福音をゆだねられた者 Ⅰテサロニケ2章1~12節

聖書箇所:Ⅰテサロニケ2章1~12節(テサロニケ講解2回目)

タイトル:「福音をゆだねられた者」

きょうはⅠテサロニケ2章から、「福音をゆだねられた者」というタイトルでお話したいと思います。1章では、このテサロニケの教会の人たちがいかに信仰に歩んでいたかが語られました。彼らは絶えず、神の御前に、信仰の働き、愛の労苦、主イエス・キリストへの望みの忍耐をもっていました(1:3)。そのような彼らの姿は、マケドニヤとアカヤとのすべての信者の模範となりました(1:7)。いや、それはマケドニヤとアカヤにとどまらず、あらゆる所に響き渡ったほどです(1:8)。

しかし、そんなにすばらしいテサロニケの教会にもいくつかの問題がありました。それは彼ら自身の問題というよりも、彼らを取り巻く環境の中で、テサロニケの教会を破壊しようとする攻撃があったということです。それはパウロの働きに対する非難です。たとえば、彼が純粋な動機から神の福音を語っても、中にはそれを誤解して、自分たちを支配しようとしているのではないかと思ったり、献金をだまし取ろうとしているのではないかと言う人たちがいたのです。当時偽教師と呼ばれていた者たちがいて、そうした者たちが各地を回って偽りの教えを説いていたのです。そうした者たちへの警戒心からパウロたちの働きを彼らと同一視し、あしざまに非難するような人たちがいたのです。

神によって立てられた者がこのような非難を受けることは、イエス様の時代にもあったことで驚くべきことではありませんが、そうしたことが蔓延すると神さまの御名がそしられることになり、何よりも出来たばかりのテサロニケの教会が動揺してしまう危険性があったので、どうしても解決しなければなりませんでした。

そこでパウロは、神さまの恵みによって成長しているテサロニケの教会がそうした愚かな噂話に動揺することなく、立派に成長してほしいという思いから、自分たちが神に認められて福音をゆだねられた者であり、その働きが純粋な動機からなされていることを、ここで弁明しているのです。

Ⅰ.神によって勇気づけられて(1-2)

まず1節と2節をご覧ください。「兄弟たち。あなたがた自身が知っているとおり、私たちがあなたがたのところに行ったことは、無駄になりませんでした。それどころか、ご存じのように、私たちは先にピリピで苦しみにあい、辱めを受けていたのですが、私たちの神によって勇気づけられて、激しい苦闘のうちにも神の福音をあなたがたに語りました。」

ここでパウロは、テサロニケの人たちのところに行ったことは無駄にはならなかったと言っています。「無駄」という言葉は、「空っぽ」とか「何もない」という意味です。パウロは、自分たちがテサロニケを訪れたことは無駄ではなかった、つまり実りがあった、価値があった、と言っているのです。なぜでしょうか。彼らのところに行って福音を伝えた結果、教会が誕生したからです。それがテサロニケの教会です。

2節には、「それどころか、ご存知のように、私たちは先にピリピで苦しみにあい、辱めを受けていたのですが」とあります。彼らはまずピリピで苦しみにあい、辱めを受けました。占いの霊に憑かれていた女奴隷からその霊を追い出したことで、もうける望みがなくなった女奴隷の主人から訴えられると、彼らは捉えられ、鞭で打たれ、牢に入れられたのです。その出来事は使徒の働き16章に書いてありますので、後で確認しておいてください。「苦しみにあい」という言葉は、身体的な苦しみを受けたという意味です。また「辱めを受けていた」という言葉は、人間としての品位や名誉を傷つけられたということです。そのような苦しみと辱めを受けたことは、パウロが一人でそう思っていたことではなく、ここに「ご存知のとおり」とあるように、それはテサロニケの人たちをはじめ誰もが知っていたことでした。認めていたことだった。にもかかわらずパウロたちは、次の伝道地であった

このテサロニケに向かい、そこで神の福音を彼らに語ったのです。どうしてでしょうか。

ここには、「私たちの神によって勇気づけられて」とあります。彼らはそうした激しい苦闘にあっても、神によって勇気づけられていたのです。この「神によって勇気づけられて」というのは、「神において勇気づけられて」ということです。私たちが勇気づけられるのは、神さまが私たち一人ひとりに働きかけてくださり、その働きかけに私たちがお応えするという人格的な交わりにおいてのことです。たとえば、パウロがコリントで伝道したとき、安息日ごとにユダヤ教の会堂で伝道していましたが、そこのユダヤ人たちはパウロに対して犯行して口汚くののしったからでしょうが、パウロの中に相当の恐れがあったようです。そんなとき彼が祈っていると主が幻のよってこう語られました。「恐れないで、語り続けなさい。黙ってはいけない。わたしがあなたがたとともにいるので、あなたを襲って危害を加えるような者はいない。この町には、わたしの民がたくさんいるのだから。」(使徒18:9-10)それで彼はそこに1年か月の間腰を据えて、彼らの間で神のことばを教え続けたのです。そうでなかったら、そこに留まることはできなかったでしょう。でも神様がみことばを与えて励ましてくださるので、勇気をもって神の福音を語ることができるのです。

