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神のジレンマ エレミヤ書14章10~22節神のジレンマ 


聖書箇所:エレミヤ書14章10~22節(エレミヤ書講解説教31回目)
タイトル:「神のジレンマ」
きょうは、エレミヤ書14章10~22節から「神のジレンマ」というタイトルでお話します。いのちの泉である主を捨てて、自分たちのために壊れた水溜めを掘ったイスラエルに対して、主はエレミヤを通してご自身の許に立ち返るようにと語りますが、イスラエルの民はそれを無視して神様を悲しめるようなことを続けていました。そんなイスラエルの民に対して神様はあわれんで彼らを救いたいのですが、救えない。そのジレンマです。
Ⅰ.神のさばきの宣言(10-12)

 まず10~12節をご覧ください。「10 この民について、主はこう言われる。「このように、彼らはさまようことを愛し、その足を制することもしない。そのため、主は彼らを受け入れず、今、彼らの咎を覚えて、その罪を罰する。」11 主は私に言われた。「この民のために幸いを祈ってはならない。12 彼らが断食しても、わたしは彼らの叫びを聞かない。全焼のささげ物や穀物のささげ物を献げても、わたしはそれを受け入れない。かえって、剣と飢饉と疫病で、彼らを絶ち滅ぼす。」」
14章前半では、日照りのことについて主のことばがエレミヤにありました。そのことばに対してエレミヤは主に祈りました。主の御名にかけて神様に訴えたのです。それは7節にあります。「主よ、あなたの御名のために事を成してください。」(7)8節では「イスラエルの望みである方、苦難の時の救い主よ。」と呼びました。名は体を表します。主はイスラエルの望みの神です。苦難の時の救い主です。だから、自分たちを置き去りにしないでくださいと、必死に祈ったのです。それに対する答えがこれです。
何ということでしょうか。エレミヤが必死になって祈ったにもかかわらず、主の御名に訴えてとりなしたにもかかわらず、それに対する主の答えはまことに素っ気のないものでした。いや、ひどくがっかりさせるものでした。主はこう言われました。10節、「この民について、主はこう言われる。「このように、彼らはさまようことを愛し、その足を制することもしない。そのため、主は彼らを受け入れず、今、彼らの咎を覚えて、その罪を罰する。」
非常に厳しい言葉です。突き放されるような思いがします。11節では、極めつけのようなことばが語られます。それは「この民のために幸いを祈ってはならない。」という言葉です。耳を疑いたくなるような言葉です。本当に神様がこんなことをおっしゃったのかと。神様がこのように民のためにとりなしてはならないと言われたのはこれが3回目です(エレミヤ7:16,11:14)。しかし、ここではもっと踏み込んで言われています。単に彼らのために祈ってはならないと言うのではなく、「この民のために幸いを祈ってはならない。」と言われたのです。私たちの神は私たちに幸いをもたらしてくださる方ではないのですか。その神様が「幸いを祈ってはならない」というのはおかしいじゃないですか。何とも冷たく突き放されるような思いが致します。本当に神様はこんなことをおっしゃったのかと耳を疑いたくなってしまいます。
そればかりではありません。12節にはこうあります。「彼らが断食しても、わたしは彼らの叫びを聞かない。全焼のささげ物や穀物のささげ物を献げても、わたしはそれを受け入れない。かえって、剣と飢饉と疫病で、彼らを絶ち滅ぼす。」どういうことでしょうか。どんなに祈っても、どんなに献げても、すなわち、どんなに礼拝しても、神様はそれを受け入れないというのです。礼拝は形ではないからです。むしろ、剣と飢饉と疫病で彼らを絶ち滅ぼすことになります。それは彼らがいのちの水である主を捨てて、壊れた水溜めを慕い求めたからです。壊れた水溜めとは偶像のことです(2:13)。彼らはまことの神を捨てて偶像を慕い求めました。その結果、このような結果を招いてしまったのです。
皆さん、この世で最も恐ろしいこととは何でしょうか。それは神様に拒絶されることです。もし私たちがささげる祈りと賛美が神に受け入れられないとしたら、これほど悲しいことはありません。神様は私たちの究極的な希望であり救い主なのに、その神様に拒絶されるとしたらそこには何の希望もなくなってしまいます。それはまさに絶望であり、破滅と死を意味します。彼らは神に背いた結果、その破滅と死を招いてしまったのです。
ここには具体的にそれが三つの災害を通してもたらされると言われています。12節にあるように、一つは剣であり、もう一つは飢饉、そしてもう一つが疫病です。剣とは争いのこと、戦争のことです。飢饉とは食べ物が不足して飢えることです。14章の前半のところでは日照りについて語られましたが、その結果もたらされるものが飢饉です。あるいは、これは物質的なことばかりではなく霊的にも言えることです。霊的に満たされない状態のことでもあります。疫病とは伝染病のことです。新型コロナウイルスもこの一つです。これらのことは世の終わりの前兆として起こると、イエス様が言われたことでもあります。ルカ21章9~11節にこうあります。 「9 戦争や暴動のことを聞いても、恐れてはいけません。まず、それらのことが必ず起こりますが、終わりはすぐには来ないからです。」10 それから、イエスは彼らに言われた。「民族は民族に、国は国に敵対して立ち上がり、11 大きな地震があり、方々に飢饉や疫病が起こり、恐ろしい光景や天からの大きなしるしが現れます。」
皆さん、世の終わりにはこういうことが起こります。すなわち、戦争や暴動、飢饉や疫病です。それは世の終わりが来たということではなく、その兆候として起こることです。そういう意味では、この世は確実に終末に近づいていると言えます。ロシアがウクライナに侵攻して1年が経ちましたが、今後世界はどのようになっていくかわかりません。まさに一触即発の様相を呈しています。その結果、エネルギー価格が高騰しかつてないほどの深刻な食料危機が引き起こされています。また、新型コロナウイルスが発生してから3年が経過しましたが、まだ終息には至っておりません。いったい何が問題なのでしょうか。多くの人は戦争や異常気象が原因だと言っていますが、聖書はもっと本質的な問題を取り上げています。それは罪です。10節にこうあります。「このように、彼らはさまようことを愛し、その足を制することもしない。そのため、主は彼らを受け入れず、今、彼らの咎を覚えて、その罪を罰する。」主を受け入れず、さまようことを愛しています。いのちの水である主を捨てて、水を溜めることができない壊れた水溜めを自分たちのために掘ったのです。これが罪です。その結果、こうした剣や飢饉や疫病がもたらされました。私たちは、苦難の原因を他人や環境から探すのではなく、自分自身から探さなければなりません。自分自身と神様との関係が正しいかどうかを考えてみなければならないのです。私たちと神との関係が壊れると同時に、これまで努力して積み重ねてきたすべての人間的な労苦は一瞬にして崩れ去ってしまうことになるからです。ただ覚えておいていただきたいことは、たとえ壊れることがあったとしてもそれで終わりではないということです。そこに赦しと回復があります。悔い改めるなら主は赦してくださるのです。
毎年自ら命を絶つ人が後を絶ちません。ちなみに、昨年一年間に日本で自殺した人の数は21,584人でした。また、アルコール依存症(80万人)や神経症(400万人)を患っている人の数も増えています。これらのことから気付かされることは、私たちは成功するための訓練は受けていても、失敗した時の訓練は受けていないということです。失敗した時にどうすれば良いのかがわからなくて苦しんでいるのです。でも私たちの人生においては、成功するよりも失敗することの方がはるかに多いのです。また、豊かさよりも貧困の方が、目的を達成するよりも挫折する方がはるかに多いのです。そうした失敗に備えることがいかに重要であるかということがわかります。
その備えとは何でしょうか。その最大の備えは、悔い改めて神に立ち返ることです。問題はあなたが何をしたかということではなく、何をしなかったのかということです。あなたが失敗したかどうかではなく、悔い改めたかどうかが問われているのです。もしあなたが失敗しても、悔い改めるなら神は赦してくださいます。もしあなたが自分の罪を言い表すなら、神は真実で正しい方ですから、その罪を赦し、すべての罪からあなたをきよめてくださると聖書は約束しています。
私たちはいのちの水である主を捨て、すぐに壊れた水溜めを掘ってしまうような者ですが、それでもまだ希望があるということです。こうした神のさばきは世の終わりの前兆であって、まだ終わりではないからです。まだ希望があります。まだ間に合います。もしあなたが自分の罪を悔い改めて主に立ち返るなら、主はあなたを赦し、回復へと導いてくださるのです。
Ⅱ.偽りの預言者(13-18)
次に、13~18節をご覧ください。イスラエルの民に対して神がさばきを宣告されると、エレミヤはあきらめないで第二の祈りをささげます。13節です。「私は言った。「ああ、神、主よ。ご覧ください。預言者たちは、『あなたがたは剣を見ず、飢饉もあなたがたに起こらない。かえって、わたしはこの場所で、まことの平安をあなたがたに与える』と人々に言っているではありませんか。」」
ここでエレミヤは、偽預言者たちが民に偽りを語っていると訴えています。偽預言者たちは人々に、「大丈夫、あなたがたは剣なんか見ないし、飢饉もあなたがたには起こらない。かえって、わたしはこの場所で、まことの平安をあなたがたに与える」と言っていたのです。イエス様も世の終わりにはこうした偽預言者が大勢現れると言われました。彼らの特徴はどんなことでしょうか。それは人々にとって耳障りの良いこと、都合が良いこと、聞きやすいことを語ることです。否定的なことではなく肯定的なことを語ります。罪だとか、さばきだとか、滅びだとか、地獄だとか、悔い改めだとか、そういうことは一切言いません。聞く人にとって都合がよいことばかり、耳障りのよいことばかりを語るのです。ですから、彼らはエレミヤが語ることを全部否定しました。剣なんて見ることはないし、飢饉も起こらない。かえって、まことの平安が与えられると。エレミヤは相当困惑したことでしょう。自分が言っていることをすべて否定されるのですから。エレミヤだってそんなことは言いたくありませんでした。できれば平安を語りたい。災いが降りかかるなんて口が割けても言いたくないです。でも、主が言われるから、主が言われた通りに語ったわけですが、それとは全く反対のことを言う者たちがいたのです。偽預言者たちです。彼はここでそのことを訴えているのです。
それに対する主の答えが14~18節の内容です。「14 主は私に言われた。「あの預言者たちは、わたしの名によって偽りを預言している。わたしは彼らを遣わしたこともなく、彼らに命じたこともなく、語ったこともない。彼らは、偽りの幻と、空しい占いと、自分の心の幻想を、あなたがたに預言しているのだ。15 それゆえ、わたしの名によって預言はするが、わたしが遣わしたのではない預言者たち、『剣や飢饉がこの地に起こらない』と言っているこの預言者たちについて、主はこう言う。『剣と飢饉によって、その預言者たちは滅び失せる。』16 彼らの預言を聞いた民も、飢饉と剣によってエルサレムの道端に放り出され、彼らを葬る者もいない。彼らも、その妻も、息子、娘もそのようになる。わたしは、彼らの上に彼ら自身の悪を注ぎかける。17 あなたは彼らに、このことばを言え。『私の目は、夜も昼も涙を流して止まることのないように。おとめである娘、私の民の打たれた傷は大きく、それは癒やしがたい、ひどい打ち傷。18 野に出ると、見よ、剣で刺し殺された者たち。町に入ると、見よ、飢えて病む者たち。まことに、預言者も祭司も、地を行き巡って、仕事に精を出し、何も知らない。』」」
どういうことでしょうか。彼らは主の名によって預言していましたが、主は彼らを遣わしたこともなく、命じたこともなく、語ったこともない、と言われました。彼らは偽りの幻と、空しい偽りと、自分の心の幻想を、語っていただけでした。彼らは勝手に神の御言葉を解釈し、自分たちに都合がいいように適用していました。私たちも神の御言葉を預かる者ですが、彼らのように自分に都合が良いように解釈することがないように注意しなければなりません。「なぜなら、預言は決して人間の意志によってもたらされたのではなく、聖霊に動かされた人たちが、神からのことばを語ったのだからです。」(Ⅱペテロ1:21)
15節と16節には、神はそのような預言者を罰し、またその偽りの預言者に従った者も罰するとあります。そのような預言者だけではないのです。その偽りの預言者に従った者も罰せられることになります。なぜなら、民には、真の預言者と偽預言者とを判別する責任があったからです。ではどうやってそれを判別することができるのでしょうか。イエス様はこう言われました。「16 あなたがたは彼らを実によって見分けることになります。茨からぶどうが、あざみからいちじくが採れるでしょうか。17 良い木はみな良い実を結び、悪い木は悪い実を結びます。18 良い木が悪い実を結ぶことはできず、また、悪い木が良い実を結ぶこともできません。19 良い実を結ばない木はみな切り倒されて、火に投げ込まれます。20 こういうわけで、あなたがたは彼らを実によって見分けることになるのです。」(マタイ7:16-19)
実によって見分けることができます。茨からぶどうが、あざみからいちじくは採れません。良い木はみな良い実を結び、悪い木は悪い実を結びます。イエス様は、木と実のたとえによって、人の内面と外面との密接な関係性を語られました。木の品質は必ず実に現れるということです。それは人間も同じで、聖霊によって内面が霊的に生れ変っている人とそうでない人とでは外側からは分らないかも知れませんが、結ぶ実が違います。イエス様が問題にされたのはその人間の内面です。クリスチャンであるとはその内面の中心に関ることであって、単に行いのある部分がキリスト教的であるということではありません。クリスチャンであるとは、そうでない生き方にキリスト教的要素が少し付け加えることではないのです。御霊によって生まれ変わったクリスチャンは内面が変えられていくのです。人格の中心である心そのものが、自分中心から神中心へと変わるので、自我に囚われていた自分が神の僕(しもべ)となり、神がキリストを通して下さる全く新しい価値観や人生観、喜び、使命に生きる者へ変えられていくのです。勿論、完全にそうなるということではありません。失敗することもあります。でもその失敗しても本質的にそこに向かっているということです。
エレミヤ書に戻ってください。その上で主はこう言われるのです。17~18節です。「17 あなたは彼らに、このことばを言え。『私の目は、夜も昼も涙を流して止まることのないように。おとめである娘、私の民の打たれた傷は大きく、それは癒やしがたい、ひどい打ち傷。18 野に出ると、見よ、剣で刺し殺された者たち。町に入ると、見よ、飢えて病む者たち。まことに、預言者も祭司も、地を行き巡って、仕事に精を出し、何も知らない。』」どういうことでしょうか。
この「私の目は」の「私」は漢字で書かれているので、これはエレミヤの目のことですが、実は神の目でもあります。それはその後に「おとめである娘、私の民」とあることからもわかります。この「私」とは、明らかに神様のことです。ですから、エレミヤの目は、昼も夜も涙を流して止まることがなかったように、神様の目もまた涙を流し止まることがなかったのです。神はイスラエルの民にさばきを宣告しましたが、その心は一人も滅びることなく、すべての人が救われることを望んでおられたからです。ここに神のジレンマがあります。神様はこの民のために祈ってはならないと冷たく突き放しているかのようですが、実際は、神のおとめである神の民が一人も滅びることがないようにと憐れんでおられるのです。それなのにおとめである娘たちは頑なにそれを拒んでいました。神様の憐れみを受けたければ、頑なであることを止めなければなりません。砕かれなければならないのです。でも彼らは頑なであり続けました。ですから神は憐れみたかったのにできなかったのです。さばきの宣告をせざるを得ませんでした。それがこの涙に表れているのです。
イエス様も同じです。ルカ19章41~42節にこうあります。「41 エルサレムに近づいて、都をご覧になったイエスは、この都のために泣いて、言われた。42 「もし、平和に向かう道を、この日おまえも知っていたら──。しかし今、それはおまえの目から隠されている。」
エルサレムに近づいて、都をご覧になられたイエス様は涙を流されました。それはエルサレムが滅んでほしくなかったからです。神の民が滅んでほしくなかった。だからこの都のために泣いて、十字架にまでかかって死んでくださったのです。それなのに彼らは神の愛を受け入れませんでした。だからさばきを免れないのです。まさに断腸の思いです。腸が引きちぎれそうになる思いで語られたのです。
エレミヤも同じです。断腸の思いでした。もう涙せずにはいられませんでした。可哀そうだ!あまりにも不憫でならない!憐れまずにはいられない!でも、彼らはその憐れみを受け取ろうとしませんでした。だからさばきを宣言しなければならなかったのですそれが辛かったのです。そう言わなければ自分も偽りの預言者になってしまいますから。神はご自身を否むことがない真実で正しい方とありますが、そうでなくなってしまいます。だからさばきを宣告しなければならなかったのです。でも滅んでほしくない、救われてほしい、その狭間でエレミヤは苦しんでいたのです。
それは私たちも同じです。私たちも一人も滅びないでほしいからこそ必死になって福音を伝えています。でもその反応というのは、必ずしもこちらが期待するものではありません。世の終わりが来るとか、神のさばきがあるとか、地獄があるとか、そんなのどうでもいいとか、聞く耳を持ってくれません。だから、同時にさばきも宣言もしなければならないのですが、でもこんな厳しいことばを言ったら嫌われてしまいます。その人が心を閉ざしてしまうのではないか。今までの良好な関係だったのにその関係が壊れてしまうのではないかと恐れるのです。口も効いてもらえなくなるかもしれない。そう思うと耳障りのいいことを言ってしまう誘惑にかられるのです。今はちょっと頑なだけれども、ちょっとしたら柔らかくなるのではないか、それこそ寝たきりになったらチャンスかもしれないとか。でもその時が来るとは限りません。だから私たちはエレミヤのように必死になってとりなし、必死になって福音を語ったうえで、それでも聞かなければ聖書が言っていることをそのまま語らなければならないのです。これが私たちのミニストリーなのです。きついですね。信じるも信じないもあなた次第です、ではないのです。それでは偽預言者になってしまいます。本物の預言者は信じても信じなくてもいいではなく、信じるか、信じないかです。天国か地獄か、いのちか滅びか、祝福かのろいか、その中間はありません。信じなくてもいいなんていう選択はないのです。それは耳障りのいい話であり、偽りの平安です。それでは偽預言者になってしまいます。
最近、Facebookでつながっているある方から1冊の本が贈られてきました。タイトルは「セカンドチャンスの福音」です。またかと思って1ページを開いた「はじめに」のところに次のように書かれてありました。
クリスチャンは、「自分が死んだら天国へ行ける」と信じることができます。聖書にそう約束されているからです。では、私たちの身近な人や、家族や親族、友人などで、未信者の方が亡くなった場合はどうでしょうか。たとえばある親御さんが、こう打ち明けてきたら、あなたは何と答えますか。
「先月、長男が交通事故で亡くなってしまったのです。突然のことでした。大学卒業を間近に控えた時でした。神様にも関心を持つことはありませんでした。あの子は今どこにいるのですか。どうか教えてください。」 そう涙ながらに懇願された場合、答えに窮する方は多いのではないかと思います。
まず親御さんの気持ちに同情し、共に悲しむことが大切でしょう。その上で適切な答えをしてあげることが大切です。けれどもこの時、慰めと平安を与えることのできる人が、どれほどいるでしょうか。
このような時、間違っても「お子さんは未信者でしたから、地獄に行っています」と言ってはいけません。地獄に行っていないからです。お子さんは陰府(よみ)に行っています。陰府と地獄は別です。
一方、このとき明確な答えを避けて、「わかりません」「どこに行ったかは神様におまかせすることですよ」等と答える方もいるでしょう。しかしそのような答えでは、尋ねたかたは決して満足しないでしょう。その人は明確な答えを求めているからです。
もし、このような場合、明確な答えができない、あるいは慰めと平安を与える答えができないのであれば、それはあなたがまだ聖書的な死後観を持っていないということなのです。
もし聖書的な死後観を身につけるなら、このような場合にも明確で、慰めと平安の答えをすることができます。本書でこれから解説しようとするのは、そのような聖書的な死後観です。
皆さん、どう思いますか。聖書のことを知らなければ、「ああ、そうなのか、死んでからでも救われるチャンスがあるのか」と思ってしまうでしょう。これが聖書が言っている福音でしょうか。違います。聖書はそんなこと一言も言っていません。聖書が言っていることは、「光のある間に、光の子となるために、光を信じなさい」ということです。イエス様はこう言われました。「もうしばらく、光はあなたがたの間にあります。闇があなたがたを襲うことがないように、あなたがたは光があるうちに歩きなさい。闇の中を歩く者は、自分がどこに行くのか分かりません。自分に光があるうちに、光の子どもとなれるように、光を信じなさい。」(ヨハネ12:35-36)
ここで「光があるうちに」と言われているのは、直接的には光であられるイエス様が十字架に付けられて死なれるまでのことを意味していますが、私たちにとって、それは死という闇が襲ってくる時か、あるいはイエス・キリストが再び来られる時(再臨)の時かのいずれかの時です。その間にイエス・キリストを信じなければ、永遠に救いのチャンスは無くなってしまうということです。これがイエス様が言われたこと、聖書が教えていることです。これが福音です。それなのに、どうしてこの福音の真理を曲解するのでしょうか。先ほどの言葉を聞いていて何かお気づきになられたことがありませんか。そうです、それを聞いた人が慰めと平安を与えられるかどうかということに重きを置いていることです。確かに親御さんの気持ちに同情し、共に悲しむことが大切です。確かに「お子さんは未信者でしたから、地獄に行っています」と言うことは控えるべきでしょう。でも聖書にはどこへ行ったのかを明確に示されているので、それと違うことを言うのは控えなければなりません。確かに人は死んだらすぐに地獄に行くのではなく陰府へ行きますが、そこはもう一度悔い改めるチャンスが与えられるところではないのです。そこは死刑を待つ犯罪人が留置されている場所のようなところで、その行先が地獄であることが決まっています。ただ、福音を聞く機会のなかった人が聞くチャンスはあるかもしれません。でもそれは現代においてはあり得ないことです。なぜなら、現代では世界中のいたるところに十字架が掲げられているからです。しかし亡くなったご家族にそれをその場で伝えることはふさわしくないので、「わかりません」「神様にゆだねましょう」と答えるのが最善だと思います。あたかも死んでからでも救われる機会があると伝えることは間違っています。福音ではありません。それでは、ここに出てくる偽預言者たちのようになってしまいます。
エレミヤは嫌われても、拒まれても、神が語れと言われたことを忠実に語りました。でもそれがあまりも厳しかったので回りから嫌われ、憎まれ、殺されそうになりました。それでもエレミヤはただ神のさばきを宣言するだけで終わりませんでした。涙を流して、祈って、必死にとりなして、そのさばきを主にゆだねたのです。それが私たちにゆだねられているミニストリーなのです。
Ⅲ.だから悔い改めて(19-22)
ですから、第三のことは、だから悔い改めてということです。19~22節をご覧ください。「19 「あなたはユダを全く退けられたのですか。あなたはシオンを嫌われたのですか。なぜ、あなたは私たちを打ち、癒やしてくださらないのですか。私たちが平安を待ち望んでも、幸いはなく、癒やしの時を待ち望んでも、ご覧ください、恐怖しかありません。20 主よ、私たちは自分たちの悪と、先祖の咎をよく知っています。本当に私たちは、あなたの御前で罪の中にあります。21 御名のために、私たちを退けないでください。あなたの栄光の御座を辱めないでください。私たちとのあなたの契約を覚えていて、それを破らないでください。22 国々の空しい神々の中に、大雨を降らせる者がいるでしょうか。それとも、天が夕立を降らせるのでしょうか。私たちの神、主よ、それは、あなたではありませんか。私たちはあなたを待ち望みます。あなたが、これらすべてをなさるからです。」」
エレミヤの祈りに対する神の答えを聞いて、エレミヤはここで再度とりなしの祈りをささげています。必死に食い下がっているのです。つい先ほど、「この民のために幸いを祈ってはならない。」と言われたにもかかわらずです。これがエレミヤの心でした。そしてこれが神の心でもあったのです。幸いを祈ってはならないと言いながらも、そういう厳しいことを言いながらも、彼らにさばかれないでほしい。彼らが神様に立ち返ってほしい。神様はそう願っておられたのです。神様はあわれみ深い方なのです。エレミヤは預言者でしたが、預言者というのは神のことばを取り次ぐ人のことです。ですから、彼は預言者として神のことばを取り次いでいましたが、それだけでなく彼は、神の心も取り次いでいたのです。これが神の御心でした。エレミヤの姿を見て私たちも痛ましいほどの主の愛に心が動かされるのではないでしょうか。そこまで主は愛してくださるんだと。そこまで思ってくださるんだと。
  エレミヤも民に憎まれ、迫害されて、そんな連中なんてもうどうなってもいい、滅んだほうがいいとすら思っても当然なのに、そんな民のために必死になってとりなしました。それこそが、神が私たちに抱いている思いです。
ここでエレミヤはどのように祈っているでしょうか。21節を見ると、エレミヤは三つの理由を挙げて祈っています。第一に、御名のために私たちを退けないでほしいということです。ここに「御名のために、私たちを退けないでください。」とあります。この御名のためにというのは前回お話したように主のご性質にかけてということです。主は憐れみ深く恵み深い方なのにイスラエルを滅ぼすようなことがあるなら、神の御名に傷がつくことになります。そんなことがあってはならない。あなたの御名のために、この民を退けないでください、そう祈ったのです。
第二に、彼は栄光の御座を辱めないでくださいと祈りました。栄光の御座とは、神が臨在しておられる所です。神殿で言うなら、約の箱が置かれている至聖所のことです。そこは神の栄光で輝いていました。そこに主が臨在しておられたからです。その栄光の御座が辱められることがないために、自分たちを退けないでくださいと祈ったのです。
第三に、彼は「私たちとあなたの契約を覚えていて、それを破らないでください。」と祈りました。神がイスラエルの民との契約を破棄するなら、神のことばは信頼できないものになってしまいます。神が真実な方であるのは、その契約をどこまでも守られるからです。その契約を覚えていてくださいと訴えたのです。
八方塞がりになったとき、あなたはどこに希望を見出していますか。私たちが希望を見出すのはこのお方です。イスラエルの望みである方、苦難の時の救い主、私たちの主イエス・キリストです。この方は決してあなたを決して見離したり、見捨てたりすることはありません。あなたの罪のために十字架でいのちを捨ててくださるほど愛してくださった主は、そして三日目によみがえられた主は、世の終わりまでいつもあなたとともにいてくださいます。そして、あなたを絶望の中から救い出してくださいます。その恵みは尽きることはありません。私たちの主は真実な方だからです。神の激しいさばきの宣告の中にも、主の憐れみは尽きることがないことを覚え、悔い改めて今、主に立ち返ろうではありませんか。

苦難の時の救い主 エレミヤ書14章1~9節


聖書箇所:エレミヤ書14章1~9節(エレミヤ書講解説教30回目)
タイトル:「苦難の時の救い主」
きょうは、エレミヤ書14章1~9節から「苦難の時の救い主」というタイトルでお話します。それこそ、苦しい時の神頼みです。それでいいんです。苦しい時に本当に頼りになるのはこの方しかいないのですから。私たちの神様は、苦しい時に救ってくださる方です。きょうはこのことについてお話したいと思います。
Ⅰ.日照りのことについて(1-6)

