路を変えなければからないのは、私たちの側なのです。この方こそ真の大祭司、聖なる方、全能の神、メシアであられるのです。それなら、どうしてこの方を打つのでしょうか。私たちはこの方が正しい方、神の子、救い主であると認め、この方の前にひれ伏さなければなりません。彼らはイエス様に返すことばがありませんでした。それでアンナスは、イエスを縛ったまま大祭司カヤパのところに送ったのです。

Ⅲ.鶏の鳴き声を聞いたペテロ(25-27)

最後に、25-27節をご覧ください。

「さて、シモン・ペテロは立ったまま暖まっていた。すると、人々は彼に「あなたもあの人の弟子ではないだろうね」と言った。ペテロは否定して、「弟子ではない」と言った。大祭司のしもべの一人で、ペテロに耳を切り落とされた人の親類が言った。「あなたが園であの人と一緒にいるのを見たと思うが。」ペテロは再び否定した。すると、すぐに鶏が鳴いた。」

場面は、再び大祭司の中庭にいたシモン・ペテロに戻ります。そこはイエス様が顔につばきをかけられ、殴りつけられていたところですが、一方ペテロはどうしていたかというと、彼はまだ敵の火に暖まっていました。イエス様が苦しめられている間、ずっと彼は人で暖まっていたのです。すると人々が彼にこう言いました。「あなたもあの人の弟子ではないだろうね。」マタイの福音書を見ると、彼らがそのようにペテロに言ったのは、彼のことばになまりがあったからでした。彼らは「確かに、あなたもあの人たちの仲間だ。ことばのなまりで分かる。」(26:73)と言いました。これはきついですね。ことばのなまりはそう簡単には直せません。私に関西弁を話せと言われても無理です。標準語だって難しいんですから。その人の言葉を聞くと、その人がどこで生まれ育ったかがすぐにわかります。私の両親は福島県の霊山という山奥で生まれた人なので、二人ともかなりのズーズー弁です。「フクシマ」も、私が育った福島では「フクシマ」とは言わず、「フグシマ」と言います。なまりが抜けないのです。それで私もズーズー弁が抜けなくて、言葉には相当のコンプレックスがあるのです。私がこんなに内向的なのはそのせいです。ペテロはガリラヤ出身でしたから、そのことばのなまりでわかりました。するとペテロは否定して、「弟子ではない」と言いました。二回目です。今回は以前よりも否定する度合いが強くなっています。一回目は、「違う」だけでしたが、今回は「弟子ではない」とはっきりと否定しました。三回目はどうでしょう。

26節をご覧ください。今度は大祭司のしもべの一人で、ペテロに耳を切り落とされた人の親類が言いました。「あなたが園であの人と一緒にいるのを見たと思うが。」大祭司のしもべの一人で、ペテロに耳を切り落とされた人は誰ですか?そうです、マルコスです。そのマルコスの親戚が、「見たんです。あなたが園でマルコスの耳を切り落としたのをこの目で見たのです。」と言ったものですから、もう言い逃れは出来ません。被害者の感情には相当なものがありますから、それには実感が込められていたことでしょう。するとペテロは何と答えましたか。27節、「ペテロは再び否定した。」。もう一度否定しました。マタイの福音書を見ると、ただ否定したのではなく、「嘘ならのろわれてもよいと誓い始め、「そんな人は知らない」と言った。」(26:74)とあります。言わなくてもいいようなことを言っちゃいました。大抵の人は嘘の上に嘘を塗ろうとすると、このような結果になります。「のろわれてもよい」とは、絶対に嘘じゃないということです。神にかけて誓うと言う人がいますが、そういうことです。神にかけて言うけど、嘘じゃない。嘘でも嘘じゃないと言って否定したわけです。完全に否定しました。イエス様を三度も否定しました。すると何がありましたか。27節、「コケコッコー」、「すると、すぐに鶏が鳴いた。」

イエス様はこのことを知っていました。ですから、最後の晩餐の時に、ペテロが「あなたのためなら、いのちも捨てます。」と言ったとき、こう言われたのです。

「わたしのために命を捨てるのですか。まことに、まことに、あなたに言います。鶏が鳴くまでに、あなたは三度わたしを知らないと言います。」(13:38)

その御言葉の通りになりました。ペテロは鶏が鳴いた時、この言葉を思い出しました。ルカの福音書を見ると、この時イエス様が振り向いてペテロを見つめられたとあります(ルカ22:61)。目と目が合ったのです。そして彼は、「今日、鶏が鳴く前に、あなたは三度わたしを知らないと言います。」とイエス様が言われたことばを思い出して、外に出て、激しく泣きました(ルカ22:62)。

ペテロは、以前は自分自身にとても自信のある男でした。行動的なタイプの人です。イエス様を愛して、本当にいのちをかけて最後まで従おうと思っていました。他の弟子たちが躓いても、自分だけは絶対にそんなことはないと思っていました。いわゆる体育会系の人です。そのように思っていた彼が今、そうでないということに気付かされ、完全に打ちのめされてしまったのです。完全に砕かれました。イエス様は、そのことをちゃんと知っておられました。人間の強さというものが、どれほど弱く、脆いものであるかということを。ですから、ペテロのためにとりなしの祈りをされたのです。ルカ22:31-32です。

「シモン、シモン。見なさい。サタンがあなたがたを麦のようにふるいにかけることを願って、聞き届けられました。しかし、わたしはあなたのために、あなたの信仰がなくならないように祈りました。ですから、あなたは立ち直ったら、兄弟たちを力づけてやりなさい。」

ペテロは失敗しましたが、彼の信仰は無くなりませんでした。なぜでしょうか。イエス様が彼のために祈られたからです。彼はのろいまでかけて誓いイエス様を否定しましたが、それでも信仰が無くなりませんでした。なぜですか。それはイエス様が彼のために祈られたからです。そして復活してから後40日間、彼らの前にご自身を現わされると、ペテロに三度尋ねられました。

「あなたはわたしを愛しますか」

これは、ペテロが三度主を否定したことを赦し、公に彼の信仰を回復させるためでした。ペテロが「はい、主よ。私があなたを愛していることは、あなたがご存知です。」と告白すると、主は、「わたしの羊を飼いなさい」と言われました。そして、初代教会の指導者として立ててくださったのです。ペテロの信仰は完全ではありませんでしたが、主が彼のために祈り、赦し、癒し、励まし、立ち上がらせてくださったので彼は神の器として用いられ、神の御言葉を通して多くの人々を救いに導き励ますことができたのです。

それは私たちも同じです。もしかすると、あなたは自分にはできないことはない、自分には何でもできると思っているかもしれません。自分にはそれだけの意志と力があると。しかし、自分自身に自信がある時には神の働きをすることはできません。表面的にはできるかもしれませんが、しかし、それで神の働きをすることはできないのです。神の働きは、自分が簡単に失敗し、躓いてしまうような弱い者であることをとことん知り、神の前に砕かれ、自分の人生を主イエス様に明け渡した時に始まるのです。

ベトナムのダナンにあるカトリック教会、ダナン大聖堂は、ダナンの街でひときわ存在感を発揮するピンク色の教会です。屋根の上に鶏の像があることから「鶏教会」とも呼ばれています。なぜ屋根の上に鶏があるのかとある外がその教会の神父に尋ねると、その教会の神父はこう答えました。

「ペテロは残りの生涯の間、鶏の声を聞くたびにあの時のこと(イエス様を三度裏切ったこと)を思い出して泣いて悔い改めました。それ以来、教会に鶏の像をつけるようになったのです。」

私はそれを聞いて笑ってしまいました。そんな考えがどこから来るのでしょうか。聖書は何と言っていますか。ペテロはイエス様の御力を味わってから、完全な赦しを得て新しくされ、もう二度とその罪を思い起こすことはなかったのです。それなのにイエス様が赦してくださった罪を、鶏が鳴いたからと言ってまた思い出して泣くなどということはあり得ません。また人は神様のみことばを聞いて悔い改めるのであって、鶏の声を聞いて悔い改めるわけではないのです。

ペテロは、鶏の鳴き声を聞いて、イエス様が言われたことを思い出して激しく泣きました。彼は自分の弱さ、自分の足りなさに打ちのめされ完全に砕かれたのです。しかし、自分の罪を悔改めた彼は完全な赦しを得て新しくされ、自分の力ではなく、神の力、イエス・キリストの力に完全により頼んだので、神に大きく用いられたのです。

私たちもペテロと同じように弱い者です。多くの失敗をします。でも、安心してください。イエス様があなたのために祈っていてくださいます。あなたの信仰が無くならないようにと祈っていてくださるのです。イエス様はすでにあなたを赦してくださいました。ですから、あなたが立ち直ったら、兄弟たちを力づけてやるべきです。まずはあなたが自分の弱さを知り、そんな者でさえも愛されていることを深く知って、イエス様にあなたの人生のすべてを明け渡すことです。あなたが神の前に砕かれるとき、神の恵みと神の力があなたに注がれるからです。

サムソンといえば、皆さんは何を思い浮かべるでしょうか。長髪を思い浮かべる人、腕力の強さを思い浮かべる人など、さまざまでしょう。「サムソナイト」というメーカーのスーツケースがありますが、これは丈夫で強いサムソンにちなんで名づけられたものです。彼は長所を生かせず失敗したヒーローです。彼は、神様の偉大なみわざを行うために用意された器でした。ところが、彼は大きな勝利の後に、女性を追いかけては失敗します。そして、最後は自分の力の秘密であった髪の毛を剃り落とされると、ペリシテ人に捕らえられ、両目をえぐり取られ、青銅の足かせをかけられて牢につながれてしまいました。しかし、牢の中で悔い改めた彼は再び神の力を受け、一度に三千人のペリシテ人を打ち殺すことができました。それは、彼が生きている間に殺した数よりも多かったと聖書にあります。確かに彼は失敗の多い人生でした。しかし、最後は神の御力を受けて神の器として働くことができたのです。

あなたもサムソンのように失敗することがあるかもしれません。ペテロのようにイエスを否定することがあるかもしれない。しかし、あなたが悔い改めて主に立ち返るなら、主はあなたを赦してくださいます。そして、あなたを立ち直らせてくださいます。主があなたのために祈られたからです。その時あなたは兄弟たちを力づけてやらなければなりません。それはあなたの力によってではなく、主の恵み、主の御力によってです。主はあなたの信仰がなくならないように祈られました。主の恵みに感謝しましょう。そしてこの恵みによって立ち直り、主の御力によって主に仕えさせていただきましょう。

わたしがそれだ ヨハネ18章1~11節

2020年8月2日(日)礼拝メッセージ

聖書箇所:ヨハネ18章1~11節(P221)

タイトル:「わたしがそれだ」

 きょうから、ヨハネの福音書18章に入ります。主は、この地上に残していく弟子たちに最後の長い説教をされ、祈りをもって締めくくられると、いよいよ十字架に向かって進んで行かれます。1節に、「これらのことを話してから、イエスは弟子たちとともに、ギデロンの谷の向こうに出て行かれた。」とあるのは、そのことです。そこでイエスは、ご自身を捕らえにやって来たイスカリオテのユダ率いる一団と対峙するわけですが、その時の主の態度がすごかった。まさに神としての御力がみなぎっていました。それがこの言葉に表れています。「わたしがそれだ」。きょうはこのイエス様の言葉から、私たちのために十字架に向かって進んで行かれるイエス様のご愛をご一緒に学びたいと思います。

Ⅰ.すべて知っておられたイエス (1-4)

まず1節から4節までをご覧ください。1節をお読みします。「これらのことを話してから、イエスは弟子たちとともに、キデロンの谷の向こうに出て行かれた。そこには園があり、イエスと弟子たちは中に入られた。」