私たちは厳しい状況に直面すると、なんとか自分の勇気を振り絞り、その状況を打開しようとします。それはその状況に責任感を持って真剣に向き合おうとしていることでもありますから悪いことではありませんが、しかし私たちは、そのようなときに、しばしば神様なしに我力で状況を打開しようとするのです。神様との交わりの中でその問題に立ち向かっていくのではなく、自分の力でなんとかしようとするわけです。しかし私たちが自分の力で勇気をいくら振り絞っても、その勇気はあっという間に枯渇してしまいます。それどころか、神様との交わりを持たない頑張りというのは、御心に従うためのものではなく、自分の思いを実現するためのものとなってしまいます。ですから、私たちは厳しい状況であればあるほど、神様との交わりの中に留まらなければなりません。そして、神様の語りかけを聞き、私たちも祈りにおいて神様に語りかけていかなければならないのです。その交わりにおいてこそ、私たちは勇気を与えられるからです。

厳しい状況の中にあって、神様との交わりにおいて勇気を与えられたパウロたちは、テサロニケの人たちに「神の福音」を語りました。1章の終わりで語られていたように、その「神の福音」によって、テサロニケの人たちは、偶像から離れて神に立ち帰り、生けるまことの神に仕えるようになり、そして、御子キリストが再び来られるのを待ち望みつつ生きるようになったのです。

私たちも、教会の宣教活動において、また、日々の生活の中で、厳しい状況に直面することがありますが、だからこそまず天を見上げ、神との交わり通して与えられる神のことばによって勇気づけられることを求めなければなりません。そこに神が働いてくださり、ご自身の救いの御業を成してくださるのです。

今、大田原教会のケビン兄が膀胱癌の手術で2回目の入院をしていますが、病院のベッドからメールをくださって「牧師は私のメッセージを受け取りましたか。何の反応もないので」とありました。来週の日曜日に英語礼拝でメッセージをすることになっていまして、その原稿を送ってくださったのです。私は自分の準備精一杯でケビンさんの原稿にまだ目を通していませんでしたが、家内が読んで内容を伝えてくれました。

それは使徒の働き12章からのメッセージで、そこには、ヘロデ王が、教会の中のある人たちを苦しめようとして手を伸ばし、ヨハネの兄弟ヤコブを剣で殺した、とありました。一方、それがユダヤ人に喜ばれたのを見て、今度はペテロを捕らえて牢に入れたのです。しかし、教会は彼のために、熱心に祈っていました。そして、神はその祈りに答えてくださり、奇跡的にそこから救い出してくださったのです。

同じキリストの弟子でもヤコブは殺され、ペテロは生き延びました。いったいこれはどういうことか、というのがそのメッセージでした。結論から言うと、ヤコブが殺されたということになると、私たちは「どうして神様はそんなことをされたのだろう」と思ってがっかりするというか、神様の愛を疑ってしまいがちですが、そうではありません。ヨハネ17章24節でイエス様が、「わたしがいるところに、彼らもわたしとともにいるようにしてください。わたしの栄光を、彼らが見るためです。」と祈っていますが、ヤコブはその栄光を見たのです。一方、ペテロは生かされました。なぜ彼が行かされたのか。それは彼には別の使命があったからです。私たちも苦難に会うと「どうしてですか」と思うことがありますが、すべては神様の御手の中にあると信じて祈ることが大切です。という内容のものでした。

だれよりも家内はそれを読んで興奮して、「これはすごいメッセージだ。こんなにすばらしいメッセージはなかなか書けない。」と私の前で言うものですから、私も少し嫉妬しましたが、でも、誰よりもケビンさん自身が励ましを受けたのではないかと思います。神のみことばを宣べ伝えるメッセンジャーが一番恵まれるというのはこういうことなんですね。でもそれは私たちすべてに言えることです。神を見上げ、神との交わりの中で神の御声を聞く。それで勇気づけられて神の働きに出て行くことができる。私たちはいつも神によって勇気づけられる者でありたいと思います。

