2021年7月25日(日)礼拝メッセージ
聖書箇所:ヨシュア記1章1~9節
タイトル:「強くあれ、雄々しくあれ」
本日は、ヨシュア記からお話したいと思います。ヨシュア記は、イスラエルの民がエジプトから解放され約束の地に向かっていく中で、その指導者であった偉大な神の人モーセが死に、その後継者ヨシュアによって約束の地カナンに導かれ、そこを占領していく過程が記録されています。
教会も神によって与えられている使命があります。それは、神のきわめて豊かな知恵、イエス・キリストの福音を、まだ知らない人々に伝えていくことです。どうしたらその使命を全うすることができるのでしょうか。このヨシュア記からご一緒に学びたいと思います。
Ⅰ.わたしが与えようとしている地に行け(1-2)
まず1節と2節をご覧ください。「主のしもべモーセの死後、主はモーセの従者、ヌンの子ヨシュアに告げられた。「わたしのしもべモーセは死んだ。今、あなたとこの民はみな、立ってこのヨルダン川を渡り、わたしがイスラエルの子らに与えようとしている地に行け。」」
ここには「主のしもべモーセは死んだ」とあります。モーセといったらイスラエルの民をエジプトから救い出した偉大な神の器です。神はモーセにご自身を現わされ、直接ご自身のことばを語られました。それが聖書の最初の五つの書である創世記、出エジプト記、レビ記、民数記、申命記です。これら五つの書は、イスラエル人の信仰生活の土台となる書物です。いや、イスラエル人ばかりでなく、クリスチャンにとっても大切な書です。これらはみなモーセによって書かれました。そのモーセが死に、そのしもべヌンの子ヨシュアに対して主が語られたのが、この書です。
ヨシュアは、モーセの従者でした。いわばモーセのかばん持ちです。モーセが行くところにはどこにでも行き、モーセが必要なものをすぐに用意するような人でした。このヨシュアが最初に登場するのは、出エジプト記17章にあるイスラエルがアマレクと戦った時のことです。モーセは丘の上で祈り、ヨシュアが戦いの最前線で戦いました。モーセが手を上げて祈っている時はイスラエルが優勢で、手を下すとアマレクが優勢になりました。それでモーセはずっと手をあげて祈るために、片方の手をアロンが、もう片方の手をフルが支え、イスラエルはアマレクに勝利しました。このように、ヨシュアはいつもモーセの従者として、モーセとともにイスラエルのために主に仕えました。そのモーセが死んだのです。
このことは、私たちに大切なことを示しています。それは、私たちが約束の地に入るためにはモーセではなくヨシュアによらなければならないということです。どういうことでしょうか。モーセによって与えられた律法を行うことによってではなく、ヨシュアによってもたらされる福音を信じなければならないということです。正確にはヨシュアが福音をもたらしたのでなく、ヨシュアが指し示していた方、イエス・キリストを信じることによってであるということです。
「ヨシュア」のもともとの名前は「ホセア」でした。しかし、モーセがカナンの地を偵察するために各部族から一人ずつ12人のスパイを送り込みましたが、その時にモーセは彼の名前を「ヨシュア」と名付けたのです(民数記13:8,16)ですから、彼の名前はもともと「ホセア」だったのです。しかし、この時から「ヨシュア」となりました。「ホセア」という名前は「救い」という意味ですが、それが「ヨシュア」になりました。意味は「主は救い」です。ほとんど同じじゃないかと思うかもしれませんが、ただの救いではなく、主は救いです。このギリシャ語名が、「イエス」です。つまり、ヨシュアは、単に人々を救い出す人物ではなく、全人類を罪から救い出すところのイエス・キリストを、あらかじめ指し示す人物であったのです。
マタイの福音書1章20~21節を見ると、イエスが生まれる時、御使いがマリアの夫ヨセフに現れてこう言いました。「ダビデの子ヨセフよ、恐れずにマリアをあなたの妻として迎えなさい。その胎に宿っている子は聖霊によるのです。マリアは男の子を産みます。その名をイエスとつけなさい。この方がご自分の民をその罪からお救いになるのです。」