 これらのことを話してから、イエスは弟子たちとともに、キデロンの谷の向こうに出て行かれました。そこには園があって、イエスは弟子たちとその園の中に入られました。この園とは、言うまでもなくゲッセマネの園です。「ゲッセマネ」とは、「油しぼり」という意味があります。そこはオリーブの木が茂っていて、そのオリーブの実をしぼってオリーブオイルが作られていたので、そのように呼ばれていました。そこは、イエスが弟子たちとたびたび集まっていた場所でした。ルカ22:40には、「いつもの場所に来ると、イエスは彼らに、「誘惑に陥らないように祈っていなさい」と言われた。」とありますが、イエスはいつもここで祈りの時を持っておられたのです。

あなたがクリスチャンであれば、あなたにとってもいつもの場所が必要です。私たちは毎日忙しく走り回って疲れ果てていますが、身も心も元気になるためにいつもの場所に来て、神様との静かな時間を持つべきです。それがあなたの生活を潤してくれるからです。イエス様のこの地上での生涯は、これを大切にされました。それは私たちも同じです。私たちも私たちのゲッセマネの園が必要です。そこで定期的に主と交わり、聖書を読み祈ることによって、神の力を受けることができます。単純なことですが、とても重要なことです。

イエス様は、そのゲッセマネの園に来られました。ここで最後の祈りをするためです。夜が明けると十字架に付けられることになります。主はそのことをよくご存知でした。ですから、それは壮絶な祈りの葛藤だったのです。ルカ22:44には、「イエスは苦しみもだえて、いよいよ切に祈られた。汗が血のしずくのように地に落ちた。」とあります。同様のことが、マタイの福音書とマルコの福音書にも詳しく記されてあります。しかし、ヨハネはそのことについては一切触れずに、別の視点でこのゲッセマネの園での出来事を記しています。それは、イエスが神であるという視点です。その権威あるお姿を、このゲッセマネの園でも見ることができるのです。それがユダの先導によってやって来た一行にイエスが捕らえられるというこの出来事なのです。

2節と3節をご覧ください。「一方、イエスを裏切ろうとしていたユダもその場所を知っていた。イエスが弟子たちと、たびたびそこに集まっておられたからである。それでユダは、一隊の兵士と、祭司長たちやパリサイ人たちから送られた下役たちを連れ、明かりとたいまつと武器を持って、そこにやって来た。」

イスカリオテのユダもその場所を知っていました。ですから、最後の晩餐を抜け出した彼は、そこに行けばイエスを敵の手に渡すことができると思い、銀貨30枚を払ってくれた祭司長たちやローマの軍隊を引き連れてやって来たのです。ここに「一隊の兵士」とありますが、これはローマ兵たちのことです。子の兵士たちは、エルサレムで祭りがあるたびに治安維持のため遣わされていた人たちですが、通常は600人で構成されていました。時には200人になることもあったようすが、ですから、この兵士とは200人~600人の兵士であったことがわかります。また、「下役たち」とは、ユダヤ教の神殿警備隊のことです。彼らはたった一人の人を捕まえるために、こんなに大勢でやって来たのです。しかも、彼らは明かりとたいまつと武器を持っていました。この時は過越の祭りの時で満月に当たりますから、しかもほとんど雨が降ったり、曇ったりすることがありませんので、明かりやたいまつなど必要ありませんでした。月の明かりがこうこうと輝いていたからです。それなのに彼らが明かりやたいまつや武器を持ってやって来たのは、彼らがイエスの力を知っていたからです。死人のラザロさえも生き返らせたお方ですから、力には力で対抗しようと完全武装し、武器まで手にしてやって来たのです。

そんな彼らに対して、イエスは何と言われましたか。4節をご覧ください。「イエスはご自分に起ころうとしていることをすべて知っておられたので、進み出て、「だれを捜しているのか」と彼らに言われた。」 

そんな彼らに対して、イエスは「だれを捜しているのか」と言われました。普通なら、イスカリオテのユダが自分を裏切るために出て行ったとき、おそらくゲッセマネの園に来るだろうと考えて、できるだけそこには近寄らないようにするでしょうが、イエスはそこへ来たというだけでなく、自ら進み出て、「だれを捜しているのか」と言われたのです。なぜでしょうか?それは、イエスがご自分に起ころうとしていることをすべて知っておられたからです。

ここに、私たち人間との違いがあることがわかります。私たちはすべてのことを知っているわけではありません。しかし、イエス様はご自分に起ころうしていることをすべて知っておられました。それで、自ら進み出て、「だれを捜しているのか」と言われたのです。どういうことでしょうか。イエス様はご自分が十字架につけられることを知っておられたので、そのように言われたということです。えっ、普通なら逆でしょう。ご自分が十字架につけられるということを知っていれば、どこかに隠れようとするんじゃないですか。しかし、イエス様は逃げも隠れもしませんでした。むしろ、自分から進んで、「だれを捜しているのか」と言われたのです。それは、イエスがすべてのことを知っておられたからです。そのすべてとは、ユダに裏切られて十字架につけられて死なれるということだけでなく、三日目に死人の中からよみがえられ、天に昇り、神の右の座に着かれる、というすべてのことです。神の計画のすべてを知っておられました。だから進み出て「だれを捜しているのか」と言われたのです。イエス様はすべてのことを知っておられ、そのご計画に従ってすべてを導いておられるのです。私たちに必要なのは、このすべてをご存知であられる主にゆだね、主のみこころのままに生きることです。時として私たちは、自分が願っていることと違ったことが起こる時それを受け入れることができず、嘆いたり悲しんだりするわけですが、すべてを支配しておられる主が最善に導いてくださると信じて、主に信頼して歩んでいかなければなりません。

アウグスティヌスは、私たちの人生を、神が縫われた刺繍のようなものだ、と言いました。裏側からだけ見ると、ただ糸が絡まり合っているようにしか見えません。いろいろな色の糸が複雑に絡み合っていてよく分らないわけですが、しかし、完成して表側を見たときに、ああなるほど、この色、この形、この表現のためにあそこで糸が切れていたのか。全部このためだったんだということがわかります。それは私たちの人生も同じで、それがあたかも混沌としているようであっても、神様は私たちの人生に刺繍をしておられるのです。時にどうして神様は私にこんな事を許されているのだろうと心を痛めることがありますが、それは、まだその事柄を通しての神様の計画全体を見ていないだけであって、やがて具体的に素晴らしい神様の祝福を見ることになるのです。

リーマンショックの影響である姉妹のご主人が勤務していた会社が、東京地裁に会社更生法の適用を申請しました。負債総額は2兆3千億円となり、事業会社としては戦後最大の経営破綻で政府の管理下になりました。2010年1月19日のことです。

ご主人から「1万6千人がリストラされる。覚悟していてくれ。」と言われた時、目の前が真っ暗になりました。それは、3人に1人の割合で、特に50歳以上は大半の人が対象になっていたからです。退職金、企業年金はいったいどうなるのだろう。就職の超氷河期と言われているこの時に、60歳になるご主人の再就職は非常に厳しく望めるような状況ではないと不安でいっぱいになりました。

しかし、そのことを聞いた時、この姉妹から出た言葉は、「37年間一生懸命働いてくれてありがとう。本当にありがとう。大丈夫!神様が共におられるから。これから新しい事が始まるのよ。感謝のお祈りをしましょう。」ということでした。「神様、感謝します。あなたが私達を愛しておられ、良き事の働きのためにこの問題が許され、この悪いと思われる事の向こう側に神様の素晴らしい祝福のご計画がありますから感謝します。必ずこの事を通して主の栄光が豊かに現されますからありがとうございます。」と祈ると心に平安と確信が与えられました。ご主人の目は涙で潤んでいました。

退職後すぐに就職を支援する人材紹介の会社に登録し、面接の受け方、履歴書の書き方などのセミナーを受け、今までは採用する側でしたが、される側に一変しました。担当者からは「大卒の就職率が60%と言われている中で、60歳以上の就職は非常に厳しい状況です。お知り合いとか縁故で探されることもお勧めいたします。」と言われました。まさしく就職の超氷河期でした。

枯れ葉が舞う頃、以前仕事上で関わったヨーロッパに本社がある外資系の会社から、これからアジアの働きを強めるために新しいプロジェクトを計画しているので、是非今までのキャリアを生かして働いてほしいという話がありました。今までやっていた仕事の経験を活かす事ができ、職場は国際色豊かで、ヨーロッパ出張もあり、自分たちが願っていたことだったので、「やった。ばんざい!神様感謝します。この就職先が主の導きでしたら、必ず決まりますように。御心に従いたいですから私たちにわかるように教えて下さい。あなたが私たちを導いておられる最善の計画を歩むことができますように助けてください。」と祈りました。

しかし、数日後、勤めようとしていた外資系の会社から、新しいプロジェクトの企画内容、予算を再検討することになり、時期を遅らせることになりましたと連絡が来ました。そのときは、本当にがっかりしましたが、後で振り返ってみると、それはまさに神様からのストップでした。というのは、その年の11月1日にご主人の父親が脳梗塞で倒れて入院し、2週間後母親も心臓疾患で意識不明になり、救急車で大学病院に運ばれ入院しました。それはかりか、2011年1月9日には、実家の父親が天に召されたのです。ご主人が家にいて何かと助けてくれたので、ご主人のご両親の看病と介護、母親の死の悲しみを乗り越えることが出来ました。もし最初の話がスムーズに進んでいたら、11月1日からの勤務だったので、とても忙しくなっていたはずです。休めるような状況ではありませんでした。神様はすべてをご存じだったのです。

すると、翌年1月19日に1通のメールが届きました。ロンドンに転勤していたとき、家族ぐるみで親しくさせていただいた方からでした。ある公益法人で民間企業からの優秀な人材を探しているのだが、働いてみませんかという内容でした。外資系の企業よりもさらに良い条件でした。それはちょうど1年前の1月19日に、ご主人が勤務していた会社が、東京地裁に会社更生法の適用を申請し、ご主人と共に感謝の祈りをした日でした。

2月1日からの勤務と正式に決まり、登録していた人材紹介の会社に就職が決まったことを報告に行きました。担当者から「幸運ですね。」と言われた時、ご主人はこう答えました。「妻の祈りです。」

神様は私達一人ひとりを愛しておられ、私達の人生に素晴らしい計画を用意しておられるのです。それはわざわいではなく平安を与える計画であり、将来と希望を与えるためのものです。

リビングプレイズに「御手の中で」という賛美があります。

1 御手の中で 全ては変わる 賛美に  我が行く道を 導きまたえ あなたの御手の中で

2  御手の中で 全ては変わる 感謝に 我が行く道に 現したまえ あなたの御手の業を

順調な時や何かすばらしい出来事が起きた時は、自然と賛美や感謝をすることができますが、試練の時はなかなかできません。しかし、神はすべてのことを知っておられ、私たちにとって最善に導いておられると信じるなら、自分に訪れた些細な問題と困難に落胆し、絶望しながら生きるのではなく、神様の驚くべき祝福を感謝しながら生きることができるのではないでしょうか。箴言に「あなたの行くところどこにおいても主を認めよ。そうすれば、主はあなたの道をまっすぐにされる。」(箴言3:6)とあるとおりです。

Ⅱ.わたしがそれだ(5-9)

次に、5節から9節までをご覧ください。

「彼らは「ナザレ人イエスを」と答えた。イエスは彼らに「わたしがそれだ」と言われた。イエスを裏切ろうとしていたユダも彼らと一緒に立っていた。イエスが彼らに「わたしがそれだ」と言われたとき、彼らは後ずさりし、地に倒れた。イエスがもう一度、「だれを捜しているのか」と問われると、彼らは「ナザレ人イエスを」と言った。イエスは答えられた。「わたしがそれだ、と言ったではないか。わたしを捜しているのなら、この人たちは去らせなさい。」これは、「あなたが下さった者たちのうち、わたしは一人も失わなかった」と、イエスが言われたことばが成就するためであった。」

