戸をたたく花婿 雅歌5章2~7節

2021年8月29日(日)礼拝メッセージ(雅歌⑩)

聖書箇所:雅歌5章2~7節

タイトル:「戸をたたく花婿」

きょうは、雅歌5章2節から7節までの箇所からお話します。タイトルは、「戸をたたく花婿」です。

ここから新しい場面に入ります。前回までのところには、花嫁と結ばれた花婿が、花嫁の美しさをほめたたえました。たとえば、4章7節には「わが愛する者よ。あなたのすべては美しく、あなたは何の汚れもない。」とあります。こんなことを言われた花嫁はどんなうれしかったことでしょう。花嫁の美しさに花婿の心がすっかり奪われてしまったのです。これが花婿の花嫁を見る目、心です。これが花婿であるキリストが花嫁である教会、私たちクリスチャンを見る目です。すばらしいですね。

しかし、時間が経つにつれ花嫁の心がだんだん冷えていきます。花婿が帰宅し戸を開けておくれと言っても、なかなかベッドから起き上がろうとしないのです。面倒かけないでください。もうベッドに入ってしまったんですから、と言って。その結果、花婿は去って行きました。これが2回目です。花婿の姿はもうそこにはありませんでした。花嫁は後悔して花婿を捜しますが後の祭りです。見つけることができませんでした。

私たちにもこのようなことがあります。イエス様を信じてバプテスマを受けたばかりの頃は何をしても楽しいのですが、いつしか馴れ合いのようになってしまい、自分本位になってしまうことがあります。主が「開けておくれ」と頼んでも、それに応答するのが面倒くさいと思うようなことがあるのです。その結果、主がどこかへ行ってしまったかのように感じることがあります。そういうことがないように、私たちはいつも主をつかんで離さず、主と親密な関係を保つようにしなければなりません。

Ⅰ.戸をたたく花婿(2)

まず2節をご覧ください。「私は眠っていましたが、心は目覚めていました。すると声がしました。私の愛する方が戸をたたいています。「わが妹、わが愛する者よ。私の鳩よ。汚れのないひとよ。戸を開けておくれ。私の頭は露にぬれ、髪の毛も夜のしずくでぬれているので。」」

「私」とは「花嫁」のことです。花嫁は眠っていましたが、心は目覚めていました。寝てはいても心は起きているという状態です。こういうことがあります。からだは休んでいても心は目覚めているということが。なぜでしょうか?花婿がいなかったからです。花婿がいれば安心してぐっすりと休むこともできたでしょうが、花婿がいなかったので眠ろうとしてもなかなか寝付かれなかったのです。

すると声がしました。愛する花婿の声です。花婿が帰って来たのです。いったいどこに行っていたのでしょうか。こんなに遅くなるまで。まさか外をほっつき歩いていたということではないでしょう。仕事で遅くなったのでしょうか。わかりません。ここにはその理由が書かれていないので、どうしてそんなに遅くなったのかはわかりせらん。ただ一つだけ言えることは、どんなことがあっても花婿の花嫁に対する愛は変わらないということです。なぜなら、この方は花嫁のために自分のいのちを与えるほど愛しておられる方だからです。この方は私たちの主イエス・キリストです。この方はどんなことがあっても私たちを見捨てたり、見放したりはしません。

しかし主は、時にこのようなことをされることがあります。突如として、あなたから離れてしまったかのようなことをされることがあるのです。それは主があなたを愛していないからではありません。あなたへの愛が冷めてしまったからではないのです。むしろ、あなたとの関係をもっと深めるために、あえてそのようにされることがあるのです。そうすることによってそれまで以上に主を求めるようになるからです。たとえば、家族に何らかの問題や困難が起こるとき、それまで以上に夫婦の絆が深められることがあります。それまでは何とも思わなかったのに、いや、面倒くさいなあと思っていたのに、そうした試練を通されることによって夫婦の関係がもっと強められることがあります。こういう時だからこそ夫婦が力を合わせて艱難苦難を乗り越えようとするからです。そうした試練がお互いの関係を見つめ直し、冷え切った関係を取り戻すきっかけになります。これまで以上に二人の絆を深めていく機会となるのです。