この「イエス」という名前が、「ヨシュア」というヘブル語の名前のギリシャ語読みとなります。ですから、ヨシュア記は「イエス記」でもあるのです。ここに、ヨシュア記を学ぶ意義を見出します。それは、私たちを罪から救うことができるのは、モーセによって与えられた律法を行うことによってではなく、イエス・キリストの福音を信じることによってであるということです。キリストを信じるなら救われるのです。
多くの人は、キリストをただ信じるだけで救われるというのはあまりにも虫がよすぎるのではないかと言います。たとえばもっと難行苦行するとか、少なくとも自分の良心が満足するような償いをしなければならないのではないかと考えますが、聖書はそのようには言っていません。聖書は、イエス・キリストを信じるなら救われると言っています。「信じる者は救われる」です。聖書は、私たち人間は罪過と罪との中に死んでいると言っています。そんな霊的破産者が、どうやって自分を罪から救うことができるでしょうか。泥沼に落ちてしまった人が、自分で自分を救うことができないように、罪の泥沼にはまった人は、どうやっても自分の力で自分を救い出すことはできないのです。だれかが助けてくれない限り、そこから救われることはできないのです。その罪の泥沼から救い出すことができるのが、「イエス」です。この方はメシヤ、救い主であられ、私たちが罪から救われるために、私たちの罪の身代わりとなって十字架で死んでくださり、三日目によみがえられました。私たちがしなければならないことを、すべてこの方がしてくださったのです。ですから、私たちはキリストの救いを受け入れること、つまり信じるだけで救われるのです。
使徒16章31節には、こうあります。「主イエスを信じなさい。そうすれば、あなたもあなたの家族も救われます。」主イエスを信じれば、そうすれば、あなたもあなたの家族も救われるのです。あなたが何かをすればではなく、主イエスを信じるなら、救われるのです。
また、エペソ2章8~9節にも、こうあります。「この恵みのゆえに、あなたがたは信仰によって救われたのです。それはあなたがたから出たことではなく、神の賜物です。行いによるのではありません。だれも誇ることのないためです。」行いによるのではありません。だれも誇ることのないためです。「やった!俺は、自分で自分を救ったぞ!」と誇ることがないためです。もし私たちが救われるために何かをしようとするならば、それはすでに完成したテーブルに、かんなをかけるようなものです。そんなことをすれば、せっかく完成したテーブルがダメになってしまいます。ですから、私たちはキリストを信じるだけでいいのです。私たちを約束の地に導き入れてくれるのは、モーセではなくヨシュアであるということを覚えておかなければなりません。
Ⅱ.主の約束を信じて(3-5)
次に、3~5節をご覧ください。そのヨシュアに対して、主はこのように言われました。「わたしがモーセに約束したとおり、あなたがたが足の裏で踏む場所はことごとく、すでにあなたがたに与えている。あなたがたの領土は荒野からあのレバノン、そしてあの大河ユーフラテス川まで、ヒッタイト人の全土、日の入る方の大海までとなる。あなたの一生の間、だれ一人としてあなたの前に立ちはだかる者はいない。わたしはモーセとともにいたように、あなたとともにいる。わたしはあなたを見放さず、あなたを見捨てない。」
どういうことでしょうか。2節で主はモーセに、「わたしがイスラエルの人々に与えようとしている地に行け。」と言われましたが、どうやってそんなことができるのでしょうか。それは、主がそのようにしてくださることによってです。主はモーセに約束したとおり、彼らが足の裏で踏む場所はことごとく、すでに彼らに与えている、と言われました。それは荒野からあのレバノン、そしてあの大河ユーフラテス川まで、ヒッタイトの全土、日の入る方の大海までとなります。ここで重要なのは、主はすでにモーセに約束したとおりに、与えているということです。実際にはまだ与えられていないかもしれませんが、主にとってはもう既に与えておられることなのです。それは単なる約束ではなく、すでに完了している約束であるということです。それは2節の「与えようとしている地」が、完了形であることからもわかります。完了形というのは、もう完了しているということです。「与えている」ということです。それは未来のことですが、既に完了しているのです。つまり、確実に与えられているということです。