「だれを捜しているのか」というイエスのことばに対して、彼らが「ナザレ人イエスを」と答えると、イエスは彼らに、「わたしがそれだ」と言われました。この「わたしはそれだ」という言葉は、イエス様の神宣言です。ギリシャ語では「エゴー・エイミー」という言葉です。この言葉は、かつてモーセが神様に名前を尋ねた時、「わたしは「わたしはある」という者である」(出エジプト3:14)と言われた、あの名前です。へブル語では「ヤーウェ」と言いますが、それは「あらゆる存在の根源」を意味しています。ですからここでイエスが「わたしがそれだ」と言われたのは、あの出エジプト記の中で神が「わたしは「わたしはある」という者である」と言われた、あの神ご自身であるということだったのです。

それがどういうことなのかを、ヨハネはこの書の中で具体的にこれを7回用いて説明してきました。それが、「わたしがいのちのパンです」(6:35)とか、「わたしは世の光です」(9:5)、「わたしは羊たちの門です」(10:7)、「わたしは良い牧者です」(10:14)、「わたしはよみがえりです。いのちです。」(11:25)、「わたしは道であり、真理であり、いのちなのです」(14:6)、「わたしはまことのぶどうの木です」(15:1)だったのです。ですから、イエス様がここで「わたしがそれだ」と言われたのは、ご自分こそ「わたしはある」というお方であり、すべての存在の根源であられる方、神ご自身であるということだったのです。ですから、イエスは、「わたしと父とは一つです。」(10:31)と言われたのです。また、「わたしを見た人は、父を見たのです。」(14:9)と言われたのです。イエス様を見れば、まことの神がどのような方であるかがわかります。彼らは「ナザレ人イエス」を捜していましたが、そのナザレ人イエスは、まさに神ご自身であられたのです。

そのことばを聞いた時、彼らはどうなりましたか?6節を見ると、「彼らは後ずさりし、地に倒れた」とあります。どういうことですか?その圧倒的な権威あることばに、ドミノ倒しのように後ずさりして、そこに倒れてしまったのです。何百人という完全武装したローマの兵士とユダヤの神殿警備隊が、何の武器も持っていなかった一人の人の声によってバタバタと倒れたのです。それだけイエス様の声には低音の響きがあったということではありません。それほど権威があったということです。それはこの天地を創造された時の権威でした。神が「光よ、あれ」と命じると、光ができました。この神とは、創世記1:26に「われわれのかたちに人を造ろう」とあるように、三位一体の神です。父と子と聖霊の三位一体の神が、天地創造に関与しておられました。ですから、それはイエスのことばでもあったのです。イエス様が「光よ、あれ」と命じると光ができました。「大空よ、水の真っただ中にあれ。」と命じると、そのようになったのです。私がどんなに「・・あれ」と言っても何も出てきませんが、神が「水には生き物が群がれ。鳥は地の上、天の大空を飛べ。」と命じると、そのようになったのです。神のことば、キリストのことばには、それほどの権威があるのです。

それは主イエスの公生涯を見てもわかります。イエスがある安息日にカペナウムの会堂で教えられると、人々はその教えに驚きました。権威があったからです。それは単なる良いお話しだったとか、感動的な話であったというのではありません。権威ある教えだったのです。また、そこに汚れた霊につかれていた人がいましたが、イエスがその悪霊を叱って「この人から出て行け」と言われると、悪霊はたちまちその人から出て行きました。また、そのことばは、病気で死にかかっていた王室の役人の息子を癒しました。まだ家までは遠く離れていましたが、「あなたの息子は治ります」と言われたとき、息子は癒されたのです。また、イエスのことばには自然界も従いました。イエス様が「嵐よ、静まれ」と命じると、風はやみ、すっかり凪になりました。また、死んで四日も経っていたラザロに「出て来なさい」と命じると、死んだラザロが、手と足を長い布で巻かれたまま出て来ました。イエスの言葉は、死人さえも生き返らせることができたのです。なぜこのようなことができたのでしょうか。イエスは神であり、そのことばには絶対的な権威があったからです。

その神の名が、それを聞いた捕縛者たち一行を圧倒したのです。彼らがあとずさりし、地に倒れてしまったのは、そのためでした。この天地万物の創造者であり支配者であられる神の御前に、完全武装したローマの軍隊もユダヤ教の権威を持った人々も、全く無力であったのです。それはまた、この方を信じる者には、その権威が与えられているということを示しています。私たちは本当に無力な者であり、信仰の弱い者ですが、この御名を信じた者として、この権威が与えられているのです。このことを信じましょう。そして、「これこそ、御子が私たちに約束してくださったもの、永遠のいのちです。」(Ⅰヨハネ2:25)とあるように、私たちの中に、この主が働いておられることを感謝しましょう。そして、この事実を信じることによって、神様が約束してくださった永遠のいのちの祝福を受ける者となろうではありませんか。

7節から9節をご覧ください。「イエスがもう一度、「だれを捜しているのか」と問われると、彼らは「ナザレ人イエスを」と言った。イエスは答えられた。「わたしがそれだ、と言ったではないか。わたしを捜しているのなら、この人たちは去らせなさい。」これは、「あなたが下さった者たちのうち、わたしは一人も失わなかった」と、イエスが言われたことばが成就するためであった。」

ご自分を捕らえにやって来た者たちにイエスは「だれを捜しているのか」と問われましたが、それはご自分が神であることを宣言し、彼らにその権威を示すためでした。しかし、ここでイエス様はもう一度彼らに同じことを尋ねています。「だれを捜しているのか」。なぜでしょうか。それは、弟子たちを守るためでした。彼らが「ナザレ人イエスを」と答えると、イエス様は、「それはわたしだ」と言ったではないかと言われました。そして、「わたしを捜しているのなら、この人たちを去らせなさい。」と言われました。イエス様は最後までご自分の弟子たちを守ろうとされたのです。この人たちを去らせなさい。私だけで十分でしょう。それは9節にあるように、「あなたがくださったものたちのうち、わたしは一人も失わなかった」と、イエスが言われたことばが成就するためでした。これは、イエス様が17:12で言われたことです。イエス様は弟子たちのために祈られました。「わたしはあなたが下さったあなたの御名によって、彼らを守りました。わたしが彼らを保ったので、彼らのうちだれも滅びた者はなく、ただ滅びの子が滅びました。」この祈りが成就するためです。

この時、弟子たちの信仰はまだ弱いものでした。もしも彼らがこの時イエス様と一緒に捕らえられてしまったらなら、一も二もなく信仰を捨ててしまったことでしょう。そういうことがないように、彼らを守られたのです。Ⅰコリント10:13にはこうあります。

「あなたがたが経験した試練はみな、人の知らないものではありません。神は真実な方です。あなたがたを耐えられない試練にあわせることはなさいません。むしろ、耐えられるように、試練とともに脱出の道も備えていてくださいます。」

イエス様は、弟子たちが耐えられないような試練に会わせられませんでした。むしろ、耐えられるように、試練とともに脱出の道を用意しておられたのです。

皆さんもよくご存知の競泳の池江璃花子選手は、数々の競泳の日本記録を更新し、2018年にジャカルタで開かれたアジア大会では6種目で優勝。日本人初となるアジア競技大会6冠を達成し、大会MVPに輝きました。しかし、その半年後の2019年2月、私たちは信じられないニュースを知りました。その池江選手が白血病と診断されて入院したというのです。東京オリンピックを翌年に控えてのことでした。本人としてはどれほどショックだったことでしょう。しかし、その時池江選手が語ったことは、神様は、耐えられない試練に会わせることはなさらないという、この聖書のことばでした。どなたかから聞いた励ましの言葉だったのかもしれません。この言葉は、立ちあがることができないほどの絶望の中でどれほど彼女を支えてくれたことかと思います。

その約束の言葉に支えられ、10か月に及ぶ入院生活を経て、去年末に退院すると、競技への復帰を目指して少しずつトレーニングを再開しました。そして、先月2日、退院後初めてプールで練習する様子を報道陣に公開しましたが、そこで池江さんが語ったことは、「心から楽しんで水泳ができています。」という素直な喜びでした。そして、「日に日に力がついている実感があり、自分が中学1年生とか2年生くらいのときの泳力まで戻ってきたと思います。」と話すぐらいにまで回復したのです。そのうえで、闘病生活を踏まえて「元には戻れないかもしれないと思うこともありますが、病気になっても、また強くなれるということを知ってもらいたいです。」ということでした。それが、彼女が競技への復帰を目指す理由だったのです。

先月4日は彼女の20歳の誕生日でしたが、彼女はその抱負を次のように語りました。「大人の第一歩だと思うので自覚を持ちたいです。自分の意思を持った、内面的に強い女性になりたいです。」すばらしいですね。内面的に強い女性になりたい。これこそ神が用意してくださった脱出の道ではないかと思いました。確かにオリンピックに出場することもすばらしいことですが、それ以上に一人の人間として、一人の女性として内面的に強い人になりたいと語ることができるのは、競泳をすること以上に大切なものを見出したからではないでしょうか。神は真実な方ですから、あなたがたを耐えられない試練にあわせることはなさいません。むしろ、耐えられるように、試練とともに脱出の道も備えていてくださるのです。

それは私たちも同じで、私たちも振われたり、打ちのめされたりすることがありますが、全く滅ぼされることはありません。ノックダウンすることはあっても、ノックアウトすることはないのです。それは、私たちの主イエスが私たち一人一人をやさしく見守り、優れた医者のように確かな技術をもって、私たちが耐えられる試練の分量というものを正しく量られるからです。そして、ヨハネ10:28に、「わたしは彼らに永遠のいのちを与えます。彼らは永遠に、決して滅びることがなく、また、だれも彼らをわたしの手から奪い去りはしません。」とあるように、ご自身の民を永遠に守ってくださるからです。あなたをイエス・キリストの手から奪い去るものは何もありません。ですから、最もひどい暗黒の中にいるようでも、イエス様の目があなたに注がれているということを覚え、どんなことがあっても守られていることを信じて、この方にすべてをゆだねようではありませんか。

Ⅲ.剣をさやに収めなさい(10-11)

最後に、10-11節を見て終わりたいと思います。「シモン・ペテロは剣を持っていたので、それを抜いて、大祭司のしもべに切りかかり、右の耳を切り落とした。そのしもべの名はマルコスであった。イエスはペテロに言われた。「剣をさやに収めなさい。父がわたしに下さった杯を飲まずにいられるだろうか。」」

ところが、シモン・ペテロが持っていた剣を抜いて、大祭司のしもべに切りかかり、右の耳を切り落としてしまいました。せっかくイエス様が彼らを守られたのに、ここでペテロは、またまた早まったことをしてしまいました。彼はどちらかというと衝動的なタイプの人間でした。すぐに反応しちゃう人ですね。そういう人がいます。何でも反応してしまう人です。こういう人はいいとこともありますが、失敗も多いのです。私もペテロのような人間なので、彼の気持ちが手に取るようにわかるような気がします。彼は、最後の晩餐の席上「あなたのためなら、いのちも捨てます。」(13:37)と言いましたが、それは彼の本心だったでしょう。そして、大勢の人たちがイエス様を捕らえに来たときは、それを証明する絶好の機会だと思ったに違いありません。だからこそ、大祭司のしもべマルコスに襲いかかったのです。本当は頭をねらったのでしょうが、外してしまいました。それで右の耳を切り落としたのです。それでも彼がイエス様の一番弟子であったことは、私たちにとって大きな励ましではないでしょうか。というのは、私たちもたくさんの失敗をしますが、イエス様は最後までその失敗をカバーして下さるからです。

