エドムについての預言 エレミヤ書49章7~22節


聖書箇所:エレミヤ書49章7~22節(旧約P1384、エレミヤ書講解説教81回目)
タイトル:「エドムについての預言」
46章から諸国の民についての預言が語られています。これまでエジプト、ペリシテ、モアブ、アンモンに対する主のことばを学んできましたが、今日はエドムに対する主のことばです。
Ⅰ.神のさばきから免れることはできない(7-13)
まず、7~13節をご覧ください。7節には「エドムについて。万軍の【主】はこう言われる。「テマンには、もう知恵がないのか。賢い者から分別が消え失せ、彼らの知恵は朽ちたのか。」とあります。
エドム人はエサウの子孫で、死海の南東、モアブの南に住んでいました。彼らの先祖はヤコブ(イスラエル)の兄のエサウです。ですから、イスラエル人とは最も親しい関係にあった民族と言っても良いでしょう。彼らは文字通りイスラエル人(ヤコブ)とは兄弟だったのです。それなのに彼らは、歴史上、イスラエルと争いを繰り返し、ついにその名がイスラエルに敵対する異邦人諸国の象徴となりました(エゼキエル35:1-15)。そんなエドムについて、語られた主のことばがこれです。
「テマンには、もう知恵がないのか。賢い者から分別が消え失せ、彼らの知恵は朽ちたのか。」
「テマン」は、エサウの孫の1人の名前として出ています(創世記36:11)。ヨブ記にはヨブの3人の友人が登場しますが、その1人がテマン人でした。テマン人エリファズですね。彼はこのテマンの出身でした。まさにテマン人は知恵者として知られていたのです。そのテマンに対して主はこう仰せられました。「テマンには、もう知恵がないのか。賢い者から分別が消え失せ、彼らの知恵は朽ちたのか。」どういうことでしょうか。そうした人間の知恵によっては神のさばきを免れることができないという意味です。どんなに知恵があっても、人間の知恵によっては神の怒りから救われることはできないのです。
8節には「デダンの住民よ、逃げよ。そこを離れよ。深く潜め。わたしが彼の上にエサウの災難を、彼を罰する時を、もたらすからだ。」とあります。
「デダン」とは、エドムの南東、アラビア半島の北部にある町です。テマンがエドムの北にある中心的な町であるなら、デダンはエドムの南にある中心的な町です。今日のサウジアラビアではないかとも言われていますが、このデダンの住民に対して、そこから離れるように、そこから逃げるようにと警告されています。なぜですか?そこも神のさばきを受けることになるからです。このデダンはかつて商業都市として栄えた町でした。産物も豊富で、経済的に豊かでした。そこから離れるようにと言われているのです。知恵で有名なテマンも、商業で有名なデダンも、神のさばきを逃れることはできないからです。いくら知恵があっても、いくら経済力があっても、そうした人間的なものでは神の怒りから逃れることはできないのです。
9節には、その神のさばきの徹底さがぶどうの収穫にたとえられています。「ぶどうを収穫する者がおまえのところに来るなら、彼らは取り残しの実を残さないだろう。盗人が夜中に来るなら、彼らの気がすむまで荒らすだろう。」
ぶどうを収穫する者は、ぶどうの実を残すことはありません。取り残しがないように収穫するからです。主はそのようにエドムをさばかれます。また、夜中に来る盗人は気が済むまで奪っていきます。主はそのようにエサウを裸にし、その隠れ場をあらわにするのです。
11節には「おまえのみなしごたちを見捨てよ。わたしが彼らを生かし続ける。おまえのやもめたちやは、わたしに拠り頼まなければならない」とあります。
みなしごたちややもめたちは保護されなければならない対象ですが、そのみなしごややもめたちを見捨てよと言うのです。どうしてでしょうか。神の激しいさばきが臨むので、彼らにはそんな余裕さえないからです。
それゆえ、主はこう仰せられます。12節です。「見よ。その杯を飲むように定められていない者でも、それを必ず飲まなければならないのなら、おまえだけが罰を免れられるだろうか。罰を受けずにはすまされない。おまえは必ず飲まなければならない。」