Ⅱ.人を喜ばせるのではなく、神に喜んでいただこうとして(3-6)

第二のことは、パウロがどのような動機で福音を語っていたのか。3節から6節までをご覧ください。「私たちの勧めは、誤りから出ているものでも、不純な心から出ているものでもなく、だましごとでもありません。むしろ私たちは、神に認められて福音を委ねられた者ですから、それにふさわしく、人を喜ばせるのではなく、私たちの心をお調べになる神に喜んでいただこうとして、語っているのです。あなたがたが知っているとおり、私たちは今まで、へつらいのことばを用いたり、貪りの口実を設けたりしたことはありません。神がそのことの証人です。また私たちは、あなたがたからも、ほかの人たちからも、人からの栄誉は求めませんでした。」

3節のところでパウロは、自分たちの宣教について三つのことを否定しています。まず、彼らの勧めは誤りから出ているものではない、ということです。「誤り」とは、聖書の真理からさまよって、自分の意見を語ることです。しかし彼らの勧めは聖書の真理から出たものでした。その真理とは、キリストの十字架に示された神の愛の真理です。パウロたちは、彼らの宣教において、神の愛の真理について誤りがなかったのです。どのような状況にあっても、どのような相手に対しても、神様がこの世へと御子を遣わし、その御子を私たちのために十字架に架け、復活させたことに示される神の愛の真理を宣べ伝えました。

第二に、彼らの勧めは「不純な心」から出たものではないということです。不純な心とは純粋な心でないことです。つまり彼らの勧めは、純粋な動機から出たものであったということです。

第三に、彼らの宣教は「だましごと」でもありませんでした。だましごととは、人をだますような話のことです。実際はそうではないのに、あたかもそうであるかのように装うことですね。この「だましごと」と訳された言葉は「策略」とも訳すこともできる言葉で、他の聖書の訳では「策略によるものでもありません」と訳されています。ここで「だましごと」が具体的に何を意味しているかははっきりしませんが、相手に気に入られようとする思い、あるいは相手から見返りを得ようとする思いのことではないかと思われます。あるいは、策略によらないとあるのは、当時、巧みな言葉を使って価値のないことを価値があることのように宣伝する策略を用いる詭弁家、偽説教者がいたことを示唆しているのではないかと思います。しかしパウロたちの伝道はそのような策略によるものではありませんでした。いえ、そのような策略など必要なかったのです。なぜなら、神の福音は価値のないものではなく、あるいは価値があるように見せかける必要も全くなかったからです。神の福音こそが、私たちを救い、生かすものだからです。「だましごと」にしても、「策略」にしても、それは人間の思いです。しかしパウロたちの宣教は、人間の思いによるものではなかったのです。

4節をご覧ください。ここには「むしろ私たちは、神に認められて福音を委ねられた者ですから、それにふさわしく、人を喜ばせるのではなく、私たちの心をお調べになる神に喜んでいただこうとして、語っているのです。」とあります。パウロたちは、「人に喜ばれるためではなく、私たちの心をお調になる神に喜んでいただこうとして」神の福音を語っていました。それこそ、神に認められて福音をゆだねられた者のあるべき姿です。その動機がどこにあるかが問われているのです。彼らは決して人を喜ばせようとして語ることはしませんでした。むしろ神に喜んでいただこうとして語ったのです。なぜなら神は、私たちの心をお調べなさる方だからです。

詩篇139編23~24節にはこうあります。「神よ。私を探り、私の心を知ってください。私を調べ、私の思い煩いを知ってください。私のうちに傷のついた道があるか、ないかを見て、私をとこしえの道に導いてください。」

神様は私たちの心を探り、知っておられます。どんなに顔に出したり、口に出したりしなくても、どんなに上手に繕ったとしても、神は私たちの心のすべてを知っておられるのです。人は欺けても神を欺くことはできません。

私たちはしばしば神様に喜んでいただくよりも、人に喜ばれることを願います。人に喜ばれることは悪いことではありませんが、しかし、神を忘れ人に喜ばれることばかりに心を奪われると、そのことに捉われて、どうしたら相手が喜んでくれるかということばかり考えるようになります。すると相手が喜びそうなことを言ったり、相手に合わせて、相手が喜んでくれるように振る舞ったりしてしまうのです。意識してもしなくても、そこには相手を喜ばすための「策略」が潜んでいることになるのです。たとえそれで相手が喜んでくれたとしても、「よこしまな思い」や「策略」によって相手を喜ばそうとすることによって、キリストによる救いを証しすることはできません。なぜなら、神様を無視して人を喜ばせようとしても、そこに神の愛の真理はないからです。