すると、イエス様はペテロにこう言われました。「剣をさやに収めなさい。」どういうことでしょうか?剣は本当の解決をもたらさないということです。本当の解決、本当の平和は、イエス・キリストによってもたらされます。ペテロは剣でイエス様を守ろうとしましたが、イエス様はその剣を必要とされませんでした。イエス様が成さろうと思えば、何十万という天の軍勢さえも呼ぶことが出来ましたが、イエス様はそのようにはなさいませんでした。そのようなものは本当の解決にならないということを知っておられたからです。

ヨハネは触れていませんが、ルカの福音書を見ると、その切られた耳がどうなったかが記されてあります。ルカは医者でしたから、その耳がどうなったのか気になったのでしょう。そしてルカによると、「やめなさい。そこまでにしなさい。」と言われると、イエス様はその耳にさわって彼を癒された、とあります(22:51)。イエス様の最後の奇跡は、ペテロの失敗をカバーするものでした。そして、敵の耳を癒されたのです。なぜ?そうでないと、ペテロが捕らえられて殺されてしまうからです。イエス様はペテロを最後まで守られたのです。

そしてこう言われました。「父がわたしに下さった杯を飲まずにいられるだろうか。」どういうことですか?これこそ、真の解決、本当の平和をもたらすものであるということです。「杯」とは祝福を分かち合うものですが、ここでは神の怒り、神のさばき、苦しみを表現しています。つまり、この杯とは十字架の苦難のことを指していたのです。この杯を飲まなければ本当の平和はもたらされないということです。なぜなら、聖書には「義人はいない、一人もいない。」とあるからです。すべての人が罪を犯したので、神のさばきを受けなければなりません。しかし、あわれみ深い神様は、私たちがそのさばきを受けることがないように、ご自身の御子イエス・キリストをこの世に遣わしてくださいました。それは、私たちの罪の身代わりとなって十字架で死んでくださるためです。イエス様は、本来私たちが受けなければならない神の怒りを、代わりに十字架で受けてくださったのです。それはこの御子を信じる者が一人として滅びることなく、永遠のいのちを持つためです。これが十字架の意味です。御子を信じる者はさばかれません。御子が代わりにさばきを受けてくださったからです。神の怒りと神のさばきの杯を飲み干してくださいました。だから、イエス・キリストにある者は決してさばかれることがないのです。罪に対する神の怒りはもう残っていません。イエス様は十字架の上で「完了した」と宣言されました。私たちの罪の贖いは完全に成し遂げられたのです。ですから、この方を信じる者は、だれでも救われるのです。イエス様が飲み干してくださった杯こそ、私たちのすべての問題に対する解決です。あなたの問題の真の解決はここにあるのです。

それなのに、どうしてあなたは剣を抜いて戦おうとするのですか。イエス様があなたのために十字架という杯を飲み干してくださったのです。あなたがどんな絶望の中にあっても、イエス様の十字架のもとにゆくならば、永遠のいのちと永遠の愛、永遠の希望を受けることができます。それによって、神なき望みなき人間から、神様に愛されている子どもとして、新しく生まれ変わることができるのです。言い換えれば、それは人間性の回復でもあります。神なき望みなき状態が、いかに人間性を損なっていたことでしょうか。そのことによって、私たちは理性も、感情も、常に恐れや不安や絶望に支配され、真の愛を知らず、真の希望を知らず、真の喜びを知らない者でありました。たとえば戦争もそうです。平和を維持するためにはもっともっと強力な武力を装備しなければいけない。こうした矛盾したことを、誰もが信じて疑いません。これが神なき望みなき人間の理性です。


 しかし、私たちがイエス・キリストの十字架のもとで、独り子を惜しまず与えてくださった神様の偉大な愛に出会うならば、恐れや不安は消え去ります。そして、愛すること、信じること、生きる喜びを知るのです。そして今までとは何もかも違ってきます。平和のためには赦すこと、武装を解除することであるという、考えてみれば当たり前のことですが、そうした理性が取り戻されるのです。私たちの犯してきた罪が消えてなくなるわけではありませんが、そのことは私たちを絶望に陥れるのではなく、このような者をも愛してくださった神の愛の大きさを讃える源となるのです。

 パウロは、このようにまったく生まれ変わった人間の一人でした。キリスト教を憎み、教会を迫害し、クリスチャンを捕らえて牢屋に放り込むことを信仰だと思って生きていたパウロが、逆にイエス・キリストの福音を世界中に伝える人となったのです。パウロはこのように言いました。

「だれでもキリストのうちにあるなら、その人は新しく造られた者です。古いものは過ぎ去って、見よ、すべてが新しくなりました。」(Ⅱコリント5:17)

これが神の約束です。確かに、信じてからも罪を犯します。私たちは弱さのゆえにこういうこともありますが、しかし、「御子イエスの血がすべての罪から私たちをきよめてくださいます。」(Ⅰヨハネ1:7)
だれでもキリストのうちにあるなら、その人は新しく造られた者です。これこそ真の救い、真の平和、真の解決ではないでしょうか。私たちが今まで何をしてきたか、今何ができるか、これから何ができるのか。そういうことに関わらず、神様が私たちを愛してくださっている。その神様の愛を信じて、希望を持つことができるのです。困難がないわけではありません。悩みがないわけではありません。しかし、神様がともにおられることを知り、希望をもって困難に立ち向かうことができるのです。私たちをこのような人間として生まれ変わらせてくださる救いが、われらの主イエス・キリストの十字架にはあるのです。これが、私たちの人生における最大の祝福です。私たちの人生における最大の祝福は、罪が赦されているということなのですから。

イエス様はそのためにこの杯を飲み干してくださいました。あとはそれを受け取るだけでいいのです。信じるだけです。イエス様の救いを信じなければなりません。ここに救いがあるということをどうぞ信じてください。自分の生き方を変えず、自分の好きなことだけをしようという決心は、この世の不幸の大きな原因でしかありません。どうしてあなたの問題を人間の思いや考えで解決しようとするのですか。それは、ペテロが剣で大祭司のしもべの耳を切り落としたことと同じです。そこには何の解決もありません。真の解決は、イエス・キリストの十字架を信じることです。そうすれば、あなたのすべての理解を超えた神の平安が、あなたの心と思いをキリスト・イエスにあって守ってくれます。

あなたの人生の旅路のあらゆる段階で、「主よ。あなたのみこころのものを私にお与えください。あなたのみこころとするところに行かせてください。みこころのままに私を扱ってください。私の思いではなく、あなたのみこころだけがなりますように。」と祈りましょう。剣ではなく、主の杯を受けましょう。私たちの主イエスは、「わたしはそれだ」と言われる方です。そして、あなたのために十字架の杯を飲み干してくださいました。私たちが真に頼るべきお方は、あなたのために十字架にかかり、あなたの救いを成し遂げてくださったイエス・キリストなのです。

すべての人を一つにしてください ヨハネ17章20~26節

2020年7月26日(日)礼拝メッセージ

聖書箇所:ヨハネ17章20~26節(P221)

タイトル:「すべての人を一つにしてください」

 十字架を前にしてイエス様は、目を天に向けて祈られました。まず、ご自身のために祈られました。そして、弟子たちのために祈られました。今日の箇所では、すべての時代の、すべてのクリスチャンのために祈っておられます。20節には、「わたしは、ただこの人々のためだけでなく、彼らのことばによってわたしを信じる人々のためにも、お願いします。」とあります。

 私たちは、弟子たちが話したことばによってイエス様を信じました。それは単にことばだけでなく彼らが書き記したことば、聖書のことばを通して信じました。イエス様は、そのすべてのクリスチャンたちのために祈られたのです。いや、今も天で祈っておられます。いったいどのようなことを祈られたのでしょうか。

Ⅰ.すべての人を一つにしてください(21-23)

まず、21-23節までをご覧ください。「21 父よ。あなたがわたしのうちにおられ、わたしがあなたのうちにいるように、すべての人を一つにしてください。彼らもわたしたちのうちにいるようにしてください。あなたがわたしを遣わされたことを、世が信じるようになるためです。22 またわたしは、あなたが下さった栄光を彼らに与えました。わたしたちが一つであるように、彼らも一つになるためです。23 わたしは彼らのうちにいて、あなたはわたしのうちにおられます。彼らが完全に一つになるためです。また、あなたがわたしを遣わされたことと、わたしを愛されたように彼らも愛されたことを、世が知るためです。」

イエス様はまず、すべてのクリスチャンを一つにしてくださいと祈られました。クリスチャンが一つになるというのはどういうことでしょうか。教会にはいろいろな人たちがいます。年齢が違えば、性格も違う、それぞれが育った環境も違います。また、考え方も違いますし、聖書の理解においても違いがあるわけです。そういう人たちが一つになるということは簡単なことではありません。ここで注意しなければならないことは、イエス様が一つになるようにと言われたのは、組織的、外面的に一つになることではなく、霊的に、内面的に一つになるということです。ビジネスにおいても、教育の分野でも、どの組織でも、一つの目標を掲げ、それに向かって協力し合い、熱心に行動すれば、物事は成し遂げられるでしょう。しかし、ここでイエス様が言っていることはそういうことではないのです。ここでイエス様が言っていることは、信仰的に一つになることです。信仰的に一致するとはどういうことでしょうか。

ここに、その良い例が示されています。それは、「父よ。あなたがわたしのうちにおられ、わたしがあなたのうちにいるように」一つになるということです。つまり、父なる神と子なる神の一体性と同じ一致です。私たちが暖かい愛の交わりができるのは、キリストを信じる信仰による一致があるからです。言い換えると、ひとりひとりがイエス・キリストの十字架の贖いの死によって、その罪を赦されたという体験を持っているからなのです。そこから生まれてくる一体性です。それがなかったら一致は生まれません。どんなに人間的に努力しても限界があり、空中分解することになってしまいます。調子が良い時は愛し合うことができても、調子が悪い時には、いざ関係がぎくしゃくしてくるともう耐えられなくなってしまいます。しかし、イエス様がこんな罪深い者を愛し、そのためにご自分のいのちを捨ててくださったことを知り、この方を信じるなら、私たちの内に神の愛が生まれ、その愛で愛し合うことによってたとえ考え方が違っても必ず一つになることができるのです。ですから、教会が一致することにおいて最も重要なことは、考え方が違うとは、性格が違うとか、ジェネーションギャップがあるとかということではなく、このキリストの愛によって罪の赦しを得ているかどうかです。それによって新しく生まれ変わっているかどうかなのです。それがあるなら、そこに完全な一致と調和が生まれるのです。父なる神が子なる神キリストのうちにおられ、子なる神が父なる神のうちにおられるような一致です。