皆さんもそのような経験をされたことがあるのではないでしょうか。あれは本当に辛い経験だったけど、あれがあったからこそ今の自分たちがある。あのことによって私たちの関係がもっと強められたということが。同じように、イエス様との関係においてもその関係がもっと強いものとなるために、主はあえて自分を隠されることがあるのです。イエス様はいつも私たちと一緒にいることを望んでおられますが、それは単に今の関係を維持するということではなく、あるいは、バックスライドしなければいいということでもなく、今まで以上に親密になることを望んでおられるのです。もっと深い関係を持ちたいと願っておられるのです。救われるということはすばらしいことですが、どんなに救われてもその喜びが冷めていき、こんなはずじゃなかった、一緒にいるのが苦痛です、と言いながら過ごすことがあるとしたら、どんなに残念なことでしょうか。イエス様はそのことに気付かせるために、あえてご自身を隠されることがあるのです。ですから私たちは、自分がどこから落ちたのか、どこからずれたのかを考えて、初めの愛に立ち返らなければなりません。

2節をもう一度ご覧ください。その次です。「すると声がしました。私の愛する方が戸をたたいています。「わが妹、わが愛する者よ。私の鳩よ。汚れのないひとよ。戸を開けておくれ。私の頭は露にぬれ、髪の毛も夜のしずくでぬれているので。」

別に何の問題もないと、そういう人の心は眠っているかのような状態になります。そのような時、花婿なるキリストは、その人の心の戸をたたいてくださるのです。実際そういう場面があります。黙示録3章20節です。「見よ、わたしは戸の外に立ってたたいている。だれでも、わたしの声を聞いて戸を開けるなら、わたしはその人のところに入って彼とともに食事をし、彼もわたしとともに食事をする。」

これはラオデキアの教会に宛てて書き送られた手紙です。彼らは冷たくもなく、熱くもありませんでした。彼らは、自分は富んでいる、豊かになった、足りないものは何もないと思っていましたが、実はみじめで、あわれで、貧しくて、盲目で、裸であるのが見えていませんでした。ですから、その目が見えるようになるために硝子体の手術を受けなさいとは言われませんでしたが、目に塗る目薬を買いなさい、と言われました。彼らに必要だったのは、熱心になって悔い改めることでした。そのために主は、彼らの心の戸をたたかれたのです。だれでも主の声を聞いて戸を開けるなら、主はその人のところに入って彼とともに食事をし、彼もまた主とともに食事をするようになります。食事をするというのは親しい交わりを持つということです。もし、イエス様の声を聞いて戸を開けるなら、イエス様はあなたのところに入ってあなたとともに食事をし、あなたもイエス様とともに食事をするのです。

ホルマン・ハントという画家が、戸をたたくキリストの絵(「世の光」)を描きました。キリストが片手にランプを手に持って、家の戸をノックしている絵です。キリストがたたく扉には、外にノブが付いていません。中にいる人が開けなければ、戸は開かないのです。

私は、この絵を見るたびに、胸が締め付けられる思いがします。というのは、かつて、ずいぶん長い間、キリストを外に立たせたまま戸をたたき続けさせたことがあるからです。キリストは、私の所に来たいと願っているのに、私のほうが「いいえ結構です」、「私にはやりたいことがありますから」「束縛されたくないのです」と勝手なことを言って、開けるのを拒んでいました。今にして、何ともったいない、また何と申し訳ないことをしていたのだろうと思います。

しかし、キリストは、そんな傲慢で強情な私を、なお愛して、忍耐して、戸をたたき続けてくださいました。そのキリストの愛がわかったのは、自分の罪がわかり、神の前に悔い改め、この私の罪のためにキリストは十字架で死なれたのだと信じた時でした。こんな罪深い者のために、罪のない神の子がよくぞ死んでくださったと思います。

