信仰の働き、愛の労苦、望みの忍耐 Iテサロニケ1章1~3節

レジュメ

聖書箇所:Iテサロニケ1章1~3節

タイトル:「信仰の働き、愛の労苦、望みの忍耐」

 きょうから、雅歌と並行して、このテサロニケ人への手紙から学びたいと思います。この手紙はパウロからテサロニケ人の教会に宛てて書かれました。新約聖書にある多くの手紙はパウロによって書かれましたが、その中でもこのテサロニケ人への手紙は、最も初期に書かれたものです。

パウロがテサロニケを訪問したのは、彼の第二回目の伝道旅行の時でした。アジアでみことばを語ることを聖霊によって禁じられたパウロは、トロアスに下りますが、そこで彼は一つの夢を見ます。それは、ひとりのマケドニア人が、「マケドニアに渡って来て、私たちを助けてください」(使徒16:10)と懇願するものでした。その夢を見たパウロは、それは神が自分たちを招いて彼らに福音を宣べさせるためだと確信し、ただちにマケドニアに渡ることにしました。ヨーロッパでの伝道の始まりです。こうして福音がエーゲ海を渡り、初めてヨーロッパへもたらされることになったのです。

 マケドニアに渡ったパウロたちは、サモトラケ、ネアポリスに行き、そしてマケドニア地方の主要な町であったピリピに向かいました。しかし、そこに滞在している間に投獄されるという苦しみを体験しましたが、そのことを通して、牢屋の看守とその家族全員が救われるという御業が行われました。

その次に向かったのが、このテサロニケです。その時の様子が使徒の働き17章1~10節にありますので、ちょっと長いですが、開いてみたいと思います。

「1 パウロとシラスは、アンピポリスとアポロニアを通って、テサロニケに行った。そこにはユダヤ人の会堂があった。2 パウロは、いつものように人々のところに入って行き、三回の安息日にわたって、聖書に基づいて彼らと論じ合った。3 そして、「キリストは苦しみを受け、死者の中からよみがえらなければならなかったのです。私があなたがたに宣べ伝えている、このイエスこそキリストです」と説明し、また論証した。

4 彼らのうちのある者たちは納得して、パウロとシラスに従った。神を敬う大勢のギリシア人たちや、かなりの数の有力な婦人たちも同様であった。5 ところが、ユダヤ人たちはねたみに駆られ、広場にいるならず者たちを集め、暴動を起こして町を混乱させた。そしてヤソンの家を襲い、二人を捜して集まった会衆の前に引き出そうとした。

6 しかし、二人が見つからないので、ヤソンと兄弟たち何人かを町の役人たちのところに引いて行き、大声で言った。「世界中を騒がせてきた者たちが、ここにも来ています。7 ヤソンが家に迎え入れたのです。彼らはみな、『イエスという別の王がいる』と言って、カエサルの詔勅に背く行いをしています。」8 これを聞いた群衆と町の役人たちは動揺した。9 役人たちは、ヤソンとほかの者たちから保証金を取ったうえで釈放した。10 兄弟たちはすぐ、夜のうちにパウロとシラスをベレアに送り出した。そこに着くと、二人はユダヤ人の会堂に入って行った。」

ここで重要なのは、2節にある「3回の安息日にわたって、聖書に基づいて彼らと論じ合った」ということです。3回の安息日とは3回の土曜日にわたってということで、3週間のことを意味しています。つまり、パウロたちはこのテサロニケには3週間から1か月くらいしかいることができなかったということです。そんな短い時間でしたがパウロたちが聖書に基づいてイエスこそキリストであると説明し、論証すると、彼らのうちの幾人かはよくわかって、パウロたちに従って信仰に入りましたが、ユダヤ人たちはねたみにかられて騒ぎを起こしたので、このままではどうなってしまうかわからないと、隣のベレヤという町に向かったのです。それにしてもすごいですね。6節には「世界中を騒がせて来た者たちが、ここにも入り込んでいます。」と言われています。まだ伝道してそんなに経っていなかったのに、世界中を騒がせていると言われるほどの影響を与えていたのです。

それにしても、パウロが気がかりだったのはテサロニケのクリスチャンたちのことでした。彼らは救われたばかりなのに、そうした激しい迫害の中で信仰に立っていることができるだろうか。中には離れてしまう人もいるのではないか。もしかしたら、根こそぎにされたかもしれない・・・。そんな不安と恐れの中で、パウロはアテネから弟子のテモテをテサロニケに遣わすのです。