「その杯」とは神の怒りの杯のことです。その杯を飲むように定められていない者とは、イスラエルの民とは何の関係もない民、すなわち、異邦人のことです。そのような者でさえその怒りの杯を飲まなければならないとしたら、まして神の民イスラエルと兄弟であるエドム人が罰を免れられることは決してありません。必ず神の怒りの杯を飲まなければなりません。どうしてですか?彼らは神の祝福に与りながらそれを軽視し、神の祝福を求めた弟ヤコブに敵対したからです。エサウは肉的な人でした。彼は双子の兄として長子の権利という神の祝福が与えられていたにもかかわらず、一杯のレンズ豆のスープと引き換えにその権利を弟ヤコブに譲ってしまいました。そんなものはいらないと。それよりも美味しいシチューが食べたい。彼にとって霊的祝福はどうでも良いことだったのです。彼の関心は食べたり、飲んだりすることだけ、ただこの世のことだけでした。彼は神の祝福を全く価値のないものとみなしていたのです。そういうエサウの性質を受け継いだのがエドム人です。ですから彼らが神の罰を逃れることは決してありません。彼らは必ず神の怒りの杯を飲まなければならないのです。
それは必ず実現すると言われます。13節です。「まことに、わたしは自分にかけて誓う──【主】のことば──。必ずボツラは恐怖のもと、そしりの的、廃墟、そしてののしりの的となる。そのすべての町は、永遠の廃墟となる。」
「わたしは自分にかけて誓う」とは、100%それを成し遂げるという意味です。「ボツラ」は、エドムの首都で要塞都市でした。ここは今「ペトラ」と呼ばれていて、世界遺産として有名な場所です。1989年の映画『インディ・ジョーンズ/最後の聖戦』の舞台にもなった町です。そこはかつて繁栄を極めた町でした。なぜなら、そこは16節に「岩の裂け目に住む者、丘の頂を占める者よ」とあるように、自然の要塞となっていたからです。どんな敵も攻め入ることができない難攻不落の町でした。つまり、彼らは軍事的にも誇っていたということです。建築物のほとんどは岩山を削って造られたものです。ここには独創的な貯水システムも見られ、彼らが優れた建築技術を持っていたことが分かります。しかし、そんなボツラも永遠の廃墟となると、主は言われました。
不思議なことですが、今ボツラ(ぺトラ)は文字通り廃墟となっています。そこにはだれも住んでいません。かつては交易の中心地として、数万人が暮らしていましたが、今は人っ子ひとりいません。それゆえ、謎の古代都市と呼ばれているんです。ボツラはどうして没落したのか。ここに書いてある通りです。ボツラは必ず恐怖のもと、そしりの的、廃墟、そしてののしりの的となる。そのすべての町は、永遠の廃墟となる。そのことばの通りになったのです。
誰もこの神のさばきから免れることはできません。テマンのようにどんなに知恵があっても、デダンのようにどんなに経済的に豊かであっても、ボツラのように軍事的に優れ、優れた建築技術を持っていたとしても、この神の怒りから逃れることはできないのです。いったいどうしたら良いのでしょうか。どうしたら神の怒りから逃れることができるのでしょうか。
それは、主に身を避けることです。詩篇2篇12節にこうあります。「幸いなことよ すべて主に身を避ける人は。」
「身を避ける」とは、「拠り頼む」とか、「信頼する」ということです。どこに身を避けるのか、だれのもとに身を避けるのかが重要です。エドム人は知恵や経済、軍事力、科学技術に身を避けましたが、そのようなものは神の御怒りから人を救うことはできません。神の怒りから人を救うことができるのは主であって、主に身を避けなければなりません。主に信頼しなければ救われないのです。
これが聖書全体を貫いているテーマです。主イエスを信じるなら救われます。なぜ主イエスを信じるなら救われるのでしょうか。なぜ主イエスに身を避けるなら救われるのでしょうか。なぜなら、それが私たち人間に与えられた神の救いのご計画だったからです。ヨハネの福音書3章16節にこうあります。「神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに世を愛された。それは御子を信じる者が、一人として滅びることなく、永遠のいのちを持つためである。」