イエス様は、決して戸をこじ開けたり、蹴破ったりして、無理に入ろうとはしません。ただ、中の人が開けるのを待って、やさしく戸をたたき続けるのです。

キリストは、あなたの心の戸もをたたいておられます。あなたがその声を聞いて、自分で戸を開けるなら、キリストはいつでも中に入られ、あなたの魂の内に、すばらしい救いのみ業をなしてくださいます。

声を聞いているのに、戸を開けるのをためらったり、拒んだりしていると、やがてキリストは前から立ち去ってしまうかもしれません。そのときになって「しまった」ということにならないように、キリストの声に応答して、今、心の扉を開けていただきたいと思います。

また、ここで花婿は、「わが妹、わが愛する者よ。私の鳩よ。汚れてのないひとよ。戸を開けておくれ。私の頭はぬれ、私の髪の毛も夜のしずくでぬれている」と言っています。「私の妹」という表現は4章9節にも出てきましたが、血を分けた妹のような存在であるということです。また、「私の鳩よ」という表現は、花嫁が鳩のように純粋で清らかな存在であるということです。花婿にとって花嫁は「妹」のような存在であり、「鳩」のような存在なのです。何年経っても花婿の花嫁に対する愛は変わりません。変わってしまったのは花嫁の方です。結婚したばかりの頃はあれほど燃えていたのに、いつの間にか花婿に対する愛が冷えてしまいました。「もうイヤ!勝手にして。あなたなんて別にいてもいなくてもどうでもいい。」なんて言わんばかりです。しかし花婿はそんな花嫁に、「私の妹、わが愛する者よ。私の鳩よ。汚れのないひとよ。戸を開けておくれ。」と呼び掛けるのです。なぜでしょうか。ここには「私の頭は露にぬれ、髪の毛も夜のしずくでぬれているので」とあります。イスラエルは昼と夜の寒暖差があるので、特に夏になると夜露が降りるのです。そのため花婿の頭はびしょびしょに濡れていました。当然夜になると冷えてきます。ですから部屋の中に入ってタオルで頭を拭き、からだを温めてほしかったのです。だから「戸を開けておくれ」と呼びかけているのです。

皆さんには、この花婿の叫びが聞こえているでしょうか。あなたの花婿イエスは、戸の外にたってたたいておられます。その声を聞いてドアを開け、中に入れてくれますか。それとも、それとも、「別にいなくても間に合っています」といって無視するでしょうか。花婿イエスの頭は露に濡れ、身体も冷え切っています。「戸を開けておくれ」と言われる主の御声に応答し、あなたの心の戸を開けていただきたいと思います。

Ⅱ.去って行った花婿(3-6)

それに対して花嫁は、どのように応答したでしょうか。3節から6節までをご覧ください。まず3節だけをお読みします。「私は衣を脱いでしまいました。どうして、また着られるでしょう。足も洗ってしまいました。どうして、また汚せるでしょう。」どういうことでしょうか。

「衣」とは、くるぶしまで届く着物のことです。花嫁はそれを脱いでしまいました。つまり、もう寝支度をしてしまったということです。「足も洗ってしまいました」当時、道は舗装されていませんでしたから、また、履物もサンダルのようなものでしたから、外から帰った時やベッドに入る時などは足を洗う習慣がありました。それなのに、またドアのところまで行ったら足が汚れてしまいます。また足を洗うのですか?面倒くさいことです。そう言って断っているのです。なんて怠惰な妻でしょうか。自分の夫が帰宅したというのに面倒くさいと言って断るとは、何とも冷たい妻です。私の妻は決してこんなことは言いません。たぶん。どんなに疲れていても、どんなに面倒臭くてもベッドから起き上がって来て、ドアを開けてくれます。時々、何の反応もない時もあります。見ると熟睡しています。そういう時もあります。でも、起きていたら面倒くさいなんて決して言いません。

この花嫁は私たちの姿です。私たちも時々このようになることがあります。主が私たちの心のドアをノックしているのに、「今日は疲れているのでまた明日にしてください」とか、「今、少し忙しいんです。もう少し暇になったら開けます」と言って断ることがあります。でもそんな時だからこそ主は、私たちの心の戸をたたかれるのです。あなたはどうでしょうか。もう足も洗ってしまいました、面倒かけないでください、と言って断りますか。あまりたたかないでください。たまにゆっくりさせてくださいと言って断りますか。主イエス様と交わることができる絶好の機会を逃さないでください。