 まず1~6節をご覧ください。ここにはユダの民の苦しみについて描かれています。「1 日照りのことについて、エレミヤにあった主のことば。2 「ユダは喪に服し、その門は打ちしおれ、地に伏して嘆き悲しみ、エルサレムは哀れな叫びをあげる。3 高貴な人は、召使いに水を汲みに行かせるが、彼らが水溜めのところに来ても、水は見つからず、空の器のままで帰る。彼らは恥を見、辱められて、頭をおおう。4 地には秋の大雨が降らず、地面は割れて、農夫たちは恥を見、頭をおおう。5 野の雌鹿さえ、子を産んでも捨てる。若草がないからだ。6 野ろばは裸の丘の上に立ち、ジャッカルのようにあえぎ、目も衰え果てる。青草がないからだ。」」
日照りのことについて、エレミヤに主のことばが下りました。「日照り」とは雨が降らない状態のことです。ここでは「日照り」ということばが複数形になっていますから、一度だけでなく何度も起こることを意味しています。その結果、ユダは悲惨な状態となります。それは自然災害ではなく、イスラエルの罪の結果もたらされるものでした。エレミヤ書2章13節に「わたしの民は二つの悪を行った。いのちの水の泉であるわたしを捨て、多くの水溜めを自分たちのために掘ったのだ。水を溜めることのできない、壊れた水溜めを。」とありますが、彼らは二つの悪を行いました。一つは「いのちの水の泉」である主を捨てたということです。そしてもう一つの罪は、「多くの水溜を掘った」ということです。しかも水を溜めておくことができない壊れた水溜めです。これは偶像のことです。彼らは自分たちを救うことができない偶像に頼りました。彼らにとって主なる神だけがまことの生ける水であったのに、主だけが渇いた心を潤すことができたのに、その主を捨てて偶像に走ってしまったのです。その結果、日照りがもたらされることになりました。
イスラエルでは、水は最も価値あるものでした。オイルとか鉱石といったものよりもはるかに貴重なものだったのです。日本では水が豊かで蛇口をひねればすぐに出てきますが、イスラエルでは水はまさにいのちを繋ぐものでした。水が無ければ生きていくことができませんでした。それは彼らにとって最も大事なもの、いのちよりも大事なものであったのです。あなたにとって最も大事なもの、欠かすことができないものは何ですか?それが私たちの神でなければ、それは壊れた水溜めに水を溜めておくようなものです。水を溜めておくことができません。渇きを満たすことはできないのです。一時的に潤すことができるかもしれませんが、ずっと満たすことはできません。
  イエス様はこう言われました。「この水を飲む人はみな、また渇きます。しかし、わたしが与える水を飲む人は、いつまでも決して渇くことがありません。わたしが与える水は、その人の内で泉となり、永遠のいのちへの水が湧き出ます。」(ヨハネ4:13-14)
  神だけがあなたの心を満たすことができます。神だけがあなたにいのちの水を与えることができるのです。ですから、この生ける水を捨てたら日照りになってしまいます。干ばつがあなたを襲うことになるのです。
それは、いにしえからの警告として彼らに与えられていたものでした。たとえば、申命記28章24節にはこうあります。「主はあなたの地に降る雨をほこりに変え、天から砂ぼこりが降って来て、ついにはあなたは根絶やしにされる。」
 聖書では、雨は祝福の象徴として描かれています。聖書が教えていることは、もし神の御声に聞き従うならば豊かに雨が降り、従わなければ日照りが来るということです。そのように警告されていました。ですからこれは初めてではないのです。エレミヤの時代から遡ること千年も前からモーセの律法を通して何回も繰り返して語られていたことでした。それが今ここでもう一度語られているのです。千年前のいにしえの警告が、このエレミヤの時代に現実のものとなりました。
その日照りのことについて何と言われているでしょうか。2~3節をご覧ください。「ユダは喪に服し、その門は打ちしおれ、地に伏して嘆き悲しみ、エルサレムは哀れな叫びをあげる。高貴な人は、召使いに水を汲みに行かせるが、彼らが水溜めのところに来ても、水は見つからず、空の器のままで帰る。彼らは恥を見、辱められて、頭をおおう。」
ユダは喪に服し、その門は打ちしおれ、地にひれ伏して嘆き悲しみ、エルサレムは哀れな叫び声を上げることになります。「門」とは権威のシンボルです。そこで政治や祭儀が執り行われていました。その門が打ちしおれることになります。一切の権威が失墜してしまうのです。
「高貴な人」とは、社会的に地位の高い人のことです。そうした高貴な人が、召使いに水を汲みに行かせますが、彼らが水溜めのところに来ても、水は見つからず、空の器のまま帰ることになります。「水溜め」とは「貯水槽」のことです。貯水槽が空っぽなので町が全く機能しないのです。政治、経済、宗教、その他すべての活動が停止状態になります。水がないと何もできないからです。
 同じように、いのちの水である神様がいなければ私たちも何もできません。イエス様はご自身をぶどうの木にたとえてこう言われました。「わたしはぶどうの木、あなたがたは枝です。人がわたしにとどまり、わたしもその人にとどまっているなら、その人は多くの実を結びます。わたしを離れては、あなたがたは何もすることができないのです。」(ヨハネ15:5)
 私たちもイエス・キリストなしでは何もすることができません。ただ渇くだけです。ここでは「彼らは恥を見、卑しめられて、頭をおおう。」とあります。「頭をおおう」とは、苦悶のしるしです。日本語で「頭を抱える」と言いますが、まさにそういった状態になるのです。
それはエルサレムだけではありません。4節をご覧ください。ここには、農村部までも日照りによって深刻な状態になることが言われています。「4 地には秋の大雨が降らず、地面は割れて、農夫たちは恥を見、頭をおおう。」
以前もお話しましたが、イスラエルには乾季と雨季がありますが、この雨季に雨が降らないと深刻な状態になります。その雨季は秋と春の二回です。秋の雨は、収穫が終わった後の9~10月頃に降る雨で「先の雨」と呼ばれています。この雨は、次の作物の種を蒔くために欠くことができません。そうでないと地面が割れて、種を蒔くことができないからです。一方、春の雨は3~4月頃に降る雨で「後の雨」と呼ばれています。この雨が降らないと収穫を期待することができません。作物が実らないからです。ここでは「地には秋の大雨が降らず、地面は割れて、農夫たちは恥を見、頭をおおう」とありますから、9~10月頃に降る秋の雨、先の雨のことを言っています。この雨が降らないと地面が割れて、種を植えることができません。それで農夫たちは恥を見、頭をおおうことになるのです。
それだけではありまん。5~6節をご覧ください。「5 野の雌鹿さえ、子を産んでも捨てる。若草がないからだ。6 野ろばは裸の丘の上に立ち、ジャッカルのようにあえぎ、目も衰え果てる。青草がないからだ。」
この日照りによって野山にいる動物たちも大きな影響を受けることになります。つまり、エルサレムだけでなく、農村部も野山も全部打撃を受けることになるということです。国全体が疲弊してしまうのです。しかも人間だけでなく動物までも。野の雌鹿さえ、子を産んでも捨てることになります。若草がないからです。自分が食べるのもやっとで、母乳をあげることもできません。子どもを捨てなければならないほど追いつめられるのです。雌鹿はイスラエルでは最も美しい動物のシンボルとなっています。その美しく優しい雌鹿ですら、そうならざるを得なくなるのです。
また、野ろばは裸の丘の上に立ち、ジャッカルのようにあえぎ、目も衰え果てる、とあります。青草がないからです。聖書では、野ろばは最もたくましい強靭な動物のシンボルとして描かれていますが、その野ろばですら、ジャッカルのようにあえぐようになります。ジャッカルは、廃墟と化した町に住む獣として聖書に描かれていますが、そのようになってしまうのです。青草がないからです。
つまり、国全体が日照りによって疲弊し、大打撃を受けることになるということです。いったいどうしてこのようなことになるのでしょうか。それは先に申し上げたように、イスラエルの民が彼らの神、主を捨てたからです。13章22節には、「あなたが心の中で『なぜ、こんなことが私の身に起こったのか』と言うなら、それは、あなたがたの多くの咎のためだ。」とある通りです。現代は、自分の力で何でもできると考えがちです。しかし、私たちと神様との関係が正しくなければ、神が天から雨を閉ざされることもあるということを覚えておかなければなりません。私たちの物質的祝福は、すべて天からの恵みとして与えられているのです。それは、神との関係によってもたらされるのです。それなら、私たちは神との関係をより親密なものにするようにすべきではないでしょうか。
新年の礼拝でホセア書6章3節からお話しました。「私たちは知ろう。主を知ることを切に追い求めよう。主は暁のように確かに現れ、大雨のように私たちのところに来られる。地を潤す、後の雨のように。」
 今は後の雨の時代です。主が暁の光のように確かに現れ、大雨のように私たちのところに来られ、私たちの心を聖霊の雨をもって潤してくださるように、主を知ることを切に追い求めましょう。
Ⅱ.主の御名のために(7)
次に7節をご覧ください。「7 「私たちの咎が、私たちに不利な証言をしても、主よ、あなたの御名のために事をなしてください。まことに私たちの背信は大きく、私たちはあなたの御前で罪の中にいます。」
このようなイスラエル、南ユダの状況を見せられて、エレミヤはいてもたってもいられなくなり、とりなしの祈りをささげます。7章16節には、「あなたは、この民のために祈ってはならない。」と言われていたにも関わらず、です。また、11章14節でも、「あなたは、この民のために祈ってはならない。彼らのために叫んだり、祈りをささげたりしてはならない。彼らがわざわいにあって、わたしを呼び求めても、わたしは聞かないからだ。」と言われていたにも関わらず、です。エレミヤは2回も彼らのために祈ってはならないと言われていたにも関わらず、それを破ってまでもとりなしの祈りをささげたのです。ユダの惨状を見て、黙っていることなどできなかったからです。
エレミヤはどのように祈りましたか。彼はまず「私たちの咎が、私たちに不利な証言をしても、主よ、あなたの御名のために事をなしてください。まことに私たちの背信は大きく、私たちはあなたの御前で罪の中にいます。」と祈りました。「彼らの咎が」ではなく「私たちの咎」です。「彼らの背信」ではなく「私たちの背信」です。「私たちはあなたの御前で罪の中にいます」と祈りました。つまり、エレミヤはユダの民と一つになっているのです。その上で、正直に自分の罪を認めて告白しました。「まことに私たちの背信は大きく、私たちはあなたの御前で罪の中にいます」と。エレミヤは罪の赦しを受けるために必要なことは何かを知っていました。それは罪を認め、主の御前に告白することです。Ⅰヨハネ1章9節には、「もし私たちが自分の罪を告白するなら、神は真実で正しい方ですから、その罪を赦し、私たちをすべての不義からきよめてくださいます。」とあります。私たちは罪人です。あなたの前に罪を犯しましたと認めてそれを言い表すなら、神はその罪を赦し、すべての悪からきよめてくださるのです。
もう一つのことは、エレミヤはここで「主よ、あなたの御名のために事をなしてください」と祈っていることです。私たちはこんなに苦しんでいるのですから、もうすべてを失ってしまったのですから、ですから私たちのために事をなしてくださいというのではなく、あなたの御名のために事をなしてくださいと祈ったのです。どういうことでしょうか。
 「名は体を表す」と言いますが、名はその人自身、その人の性質を表しています。たとえば、私は「大橋富男」という名前ですが、この名前は私を表しているんです。私は富んでいる男です。物質的には富んでいませんが、霊的には富んでいます。イエス様を信じたことで神の子とされ、神のすべての資産を受け継ぐ者とされました。ですから、富んでいる男なんです。いい名前ですね。お母さん、ありがとうです。それまではあまりいい名前だと思いませんでした。なんでこんな名前にしたんだろうと、ちょっとコンプレックスがありました。響きがよくない。どうせだったら、「翔平」が良かった。大橋翔平。どうしてこんな名前にしたのかとある時母に聞いたことがあります。そしたら母が教えてくれました。それは兄のクラスにとても頭のいい子がいて、その名前にすれば頭がよくなるんじゃないかと思ったと。何と単純な理由なんだろうとがっかりしましたが、クリスチャンになってから考えてみたら、いや、なかなかいい名前じゃないかと思うようになりました。私は神と人々の大きな架け橋となってイエス様の愛をもたらしていくという意味で富んでいる男だと。Big Bridge Rich Manです。このように、名は体を表しているのです。
エレミヤがここで「あなたの御名のために事をなしてください」と祈ったのは、この神のご性質に訴えたからです。自分たちの行いによるなら今受けている災いは当然の結果です。私たちが罪を犯したのですから、すべてを失って当たり前です。でもあなたはあわれみ深い方ですから、そのあわれみによって赦してくださいと祈っているのです。
出エジプト記34章6~7節にこうあります。「主、主は、あわれみ深く、情け深い神。怒るのに遅く、恵みとまことに富み、7 恵みを千代まで保ち、咎と背きと罪を赦す。」主は咎と背きの罪を赦される方です。主よ、あなたの御名のために事を成してください。あなたはこういう方ではありませんか。あわれみ深い方、情け深い方、怒るのに遅く、恵みとまことに富んでおられる方。ですから、主よ、あなたのその御名のために事をなしてくださいと祈ったのです。先ほど引用したⅠヨハネ1章9節もそうですね。「もし私たちが自分の罪を告白するなら、神は真実で正しい方ですから、その罪を赦し、私たちをすべての不義からきよめてくださいます。」ここには「神は真実な方」とあります。真実とは何ですか。約束を守られる方という意味です。ですから、私たちは罪を言い表すことができるのです。神は真実な方ですから。神はあわれみ深く、情け深い方ですから、怒るのに遅く、恵み深い方ですから、咎と背きの罪を赦してくださる方ですから、この御名によって祈ることができるのです。
Ⅲ.苦難の時の救い主(8-9)
第三に、エレミヤが訴えたもう一つの主の御名、主のご性質を見て終わりたいと思います。8~9節をご覧ください。「8 イスラエルの望みである方、苦難の時の救い主よ。どうしてあなたは、この地にいる寄留者や、一晩だけ立ち寄る旅人のようにされるのですか。9 なぜ、あなたは驚いているだけの人や、人を救えない勇士のようにされるのですか。主よ。あなたは私たちのただ中におられ、私たちはあなたの御名をもって呼ばれているのです。私たちを置き去りにしないでください。」」
エレミヤの祈りが続きます。ここでエレミヤは、「イスラエルの望みである方、苦難の時の救い主よ」と言っています。これも主のご性質です。主はイスラエルの希望である方、私たちの希望なる方です。エレミヤは今、エルサレムを見ても、農村を見ても、野山を見ても、どこにも希望を見出すことができませんでした。どこを見ても、あるのは絶望だけでした。今はそういう時代じゃないですか。どこに希望があるでしょうか。若い方々に聞いてみてください。希望がありますか?町に希望がありますか?田舎に希望がありますか?野山に希望がありますか?ありません。これから経済はどうなっていくんだろう。老後は大丈夫だろうか。年金を払ってももらえそうもないし。いくら政党が代わっても政治は変わらない。世界情勢はどうでしょう。最近発表された終末時計によると、世界に残された時間は90秒だそうです。ロシアがいつ核を使用するかわかりません。核戦争になったらどうなるかなんて誰でも知っていることです。自然環境はどうでしょう。地球温暖化で、世界中のあちらこちらで大洪水が発生しています。このままでは地球がどうなってしまうのかわかりません。明らかに20年前、30年前と時代が変わりました。どこにも希望が見出だせない、末恐ろしい時代となっています。
しかし、私たちには希望があります。それは主イエス・キリストです。この方こそ私たちの希望です。エレミヤの時代は、イスラエル、南ユダは、神ではなく外国との同盟関係に頼っていました。いわゆる外交とか軍事力、経済力といったものに頼っていたのです。でも、それらは本当の意味で望みとはなりませんでした。壊れた水溜めと同じで、一時的な気休めでしかなかったのです。むしろ、それらがもたらしたのは絶望でしかありませんでした。
でも、イスラエルの望みである方、私たちの神は、決して私たちを裏切りません。がっかりさせません。エペソ2章11~13節にこうあります。「11 ですから、思い出してください。あなたがたはかつて、肉においては異邦人でした。人の手で肉に施された、いわゆる「割礼」を持つ人々からは、無割礼の者と呼ばれ、12 そのころは、キリストから遠く離れ、イスラエルの民から除外され、約束の契約については他国人で、この世にあって望みもなく、神もない者たちでした。13 しかし、かつては遠く離れていたあなたがたも、今ではキリスト・イエスにあって、キリストの血によって近い者となりました。」 
かつて私たちは、肉においては神から遠く離れ、この世にあって望みもなく、神もない者でしたが、そのように遠く離れていた私たちも、今ではキリスト・イエスにあって、キリストの血によって神に近い者とされました。神様がおられることが希望なんです。何も持っていなくても、神様さえ持っていれば希望があります。すべてを失っても神様だけは決して失うことはありません。だから神様が希望なんです。他のものは失われ頼りにしていたものも変わりますが、神様はいつまでも変わることがありません。イスラエルの神は望みの神なのです。あなたはこの希望を持っておられますか。
またエレミヤはここで、イスラエルの望みの方を、苦難の時の救い主と呼んでいます。皆さん、私たちの主は苦難の時の救い主です。よく「苦しい時の神頼み」と言いますが、それでいいんです。私たちの主は苦しい時に救ってくださる神だからです。ピンチの時に頼りになるのはこの方だけです。日光東照宮に行ってもだめです。それはあなたを救ってはくれません。そこには3匹の猿がいますが、それらは「見ざる、言わざる、聞かざる」です。何も見えません。何も言わないし、何も聞こえません。田んぼの中のかかしのようなものです。何の頼りにもなりません。銀行に行っても無駄です。お金を貸してくれるかもしれませんが、あなたを窮地から救い出すことはできないからです。弁護士はどうでしょうか。確かにある程度はアドバイスしてくれるかもしれませんが、相当の弁護料が求められます。苦難の時にあなたを救うことができるのはたった一人だけです。それは私たちの主イエス・キリストです。主はまどろむこともなく、眠るここともありません。この方に頼むべきです。
家族のことで悩み苦しんでおられる方からメールをいただきました。自分のことなら我慢することができるけど、子ども、孫のこととなるとどうすることもできないのを痛切に感じます(涙)。神様は私、子ども、孫を通して何を伝えたいのでしょう。孫はもう終わりです。子どもは立ち上がることができません。それが何よりも悲しくて言葉になりません。
 このメールを見て私は思いました。このことを通して神様は何を伝えたいのでしょうか。それは、神様は苦難の時の救い主であるということです。「わたしに頼れ」とおっしゃっておられる。この方に信頼し、この方にすべてをゆだねるべきです。そうすれば、この方があなたを救ってくださいます。
詩篇50篇15節に、すばらしい約束があります。ご一緒に読んでみましょう。「苦難の日にわたしを呼び求めよ。わたしはあなたを助け出しあなたはわたしをあがめる。」苦難の日に主を呼び求めるなら、主があなたを助け出してくださいます。
また、詩篇91篇15節はこうあります。「彼がわたしを呼び求めればわたしは彼に答える。わたしは苦しみのときに彼とともにいて彼を救い彼に誉れを与える。」
 あなたが苦しい時に主を呼び求めるなら、主はあなたに答えてくださいます。主は苦難の時の救い主なのです。そんなの虫のいい話じゃないかと思うかもしれません。私のような者の叫びは聞いてくださらないと思うかもしれません。しかし、それはあなたが、主がどのよう方かを知らないからです。主がどのような方なのかを知れば、それがわかります。この方は苦難の時の救い主であるということを。私たちは真実でなくても、この方は常に真実な方です。ご自身を否むことかできないからです。ですから、苦難の時の救い主であられる主は、苦難の時の救い主であり続けてくださるのです。そんなの虫のいい話だと言われても、主は真実な方ですから、状況がどうであれ、私たちがどうであれ、苦難の時の救い主であり続けてくださるのです。
8節後半から9節までをご覧ください。ここでエレミヤは「どうして」「なぜ」ということばを連発して、主に必死に訴えかけています。「どうしてあなたは、この地にいる寄留者や、一晩だけ立ち寄る旅人のようにされるのですか。 なぜ、あなたは驚いているだけの人や、人を救えない勇士のようにされるのですか。」
言い換えると、これは、あなたの御名に反することではないですかということです。どうしてあなたは、この地にいる寄留者や、一晩だけ立ち寄る旅人のようにされるのですか。なぜ、あなたは驚いているだけの人や、人を救えない勇士のようにされるのですか。そんなことないでしょ。あなたはこのような方なのですからと、必死になって訴えでいるのです。私たちもこのように祈りたいですね。必死になって主の御名にかけてた祈るべきです。
アメリカン・フットボールのインディアナポリス・コルツチームの監督だったトニー・ダンジーさんは、息子が無くなったとき深い悲しみに打ちひしがれました。しかし、彼は葬儀場に慰めに来た人々にこう言いました。「皆さんにお伝えしたい重要なことがあります。私はここで涙を見せていますが、これは悲劇の中でなされるお祭りだということです。なぜなら、私たちの人生の目的と意味は、ただイエス・キリストにあるのですから。今、この瞬間にも主は私と皆さんの中に、その愛を現わしてくださいます。なぜ私にこのようなことが起こったのかも、なぜ息子が死んだのかも私にはわかりません。しかし、神がその答えを持っておられるということと、変わらずに私を愛しておられること、そして私のためのご自身のご計画があることを知っています。私は「なぜ」の代わりに、「何を」と質問するようになりました。「私がこれを通して何を学べるのか」「私がこれを通して神の栄光のために何をすることができ、ほかの人を助けるために何をすることができるのか」と問いながら歩んでいきます。」(ファン・ヒョンテク、「いつでも希望は残っている」)
 すばらしいですね。本当に主がどういうお方なのか、どのようなご性質なのかをよく知っていないと言えないことばだと思うのです。それを知れば「なぜ」の代わりに「何を」と質問することができるようになるはずです。このように主の御名を知って、主に従うなら、その人の人生にさらに多くの恵みが増し加えられるのは間違いありません。
エレミヤは、主の御名にかけて祈ったとき、一つの真実に到達しました。それは「主よ。あなたはわたしたちのただ中におられ、私たちはあなたの御名をもって呼ばれているのです。」ということです。主は私たちの真ん中にいてくださいます。ど真ん中にいてくださる。ここにもいてくださいます。その真理に目が開かれたのです。であれば、それで十分ではないでしょうか。
主は同じことを私たちに求めておられます。あなたは日照りで渇き切っていないでしょうか。どこを見ても希望はないと、嘆いておられないでしょうか。しかし、イスラエルの望みである方は、苦難の時の救い主であられます。この方に信頼してください。「あなたの道を主にゆだねよ。主に信頼せよ。主が成し遂げてくださる。」(詩篇37:5)とある通りです。あなたが素直になって自分の罪を認め、告白するなら、神様はあなたをきよめてくださいます。神様は苦難の時の救い主なのです。この方は、あなたのただ中にいてくださいます。この方に信頼して、歩んでいきましょう。

酒壺に満たされた酒 エレミヤ書13章12~27節酒壺に満たされた酒 


聖書箇所:エレミヤ書13章12~27節(エレミヤ書講解説教29回目)
タイトル:「酒壺に満たされた酒」
きょうは、エレミヤ書13章12~27節のみことばから「酒壺に満たされた酒」というタイトルでお話します。前回の箇所でエレミヤは、主が命じられたとおり、亜麻布の帯を買い、それをユーフラテス川まで行って隠しました。するとかなりの日が経ってから、再び主からことばがありました。それは、もう一度ユーフラテス川へ行き、今度はそれを取り出すようにということでした。エレミヤは主の言われたとおりにすると、その帯はぼろぼろになって何の役にも立たなくなっていました。いったいこれはどういうことかと思っていたら再び主のことばがあり、それはユダとエルサレムの大きな誇りであると示されました。その帯がぼろぼろになったように、主は彼らの誇りをぼろぼろにすると言われたのです。それは彼らが主のことばを聞くことを拒み、その頑なな心のままに、ほかの神々に歩み、それに仕えたからです。彼らは主に結び付けられて主と一つとなり、主のために生きるように造られたのにそうではなかったからです。すごいですね、このように主はエレミヤの行動を通して、ご自身のみことばを示されたのです。ことばによる預言も力がありますが、このように行動を通しての預言はもっと強烈です。
きょうのところでは、一つのたとえを通して語られます。それは酒壺に満たされた酒のたとえです。イエス様も多くのたとえを用いて語られました。このたとえを通して主は何を語ろうとしたのでしょうか。結論から申し上げると、神の民イスラエルはいつまでも変わらないということです。いつまでも神に立ち返らないのです。それで主は彼らの酒壺に、ご自身の怒りの酒で満たされるのです。
Ⅰ.酒壺に満たされた酒(12-14)