皆さん、私たちが信じている神は、三位一体の神です。三位一体とは、聖書の教えの中でも最も難しいものの一つですが、神は唯一ですが、三つの人格を持っているということです。すなわち、ただ一人の神ですが、父なる神と、子なる神、聖霊なる神の三つの神がおられるということです。ただ一つで三つというのはなかなか理解できないことですが、聖書の神は、そういう神なのです。そして、この三位一体の神は、それぞれ人格を持っていますがその本質と性質、属性において全く一つであられるのです。つまり、父も、子も、聖霊も神であり、また、父も、子も、聖霊も愛であり、聖なる方であり、義なる方であられるのです。この三つの神は、それぞれ人格は別々ですが、そこには完全な調和と一致があります。それと同じように、すべてのクリスチャンの間に、すべての教会の間に完全な一致と完全な調和があるようにと祈られたのです。それは不可能なことではありません。なぜなら、私たちはこの三位一体の神を信じ、この神によって新しく生まれた者だからです。以前はそうではありませんでした。全部自分のためでした。自分が考え、自分が思うことが行動の唯一の基準だったのです。そのような人たちの集まりのが、どうやって一致を保つことができるでしょうか。できません。それは夫婦関係を見てもわかるでしょう。夫婦はまさに自我と自我のぶつかり合いです。生まれも、育ちも、性別も、考え方も全く違う人間が一緒に生活するわけですから、それを調整することは至難の業です。最初のうちはあまり感じなくても、次第に考え方に大きなギャップが生じてくるようになります。もうフーフー言うようになるのです。そんな二人が一緒にやって行くことができるとしたら、そこに神の愛とあわれみがあり、互いが互いを見るのではなく、イエス・キリストを見上げ、イエス・キリストを通して与えられた神の愛に信頼しているからにほかなりません。もし自分を主張し始めたら、そこには一致とか調和は生まれることはないでしょう。それは自分の意見を言ってはいけないということではありません。自分の意見を言うことは全く問題ありませんが、それが叶わなくても神の力強い御手の下にへりくだり、神があなたのことを心配してくださると信じて、あなたの思い煩いを、いっさい神にゆだねることです。そうすれば主が、ちょうど良い時にあなたを引き上げてくださいます。これが信仰です。これが一致することはできません。イエス様が、すべての人が一つになるようにと言われたのは、こういうことだったのです。

いったいそれは何のためでしょうか。ここには、「あなたがわたしを遣わされたことを、世が信じるようになるためです。」とあります。神を知らない人が信じるためです。このような暖かい愛の交わりを見る時、この世の人々はその中に主がおられることを知ることができます。教会に初めて来られる方は、説教の内容はほとんど覚えていなくても、その場の雰囲気はよく覚えていて、そこにこの世にはない何かを感じます。それが何なのかわからなくとも、続いて教会に通ううちに、それがイエス・キリストの愛と信仰によるものであることがわかるようになり、信仰へと導かれていくのです。それが22節で言われていることです。

ここには「またわたしは、あなたが下さった栄光を彼らに与えました。」とあります。この「栄光」こそ、イエスによって与えられた栄光なのです。この世の人々が教会を見る時この世にないものを持っているのを見ますが、それこそが神の栄光にほかなりません。その栄光はこの世にはない輝きです。この世にあるのは憎しみであり、争いであり、対立であり、お互いに傷つけ合うことであり、ののしり合うことです。そこには愛のひとかけらもありません。しかし、キリストの教会はそうではありません。そこにはキリストの愛があります。いのちをかけて私たちを愛してくださった愛といのちが溢れています。たとい、ののしられてもののしり返さず、苦しめられても、おどすことをせず、自分の利益を求めず、ほかの人の益になることを求めます。人のした悪を思わず、不正を喜ばずに、真理を喜びます。すべてをがまん、すべてを信じ、すべてを期待し、すべてを耐え忍びます。もちろん、このように完全にできるわけではありません。それができるのはイエス様だけです。しかし、私たちはそのイエス様に似た者となるように祈り、聖霊の助けと励ましをいただきながら日々歩んでいるので、少しずつですが、そのように変えられているわけです。少なくても、そのような群れとなるように求めて祈っています。いったいこのような愛の共同体がこの世にあるでしょうか。ありません。ですから、この世の人たちがこの愛の共同体である教会が一つになっているのを見るとき、ああ、イエス様はほんとうに神様だと信じるようになるのです。

熊本県の人吉市という所に、松尾鷲嶺(まつおしゅうれい)という仏教の僧侶がおられました。この方は80歳を過ぎてからキリスト信仰に入り、寺を捨てて、クリスチャンになりました。それは大変なことです。1962年のことですから、今から58年も前のことですが、この方の奥さんが駅前で教会の特別伝道集会のビラをもらい、生まれて初めてキリスト教の教会へ行ったのです。その時、奥さんは聴いたメッセージがどんなものであったかは覚えていませんでしたが、どうしても忘れることのできないものがありました。それはその場の雰囲気です。老若男女の様々な人々がいるのに、そこには暖かい愛の一致があったのです。婦人は感動して家に帰りました。それは自分のお寺の現実と余りに違っていました。そのすばらしい雰囲気が忘れられず、夫人はその翌日も教会へ行き、ついに信仰を告白するようになりました。寺の僧侶の奥さんがクリスチャンになったということで、その後が大変でした。夫の松尾鷲嶺師は婦人にキリスト教信仰を捨てるように迫るのですが、そうしているうちに、夫も生きた本当の神を知るようになり、ついに二人ですべてを捨て、寺を出たのです。その後、二人は小さな小屋に住みながら、「私たちの人生で今ほど幸福な時はありません」と告白しつつ、天に召されていったというのです。

これほどまでにお二人の一生を変えたものは何だったのでしょうか。それは暖かい愛を持った教会の交わりでした。教会には、この世界のどこにもないキリストの愛の交わりがあります。栄光の輝きがあるのです。僧侶の婦人は、暖かい愛の一致を持った教会の交わりに出会いました。それによってキリストが神から来られた救い主であると信じることができたのです。私たちが一つになるのはそのためです。私たちがキリストの十字架の死によって罪を赦されたという一体感で互いに愛し合い、赦し合うなら、そこに神の愛と神の栄光が現われ、イエスこそ救い主であるとこの世の人たちが信じるようになるのです。

Ⅱ.わたしがいるところにおらせてください(24-25)

イエス様がすべてのクリスチャンのために祈られた第二のことは、わたしがいるところに、彼らもわたしとともにいるようにしてください、ということでした。24-25節をご覧ください。

「24 父よ。わたしに下さったものについてお願いします。わたしがいるところに、彼らもわたしとともにいるようにしてください。わたしの栄光を、彼らが見るためです。世界の基が据えられる前からわたしを愛されたゆえに、あなたがわたしに下さった栄光を。25 正しい父よ。この世はあなたを知りませんが、わたしはあなたを知っています。また、この人々は、あなたがわたしを遣わされたことを知っています。」

「わたしにくださったもの」とは、イエス・キリストを信じたすべてのクリスチャンのことです。イエス様はすべてのクリスチャンが一つになるようにと祈られましたが、続いて、そのすべてのクリスチャンが、イエス様がおられるところにいるようにしてくださいと祈られました。「わたしがいるところ」とは、天国のことです。ピリピ3:20-21には、「しかし、私たちの国籍は天にあります。そこから主イエス・キリストが救い主として来られるのを、私たちは待ち望んでいます。キリストは、万物をご自分に従わせることさえできる御力によって、私たちの卑しいからだを、ご自分の栄光に輝くからだと同じ姿に変えてくださいます。」とあります。クリスチャンには、日本とか、アメリカとか、韓国とかの他に、もう一つの国籍があります。それはどこですか。天国です。私たちのふるさとは天にあります。そこから主イエス・キリストが救い主としておいでになるのを待ち望んでいるのです。そのときキリストは、私たちの卑しいからだを、ご自身と同じ栄光のからだに変えてくださいます。これが私たちに与えられている約束であり、私たちの希望です。私たちのこの肉体は枯れ、やがて滅んでしまいますが、キリストが再臨されるとき、私たちのこの卑しいからだは、キリストが復活した時と同じからだ、栄光のからだによみがえり、永遠に主とともに生きるようになるのです。なぜなら、イエス・キリストを信じたことで罪が赦され、永遠のいのちが与えられたからです。天に国籍を持つものとされたのです。

それはいったい何のためですか。その後のところにこうあります。「わたしの栄光を、彼らが見るためです」。イエス様の栄光を見るためです。私たちは今、聖書を通して確かにイエス様の栄光を見ていますが、はっきり見ているわけではありません。ぼんやり見ているだけです。Ⅰコリント13:12に「今、私たちは鏡にぼんやり映るものを見ていますが、そのときには顔と顔を合わせて見ることになります。今、私は一部分しか知りませんが、そのときには、私が完全に知られているのと同じように、私も完全に知ることになります。」とあるように、鏡に映るのをぼんやりと見ているにすぎません。当時の鏡は銅が磨かれたもので作られていましたから、今のようにクリアではありませんでした。おぼろげにしか見ることができませんでした。そのように今は、ぼんやりと見ているのです。しかし、主とお会いする時は顔と顔とを合わせて見るので、はっきりと見るようになります。その時には主が私たちのことをすべて完全に知っておられるように、私たちも完全に主を知るようになります。今はぼんやりと見ているにすぎませんが、やがて天の御国でその栄光の輝きをはっきりと見るようになるのです。イエス様がおられる天国に私たちもいるようになり、そこでイエス様の栄光を見るようになるというのはすばらしい希望です。今、世界中でコロナウイルスの問題だけでなく、バッタが大量発生による農作物に壊滅的な被害や、東シナ海の領有権をめぐって米中の対立が深刻化しています。日本でも豪雨による災害に加え、コロナウイルスの感染拡大によって、非常な恐れと不安が蔓延しています。この地上は見渡す限り、こうした災害が耐えません。いったいどこに希望があるのでしょうか。ここに真の希望があります。イエス様がいるところにいて、イエス様の栄光をこの目で拝することができること、これこそが希望なのです。

25節をご覧ください。ここでイエス様は「正しい父よ」と呼んでおられます。11節では「聖なる父よ」と呼ばれましたが、ここでは「正しい父よ」と呼ばれました。つまり、神が正しい方であり、義なる方であることを強調しているのです。この世は聖なる神、正しい神を知りません。まことの神を知らないのです。それで自分たちでいろいろな神々を作って拝みますが、神は人間の手でこしらえることができるような方ではなく、その人間を造られた方、創造主です。この世はその方を知りませんが、私たちはこの方を知っています。そして、この方が救い主を遣わされたことを知ったのです。それは私たちが、イエス様がいるところにいるようになるためです。永遠のいのちを持つためです。永遠のいのちとは何ですか。それは唯一のまことの神であるあなたと、あなたが遣わされたイエス・キリストを知ることです。

日本人の寿命は世界一長く、2年前の統計では、男性が81.25歳、女性が87.32歳です。今、日本では100歳以上の人が7万人以上もいます。では、人生長く生きればそれで幸せなのかと言というとそうでもなく、若くして亡くなったとしても、あの人の人生はすばらしかった、感動的だった、輝いていた。そんなふうに周りの人々に思い出させるとすれば、それは豊かな人生だったと言えるのではないでしょうか。

「寿命」ということばがありますが、「寿」というのは、死んでもなお残るいのちのことだそうです。その人が亡くなってお葬式も済み、そこにはもういないけれども、その人の存在が多くの人の心の中でなお生きていること、それを「寿」という漢字で示したのです。死んだ後も多くの人々の中に美しい思い出を残せたとしたら、それこそが寿命でしょう。それはイエス様がいるところにいること、永遠のいのちによって全うされるのです。

フジテレビのニュースキャスターだった山川千秋さんは、1988年に食道がんのため180日の療養後、お亡くなりになりました。奥さんから助からないと告知された時、山川さんは絶望的な気持ちになりました。クリスチャンである奥さんは、山川さんを信仰に導きます。その時のことを、奥さんは次のように言っておられます。

「夫は、死の恐怖や、不安から逃れ、安心して死ぬにはどうすればよいのかと問うてきました。わたしは、その答えは人間によっては絶対に与えられない。それができる方は神様、すなわちイエス・キリストしかいないと答えました。