 テサロニケから戻ってきたテモテは、パウロたちは次の伝道地コリントにいましたが、そこで彼らが信仰に堅く立っているということ、そしてパウロたちと再会することを心待ちにしていると報告しました。パウロはそれを聞くととても喜びました。しかし、中にはキリストの再臨について誤って理解している人たちがいることを聞いて、彼らに福音の基本的な教えを伝えるために、また、彼が信仰に堅く立つようにと励ますために、この手紙を書いたのです。

皆さん、聖書の教えを正しく理解することは大切なことです。それによって結果が決まるからです。何を、どのように信じているかによって、そのライフスタイルが決まるのです。ですから、聖書を正しく理解することはとても重要です。教会は雰囲気も大切ですが、それよりも、聖書の正しい理解が必要です。このテサロニケ人の手紙を通して、聖書の基本的な教えを一つ一つ学んでいきたいと思います。

Ⅰ.恵みと平安があなたがたにありますように(1)

早速、本文を見ていきましょう。まず1節をご覧ください。「パウロ、シルワノ、テモテから、父なる神と主イエス・キリストにあるテサロニケ人の教会へ。恵みと平安があなたがたの上にありますように。」

パウロはいつものようにあいさつから手紙を書き始めています。ここでは、差出人がパウロだけでなくシルワノ、テモテからとなっています。シルワノとはシラスのことです。シラスは、パウロが第二回目の伝道旅行に出かける際、バルナバに代わってパウロの同行者となった人物です。テモテは、その第二回伝道旅行の途中、ルステラで一行に加わりました。そのシルワノとテモテの名前も記されているのです。なぜでしょうか。

一つには、このテサロニケでの伝道はパウロ一人によって行われたのではなく、そこにはシルワノとテモテもいたからです。そのシルワノとテモテの名前も書き記すことによって、それを受け取ったテサロニケの人たちが当時のことを懐かしみ、親しみを感じるとともに、大きな慰めと励ましが与えられるのではないかと思ってからです。

もう一つの理由は、このテサロニケでの働きはパウロ一人によってなされたのではなく、そこにはこのシルワノやテモテもいて、彼らとの協力によって成されたものであることを強調したかったのではないでしょうか。つまり、宣教の働きは決してパウロのような一人の人によって成されるものではなく、そこにはシルワノやテモテのような協力者や、あるいはここには名前が記されないような人たちの助け、チームワークによってなされるものであるということです。確かにパウロは偉大な伝道者でしたが、伝道はパウロ一人の手によって成し遂げられるものではなく、そうした様々な人たちとの協力関係によって成し遂げられるということです。そこにパウロがいて、またそれを支える人たちがいて、そのような人たちが祈り合い、助け合ってこそ、成し得ることができるのです。特に、背後で祈ってくれる人たちの存在はどれほど大きな力でしょうか。伝道というと、実際にそれに携わる人たちだけの働きのように見えますが、実はこうした背後にある人たちの祈りや、それを支える人たちの協力があってこそ力強く前進していくものなのです。

1節をもう一度ご覧ください。ここにはテサロニケ人の教会へ、とあります。これはパウロからテサロニケ人の教会に宛てて書かれた手紙です。しかし、ただのテサロニケ人の教会ではありません。ここには、「父なる神と主イエス・キリストにあるテサロニケの教会へ」とあります。どういうことでしょうか?それはこのテサロニケ人の教会は神とキリストの教会であるということです。この教会はパウロが開拓した教会ですがパウロの教会ではなく、神の教会なのです。たとえそれがパウロによって開拓された教会であっても、キリストにある神の教会なのです。ですから、教会を構成しているクリスチャン一人一人は神とキリストのうちにあって結ばれ、生かされてこそ成長することができるのです。たとえその教会の設立にどんなに貢献した人であっても、あるいは、その教会にどんなに長くいる人であっても、神とキリストの地位に取って代わることはできません。教会はキリストのからだであり、神ご自身のものなのです。それゆえ、教会はみことばと祈りによって神とキリストに堅く結びついてこそしっかりと立ち続けることができるのです。パウロはこのテサロニケに1か月ほどしかいられませんでした。そして、残された教会は激しい迫害の中にありました。しかし、それでも彼らがしっかりと信仰にとどまることができたのは、パウロが宣べ伝えた神と主イエス・キリストにとどまっていたからなのです。

そのテサロニケの教会のためにパウロは祈っています。「恵みと平安があなたがたの上にありますように。」この順序が大切です。「平安と恵み」ではなく、「恵みと平安」です。恵みがあってこそ平安があります。その逆ではありません。神の恵みを知らなければ平安はないということです。神の恵みとは何でしょうか。それはイエス・キリストです。イエス・キリストによる救いです。それは一方的な神の恵みによるものです。エペソ人への手紙2章5節には、「あなたがたが救われたのは、ただ恵みによるのです。」とあります。何の功績もない者が救われました。ただ救い主イエス・キリストを信じただけで救われたのです。自分の力ではどうすることもできませんでした。イエス・キリストを救い主と信じたことで救われたのです。それが恵みです。