 まず12~14節をご覧ください。「12 あなたは彼らにこのことばを伝えよ。『イスラエルの神、主はこう言われる。酒壺には酒が満たされる。』彼らがあなたに『酒壺に酒が満たされることくらい、分かりきっているではないか』と言ったなら、13 あなたは彼らに言え。『主はこう言われる。見よ。わたしは、この地の全住民を、ダビデの王座に着いている王たち、祭司、預言者、およびエルサレムの全住民を酔いで満たし、14 彼らを互いにぶつけて砕く。父も子も、ともに─主のことば─。わたしは容赦せず、惜しまず、あわれみをかけずに、彼らを滅ぼす。』」
主はエレミヤに言われました。彼らにこのことばを伝えよと。「彼ら」とはイスラエルの民、南ユダの民のことです。彼らに伝えるべきことばとは、「酒壺に酒が満たされる」ということでした。酒壺とは、イスラエルの民のことを指しています。その中に満たされる酒、ぶどう酒とは、神の怒りのことです。ここでは、ぶどう酒が神の怒りとして用いられています。この酒壺は、ぶどう酒を約40リットルも入れることができる大きな容器でした。その酒壺が、神の怒りで満たされるのです。
それに対して、イスラエルの民が「酒壺に酒が満たされることなど当たり前ではないか、そのくらい、分かりきっていることだ」と言ったら、彼らにこう告げるようにと言われました。13~14節です。「見よ。わたしは、この地の全住民を、ダビデの王座に着いている王たち、祭司、預言者、およびエルサレムの全住民を酔いで満たし、彼らを互いにぶつけて砕く。父も子も、ともに─主のことば─。わたしは容赦せず、惜しまず、あわれみをかけずに、彼らを滅ぼす。」どういうことでしょうか。
これは、彼らは神様の徹底的なさばきを受けるようになるということです。彼らはそれがどういうことなのかわかりませんでした。だから、酒壺にぶどう酒が満たされるのは当然ではないかとのん気なことを言っていたのです。しかし、そんなのん気なことを言っている場合ではありません。そこには全く容赦のない神の怒りのぶどう酒が注がれるようになるからです。主はその地の全住民を、王から一般庶民に至るまで酔いで満たし、互いにぶつけて砕き、滅ぼされるのです。
いったい何が問題だったのでしょうか。15~17節をご覧ください。ここにその理由が述べられています。「15 耳を傾けて聞け。高ぶるな。主が語られたからだ。16 あなたがたの神、主に、栄光を帰せよ。まだ主が闇を送らないうちに、まだあなたがたの足が夕暮れの山でつまずかないうちに。あなたがたが光を待ち望んでも、主はそれを死の陰に変え、暗黒とされる。17 もし、あなたがたがこれに聞かなければ、私は隠れたところであなたがたの高ぶりのために嘆き、涙にくれ、私の目には涙があふれる。主の群れが捕らわれて行くからだ。」
それは彼らが高ぶっていたからです。彼らは主が語られることばを聞こうとしませんでした。主の御声に聞き従おうという気持ちは、これっぽっちもなかったのです。たとえば、その前のところに、主は「酒壺には酒が満たされる」と言われましたが、それに対して彼らは何と言いましたか。「そんなの当たり前じゃないか、酒壺はそのためにあるんだから」と言って、そのことばに秘められた神の思いを素直に受け取ろうとしませんでした。主はそんな彼らに、その高ぶりを捨てて、主に栄光を帰するようにと言われたのです。
ぶどう酒は、神の怒りの象徴であると同時に、神の祝福の象徴でもあります。たとえば、イエス様はカナの婚礼において水をぶどう酒に変えるという最初の奇跡を行い、その結婚式を祝福されました。また、最後の晩餐において御子イエスの血潮の象徴となったのはぶどう酒でした。ですから、ぶどう酒は神の怒りの象徴であると同時に、神の祝福の象徴ともなり得るのです。神の器であるあなたという壺の中に注がれているのは怒りのワインでしょうか。それとも、祝福のワインですか。神の怒りを祝福に変える唯一の方法は、高ぶりを捨てて、神に栄光を帰することです。神のためにと思って奉仕しながら、結果的に自分のためにしていることもあります。聖霊様によって、心を吟味していただきましょう。
ところで16節には、「まだ主が闇を送らないうちに、まだあなたがたの足が夕暮れの山でつまずかないうちに。」とあります。
  恵泉キリスト教会会津チャペル牧師で、山形大学名誉教授の三留謙一先生から、新年のご挨拶と一緒にご自身が書かれたトラクトを送ってくださいました。そのタイトルがなかなかなのです。「天の故郷への帰還・・・まだ可能です」先生は昨年心臓冠動脈のバイパス手術を受けられましたが、それはまさに、一度死んで復活した「死からの擬似体験」のようだったと言います。もしかするとそのまま死ぬかもしれないという不安の中で、これまで何回もクリスチャンは必ず天の故郷に帰れますとのメッセージを聞き、また自分も牧師として語ってきましたが、自分が死に臨むことは、全くの未知の領域でした。ですから手術前の一週間、「今週が人生最後かも」という思いが消えず、眠れない夜を過ごしました。
 しかし、手術室に向かう車椅子の上で、突然、天から平安が降ってきて、不安が消えていきました。これが、イエス様が、「わたしは、あなたがたにわたしの平安を与えます。」(ヨハネ14:27)と言われた平安なのかと、手術室に入っていきました。そして、手術は無事終わり翌朝目を目ましたとき、永遠のいのちの恵みのすばらしさ、凄さを改めて感じました。それは、天の故郷の朝のようだったと言います。新聖歌151番「永遠(とわ)の安き来たりて」の歌詞にある通りです。
 「神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに世を愛された。それは御子を信じる者が、一人として滅びることなく、永遠のいのちを持つためである。」(ヨハネ3:16)
  あなたも、この天の故郷への帰還が可能です。「イエス様、どうぞ私の心に来て、救ってください。」と祈るなら、あなたも天の故郷に帰ることができます。そして一度イエス・キリストを信じた者に対する神の約束は、何があっても変わることはありません。三留先生は、最後に次のように語って証を閉じています。
 「一度限りの人生、永遠のいのちほど価値あるものはありません。私も82歳になりましたが、80歳でも、天の故郷への帰還は、まだ可能です。輝かしいイエス様を見上げて、一緒に行きましょう。天国までの道を。」
 アーメンですね!天の故郷への帰還は、まだ可能なのです。しかし、それが閉じられる時がやって来ます。主が闇を送り、あなたがたの足が夕暮れの山でつまずくようになる時がやって来るのです。つまり、手遅れになる前に自分の罪を悔い改めてイエス様を信じなければなりません。今はまだやり直すチャンスが与えられています。でもそのチャンスが無くなる時がやって来ます。それは肉体の死を迎える時であり、また、イエス様が再臨する時です。それが終わりの時です。その後でどんなに歯ぎしりしてもその時は残されていません。その時が来たらもう遅いのです。大丈夫、セカンドチャンスがあるから・・・。ありません。皆さん、このような教えに惑わされないでください。ありませんから。そんなことは聖書のどこにも書いてありません。聖書が言っていることは、私たちが悔い改めるチャンスとして与えられているのは、私たちがこの地上に生きている間だけであるということです。どんなに有名な牧師が言ったとしても惑わされないでください。私たちが悔い改めるチャンスは、この地上に生きている時だけなのです。「今は恵みの時、今は救いの日です。」(Ⅱコリント6:2)ですから、その前に高ぶりを捨て、主に栄光を帰せなければなりません。悔い改めて、神に立ち返らなければならないのです。
16節の後半にあるとおりです。「あなたがたが光を待ち望んでも、主はそれを死の陰に変え、暗黒とされる。」どういうことですか。あなたがたが光を待ち望んでも、それはもう遅いということです。主はそれを死の陰に変え、暗黒とされるからです。ヨハネの福音書11章9~10節にこうあります。「9 イエスは答えられた。「昼間は十二時間あるではありませんか。だれでも昼間歩けば、つまずくことはありません。この世の光を見ているからです。10 しかし、夜歩けばつまずきます。その人のうちに光がないからです。」」
 主イエスは世の光として来てくださいました。この光がある間にご自身のところに来なければなりません。昼間歩けば、つまずくことはないからです。しかし、夜歩けばつまずきます。その人のうちに光がないからです。
  クリスチャン作家の三浦綾子さんは、「光のあるうちに」という本を書かれました。いつまでも光があるわけではありません。人それぞれ光のところに来る時が与えられています。それに応答しなければ、闇があるだけなのです。
もしこれに聞かなければどうなるでしょうか。17節にこうあります。ご一緒に読みましょう。「もし、あなたがたがこれに聞かなければ、私は隠れたところであなたがたの高ぶりのために嘆き、涙にくれ、私の目には涙があふれる。主の群れが捕らわれて行くからだ。」
 もし、主のことばに聞かなければ、主の群れが捕らわれて行くことになります。具体的には、バビロンに捕えられて行くことになるということです。バビロン捕囚のことです。そのことを聞いたエレミヤは嘆き、涙にくれました。エレミヤは「涙の預言者」と呼ばれていますが、ここでもその姿を見てとれます。何度語っても聞いてくれない、心を頑なにして神のことばを拒んだ結果、彼らは捕らえられてバビロンに連れて行かれることになってしまう。エレミヤはそのことを聞いて涙が止まりませんでした。私だったらムカついていたかもしれません。これだけ言っているのになぜわからないのかと。でもエレミヤは涙にくれました。目に涙があふれました。彼は自分の故郷アナトテの人たちから憎まれ、殺されかけていたんですよ。自分を殺そうとする人のために語ることばなどありません。そんな人なんてどうなっても構わないと思うのが普通です。それなのに彼はそのアナトテの人々をはじめ、ユダの人たちが捕らわれて行くのを見て嘆き、涙にくれたのです。エレミヤはまさに涙の預言者でした。
そして、これが私たちの主の涙でもあります。主の心です。エレミヤの姿は、私たちの主イエスの姿を表していたのです。そういえば、イエス様も自分を迫害する者たち、自分を殺そうとした人たちのために祈られました。「父よ、彼らをお赦しください。彼らは、自分が何をしているのかが分かっていないのです。」(ルカ23:34)
 これがイエス様の心です。ですから、エレミヤの涙はイエス様の涙、父なる神の涙だったのです。神の預言者として、神の思い、神の心を表していたのです。すなわち、神は一人も滅びることなく、すべての人が救われることを望んでおられるということです。どんなに頑な人でも、どんなにキリスト教は嫌いだという人でも、どんなに神なんて信じないと言う人でも、すべての人が悔い改めて、真理を知るようになることを望んでおられるのです。イエス様はそのために十字架にかかって死んでくださったのです。
ですから、私たちは高ぶりを捨てて、主に、栄光を帰せなければなりません。主があなたに闇を送らないうちに、まだあなたの足が夕暮れの山でつまずかないうちに。酒壺にぶどう酒が満たされないように、神の御前にへりくだり、神の御言葉に聞き従う者になりたいと思うのです。
Ⅱ.なぜこんなことが私の身に起こったのか(18-22)
次に、18~22節をご覧ください。「18 「王と王母に告げよ。『低い座に着け。あなたがたの頭から、輝かしい冠が落ちたから。』19 ネゲブの町々は閉ざされて、だれも開ける者はいない。ユダはことごとく捕らえ移される。一人残らず捕らえ移される。20 あなたがたの目を上げ、北から来る者たちを見よ。あなたに対して与えられた群れ、あなたの美しい羊の群れはどこにいるのか。21 最も親しい友としてあなたが教えてきた者たちが、あなたの上に、かしらとして立てられるとき、あなたは何と言うのか。激しい痛みがあなたをとらえないだろうか。子を産む女のように。22 あなたが心の中で『なぜ、こんなことが私の身に起こったのか』と言うなら、それは、あなたの多くの咎のためだ。それで、あなたの裾はまくられて、あなたのかかとは傷を負うのだ。」
高ぶって、主の御声に聞き従わなかったユダの民は、捕らえ移されることになります。その神のさばきが宣言されています。18節の「王」とは、先週「王と預言者」たちの一覧表を配布しましたが、南ユダの最後から二番目のエホヤキン王のことです。「王母」とは、その母親のネフシャタのことです。その前にエホヤキムという王様がいましたが、彼はバビロンの王ネブカデネザルに反逆したので、バビロンに捕え移されてしまいました。これが第一次バビロン捕囚です(B.C.597)。この時にダニエルも捕え移されました。その後を継いだのが、このエホヤキンです。この時彼はまだ18歳だったので、実質的には彼の母のネフシャタが後見人となって実験を握り、国を治めました。このことはⅡ列王記24章8節に記されてありますので後でご確認ください。そこには彼女の名前も出ています。その治世はわずか三か月でした。その後、ゼデキヤという王が立てられますが、このゼデキヤの時にエルサレムは完全に陥落することになります(B.C.586)。これが第二次バビロン捕囚です。
そのエホヤキン王と母親のネフシャタに告げられたことばがこれです。「低い座に着け、あなたがたの頭から輝かしい冠が落ちたから」どういうことでしょうか。彼らは王の位から引きずり落されるということです。彼は王となってわずか三か月でしたが、この預言のとおり、王位から引きずり降ろされることになります。彼だけでなくユダの民のすべてがことごとく捕え移されることになるのです。19節には「ネゲブの町々は閉ざされ、だれも開ける者はいない。」とありますが、ネゲブとは、南ユダの南端にある町です。ですから、ネゲブの町々は閉ざされ、だれも開ける者はいないというのは、南端に至るまですべてバビロンの支配下に置かれるということです。一部だけではありません。すべてです。南ユダ全体がバビロンの支配におさまることになるのです。
20節の「北から来る者たち」とは、そのバビロンのことです。イスラエルは神の羊にたとえられていますが、その美しい羊の群れがどこかに散らされてしまうことになるということです。彼らは羊飼いがいなければ生きていけない存在です。羊飼いがいればどんなに敵が襲ってきても全く恐れる必要はありませんでした。たとえ死の陰の谷を歩くことがあっても。「あなたがともにおられますから。」主がともにおられるので何も恐れる必要はないのです。でも、彼らは真の羊飼いではなく、他のものに頼りました。周辺諸国とかと同盟関係を結んで目の前の問題を解決しようとしたのです。神との関係よりもこの世との関係を重視しました。その結果、散らされてしまうことになったのです。それは私たちも同じです。神との関係が正しければあらゆる人間関係は正されすべての問題は解決しますが、その関係を無視し、この世に解決を求め、神をないがしろにするなら、このような結果を招いてしまうことになります。
それは21節にも見られます。「最も親しい友」とはバビロンのことです。南ユダは当初、台頭してきたアッシリヤという国の脅威に対して神様ではなくバビロンと手を結ぼうとしました。同盟関係を結んで共通の敵であるアッシリヤに対抗しようとしたのです。しかし、そのバビロンが彼らのかしらとして立てられ、彼らに激しい痛みを与えることになってしまいました。人間関係ってこんなものですよね。この人に頼ればと思ったのに裏切られ、ひどい目にあってしまうということがよくあります。ここでもそうです。バビロンに信頼したら、そのバビロンによって滅ぼされることになってしまいました。
その時、彼らは「なぜ、こんなことが私の身に起こったのか」と言うようになるでしょう。23節です。皆さん、なぜ、こんなことが自分の身に起こったのでしょう。その理由は明らかです。それはあなたの咎のためです。あなたの多くの咎のために、あなたの裾はまくられ、あなたのかかとは傷を負うのです。あらゆる不幸の原因はここにあります。すなわち、神を神としないことです。イザヤ書に書いてある通りです。「あなたがたの咎が、あなたがたと、あなたがたの神との仕切りとなり、あなたがたの罪が御顔を隠させ、聞いてくださらないようにしたのだ。」(イザヤ59:2)
交通事故を起こした人が、「このままでは、いつか事故を起こすかもしれないと予想していた」というのを聞いたことがあります。それと同じように、罪に対するさばきも、何の前触れもなくやって来るのではありません。神はさまざまな方法を通して、私たちに語りかけておられます。私たちはその語りかけを聞いたら、その時点で神に立ち返らなければならないのです。
Ⅲ.神に心を明け渡して(23-27)
では、どうしたら良いのでしょうか。ですから、第三のことは、あなたの心を神に明け渡してということです。23~27節をご覧ください。「23 クシュ人がその皮膚を、豹がその斑点を、変えることができるだろうか。それができるなら、悪に慣れたあなたがたも善を行うことができるだろう。24 わたしは彼らを、荒野の風に吹き飛ばされる藁のように散らす。25 これが、あなたへの割り当て、わたしがあなたに量り与える分である。─主のことば─あなたがわたしを忘れ、偽りに拠り頼んだためだ。26 わたしも、あなたの裾を顔の上までまくるので、あなたの恥ずべきところが現れる。27 あなたの姦淫、あなたの興奮のいななき、あなたの淫行のわざ──数々の忌まわしいものを、わたしは丘の上や野原で見た。ああ、エルサレムよ。あなたはいつまで、きよめられないままなのか。」
「クシュ人」とは、今のエチオピア人、スーダンの人たちのことです。いわゆるアフリカの黒人の人たちのことです。黒人の人がその皮膚を、変えることができるでしょうか。豹がその斑点を、変えることができるでしょうか。できません。それと同じように、悪に慣れた人を、善を行う人に変えることはできません。つまり、神の民の心を変えることは不可能だということです。しかし、人にはできないことでも、神にはどんなことでもできます。神は人の心さえも変えることができるのです。
使徒パウロはこう言っています。「だれでもキリストのうちにあるなら、その人は新しく造られた者です。古いものは過ぎ去って、見よ、すべてが新しくなりました。」(Ⅱコリント5:17)
だれでもキリストにあるなら、その人は新しく造られた者です。この「新しい」ということばは、根こそぎ新しくされるという意味です。それは「心を入れ替える」というレベルではありません。よく言うでしょう。「きょうから心を入れ替えて」と。そういうレベルではないのです。これは新しい創造のことです。全く新しい人として造り変えられることです。どんなに猫や猿を訓練し、良い服を着せたとしても、猫や猿が人間の子どもになることはできません。人間の子どもになるためには人間のいのちを持たなければならないからです。それと同じように、新しい人として生まれ変わるためにはイエス・キリストにあって神のいのち、聖霊を持たなければならないのです。一般に良い人間になろうとすることは人間の努力や教育によって進歩することを意味しますが、キリストによって新しく生まれるとは、キリストを信じることによって神のいのちである聖霊を受け入れ、聖霊に心の内に住んでいただくことを意味します。つまり、イエス・キリストを信じることによって、神の聖霊をいただき、私たちの魂に宿っていただくことによって、神の子どもとして新しい人間として生まれ変わるのです。
それは人にはできません。ただ神だけができることです。だれでもキリストのうちにあるなら、その人は新しく造られた者です。古いものは過ぎ去って、すべてが新しくなります。もう過去に捉われたり、縛られたりする必要はありません。過去に受けた傷をもう一度思い起こす必要もありません。自分はどうしてそうなったのかと精神分析を始める必要もないのです。すべての罪が赦されたからです。キリストにあって、あなたの過去はすべて過ぎ去るのです。イエス様は水をぶどう酒に変えられたように、罪人を聖人に変えることができるのです。一瞬にして。私たちはこういうでしょう。それは無理だ!持って生まれた性格を変えるなんて不可能だと。もし変えられるとしても、10年、20年、30年、いや100年かかると。100年も待っていられません。しかし、安心してください。だれでも、キリストにあるなら、その人は新しく造られます。一瞬にして、です。どうやってそんなことが可能なのでしょうか。「キリストにあって」です。「だれでもキリストにあるなら、その人は新しく造られた者です。」キリストを信じ、キリストの御霊、神の聖霊を受け入れ、内に住んでいただくことによって、あなたも新しくなることができるのです。
使徒パウロは、ローマ人への手紙7章24節でこう叫んでいます。「私は本当にみじめな人間です。だれがこの死のからだから、私を救い出してくれるのでしょうか」。しかし次の瞬間、彼はこう言うのです。「私たちの主イエス・キリストを通して、神に感謝します。」(ローマ7:25)どうして彼はそのように言うことができたのでしょうか。主イエス・キリストを通してです。
 「キリスト・イエスにあるいのちの御霊の律法が、罪と死の律法からあなたを解放したからです。肉によって弱くなったため、律法にできなくなったことを、神はしてくださいました。神はご自分の御子を、罪深い肉と同じような形で、罪のきよめのために遣わし、肉において罪を処罰されたのです。それは、肉に従わず御霊に従って歩む私たちのうちに、律法の要求が満たされるためなのです。」(ローマ8:2-4)
それは人にはできないことです。でも、神にはどんなことでもできるのです。神は肉によって弱くなった私たちのために、ご自分の御子を、罪深い肉と同じような形で、罪のきよめのために遣わし、肉において罪を処罰してくださいました。キリストの十字架の血は、私たちのすべての罪を完全にきよめることができるのです。ですから、今や、キリスト・イエスにある者が罪に定められることは決してありません。だれでもキリストにあるなら、その人は新しく造られるからです。神は真黒な罪人をまっ白にしてくださいます。雪よりも白く、羊の毛よりも白くしてくださるのです。聖書にそう約束されています。私たちはクシュ人の肌の色どころじゃない、墨よりも黒い、真黒な心を持っています。しかし、キリストはそうした心さえも変えてくださいます。外見はちっとも変ってないかのように見えるかもしれませんが、いや以前よりもシミが増えてきたなぁと思う人もいるかもしれませんが、中身は全く新しい人です。だれでもキリストのうちにあるなら、その人は新しく変えられるからです。
27節の最後のことばをご覧ください。ここには「ああ、エルサレムよ。あなたはいつまで、きよめられないのか。」とあります。この言葉を心に刻みつけたいと思います。これは神の心の痛み、心の叫びです。あなたはいつまで、きよめられないのか。マタイの福音書23章37節でイエス様は、神の招きを好まず拒んでいるイスラエルの民を嘆き、涙してこう言われました。「ああ、エルサレム、エルサレム。預言者たちを殺し、自分に遣わされた人たちを石で打つ者。わたしは、めんどりがひなを翼の下に集めるように、あなたの子らを幾たび集めようとしたことか。それなのに、あなたがたはそれを好まなかった。」何度も何度も悔い改めるチャンスを与えらたのにその招きに応じず、自ら滅びに向かって突き進んで行ったご自身の民を嘆かれたのです。
この神の思いを感じていただきたいと思います。神様はたださばきを宣告しているのではありません。そうした厳しい現実の中にも神のあわれみは尽きることがないということを知ってほしいと思います。神は一人も滅びないで、すべての人が救われることを願っておられるのです。その思いをしっかりと受け止めていただきたいのです。そしてへりくだって、神の御声に聞き従いましょう。あなたの神、主に、栄光を帰してください。イエス様は「自分に光があるうちに、光の子どもとなれるように、光を信じなさい。」(ヨハネ12:36)と言われましたが、闇が来る前に、夕暮れが迫る前に、光であられる主イエスを信じましょう。そして、あなたの心を神に明け渡し、聖霊によってきよめていただこうではありませんか。

ぼろぼろになった帯 エレミヤ書13章1~11節

聖書箇所:エレミヤ書13章1~11節(エレミヤ書講解説教28回目)
タイトル:「ぼろぼろになった帯」

きょうは、エレミヤ書13章1~11節から「ぼろぼろになった帯」というタイトルでお話します。ここからまたエレミヤを通して新しいメッセージが語られます。それはことばを用いてのメッセージではなく、エレミヤの行動を通してのメッセージです。それは「行動預言」と呼ばれるものです。普通に語ったのでは耳を傾けないイスラエルの民に対して、主はエレミヤの行動を通して語られるのです。それがこの「ぼろぼろになった帯」です。

Ⅰ.ぼろぼろになった帯(1-7)

まず1~7節をご覧ください。「1 主は私にこう言われた。「行って亜麻布の帯を買い、それを腰に締めよ。水の中に入れてはならない。」2 私は主のことばのとおり、帯を買って、腰に締めた。3 再び次のような主のことばが私にあった。4 「あなたが買って腰に着けているその帯を取り、ユーフラテス川に行って、そこの岩の割れ目にそれを隠せ。」5 そこで、主が私に命じられたとおり、私は行って、それをユーフラテス川のほとりに隠した。6 多くの日を経て、主は私に言われた。「さあ、ユーフラテス川へ行き、わたしが隠せとあなたに命じたあの帯を取り出せ。」7 私はユーフラテス川に行って掘り、隠した場所から帯を取り出した。すると見よ。その帯はぼろぼろになって、何の役にも立たなくなっていた。」

主はエレミヤに、亜麻布の帯を買って、それを腰に締めるようにと言われました。日本人は着物を着る習慣があるので、帯というと着物の帯を想像するかもしれませんが、これは祭司の服装に用いられた帯で、腰に巻く短いスカートのようなものです。エレミヤは祭司の家系で生まれたので「亜麻布の帯を買い、それを腰に締めよ」と言われたとき、すぐにピンときたと思います。しかし、それを「水の中に入れてはならない」ということには少し抵抗があったかもしれません。なぜなら、「水の中に浸してはならない」とは水で洗ってはならない、つまり、洗濯してはならないということだからです。洗濯しなければ臭くなってしまいます。神に仕える祭司なのに何週間も身に着けた帯を洗わないというのは不衛生です。しかし、エレミヤは主が言われたとおり、帯を買って、それを腰に締めました。
  ここで重要なのは、エレミヤが「主のことばのとおり」にしたということです。エレミヤは自分には理解できないことであっても、主が言われたとおりにしました。心の中では「どうしてこんなことを言われるのだろう」とか、「そんなことをしていったいどうなるというのか」という思いもあったかもしれませんが、彼は主が言われるとおりにしたのです。
  ここがエレミヤのすばらしい点です。彼はそれがどういうことなのかがわからなくても、ただ主のことばのとおりにしました。これは私たちが模範とすべき点です。私たちも聖書を読んでいると、どうして主はこんなことを言われるのだろうかとかと思うことがありますが、エレミヤのように主のことばのとおりにすることが大切です。

創世記に出てくるノアもそうでした。創世記6章22節には、「ノアは、すべて神が命じられたとおりにし、そのように行った。」とあります。神様は、地上に人の悪が増大し、その心に図ることがみな、いつも悪に傾くのをご覧になられた時、人を造ったことを悔やみ、すべての人を地の面から消し去ろうとしました。しかし、ノアは主の心にかなっていたので、主はノアとその家族を救おうと、ノアに箱舟を作るようにと命じました。ノアの箱舟です。しかしそれはかなり大きいもので、アメリカンフットボールのコートの1つ半の長さで、高さは4階建てのビルに匹敵するほどの高さでした。どれだけ時間がかかったでしょうか。一説によると70~100年くらいかかったのではないかと言われています。70~100年ですよ。気の遠くなるような話です。皆さんだったら作りますか?しかしノアは神から命じられると、そのとおりにししました。たとえ何年かかろうとも、たとえそれがどういうことなのかわからなくても、主が言われたとおりにしたのです。

時々私たちは、まさか主がそんなことを言われるはずはないと勝手に解釈して従おうとしないことがありますが、あるいは、それはあくまでもたとえであってそのとおりに受け止める必要はないと考えてしまうことがありますが、勿論、それが明らかにたとえである場合は別として、そうでない時には基本的にそれを文字通り受け止めそれに従うことが求められます。エレミヤは主が言われるとおりにしました。それがどういうことかよくわからなくても、主のことばのとおり、帯を買って、それを腰に締めたのです。

すると、どうなったでしょうか。3節をご覧ください。ここには、「再び次のような主のことばがあった」とあります。これは彼が最初にあった主のことばに従ったからです。つまり、再びエレミヤに主のことばがあったのは最初に主のことばがあったとき、彼がそれに従ったからです。従わなかったら次のことばはありませんでした。私たちはよく「聖書が言っていることがよくわかりません」とか、「主のことばが入って来ないんです」と言うことがありますが、もしかするとそれは最初に語られた主のことばにあなたが従っていなことに原因があるのかもしれません。主のことばに従わないと次の命令が来ないからです。最初のステップを踏まないと次の指示が来ないのです。

エレミヤはどうして主がそのように言われるのかわかりませんでしたが、主の言われるとおりにすると、再び彼に主のことばがありました。それは4節にあるように、「あなたが買って腰に着けているその帯を取り、ユーフラテス川に行って、そこの岩の割れ目にそれを隠せ。」ということでした。どういうことでしょうか。全く意味不明です。亜麻布を買って、それを腰に締めよというのはわかりますが、ユーフラテス川に行って、そこの岩の割れ目にそれを隠せというのは考えられないことです。なぜなら、この時エレミヤはエルサレムにいましたが、ユーフラテス川まではかなりの距離があったからです。地図をご覧ください。エルサレムからバビロンまでのルートを記しておきました。ユーフラテス川はその途中にありました。それは直線距離で約800㎞です。800㎞もありました。800㎞といったら、ここから広島辺りまでの距離に相当します。しかも当時は新幹線も高速道路もありませんでした。野を越え、山を越え、谷を越え、また広大な砂漠を通って行かなければなりませんでした。エズラ記によると、ユーフラテス川の先にあるバビロンからエルサレムまで帰還するのに四か月かかったと記されてあります(エズラ7:9)。ですから、相当の日数を要したのは間違いありません。それで学者によってはユーフラテス川というのは間違いで、これはアナトテの町の北東5kmにある「ワディ・ファーラ―」という町のことではないかと考える人もいます。ヘブル語で発音すると「ワディ・ファーラ―」と「ユーフラテス」の発音が似ているからです。あるいは、これはエレミヤが見た単なる「夢」ではないかという人もいます。違います。これは実際にエレミヤが神様から与えられた命令です。そのように受け止めた方が、この後の説き明かしの際に神が意図していたことが明確になるからです。