すると、夫はどうすればイエス・キリストに救ってもらえるのかと、尋ねてきました。わたしは、神の前に正直になること、これまで神に背いてきた罪を悔い改めて、主イエスを自分の救い主として受け入れると口に出して言うことだ、と答えました。夫はしばらく考え、自分の過去の罪を素直に告白し、やがて表情は穏やかなものになりました。」

その後、山川さんは遺言を残し、すべてを整えて非常に安らかになくなられたそうです。山川さんが亡くなられる前に「死は終わりではない」という著書を記されましたが、それは、彼が天国に行き、そこでイエス様とともに永遠に生きることを確信したいたからです。その著書の中で山川さんは、長男冬樹君に宛てて手紙を書きました。
「冬樹へ。お父さんは病に倒れたが、そのことによって、主イエス・キリストを知った。それは、すばらしいことだと思わないか。父親を亡くした君の人生は、平坦ではないが、主イエス・キリストに頼って

生きれば、すばらしい人生が与えられる。また天国で会おうぜ。」

 「また天国で会おうぜ。」すばらしい言葉だと思いませんか。希望があります。イエスを信じる者は死んでも生きるのです。イエス様のいる天国で、イエス様と永遠に生きることができるのです。

あなたは、この永遠のいのちを受けましたか。イエス様はあなたのために祈られました。イエス様がおられところに、あなたもいることができるようにと。そして、イエス様の栄光を見ることができるようにと。どうぞ、あなたもイエス様を信じてください。そして、イエス様がおられるところにいることができますように。

Ⅲ.神の愛が彼らのうちにあるように(26)

最後に、26節を見て終わりたいと思います。「わたしは彼らにあなたの御名を知らせました。また、これからも知らせます。あなたがわたしを愛してくださった愛が彼らのうちにあり、わたしも彼らのうちにいるようにするためです。」

ここで主は弟子たちのためにされたことを要約しています。それは、「あなたの御名を知らせました」ということです。「神の御名」とは、名は体を表すとあるとおり、神の本質とか、神の性質、あるいは神ご自身のことです。ですから、イエス様が御名を知らせたというのは、神がどのような方であられるのかを知らせたということです。ことばで信じられないなら、わたしのわざを見て信じなさい、と言われました。ですからイエス様は力あるわざをなさって、ご自分が神から遣わされた方であることを示されたのです。それで弟子たちはそれを見て信じました。そして、私たちもそれを聞いて信じました。私たちに何か理解力があったからではありません。イエス様がご自身のみことばの中ではっきりと示されたので信じることができたのです。

それはこれまでのことだけではありません。これからも同じです。ここには、「これからも知らせます」とあります。ずっと知らせます。なぜでしょうか?それは、「あなたがわたしを愛してくださった愛が彼らのうちにあり、わたしも彼らのうちにいるようにするためです。」どういうことですか?神の愛が弟子たちの心の中にあり、イエス様が彼らの心のなかに住むようにということです。イエス様の願いは、神がイエスを愛しておられるその愛を、イエスを信じている彼らが感じ、イエスご自身も信仰によって彼らの中に住むということだったのです。あなたは、神がイエスを愛しておられるその愛を、あなたにも向けられていることを感じておられるでしょうか。イエス様が、あなたの心に住んでおられるでしょうか。

使徒パウロは、エペソ人への手紙の中で、次のように祈っています。「どうか御父が、その栄光の豊かさにしたがって、内なる人に働く御霊により、力をもってあなたがたを強めてくださいますように。信仰によって、あなたがたの心のうちにキリストを住まわせてくださいますように。そして、愛に根ざし、愛に基礎を置いているあなたがたが、すべての聖徒たちとともに、その広さ、長さ、高さ、深さがどれほどであるかを理解する力を持つようになり、人知をはるかに超えたキリストの愛を知ることができますように。そのようにして、神の満ちあふれる豊かさにまで、あなたがたが満たされますように。どうか、私たちのうちに働く御力によって、私たちが願うところ、思うところのすべてをはるかに超えて行うことのできる方に、教会において、またキリスト・イエスにあって、栄光が、世々限りなく、とこしえまでもありますように。アーメン。」(エペソ3:16-21)

この神の愛、キリストの愛こそ、私たちの人生のすべてにおける勝利の秘訣です。私たちの人生には、辛いこと、苦しいこと、悲しいこと、いろいろなことが起こりますが、しかし、このキリストにある神の愛から私たちを引き離すものは何もありません。だから、信仰によってしっかりと神の愛にとどまってくただきたいのです。あなたが落胆するのは、あなたの目がこのキリストの愛にではなく、問題そのものに向けられているからです。キリストをあなたの心に住まわせるなら、そして、神がどれほどあなたを愛しておられるのかということに気付くなら、どのような境遇にあっても、キリストにある愛から、あなたを引き離すことは何もできません。

かつてデンマークに一人の男の子が生まれました。彼が生まれたのは棺桶の中でした。お母さんは他人の汚れものを洗って生計を立てていました。おばあさんは庭掃除をしてお金をもらい、おじいさんは精神病院に入っていました。本当に貧しい家に生まれ、極貧の生活の中で彼は育ちました。彼は大人になって恋をしましたが、恋をした相手にことごとくふられ、失恋ばかりでした。ついに彼は生涯独身で過ごしました。彼は70歳まで生きて、最後に言ったことばが、これでした。

「私の人生は童話のように幸せでした」

この人こそアンデルセンです。彼はなぜこのような環境や状況の中にあっても「幸せでした」と言えたのでしょうか。その秘訣を彼はこう言っています。

「私を愛し、私を助けて下さるイエス・キリストがいつも共にいて下さったからです。」

イエス・キリストがともにいてくださることが、彼をそのように言わしめたのです。イエス・キリストがともにおられることで、神がどれほど自分を愛しておられるのかをしることが、「幸せでした」と言える秘訣だったのです。

あなたはどうですか。あなたのうちにキリストがおられますか。どうぞ、信仰によって、あなたの心のうちにキリストを住まわせてください。そして、愛に根ざし、愛に基礎を置いているあなたが、すべての聖徒たちとともに、その広さ、長さ、高さ、深さがどれほどであるかを理解する力を持つことができるようになり、人知をはるかに超えたキリストの愛を知ることができますように。イエス様は、今もあなたのために祈っておられるのです。

弟子たちのための祈り ヨハネ17章6~19節

2020年7月12日(日)礼拝メッセージ

聖書箇所:ヨハネ17章6~19節(P219)

タイトル:「弟子たちのための祈り」

 きょうは、ヨハネの福音書17章から、イエス様が弟子たちのために祈られた祈りから学びたいと思います。最後の晩餐の席から立ち上がり、ゲッセマネの園に向かわれたイエスは、「しばらくすると、あなたがたはわたしを見なくなるが、またしばらくすると、わたしを見る」と言われました。それはご自身が十字架で死なれるが、三日目によみがえられること、そして、天に昇り神の右の座に着かれると、約束の聖霊をお遣わしになることを意味していました。その方が来ると、彼らをすべての真理に導いてくださいます。その方を通して、主はいつまでも彼らとともにいてくださると約束してくださったのです。今は悲しみますが、その悲しみは喜びに変わります。だから、勇気を出してください。あなたがたは世にあっては苦難があります。しかし、勇気を出しなさい。わたしはすでに世に勝ったのです。

これらのことを話されると、イエス様は目を天に向けて祈られました。それがこの17章の内容です。この後でイエス様はゲッセマネの園で祈られるとその場で捕らえられ、翌日十字架につけられます。そうした緊張した場面で、主は祈られたのです。この祈りは大きく三つに分けられます。まずご自身のための祈りです。それは前回見た1節から5節までの内容です。それから、今日学ぼうとしている弟子たちのための祈りです。6節から19節までです。そして、全世界のすべてのクリスチャンのための祈りです。20節から26節までの内容です。

きょうは、イエス様が弟子たちのために祈られた祈りから三つのことをお話ししたいと思います。第一に、イエス様が弟子たちのために祈られた理由です。イエス様はなぜ弟子たちのために祈られたのでしょうか。それは、彼らがイエスを信じ、イエスのものとされたからです。第二に、祈りの内容です。イエス様は彼らのためにどんなことを祈られたでしょうか。その一つは、彼らを悪い者から守ってくださいということでした。第三に、イエス様が彼らのために祈られたもう一つの祈りです。それは、真理によって彼らを聖別してくださいということでした。

Ⅰ.あなたのものはわたしのもの(6-10)

まず、イエス様が弟子たちのために祈られた理由です。それは、彼らがイエスを信じ、イエスのものとされたからです。まず6節から8節までをご覧ください。 

「あなたが世から選び出して与えてくださった人たちに、わたしはあなたの御名を現しました。彼らはあなたのものでしたが、あなたはわたしに委ねてくださいました。そして彼らはあなたのみことばを守りました。あなたがわたしに下さったものはすべて、あなたから出ていることを、今彼らは知っています。あなたがわたしに下さったみことばを、わたしが彼らに与えたからです。彼らはそれを受け入れ、わたしがあなたのもとから出て来たことを本当に知り、あなたがわたしを遣わされたことを信じました。」

彼らは、神によってこの世から選び出された者たちです。イエス様は言われました。「あなたがたがわたしを選んだのではなく、わたしがあなたがたを選び、あなたがたを任命したのです。」(15:6)その彼らに、イエス様は神の御名を現わしました。現わしましたというのは、明らかにしたということです。どのように明らかにされたのでしょうか。神のわざを行うことによってです。ヨハネの福音書にはイエス様が神から遣わされた方、メシヤであるというしるし、これは証拠としての奇跡のことですが、7つ記録されています。それでイエスは、ご自分があの出エジプト記3:14で言われていた主ご自身であると宣言されたのです。するとどうでしょう、多くのユダヤ人たちは信じませんでしたが、弟子たちはイエスのことばを受け入れ、イエスが神から遣わされた方であることを信じました。

しかし、その後彼らはどうなりますか。その後イエス様が捕らえられると、彼らは一目散に逃げて行くことになります。その中の一人ペテロは、他の者があなたにつまずいても、私は決してつまずきませんと言いましたが、結局、三度も否認することになります。にもかかわらず、イエスはこうした弱い弟子たちに対して、「彼らはあなたのみことばを守りました」とか、「あなたがわたしを遣わされたことを信じました」と言われました。

ここに主の慰めを感じます。イエス様は、自分たちが見るよりもはるかに多くのことを、彼らの中に見ておられたということです。たとえ弱い信仰であっても、たとえからし種のように小さな信仰であったとしても、そこに信仰があることを見て取って、神のものとして受け入れてくださったのです。それは信じない人たちとは雲泥の差です。イエス様はマタイ10:42で、「まことに、あなたがたに言います。わたしの弟子だからということで、この小さい者たちの一人に一杯の冷たい水でも飲ませる人は、決して報いを失うことがありません。」と言われましたが、そうした弟子たちの誠実さというか、小さな信仰が忘れられていないことをはっきりと示されたのです。

主は、そんな弟子たちのために祈られました。9節と10節をご覧ください。「わたしは彼らのためにお願いします。世のためにではなく、あなたがわたしに下さった人たちのためにお願いします。彼らはあなたのものですから。わたしのものはすべてあなたのもの、あなたのものはわたしのものです。わたしは彼らによって栄光を受けました。」

ここには、イエス様が弟子たちのために祈られた理由が書かれてあります。イエスはなぜ弟子たちのために祈られたのでしょうか。それは、彼らが父なる神のものであり、その父が子にくださったものたちだからです。すなわち、彼らはイエス様のものであるからです。ここに、この世のものと神のものとの違いをはっきりと知ることができます。主の弟子というのは、この世とは区別された者たちです。この世とは神に反逆し、神なしで成り立っている世界のことです。ですから、ヤコブが、「世を愛することは神に敵対することだと分からないのですか。世の友となりたいと思う者はだれでも、自分を神の敵としているのです。」(ヤコブ4:4)と言っているのです。でもクリスチャンは、この世のものではありません。この世から救い出された者たちです。神のもの、イエス様のものとされました。だから祈るのです。