先日、大田原の伊藤得子姉のご主人が召されました。8月8日の日曜日に、ご主人が体調を崩して入院したとお電話がありました。おそらく、まだ検査の結果が出ていませんが、おそらく肺がんではないかということでした。結婚して60年、ずっとイエス様のことを伝えてきたのにちっとも信じると言わないので、毎日お手紙を書いているということでした。コロナ禍で面会することができないからです。伊藤さんの願いは、ただイエス様を信じてほしいということでした。そのご主人が今わの(きわ)にいました。もう無理かなぁと思っていたら、翌々日に病院から電話があり、容体が急変したので来てほしいということでした。それで急いで病院に駆けつけると、このような時期ですから普通であれば面会が叶いませんが、病室に入れていただくことができただけでなく、娘の奈保子さんと3人で賛美とお祈りの時を持つことができました。4~5時間も。しかも、普通看護師さんが出入りし落ち着かないのですが、その時はほとんど誰も病室に入って来ませんでした。そこで得子姉がこれが最期かと思って、「お父さん、今までもずっとお話してきたけど、イエス様にごめんなさいしないと天国に入れていただけないの。だから、イエス様ごめんなさいして。イエス様赦してください。イエス様を信じます。」と言って言うと、ご主人は酸素マスク越しにはっきりと応答してくれたのです。おそらく、自分の死を悟り、これまで得子姉が信じてきたイエス様を信じて天国に入れていただきたいと思ったのでしょう。そのようにして得子姉の祈りが聞かれたのです。結婚して60年、得子姉は全然聞いいないと思っていましたが、実はちゃんと聞いておられ、最後の最後に救いに導かれたのです。これは神の一方的な神の恵みではないでしょうか。若い時に信仰に導かれる人もいれば、青年期、壮年期に導かれる人もいます。そして、得子さんのご主人のように今わの際で信仰に導かれる人もいます。しかし、永遠のいのちという報酬は、皆同じです。9時に来た人も、12時に来た人も、3時に来た人も、5時に来た人も、永遠のいのちという同じ報酬、最高の恵みが与えられるのです。だったら夕方5時に信じようと言わないでください。 あなたの一生がどれだけあるのかは誰も知らないからです。それはただ神のみぞ知ることです。「確かに、今は恵みの時、今は救いの日です。」(Ⅱコリント6:2)

この恵みがわかると平安がもたらされます。なぜなら、この平安は神によって罪が赦され神との平和が与えられたことによってもたらされるものだからです。

「わたしは、あなたがたに平安を残します。わたしは、あなたがたにわたしの平安を与えます。わたしがあなたがたに与えるのは、世が与えるのとは違います。あなたがたは心を騒がしてはなりません。恐れてはなりません。」(ヨハネ14:27)  

  神が私たちに与えてくださる平安は、世が与えるのとは違います。この世が与える平安は一時的なものです。掴んだかと思ったらすぐに消えてしまうようなはかないものです。しかし、神が与えくださる平安は、この世が与えるのとは違います。それはこの恵みに基づいた平安なのです。どんなことがあっても奪い取られることはありません。主イエスはこのような平安を与えてくださるのです。それはイエス様を信じることによって神との敵対関係が解消され、神が共にいてくださることによってもたらされるものなのです。

 Ⅱ.いつも神に祈っています(2)

 次に、2節をご覧ください。パウロはテサロニケの人たちにあいさつを送ると、今度は彼らのために祈ります。「私たちは、あなたがたのことを覚えて祈るとき、あなたがたすべてについて、いつも神に感謝しています。」

 パウロはいつもテサロニケの人たちのために祈っていました。彼の祈りは時々思い出したかのように祈りではありませんでした。また、ほんの少数の人たちのためだけの祈りでもありませんでした。彼の祈りは彼らすべてのために、いつも祈る祈りでした。このような祈りは、神との交わりと祈りに十分時間を割かなければできないことです。テサロニケ人の教会はこうした祈りによって生まれました。それはパウロのこうした祈りに、聖霊なる神が働いてくださったからです。「聖霊によらなければ、だれも「イエスは主です」と言うことはできません。」(Ⅰコリント12:3)とあるとおりです。パウロの伝道のすべては、こうした祈りによるものだったのです。