それは人に喜んでもらうことや自分自身の満足などはどうでもいいということではありません。そのように極端に考える必要はありません。神を喜ばせることを第一にするなら、その結果として、必ず人にも、自分にも正当で十分な喜びと満足が与えられるからです。ただ、ここで言いたいのは、喜ばせるという動機がどこから出ているのかということです。もしそれが人を喜ばせようとするだけのものであれば、どうしてもそこには人におもねる心やへつらいの態度が現れてくることになります。ですから、そこには何一つ良いものは生まれてこないのです。神様との正しい関係があってこそ、人との正しいあり方が生まれてくるからです。

パウロは、人を喜ばせようとしてではなく、神を喜ばせようとして語りました。こんなこと言ったら相手が不快に思うのではないか、もしかすると嫌われるのではないかという心配もあったでしょうが、神の福音をゆだねられた者として、それにふさわしくはっきりと語ったのです。

伝道者にとって最大の誘惑の一つは、聞く人に気に入られるように語ることです。厳しいさばきのことばや罪について語るのを避け、奇跡をそのまま述べることをためらい、当たり障りのない、相手に合わせた福音を、まぁ、こういうのは福音とは言いませんけれども、そうした教えを語ろうとするのです。しかしパウロはそうした誘惑に負けませんでした。5節にあるように、彼は、へつらいのことばを用いたり、むさぼりの口実を設けたりはしませんでした。もしパウロが町の人たちに取り入ろうとして伝道していたら、迫害や反発は起こらなかったでしょうが、けれども、その代わりに困難な中でも明確に救われて、偶像から立ち返り、生けるまことの神に仕えるようになる人も起こされなかったでしょう。しかし彼は、そうしたへつらいのことばを用いたり、むさぼりの口実を設けたりはしませんでした。彼は神に認められた者にふさわしく、人を喜ばせようとしてではなく、神に喜んでいただこうとして、神の福音を語ったのです。

これは私たちの模範とすべき姿です。伝道するのが厳しい状況かもしれません。私たちの証しが拒まれることもあるかもしれません。けれども私たちは、神様との交わりに生きる中で、神様から勇気を与えられ、厳しい状況の中にあっても、キリストの十字架と復活による救いを証ししていく者でありたいと思います。その救いの恵みによって、本当の喜びが与えられていくからです。

Ⅲ.母のように、父のように(7-12)

第三のことは、パウロはテサロニケの人たちにどのようにふるまったのかということです。7~12節をご覧ください。ここには、「キリストの使徒として権威を主張することもできましたが、あなたがたの間では幼子になりました。私たちは、自分の子どもたちを養い育てる母親のように、あなたがたをいとおしく思い、神の福音だけではなく、自分自身のいのちまで、喜んであなたがたに与えたいと思っています。あなたがたが私たちの愛する者となったからです。兄弟たち。あなたがたは私たちの労苦と辛苦を覚えているでしょう。私たちは、あなたがたのだれにも負担をかけないように、夜も昼も働きながら、神の福音をあなたがたに宣べ伝えました。また、信者であるあなたがたに対して、私たちが敬虔に、正しく、また責められるところがないようにふるまったことについては、あなたがたが証人であり、神もまた証人です。また、あなたがたが知っているとおり、私たちは自分の子どもに向かう父親のように、あなたがた一人ひとりに、ご自分の御国と栄光にあずかるようにと召してくださる神にふさわしく歩むよう、勧め、励まし、厳かに命じました。」とあります。

人は子供が生まれて親になると、子どもが生まれた喜びとともに、子供を育てる責任を感じます。テサロニケで多くの霊の子供たちが生まれると、パウロはその親として彼らの養育に全力を注ぎました。彼はどのように彼らを養育したでしょうか。7節には、彼はキリストの使徒として権威を主張することもできましたが、彼らの間では幼子のようになったとあります。彼は、キリストの使徒としてその権威を主張して重んじられることもできましたが、その権威に固執して、権威を振りかざしたりしないで、彼らの間で幼子のようになりました。この幼子のようになったというのは、ただ神様の憐れみと恵みによってのみ救いに与ることができる弱く小さな者として、福音を証しし宣べ伝えたということです。それは自分の子どもたちを養い育てる母親のようです。は親は自分の子どもをどのように養い育てるでしょうか。どんなだだ息子、だだ娘でも、愛情とあわれみをもって、優しくふるまいますよね。父親はそうではありません。ちょっとでも道を踏み外そうものなら、もう勝手にせい!と相手にもしませんが、母親はそうではありません。もういつまでもねちねちと、「だいじょうぶ。あなたのために祈ってるわよ」と、深い愛情をもって接します。パウロたちは男性でしたが、そんな母親のように無条件に子供を包み込むやさしさがありました。そればかりか、自分のいのちまでも、喜んで与えたいと思っていました。それほど彼らを愛していたのです。