皆さん、私たちはどうして不安を感じるのでしょうか。それは先が見えないからです。この先、どうなるかがわからないので不安になるのです。これから先のことがわかっていれば何も慌てなくても良いのですが、わからないから、見えないから不安になるのです。
最近、カナダのバンクーバーに住んでいる吉成スウォープ久美子さんからメールが届きました。実家がさくら市で、数年前に一時帰国した際に教会に来られて以来、こちらの教会のライブ配信を見て礼拝をささげておられます。
この姉妹にアパートの管理会社から手紙が来て、10月31日までに出てくださいと通告がありました。出てくださいと言われても、あまりにも突然なのでどうしたら良いかパニックになりました。州の法律では、建物を壊す場合には入居者に4ヶ月前に知らせなければならないのですが、それまでに次に住むところを見つけるのは大変です。お金を出せばある程度新しくてきれいなところを探すことも可能ですが、自分の予算では無理なのです。政府が補助金を出している公営住宅はありますがみんなそこに入りたいので入れるかどうか判りません。もうすでにこのアパートの何人かの人たちが出ていきました。誰かが外にゴミ出しに出るのを見るたびに、見つからなかったどうしようと、心臓がバクバクするというのです。
それで、今住んでいる家主のところに行って、もう少し待ってくれないかとお願いしたのですが、それもかなわず、さてどうしたものかと思っていたところ、United Churchという教会が建設しているアパートに入る可能性が出てきたと喜んでいました。歌舞伎役者の舞台の袖からさっさっさ~と出てくる神様が出て来て、それではこれを与えようではないか~ とおっしゃってくださるイメージだと言っておられました。先が見えると安心するのですが、見えないと不安になるのが私たちです。
私は相撲が好きで、ある時にはいつも見ているのですが、先場所も良かったですね。大関照ノ富士が横綱昇進をかけた場所で、14章全勝同士で横綱白鵬と戦い、残念ながら敗れたはしたものの、大関で2場所連続優勝するか、それに準ずる成績を修めれば横綱に昇進できるという場所でした。怪我や病気で序二段まで番付が下がった力士が横綱になったらすごいじゃないですか。それで私は幕ノ内に返り咲いた時からずっと応援していたのですが、幕ノ内に返り咲いた場所で幕尻の優勝を飾ると、その後1年間に3度の優勝を飾り、大関に返り咲くことができました。そして、横綱に昇進するというところまで来たのです。もう一番一番が手に汗握る戦いです。その時間はウォーキングマシーンで汗を流しながら観戦しているんですが、あまりに興奮してローラーから足を踏み外すこともあります。まさにハラハラどきどきです。しかし、勝負が決まると安心ですね。後でどんなにVTRを見ても、冷静に見れます。もう結果がわかっていますから。結果がわからないからドキドキするのです。
しかし、私たちの戦いは結果がわからないような戦いではありません。勝つか負けるかわからないような戦いではないのです。「わたしがモーセに約束したとおり、あなたがたが足の裏で踏む場所はことごとく、すでにあなたがたに与えている。」それは既に勝利が確定している戦いなのです。その戦いを戦っていくわけです。一時的には敗北に見えるようなことがあったとしても、やがて必ず勝利することができるのです。それが私たちの戦いです。
へブル11章1節をご覧ください。「さて、信仰は、望んでいることを保証し、目に見えないものを確信させるものです。」信仰とは、望んでいることを保証し、目に見えないものを確信させるものです。
「信仰によって、ノアはまだ見ていない事柄について神から警告を受けたときに、恐れかしこんで家族の救いのために箱舟を造り、その信仰によって世を罪ありとし、信仰による義を受け継ぐ者となりました。」(11:7)
「信仰によって、アブラハムは相続財産として受け取るべき地に出て行くようにと召しを受けたときに、それに従い、どこに行くのかを知らずに出て行きました。」(11:8)
「アブラハムは、すでにその年を過ぎた身であり、サラ自身も不妊の女であったのに、信仰によって、子をもうける力を得ました。彼が、約束してくださった方を真実な方と考えたからです。」(11:11)