様々な情報が飛び交うこの時代にあってそうした情報に振り回されてしまうことがありますが、しかし、昔も今も変わらない神の働きは、祈りによるものであるということを信じ、私たちもいつも、すべての人のために、心を合わせて祈る教会でありたいと思います。

 Ⅲ.信仰の働き、愛の労苦、望みの忍耐(3)

 第三のことは、パウロの祈りの内容です。3節をご覧ください。ここには、「私たちの父である神の御前に、あなたがたの信仰から出た働きと、愛から生まれた労苦、私たちの主イエス・キリストに対する望みに支えられた忍耐を、絶えず思い起こしているからです。」とあります。

パウロはいつも彼らの信仰の働き、愛の労苦、主イエス・キリストへの望みの忍耐を思い起こしていました。

「信仰の働き」とは何でしょうか。この言葉は一見、矛盾しているようにも聞こえます。なぜなら、信仰は信じることであって、働くことではないからです。信仰と行いは、相容れないもののように感じます。しかし、本当の信仰には必ず行いが伴います。ヤコブはこう言っています。「信仰も、もし行いがなかったら、それだけでは死んだものです。」(ヤコブ2:17)これはどういうことかというと、私たちが救われるためにはただ信じるだけでいいのですが、そのように信じたのであれば、そこには結果として必ず行いが伴うということです。もし行いがなかったら、そのような信仰は死んだものと同じです。これは当然と言えば当然のことです。神の恵みがわかり、イエス・キリストによって救われたら、感謝と喜びに満ち溢れ、それに応答したいと思うようになるからです。もしそれがないとしたら、本当に信じたのかどうか疑問ですし、もしかすると、救いについて正しく教えられていないという可能性もあります。テサロニケの教会の人たちには、こうした働きが伴っていました。それは彼らが信仰が本物であったということです。

それだけではりません。彼らには「愛の労苦」がありました。「愛の労苦」とは何でしょうか。この「労苦」と訳されたことばは「打つ」とか「たたく」、「切る」という意味から派生したことばです。つまり、痛みが伴うということです。

皆さん、愛には痛みが伴います。愛しても、愛しても報われなかったらどうでしょうか。辛いです。苦しいです。それは打ちたたかれたり、切られたりしたかのような気持ちになります。ですから、本当の愛には痛みが伴うのです。労苦が伴います。それは神の愛を考えるとわかります。「神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに世を愛された。それは御子を信じる者が、一人として滅びることなく、永遠のいのちを持つためである。」(ヨハネ3:16)

神はそのひとり子をこの世にお与えになったほどに世を愛されました。それは御子を信じる者がひとりとして滅びることなく、永遠のいのちを持つためです。ここに、それがどれほどの痛みがあったかが記されてあります。それは、そのひとり子をお与えになったほどに」です。この「ほどに」ということばの中に、そがどれほど辛く、苦しいものであったのかが現わされています。

私の二番目の娘は19歳のとき、原因不明の難病に襲われ、車いすでの生活を余儀なくされました。後でその病気は「ネマリンミオパチー」という難病であることがわかるのですが、その時はあまりよくわからなくて、おそらく視力も完全に失い、失明するでしょう、と医師から告げられました。その時私は車の中で一人大声で泣いたのを覚えています。ましてそのいのちが取られるとしたら、どれほど辛く、苦しいことでしょう。これが愛です。神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに、あなたを愛してくださいました。それなのに、その愛を受け入れず、見向きもしないとしたら、どれほど悲しいことでしょうか。愛には労苦が伴うのです。

しかし、愛することをやめてはいけません。なぜなら、私たちはこの愛によって救われたからです。たとえ報いが得られなくても、たとえ感謝されなくても、愛することを止めてはならないのです。ことばや口先だけで愛することをせず、行いと真実をもって愛さなければなりません(Ⅰヨハネ3:18 )。テサロニケのクリスチャンたちには、このような真実な愛がありました。

そしてもう一つ、ここには「主イエス・キリストに対する望みに支えられた忍耐」とあります。主イエス・キリストに対する望みに支えられた忍耐とは何でしょうか?これは主イエス・キリストが再び来られるという再臨の希望のことです。聖書には、イエス様が再臨されるとき、私たちは一挙に雲の中に引き上げられ、空中で主と会うようになると教えられています。これが真の希望です。4章13~18節をお開きください。