「そのひとり子」とはイエス・キリストのことです。神は、実にそのひとり子をお与えになったほどにこの世を愛されました。何のためですか。それは御子を信じる者がひとりとして滅びることなく、永遠のいのちを持つためです。これがこの世を救うための神のご計画だったのです。
ですから、ローマ書にはこうあるのです。ローマ5章9節です。「ですから、今すでにキリストの血によって義と認められた私たちが、彼によって神の怒りから救われるのは、なおさらのことです」(ローマ5:9)。
アーメン!「ですから」とは、その前に語られたことを受けてのことです。その前にはどんなことが語られていたかというと、「しかし、私たちがまだ罪人であったとき、キリストが私たちのために死なれたことによって、神は私たちに対するご自身の愛を明らかにしておられます。」(5:8)とあります。「ですから」です。キリストが十字架で死なれたのは私たちがそれにふさわしい善い人だったからではありません。神に背き、まだ罪人であったにもかかわらずです。そんな罪深い私たちのために死んでくださることによって、神はご自身の愛を明らかにしてくださいました。「ですから」です。であれば、今すでにキリストの血によって義と認められた私たちが、彼によって神の怒りから救われるのは、なおさらのことです。当然でしょう。それだけ大きな神の愛が注がれたのですから、救われないわけがありません。もしあなたがこのイエスをあなたの罪からの救い主として信じるならあなたのすべての罪は赦され、神に義と認められ、神の怒りから救われるのです。テマンの知恵も、デダンの経済も、ボツラの軍事力や建築技術も、この世のいかなるものもあなたを神のさばきから救うことはできませんが、神が用意された神の救いイエス・キリストを受け入れるなら、この神の怒りから救われることができるのです。
毎週火曜日の夜、家内は池田さんというお友達に英会話を教えています。この方は以前家内が小学校で英語を教えていた時、そこで教頭をされておられた方で、とても仲の良いお友達です。ですから家内も毎週とても楽しみにしているのですが、夏休み前の最後のクラスが始まる1時間くらい前に電話がありまして、台風の影響で大雨警報が発令されているのでお休みしますとのことでした。残念でしたが、「はい、わかりました」と電話を切ると、彼女からすぐにまた電話がありました。「パット先生はおられますか」と。それで電話を家内に代わると突然、「パット先生、『神は愛なり』ってどういう意味ですか」と聞いて来られたのです。それで家内は、「それは、神様は愛です、という意味です」と答えました。すごいなあ、ズバリそのままです。神は愛です。しかし、大切なことだと思ったのか「ちょっと待ってください。家の旦那さんに代わりますから」と言って、すぐに私に代わりました。私は驚いて家内と顔を合わせました。なぜなら、その朝二人でデイボーションをしてお祈りをした時、「今晩は池田さんと英語のクラスがありますが、彼女の心を開いて良い証ができるように導いてください」と祈っていたからです。これまでずっと良い関係がありましたがなかなか証することができなかったので、少しでも証ができるように、そういう機会が与えられるようにと祈ったら、何と向こうから「神は愛なり」ってどういう意味ですかと聞いてきたのです。すごいですね、神様は。私たちは彼女の心を動かしたり、開いたりすることはできませんが、神様にはできます。神様は彼女の心を開いてくださいました。