9節に「世のためではなく、あなたがわたしにくださった人たちのために」と言っているのはそのことです。イエス様は、信じない者たちにされないことを、信じる者たちのためになさるということです。ここに神を信じる人たちとそうでない人たちの間に明確な区別があることがわかります。そして、信じる人たちを特別に愛しておられるということがわかります。このようなことを言うと、それはおかしいんじゃないかと言う人たちもいるでしょう。神はすべての人が救われて真理を知るようになることを願っておられるのであって、そのために御子イエス・キリストを十字架にお掛けになったのではないですか。それは、御子を信じる者がひとりとして滅びることなく、永遠のいのちを持つためです。それなのに、ある人たちを特別に愛するというのは不公平です!そうです。イエス様は全人類を愛し、すべての人のために死なれ、すべての人に十分な救いを備えられ、すべての人を召し、すべての人を招き、すべての人に悔い改めるようにと命じられました。しかし、それをすべての人が受け入れるかというとそういうわけではありません。神はすべての人に対しては惜しみなく、十分に、無条件にその愛を与えてくださいましたが、それを受け入れるのは一部の人たちです。確かに神の恵みはすべての人に注がれていますが、その恵みは、それを信じる人たちだけに有効であるということも事実なのです。イエス様にとって、ご自身を信じる人たちは特別なのです。だから、イエス様はご自身によって神のもとに来る人たちだけのために、とりなしておられるのです。それが、この「世のためではなく、あなたがわたしに下さった人たちのために」という意味です。

これはすばらしい約束です。全能の主が、ご自身を信じる者ために祈っていてくださるのですから。へブル7:25 には、「したがってイエスは、いつも生きていて、彼らのためにとりなしをしておられるので、ご自分によって神に近づく人々を完全に救うことがおできになります。」とあります。キリストを信じる者は、決して滅びることがありません。なぜなら、イエス様がその人たちのために祈っていてくださるからです。その祈りをやめることはありません。そして、その祈りが勝利をもたらしてくれるからです。彼らは信仰に堅く立ち、終わりの日まで守られるのは、彼ら自身の意志や能力によるのではなく、主が彼らのためにとりなしておられるからなのです。たとえば、イスカリオテのユダはイエスが死刑に定められたのを知って後悔し、銀貨30枚を祭司長たちに返して、「私は無実の人の地を打って罪を犯しました。」と言いましたが、最終的に彼は、銀貨を神殿に投げ込んで立ち去り、首をつって死にました。再び立ち上がることはなかったのです。一方、ペテロはそうではありませんでした。ペテロもイエス様を知らないと三度も否定しましたが、彼はその後悔い改めて、神との関係を回復しました。この両者の間にどうしてこのような違いがあったのでしょうか。それは、主イエスがペテロのために祈っておられたということです。イエス様はペテロにこう言われました。

「しかし、わたしはあなたのために、あなたの信仰がなくならないように祈りました。ですから、あなたは立ち直ったら、兄弟たちを力づけてやりなさい。」(ルカ22:32)

皆さん、だれかに祈られているということほど心強いことはありません。祈りは神の御手を動かすからです。あなたのために祈っていてくださるのは、あなたの救い主イエス・キリストです。主はまどろむこともなく、眠ることもありません。その主があなたのために祈っていてくださるのですから、どんなことがあっても大丈夫。あなたは最後まで守られるのです。私たちは本当に信仰の弱い者ですが、主はそんな者のために祈っていてくださいます。なぜ?イエス様を信じたからです。イエス様を信じて神のものとなりました。神のものはイエスのものです。それでイエス様に特別に愛される者となったのです。特別にです。イエス様にとって、あなたは特別なのです。You are special.だからイエス様はあなたのために祈っておられるのです。これこそ、イエス様を信じている者たち、クリスチャンの特権です。しかも、10節の終わりのところには「わたしは彼らによって栄光を受けました」とあります。すぐにつまずいたり、すぐに主の御心を傷つけてしまうような者であっても、主は私たちを誇り栄光と思っていてくださるということです。イエスを信じたからです。そのことを思うと、もう感激で胸がつまってしまうのではないでしょうか。

Ⅱ.悪い者から守ってください(11-16)

第二に、その祈りの内容です。11節から16節までをご覧ください。11節には、「わたしはもう世にいなくなります。彼らは世にいますが、わたしはあなたのもとに参ります。聖なる父よ、わたしに下さったあなたの御名によって、彼らをお守りください。わたしたちと同じように、彼らが一つになるためです。」あります。

イエス様は、そんな弟子たちのために二つのことを祈られました。一つは、11節にあるように「あなたの御名によって、彼らをお守りください」ということで、もう一つは、16節にあるように「真理によって彼らを聖別してください」ということです。

まず、「あなたの御名によって、彼らをお守りください」ということですが、11節には、「わたしはもう世にいなくなります。彼らは世にいますが、わたしはあなたのもとに参ります。聖なる父よ、わたしに下さったあなたの御名によって、彼らをお守りください。」とあります。どういうことでしょうか。イエス様はもうすぐいなくなります。十字架で死なれ、三日目によみがえられますが、その後、父のもとに行かれるからです。しかし、弟子たちは主とともにこの世からいなくなるわけではりあません。彼らはこの世に残されます。彼らには大切な使命が与えられていたからです。それは何かというと、キリストの証人となって、全世界に御国の福音を宣べ伝えることです。ですから主は、彼らを守ってくださるようにと祈られたのです。つまり、イエス様はご自分の民がこの世から取り去られることではなく、この世の中で悪から守られることを願われたのです。

すべてをご存知であられた主は、弟子たちがどのような思いを抱くであろうかということをよく知っておられました。その数は非常に少なく、力は弱く、敵や迫害に取り囲まれたら、だれでもこの悩み多い世から解放されて御国に行きたいと願うことでしょう。あのダビデでさえ、敵の手に取り囲まれたときこう言いました。「ああ私に鳩のように翼があったなら。飛び去って休むことができたなら。」(詩篇55:6)この言葉には、敵の手から解放されて主のもとに行きそこで休むことができたらどんなに良いことかという、彼の思いがよく表われています。

しかし、主は、ご自分の民がこの世から取り去られ、悪い者から逃れることよりも、この世に残って悪から守られることの方が重要であると思われました。戦いや誘惑から取り去られることは心地よいことのように思われるかもしれませんが、必ずしもそれが益になるというわけではありません。なぜなら、もしクリスチャンがこの世から取り去られたとしたら、どうやって神の恵みを証しすることができるでしょうか。イエス様は、山上の説教の中で、「あなたがたは地の塩です。もし塩が塩気をなくしたら、何によって塩気をつけるのでしょうか。もう何の役にも立たず、外に投げ捨てられ、人々に踏みつけられるだけです。 あなたがたは世の光です。山の上にある町は隠れることができません。」(マタイ5:13-14)と言われました。もしクリスチャンがすぐにこの世から取り去られたとしたら、どうやってこの地の塩としての役割を果たすことができるでしょう。どうやって暗闇を照らす光となることができるでしょうか。私たちは地の塩、世の光として、自分自身をこの世に示していかなければなりません。

いったいどうやって示すことができるのでしょうか。私たちが主から与えられた使命を果たすためにはこの世に埋没していてはだめなのであって、神を必要としないこの世の原理に立ち向かい,苦闘しながらも、主から与えられた使命を果たしていかなければならないのです。そのためには、主の助けが必要です。この世を支配しているのは悪魔ですから、私たちのような弱いクリスチャンが素手で立ち向かえるような相手ではありません。14節から16節までのところで主はこう言っておられます。「わたしは彼らにあなたのみことばを与えました。世は彼らを憎みました。わたしがこの世のものでないように、彼らもこの世のものではないからです。わたしがお願いすることは、あなたが彼らをこの世から取り去ることではなく、悪い者から守ってくださることです。わたしがこの世のものでないように、彼らもこの世のものではありません。」

イエス様はここで言っている「悪い者」とは悪魔のことです。イエス様が願っておられたことは、私たちクリスチャンがこの世から取り去られることではなく、この悪魔から守られることでした。いったいどうやって守られるのでしょうか。

11節に戻ってください。ここには、「わたしに下さったあなたの御名によって、彼らをお守りください。」とあります。また、12節にも、「わたしはあなたが下さったあなたの御名によって、彼らを守りました。」とあります。これはどういう意味でしょうか。これは、「神ご自身の御力によって」という意味です。この方は天地を創造された全能者です。また、私たちを罪から救ってくださった救い主です。そして死からよみがえられた勝利者であられます。この神の御名によって守ってくださるというのです。イエス様はこう言われました。「世にあっては苦難があります。しかし、勇気を出しなさい。わたしはすでに世に勝ちました。」(16:33)イエス様は、この世にあっては何の苦難もないとは言われませんでした。苦難はあるんです。しかし、勇気を出すことができます。なぜなら、主はこの世に勝利されたからです。この方の御名によって、この方の力によって、私たちは守られるのです。私たちの力によるのではありません。

パウロは、ローマ8:35-39でこの真理を次のように言っています。

「だれが、私たちをキリストの愛から引き離すのですか。苦難ですか、苦悩ですか、迫害ですか、飢えですか、裸ですか、危険ですか、剣ですか。こう書かれています。「あなたのために、私たちは休みなく殺され、屠られる羊と見なされています。」しかし、これらすべてにおいても、私たちを愛してくださった方によって、私たちは圧倒的な勝利者です。私はこう確信しています。死も、いのちも、御使いたちも、支配者たちも、今あるものも、後に来るものも、力あるものも、高いところにあるものも、深いところにあるものも、そのほかのどんな被造物も、私たちの主キリスト・イエスにある神の愛から、私たちを引き離すことはできません。」(ローマ8:35-39)

キリストの愛から引き離すのはだれですか。苦難ですか、苦悩ですか、迫害ですか、飢えですか、裸ですか、危険ですか、剣ですか。しかし、これらすべてにおいても、私たちを愛してくださった方によって、私たちは圧倒的な勝利者となることができるのです。私たちがキリストを信じたことによって、神の子とされたからです。私たちには、ご自身の御子さえも惜しむことなく死に渡された神が共におられます。この神が、御子とともにすべてのものを、私たちに恵んでくださるのです。

ですから皆さん、安心してください。あなたは悪魔から守られています。キリストを信じた時、神の御霊、聖霊があなたの内に住んでくださいました。主がいつも、またいつまでも、あなたとともにいてくださいます。神の愛と神の恵みが、あなたを取り囲んでいます。悪魔にやられるんじゃないかなぁと心配する必要は全くありません。なぜなら、イエスは、「わたしはすでに世に勝ちました。」と宣言されたからです。十字架に掛かる前に勝利の宣言をされました。そして、十字架の上で「テテレスタイ」「完了した」と言われました。私たちの罪の支払いは完了したのです。そして、イエス様は死からよみがえられました。死から復活されたことによって、死の力を持っている悪魔を完全に滅ぼされたのです。あなたは、この神の力で守られているのです。もしあなたがキリストを信じるなら、あなたは神の子とされ、あなたの内に、この世にいるあのもの(悪魔)よりもはるかに力のある方が住んでくださいます。あなたもキリストを信じてください。そうすれば、神の力によってあなたも守られます。ここでイエス様はそのように祈っておられるのです。このキリストの守りの中にあることを感謝しましょう。キリストの中にいるのであれば、そして、キリストがあなたの中におられるのであれば、あなたはこのキリストの力、神の力で完全に守られるのです。