「眠っている人たちについては、兄弟たち、あなたがたに知らずにいてほしくありません。あなたがたが、望みのない他の人々のように悲しまないためです。イエスが死んで復活された、と私たちが信じているなら、神はまた同じように、イエスにあって眠った人たちを、イエスとともに連れて来られるはずです。私たちは主のことばによって、あなたがたに伝えます。生きている私たちは、主の来臨まで残っているなら、眠った人たちより先になることは決してありません。すなわち、号令と御使いのかしらの声と神のラッパの響きとともに、主ご自身が天から下って来られます。そしてまず、キリストにある死者がよみがえり、それから、生き残っている私たちが、彼らと一緒に雲に包まれて引き上げられ、空中で主と会うのです。こうして私たちは、いつまでも主とともにいることになります。ですから、これらのことばをもって互いに励まし合いなさい。」

テサロニケ人の教会の中には、この主の再臨について誤って理解している人たちがいました。人は死んだら終わりだと考えている人たちがいたのです。であれば、イエス様を信じてもいったい何の意味があるというのでしょう。何の意味もありません。その結果、他の望みのない人たちのように悲しむ人たちがいたのです。

そこでパウロはそうじゃないんだと、眠った人たちについて知らないでいてほしくない、ちゃんと知ってほしいと、ここで教えているのです。それは彼らが他の望みのない人たちのように悲しまないためです。イエスが死んで復活されたと信じているなら、神はまた同じように、イエスにあって眠った人たちを連れて来るのです。どうやって?復活することによってです。主ご自身が天から下って来られるとき、まずキリストを信じて死んだ人たちが活き返り、次に、地上に生きている人たちが、彼らと一緒に空中に引き上げられ、空中で主と会うことになります。これを神学用語で「空中携挙」と言います。そのようにして、私たちはいつまでも主とともにいることになるのです。私たちは死んで終わりではありません。よみがえるのです。よみがえるといっても、このような肉体によみがえるのではありません。霊のからだです。神の国は物質的なものではなく霊だからです。このようなことをお話すると、牧師さん、大丈夫ですか、いよいよきましたか?と言われそうですが、これは本当のことです。これは私が言っていることではなく聖書が言っていることです。私たちの理性ではなかなか受け入れることが難しいかもしれませんが、永遠に変わることがない聖書がこのように言っているのですから間違いありません。一つだけ確かなことは、もし人が死んだらどうなるのかがわからなければ、ここにあるように、望みのない人々のように悲しむことになるということです。しかし、このことをはっきり知っている人にとっては希望となります。ですから、この最後のところでパウロは「ですから、これらのことばをもって互いに励まし合いなさい。」と言っているのです。これがイエス・キリストに対する望みです。

しかし、この望みを持つためには忍耐が求められます。それが近いということはわかっていても、それがいつなのかがはっきりわからないからです。いつまで続くのか、どこまで行くのか、全くわからない中でずっと我慢することはたやすいことではありません。しかし、そのような中にあっても私たちは、忍耐をもって主イエス・キリストが再び来られる時を待ち望まなければなりません。それがあるからこそ私たちはあきらめたり、投げ出したり、絶望したりしないで、最後まで耐え忍ぶことができるからです。

Ⅰコリント13章13節を開いてください。ここには、「こういうわけで、いつまでも残るのは信仰と希望と愛、これら三つです。その中で一番すぐれているのは愛です。」とあります。これは結婚式でもよく読まれる箇所で、なじみのある聖書の言葉ですが、この信仰と希望と愛こそが、私たちを堅く立たせてくれるのです。

信仰のない働きはむなしいものです。愛のない労苦、望みのない忍耐は長続きしません。いつまでも残るものは信仰と希望と愛です。テサロニケの教会には、この信仰と希望と愛がありました。信仰の働き、愛の労苦、望みの忍耐がありました。そして、それが彼らの励ましとなり、慰めとなり、希望となり、激しい迫害の中にあっても信仰に堅く立ち続ける力となったのです。たった3週間、あるいは1か月だったかもしれません。パウロが、シルワノが、テモテがその地を離れて行かなければならないという状況にあっても彼らがしっかりと信仰に立ち続けることができたのは、この信仰と希望と愛があったからなのです。

皆さんはどうでしょうか。信仰の働きがありますか。愛の労苦はどうでしょう。望みの忍耐がありますか。あなたがクリスチャンになってどれだけ経験したか、どれだけ聖書の知識があるか、どんなにすばらしい賜物があるかは全く関係ありません。若くても用いられます。たとえ経験がなくても、どんなに能力がなくても、用いられるのです。信仰の働き、愛の労苦、主イエスキリストへの望みの忍耐があれば、どんな状況にあっても、あなたは信仰に堅く立ち続けることができるのです。私たちもこのテサロニケの教会の人たちのように、信仰の働き、愛の労苦、望みの忍耐によって、堅く信仰に立ち続ける教会でありたいと思います。