旧約聖書に描かれているイスラエルの神にも、このような側面が描かれています。たとえば、イザヤ書66章13節には「母に慰められる者のように、わたしはあなたがたを慰め、エルサレムであなたがたは慰められる。」とあります。まことに神は、母親のように慰め、無条件の愛で包み込んでくださる方です。そんな神の愛でパウロは優しくふるまったのです。それは8節にあるように、彼らのことを思う心から、ただ神の福音だけではなく、私たち自身のいのちまでも、喜んで彼らに与えたいと思ったほどです。ここで彼は自分と子供を同一化しています。自分のいのちまでも与えたいと思うほど愛していたのです。

そうかと思えば、11節、12節にあるように、父親がその子供に対して接するように接しました。すなわち、「ご自分の御国と栄光にあずかるようにと召してくださる神にふさわしく歩よう、勧め、励まし、厳かに命じ」たのです。これは威厳を持って子供たちを正しい道に導き、訓戒する父親の姿です。このような父親の愛は「あなたがた一人ひとりに」とあるように、一人ひとりを重んじ、ねんごろに教え諭すという愛でした。決して十把一からげに訓戒するというものではありませんでした。一人ひとりに、丁寧に、時間をかけて、細かな点にまで配慮して成されたのです。このようなことのためには相当の時間と労力が必要だったのではないかと思います。私も牧師としてこのように御言葉の奉仕に仕えさせていただいておりますが、とにかく時間がかかります。こうしたみことばの準備はとても大切なので相当の時間を割いて準備にあたっていますが、そればかりではなく、教会の運営のことや一人一人のニーズに応えられるように、一人ひとりがみこころにかなった歩みができるように助け、励まし、導きを与えていけるように祈り、配慮したいと思っています。それはいくら時間があっても足りないくらいです。

ましてパウロは9節を見ると、誰にも負担をかけないように、昼も夜も働きながら、神の福音を彼らに宣べ伝えたとあります。まさに神業です。どうやってそんなことができたのか。考えられません。私たちの何倍もの働きをしていた彼が、経済的な負担をかけまいと、夜も昼も働きながら、神の福音を宣べ伝えたのです。まさに親心です。親は子どもにはできるだけ負担をかけないようにと、自らが負担して、それでも喜んで子どものために自分をささげます。そんな親心をもってみことばを宣べ伝えたのです。

彼は後にミレトの港にエペソの長老たちを呼び集めて説教したとき、次のように言いました。「私が三年の間、夜も昼も、涙とともにあなたがたひとりひとりに訓戒し続けてきたことを、思い出してください。」(使徒20:31)それはまさに涙とともになされた祈りの訓戒だったのです

このようにテサロニケでのパウロ働きは母親のような優しさと、父親のような厳かさがありました。この両面があってこそ、テサロニケの教会は大きく成長することができたのです。それは今日の教会にも言えることです。今日の教会もこの両面がないと、教会の健全な成長は望めません。ともすれば優しすぎたり、厳しすぎたりのどちらか一方に走ってしまい、そのバランスを欠いてしまいがちになりますが、厳しさの中にも優しさがあり、優しさの中にも厳しさもあるといったバランスが求められているのです。

人間が成長するということは決まった材料を与えれば同じ結果が出てくるというようなものではありません。確かに子供が正しく成長していくためには、できるだけ良い環境に置くことが求められますが、最も大切なことは、母親のやさしさと父親の厳しさのバランスが必要であるということです。それはキリストの教会にも言えることです。教会もやさしさと厳しさのバランスがあってこそ健全に成長していくのです。パウロは母親のように優しくふるまい、父親のように御国に召してくださる神にふさわしく歩むように勧めをし、慰めを与え、おごそかに命じました。

ですから、パウロの伝道はまやかしやだましごとでも、何でもありませんでした。彼は純粋な心で、ただ神を喜ばせようとして語りました。たとえそこにどんな労苦と苦闘があっても、敬虔に、正しく、まただれからも責められるところがないようにふるまったのです。

それは、私たちの模範でもあります。福音宣教の働きには必ずこのような非難や中傷、誤解も伴うことがありますが、そのような中にあっても私たちは常に純粋な心で、人を喜ばせようとしてではなく、ただ神に喜んでいただくために語るという姿勢を忘れないようにしたいものです。それが神に認められて福音をゆだねられた者なのです。