その命令に対してエレミヤはどのように応答したでしょうか。5節です。「そこで、主が私に命じられたとおり、私は行って、それをユーフラテス川のほとりに隠した。」
 エレミヤは主が命じられたとおりにしました。ユーフラテス川まで行き、それを岩の割れ目に隠したのです。すごいですね、エレミヤは常識では考えられないことでも、主が言われたとおりにしたのです。なぜなら、主は常識を超えておられる方だからです。常識だから従うというのは信仰ではありません。信仰とは、常識を超えたことでも主が語られたので従うことです。これが信仰です。

ヘブル11章1節には「信仰は、望んでいることを保証し、目に見えないものを確信させるものです。」とあります。信仰とは、望んでいる事がらを保証し、目に見えないことを確信させるものなのです。「望んでいる事がら」とは、自分が望んでいることではなく、神によってもたらされる天における報いことです。それは目には見えませんが、必ず与えられると信じています。なぜなら、主がそのように約束してくださったからです。創造主訳聖書では、「将来に起こることを確かなものとしてつかむ手であり」と訳しています。とてもわかりやすい表現ですね。私たちの希望として持っている天の御国は目に見えませんが、将来に起こる確かなものとしてつかむのです。それをしっかりとつかむ手、それが信仰なのです。それは常識をはるかに超えたものですが、主が言われたことは必ずそうなるからです。これは盲従とは違います。盲従といっても「猛獣」のことではありません。盲目的に従うことを「盲従」と言いますが、それとは違います。盲従とは何も考えないで従いますが、信仰とは主が語ってくださることに応答することです。たとえそれが自分に理解できないことであっても、主がみことばによって命じられたので従うのです。それが信仰です。
 エレミヤは主が命じられるとおりにユーフラテス川まで行き、そこに帯を隠しました。どうしてそんなことをしなければならないのかわかりませんでしたが、主がそう言われたのでそのとおりにしたのです。

するとどうでしょう。するとエレミヤに三度目の主のことばがありました。6節です。「多くの日を経て、主は私に言われた。『さあ、ユーフラテス川へ行き、わたしが隠せとあなたに命じたあの帯を取り出せ。』」
 「えっ!」ですよね。ユーフラテス川まで行ってそれを隠せというからそうしたのに、今度はそのユーフラテス川にもう一度行って、あの帯を取り出すようにというのです。だったら、最初からしなければよかったじゃないですかと言いたくなります。800㎞ですよ。その距離をまた往復しなければならないのです。それはあんまりです。しかしエレミヤは神の人でした。彼は主が言われるとおりもう一度ユーフラテス川に行って堀り、隠しておいた場所から帯を取り出しました。もしかすると彼は何かを期待していたかもしれません。その帯にキャビアがついているとか・・・。皆さん、知っていますか?キャビア。世界三大珍味の一つで、高級食材として有名です。インターネットで調べてみたらチョウザメの卵らしいです。ちなみに世界三大珍味とは他に、フォアグラとトリュフだそうです。まぁ、どうでもいいことですが。もしかしたら、そういうものが付いていると思ったのかもしれません。とにかく彼はユーフラテス川へ行き、隠した場所から帯を取り出しました。

するとどうでしょう。その帯はぼろぼろになっていました。ぼろぼろに腐っていて、何の役にも立たなくなっていたのです。エレミヤは「何だ、これ?」と思ったかもしれません。いったい何のためにここまで来なければならなかったのか、こんな腐った帯を掘り出すためにわざわざ命をかけて来たのか・・・・と。しかし重要なことは、主がせよと言われたことをしたことです。たとえそれが自分に理解できないことであっても、たとえそれが常識を超えたことであっても、主が命じられたとおりにすることが重要です。なぜなら、そうすることで、その次につながるからです。なぜ神様がそのように言われたのか、それがどういう意味なのかが明らかになるからです。

Ⅱ.エルサレムの大きな誇り(8-10)

いったいそれはどういうことだったのでしょうか。次に、その意味について考えたいと思います。8~10節をご覧ください。「8 すると、私に次のような主のことばがあった。9 主はこう言われた。「わたしはこのように、ユダとエルサレムの大きな誇りをぼろぼろにする。10 わたしのことばに聞くことを拒み、その頑なな心のままに、ほかの神々に従って歩んで、それらに仕え、それらを拝むこの悪しき民は、何の役にも立たないこの帯のようになる。」

すると、エレミヤに次のようなことばがありました。「わたしはこのように、ユダとエルサレムの大きな誇りをぼろぼろにする。」と。この帯は、イスラエルの民の大きな誇りを表していました。主はその誇りをこの帯のようにぼろぼろにするというのです。それは具体的にはバビロン捕囚のことを表していました。バビロンに捕え移すということです。バビロンという国はユーフラテス川の対岸にありますが、そこまで連れて行かれるということです。なるほど、だからユーフラテス川だったんですね。わざわざユーフラテス川まで行って帯を隠すようにと言われたのは、このことを表していたのです。しかもエレミヤは、ユーフラテス川まで2回も行かなければなりませんでした。実は、バビロン捕囚の出来事は2回にわたって行われました。第一回目は、ユダの王エホヤキムの時(B.C.597)です。これが第一次バビロン捕囚と呼ばれている出来事です。そしてもう一回が、南ユダの最後の王ゼデキヤの時(B.C.586)です。これが第二次バビロン捕囚で、この時エルサレムが完全に陥落することになります。ですから、エレミヤが2回もユーフラテス川まで行かなければならなかったのは、これら一連の出来事を預言していたのです。これらの出来事のすべてが、エレミヤが行った行動預言の中に含まれていたのです。すごいですね。神様のなさることは。エレミヤも何が何だかわからず、ただ神がせよと言われるからそのようにしただけでしたが、そういう意味があったと知って、後で驚いたのではないでしょうか。

いったいイスラエルの民はどういう点で誇っていたのでしょうか。10節には彼らの三つの誇りが取り上げられています。第一に、彼らは主のことを聞くことを拒みました。ここに、「わたしのことばを聞くことを拒み」とあります。皆さん、誇り、高慢とはどういうことでしょうか。高慢とは、神のことばを聞こうとしないことです。神の判断を仰がないで自分で判断し、自分の考えで進もうとすること、これが高慢であるということです。そこには神様が入り込む余地がありません。逆に謙遜であるとは、神のことばに聞き従うことです。20世紀のプロテスタントに大きな影響を与えたマルチン・ロイドジョンズは、自身が書いた「山上の垂訓」の中で、心が貧しい、謙遜であるということを、「Empty」と表現しました。空っぽであるということです。古いぶどう酒を全部吐き出さないと新しいぶどう酒を入れることができないように、自分の心を全部吐き出してEmptyにしないと、神のことばに満たされることはできません。その空になった心を神のことばで満たしそのことばに生きること、それが謙遜であると言うのです。もし神様の判断を仰ごうとせず自分の考えで動こうとしているなら、それは謙遜であるかのようですが高慢であるということです。皆さんはいかがですか。神様はそのような誇りを腐らせるのです。

第二に、彼らは頑なな心のままに歩もうとしました。これも高慢な人の特徴的な性質です。心が堅いのです。いくら言ってもわかりません。わかろうとしないのです。もう自分の中で決めていますから。だから主のことばが入って行かないのです。心に響きません。それは神のことばを語る側にも問題があるかもしれませんが、最大の問題はここにあります。主のことばを聞こうとしないのです。もう自分で決めていますから。聖書のことばは参考までに聞きますという程度です。この道を行くと自分で決めているので、どんなに主が「これが道だ。これに歩め。」と言っても、聞く耳を持つことができないのです。「そういう道もあるでしょうね。参考までお聞きしておきますが」とか、「でも私には私の考えがありますから」となるのです。それが頑なな心のままに歩むということです。イスラエルの民の心は、実に頑なでした。

第三に、ほかの神々に従って歩んで、それらに仕え、それらを拝むということです。これも大きな誇りです。勿論、イスラエルの民は主なる神、ヤーウェーも信じていました。でも、主だけを信じていませんでした。ほかの神々にも信頼していたのです。主を礼拝しながらバアルも、アシュタロテも、マモンも、その他いろいろな神々を信じ、それらに仕えていました。盆も正月もクリスマスもお祝いするみたいな感じです。これは日本人の宗教観に近いものがあります。それが寛容な心だと思っているわけです。全部拝めばそれだけご利益もあるしと。でもそれは大きな誇りです。主なる神を信じていると言いながらほかの神々に歩み、それらに仕えているとしたら、それは誇りでしかありません。主はそうした大きな誇りをぼろぼろにすると言われたのです。

あなたはどうですか。イスラエルの民のような誇り、プライドはないでしょうか。神のことばを聞こうとせずその心をかたくなにして、「私は私の道を行く」と自分の考えに固執していることはないでしょうか。そしてほかの神々にも従って歩み、それらに仕えているということはないでしょうか。イエス様は「心の貧しい者は幸いです。天の御国は、その人のものだからです。」(マタイ5:3)と言われました。主はご自身の前で心を低くし全面的に主に拠り頼む人を、御国の民としてくださるのです。

Ⅲ.主に結び付いて(11)

ではどうしたらいいのでしょうか。ですから、第三のことは主に結び付いてということです。11節をご覧ください。「帯が人の腰に着けられるように、わたしはイスラエルの全家とユダの全家をわたしに着けた─主のことば─。それは、彼らがわたしの民となり、名声となり、栄誉となり、栄えとなるためだった。しかし彼らはわたしに聞き従わなかったのだ。」

ここで主はものすごいことを言われます。それは「帯が人の腰に着けられるように、わたしはイスラエルの全家とユダの全家をわたしに着けた。」ということばです。第三版では「結びつけた」と訳しています。「なぜなら、帯が人の腰に結びつくように、わたしは、イスラエルの全家とユダの全家をわたしに結びつけた。」意味としてはこちらの方が近いです。イスラエルは神に結びつけられたのです。一つとなるように。帯が人の腰に結び付けるように、主はイスラエルの全家をご自身に結びつけてくださったのです。これは神様にとってイスラエルの民がそこまで近い存在であり、一体であることを表しています。その神と私たちを結び付ける帯がぼろぼろだったらどうでしょうか。使い物になりません。仕事にならなければ戦いにもなりません。そして、これは祭司の帯だと申し上げましたが、祭司の帯であるとしたら祭司の務めは礼拝ですから、礼拝にもならないということです。でも主は私たちをご自身と一つに結び付けてくださいました。主はそこまで私たちと一つになりたいのです。それが神の願いなのです。

これはイエス様の祈りを見てもわかります。イエス様は十字架に付けられる直前に、ゲッセマネの園で最後の祈りをされました。それは汗が血のしずくのように滴り落ちるほどの壮絶な祈りでしたが、その祈りの中で主はこう祈られました。「父よ。あなたがわたしのうちにおられ、わたしがあなたのうちにいるように、すべての人を一つにしてください。彼らもわたしたちのうちにいるようにしてください。あなたがわたしを遣わされたことを、世が信じるようになるためです。」(ヨハネ17:21)
 イエス様の祈りは、すべての人を一つにしてくださいというものでした。イエス様が父なる神と一つであるように、イエスを信じるすべての人が、互いに一つとなるようにと祈られたのです。それはイエスが父によって遣わされたことを、この世が信じるようになるためです。その一つに結び合わせるものが帯です。「愛」という帯なのです。「愛は結びの帯として完全です。」(コロサイ3:14)その神の愛という帯によって一つになり、互いに結び合うようにと祈られたのです。

それは何のためでしょうか。11節後半をご覧ください。ここにその理由が書いてあります。「それは、彼らがわたしの民となり、名声となり、栄誉となり、栄えとなるためだった。」
 これが、イスラエルの民が神に結び付けられた目的です。これがイスラエルの民が存在している目的でもあり、私たちクリスチャンが存在している目的でもあります。あなたは何のために存在していますか。それはあなたが神の民となり、神の名声となり、神の栄誉となり、神の栄えとなるためです。神様はあなたをそのようにしたいと願っておられるのです。あなたはそのために主に結びつけられたのです。決して離れることがないように、愛の絆でしっかりと結び付けられたのです。それなのに、イスラエルの民は神の御声に聞き従いませんでした。神と彼らを結び付けていた帯はぼろぼろに腐ってしまい、何の役にも立たなくなってしまったのです。私たちはそういうことがないように気をつけたいと思います。そして、神と私たちを結び付けている帯がぼろぼろにならないように、しっかりと主と一つになることを求めていきたいと思うのです。

 あなたが誇りとしているものは何ですか。私たちが誇りとすべきもの、それは主との関係です。主を知っているということを誇るべきです。私たちは誰か有名な人を知っていると、「私はあの人を知っている」と自慢します。でも私たちが自慢すべきなのは、私たちが主を知っていることです。誤解しないでください。主を知っているということは聖書の知識がどれだけあるかということではありません。また、主のためにどれほど熱心に活動しているかということでもありません。クリスチャンとしてこの社会でどれだけ立派に生きているかということでもありません。主を知っているとは、主との関係を意味しています。この結びの帯で主と一つに結ばれているかどうかということです。

パウロは「私にとって生きることはキリスト、死ぬことは益です。」(ピリピ1:21)と言っています。このことです。生きるにしても、死ぬにしても、その身によってキリストが現わされることを切に願うことです。長谷川先生が金太郎飴のお話をされました。どこを切っても金太郎が出てくるように、私たちのどこを切ってもイエス・キリストが出てくるような生き方です。そのためにはキリストと一つに結ばれていなければなりません。キリストの苦難にもあずかり、キリストの死と同じ状態になり、何とかして死者の中からの復活に達したいと願う。そんな信仰の歩みです。私たちはそのために造られたのですから。どうか、私たちの身を通して神の御名が崇められますように。その存在が神の名声となり、神の栄誉となり、神の栄えとなりますように。そのような者とさせていただきましょう。そのためにぼろぼろの帯ではなく、キリストの愛という帯によって神様と一つに結びつけていただきたいと思います。

絶望の中にある神の希望 エレミヤ書12章7~17節 

聖書箇所:エレミヤ書12章7~17節(エレミヤ書講解説教27回目)
タイトル:「絶望の中にある神の希望」

クリスマス礼拝、新年礼拝とありましたので、前回のエレミヤ書の説教から大分時間が経ちましたが、再びエレミヤ書の講解説教に戻ります。前回は、12章前半の箇所から、「どうして、どうして、どうして」というタイトルでお話しました。エレミヤは、なぜ、悪者が栄え、裏切りを働く者がみな安らかなのかわかりませんでした。そんなエレミヤに対して主はずっと沈黙されたままでしたが、その口を開かれるとこう言われました。5節です。「あなたは徒歩の者と競争して疲れるのに、どうして馬と走り競うことができるだろうか」徒歩の者と競争して疲れているとは現在の状況のことを表しています。そして、馬と走り競うとは将来のことです。つまり、現在のことでそんなに疲れ果てているならこれから先どうするのかということです。これから先もっと大きな困難が待ち受けているのだから、今の状況に一喜一憂するのではなく、すべてをご存知であられる主に信頼して前進するようにということでした。

今日の説教のタイトルは、「絶望の中にある希望」です。ユダの民、イスラエルの民は主を捨てて自分勝手な道に進んで行きました。その結果主のさばきを受けることになりますが、その中でも主は彼らを憐れんでくださり、再び回復してくださるという希望を語られます。

Ⅰ.神の悲しみの歌(7-11)

まず7~11節をご覧ください。ここには、最愛の者から裏切られた神の悲しみが、エレミヤに伝えられます。「7 わたしは、わたしの家を捨て、わたしのゆずりの地を見放し、わたしが心から愛するものを、敵の手中に渡した。8 わたしのゆずりの民は、わたしにとって、林の中の獅子のようだ。それはわたしに向かって、うなり声をあげる。それゆえ、わたしはこの地を憎む。9 わたしのゆずりの民は、わたしにとって、一羽の斑の猛禽なのか。それを猛禽どもが取り巻いているではないか。さあ、すべての野の獣を集めよ。それらを連れて来て、食べさせよ。10 多くの牧者が、わがぶどう畑を荒らし、わたしの地所を踏みつけて、わたしの慕う地所を恐怖の荒野にした。11 それは恐怖と化し、荒れ果てて、わたしに向かって嘆き悲しんでいる。全地は荒らされて、まことに、だれも心に留める者はいない。」

ここには、「わたし」ということばが強調されています。これは神様のことです。新改訳聖書ではひらがなの「わたし」と漢字の「私」を区別して記していますが、このようにひらがなで「わたし」とあるのは神様のことを指しています。この「わたし」という言葉が何回も使われているのは、ここに神様の思いというか気持ちがよくあらわれているということです。その神様の気持ちとはどういうものでしょうか。

7節には「わたしの家」とか「わたしのゆずりの地」という言葉がありますが、これはイスラエルの民のことを指しています。「わたしが心から愛するもの」もそうです。そのイスラエルの家を捨て、相続地を見離し、主が心から愛するものを、敵の手に渡されました。これは、敵であるバビロンの手に渡したということです。バビロン捕囚の出来事です。バビロンによって捕えられ、捕囚の民として連れて行かれることになるのです。なぜでしょうか?8節に、その理由が書かれてあります。それは彼らが神にとって林の中の獅子のようだったからです。林の中の獅子とは、神に対して敵対するライオンのことです。彼らは主に向かってうなり声をあげました。「うなり声をあげる」とは敵対するという意味です。林の中のライオンが「ウォー、ウォー」とうなり声を上げるように、神に対して敵対したのです。それゆえ、主はこの彼らを憎まれたのです。

また9節を見ると、彼らは主にとって、「一羽の斑の猛禽」のようだとあります。「猛禽(もうきん)」とは、肉食の鳥のことです。ここではただの猛禽ではなく「(まだら)の猛禽」とあります。この斑の猛禽とはイスラエルの民のことを指しています。斑の猛禽には一つの習性があり、それは、仲間以外のものを攻撃するということです。つまり、彼らにとってイスラエルの神は自分たちの仲間ではなかったのです。それで神に敵対して激しく襲い掛かかりました。

そんな一羽の斑の猛禽を、猛禽どもが取り巻いていました。この猛禽どもとはバビロンのことです。一羽の斑の猛禽が主に対して襲い掛かったので、主は他の猛禽どもに命じて、すべての野の獣を集めて、斑の猛禽を連れて来て、食べさせるようにと命じているのです。神様の目から見たらバビロンも猛禽どもにすぎません。旧約聖書には、猛禽は食べてはならない汚れた動物とされています。また、いけにえとして神にささげることもできませんでした。神に受け入れてもらえない動物だったのです。ですから、ここでは一羽の斑の猛禽が猛禽どもに取り巻かれているとありますので、汚れた民であるバビロンによって、神の民が取り巻かれ、滅ぼされることになると預言されているのです。何とも悲惨な話です。それは彼らが神である主に敵対し、主に向かって襲いかかったからです。

10節をご覧ください。「わがぶどう畑」とか「わたしの地所」もイスラエルの民のことです。それを踏みつけて、「恐怖の荒野」にしたのは、「多くの牧者たち」、つまり、イスラエルの指導者たちでした。指導者たちの誤った判断が、民を滅びに導いたのです。

結局、イスラエルの民は、神から捨てられることになってしまいました。でも誤解しないでください。神様はただ厳しく断罪しているのではありません。むしろ、愛をもってそのように為さるのです。本当はそんなことしたくないのです。だから7節には「わたしの家」とか、「わたしのゆずりの地」、「わたしが心から愛するもの」と呼ばれているのです。10節の「わたしの慕う地所を」とも言われています。「どうしようもない、罪深い、虫けら同様の連中を、敵の手に渡した」などと言われていません。「わたしが心から愛する者を」と言われました。たましいから愛する者を敵の手に渡したと言っているのです。

ここには「わたし」ということばがたくさん使われていると申し上げました。それはそのことばに託されたイスラエルに対する神の御思いが表現されているからです。この表現から、神の心の痛み、心痛を感じていただきたいと思います。それは不本意だと。本当はそんなことをしたくないのです。本当なら彼らを助けてあげたい。救ってあげたい。でも、彼らがそれを拒みました。そして、林の中のライオンのように、一羽の斑の猛禽のように、神に襲い掛かってきたのです。それでしょうがなくて神はそのようにされるのです。彼らが悔い改めさえすれば、そのさばきを免れることができたのです。バビロンに捕囚の民として連れて行かれる必要はありませんでした。神はこれまで散々愛のことばをかけて表現してきたのに、彼らは受け入れませんでした。たとえば、出エジプト記19章4~6節にはこうあります。「4 『あなたがたは、わたしがエジプトにしたこと、また、あなたがたを鷲の翼に乗せて、わたしのもとに連れて来たことを見た。5 今、もしあなたがたが確かにわたしの声に聞き従い、わたしの契約を守るなら、あなたがたはあらゆる民族の中にあって、わたしの宝となる。全世界はわたしのものであるから。6 あなたがたは、わたしにとって祭司の王国、聖なる国民となる。』これが、イスラエルの子らにあなたが語るべきことばである。」

これは、すごい愛の言葉だと思うんですね。なぜなら、ここで主は彼らを「わたしの宝」と呼んでいるからです。「あなたがたはあらゆる民族の中にあって、わたしの宝となる」。神様は彼らを宝物だとおっしゃってくださったのです。あなたが夫から「あなたはわたしの宝だ」なんて言われたらどうでしょうか。うれしいですよね。もう天に昇ったような気持ちになるのではないでしょうか。「あなたはわたしの誇りだ」と言われたらどうでしょうか。誇りと言ってもダスト(埃)のことじゃないですよ。プラウドです。アメリカに住んだことのある人やアメリカ人の友達がいれば一度は聞いたことのあるフレーズに‟I’m proud of you”という言葉があります。直訳すると「私はあなたを誇りに思う」でしょうか。妻が子どもに言うのをよく聞いたことがあります。‟I’m proud of you”、‟You are my treasure”と言われたら、子どもは本当に胸がいっぱいになります。うれしくて、うれして、言葉にできない♫。そういうことを神は惜しげもなくご自身の民におっしゃってくださったのです。イザヤ書にもありますね。イザヤ書43章4節です。「わたしの目には、あなたは高価で尊い。わたしはあなたを愛している。」

ですから、その愛するものが敵の手に渡されるなんて考えられないことなのです。その土地が荒れ果てるなんて考えられません。そこは神が大好きな土地であり、大好きな人たちがいます。その民がバビロンに滅ぼされて踏みにじられるのです。平気でいられるはずがありません。本当にそれを神が「よし」と思われるでしょうか。絶対にそんなことはありません。絶対に神はそんなことを望んでおられません。

ですから、これはただの冷酷なさばきの宣言ではないのです。神はご自分の民が罪を犯すと契約で定められたのろいを下されますが、しかし、さばかれる神の心は決して容易ではありません。苦しくて、苦しくて、胸が痛んでおられるのです。神はさばきながらも、彼らを「わたしの家」、「わたしのゆずりの地」、「わたしが心から愛するもの」、「わたしの慕う地所」と呼んでくださいました。このような表現には、さばきを受けて大きな苦しみの中にいるときでさえも、イスラエルの民が神に立ち返ることを切に願っておられる神の思いが込められているということを知っていただきたいと思うのです。

Ⅱ.自ら招いた恥(12-13) 

次に、12~13節をご覧ください。その結果、イスラエル、南ユダ王国はどうなるでしょうか。「12 荒野にあるすべての裸の丘の上に、荒らす者が来た。主の剣が、地の果てから地の果てに至るまで食い尽くすので、すべての肉なる者には平安がない。13 小麦を蒔いても、茨を刈り取り、労苦しても無駄になる。あなたがたは、自分たちの収穫で恥を見る。主の燃える怒りによって。」

「荒らす者」とは、バビロンのことです。エルサレム、南ユダ王国は、バビロンの侵略によって滅びてしまいます。ここには「主の剣」とあることからもわかるように、バビロンが神のさばきの道具として用いられるのです。その主の剣が、地の果てから地の果てに至るまで、食い尽くすようになります。地の果てから地の果てまでとは、残されているところはもうどこにもないということです。完全に征服されてしまうことになります。

それゆえ、すべての肉なる者には平安がありません。そればかりか、小麦を蒔いても、茨を刈り取り、労苦しても無駄になります。すべてが徒労に終ってしまうのです。期待しても期待外れ、希望は絶望に終わります。それは彼らが偶像礼拝にふけったために、自らの上にさばきを招いてしまったからです。あなたがたは、自分たちの収穫で恥を見るとあるとおりです。

愛する者をさばかざるを得ない神の悲しみがどれほどのものか、あなたに届いているでしょうか。神は、ひとりも滅びることを願わず、すべての人が救われることを望んでおられます。放蕩息子の父親が、息子の帰りを待っていたように、父なる神は、あなたが神に立ち返ることを待っておられるのです。それなのに、神を裏切り、神の預言者を(さげす)み、神のみことばに背くなら、その身に恥を招くことになります。

アメリカの中西部に、キリスト教が嫌いなひとりの農夫がいました。日曜日になると、周りの人たちは教会に行きましたが、それを見ながら彼は、こぶしを振り上げ、自分だけは畑を耕し続けました。

10月になって、彼は人生で最高の収穫を得ました。彼の収穫量は、州で一番でした。収穫が終わると、彼は、クリスチャンの信仰をあざ笑うかのように、地元の地方紙に意見広告を掲載しました。その広告の最後は、次のように締めくくられていました。

「私のような者がこんなに栄えるとするなら、神に対する信仰も大した意味がないということになる。」

その地域のクリスチャンたちは、静かに、礼儀正しく応答しました。翌日の地方紙に小さな広告が載りました。そこには、こう書いてありました。

「神が、すべての清算を10月になさるとは限らない。」

「思い違いをしてはいけません。神は侮られるような方ではありません。人は種を蒔けば、刈り取りもすることになります。自分の肉に蒔く者は、肉から滅びを刈り取り、御霊に蒔く者は、御霊から永遠のいのちを刈り取るのです。失望せずに善を行いましょう。あきらめずに続ければ、時が来て刈り取りをすることになります。」(ガラテヤ6:6-9)

あなたはどのような種を蒔いていらっしゃいますか。人は種を蒔けば、その刈り取りもすることになります。ですから、御霊に蒔いて、御霊から永遠のいのちを刈り取りましょう。失望せずに善を行いましょう。あきらめずに続け、やがて時が来る時に、豊かな収穫を刈り取らせていただきたいと思うのです。

Ⅲ.絶望の中にある神の希望(14-17)

第三のことは、そうしたさばきの中にも神のあわれみがあること、絶望の中にも希望があるということです。14~17節をご覧ください。「14 主はこう言われる。「わたしの民イスラエルに受け継がせたゆずりの地に侵入する、悪い隣国の民について。見よ。わたしはその土地から彼らを引き抜き、彼らの間からユダの家も引き抜く。15 しかし、彼らを引き抜いた後、わたしは再び彼らをあわれみ、彼らをそれぞれ自分のゆずりの地、あるいは自分の土地に帰らせる。16 彼らがかつて、バアルによって誓うことをわたしの民に教えたように、もし彼らがわたしの民の道をよく学び、わたしの名によって『主は生きておられる』と誓うなら、彼らはわたしの民のうちに建てられる。17 しかし、彼らが聞かなければ、わたしはその国を根こそぎ滅ぼす─主のことば。」」