それでお話をお聞きしたところ、数年前にお亡くなりになった彼女の旦那さんの親友が山形に住んでおられ、最近その方から97歳で亡くなられたその方のお母様が毛筆で書かれた短冊をいただいたそうです。そこに書いてあったのがこのことばだったのです。「神は愛なり」。聞くと、そのお母さんはクリスチャンだったそうです。こういうこともあるんだなぁと感心しながら、私はできるだけわかりやすくお話したつもりですが、イエス様を信じていない方に神の愛をお話するのはほんとうに難しいなぁと改めて感じました。なぜなら、その愛は私たちが持っている愛とは違うからです。それは「アガペー」と言って、神を信じない自分勝手な人、聖書ではこれを罪人と言いますが、その罪人のためにひとり子イエスをお与えになられた愛です。いわゆる自分の敵をも愛する愛です。その敵のために自分のいのちさえも与える愛です。相手が何かしたからではなく、何もしなくても無条件に、一方的に愛してくださいました。それが神の愛です。神様はそれを、御子イエスを通して示してくださいました。何のためですか。それは、御子を信じる者が一人も滅びないで、永遠のいのちを持つためです。つまり、この神のさばきから救われるためです。この神の愛を信じるなら、神のひとり子イエスを信じるなら救われます。あなたがこの神のさばきから逃れるための唯一の道は、あなたのために十字架で死なれ、あなたの罪を贖ってくださった神の御子イエスを信じる以外にはないのです。
たとえあなたがエドムのようにイスラエルと兄弟であっても、たとえあなたがクリスチャンホームに生まれ育ったとしても、たとえあなたにクリスチャンの友人がいたとしても、そのようなことはあなたが救われることとは何の関係もありません。あなたがこの神のさばきから逃れるためには、あなたのために十字架で死んでくださったイエスを救い主と信じなければなりません。主イエスを信じるなら、主イエスに身を避けるなら、あなたもこの神のさばきから逃れることができるのです。
Ⅱ.エドムの高慢を砕かれる主(14-18)
いったいエドムの問題は何だったのでしょうか。14~18節をご覧ください。「49:14 私は【主】から知らせを聞いた。「使者が国々に送られた。『集まって、エドムに攻め入れ。戦いに向けて立ち上がれ。』49:15 見よ。わたしがおまえを国々の中の小さい者、人に蔑まれる者としたからだ。49:16 岩の裂け目に住む者、丘の頂を占める者よ。おまえの脅かしと高慢は、おまえ自身を欺いている。鷲のように巣を高くしても、わたしは、おまえをそこから引きずり降ろす。──【主】のことば。」49:17 エドムは廃墟となり、そこを通り過ぎる者はみな呆気にとられ、そのすべての打ち傷を見て嘲笑する。49:18 ソドムとゴモラとその近隣の町々が破滅したときのように──【主】は言われる──そこに人は住まず、そこに人の子は宿らない。」
主は国々の間に使者を送り、エドムとの戦いに立ち上がるようにと命じておられます。なぜなら、主が彼らを砕かれ、国々の中にあって小さい者、人に蔑まれる者とするからです。それは彼らが高ぶっていたからです。16節には「岩の裂け目に住む者、丘の頂を占める者」とありますが、これは先ほど申し上げたように、彼らが要塞を誇っていたことを表しています。写真をご覧ください。

引用:ナショナルジオグラフィック「謎の古代都市ペトラ、砂漠の世界遺産」
これは最近のペトラ(ボツラ)の写真です。写真の中にいる人たちは観光客で、そこに住んでいる人ではありません。見ておわかりのように、岩だらけです。そこは自然の要塞となっているため、エドム人はここは難攻不落だと誇っていたのです。これは前回のアンモン人と同じですね。彼らは谷を誇っていました。エドム人は岩を誇っていました。彼らは自分たちの知恵、経済力、軍事力、要塞を誇り、こうしたものを鼻にかけていたのです。

(引用:世界遺産マニア、「ヨルダンの世界遺産」)
この写真などもきれいですね。これも人が意図的に作ったものではなく、水の侵食により形成されたものだそうです。この先に見えてくるのが、アル・ハズネと呼ばれる宝物庫で、『インディ・ジョーンズ/最後の聖戦』の舞台となった所です。いつか行ってみたいですね。
しかし主は、そんなエドム人の高慢を砕かれます。彼らが鷲のようにどんなに巣を高くしても、そこから彼らを引きずり降ろされるというのです。そこはかつてソドムとゴモラとその近隣の町々が破滅したときのようになります。ソドムとゴモラは、エドムの北にある町です。かつてアブラハムとロトの時代にソドムとゴモラが滅ぼされたように、エドムも滅ぼされることになるのです。ソドムとゴモラはどのように滅びましたか。完全に滅びました。そのようにエドムも完全に滅ぼされるようになります。18節の最後のところに、「そこに人は住まず、そこに人の子は宿らない」とは、そのことを表しています。完全に廃墟となるのです。