実はこれは花嫁にとって、初めてのことではありませんでした。過去にもそんなことがありました。覚えていますか。3章です。ちょっと振り返ってみましょう。3章11節のところで、冬は去り、春がやって来ました。新しい季節がやって来たのだから、さあ、立って、出ておいでと呼び掛けられたのに、彼女は出て行くことができませんでした。これは二人がまだ結婚する前のお付き合いをしていた時のことです。それでも彼女は自分の失敗に気付き花婿を捜しだすと、花婿をつかんで離すことをせず、彼女の実家の奥の間で親しい時を持ちました。やっとのことでそれを乗り越えたのに、またここで同じような失敗を繰り返しています。

するとどうなったでしょうか。4節をご覧ください。「私の愛する方が、戸の穴あたりに手を差し入れ、私の胸は、あの方のゆえにときめきました。私は起きて、私の愛する方のために戸を開けようとしました。私の手から没薬が滴り、私の指から没薬の液がかんぬきの取っ手に流れ落ちました。」

「戸の穴に手を差し入れる」とは、花婿がピッキングをしているということではありません。この戸の穴とは、誰がやって来たのかを見るための小さな穴のようなものです。花婿はこの小さな穴から手を差し入れ、戸を開けてくれるようにと合図をしたのです。そのとき、彼女の胸はときめきました。そこまでして自分と時間を過ごそうとする花婿に心が揺れ動いたのです。そしてベッドから起きて戸を開けようとしました。すると、花嫁の手から没薬が滴り、指から没薬の液がかんぬきの取っ手に流れ落ちました。どういうことでしょうか。

この没薬とは、花嫁が寝る前に手に塗っておくものです。それは甘い香りがしました。それは、性的欲情をかき立てるものでした。つまりそれは、夫婦の営みのために用いられるものだったのです。その没薬が彼女の手から滴り落ちました。それほどたくさん塗ったとは考えられませんが、おそらく滴り落ちるほどたっぷり塗ったというでしょう。

この「没薬」という言葉を聞くと、皆さんの中には何かピンと来る方もおられるのではないでしょうか。そうです、これは死人のためにも用いられるものでした。それがかんぬきの取っ手に落ちたのです。かんぬきとは、扉を閉じて内側から固めるための横木で、貫木(かんのき)とも書きますが、それはイエス様の十字架を指し示すものでもありました。イエス様はこの横木を担いでゴルゴタの丘に行かれました。いったいだれのためでしょうか。それはひとえに私のためであり、あなたのためでした。あなたのすべての罪を背負って十字架にかかってくださいました。それゆえに、私たちのすべての罪は赦されて、永遠のいのちが与えられたのです。イエス様はあなたのために没薬を塗られたのです。ここからも、イエス様の愛がどれほど尊いものであるか、どれほど大きいかを感じます。あなたはそれほどまでに愛されているのです。

6節をご覧ください。「愛する方のために戸を開けると、愛する方は、背を向けて去って行きました。私は、あの方のことばで気を失うばかりでした。あの方を捜しても、見つけることができませんでした。あの方を呼んでも、あの方は答えられませんでした。」

花婿の切なるアプローチに心動かされ、ようやくの思いで花嫁が戸を開けると、そこに花婿の姿はありませんでした。花婿は背を向けて去って行ったのです。せっかく戸を開けたのに背を向けて去っていくなんてひどい!と思う方もおられるかと思いますが、もとはと言えば花嫁がなかなか開けようとしなかったのが問題です。この時花婿が放ったことばに花嫁は気を失うばかりでした。この時花婿が何を言ったのかはわかりません。でもそれは花嫁が気を失うばかりだとあるので、相当ショッキングなことだったと思います。