ここで主は引き続き語られます。それは「わたしはその土地から彼らを引き抜き、彼らの間からユダの家も引き抜く」ということです。彼らとは「悪い隣国の民」のことです。イスラエルの民がバビロンによって捕囚に連れて行かれて以降、カナンの地に侵入する隣国の民がいました。その一つがアモン人であり、またエドム人であり、モアブ人であり、ペリシテ人などです。こうした隣国の民は、バビロン捕囚以降カナンの地に侵入してきました。彼らは「悪い隣国の民」です。なぜなら、それは「わたしの民イスラエルに受け継がせたゆずりの地」、相続地だからです。その地に侵入してくることは悪いことなのです。そこで主は、そうした隣国の悪い民について、彼らをその土地から引き抜くと言われました。彼らを植えてくださった主は、引き抜く権威も持っておられます。神はバアルを崇拝したユダの民だけでなく、彼らにバアル崇拝を教えた周辺諸国も引き抜かれるのです。神の関心はユダの民だけでなく、周辺諸国にまで及んでいました。

しかし、神にとって「引き抜く」ことだけが最終目標ではありませんでした。15節を見ると、「しかし、彼らを引き抜いた後、わたしは再び彼らをあわれみ、彼らをそれぞれ自分のゆずりの地、あるいは自分の土地に帰らせる。」とあります。主はユダの民を引き抜いた後に、再び彼らをあわれみ、彼らをそれぞれ自分のゆずりの地、自分の土地に帰らせると約束してくださったのです。これは、バビロン捕囚から帰還できるということです。その期間は70年です。25章11~12節、29章10~11節にそのように預言してあります。25章11~12節にはこうあります。「11 この地はすべて廃墟となり荒れ果てて、これらの国々はバビロンの王に七十年仕える。12 七十年の終わりに、わたしはバビロンの王とその民を─主のことば─またカルデア人の地を、彼らの咎のゆえに罰し、これを永遠に荒れ果てた地とする。」

ここに、「これらの国々はバビロンの王に七十年仕える」とあります。七十年の終わりに、主はバビロンの王とその民を罰し、これを永遠に荒れ果てた地とするのです。それは七十年間限定の捕囚だったのです。

また、29章10~11節にはこうあります。「10 まことに、主はこう言われる。『バビロンに七十年が満ちるころ、わたしはあなたがたを顧み、あなたがたにいつくしみの約束を果たして、あなたがたをこの場所に帰らせる。11 わたし自身、あなたがたのために立てている計画をよく知っている─主のことば─。それはわざわいではなく平安を与える計画であり、あなたがたに将来と希望を与えるためのものだ。」

ここにも「七十年」という期間が記されてあります。バビロンに七十年が満ちるころ、主はユダを顧みて、彼らにいつくしみの約束を果たして、この場所エルサレムに帰らせてくださるのです。これが神の計画です。それはわざわいではなく、平安を与える計画であり、彼らに将来と希望を与えるためのものでした。すばらしいですね。

ちなみに、キリスト教国際NGO「ワールド・ビジョン」の英国支部が行ったデジタル調査(英語)によると、世界で最も人気のある聖書の一節(最も検索された節、210万回)はヨハネの福音書3章16節ですが、それに次いで2位だったのがこの聖句でした。エレミヤ書29章11節(8万千回)と、ピリピ人への手紙4章13節「私を強くしてくださる方によって、私はどんなことでもできるのです。」でした。

これが聖書の中で二番目に人気のある個所です。それはここに将来と希望が約束されているからです。その将来と希望とは何でしょうか。それは彼ら引き抜かれるが、主は再び彼らをあわれみ、彼らを自分の土地に帰らせるということです。バビロン捕囚から七十年後に、また祖国に戻れるという希望を与えてくださいました。主は決して民を見捨てることをなさらない、あわれみ深いお方です。時折示す厳しさは、愛情の表れでもあるのです。

これはイスラエルの民、ユダの民に特別に与えられたものですが、16節を見ると、その枠を超えてもし周辺諸国でも、異教徒であっても、イスラエルの神、主を信じて、主に立ち返るなら、神の民の一人として、約束の地に帰還することができると約束されています。つまり、私たち日本人にも約束されていることなのです。「彼らがかつて、バアルによって誓うことをわたしの民に教えたように、もし彼らがわたしの民の道をよく学び、わたしの名によって『主は生きておられる』と誓うなら、彼らはわたしの民のうちに建てられる。」

すばらしいですね。エペソ人への手紙2章によれば、私たちはかつて、肉によれば異邦人で、そのころは、キリストから遠く離れ、イスラエルの民から除外され、約束の契約については他国人で、この世にあって望みもなく、神もない者たちでした。しかし、かつて遠く離れていた私たちも、今ではキリスト・イエスにあって、キリストの血によって近い者とされた、とあります。そうです、私たちも、イエス・キリストを信じる信仰によって、同じ神の民とされたのです。「こういうわけで、あなたがたは、もはや他国人でも寄留者でもなく、聖徒たちと同じ国の民であり、神の家族なのです。」(エペソ2:19)

アーメン。何とすばらしい約束でしょうか。何とすばらしい希望、何とすばらしい救いのご計画でしょうか。これはすべて神の約束に基づいたものです。その約束とは、創世記12章1~3節で、神がアブラハムに約束されたものです。「あなたは、あなたの土地、あなたの親族、あなたの父の家を離れて、わたしが示す地へ行きなさい。2 そうすれば、わたしはあなたを大いなる国民とし、あなたを祝福し、あなたの名を大いなるものとする。あなたは祝福となりなさい。3 わたしは、あなたを祝福する者を祝福し、あなたを呪う者をのろう。地のすべての部族は、あなたによって祝福される。」

ここには「あなたを祝福する者を祝福し、あなたを呪う者をのろう。地のすべての部族は、あなたによって祝福される。」とあります。「あなた」とはアブラハムのことですが、ここではアブラハムの子孫から出るメシヤ、ダビデの子イエス・キリストのことです。神のメシヤ、イエス・キリストを自らの救い主として信じ受け入れる者は祝福される、すなわち、この神の国の民の一員に加えていただけるということです。その祝福に与れるということです。そこにはユダヤ人も異邦人もありません。救い主イエス・キリストを信じる同じ国民であり、神の家族なのです。神の聖なる国民として、あの神の宝の民の一員としていただけるのです。

ですから、最後は二つに一つの選択となります。このアブラハム契約に従ってイスラエルを祝福するか、それとものろうか。それによって私たちの運命が決まるのです。それによってこの国の運命が決まります。それは歴史が証明しています。イスラエルを祝福するかどうかです。そして、イスラエルの神、主イエス・キリストをどのように扱うかによって、その人の運命が決まるのです。ヨハネの福音書3章36節にあるとおりです。

「御子を信じる者は永遠のいのちを持っているが、御子に聞き従わない者はいのちを見ることがなく、神の怒りがその上にとどまる。」

ですから私たちは、主の約束に従って、創造主の御前に悔い改めて「主は生きておられる」と告白しようではありませんか。主の名によって「主は生きておられる」と誓うなら、あなたも神の民のうちに建てられるのです。そのように約束してくださる主に感謝し、主のみこころに歩みたいと思います。

主を知ることを切に追い求めよう ホセア書6章1~3節主を知ることを切に追い求めよう 

聖書箇所:ホセア書6章1~3節
タイトル:「主を知ることを切に追い求めよう」

新年おめでとうございます。皆さんは、どのような思いをもって新年を迎えられたでしょうか。今年は1月1日が日曜日となり、こうして1年の最初の日に共に主を礼拝できることを感謝します。

毎年、新年に示されたみことばから新年の教会の目標を掲げておりますが、今年は、昨年礼拝で示されたみことばから特に私の心に響いてきた聖句を目標に掲げました。それは、エレミヤ9章3節にこうあります。「彼らは弓を張り、舌をつがえて偽りを放つ。地にはびこるが、それは真実のゆえではない。悪から悪へ彼らは進み、わたしを知らないからだ。」
 イスラエルの民が、悪から悪へと進み、主に対して真実でなかったのは、主を知らなかったからです。その結果、悪から悪へと進み、人間関係がギクシャクし、社会全体が混乱するようになりました。これは私たちにも言えることです。すべはこの「主を知る」ということで決まるのです。

それできょうはその「主を知る」ことについて、ホセア書6章1~3節のみことばからお話したいと思います。特に6章3節が、今年の教会の目標聖句となります。ご一緒に読んでみましょう。「私たちは知ろう。主を知ることを切に追い求めよう。主は暁のように確かに現れ、大雨のように私たちのところに来られる。地を潤す、後の雨のように。」
 これはB.C.790年頃に、神が預言者ホセアを通して北王国イスラエルの民に対して語ったことばです。当時の王様はヤロブアム2世という王様でしたが、国全体に偶像礼拝が蔓延(はびこ)っていました。その最大の原因は、彼らが主を知らなかったからです。そんなイスラエルの民に対してホセアは、「主を知ることを切に追い求めよう」と語るのです。
 これはいつの時代でも、どの民族にも言えることです。私たちの人生における問題は、このことに関わっています。ですから、私たちは今年このみことばを心に留め、主を知ることを切に追い求める年でありたいと思うのです。

Ⅰ.さあ、主に立ち返ろう(1)

それでは、本文を見ていきましょう。1節をご覧ください。ここには、「さあ、主に立ち返ろう。主は私たちを引き抜いたが、また、癒やし、私たちを打ったが、包んでくださるからだ。」とあります。

ホセア書は神に背き神から離れて行ったイスラエルの民との関係を、ホセアとその妻ゴメルとの関係を通して語ります。すなわち、ホセアとゴメルという夫婦関係を通して、神に背いたイスラエルが神に立ち返るようにと勧告するのです。夫ホセアの愛は人知をはるかに超えた愛でした。夫を裏切り、不貞を働いた妻ゴメルを、その結果、奴隷として身を売る羽目になっていた妻ゴメルを見離さず、見捨てず、お金を払って買い取のです。そして、こう呼びかけてくださいます。「さあ、主に立ち返ろう。主は私たちを引き抜いたが、また、癒やし、私たちを打ったが、包んでくださるからだ。」

このことばは、その前にある5章14~15節のことばを受けてのことばです。そこには、「14 わたしが、エフライムには獅子のようになり、ユダの家には若い獅子のようになるからだ。わたし、このわたしが引き裂いて歩き、さらって行くが、助け出す者はだれもいない。15 わたしは自分のところに戻っていよう。彼らが罰を受け、わたしの顔を慕い求めるまで。彼らは苦しみながら、わたしを捜し求める。」とあります。

ここで主は姦淫の妻ゴメルのように神から離れて偶像に走って行ったイスラエルの民に対して、彼らを引き裂くと言われました。これは、具体的にはアッシリアという国によって滅ぼすということです。だれも彼らを助けることはできません。そうすることで、もしかすると彼らは自分の罪を悔い改めて神に立ち返り、神を慕い求めるようになるかもしれません。それまで当たり前だった神の存在が感じられなくなることで、神を慕い求め、神を捜し求めるようになるかもしれない。それまでは自分のところに戻っていよう、引っ込んでいようと、主は言われたのです。

それを受けてホセアは、北王国イスラエルの民に「さあ、主に立ち返ろう」と呼び掛けるのです。それはいつですか?今でしょ。今が主に立ち返る時だと。主が御顔を隠しておられるのは、私たちが主を慕い求めるようになるまでなのだから、今、立ち返ろうではないかと呼び掛けているのです。これはすばらしい招きです。なぜなら、ここに「主は私たちを引き裂いたが、また、癒やし、私たちを打ったが、包んでくださるからだ。」とあるからです。もし主に立ち返るなら主が癒し、包んでくださいます。主は引き裂かれるだけでなく癒やしてくださる方です。打つことはあっても包んでくださいます。事実、主は彼らを引き裂かれました。主が預言者を通して何度も何度も主に立ち返るように語ったのにそうしなかったので、アッシリアという国を用いて彼らを引き裂かれるのです。でもそれは彼らを滅ぼすことが目的ではありません。そうではなく、建て上げることが目的なのです。癒すために引き裂くのです。包むために打たれるのです。誤解しないでください。神様があなたを引き裂かれるようなことがあるとしたら、それはあなたを滅ぼすためではなく癒すためです。ちょうど外科医がメスを入れてあなたを(むしば)んでいる悪いものを取り除き、その痛んだ傷を包帯で巻くように、主はあなたを蝕んでいる罪を取り除くためにメスを入れ悪いところを取り除いてくださいます。そして、取り除いた後はちゃんと巻いて包んでくださいます。彼らはアッシリアに引き裂かれることになりますが、その後で癒され、包んでいただくことになります。だから主に立ち返らなければならないのです。

Ⅱ.生き返らせてくださる主(2)

次に2節をご覧ください。ここには、「主は二日の後に私たちを生き返らせ、三日目に立ち上がらせてくださる。私たちは御前に生きる。」とあります。どういうことでしょうか。

聖書に「三日目」とある時、それはイエス・キリスト復活との関係で書かれてある場合がありますが、ここもその一つと言えるでしょう。たとえば、Ⅰコリント15章3~4節でパウロはこう言っています。「私があなたがたに最も大切なこととして伝えたのは、私も受けたことであって、次のことです。キリストは、聖書に書いてあるとおりに、私たちの罪のために死なれたこと、また、葬られたこと、また、聖書に書いてあるとおりに、三日目によみがえられたこと、」
 ここに「聖書に書いてあるとおりに」とありますが、これは旧約聖書のことを指しています。旧約聖書の中のどこにイエス・キリストが私たちの罪のために十字架で死なれ、葬られ、三日目によみがえるということが預言されているのでしょうか。たとえば、ヨナ書はそうですね。ヨナは主の命令に背いてニネベではなくタルシシュに逃れようとしましたが、大嵐に遭い船が転覆しそうになりました。それで、いったいだれのせいでこんなことになったのかとくじを引いたところ、それはヨナのせいであることが判明しました。それで水夫たちは彼を海に投げ込むと、神様は大きな魚を備えておられたので、その魚に呑み込まれてしまいました。三日三晩です。彼は魚のお腹の中に三日三晩いました。そこで彼は悔い改めるわけですが、この三日三晩というのはイエス様が十字架で死なれ、三日目によみがえることの予表でした。

ここでもそうです。主は二日の後に私たちを生き返らせ、三日目に立ち上がらせてくださいます。それは、主がひとり子イエス・キリストを死からよみがえらせたように、ご自身のもとに立ち返り、ご自身の御名を信じる者を生き返らせ、立ち上がらせてくださるということです。そのように言っても間違いではないでしょう。古代教父のテルトリアヌスもそのように理解しています。

あれからどのくらいが経ったでしょうか。あれからというのはイエス様が死からよみがえられてから、復活してからです。あれから二千年が経ちました。聖書には、一日は千年のようであり、千年は一日のようだとありますが、そういう意味ではこの「二日の後」とは二千年の後とも受け止めることができると思います。イエス様が復活してから二千年が経ちました。主は二日の後に私たちを生き返らせ、三日目に立ち上がらせてくださいます。その日は限りなく近いのです。

Ⅲ.主を知ることを切に追い求めよう(3)

では、どうしたら主に立ち返ることができるのでしょうか。第三に、それは主を知ることによってです。3節をご覧ください。ご一緒に声に出して読みましょう。「私たちは知ろう。主を知ることを切に追い求めよう。主は暁のように確かに現れ、大雨のように私たちのところに来られる。地を潤す、後の雨のように。」

イスラエルの民が主に背いたのは、本当の意味で主を知らなかったからです。それはホセアの妻ゴメルにも言えることです。ゴメルが他の人を慕い求めたのはどうしてでしょうか。それは夫のホセアの愛を知らなかったからです。それがどんなに大きなものであるか、どんなに真実の愛であるのかを知りませんでした。そして、その愛をもって愛されているということがわかりませんでした。

それで神はゴメルがその愛を知るために、ホセアにこのように言われました。3章1節です。「再び行って、夫に愛されていながら姦通している女を愛しなさい。ちょうど、ほかの神々の方を向いて干しぶどうの菓子を愛しているイスラエルの子らを、主が愛しているように。」
 ホセアとゴメルの婚姻関係は完全に破綻していました。夫に愛されていながらゴメルが他の男と姦通したからです。しかし、主はホセアに「再び行って、夫に愛されていながら姦通している女を愛しなさい。」と言われました。ある人がこの箇所から「再婚」という題で説教しました。皆さんがホセアだったらどうですか。嫌ですよ。そのような妻と再婚することを誰が望むでしょうか。カール・ヒルティは、「許すことは忘れることである」と言いました。それは記憶から消すことではありません。痛みを忘れるということです。許すとは、痛みを忘れることなのです。相手から受けた痛みが残っている以上、本当の意味で許していることにはなりません。本当に許すとは忘れることなのです。でもそう簡単に忘れることなどできません。でも神様は忘れてくだいました。私たちの罪を、十字架と復活の御業を通して完全に忘れてくださったのです。イザヤ43章25節にこうあります。「わたし、このわたしは、わたし自身のためにあなたの背きの罪をぬぐい去り、もうあなたの罪を思い出さない。」すばらしいですね。主はあなたの背きの罪をぬぐい去り、あなたの罪を思い出すことはなさいません。これが私たちの主の約束です。

ホセアはこの神の愛を知っていました。ですから、彼はゴメルを受け入れることができたのです。いや、彼はこのような痛みが与えられたのは、その痛みによってそれまで以上により深く神を知り、神と交わるためであるという意味を悟ることができました。そうです、『どんなに酸っぱいレモンでも、レモネードを作ることができる』のです。皆さん、知ってますか? 『どんなに酸っぱいレモンでも、レモネードを作ることができる』ということを。これは、「This is us」という映画の中で、産婦人科の医師が語ることばです。ある夫婦が三つ子の赤ちゃんを身ごもるのですが、1人目と2人目は無事に生まれてきたものの3人目は死産します。涙する夫を慰めようと医師は彼の隣に座り、こう告げるのです。『どんなに酸っぱいレモンでも、レモネードを作ることができる』。

それでホセアは主が命じられた通りにしました。3章23節です。「それで私は、銀十五シェケルと、大麦一ホメルと大麦一レテクで彼女を買い取り、彼女に言った。「これから長く、私のところにとどまりなさい。もう姦淫をしたり、ほかの男と通じたりしてはいけない。私も、あなたにとどまろう。」
 ホセアは、自分を裏切って他の男と姦通していた妻ゴメルのためにお金を払って彼女を買い取りました。再婚したのです。当時、成人男子の値段は30シェケル(銀30枚)でした。未成年男子は20シェケル(ヨセフが売られた値段)、女や奴隷は15シェケルでした。ですから、相当の金額を支払って買い戻したわけです。「買い取った」という言葉は、完全に他人の所有権の中にあったことを表しています。この世的に言えば、他の男の所有になっていたということです。そんなゴメルを買い取ったのです。

神を信じないという罪、いわゆる原罪ですね、そういう罪も、夫を持った後に犯す姦淫の罪も、罪は代価を払わずに消されることはありません。主の十字架の血こそ、15シェケルや大麦などの代価そのものでした。「血を流すことがなければ、罪の赦しはありません。」(ヘブル9章22節)。とあるとおりです。

同じように神様も私たちに実際のわざによって、その愛を示してくださいました。それが十字架の愛です。この十字架を通して主を知ることが本当の救いです。ヨハネ17章3節にこうあるとおりです。「永遠のいのちとは、唯一のまことの神であるあなたと、あなたが遣わされたイエス・キリストを知ることです。」

つまり、神を知るというのは、神に対しての知識を持つというだけではなく、この十字架と復活の御業を通して体験的に知るということなのです。このことについては既にエレミヤ書の中でもお話しましたが、「ヤダー」というヘブル語でしたね。これは創世記4章1節にある「人は、その妻を知った。」の「知った」ということばと同じです。それはアダムがエバと対面してその存在を知ったということ以上のことで、もっと親密なレベルで、体験的に知ったということです。それが夫婦であれば性的関係を持つことを意味しています。これ以上に親密なレベルはありません。そのように知ろうと言っているのです。

そのように主を知るとどうなりますか。ここには「主は暁ように確かに現れ、大雨のように私たちのところに来られる。地を潤す、後の雨のように。」とあります。

「暁」とは、暗い夜を追い払う朝の光のことです。主を知ることを切に追い求めるなら、主は暁の光のように確かに現れてくださいます。5章15節では、主は自分のところに戻っていよう、引っ込んでいようと言われましたが、時として主がどこにおられるのかわからないことがあります。暗闇の中にいるように感じることがあります。しかし、主を知ることを切に追い求めなら、暗闇の中で主を捜し求めるなら、主は暁の光のように確かに現れてくださるのです。主はいつまでも身を隠しておられる方ではありません。いつまでもあなたから遠ざかっておられる方ではないのです。あなたが主を知ることを切に追い求めるなら、主は暁の光のように確かに現れてくださるのです。

そればかりではありません。ここには「大雨のように私たちのところに来られる。地を潤す、後の雨のように。」とあります。「大雨」とは、12~2月頃に降る雨のことで、「先の雨」とも呼ばれているものです。イスラエルには雨季と乾季という2つの季節しかありません。雨が降らない乾季は、土地がカラカラに乾いています。その乾いた土地がこの大雨によって潤されるのです。

そして3~4月に大雨が降ります。これが「後の雨」です。これは春に降る雨なので「春の雨」とも言われますが、夏の収穫のためには絶対に欠かすことができない雨です。それは穀物を実らせる祝福の雨なのです。この雨が降らなければ作物は実りません。真っ先に冬に雨が降って地が潤され、その後に春の雨、「後の雨」降って豊かな収穫がもたらされるのです。

実り豊かな人生を送るためには、この雨が必要です。あなたが主を知ることを切に追い求めるなら、先の雨、大雨によってカラカラに乾いたあなたの心が潤され、後の雨によって多くの収穫がもたらされるのです。ですから、この雨は恵みの雨なのです。主を知ることによって、このような恵みの雨があなたの心に注がれるようになるのです。感謝ですね。

日本のキリスト教の大衆伝道者に笹尾鉄三郎という牧師がおられますが、彼は「これは再臨の前に来るべき聖霊の大傾注を意味している。」と言っています。つまり、先の雨がペンテコステの時の聖霊降臨であるとすれば、後の雨とは、世の終わりにおけるリバイバルのことでもあるというのです。そのようにも言えるでしょう。それは主を知ることを切に追い求めることによってもたらされるものです。それは、主との関係のことなのです。決して何かをすることによってではありません。何らかのイベントや活動によるのではないということです。それはただ主を知ることによってもたらされる聖霊の御業なのです。

ゼカリヤ10章1節に、「主に雨を求めよ、後の雨の時に。主は稲光を造り、大雨を人々に、野の草をすべての人に下さる。」とあります。それは主を知ることを切に追い求めることによってもたらされるものです。ですから、私たちは今年、主を知ることを切に追い求めたいと思うのです。そして、主が後の雨、実りの雨、収穫の雨、聖霊が豊かに注がれることを祈り求めようではありませんか。

最後に、一つだけ注意すべきことを見て終わりたいと思います。それは4~6節にあることですが、一時的なもので終わらないようにということです。「4 「エフライムよ、わたしはあなたに何をしようか。ユダよ、わたしはあなたに何をしようか。あなたがたの真実の愛は朝もやのよう、朝早く消え去る露のようだ。5 それゆえ、わたしは預言者たちによって彼らを切り倒し、わたしの口のことばで彼らを殺す。あなたへのさばきが、光のように出て行く。6 わたしが喜びとするのは真実の愛。いけにえではない。全焼のささげ物よりむしろ、神を知ることである。」

彼らの真実の愛は朝もやのよう、朝早く消え去る露のようでした。一時的なものだというのです。「さあ、主に立ち返ろう」という招きのことばを聞いて、「主を知ることを切に追い求めよう」と言われ、「わかった!そうしよう」と思うのですが、それが一時的であって夕方になる頃には消えて無くなってしまってはダメだと言うことです。そうだ!明日は箱根駅伝だ。今年は駒沢か、青学か、それとも順天堂か、あるいは東京国際かということで心が一杯になり、すっかり主のことを忘れてしまうのです。これは私のことです。私はスポーツが大好きですから、そういうことにすぐに熱中するのですが、あまりにも熱中するあまりいつしか主がどこかに行ってしまうことがあります。皆さんもそうでしょう。それがスポーツでないにしても、皆さんの関心が心を奪い、全く主を忘れてしまうということが。朝もやのように、朝早く消え去る露のように、その思いがすぐに消え去ってしまうことがあるのではないでしょうか。あるいは、明日のこと、この先のこと、老後のこと、いろいろなことを考えて不安になり右往左往してしまうことがあるのではないでしょうか。それではダメです。朝もやのように、露のように消えてしまうことがないように、このみことばを心に刻まなければなりません。6節です。ご一緒に読みましょう。「わたしが喜びとするのは真実の愛。いけにえではない。全焼のささげ物よりむしろ、神を知ることである。」

皆さん、主が喜びとするのは真実の愛です。いけにえではありません。全焼のささげものでもありません。全焼のささげものよりも、神を知ることなのです。どうか朝もやのようにならないようにしましょう。朝早く消え去る露のようにならないようにしましょう。主を知ることは今日だけでなく、この1年を通して、いや、私たちの信仰生活のすべてにおいて追い求めていかなければならないことなのです。そのような中でも、特に今年、この新しい年、このことを切に求めたいと思うのです。神を知ることです。その時主が暁の光のように現れ、大雨のように私たちのところに来られて、地を潤し、豊かな収穫をもたらしてくださいます。この一年がそのような年となりますように。主を知ることを切に追い求めましょう。

ヨセフのクリスマス マタイ1章18~25節

聖書箇所:マタイ1章18~25節
タイトル:「ヨセフのクリスマス」

メリークリスマス!イエス・キリストの御降誕に感謝し、主の救いの御業をほめたたえます。前回は、マタイの福音書1章前半のイエス・キリストの系図から、キリスト誕生にまつわる神の子イエス・キリストの奥義を学びました。きょうは、マタイの福音書1章後半から、ヨセフに啓示されたキリスト誕生の知らせから、共にクリスマスの恵みを分かち合いと思います。

キリスト誕生の出来事はマタイの福音書とルカの福音書に記されてありますが、その誕生のストーリーにおいて、主要な役割を担う人物でありながら一言も発しない人がいます。誰でしょうか?そうです、イエスの父ヨセフです。父と言っても、実際には、イエスの父は神様ですから、養父ということになります。育ての父ですね。だからなのかどうかはわかりませんが、ヨセフは、マリアにくらべてあまり目立たないというか、注目されず、なんとなく影が薄いような気がします。現代の男性や父親のようですね。マリアのことは聖書に数多く出てきますが、ヨセフのことは少ししか出てきません。いや、彼のことばは一言も出てこないのです。彼は、一言も発していません。
 子どもたちが演じる降誕劇などでは、よく「マリア、大丈夫かい」と気遣ったり、「一晩泊めてください。子どもが生まれそうなのです」と宿屋の主人と交渉するいくつかのセリフを発したりしますが、実際には、聖書に登場するヨセフは沈黙したままです。いったいなぜ彼は沈黙していたのでしょうか。今朝は、イエスの誕生の時に果たしたヨセフの役割と彼の信仰について学びたいと思います。

 Ⅰ.正しい人であり、憐れみ深い人であるヨセフ(18-19)

まず18節と19節をご覧ください。「18 イエス・キリストの誕生は次のようであった。母マリアはヨセフと婚約していたが、二人がまだ一緒にならないうちに、聖霊によって身ごもっていることが分かった。19 夫のヨセフは正しい人で、マリアをさらし者にしたくなかったので、ひそかに離縁しようと思った。」