このように旧約聖書に出てくる信仰者たちは、信仰によって出て行きました。私たちも同じです。信仰とは、望んでいることがらを保証し、目に見えないものを確信させるものなのです。まだ見ていないかもしれませんが、主が約束されたことは必ずそのようになるのであって、その約束を信じなければなりません。
イエス様はよく「あなたが信じ通りになるように」とか、「あなたの信仰があなたを癒したのです」と言われましたが、要するに、あなたの信じたとおりになるということです。それはあなたが信じればどんな病気で治るということではありません。私たちがどう信じるかという信仰の問題ではないのです。神にはそのような力があるということを信じ、その神が約束してくださったことであるならば、必ずそのようになるということです。それを信じなければなりません。
しかしそれは、タナボタ式に与えられるということではありません。その前に私たちがしなければならないことがあります。2節をご覧ください。ここには、「今、あなたとこのすべての民は立って、このヨルダン川を渡り」とあります。これは、神の約束の実現の前には、ヨルダン川を渡らなければならないということです。地図を見ていただくとよくわかるのですが、イスラエルの民は40年にわたる荒野の旅を終えて約束の地カナンへと入って行きますが、そのルートはシナイ半島からぐるっと東に回り、ヨルダン川を渡って入るというものでした。そこにはヨルダン川が横たわっていたのです。そのヨルダン川を渡らなければならなかったのです。つまり、神の約束が与えられているからといって、何の苦労もなく自然に、いつの間にかそれが実現するものではないということです。むしろその約束の実現の前には困難や試練が横たわっていて、それを乗り越えて行かなければならないのです。すなわち、このヨルダン川を渡った時に初めて約束のものを得ることができるということです。ヨルダン川を渡らずして、ヨシュアはあのカナンの地に入ることはできませんでした。ヨルダン川という試練と困難を経て、足の裏で踏むという信仰の決断を経てこそ、彼はカナンの地に入って行くことができたのです。
ですから、私たちはすばらしい主の約束の実現のために、ヨルダン川を渡ることを臆してはならないのです。私たちの前に塞がるヨルダン川を信仰と勇気をもって渡って行くならば、大きな神の祝福を受けることができるのです。
しかし、幸いなことに、そのことさえ、私たちだけが自分の力で成し遂げなければならないものではありません。5節をご覧ください。ここには、「あなたの一生の間、だれひとりとしてあなたの前に立ちはだかる者はいない。わたしは、モーセとともにいたように、あなたとともにいよう。わたしはあなたを見放さず、あなたを見捨てない。」とあります。すばらしいですね。主は私たちにヨルダン川を渡り、主が与えようとしている地に行けと命じているだけでなく、主がともにいて、助けてくださると約束してくださいました。信仰を持ってヨルダン川を渡って行こうとしても、やはりそこには恐れが生じます。しかし、この戦いは信仰の戦いであって、自分の力で敵に立ち向かっていくものではありません。主はモーセとともにいたように、ヨシュアとともにいると約束してくださいました。主がともにおられるなら、だれひとりとして彼の前に立ちはだかる者はいません。主の圧倒的な力で勝利することができるのです。
私たちは1983年に福島で開拓伝道を始めました。それから10年くらい経ったとき、主は私たちの教会を祝福してくださって、会堂に入りきれないほどになりました。私たちはどうしたら良いかわからなかったので、とりあえず、日曜日だけ近くにあったつむぎ工場の2階を借りて礼拝をしていましたが、4年後にはそこも立ち退かなければならなくなり、結局、その後2年間は町の福祉センターを中心に、点々としなければなりませんでした。まさに荒野の旅です。
それで、ただ主が必要を満たしてくださるようにと祈っていたら、主は創世記26章22節を与えてくださいました。それは、「イサクはそこから移って、もう一つの井戸を掘った。その井戸については争いがなかったので、その名をレホボテと呼んだ。そして彼は言った。「今や、主は私たちに広い所を与えて、この地で私たちが増えるようにしてくださった。」