私たちもイエス様の招きに応じないと、衝撃的なことばを聞くことになります。それは必ずしも悪いことばというよりも、心に突き刺さるようなことばです。たとえば、サマリヤの女がイエス様とお話をしていたとき、イエス様は「わたしが与える水を飲む人は、いつまでも決して渇くことがなく、その人の内で泉となり、永遠のいのちへの水が湧き出ます。」と言われると、彼女は「私が渇くことがないように、その水を私にください。」と言いました。 

するとイエス様は彼女にこのように言われました。「行って、あなたの夫をここに呼んで来なさい。」(ヨハネ4:16)

それは彼女にとって痛いことばでした。それはちょうど石の割れ目に釘を打つようなものでした。そこだけには触れないでください。そうした部分をさらけ出すようにとイエス様は言われたのです。それは彼女にとって本当に衝撃的なことばでした。

同じです。花嫁にとって触れてほしくないこと、そうした心の闇をえぐり出すかかのようなことばを言われたのです。それはその後、彼女が必死になって花婿を捜し求めるようになったことからも想像できます。このように、時として主は、私たちにとって気を失うようなことを言われることがあります。けれども、それは私たちを傷つけるためではなく、私たちがそのことに気付き、もっと主を求めるようになるために、あえてそのようなことを言われることがあるのです。そのことをしっかり受け止めたいと思います。

花嫁は、必死になって花婿を捜しましたが、どこを捜しても見つけることができませんでした。花婿を呼んでも、花婿は答えられませんでした。どうしてでしょうか。先ほども申し上げように、花嫁が花婿を見失うのはこれが二回目です。最初の時と今回の時を比べてみると、共通点もありますが相違点もあります。その一番の違いは何かというと、花婿を見失った原因です。最初の時は婚約時代でしたが、そもそも花嫁は花婿のことをあまりよく知りませんでした。だから、花婿が「さあ立って、出ておいで」と言われても、花嫁は出て行くことをしなかったのです。

しかし、今回は違います。今回は花嫁と花婿と結ばれ、共に生活する中で花婿のすばらしさ体験していました。そのすばらしさ、その麗しさ、その偉大さを十分知っていたのです。にもかかわらず、彼女は花婿の呼びかけにすぐに応答しませんでした。それは花婿のことを知らなかったからではなく、花婿に関心がなかったからです。そうした花嫁の無関心が、花婿を見失う大きな原因だったのです。

もしかすると、私たちにもこのようなことがあるかもしれません。イエス様を知らないからではなく、知っているにもかかわらず、信じているにもかかわらず、無関心であるがゆえに、主を見失っていることがあります。これはただ単に私たちの怠慢によるものです。もうお風呂にも入ってしまったんですから、寝る支度も整えたんですから、わざわざ起きたくありませんと、自分の都合によって拒んでしまうことがあるのです。ついさっきまではハネムーンのように燃えていたのに、いつしか冷え切っているのです。それが大事だとわかっているのに自分のことでいっぱいになって、イエス様のことには関心が向かないのです。そうなると、花婿は去って行かれます。捜しても、捜しても、なかなか見つけることができなくなってしまのです。そうならないように注意したいですね。

Ⅲ.花嫁を打ちたたいた夜回りたち(7)

最後に7節をご覧ください。町を巡回している夜回りたちが私を見つけて、私を打ち、傷つけました。城壁を守る者たちも、私のかぶり物をはぎ取りました。」

花嫁は自分の過ちに気付き、必死になって花婿を捜しました。すると町を巡回している夜回りが彼女を見付け、彼女を打ちたたき、傷つけました。城壁を守る者たちも、彼女のかぶり物をはぎ取りました。想像してください。夜中に女性が一人で外をふらついているのです。夜回りが怪しいと思うのは当然でしょう。もしかしたら薬でもやっているんじゃないかと疑っても不思議ではありません。それで彼女を捕らえて打ちたたき、かぶり物をはぎ取るのです。

「夜回り」とは「夜警」とか「警備員」のことです。彼らはそうした不審な人物を見つけると、容赦なく打ちたたき、かぶり物をはぎ取ります。「かぶり物」とは「ベール」のことです。ベールをはぎ取ったのです。これが花婿を捜しに出た花嫁に夜回りたちがしたことです。