ここには、キリストがどのようにして生まれてきたのかが、淡々と語られていますが、原文のギリシャ語には、8節の冒頭にデ(δε)という接続詞があることがわかります。これは「しかし」とか、「ところで」、「さて」と訳される語です。すなわち、1節から17節で語られて来たキリストの系図にあった人たちの誕生に対して、キリストの誕生はどのようなものであったのかが示されているのです。1節から17節までの系図に出てきた人たちは、先に見てきたように、誰々と誰々の間に誰々が生まれたという、ごく自然な誕生とその系図が記されてあったのに対して、イエス・キリストの誕生はそうではないということです。それとはちょっと違うということを述べているのです。つまり、イエス・キリストの誕生はそうした通常の方法とは違う、超自然的な方法であったということです。いったいそれはどのような方法だったのでしょうか。

ここには、「母マリアはヨセフと婚約していたが、二人がまだ一緒にならないうちに、聖霊によって身ごもっていることが分かった」とあります。いきなりわけの分からないことが出てきます。それは、二人がまだ一緒にならないうちに、聖霊によって身ごもったということです。二人がまだ一緒にならなくても、身ごもることはあります。いわゆる「できちゃった婚」です。できちゃったから結婚するというのはよくありますが、ここではそのようにできちゃったから結婚するというのではなく、そのできちゃったのが聖霊によると言われているのです。うそでしょ!と思うかもしれません。

当時の結婚の習慣からすると、二人はすでに婚姻関係に入っていましたが、しかし、一緒に生活を始めるには至っていませんでした。ユダヤにおいては結婚までに三つの段階がありました。第一の段階は、「許婚」(いいなづけ)の段階です。多くは幼少期に本人たちの意志と関係なく双方の親の合意で結婚が決められていました。

第二の段階は、当人同士がその結婚を了承して婚約するという段階です。これによって正式に結婚が成立しますが、私たちが考える婚姻関係とはちょっとニュアンスが違い、法的に婚約することで夫婦とみなされても、まだ一緒に住むことは許されていませんでした。つまり、夫婦として性的な関係を持つことはできなかったのです。通常、この期間は1年~1年半くらいと定められていました。その間は、お互いに離れたところで暮らし、夫は父親の下にいて、花嫁と過ごすための準備をしました。

第三の段階は、花婿が花嫁と過ごすための準備を整えて花嫁を迎えに行き、正式に結婚式を挙げる段階です。この段階になってはじめて二人は一緒に暮らすことができました。

ですから、ここに「マリアはヨセフと婚約していたが」とありますが、これは、この第二段階にあったことを示しているのです。法的には婚姻関係が成立していましたが、両者はまだ一緒に住むことができなかった状態、住んでいなかった状態であったということです。ですから、夫婦としての性的な営みもまだ持っていませんでした。

そのような時、何があったのでしょうか。マリアが身ごもってしまいました。マリアが身ごもったと聞いてピンとくるのは、彼女が不貞を働いたのではないかということです。あるいは暴力的な仕方で妊娠させられたのかもしれません。でもマタイはそうではないと告げています。ここには「聖霊によって身ごもった」とあります。何と聖霊によって身ごもったというのです。にわかには信じられない話です。恐らく、この時彼女は14~16歳くらいだったのではないかと思われますが、たとえば、皆さんのティーンエージャーの娘さんが「妊娠しちゃった」と言って来たらどうでしょう。「どうして?何があったの?」と問い詰めるのではないかと思いますが、その時「聖霊によって・・」と答えたとしたらどうでしょう。「バカなことを言うな」と頭ごなしに否定するのではないでしょうか。それはヨセフにとっても同じことでした。とても信じられないことだったのです。勿論、マリアにとってもあり得ないことでした。そんなことをいいなづけのヨセフに伝えたらどうなるかを考えたら、とてもじゃないですが、言えなかったでしょう。ですから、彼女は相当悩んだと思います。そんなことを言ったら、本人だけでなく周りの人たちにも大きな迷惑をかけてしまうことになります。でも、彼女はこのことをヨセフに伝えのです。

それを聞いたヨセフはどうしたでしょうか。19節には、「夫のヨセフは正しい人で、マリアをさらけ者にしたくなかったので、ひそかに離縁しようと思った」とあります。

通常なら怒りと失望、落胆、いや、嫌悪感さえ抱き、見せ物にして去らせるでしょう。決して許すことなどできません。事実、旧約の規定によると、もし不貞を働いたなら妻はさらし者にされ、石打ちの刑で殺されなければなりませんでした。町の広場に膝の高さまで浸かる牛糞が入った小さな箱が用意され、その中に立たされたのです。そして、町中の人から石を投げつけられました。しかし、ヨセフは彼女をさらし者にしたくなかったので、ひそかに離縁しようと思いました。内密に結婚関係を解消しようとしたわけです。マリアの命と人格と名誉を守る仕方で、自分から身を引く道を選び取ろうとしたのです。なぜでしょうか。ここには「夫のヨセフは正しい人で、マリアをさらし者にしたくなかったので」とあります。

この「正しい人」ということばは原語のギリシャ語ではディカイオス(δικαιος)という言葉ですが、これは律法を忠実に守る人という意味です。彼は神の律法を曲げるような人ではありませんでした。自分の場合を特別であるとか、例外であると考えて、神のことばを割り引いて自分に適用する人ではなかったのです。律法にしっかりと照らし合わせ、律法に書いてある通りに生きよう思っていました。でも彼女をさらし者にはしたくなかった。

当然のことながら、彼は相当悩んだことでしょう。もしかすると、性格的にも私のように口数の少ない人だったかもしれない。寡黙なタイプですね。だからこそ、そこには人知れぬ深い悩みの日々があったのではないかと思うのです。20節に「彼がこのことを思い巡らしていると」とあるように、どうしたら良いものかと思い悩んでいたのです。マリアに対する愛情が深く、その愛が真実であればあるほど、裏切られたような思いにも駆られることもあったでしょう。マリアに対するさまざまな疑問も湧き上がったに違いありません。真相を問いただしたいという衝動にも駆られたでしょう。何よりも、自分が思い描いていた幸せな結婚生活をあきらめて彼女との関わりを断ち切らなければならないという、そんな絶望的な思いにさえなったことでしょう。それは彼が正しい人で、マリアをさらし者にはしたくなかったからです。

ここがヨセフのすばらしいところです。もし彼が律法ではこうだからと、その適用ばかりに窮々としていたら、あのパリサイ人のように何の悩みもせずに彼女を見せしめにしたでしょう。またもし彼が単なる人情家で神のことばを心から尊ぶ人間でなかったら、やはり何の悩みもせずにマリアを不問に付したことでしょう。そして善人ぶって、自分は何と善い人間なんだろうと酔いしれていたかもしれません。しかし彼は同時に憐れみ深い人でした。彼は律法の正しさの前に自分の配偶者となるべき人の罪を考え、しかもそれを他人事とせず自分の事として受け止め、その呵責に悩みながら、彼女をさらしものにはしたくはなかったのです。

なんと美しい心を持った人でしょうか。結婚するならこういう人と結婚したいですね。イエス様は「あなたは、兄弟の目にあるちりは見えるのに、自分の目にある梁には、なぜ気がつかないのですか。」(マタイ7:3)と言われましたが、自分がいかに疑い深く、他人のことに関してはすぐに目くじらを立てるような者であるにも関わらず、自分の中には大きな梁があることにはなかなか気付かない者であるということを認める者であれば、このヨセフの態度がいかにすごいかがわかります。そういう意味で彼は突出した人物でした。これこそ、救い主の父親となるべく神が選ばれた人物であり、彼の生来の性格によると言うよりは、聖霊の奇しい御業が彼のうちに働いていた何よりの証拠だと思います。

英語礼拝部に「ヨセフ」という名前の人がいますが、「いい名前だなぁ」と思ったらこの「ヨセフ」から取った名前じゃなく、たまたまお父さんとお母さんの名前の頭文字を取って付けたらヨセフになったということでした。だから「ヨセフ」のスペルが「Joseph」ではなく「Josef」なんですね。今、一時帰国でフィリピンに戻っていますが、今頃フィリピンでくしゃみをしているかもしれません。

正しい人であるというだけでなく憐れみ深い人。神のことばに忠実に生きる者でありながら、神の憐れみを兼ね備えていた人、それがヨセフだったのです。私たちもそういう人になりたいですね。

Ⅱ.思い巡らしていたヨセフ(20-23)

次に、20~23節をご覧ください。「20 彼がこのことを思い巡らしていたところ、見よ、主の使いが夢に現れて言った。「ダビデの子ヨセフよ、恐れずにマリアをあなたの妻として迎えなさい。その胎に宿っている子は聖霊によるのです。21 マリアは男の子を産みます。その名をイエスとつけなさい。この方がご自分の民をその罪からお救いになるのです。」22 このすべての出来事は、主が預言者を通して語られたことが成就するためであった。23 「見よ、処女が身ごもっている。そして男の子を産む。その名はインマヌエルと呼ばれる。」それは、訳すと「神が私たちとともにおられる」という意味である。」

彼がこのことを思い巡らしていたとき、主の使いが夢に現れて言いました。「ダビデの子ヨセフよ、恐れずにマリアをあなたの妻として迎えなさい。その胎に宿っている子は聖霊によるのです。マリアは男の子を産みます。その名をイエスとつけなさい。この方がご自分の民をその罪からお救いになるのです。」(20-21)

順序が逆です。ヨセフが思い巡らしていたとき、主の使いが夢に現れて言いました。でもマリアの時のように、せめて先に御使いが現れて告げてくれていたら、ヨセフはそんなに悩む必要はなかったのではないかと思います。あるいはその思い巡らす方向も、ある一定の方向に集中することができたのではないかと思います。どうして順序が逆だったのでしょうか。それは、ヨセフには思い巡らす必要があったからです。その沈黙の中で彼がいったい何を考え、何を問い、何を嘆き、何を怒り、何を願ったのかは、私たちにはわかりませんが、しかしそういう沈黙の中でひとり思い巡らす時があったからこそ、その後神様から「恐れずにマリアをあなたの妻として迎えなさい」と言われ、その理由が示されたとき、彼はすぐに主に従うことができたのです。

ドイツのルター派の牧師で、20世紀を代表するキリスト教神学者の一人にボンヘッファーという人がいましたが、彼は「共に生きる生活」(新教出版社)という本の中で、次のように言っています。
 「ひとりでいることのできない者は、交わりにはいることを用心しなさい。」
 含蓄のあることばだと思います。ボンヘッファーは、信仰者がしばしばひとりでいることができず、交わりに依存し、あるいは交わりに過剰な期待を抱き、そこに責任を転嫁して、ついにはその交わりにつまずいて、相手を非難して終わっていく姿を見たのです。いつでも誰かに自分の悩みを吐き出さないと気がすまない。ひとりで黙って主の前にいることができないのです。いつも誰かを巻き込み、誰かに共感され、誰かに聞いてもらい、誰かに自分と同じ気持ちになってもらえないと我慢できない。そういう私たちの弱さを、鋭く指摘したのです。

もちろん私たちは交わりを必要としています。誰かの励まし、慰め、共感を必要としているのです。けれども究極のところで、人は神の代わりには成り得ることはできません。ですから、神の前に沈黙することなしに、人からの救いを得ようとしても決して満たされることはないのです。ボンヘッファーはそれを言いたかったのです。彼はこうも言っています。

「神があなたを呼ばれた時、あなたはただひとり神の前に立った。ひとりであなたはその召しに従わなければならなかった。ひとりであなたは自分の十字架を負い、戦い、祈らねばならなかった。もしあなたがひとりでいることを望まないなら、それはあなたに対するキリストの召しを否定することであり、そうすればあなたは、召された者たちの交わりとは何の関わりをも持つことはできない。」

大変厳しいことばです。しかし、よくよく私たちが聞かなければならないことばではないかと思います。ひとり神の前に立って思い巡らすとき、そこに神のみこころが明らかにされるのです。

ヨセフも、そうした葛藤の中でひとり思い巡らし、神の前に立ったとき、神のみこころが明らかにされました。20~21節です。「ダビデの子ヨセフよ、恐れずにマリアをあなたの妻として迎えなさい。その胎に宿っている子は聖霊によるのです。マリアは男の子を産みます。その名をイエスとつけなさい。この方がご自分の民をその罪からお救いになるのです。」

神が明らかにされたことはどんなことでしたか。それは、マリアの胎に宿っている子は聖霊によるものであるということでした。そればかりか、それは男の子で、その名前を「イエス」とつけるようにと、具体的に告げてくださったのです。「イエス」という名前の意味は、「主は救い」です。この方はご自分の民を罪から救ってくださるお方なのです。なぜメシヤ、救い主、イエス・キリストは、このように処女から生まれなければならなかったのでしょうか。それはご自分の民をその罪から救ってくださるためです。その方は罪なき方でなければなりませんでした。その罪なき方として、人間の姿をとらなければならなかったからです。

処女が身ごもるなんて前代未聞です。非科学的です。「だからキリスト教は信じられないんだ!」という方もおられるでしょう。多くの人は、この処女降誕ということだけでキリスト教は信じられない、信じるに値しないと結論付けますが、それは愚かなことです。なぜなら、神はこの天地万物を創造された方であって、私たち人間にいのちを与えてくださった方だからです。人にいのちを与えることができる方であるならば、人間を処女から生まれさせることなど何でもないことなのです。むしろ、そうでなければおかしい。普通に生まれたのであれば罪を持ったまま生まれて来たということになりますから。もしそうであれば、私たちを罪から救う資格はありません。私たちを罪から救うことができる方は、それは全く罪のない方であり、人として生まれた神の子でしかないのです。神はそれを処女降誕という出来事を通して成し遂げてくださったのです。これはすごいことです。これが神の永遠の救いのご計画だったのです。

それは22節に「そのすべての出来事は、主が預言者を通して語られたことが成就するためであった」とあることからもわかります。それは、主が預言者を通して予め語っておられたことでした。それが今成就しようとしていたのです。その預言とは、23節にあります。「見よ、処女が身ごもっている。そして男の子を産む。その名はインマヌエルと呼ばれる。」  

これはイザヤ書7章14節からの引用です。これは、キリストが生まれる700年以上も前に現れたイザヤという預言者によって語られた内容ですが、不思議ですね。イザヤは、キリストが生まれる700年も前に、来るべきメシヤは処女から生まれるということを預言していました。それがいま、実現しようとしていたのです。これは「インマヌエル預言」と呼ばれているものですが、訳すと「神が私たちとともにおられる」という意味です。

この「インマヌエル」ということばは、マタイの福音書28章20節にも出てきます。これは主の大宣教命令と呼ばれている箇所ですが、主はその中でこう言われました。「見よ。わたしは世の終わりまで、いつもあなたがたとともにいます。」

ここには「インマヌエル」ということばはありませんが、同じ意味です。「神があなたとともにいます」。これはインマヌエルの宣言なのです。このようにマタイの福音書はインマヌエルで始まり、インマヌエルで終わるので、「インマヌエルの書」と呼ばれています。実は初めと終わりだけでなく、真ん中にもあります。マタイの福音書18章20節の御言葉です。

「二人か三人がわたしの名において集まっているところには、わたしもその中にいるのです。」

二人か三人が主イエスの名によって集まるところに、主もまたそこにいるという約束です。まさに、私たちの主はインマヌエルの主なのです。あなたとともにおられる神なのです。

ヨセフが、沈黙の中でひとりこのことを思い巡らしていたとき、神はそのことを明らかにしてくださいました。主はこのようなかすかな細い声の中に、ご自身を現わしてくださったのです。婚約していた妻マリアが身ごもるという、前代未聞というか、ヨセフにとっては考えられないこと、最悪な出来事が起こりましたが、いざ蓋を開けてみたら、何と自分は救い主の育ての親になることが示され、明らかにされたのです。約束のメシヤの義理の父親になるのです。それは選ばれた人間であるということを表していました。そういう驚くべき事実が明らかにされたのです。それは彼が主の前にただひたすら黙って、主を待ち望んでいたからです。

詩篇62篇1節に、「私のたましいは黙ってただ神を待ち望む。私の救いは神から来る。」という御言葉がありますが、私はこの御言葉が好きです。「黙って」と言っても、何もしないで、ただカウチに座って、神が何かしてくれるまで、何もしないでいるということではありません。「黙って」というのは、主の導きをしっかりと受け取るために、一度立ち止まりなさいという意味です。もしかしたら、あなたの前には今、大きなトラブルがあるかもしれません。緊急事態かもしれません。今すぐ何かをしないといけないかもしれません。あれも、これも色々やらねばといういろいろな対応策が、頭に浮かぶかもしれません。しかし、聖書はこう言います。あれやこれやと自分の頭で考えて、解決策のために忙しく慌ただしく動き回るのをやめて、主の前に一度、立ち止まりなさいと。今、自分の腕に抱えている、解決策だと思えるもの、一番信頼できそうなプラン、そういうものを、一度、主の前に手放しなさい。そして、主の前に歩み出なさい。主からの助けを、解決策を、しっかりと受け取りなさいということです。ヨセフは主の御前で黙って神を待ち望み、思い巡らす中で、神が明らかにしてくださったのです。

それゆえ、神の御前にひとり静まること、沈黙することを恐れてはなりません。神の御前に沈黙することなしに、人からの救いを得ようとしても決して満たされることはありません。でも神の御前に静まって、そのことを思い巡らすなら、神が解決を与えてくださいます。たとえ疑い深い者でも、神はいつも、親切な助けを与えてくださるのです。ですから、ディボーションは大切なんです。そこで神があなたに解決を与えてくださるのです。

Ⅲ.神のみこころに従ったヨセフ(24-25)

第三に、その結果です。24~25節をご覧ください。「24 ヨセフは眠りから覚めると主の使いが命じたとおりにし、自分の妻を迎え入れたが、25 子を産むまでは彼女を知ることはなかった。そして、その子の名をイエスとつけた。」

ヨセフは眠りから覚めると主の使いが命じたとおりにし、彼女を自分の妻として迎え入れました。彼はすぐに主の命令に従ったのです。そして、マリアが子どもを産むまで、彼女を知ることはありませんでした。マリアと結婚しても、あえて性的な営みを持たなかったということです。それは、イエスが自分の子どもではないことを、世間に知らしめるためでした。もしマリアと関係があれば、それはヨセフの子どもであるとだれもが思うからです。でも、これは自分の子どもではなく神の子であり、神がご自分の民をその罪から救うために与えてくださった救い主であることを、証しようとしたのです。

彼は、妻マリアを疑うことなく、詮索することもなく、関りを持つこともなく、しかし身重になったマリアに向けられた周囲からのさまざまな疑いや詮索の声の前に立ちはだかり、彼のもとに聞こえてくるであろう雑音のような声にもただひたすら沈黙しました。人の無理解や好奇心、噂、決めつけ、わかったような口ぶり、そういう一つ一つのことばの只中に身を置きながら、しかし彼が頼みとしたのはインマヌエルの約束でした。ヨセフは神の救いにすべてをかけて生きたのです。

私たちの人生においても、ひとり静かに黙しなければならないときがあります。そこでは誰も手を貸すことができない、助け船を出すことができない、安易な慰めや励ましも含めて余計な口をさしはさむことができない、沈黙という形をとった神との真剣な対話の時があります。しかし、そういう時を私たちは、主にある交わりから離れて経験するのではありません。神の民との交わり、教会の兄弟姉妹との交わり中にしっかりと身を置いてこそ、そういう神との真剣な対話が成り立つのです。そういう沈黙の中で、インマヌエルの主が語ってくださいます。沈黙はことばの喪失ではなく、神が語られることばへの傾聴なのです。「沈黙は金」ということわざがありますが、そういう意味で沈黙は金なのです。「沈黙は金、雄弁は銀」、沈黙することは多くを語る以上に価値があります。これは、沈黙が雄弁より常に正しいということを言っているのではなく、あくまでも「沈黙することは「時に」雄弁に優るという意味です。日本では昔から、沈黙を美徳として捉える傾向がありますが、そういうことではありません。自分が思っていることは言葉にしてしっかりと伝えることは大切なことです。しかし、時として主の前に静まり、神が語られることを聴くことは大切なことです。ヨセフは、そういう人だったのです。

今年のクリスマス、私たちもまたヨセフのように饒舌の中に身を置くところから、主の御前での沈黙の時へと導かれていきたいと思うのです。そこで神が語ってくださる約束の御言葉、真実な御言葉、「わたしはあなたとともにいる」という約束のことばと出会い、そのことばによって生かされていく。そのようなクリスマスを送らせていただきたいと思うのです。

マタイ1章1~17節 イエス・キリストの系図


聖書箇所:マタイ1章1~17節
タイトル:「イエス・キリストの系図」

12月に入りました。あっという間に1年が経ったというか、今年ももうすぐクリスマスを迎える季節となりました。本日はアドベントの第二週ですが、マタイの福音書1章前半にある「イエス・キリストの系図」からお話ししたいと思います。

多くの人が初めて手にする聖書は新約聖書ではないかと思いますが、その最初のページをめくって抱く第一印象は、「戸惑い」ではないでしょうか。私も、高校3年生の時、当時はわかりませんでしたがギデオン協会の方々が校門の前で配っていた赤いカバーの聖書を手にして、「いったい何が書いてあるんだろう」と興味津々、帰宅して読み始めたのが、このマタイの福音書1章でした。そこには読み慣れない名前の羅列と、無味乾燥に見える系図が書かれてあって、「何だ、これは?」と、すぐに読むので止めてしまいました。でも捨てるに捨てられず本箱に飾っていたら、その後、後に妻になる1人の宣教師と出会い教会へと導かれました。そして、そこでイエス・キリストに出会うことができたのです。でも私のようなケースは稀で、ほとんどの人はこの箇所を見て読むのを断念するのではないかと思います。

かつてある人がこんなことを言いました。「新約聖書はマタイの福音書よりもマルコの福音書の方が最初にあったほうがいい。多くの人はせっかく手にしてもマタイの福音書1章の系図につまずいて、それ以上先に読み進めなくなってしまう。」

確かに、いきなり系図から始まっては、読み手は面食らってしまうかもしれません。それよりも一切の前置きを省略して、真っ直ぐにイエス・キリストの物語に進むマルコの福音書のほうが、人々が福音に触れるにはよいのではないかという意見もうなずけます。実際に書かれた年代からすれば、マタイの福音書よりもマルコの福音書の方が先に書かれました。それなのになぜマルコの福音書ではなく、マタイの福音書が最初に置かれたのでしょうか。しかも、なぜその冒頭が系図だったのか。そこには深い神様の意図があったと思うのです。
 

Ⅰ.アブラハムの子、ダビデの子、イエス・キリストの系図(1)

まず1節の冒頭のことばから見ていきましょう。ここには、「アブラハムの子、ダビデの子、イエス・キリストの系図」とあります。

これを書いたマタイは、これから書き連ねていく福音書の主人公イエス・キリストがどのような方なのかを紹介するにあたり、アブラハムから始まる系図を示して、イエス・キリストとは誰なのかを紹介しています。なぜ系図から書いたのでしょうか。それはこの福音書の著者であるマタイが、ユダヤ人ないしユダヤ社会の価値観に生きていた人々に向けてこれを書いたからです。

このような系図が出てくると、私たち日本人にはなかなか理解しにくいものですが、当時のユダヤ人にとってはむしろピンと来たのではないかと思います。というのは、彼らが一人一人の名前を読むとき、その人物とその時代の歴史的背景を次々に思い出すことができたからです。しかも、アブラハムからイエス・キリストの出現までの、約二千年間の物語です。これほど壮大なドラマは、そんじょそこらに見出せるものではありません。ユダヤ人は旧約聖書の知識が常識のようになっていたので、こうした系図も容易に理解することができたのです。

その系図の書き出しが「アブラハムの子、ダビデの子、イエス・キリストの系図」でした。マタイはまず、イエス・キリストがアブラハムの子であり、ダビデの子であると述べています。「子」とは「子孫」であるということです。これはある意味この系図の要約であり、またこの福音書全体の主題であるとも言えます。

アブラハムは、皆さんもご存知のように、聖書の中の最も重要な人物の一人です。なぜ重要かといいますと、神がアブラハムという個人に、ユダヤ人をはじめとして全世界を祝福すると約束をされたからです。創世記12章1~3節にこうあります。「1 主はアブラムに言われた。「あなたは、あなたの土地、あなたの親族、あなたの父の家を離れて、わたしが示す地へ行きなさい。2 そうすれば、わたしはあなたを大いなる国民とし、あなたを祝福し、あなたの名を大いなるものとする。あなたは祝福となりなさい。3 わたしは、あなたを祝福する者を祝福し、あなたを呪う者をのろう。地のすべての部族は、あなたによって祝福される。」

このように神様はアブラハムとその子孫によって、すべての民族を祝福すると約束されました。その子孫こそ、イエス・キリストです。ですから、たとえ日本人であろうと、アメリカ人、フランス人、韓国人であろうと、私たちはこの子孫によって祝福される、つまり救われるのです。マタイは、イエスが「アブラハムの子」であると言うことによって、イエスこそ神がアブラハムに対して約束されたことを成就するために来られた方であるということを、読者に伝えたかったのです。

また、マタイはイエスが「ダビデの子」であるとも言っています。ダビデはユダヤ人の歴史の中で最大の王でした。ユダヤ人は今日でもその国旗にダビデの紋章を用いていることからもわかります。ダビデは、イエスの誕生とアブラハムが生きていたときのちょうど真ん中にあたる、紀元前1000年頃に生きていました。彼は、アブラハムの直接の子孫であるイスラエル民族を統治した王でした。このダビデにも、神は世界を揺さぶるような約束を与えられています。それは、Ⅱサムエル7:12~13にある「ダビデ契約」と呼ばれているものです。「12 あなたの日数が満ち、あなたが先祖とともに眠りにつくとき、わたしは、あなたの身から出る世継ぎの子をあなたの後に起こし、彼の王国を確立させる。13 彼はわたしの名のために一つの家を建て、わたしは彼の王国の王座をとこしえまでも堅く立てる。」

この「世継ぎの子」とは直接的にはソロモンのことですが、これはダビデの子孫から出るメシヤのことです。それはここに「とこしえまでも堅く立てる」と言われていることからもわかります。そのメシヤは王となり、イスラエルと世界を支配されるというのです。その王こそ、ダビデの子として生まれるイエスなのです。

それで、国を滅ぼされたユダヤ人は、このダビデの子孫の中から自分たちを救ってくれるメシヤの現われを待ち望むようになりました。そして、メシヤを待望する信仰が生まれたのです。そのメシヤとはだれか。マタイはここに「ダビデの子」と記すことによって、その子孫から生まれるイエスこそダビデ契約の成就者であり、全人類に救いをもたらすメシヤであるということを伝えたかったのです。

Ⅱ.イスラエルの歴史(2-16)

では、アブラハムからダビデ、そしてイエス・キリストへとつながる系図とはどのようなものだったのでしょうか。2~16節にその長い系図が出てきます。2~6節までは、アブラハムからダビデまでの、いわゆる族長時代、士師の時代の歴史です。そして7~11節には、ダビデからバビロン捕囚までのイスラエルの王朝の系図、そして12~16節には、バビロン捕囚からイエス誕生までの歴史が記されてあります。