というものです。これはイサクがゲラルのペリシテ人の地にいた時のことですが、何度も井戸を掘るのですが、その度にゲラルの羊飼いたちと争いになり、なかなか手に入れることができなかったのですが、三度目に井戸を掘ると、そこでは争いがなかったので、その名を「レホボテ」と呼んだのです。意味は「広々とした所」です。
それはちょうど私たちの教会のようでした。最初に家を購入して礼拝場所としてからつむぎ工場に、そして、そこも立ち退きを迫られて町の福祉センター等を転々としなければなりませんでした。今度が三度目です。神様はイサクにレホボテを与えてくださったように、私たちにも広々とした所を与えてくださると信じました。
すると、家が約1キロ離れたところに600坪もある広い土地があるという情報がありました。行ってみると、それはまさに乳と蜜が流れている地だと思いました。しかし、そこにはヨルダン川が横たわっていました。そこは市街化調整区域であって建物が建てられない場所だったのです。福島県ではこれまで宗教法人で開発許可を受けたという例は一つもありませんでした。でも、神様が約束してくださったんだからと、県の担当者のところに赴くと、門前払いでした。もう悔しくて、悔しくて、家内と相談した結果、大きいケーキを作って行けば態度が変わるんじゃないかということで、大きいケーキを作って担当者のところに行きましたが、やはりだめでした。3年間もですよ。でも、これまで担当者のところで止まっていた話が、悪いと思ったんでしょうね、係長、課長まで行くようになり、優しく応対してくれるようになりました。でも、やはりだめでした。
そんな時です。実は教会で英会話クラスをやっていたのですが、そこに石川さんという衣料品の卸業を営んでいる社長さんがいましたが、そんな話をしていたら、「だったら瀬戸さんという県会議員に相談するといいと思いますよ」と言われました。というのは、この方は宅建の資格があるのですが、その瀬戸さんという方も宅建の資格があって、その免許の更新でたびたび会うのだということなのです。
瀬戸さんは同じ町内ということもあって、何度か面識があったので電話したところ、「大橋さん、だめなものはだめだがんない」なんて言われました。「わかってます。でもこれはだめなものではないですから、お願いします」と言うと、後日、県の担当者から連絡が来ました。申請に必要な書類を用意してくださいということでした。だめじゃなかったのです。そして、それから1年後くらいの1997年11月に県からの開発許可が下りて、その土地を購入することができ、翌年には大きな会堂を建築することができました。ただ神様のあわれみです。そこには本当に大きな犠牲と苦労が伴いました。そのことを知らない人は、その会堂を見ると、「あなたは大変運が良い人だ。あなたのように恵まれた牧師は滅多にいない」と言いますが、私はそのような言葉を聞くたびに、心の中でこう思うのです。「それはあなたがそこにどれだけの苦労があったか知らないだけです。」
ヨルダン川を渡るということは、私たちが主の約束の実現を得るために不可欠なことなのです。ヨルダン川を渡らずしてヨシュアはあのカナンの地に入ることはできませんでした。ヨルダン川という試練と困難を経て、その信仰の決断を経て、ヨシュアは約束の地に入ることができたのです。
それは会堂建設だけに言えることではありません。私たちの人生のすべてにおいて言えることです。私たちは素晴らしい主の約束の実現を見るために、ヨルダン川を渡ることを臆してはなりません。私たちの前にふさがるヨルダン川を、臆さずに、信仰と勇気をもって渡って行かなければならないのです。そうすれば、主の大きな祝福と恵みに与ることができるのです。
Ⅲ.強くあれ、雄々しくあれ(6-9)