しかし、真の夜回りはそのようなことはしません。ガラテヤ6章1節には、「兄弟たち。もしだれかが何かの過ちに陥っていることが分かったなら、御霊の人であるあなたがたは、柔和な心でその人を正してあげなさい。また、自分自身も誘惑に陥らないように気をつけなさい。」とあります。これが真の夜回りがすることです。もしだれかが何かの過ちに陥っているなら、柔和な心で正してあげます。打ちたたいたり、ベールをはぎ取ったりはしないのです。

これが私たちの主イエスです。イエス様は真の夜回りです。無知と無関心のゆえに神から遠く離れてしまった私たちを打ちたたく代わりにご自身が打ちたたかれ、十字架に掛かって死んでくださいました。それは御子を信じる者がひとりも滅びることなく、永遠のいのちを得るためです。そうです、イエス様はあなたのためにご自分のいのちを与えてくださったのです。それほどまでにあなたを愛してくださいました。あなたが誰かに責められたとき、傷つけられたとき、痛みつけられたとき、ぜひこのことを思い起こしてほしいと思います。イエス様はあなたをこよなく愛しているということを。

ヨハネの福音書8章に、姦淫の現場で捕らえられた女がイエス様のところに連れて来られた出来事が記されてあります。律法学者やパリサイ人は、その女を彼らの真ん中に立たせ、イエスに「先生、この女は姦淫の現場で捕らえられました。モーセは律法の中で、こういう女を石打ちにするよう私たちに命じています。あなたは何と言われますか。」(8:4-5)

するとイエスは指で地面に何を書いておられましたが、彼らが問い続けて止めなかったので、身を起こしてこう言われました。「あなたがたの中で罪のない者が、まずこの人に人を投げなさい。」(7)

すると、一人、一人と去って行き、真ん中にいた女とイエス様だけが残されました。すると、イエスは身を起こして、彼女に言われました。「女の人よ、彼らはどこにいますか。だれもあなたにさばきを下さらなかったのですか。」(10)彼女が「はい、だれも。」と答えると、イエスは、「わたしもあなたを罪に定めない。行きなさい。これからは、決して罪を犯してはなりません。」(11)と言われました。

人々を罪に定める権威を持っておられたイエス様は、彼女に罪の赦しを宣言されました。罪をさばく権威のない人たちが人をさばこうとし、人をさばく権威を持っておられたイエス様がさばこうとされませんでした。律法学者やパリサイ人たちは、誰からも一番よく見えるところにこの女性をひきずり出しその罪をあばき出そうとしましたが、イエスはその女性に背を向けて、彼女の罪を見ないようにされました。どうしてでしょうか。それは主が彼女の罪を軽く扱っておられたからではありません。主が彼女の罪を背負われ、彼女が受けなければならない罪の刑罰を代わりに受けてくださったからです。これが、イエス様が私たちに対して取ってくださることです。本物の夜回りは、だれかが何かの過ちに陥っていたら、柔和な心でその人を正してあげるのです。ただ非難して、拒否して、責め立てて、打ちたたいて、ベールをはぎ取るのではなく、柔和な心で正して上げます。

しかし、時に間違いを犯した人は正されることが必要なので、厳しいことを告げられることもあります。まるで責め立てられているように感じてしまうこともあるかもしれません。でも忘れないでください。私たちの羊飼いであり、私たちの夜回りであられる主は、あなたを愛してやまないということを。イエス様があなたを見捨てるようなことは決してありません。むしろ、イエス様はあなたともっと近くになりたいし、あなたとの関係を深めたいと願っておられるのです。

あなたには、そんなイエス様の思いが届いているでしょうか。もしかしたら、霊的倦怠期を迎えておられるかもしれません。自分のことで一杯になり、イエス様との関係が後回しになっているということはないでしょうか。主はあなたの心の戸をたたいておられます。その御声に応答して、あなたの心の扉を開いてください。