特筆すべきことは、エドムには将来の回復の預言が与えられていないことです。そうです、この預言の通り、エドムは完全に滅亡することになります。この後でバビロンによって滅ぼされると、紀元前4世紀に砂漠の民であるナバデア人の侵略を受けるのです。それで彼らはユダの地に逃げて行きますが、そこでユダヤの英雄ユダ・マカバイという人によって制圧されユダヤ人の中に組み込まれていくことになります。紀元前2世紀のことです。そこで彼らはユダヤ人と同化していくのです。そしてその地で彼らはイドマヤ人と呼ばれるようになります。しかし紀元前1世紀にローマのユリウス・カイザルの支持を取り付けたイドマヤ人アンティパテル2世は行政長官としてユダヤ・サマリア、ガリラヤを統治します(前47年以降)。その後、彼の息子はユダヤの王に任じられ、皆さんもご存知のヘロデ大王と呼ばれるようになりました(前37-4年在位、マタイ2:1-22,ルカ1:5)。彼は幼子イエスを殺そうとした王です。しかし、その後A.D.68年~70年頃にかけて、ユダヤ人とともにローマに対して反乱を起こすと鎮圧され、全世界に離散していくことになるのです。そのようにしてイドマヤ人は消滅していきました。ここに預言されてある通りです。そういう意味では、この高慢の罪がどれほど恐ろしいものであるかがわかるかと思います。
私たちも自分の中にエドム人のような高慢がないかどうかを吟味しなければなりません。この中には好色とか、淫乱といった罪とは無縁だという人がいるかもしれませんが、でも高慢の罪と無縁という人がいるでしょうか。エドム人の高慢は対岸の火事ではありません。そのように高慢な者は、高い所から引きずり下ろされることになるということを覚えておかなければなりません。
Ⅲ.そこに選ばれた人を置く(19-22)
最後に、そのために神は選ばれた人を置かれるということを見て終わりたいと思います。19~22節をご覧ください。19節をお読みします。「49:19 「見よ。獅子がヨルダンの密林から常に潤う牧場に上って来るように、わたしは一瞬にして彼らをそこから追い出し、選ばれた人をそこに置く。だれがわたしのようであろうか。だれがわたしを呼びつけるだろうか。だれがわたしの前に立つことができる牧者であろうか。」
このエドム人の滅亡についての言及は、それだけでは終わっていません。ここに、それがどのようにして成されるのかも語られています。それは、獅子がヨルダンの密林から常に潤う牧場に上って来るように、一瞬にしてそこから追い出すと。ヨルダンの密林にはかつて獅子、ライオンが住んでいました。ライオンが襲って来て牧場に上って来るように、それは一瞬にして起こるのです。この獅子は何を表しているのかというと、バビロンの王ネブカドネツァルです。ネブカドネツァル王率いるバビロン軍が獅子のようにエドムに襲い掛かり、彼をそこから追い出すことになるのです。
だれがそれをなさるんですか。それをなさるのは主です。ここには「わたしは一瞬にして彼らをそこから追い出し、選ばれた人をそこに置く。」とあるとおりです。第三版では「わたしは一瞬にして彼らをそこから追い出そう。わたしは、選ばれた人をそこに置く。」と、「わたし」ということばが強調されています。そのために主は選ばれた人をそこに置かれるのです。それは誰ですか?そうです、ネブカドネツァルです。神はご自身の怒りの器として、エドム人をさばく道具として彼を選び、そこに置かれるのです。彼は異邦人の王ですが、神はそのような未信者でも用いられるのです。たとえ未信者であろうとも、そのために神は選びそこに置かれるのです。