まず2~6節をご覧ください。「2 アブラハムがイサクを生み、イサクがヤコブを生み、ヤコブがユダとその兄弟たちを生み、3 ユダがタマルによってペレツとゼラフを生み、ペレツがヘツロンを生み、ヘツロンがアラムを生み、4 アラムがアミナダブを生み、アミナダブがナフションを生み、ナフションがサルマを生み、5 サルマがラハブによってボアズを生み、ボアズがルツによってオベデを生み、オベデがエッサイを生み、6 エッサイがダビデ王を生んだ。ダビデがウリヤの妻によってソロモンを生み、」

司会者泣かせの箇所です。でも、ここまでは比較的ポピュラーな人たちの名前なのでそれほど大変でもありませんが、この後16節までずっと読み進めていくと、舌を噛みそうになります。

この6節までに出てくる人たちの名前の中で特徴的なことは、ここに4人の女性たちの名前が記されてあることです。タマル、ラハブ、ルツ、ウリヤの妻です。この系図全体にはもう一人の女性の名前が出てきます。それは16節に出てくるイエスの母マリアです。それと合わせると全部で5人の女性の名前が記録されてありますが、そのうちの4人は6節までに出てきます。

圧倒的な男性優位の社会の中にあって、このように女性の名前が記録されていることは非常に珍しいことでした。マタイはなぜここにこれら4人の女性の名前を記したのでしょうか。マタイがこの特定の女性を選んでわざわざ記したのには、それなりの深い意図があったのではないかと思います。

系図の中で最初に登場する女性は、タマルです。3節をご覧ください。タマルに関しては、創世記38章に詳しく書かれてありますので、後でゆっくりご覧いただきたいと思いますが、タマルはユダの長男(エル)の嫁でした。けれども、彼は死んでしまい、後継ぎのために次男(オナン)がタマルを妻としましたが、次男も死んでしまいました。そこで父のユダは「三男(シェラ)が大きくなってから、おまえに与えよう。」と言いましたが、三男まで殺されるのがいやだったので、タマルに与えるつもりはありませんでした。

そこでタマルは、ベールをかぶって売春婦の格好をして通りに座りました。ユダと関係をもって子どもを設けようと考えたのです。ユダはタマルと関係を持ち、ほうびのしるしとして、ユダから印形とひもと杖をもらいました。その後、ユダはタマルが妊娠したことを聞くと「あの女を引き出して、焼き殺せ。」と言いましたが、タマルは「私はこれらの品々の持ち主によって身ごもったのです」とその印形とひもと杖を渡すと、ユダは「あの女は私よりも正しい」と認めました。そのタマルが、イエスの先祖として加えられているのです。

次に登場する女性は、ラハブです。5節をご覧ください。ラハブについては、旧約聖書のヨシュア記2章に書かれてあります。ラハブもエリコに住む売春婦、遊女でした。タマルは売春婦に変装しましたが、ラハブは正真正銘の売春婦でした。しかもユダヤ人ではなくカナン人でした。カナン人とはカナンの先住民族のことで、占いとか、呪術、霊媒などを行っていた民族です。そればかりか、自分たちの息子や娘をいけにえとして火で焼いたり、神殿娼婦や神殿男娼などと不品行を重ねていました。つまり、神に忌み嫌われていたことを平気で行っていた民族だったのです。そんなラハブの名がここに記されてあるのです。なぜでしょうか。

それは彼女がエリコという異教社会にあって、限られた知識しかないにもかかわらず、リスクを顧みずに、敵であったイスラエルの神こそまことの生ける神であると信じ、告白したからです。彼女はヨシュアによってエリコ偵察のために遣わされた二人のスパイを家の屋上にかくまうと、エリコの警備兵には嘘をついて、二人を助けました。

ラハブは屋上に上ると、亜麻の間に隠れているイスラエル人に、なぜ自分が二人をかくまったのかを語りました。それは、「主がこの地をあなたがたに与えておられること、私たちがあなたがたに対する恐怖に襲われていること、そして、この地の住民がみな、あなたがたのために震えおののいていることを、私はよく知っています。」(ヨシュア2:9)からです。

ラハブは、エリコの住民がどういう状態にあるのかを、隠さず打ち明けました。それは、敵であるイスラエル人に漏らしてはならない情報でした。ラハブは続けてこう言いました。「あなたがたがエジプトから出て来たとき、主があなたがたのために葦の海の水を涸らされたこと、そして、あなたがたが、ヨルダンの川向こうにいたアモリ人の二人の王シホンとオグにしたこと、二人を聖絶したことを私たちは聞いたからです。私たちは、それを聞いたとき心が萎えて、あなたがたのために、だれもが気力を失ってしまいました。あなたがたの神、主は、上は天において、下は地において、神であられるからです。」(ヨシュア2:10-11)

何とラハブの口から出たのは、イスラエルの神に対する信仰告白でした。二人の斥候は驚きました。彼女は旅人たちからイスラエル人のうわさを聞き、そこに働いている神の力を知ったとき、それこそ真の神であると信じるようになっていたからです。

それからラハブは、二人の斥候に、「私はあなた方を助けました。どうか、今度は、あなた方が私と私の家族を救ってください。」と要求すると、二人は、窓に赤いひもを結び付けておくようにと言いました。やがてイスラエルがこの地に攻め入るとき、その赤いひもが目印となって、彼らを救うためです。そのようにして、ラハブとその家族が救われました。

たとえ遊女のように汚れた者であっても、たとえ神から遠く離れた異邦人であっても関係ありません。「主の御名を呼び求める者はみな救われる」(ローマ10:13)のです。遊女ラハブの名がここに記されてあるのは、そのことを伝えるためだったのです。

キリストの系図に出てくる三人目の女性はルツです。ルツのことは旧約聖書の「ルツ記」に書かれてあります。ルツも信仰深い女性でしたが、モアブ人でした。モアブ人は、異邦人の中でも最も嫌われていた民族でした。というのは、かつてモアブの娘たちがイスラエルの民を惑わして不道徳と偶像崇拝に導いたからです。その出来事は民数記25章1~3節にありますので、後でご覧いただけたらと思います。それで、モアブ人は「主の集会に加わってはならない。その十代目の子孫さえ、決して主の集会に加わることはできない。」(申命記23:3)と厳しく命じられていました。そのモアブ人ルツの名前がここに記されてあるのです。どうしてでしょうか。

それはルツが素敵なお嫁さんだったからではありません。二人の息子を亡くした姑のナオミが、「あなたがたは、それぞれ自分の家へ帰りなさい。そして、いい人を見つけて再婚しなさい。神があなたがたに恵みを賜りますように。」と言ったのに、ルツは、「お母様を捨て、別れて帰るように、仕向けないでください。お母様が行かれるところに私も行き、住まれるところに私も住みます。あなたの民は私の民、あなたの神は私の神です。」(ルツ1:16)と言って、ナオミについてベツレヘムまでやって来ました。つまり、彼女はモアブ人でありながら、ナオミの信じていたイスラエルの神、主を信じたからです。

それだけでありません。ルツの名前がここに記されてあるのは、彼女の信仰がすばらしかったというだけでなく、彼女がベツレヘムで誠実で、忠実な信仰の人ボアズと出会い、結婚したからです。ベツレヘムに戻ったナオミは、苦しい生活の中にあって、ルツが落ち穂ひろいをして生計を立てていました。その麦畑の主人がボアズでした。彼はルツをあわれみ、買い戻しの権利という権利を使って、やもめとなっていた彼女を自らの妻として迎え入れました。実は、このボアズはイエス・キリストのひな型でした。ですから、これはキリストとその花嫁である教会がどのようなものなのかを示しているのです。つまり、そこにはユダヤ人とか異邦人といった区別は全くなく、キリストにあって一つであるということを表していたのです。

村の人々はみな、ルツとボアズを祝福し、こう言いました。「どうか、主がこの娘を通してあなたに授かる子孫によって、タマルがユダに産んだペレツの家のように、あなたの家がなりますように。」(ルツ4:12)

タマルがユダに産んだペレツの家とは、先ほど見てきたとおりです。ルツとボアズの家がその家のようになりますようにというのは、その系統を引き継いでいるということです。そのペレツの子孫であるボアズからオベデが生まれます。このオベデは、ダビデのお祖父ちゃんに当たります。そこからキリストは生まれてくるのです。神様の不思議な救いの計画が、ここにも脈々と流れているということです。そのために用いられたのがルツであり、ボアズでした。神様は本当に不思議なことをなさいます。

キリストの系図に出てくる4人目の女性は「ウリヤの妻」です。これはバテ・シェバのことです。でもマタイは「バテ・シェバ」と書かないで「ウリヤの妻」と書きました。どうしてでしょうか。それは彼女が他人の妻であったからです。ダビデはその他人の妻と関係を持って妊娠させてしまいました。そればかりか夫のウリヤを戦場に送り、計略によって戦死させ、その事実をもみ消そうとしました。その出来事はⅡサムエル記11章にありますので、後でご覧ください。ダビデは姦淫をし、何と殺人までも犯してしまったのです。名君と言われ、ユダヤ人が誇りに思っていたダビデが、このような大きな罪を犯したのです。これはユダヤ人にとっては耳痛いことでした。触れられたくない事実でした。でもあえて神はマタイを通してそのユダヤ人たちの誇りを打ち砕くかのように、ウリヤの妻という形でここにその事件のことを記したのです。

こうやって見ると、自分たちが誇りとしていたユダヤ民族の血の中にも、明らかに異邦人の血が混じっていたり、決して純粋ではなく、そのうえ数々のスキャンダルや罪の汚点があったことがわかります。イエスは、そうした人間の罪の中から生まれてくださいました。それは、罪深い人間をあわれまれ、罪人を救うためです。

「私たちの大祭司は、私たちの弱さに同情できない方ではありません。罪は犯されませんでしたが、すべての点において、私たちと同じように試みにあわれたのです。ですから私たちは、あわれみを受け、また恵みをいただいて、折にかなった助を受けるために、大胆に恵みの御座に近づこうではありませんか。」(へブル4:15-16)

マタイはこれらの4人の女性の名前をあげることで、そうした事実を思い起こさせているのです。

それは、この4人の異邦人の女性だけでなく、7節以降の南ユダ王国の王たちの歴史や、12節以降に出てくる人物を見てもわかります。私たちは今ちょうど礼拝でエレミヤ書を、祈祷会で列王記第一を学んでいますが、そこに出てくる王たちの歴史は、わずかな例外を除いてほとんどが偶像礼拝にふけり、主の律法に背いた悪しき王たちです。その結果として王国の滅亡とバビロン捕囚がもたらされるわけです。

12節以降は、バビロン捕囚後の系図ですが、ここに出てくる人物は、旧約聖書の中に名前も出てこない人たちです。文字通り名もなき人々の系図が記されてあるのです。そしてついにはイエスの父ヨセフが生まれますが、ヨセフはかつてのダビデ王家の血筋も今は昔で、ナザレでひっそりと大工業を営む家となっていました。

ですから、マタイの福音書がこの系図の冒頭に「アブラハムの子、ダビデの子、イエス・キリストの系図」と記していても、事柄はそう単純ではなく、旧約聖書に預言された救い主メシヤの訪れはまさに主の救いのご計画と人間たちの歴史、苦難と栄光、光と影の織りなす歴史であったことがわかります。その中からイエス・キリストは生まれてきたのです。この一点を証するために記されたのがこの系図に表されたイスラエルの歴史なのです。人間の罪や弱さ、民族の苦難と栄光、王国の隆盛と没落、偉大な人物と無名の人々、さまざまな人間たちが織りなす歴史の中で、そこに織り込まれていった主なる神の救いのご計画の成就として、ダビデの子としてお生まれになったのが神の御子イエス・キリストなのです。この方を私たちは救い主としてお迎えするのです。マタイが伝えたかったのはそのことだったのです。

Ⅲ.神の完全な救いのご計画(17)

最後に17節を見て終わりたいと思います。17節にはこうあります。「それで、アブラハムからダビデまでが全部で十四代、ダビデからバビロン捕囚までが十四代、バビロン捕囚からキリストまでが十四代となる。」

マタイは系図の締めくくりとして、17節にこれまでのユダヤ人の歴史を三つに大きく区分しています。それは、アブラハムからダビデまでの全部で十四代の期間と、ダビデからバビロン捕囚までの十四代、そして、バビロン捕囚からキリストまでの十四代です。

しかしよく見ると、この系図はマタイの福音書がある意図をもって「十四代」ごとにまとめ上げたものであることがわかります。もともとこの部分は旧約聖書の中の歴代誌第一3章にある系図を基に書かれてありますが、それと読み比べてみると、マタイ1章8節には「ヨラムがウジヤを生み」となっていますが、実際にはヨラムとウジヤの間にいるアハズヤ、ヨアシュ、アマツヤの3人の王がいるのです。それらの名前が省略されているわけです。また、11節にはヨシヤとエコンヤの間にいるエホヤキムが省略されています。さらに12節では、シェアルティエルとゼルバベルの間にいるペダヤが省略されています。これはどういうことかというと、マタイはそういう操作をしてまで、「14」という数字にこだわったということです。

旧約聖書においては「7」という数は完全数と呼ばれ、完全さの表れを意味しています。「14」はその倍です。さらなる完全さを象徴していたのです。完全の完全です。マタイはこのことを踏まえつつ、アブラハムからダビデ、ダビデからバビロン捕囚、バビロン捕囚からイエス・キリストの誕生までの時が一つの完全な時であったことを示すことで、神の救いのご計画が完全な神の御業であったことを示しているのです。また、マタイはこのように系図をたどることによって、アブラハムに約束された神の救いが、いよいよ実現しようとしていることを思い起こさせているのです。そういう意味でこの系図は旧約聖書と新約聖書を結び付ける上できわめて重要なものであると言えます。マタイの福音書が新約聖書の冒頭に置かれたのは、単なる偶然ではなく、神の完全なご計画であったのです。

このような完全な神のご計画の前に、私たちに求められていることは、私たちも神の救いの約束の確かさ、完全さを信じて、アブラハムの子、ダビデの子として来られたイエス・キリストを救い主として受け入れることなのです。

「この福音は、神がご自分の預言者たちを通して、聖書にあらかじめ約束されたもので、3 御子に関するものです。御子は、肉によればダビデの子孫から生まれ、4 聖なる霊によれば、死者の中からの復活により、力ある神の子として公に示された方、私たちの主イエス・キリストです。」(ローマ1:2-4)

あなたはどうですか。聖書に、このようにあらかじめ約束されていた御子イエス・キリストを信じ、この方に従っているでしょうか。主の御名を呼び求める者は、みな救われます。あなたもアブラハムの子、ダビデの子として来られたイエス・キリストを信じてください。

どうして、どうして、どうして エレミヤ書12章1~6節

聖書箇所:エレミヤ書12章1~6節(エレミヤ書講解説教26回目)
タイトル:「どうして、どうして、どうして」

きょうは、エレミヤ書12章前半の箇所からお話します。説教題は、「どうして、どうして、どうして」です。すごい題ですね。でも、皆さん、いつもこのように叫んでいるんじゃないですか。「どうして、どうして、どうして」と。
 エレミヤのメッセージは、11章から第三のメッセージに入りました。その最後のところ、つまり、11:18には、主がエレミヤの暗殺計画について知らせてくださいました。何とエレミヤの出身地のアナトテの人たちが、彼を殺そうと企んでいたのです。彼は同胞の救いのために涙をもって神からのことばを語ってきたのに、故郷の人たちはそれを快く思わなかったばかりか、彼を殺そうと企んでいたのです。それを知ったエレミヤはどうしたでしょうか。

彼はそのさばきを主にゆだねました。11:20にあるように、主は正しいさばきをし、心とその奥にあるものを試される方だからです。しかし、彼の心は晴れませんでした。いったいどうしてこのようなことになるのか、自分の中で悶々とする中で、主に祈るのです。それが今日の箇所です。

ですから、これはエレミヤの祈りですが、祈りというよりも嘆きです。1節には、「主よ。私があなたと論じても、あなたのほうが正しいのです。それでも、私はさばきについてあなたにお聞きしたいのです。なぜ、悪者の道が栄え、裏切りを働く者がみな安らかなのですか。」とあります。主よ、どうしてですか。納得できません。おかしいじゃないですか、と叫んでいるのです。エレミヤの心情を知れば、そのように叫びたくなるのも理解できます。神様からのことばを真面目に伝えているのにそれを受け入れるどころか、かえってそれを語っている自分を殺そうとしているのですから。エレミヤのような偉大な預言者でも神様にぼやくことがあります。弱さのあまりついつい愚痴ってしまうことがあるのです。

それはエレミヤに限ったことではありません。私たちも同じです。私たちも自分が納得できないことがあると、このように叫ぶのではないでしょうか。「主よ、どうしてですか」。そのような時、私たちはどうしたらよいのでしょうか。どのようにしてそれを解決することができるのでしょうか。きょうは、このことについてお話したいと思います。

Ⅰ.エレミヤの訴え(1-2)

まず、エレミヤの訴えを見ましょう。1~2節です。「主よ。私があなたと論じても、あなたのほうが正しいのです。それでも、私はさばきについてあなたにお聞きしたいのです。なぜ、悪者の道が栄え、裏切りを働く者がみな安らかなのですか。2 あなたが彼らを植え、彼らは根を張り、伸びて実を結びました。あなたは、彼らの口には近いのですが、彼らの心の奥からは遠く離れておられます。」

ここでエレミヤは主に訴えています。彼ははまず、「主よ。私があなたと論じても、あなたのほうが正しいのです。」と言っています。彼は神が正しい方であることを認めています。だれが神の正しさを疑うことができるでしょうか。神様は全く聖なる方であり、義なる方です。ですから、どんなに神様と論じ合ったとしても、神様の方が正しいのは明らかです。それでも、彼はさばきについて神に聞きたかったのです。なぜ悪者の道が栄え、裏切りを働く者がみな安らかでいるのかということを。どこかで聞いたことがあるフレーズですね。「なぜ、悪者が栄えるのか」。

これは、古今東西、すべての人に共通している問いです。旧約の聖徒たちもこの問題と格闘しました。ヨブ記全体が、これらの疑問に答えるために書かれています。また、ダビデは詩篇37篇で、アサフは詩篇73篇で、このテーマと格闘しています。多くの聖徒たちがこの問題にぶち当たったのです。それは現代の私たちも例外ではありません。理不尽だと思うようなことがあると、「主よ、どうしてですか。なぜ、悪者が栄えるのですか」と叫びたくなります。これはすべての人に共通している疑問なのです。神が正しい方であるならば、どうして悪者が栄え、裏切り者が安らかでいるのか。どうして正しくさばいてくださらないのか。おかしいじゃないですか。納得いきません。そう思うのです。ましてそれが自分の身に振りかかる問題であれば黙ってなどいられません。どうして私が仕事を失わなければならないのですか。どうして病気にならなければならないのでしょう。どうしてこんなひどい目に合わなければならないのですか。どうして陰で噂され、除け者にされなければならないのですか。どうして自分ばかりこんな惨めな生活をしなければならないのですか。どうして、どうして、どうして・・・と。

ここでエレミヤが言っていることは、確かに神は正しい方であるというのはわかっています。それは間違いありません。でも現実はどうかというと、その正しさがなされていないのではないかということです。悪者が栄えています。それはおかしいんじゃないですか。神様が義なる方であられるならば、どうしてその義を実現なさらないのか。むしろ悪の方が栄えています。どうしてそういうことが許されるのでしょうか。これは私たちもぶち当たる疑問です。

2節をご覧ください。「あなたが彼らを植え、彼らは根を張り、伸びて実を結びました。あなたは、彼らの口には近いのですが、彼らの心の奥からは遠く離れておられます。」

「彼ら」とは、アナトテの人たちのことです。「あなたは彼らを植え」とは、神が彼らを植えられたということです。神が彼らを植えられたので、彼らは根を張り、育って、実を結ぶことができました。つまり、すべての出来事の背後には神がおられるということです。今この世に存在している悪でさえも神の御手の中にあり、神が支配しておられるということです。どんなにおぞましいことでも神が見ておられないこと、神が知らないことはありません。このように、エレミヤはこうした状況の背後に神の主権があることを認めているのです。

でも、その彼らは神に対してどうだったでしょうか。「あなたは、彼らの口には近いのですが、彼らの心の奥からは遠く離れておられます。」どういうことでしょうか。彼らは口先では神を敬っているようでも、その心は神から遠く離れていたということです。口先では神に祈り、賛美し、礼拝しているようでも、その心は神から遠く離れていました。彼らの信仰は見せかけだったのです。そんな彼らが栄えていいんですか。それはおかしいじゃないですか。どうしてあなたはそれを許されるのですか。これが、エレミヤが抱いていた疑問だったのです。

Ⅱ.エレミヤを試された主(3-4) 

それに対して主はどのようにお答えになられたでしょうか。3~4節をご覧ください。「主よ。あなたは私を知り、私を見て、あなたに対する私の心を試されます。どうか彼らを、屠られる羊のように引きずり出し、殺戮の日のために取り分けてください。4 いつまで、この地は喪に服し、すべての畑の青草は枯れているのでしょうか。そこに住む者たちの悪のために、家畜も鳥も取り去られています。人々は『神はわれわれの最期を見ない』と言っています。」

これはエレミヤの祈りです。まだ神は何も答えていません。しかし、エレミヤは自分の祈りの中で一つのヒントを得ました。それは、主がエレミヤの心を試しておられるのではないかということです。ここには、「主よ。あなたは私を知り、私を見て、あなたに対する私の心を試されます。」とあります。神様がこのようなことを許される一つの理由は、エレミヤ自身の心を試すためであったということです。事実、エレミヤの質問に対して神様は一言も答えていません。なぜ、悪者の道が栄え、裏切りを働く者がみな安らかなのかというエレミヤの疑問に対して、「それはね、これ、これ、こういう理由だからだよ」という答えは一切ありません。それはエレミヤだけでなく他の聖徒たちの問いに対しても同じです。たとえば、ヨブ記を見ても、ヨブの訴えに対して神様は何も答えていません。答えたところで、私たちのようなちっぽけな者には理解できないからです。

でも、神様がもっと関心をもっておられることがあります。何でしょうか。それは私たち自身です。あなた自身です。神様の関心は私たちの質問に対して答えることではなく、私たち自身にあるのです。神様は私たち自身に、私たちの心に、私たちの信仰に関心を持っておられるのです。このことを通して私たちはどうなって行くのか、この出来事、あの出来事をあなたがどのように受け止め、どのように応答し、どのように成長していくのかということに関心を持っておられるのです。神は私たちが疑問に思うことに全く関心がないとはいいませんが、それよりもむしろ、私たち自身に関心を持っておられるのです。これは大事なポイントです。神様の焦点はあなたがどのような状況にあるかとか、どのような問題に置かれているかということではなく、あなた自身にあるということです。あなたがそれをどのように受け止め、どのように変えられようとしているかということにあるのです。未熟な私たちにはそれがわからないので、自分が嫌なことや苦しいこと、理解できないことがあると、すぐに「主よ、これはどういうことですか」と説明を求めるのですが、しかし、それはこのことに気付いていないからです。

私には3人の娘がいますが、まだ2~3歳の頃、よく「お父さん、どうして?」と聞いてきました。

「遊んだら片付けるように」 「どうして?」

「食べる前には手を洗うこと」 「どうして」

「お友達には親切にすること」 「どうして?」

何かつけ「どうして?」と聞いてくるのです。最初のうちは「これはね、これこれこういうことだからだよ」と丁寧に答えていましたが、今度はその説明に対して「どうして」と聞いてくるのです。「なぜ」とか「どうして」という問いに答えることは、ある面で子供に何かを教えていくチャンスでもあり、その子の成長につながることですが、どんなに答えても完全に納得できるかというとそうではありません。どんなに答えても親が考えているすべてのことを理解することはできないのです。

最近、面白い話を聞きました。有限な人間と無限の神の例話です。人間は有限であり、無限の神様を理解できない事も多くあります。例えば象の爪しか見えない蟻が、象全体を理解するのは困難です。その象が住んでいる、ジャングル全体を理解しようとしても不可能です。

子どもが親の考えのすべてを知ることができないのも同じです。有限な人間が無限の神を理解することはできないのです。

ですから神は最低限必要なことは答えても、何でもかんでも答えることはしないのです。大切なのは私たち人間が納得できるかどうかということではなく、誰がそのように言っておられるのかということです。それが神様であるなら、私たちが納得できてもでなくても従うことが求められるのです。なぜなら、神様が主権者だからです。主権者であられる神に従うかどうかが重要であって、神様はそれを試しておられるのです。

3年前に召されましたが、アメリカにウォーレン・W・ワーズビー(Warren Wendel Wiersbe)という牧師がおられました。「喜びにあふれて」とか、「試練を勝利に」という本を書いて日本語にも翻訳されています。ワーズビー牧師は、アメリカの教会成長論で幅をきかせていた統計による数量的増加というものが一般的風潮の中にあって、教会の霊的働きは統計だけでは量れないということを指摘し、量は質を保証するものではない、とまで言い切った人です。簡単に言うと、教会が大きいから質がいいというわけではない、ということです。それは、ワーズビー牧師がそれだけ聖書の真理に忠実であり、その真理に正しく生かされてきた証拠ではないかと思いますが、そのワーズビー牧師が次のように言いました。

「神のしもべは説明によって生きるのではない。約束によって生きるのだ。」

含蓄のある言葉ではないでしょうか。神のしもべ(クリスチャン)は説明によって生きるのではありません。約束によって生きるのです。「主よ、どうしてですか」といろいろ神様に尋ね、答えをいただいてから「あっ、そういうことだったら私は従います。」とか、「こういう理由だったら従いません。」というのは違うというのです。それは神のしもべの態度ではありません。神のしもべは、主人である神から言われたことに対して有無を言わさず、文句もつけず、疑問も抱かず、そのとおりにします。それがどういう意味であろうと、自分が納得できてもできなくても従うのです。それが神のしもべであるということです。神のしもべは説明によって生きるのではなく、約束によって生きるとはそういうことです。

いろいろな疑問があります。納得いかないこともあるでしょう。説明を求めてなかなか前に進めなくなってしまうこともあります。状況が呑み込めないこともある。どうしてこんなことになってしまったのか、なぜうまくいなかいのか、なぜこの人たちはこんなに私に敵対してくるのか、なぜこんなに悪が栄え、裏切りを働く者たちがみな安らかなのか、それがわからなくて、ついつい立ち止まってしまうこともあります。でも、前に進むことを止めてはなりません。

神のしもべは、成熟すればするほど次のように受け止めることができるようになります。すなわち、私のような者にはすべてを理解することはできないが、でも私は全知全能の神様に信頼している。そして神様の約束を信じて、そこに希望を置いている。だから納得できてもできなくても、好むと好まざると、神様が言われることは間違いないので、信じて従います。これが、神のしもべである私たちクリスチャンのあるべき態度なのです。

エレミヤは、自分の心が試されていることを知っていました。神に逆らっている人たち、自分を迫害しようとしている人たちが栄えているのを見て、どうして悪者が栄え、裏切る者が安らかなのか納得できませんでした。しかし彼は、これは主が与えておられる試験であることを知り、何とかそれに合格したいと、彼らに対するさばきを主にゆだねました。それが3節後半~4節にあることです。「どうか彼らを、屠られる羊のように引きずり出し、殺戮の日のために取り分けてください。4 いつまで、この地は喪に服し、すべての畑の青草は枯れているのでしょうか。そこに住む者たちの悪のために、家畜も鳥も取り去られています。人々は『神はわれわれの最期を見ない』と言っています。」