それゆえ、主はこう言われるのです。6~9節をご覧ください。「強くあれ。雄々しくあれ。わたしが彼らに与えるとその先祖たちに誓った地を、あなたは、この民に継がせなければならないからだ。ただ強く、雄々しくあって、わたしのしもべモーセがあなたに命じたすべての律法を守り行なえ。これを離れて右にも左にもそれてはならない。それは、あなたが行く所ではどこででも、あなたが栄えるためである。この律法の書を、あなたの口から離さず、昼も夜もそれを口ずさまなければならない。そのうちにしるされているすべてのことを守り行なうためである。そうすれば、あなたのすることで繁栄し、また栄えることができるからである。わたしはあなたに命じたではないか。強くあれ。雄々しくあれ。恐れてはならない。おののいてはならない。あなたの神、主が、あなたの行く所どこにでも、あなたとともにあるからである。」
ここで主はヨシュアにこう仰せられました。「強くあれ。雄々しくあれ。」このことは、この6節から9節までの中に3回も繰り返して言われています。なぜ主は3回も繰り返して言われたのでしょうか。ある聖書学者はこう考えています。ヨシュアは年齢が若く、したがってモーセほどの実力を持っていなかったので、イスラエルの民が自分に従ってくれるかどうか非常に恐れていた。それで主はこれを三度も語って励ます必要があったのだ、と。
そうでしょうか、もちろん、それもあったと思います。しかし、ヨシュアのこれから先に起こることを考えると、主がそのように言われたのも納得できます。つまり、主は、これからのヨシュアの生涯が戦いの連続であるということをご存知だったのです。それで、「強くあれ。雄々しくあれ。」と何度も繰り返して語る必要があったのです。
確かに荒野においてヨシュアはモーセとともに戦いました。しかしそのモーセは死んだのです。モーセが死んだ今となっては、自分一人で戦わなければなりません。頼るべきものは何もありません。頼るものはただ神のみです。神に聞き従い、自分自身が先頭に立って様々な困難と闘っていかなければならないのです。そんなヨシュアにとって、「わたしはあなたとともにいる」という約束はどれほど力強かったことでしょう。確かにヨシュアの生涯は戦いの連続でした。しかし、共にいましたもう主の導きの中で、勝利を勝ち取ることができたのです。
ヨシュアと同じように、私たちの人生も戦いの連続です。激しい戦いを通らなければならないことがあります。しかし、そのような時でも主が共にいてともにいてくださり、主が戦ってくださるのです。その主は十字架で私たちの罪を赦すために死なれ、三日目によみがえられました。この十字架と復活によって悪魔に完全に勝利してくださいました。この十字架と復活の勝利のゆえに、私たちはどんな戦いにも勝利することができるのです。これが私たちの信仰です。一時的に敗北したかのように感じることもあるかもしれません。しかし、たとえそうであっても、私たちはやがて必ず勝利するのです。なぜなら、勝利の主がともにいてくださるからです。そして、私たちはその勝利の陣営にいるからです。
私たちは、イエス様を信じてクリスチャンとなったからといって、戦いが全くなくなったわけではありません。困難がなくなる訳ではないのです。この世に住む以上、常に戦いの連続であり、そのような人生を歩まざるを得ません。しかし感謝なことに、私たちは勝利が確実な戦いを戦っているということです。小手先の所ではもしかすると敗北しているように見えるかもしれません。小さな所では破れていることもあります。しかし大局的には、最も重要な所では、もう既に私たちは勝利しているのです。
アラン・レッドパスという霊的指導者はこのように言いました。「クリスチャンは勝利に向かって努力するのではなく、勝利によって働き続ける者なのです。」
そうです。私たちは勝利のために、勝利に向かって懸命に戦う者ではなく、もう既に勝利が与えられているのです。その与えられている勝利の約束を信じて、信仰の戦いを戦い続けていかなければならないのです。
「わたしはあなたに命じたではないか。強くあれ。雄々しくあれ。恐れてはならない。おののいてはならない。あなたの神、主が、あなたの行く所どこにでも、あなたとともにあるからである。」(9)
主があなたに与えようとしている地はどこですか。そのために、主が約束しておられこととはどんなことでしょうか。主は私たちにもそのビジョンを与えておられます。これからそのビジョンをみんなで求めながら、主が与えておられる約束を信じて、前進していきましょう。強くあれ。雄々しくあれ。恐れてはならない。おののいてはならない。あなたが行くところどこででも、あなたの神、主があなたとともにおられるのだから。