それは何のためでしょうか。11節、「私たちと同じように、彼らが一つとなるためです。」彼らが一つの心、一つの思いになって、共通の敵に立ち向かい、共通の目標を目指して戦えるように、そして内輪もめや分裂によって分けられたり、弱められたり、麻痺したりすることがないように、彼らを保つためです。このことについては、次回の箇所でもう少し詳しくお話ししたいと思います。

Ⅲ.真理によって聖別してください(17-19)

 イエス様の弟子たちに対するもう一つの祈りは、真理によって彼らを聖別してくださいということでした。17節をご覧ください。「真理によって彼らを聖別してください。あなたのみことばは真理です。」真理によって彼らを聖別するとはどういうことでしょうか。

 聖別するとは、もともと神のために区別するという意味があります。この世のものから離れて、ただ神だけのものになるということです。旧約聖書では、イスラエルの民の初子は、人であれ、家畜であれ、神のものとして聖別されました。同じように、私たちもこの世にあって、神のものとして聖別されなければなりません。イエス様が言われたように、この世は悪に満ちているので、私たちがこの世に生きているかぎり、悪に汚れる機会がたくさんあります。家にいれば夫婦喧嘩をして汚れることもあるでしょう。テレビを観ていればいろいろな情報で汚れることもあります。家を一歩出れば、ママ友とのうわさ話や妬みで汚れます。ビジネスでは不正によって汚れることがあるかもしれません。しかし、神のものであるならば、それらのものから離れて、きよめられなければなりません。すなわち、この「聖別してください」というイエス様の祈りは、生活と品性において罪の汚れからもっと分離して、きよくしてくださいということだったのです。その思いとことばと行いと生活と品性において、もっときよく、もっと霊的に、そしてもっとキリストに似るものとしてくださいという祈りだったのです。神の恵みは、すでに彼らを召し、回心させてくださることによって示されましたが、その恵みがさらに高く、またさらに深められるために、彼らのたましいと、霊、からだのすべてにおいてきよめられ、イエス様ご自身に似る者とされるようにという祈りだったのです。イエス様を信じて救われることを新しく生まれる(新生)とか、義と認められる(義認)と言いますが、この新生や義認は完全で完成されたわざであり、イエス様を信じた瞬間に完成されますが、きよめられること、これを聖化と言いますが、これは、私たちの心にもたらされる聖霊による内的なわざであって、私たちがこの地上に生きている間は継続してなされるものです。ですから、イエス様は弟子たちのために救われるようにとは祈りませんでした。彼らは、イエス様が話されたことばによってすでに救われていたからです。彼らにとって必要だったのはきよめられること、聖別されることでした。

いったいどうやったらきよめられるのでしょうか。ここには、「真理によって彼らを聖別してください」とあります。「真理」とは何ですか。真理とは神のみことばのことです。みことばは、私たちが聖霊によってきよめられるために用いられるすばらしい手段です。人が救われるのもみことばによります。聖別されること、きよめられることもそうです。みことばが、人の心、精神、良心、そして感情に蒔かれ、強力に結び付けられることによって、聖霊はその人の品性をもっときよいものへと成長させてくださいます。人はよく座禅とか滝に打たれるといった修行を積むことによって、あるいは、欲を捨てることによって、また、宗教的な儀式を行うことによってきよめられると思っていますが、そうした外側からの働きかけは、残念ながら人をきよめることはできないのです。あなたがどんなに頑張っても、無理なんです。よく求道者の方とお話しをしていると、「どうですか、イエス様を信じてください」と言うと、多くの方がこのように言われます。「いや、もうちょっといい人間になったら信じます。」ならないです。もうちょっと良い人間になろうとすることはいいことですが、なりません。そうじゃないですか。いい人間になりましたか。なりません。悪くはならないかもしれませんが、欲もならない。どちらかというと、悪くなっています。生きていると考えなくてもいいことを考えたり、言わなくてもいいこと、やらなくてもいいことを言ったりやったりするからです。だから、どんなに頑張ってもいい人にはならないのです。じゃ、どうしたらいいんですか。イエス様を信じればいいのです。イエス様を信じるとその人には神の御霊が与えられ、全く新しく生まれ変わり、良い人へと変えられて行くからです。Ⅱコリント3:17-18にこうあります。「主は御霊です。そして、主の御霊がおられるところには自由があります。私たちはみな、覆いを取り除かれた顔に、鏡のように主の栄光を映しつつ、栄光から栄光へと、主と同じかたちに姿を変えられていきます。これはまさに、御霊なる主の働きによるのです。」それは、御霊なる主の働きによるのです。ただ表面的に優しくなったとか、親切になったとかということではなく、根こそぎ変えられるのです。「だれでもキリストのうちにあるなら、その人は新しく造られた者です。古いものは過ぎ去って、見よ、すべてが新しくなりました。」(Ⅱコリント5:17)

すべてが新しくなります。イエスを信じることで喜びと平安、希望が与えられます。それはどんな状況にも奪われることのない希望です。神の愛がその人に注がれているからです。神様がいかに偉大で真実な方であるかを知るようになり、その神のみこころに従って生きていきたいという思いで心が満たされていきます。その結果、主の御霊が私たちを変えられていくのです。あなたの努力とか、頑張りとかによるのではなく、真理によってとあるように、あなたが神を信じ、神のことばに従うことによって、変えられていくのです。

ですから、聖書のみことばを規則正しく読むことと、説き明かされたみことばを聞き続け、それに従うことがどんなに重要であることがわかります。みことばは、気づかずして、私たちをきよめるために働いてくださるからです。詩篇119:9には、「どのようにして若い人は自分の道を、清く保つことができるでしょうか。あなたのみことばのとおりに、道を守ることです。」とあります。それは若い人だけではありません。すべての人に言えることです。どのようにして、人は自分の道を清く保つことができるのでしょうか。神のみことばのとおりに、道を守ることです。そうすれば、私たちは自分の道を清く保つことができるばかりか、神のみこころにかなった者に変えられるのです。

 なぜきよめられる必要があるのでしょうか。聖別されなければならないのでしょうか。18節にはこうあります。「あなたがわたしを世に遣わされたように、わたしも彼らを遣わしました。」これがその目的です。神がキリストをこの世に遣わされたように、キリストもまた彼らをこの世へと遣わされます。つまり、クリスチャンはキリストの証人であり、その使命をしっかりと果たすためです。クリスチャンがこの世に遣わされたとき、その人と接した人が「この人は普通の人と違うなあ」「すごく暖かい感じがする」「本当に優しく親切だ」「私もあの人のようになりたい」と思うようであれば、その人は福音に耳を傾けたくなるでしょう。反対に、この人のようにはなりたくない、なんだか冷たいんだよね、というのではあれば、だれも聞きたいとは思わないでしょう。ですから、私たちがキリストの大使として、キリストの香りをこの世に放つために、きよめられる必要があるのです。

 バンク・オブ・アメリカのロサンゼルス支店で起こったことです。銀行の駐車場は利用客に限って無料でしたが、乱用する人が続出したので、全場所有料としました。ある日「有料になったことを知らなかったから今日は無料にしてくれ」と、ヨレヨレのシャツとジーンズ姿の60過ぎの男性が、窓口の係の人に頼みました。彼の後ろには順番待ちの人の列が出来ています。少しイライラした窓口係は、その男性に冷たく言い放ちました。「これはもう決まったことです。文句があるなら支店長に言ってください。ハイ、次の方!」

 仕方なくその男性は再び列の最後尾に並び、そして自分の番が来たとき、自分の口座から全額を下ろし、向かいの銀行に移し変えてしまいました。その額何と420万ドル、日本円で約4億5千万円でした。窓口係のチョットしたイラッとした態度が、この銀行に大きな損出をもたらしたのです。これはキリストの証人にも言えることです。私たちの態度が、その人に与える影響は大きいものがあります。イエス様の目と、イエス様の心と、イエス様の態度で接するなら、キリストの証人としてその使命を立派に果たすことができます。

 ちなみに、神奈川県の秦野市に愛鶴(あいず)タクシーという会社があります。この会社は不況のタクシー業界で業績を伸ばしている会社です。以前あるホテルと契約して仕事をしていた時、そのホテルの支配人から、「キミのところの会社はサービスというものが分かっていない、もう使わない」と言われてしまいました。社長の篠原さんは、その時へりくだってホテルの支配人を訪ね、「サービスについてゼロから教えてください」と頼みました。すると支配人は「その答えは聖書の中にある」と言ったのです。

 それは、「自分にしてもらいたいと望むとおり、人にもそのようにしなさい」(ルカ6:31)という言葉でした。それから社長の篠原さんは、一生懸命お客様のニーズはどこにあるのかを考えたそうです。その中の一つのアイデアは、「福祉タクシー」というものでした。身体障害者やお年寄りの人たちの立場に立ったタクシーです。タクシーを改造し、運転手にはホームヘルパー2級の資格を取らせました。また、手話を習わせたりしました。するとどうでしょう。同業他社の人々は「昼間だけのタクシーで儲かる筈がない」と言って、篠原さんの試みを冷たい視線で眺めていました。しかしこの試みは世間の人々に受け入れられたのです。社会的弱者に優しいタクシー会社というイメージが拡がり、普通のタクシーの需要も伸びたのです。

 このような会社が伸びないはずがありません。キリストの言葉に生きるなら、そこには神のいのちと力が働きますから、必ず良い方向へと導かれるはずだからです。

 福音の宣教も同じです。大切なのはどのように伝えるかということではありません。だれが伝えるかということです。だれがとは、どのような立場の人がということではなく、また、どのような性格の人がということでもなく、どのような性質の人が伝えるのかということです。キリストの性質にある人が、キリストに似た人がキリストの証人として伝えるなら、神の栄光が現されることでしょう。イエス様はそのために彼らを聖別してくださいと祈られたのです。

 最後に19節をご覧ください。イエス様は、「わたしは彼らのため、わたし自身を聖別します。彼ら自身も真理によって聖別されるためです。」と言っておられます。どういうことでしょうか。イエス様は完全にきよく、罪がないお方だったので、きよめられる必要はありませんでした。そのイエス様が、「わたしは彼らのために、わたし自身を聖別します」と言われたのです。この意味は、「わたしは自分自身を聖別して、祭司として、自分を犠牲としてささげます。」という意味です。それは、わたしの弟子たちが真理によって聖別され、きよい民となるためにです。それは、イエス様が間もなく十字架で贖いの死を遂げられることを意味していました。イエス様はまさにご自身を神のものとして聖別されたのです。それは、弟子たちが彼らに与えられた使命を果たすためでした。その使命とは何ですか。その使命とはキリストの証人として、この世に遣わされるということでした。

弟子たちはその初穂として遣わされたのです。彼らを通して福音が宣べ伝えられ、多くの人がキリストを信じて救われ、神の栄光が現されるようにと。同じように、神はあなたをこの世から選び、ご自身のもとして聖めてくださいました。救ってくださいました。それはあなたを通して神の栄光が現されるためです。私たちはキリストによって罪の赦しと永遠のいのちを受けました。しかし、それは完全になったということではありません。まだ弱さがあります。しかし、私たちには、そうした弱さを知ってとりなしてくださる方がおられます。イエス様です。イエス様があなたのために祈っておられます。あなたの弱さに同情してくださるだけでなく、あなたをそこから助け出して、力を与えてくださいます。そして、あなたを通してご自身の栄光を現してくださいます。私たちも内側からきよめられて、キリストの栄光、神の栄光を現す者となりましょう。そのために、イエス様はご自分のいのちをささげてくださったのです。