これは、彼らの不正を神が正してくださるようにといことです。それは4節にあるように、彼らの罪によって、約束の地が荒れ果てているからです。彼らの罪のために、そこに住むすべての畑が枯れています。そこに住む者たちの悪のために、家畜も取り去られています。このままでは土地は呪われて荒れ果ててしまうことになります。だから主よ、すみやかにさばきを下してください、主が復讐してください、と祈っているのです。自分の置かれた状況を見て、「主よ、どうしてですか」とぼやいていたエレミヤでしたが、問題はそうでなく自分自身にあるということに気付かされて、そのすべてをゆだねて祈ることができたのです。

Ⅲ.神の答え(5-6)

第三に、5~6節をご覧ください。「5 「あなたは徒歩の者と競走して疲れるのに、どうして馬と走り競うことができるだろうか。平穏な地で安心して過ごしているのに、どうしてヨルダンの密林で過ごせるだろうか。6 あなたの兄弟や、父の家の者さえ、彼らさえ、あなたを裏切り、彼らでさえ、あなたのうしろから大声で叫ぶ。だから彼らがあなたに親切そうに語りかけても、彼らを信じてはならない。」

これは、エレミヤの疑問に対する神の答えです。しかしよく見ると、全然答えになっていません。エレミヤは「主よ、どうしてですか」と尋ねているのに、主は、「あなたは徒歩の者と競走して疲れるのに、どうして馬と走り競うことができるだろうか。平穏な地で安心して過ごしているのに、どうしてヨルダンの密林で過ごせるだろうか。」と答えているからです。どういうことでしょうか。主はエレミヤの疑問に対して、別の形で答えているのです。

この「あなたは徒歩の者と競走して疲れるのに」とは、エレミヤが今直面している困難のことを指しています。エレミヤは今、故郷アナトテという町にいました。彼らに憎まれ、(うと)まれ、まさに殺されそうになっていました。彼はただ神のことばを忠実に語っただけなのに、嫌われて、命までも狙われていたのです。しかも6節には、「あなたの兄弟や、父の家の者さえ、彼らさえ、あなたを裏切り、彼らさえ、あなたのうしろから大声で叫ぶ」とあるように、自分の家族や親族からも裏切られていたのです。自分の愛する者たちのためにいのちを賭けて仕えているのに、その愛する者からも裏切られ、殺されそうになっていましました。それは本当に辛いことでした。それはまさに徒歩の者と競争して疲れていた者の姿でした。

しかし神は、そんなエレミヤにこう言われました。「どうして馬と走り競うことができるだろうか」。これはどういうことかというと、徒歩の人と競争して疲れているのに、どうやって馬と走って競争することができるのかということです。できません。徒歩の人と競争して疲れているのに、馬と競争できるはずがありません。この馬と競争するというのは、これから先に起こる困難のことを指しています。来るべきさらなる試練のことです。具体的にはバビロン捕囚という出来事のことです。エレミヤは今、試練の真只中にいました。故郷のアナトテの人たちから裏切られ、殺されそうになっていました。なぜこんなことが起こるのかどうしても納得いかないと、神に食ってかかっていたわけです。そんなエレミヤに対して主は、あなたは今、徒歩の者と競争して疲れているのに、どうやって馬と競争することができるのか、と言われたのです。つまり、確かに今辛いかもしれけれども、これから先もっと辛いこと起こるわけで、であったらどうやってそれに耐えられるのかというのです。神に向かって「どうしてですか」と愚痴る暇があったら、将来の苦難に備えて信仰を増し加えるべきではないかというのです。

5節のその後のことばも同じです。「平穏な地で安心して過ごしているのに」とは、今の状態のことです。確かにアナトテの人たちはエレミヤを裏切るようなひどい人たちかもしれないが、それはまだ序の口です。平安の地で安心に過ごしているにすぎません。しかし、これからヨルダンの密林で過ごすようになります。ヨルダンの密林とは、まさに人が住めないような危険なところを意味しています。アナトテよりよっぽどひどいところです。バビロンに連れて行かれることになります。こんな平穏な地で安心して過ごしているのに、どうやってヨルダンの密林で過ごすことができるか。できません。だったらそれに備えて、信仰を増してくださいと祈るべきではないかというのです。

全く答えになっていません。何の慰めにもなりません。それはエレミヤが期待していた答えではありませんでした。彼が期待していたのは「これこれ、こういうわけだから、今はこうだけど、やがてこうなるよ」といったちゃんとした答えというか、納得できるような答えでした。あるいは、「そうだよね。本当に辛いと思うよ。頑張ってね。」というような慰めのことばだったと思います。それなのに神から示された答えは全く意外なものでした。それは、エレミヤを叱咤激励するような厳しいものだったのです。「あなたは徒歩の者と競走して疲れるのに、どうして馬と走り競うことができるだろうか。平穏な地で安心して過ごしているのに、どうしてヨルダンの密林で過ごせるだろうか。」

皆さん、どう思いますか。私はハッとさせられました。というのは、まさに今の自分はエレミヤのようだと思ったからです。以前のような体力がなくなりました。5年前にできたことができません。人の名前も思い出せなくなりました。自分に自信を無くしたというか、この先どうやってやっていけばいいんですかと、つぶやくようになりました。そんな時に与えられたのがこの御言葉でした。「あなたは徒歩の者と競争して疲れるのに、どうして馬と走り競うことができるだろうか。平穏な地で安心して過ごしているのに、どうしてヨルダンの密林で過ごせるだろうか。」

こんなことで音を上げていてどうするんですか。これから先もっと大変なことが起こるんだよ。今はまだ平安な地で過ごしているようなものじゃないですか。これからヨルダンの密林で過ごすようになります。だから今を感謝し、ますます主に信頼して、将来に備えていかなければなりません。まさに目から鱗でした。これからもっと大変な時代がやって来るのであれば、今は恵みの時であって、多少の衰えで悲観している場合ではないと思ったのです。そう思ったら俄然力が満ち溢れるようになりました。これが主の答えだったのです。

本当に主はすばらしい答えをもっておられます。それは、私たちの想像をはるかに超えた答えです。私たちはこの方のことばを聞かなければなりません。納得できるまで従わないのではなく、納得できてもできなくても、すべてを支配し治めておられる主の主権を認め、そのことばに従わなければならないのです。まさにウォーレン・W・ワーズビーが言ったように、「神のしもべは説明によって生きるのではない。約束によって生きるのだ。」。説明によってではなく、神のことば、神の約束によって生きなければなりません。

その究極の約束こそ、主が再臨されるということです。その時、主イエスを信じる者は墓からよみがえり、朽ちることのない栄光のからだをもって、主のみもとに引き上げられることになります。このようにして、私たちはいつまでも主とともにいるようになるのです。これが神の僕である私たちクリスチャンにとっての究極の希望です。世の終わりが近づくと、戦争や戦争のうわさを聞くことになります。民族は民族に、国は国に敵対して立ち上がり、あちらこちらで飢饉と地震が起こります。不法がはびこるので、多くの人の愛が冷えると、イエス様は言われましたが、今まさにそのような時代を迎えてこいます。しかし、最後まで耐え忍ぶ人は救われます。イエス様が再臨されるその時、栄光のからだによみがえらされ、いつまでも主とともにいるようになります。これがクリスチャンの究極の希望なのです。ですから、Ⅰテサロニケ4:18にはこのように勧められているのです。

「ですから、これらのことばをもって互いに励まし合いなさい。」(Ⅰテサロニケ4:18)

それゆえ私たちは、この困難な時代を耐え抜いて、生き抜いて、希望をもって生きることができるのです

ですから、もう疲れたとか、もうだめだと言わないでください。もう終わりだと言わないでください。失業することもあるかもしれません。失恋することもあるかもしれない。病気になることもあるでしょう。愛する人を失うこともあるかもしれない。自分自身が死ぬこともあるかもしれません。でも、あきらめないでください。イエス様はこう言われました。

「世にあっては苦難があります。しかし、勇気を出しなさい。わたしはすでに世に勝ちました。」(ヨハネ16:33)

人生に苦難はつきものです。「しかし、勇気を出しなさい。」と主は言われました。なぜなら、「わたしはすでに世に勝ったからです。」イエス様はすでに世に勝利されました。

もしあなたが神のしもべとして説明によって生きることを止め、約束によって生きることを始めるなら、すでに世に勝利された主イエスの恵みと力によって、この世の苦難を必ず乗り越えることができます。

「あなたが経験した試練はみな、人の知らないものではありません。神は真実な方です。あなたがたを耐えられない試練にあわせることはありません。むしろ、耐えられるように、試練とともに脱出の道も備えていてくださいます。」(Ⅰコリント10:13)

あなたは今、どのような試練の中にありますか。それがどのような試練であれ、神はあなたを耐えられない試練にあわせるようなことはなさいません。耐えることができるように試練とともに脱出の道も備えてくださいます。

どうぞ、神の約束を信じてください。主よ、どうしてですかと、説明を求めることを止めて、神の約束によって生きることを始めるなら、神はあなたに必ずご自身を現わしてくださるのです。

実りの良い、緑のオリーブの木 エレミヤ書11章11~23節

聖書箇所:エレミヤ書11章11~23節(エレミヤ書講解説教25回目)
タイトル:「実りの良い、緑のオリーブの木」

きょうは、エレミヤ書11章後半の部分からお話します。タイトルは「実りの良い、緑のオリーブの木」です。16節のみことばから取りました。ここには「主かつてあなたの名を、「実りの良い、緑のオリーブの木」と呼ばれた。だが、大きな騒ぎの声が起こると、主がこれに火をつけ、その枝は台無しになる。」とあります。主はかつてイスラエルを、「実りの良い、緑のオリーブの木」と呼ばれましたが、その木が焼かれて、枝が台無しになってしまいました。どうしてでしょうか。それは彼らが悪を行い、神の怒りを引き起こしたからです。

それは私たちにも言えることです。どんなに実りの良い、オリーブの木として植えられても、主の前に悪を行い、主の怒りを引き起こすようなことがあると、焼かれてしまうことになります。ですから、私たちは「あなたを植えた万軍の主」とあるように、主が私たちを植えてくださったという事実を忘れないで、へりくだって主のみこころを歩まなければなりません。

Ⅰ.聞かれない祈り(11-13)

まず11~13節をご覧ください。「11 それゆえ─主はこう言われる─見よ、わたしは彼らにわざわいを下す。彼らはそれから逃れることができない。彼らがわたしに叫んでも、わたしは聞かない。12 ユダの町々とエルサレムの住民は、自分たちが犠牲を供えている神々のもとに行って叫ぶだろうが、これらは、彼らのわざわいの時に、決して彼らを救わない。13 『まことに、ユダよ、あなたの神々は、あなたの町の数ほどもある。あなたがたは、恥ずべきもののための祭壇、バアルのために犠牲を供える祭壇を、エルサレムの通りの数ほども設けた。』」

「それゆえ」とは、11章前半で語って来たことを受けてということです。10節には「イスラエルの家とユダの家は、わたしが彼らの父祖たちと結んだわたしの契約を破った」とあります。それゆえ、主は彼らにわざわいを下すと宣告されました。それは「彼らはそれから逃れることができない。彼らがわたしに叫んでも、わたしは聞かない」ということです。彼らの祈りを聞かないということは7:16でもありましたが、ここでもう一度繰り返して告げられています。

これは本当に悲惨なことです。祈りが聞かれるというのは神の民の特権だからです。Ⅰヨハネ5:14にはこうあります。

「何事でも神のみこころにしたがって願うなら、神は聞いてくださるということ、これこそ神に対して私たちが抱いている確信です。」

神は、私たちの祈りを聞いてくださるということ、これこそ、神に対する私たちの確信です。それなのに、その祈りが聞かれないとしたらどんなに悲しいことでしょうか。たとえ祈っても単なる独り言になってしまうのです。本当に悲しいことです。なぜそんなことになってしまったのでしょうか。

「それゆえ」です。それは彼らが神の言うことを聞かなかったからです。神の言うことを聞かないのに自分のことは聞いてくれというのは虫のいい話です。もしあなたの子どもがあなたの言うことを散々無視して、何一つあなたの言うことを聞かないのに、「俺の言うことを聞け」と言ったらどうしょうか。「何言ってるんだ、お前!」となります。それと同じです。イザヤ59:1~2にこうあります。

「1 見よ。主の手が短くて救えないのではない。その耳が遠くて聞こえないのではない。2 むしろ、あなたがたの咎が、あなたがたと、あなたがたの神との仕切りとなり、あなたがたの罪が御顔を隠させ、聞いてくださらないようにしたのだ。」

神様の耳は、あなたのように遠くはありません。最近、耳が遠くなって、幸い嫌なことも聞かなくなって良かったという人もおられるかもしれませんが、しかし神様は、私たちのどんな小さなささやきにも、ちゃんと耳を傾けて聞いてくださいます。でも、もし私たちに罪があるなら、その罪が私たちと神との仕切りとなり、聞いてくださらないのです。昔であれば電話線が切れたような状態です。今でいうと、電波が届かないと言ったらいいでしょうか。どんなに最新のスマホを持っていても、電波が届かなければ何の役にも立ちません。その電波障害を引き起こす原因が罪です。その罪が神との仕切りとなり、御顔を隠させ、聞いてくださらないようにしているのです。

ですから、神様は意地悪だなぁと思わないでください。これは裏を返せば、あなたが自分の罪を認め、悔い改めて神に立ち返るなら、あなたの祈りは聞かれるということなのですから。Wi-Fiが復旧して障害が無くなったら、またつながるようになります。

12節をご覧ください。「ユダの町々とエルサレムの住民は、自分たちが犠牲を供えている神々のもとに行って叫ぶだろうが、これらは、彼らのわざわいの時に、決して彼らを救わない。」

これは、少しわかりづらい訳です。原文では、この節の冒頭に「Then」という語があります。「それで」とか「そこで」です。「そこで、ユダの町々とエルサレムの住民は、彼らが香をたいた神々のもとに行って叫ぶだろうが、これらは、彼らのわざわいの時に、彼らを決して救うことはできない。」第三版はこのように訳しています。
 つまり、ユダの町々とエルサレムの住民は自分たちの祈りが聞かれないので、自分たちが犠牲を供えている神々のもとに行って叫ぶということです。これは偶像礼拝のことです。困ったときの神頼みですね。でも、偶像に頼っても、これらはあなたを救ってはくれません。それは10:5にあったように「きゅうり畑のかかし」のようなもので、ものも言えず、歩くこともできず、だれかに運んでもらわなければ動くことができません。何の頼みにもならないのです。そんなものに頼ってどうなるというのでしょうか。どうにもなりません。ただ失望するだけです。でも彼らは、天地を造られたまことの神、主に祈っても答えてもらえないと、今度は偶像にお願いしました。

私たちにもこういうところがあるのではないでしょうか。こっちがだめならあっち、あっちがだめならこっちと、自分の願望が叶えられるまで、あちらこちらと走り回ることが。こういうのを何というかというと、ご利益信仰と言います。教会に来て礼拝し一生懸命に祈っても、自分の願いが叶わないと、この世の神々にお願いするわけです。これは何も当時のイスラエル、ユダの町々とエルサレムの住民だけのことではありません。この日本にいる私たちにもあり得ることなのです。でも、そうした偶像に頼っても無駄です。それらはあなたを救うことはできないからです。まことの神を捨てて他に満たしを求めても、それはただ徒労に終わるだけです。あなたに罪がある限り何をしても解決にはなりません。真の解決は、あなたが罪を悔い改めて神に立ち返ることです。そのことを忘れないでください。

13節をご覧ください。「『まことに、ユダよ、あなたの神々は、あなたの町の数ほどもある。あなたがたは、恥ずべきもののための祭壇、バアルのために犠牲を供える祭壇を、エルサレムの通りの数ほども設けた。』」

彼らの神々は、彼らの町の数ほどありました。これがいつのことだったかを思い出してください。これは、ヨシヤ王の宗教改革後のことです。その時、ユダの町々のすべての偶像は排除されたはずなのです。それなのに、ヨシヤ王の死後、再び偶像が造られました。それは彼らの町の数ほどになっていたのです。元に戻ってしまいました。ということはどういうことかというと、彼らの信仰は本物ではなかったということです。ヨシヤ王の宗教改革も、民の内面を変えるまでには至りませんでした。民が神殿で行った宗教的儀式は、心のこもっていない、表面的なものにすぎなかったのです。

これは私たちも注意しなければなりません。よく「リバイバル」と叫ばれます。リバイバルとは何でしょうか。リバイバルとは、信仰復興のことです。信仰の原点に立ち返ろうとすることです。では、私たちの信仰の原点とは何でしょうか。それは十字架につけられたイエス・キリストです。この方と一つにされることなのです。それがなくて信仰復興はあり得ません。パウロはⅠコリント2:2でこう言っています。

「なぜなら私は、あなたがたの間で、イエス・キリスト、しかも十字架につけられたキリストのほかには、何も知るまいと決心していたからです。」

これが私たちの信仰の原点です。十字架につけられたキリストこそ福音の核心であり、このキリストと一つに結び合わせられることが信仰の原点なのです。人生の問題であれ、信仰上の問題であれ、あるいは神学上の問題であれ、行き詰まったら、この原点に帰ってくることが大切です。私たちには、ここにしか帰るところはありません。ここが力の源であり、希望の拠り所なのです。これを見失ったらリバイバルも何もありません。当時のユダの町々とエルサレムの住民のように、心のこもっていない、形式的で、表面的な信仰になってしまいます。そうならないように、いつもみことばを通して私たちの信仰の原点である十字架のキリスト、信仰の創始者であり完成者であるイエスから目を離さないようにしたいと思います。

Ⅱ.焼かれる緑のオリーブの木(14-17)

次に14~17節をご覧ください。14~15節をお読みします。「14 あなたは、この民のために祈ってはならない。彼らのために叫んだり、祈りをささげたりしてはならない。彼らがわざわいにあって、わたしを呼び求めても、わたしは聞かないからだ。15 『わたしの愛する者は、わたしの家で何をしているのか。いろいろと何を企んでいるのか。聖なるいけにえの肉が、わざわいをあなたから過ぎ去らせるのか。そのときには喜び躍るがよい。」

これはすごいことばです。主は、イスラエルの民の祈りを聞かないというだけでなく、彼らのために祈ってはならないというのですから。主はエレミヤに、彼らのためにとりなしの祈りをしてはならないと言われました。それは彼らが神との契約を破棄したからです。

15節には、「わたしの愛する者は、わたしの家で何をしているのか。いろいろと何を企んでいるのか。」とあります。何のために神殿に来たのかと問うているのです。彼らは、表面的には神殿にいけにえを携えて来ましたが、一方では、バアルやアシュタロテといった偶像も拝んでいました。ですから、ここでその動機が問われているのです。いったい何のために神殿に来たのか、そこで何をしているのか、何を企んでいるのかと。彼らの神殿で行う宗教的儀式というものは、彼らの心から出たものではなく、表面的なものにすぎませんでした。主はそれをご覧になられたのです。まさに、人はうわべを見るが、主は心を見られます。

16~17節をご覧ください。「主はかつてあなたの名を、「実りの良い、緑のオリーブの木」と呼ばれた。だが、大きな騒ぎの声が起こると、主がこれに火をつけ、その枝は台無しになる。17 あなたを植えた万軍の主が、あなたにわざわいを告げる。イスラエルの家とユダの家が悪を行い、バアルに犠牲を供え、わたしの怒りを引き起こしたからである。』」

「実りの良い、緑のオリーブの木」とは、イスラエルの民のことを指しています。ところが、この美しいオリーブの木が焼かれて、その枝が台無しになってしまいます。彼らを植えた万軍の主が、彼らにわざわいを告げられたからです。それは、彼らが悪を行い、主の怒りを引き起こしたからです。

オリーブの木が焼かれることについては、パウロがローマ人への手紙で語っている、「折られたオリーブの枝」を思い出させます。ちょっと開いてみましょう。ローマ11:17~21です。

「17 枝の中のいくつかが折られ、野生のオリーブであるあなたがその枝の間に接ぎ木され、そのオリーブの根から豊かな養分をともに受けているのなら、18 あなたはその枝に対して誇ってはいけません。たとえ誇るとしても、あなたが根を支えているのではなく、根があなたを支えているのです。19 すると、あなたは「枝が折られたのは、私が接ぎ木されるためだった」と言うでしょう。20 そのとおりです。彼らは不信仰によって折られましたが、あなたは信仰によって立っています。思い上がることなく、むしろ恐れなさい。21 もし神が本来の枝を惜しまなかったとすれば、あなたをも惜しまれないでしょう。」

折られたオリーブの枝とは、イスラエルのことです。そのオリーブの枝が折られたのは、彼らが不信仰であったからですが、神様はそのことを通して何と野生のオリーブである異邦人が救われるように計画してくださいました。すなわち神は、不信仰によって折られたオリーブの枝に野生のオリーブである異邦人を接ぎ木してくださることによって、異邦人が救われるようにしてくださったのです。接ぎ木とは、果樹を育てるときによく用いられる方法です。たとえば、「たむらりんご」という奇跡のりんごがありますが、これは梨の木にりんごの木を接ぎ木して作ったものです。りんごの外観をもちながらも、梨のような強い甘みを持つりんごで、世界中を探しても北海道の七飯町(ななえちょう)にしか見られない大変珍しいりんごなのです。そのように、不信仰なオリーブの枝であるイスラエルが折られ、その折られた枝に野生のオリーブである異邦人を接ぎ木してくださることによって、神は異邦人も神の民に加えてくださったのです。すごいですね。神様の救いのご計画は。神様は私たちが到底考えつかないような驚くべき方法によって、異邦人である私たちを救ってくださったのです。

にもかかわらず、「実りの良い、オリーブの木」が焼かれ、その枝は台無しになってしまいます。なぜでしょうか。ここに「あなたを植えた万軍の主」とあります。彼らは主によって植えられた者であるという事実を忘れてしまったからです。彼らは自分を植えてくださった主を忘れ、バアル礼拝をして、主の怒りを引き起こしてしまったのです。

このようなことが私たちにもあるのではないでしょうか。私たちがこのように救われて今日があるのは神が支えてくださったからなのに、あたかも自分の力でそうなったかのように誇ってしまうことがあるのです。そういうことがあるとしたら、このユダの民のように「実りの良い、緑のオリーブの木」が、折られてしまうこということを覚えなければなりません。すべては神の恵みなのです。自分の力によるのではありません。まして私たちが信仰を持つようになった背後には、どれだけ多くの方々の祈りと犠牲があったことでしょうか。私たちはそのことを忘れてしまうのです。この「支えられている」という事実を忘れてはなりません。私たちが神様に支えられているからこそ今の自分があるのだということが本当の意味でわかるとき、私たちの中からつぶやきや不満が消え去り、感謝が満ち溢れるようになるでしょう。

Ⅲ.すべてを主にゆだねて(18-23)

最後に18~23節を見て終わります。「18 「主が私に知らせてくださったので、私はそれを知りました。それからあなたは、彼らのわざを私に見せてくださいました。19 私は、屠り場に引かれて行く、おとなしい子羊のようでした。彼らが私に敵対して計略をめぐらしていたことを、私は知りませんでした。『木を実とともに滅ぼそう。彼を生ける者の地から断って、その名が二度と思い出されないようにしよう』と。20 しかし、正しいさばきをし、心とその奥にあるものを試す万軍の主よ。あなたが彼らに復讐するのを私は見るでしょう。私があなたに、私の訴えを打ち明けたからです。」21 それゆえ、主はアナトテの人々について、こう言われる。「彼らはあなたのいのちを狙い、『主の名によって預言するな。われわれの手にかかって、あなたが死なないように』と言っている。22 それゆえ─万軍の主はこう言われる─見よ、わたしは彼らを罰する。若い男は剣で死に、彼らの息子、娘は飢えで死に、23 彼らには残る者がいなくなる。わたしがアナトテの人々にわざわいを下し、刑罰の年をもたらすからだ。」」

「主が私に知らせてくだったので」とか、「彼らのわざわいを私に見せてくださいました」とは、エレミヤに対する暗殺計画についてです。しかもそれを計画していたのは、エレミヤの出身地アナトテの人たちでした。最初エレミヤは、その計画に気付いていませんでした。「屠り場に引かれて行くおとなしい子羊」とは、間もなく殺されることも知らず、おとなしくしている子羊のことで、エレミヤのことを指しています。また、「木を実とともに滅ぼう。彼を生ける者の地から断って、その名が二度と思い出されないようにしよう」とは、エレミヤとその働きを完全に破壊するという意味です。神はエレミヤにその暗殺計画を知らせくださったのです。

主の働きに携わっている人で、他の人からの批判や中傷を受けたことのない人はいないと思います。どんなに一生懸命にやっても、必ず批判やその類のことばはあるものです。私も理屈に合わないような批判を受けることがたまにありますが、しかし不思議なことに、その直後に、別の人から励ましの手紙やメールを受けることがよくあります。そんな時、神様は私たちの心を本当によくご存知であられるなぁと思わされます。

いったいエレミヤの出身地アナトテの人たちは、どうして彼を殺そうとしたのでしょうか。バイブルナビに、その理由が4つ挙げられています。

皆さんはどう思いますか。恐らく、この4つのすべての理由が絡んでいたのだと思いま

す。というのは、パウロも言っているように、キリスト・イエスにあって敬虔に生きようと思う人は、必ず迫害に遭うからです(Ⅱテモテ3:12)。

問題は、そのような迫害があるとき、どうしたら良いかということです。20節に戻ってください。ここでエレミヤは何と言っていますか。彼はこう言っています。「しかし、正しいさばきをし、心とその奥にあるものを試す万軍の主よ。あなたが彼らに復讐するのを私は見るでしょう。私があなたに、私の訴えを打ち明けたからです。」

これはエレミヤの祈りです。暗殺計画を知ったエレミヤは、神様に祈りました。彼には二つの選択肢がありました。逃げて隠れるか、それとも神様に拠り頼むかのどちらかです。彼は神に拠り頼むことを選択しました。それで神に祈ったのです。ここには、「あなたが彼らに復讐するのを私は見るでしょう。」とありますが、彼は、自分のために復讐を求めたのではありません。神の復讐がなされるように、つまり、神の義が守られるようにと祈ったのです。また、彼はすべてのさばきを神にゆだねました。復讐は、神のなさることだからです。

その結果、神はエレミヤの祈りに応えてくださいました。それは21~23節にあることですが、この計画に加わったアナトテの人々にわざわいを下すということです。23節には「残る者がいなくなる」とありますが、それはアナトテの人たちがすべて死ぬということではなく、この暗殺計画に加わった者たちが完全に滅び去るという意味です。

あなたは、不当に扱われたり、迫害を受けたりしたとき、どのように対処していますか。逃げて隠れますか、それとも、神様に拠り頼みますか。神に拠り頼み、神様に助けを求めますか。逃げて隠れることは本当の解決にはなりません。なぜなら、同じ問題がいつも起こるからです。本当の解決はすべてを主にゆだね、主に信頼することです。あなたも問題は違ってもエレミヤのように神への熱心のあまり反対勢力に直面することがあるかと思いますが、どんな問題に直面しても唯一の解決は主にゆだねることです。詩篇にこうあります。「あなたの道を主にゆだねよ。主に信頼せよ。主が成し遂げてくださる。」(詩篇37:5)主はすべてをご存知です。あなたのすべてを主にゆだねましょう。