同様に神はあなたを打つために、あなたを懲らしめてもっと謙遜になるために、あなたを練りきよめて新しい人に造り上げるために、選ばれた人をそこに置かれます。それはあなたのノンクリスチャンの伴侶かもしれません。あるいは、未信者の両親かもしれない。ノンクリスチャンの職場の上司であったり、同僚、部下かもしれません。あなたの親しい友人かもしれません。それがだれであっても、神はあなたを打つために、あなたのそばにそのような人を置いておられるのです。それが神によって選ばれた人です。
ダビデのために神はサウルを選ばれ、そこに置かれました。ダビデがあんなに偉大な王になれたのは、サウルがいたからです。サウルがいなかったらあんなに偉大な王にはなれなかったでしょう。だからそこから逃げないでください。あなたにも神が選ばれた人がちゃんといますから。その人を憎んではいけません。ダビデはサウロをどのように見ていましたか?ダビデはサウロを、神が選ばれた器として認めていました。だからダビデは何度もサウルを討つチャンスがあったのに、神が油注がれた人に手を下してはならないと言って、決して自分から手をくだそうとはしなかったのです。それはダビデがそのために神が選ばれ、そこに置かれたと認めていたからです。
それはあなたにも言えることです。嫌だなぁ、辛いなぁ、苦しいなぁと思うことがあっても、それはあなたに必要な人として神が選ばれ、神がそこに置いておられるのです。こんな人さえいなければ!と言わないでください。その人はあなたに絶対必要な人なのです。必要じゃなかったらあなたの前から取り去ってくださるので安心してください。あの人がいるから、この人がいるから、私は教会に行きたくないんですというのは、とんでもない誤解です。神が置いてくださったのです。私たちが選ぶのではありません。神が選んでくださり、神が置いておられるのです。
それは人だけではありません。あなたの人生に起こる災難と思えるようなあらゆる出来事にも言えることです。どうしてこんなことが起こるのか、なぜこんな病気になってしまったのか。できればこの苦しみの杯を取り除いてほしい。でもそれは神が選んでそこに置いてくださったのです。あなたの成長のために。あなたがもっと深く神を知るために。あなたがへりくだって神を求めるために。詩篇119篇71節にはこうあります。
「苦しみに会ったことは、私にとってしあわせでした。私はそれであなたのおきてを学びました。」
「苦しみ」は、できれば避けて通りたいものです。しかし、その苦しみを通して今まで見るとこができなかったものを見ることができるなら、ほんとうの意味で神のおきて、神のみこころ、神ご自身を知ることができるなら、それはすばらしいことではないでしょうか。そのために神はネブカドネツァルを選び、あなたのそばに置かれたのです。心配しないでください。神様は決して耐えられない試練にあわせるようなことはなさいません。耐えられるように、試練とともに脱出の道も備えていてくださいます(Ⅰコリント10:13)。あなたにとって必要なのは、それがどのような人、どのようなことであっても、神様はあなたを愛し、あなたのために働いておられると信じ、それを主のみこころとして受け止めることです。
20~22節をご覧ください。「49:20 それゆえ、聞け。エドムに対して立てられた【主】の計画を、テマンの住民に対して練られた策を。必ず、彼らは、群れの中の小さいものまで引きずって行かれ、必ず、彼らの牧場は彼らのことで恐れ惑う。49:21 彼らの倒れる音で地は震え、その悲鳴は葦の海でも聞こえる。49:22 見よ。彼は鷲のように舞い上がっては襲いかかり、ボツラに敵対して翼を広げる。その日、エドムの勇士の心も、産みの苦しみにある女の心のようになる。」
それゆえ、私たちも聞かなければなりません。エドムに対して立てられた主の計画を。バビロンの王ネブカドネツァルが鷲のように舞い上がって襲いかかり、ボツラに敵対して翼を広げることを。その日、エドムの勇士の心も、産みの苦しみにある女の心のようになります。私たちもエドムのようにならないように自分の知恵や経済、力を誇るのではなく、へりくだって神を求め、神に拠り頼む者でありたいと思います。あなたに対して立てられた主の計画を、はっきりと知ることができますように。