いのちの水の泉 エレミヤ2:1-13

聖書箇所:エレミヤ書2章1~13節(エレミヤ書講解説教3回目)

タイトル:「いのちの水の泉」

 今日はエレミヤ書2章1~13節からお話します。タイトルは、「いのちの水の泉」です。いよいよエレミヤの預言者としての活動が始まります。最初の預言が、ここから3章5節まで続きます。そこには神から遠く離れ、空しいものに従って行くイスラエルの姿がいつかの比喩をもって示されています。その一つが壊れた水溜めです。13節に「わたしの民は二つの悪を行った。いのちの水であるわたしを捨て、多くの水溜を自分たちのために掘ったのだ。水を溜めることのできない、壊れた水溜を。」とあります。彼らはいのち水の泉である神を捨て、自分のために壊れた水溜めを掘りました。神はそんなイスラエルの姿を見て嘆かれ、いのちの泉であるご自身のもとに帰るようにと語られるのです。

 Ⅰ.覚えておられる神(1-3)

 まず1節から3節までをご覧ください。「次のような主のことばが私にあった。「さあ、行ってエルサレムの人々に宣言せよ。『主はこう言われる。わたしは、あなたの若いころの真実の愛、婚約時代の愛、種も蒔かれていなかった地、荒野でのわたしへの従順を覚えている。イスラエルは主の聖なるもの、その収穫の初穂であった。これを食らう者はだれでも罰を受け、わざわいを被った。-主のことば-」

 預言者エレミヤに次のような主のことばがありました。「さあ、行ってエルサレムの人々に宣言せよ。」彼はエルサレムから北東に4キロほど離れたアナトテという村に住んでいましたが、そのエレミヤにエルサレムへ行って、彼らに主のことばを宣言するようにというのです。その内容は、「わたしは、あなたの若いころの真実な愛、婚約時代の愛、種もまかれていなかった地、荒野でのわたしへの従順を覚えている」ということでした。

「若いころの真実な愛」とは、イスラエルが神と契約を交わした、まさにその頃の愛のことです。具体的には出エジプト記20章にあるシナイ契約のことです。モーセの十戒ですね。それはエジプトを脱出後に、シナイ山で神様とイスラエルとの間に交わされた愛の契約でした。その頃のことを思い起こしているのです。皆さんは、結婚式で誓ったあの時のことを覚えていますか。来週もジョセフ兄とダフニ姉の結婚式が行われますが、そこでは誓約が交わされます。

「あなたはこの人と結婚し、神の定めに従って、夫婦になろうとしています。あなたは常にこの人を愛し、敬い、慰め、助けて変わることなく、その健やかなる時も、病める時も、富める時も、乏しき時も、いのちの日の限り堅く節操を守ることを誓いますか。」「はい、誓います。」

そんなこと言ったっけ?なんて言わないでください。確かに、皆さんもそう誓ったはずです。それなのに、そぐに忘れてしまいます。中には、自分の結婚記念日でさえ覚えていないという人もいます。しかし、神様は決して忘れることはありません。全部覚えていらっしゃるんです。あの時は何と麗しい関係だったでしょうか。あなたが若いころの愛は、どんなことがあっても守るという誠実さがありました。真実な愛があったのです。それは、約束に対して誠実であるということです。あのシナイ山で約束した契約に対する忠実さのことであります。約束は破るためにあるということばがありますが、そうではありません。約束は守るためにあるのです。イスラエルは若かったころ、神と結んだ愛の契約を忠実に守ろうとする真実な愛がありました。神はそれを覚えているのです。

またここには「婚約時代の愛」とあります。これは、イスラエルがエジプトを出てからシナイ山で契約を結ぶまでの期間と考えられます。出エジプト記で言うと、12章~19章に該当します。彼らはエジプトに430年もの間奴隷として生活していましたが、その苦しみの中で主に叫び求めると、主は彼らをそこから救い出してくださいました。しかし、彼らが導かれたのは荒野でした。そこには食べ物も飲み物もなかったので、指導者であったモーセとアロン向かって不平を言いました。すると主は、彼らのために天からパンを降らせ、岩から水を出させてくださいました。さらに、アマレクという敵が攻めて来ると、何の防備もなかったイスラエルにとって戦いは困難を極めましたが、主が戦ってくださったので、勝利することができました。これが婚約時代にあったことです。婚約時代には辛いこと、苦しいこともありましたが、一番楽しい時でもありました。なんだかんだ言っても、愛によって乗り越えようとする必死さがありました。主はそんな彼らの婚約時代の愛も覚えておられました。

そればかりではありません。「種もまかれていなかった地、荒野でのわたしへの従順」も覚えていました。「種もまかれていなかった地」とは、荒野のことを指しています。彼らはカデシュ・バルネアまで来たとき、約束の地まであとわずかという時に、主の命令に背いて上って行かなかったので、結局40年間荒野を彷徨うことになりました。しかし主は、そのような中でも、昼は雲の柱夜は火の柱をもって彼らを導いてくださいました。約束の地を目の前にしてモーセは、その40年間を振り返りこのように言いました。「この40年間、あなたの衣服はすり切れず、あなたの足は腫れなかった。」(申命記8:4)

主が彼らを守ってくださいました。それは主がイスラエルに対して忠実であられたからです。それはイスラエルが主に対して従順であったということの表れでもあります。確かに彼らは荒野で何度となく不平を鳴らしましたが、その根底には主がイスラエルをエジプトから救い出し、ご自分のものとされたという愛の関係がありました。神はそのようなイスラエルの姿を覚えておられるのです。それなのに彼らは、神から離れてしまいました。初めの愛から離れてしまったのです。

これは、イエス様を信じて神の民とされた私たちも同じです。黙示録2章4節には、「けれども、あなたには責めるべきことがある。あなたは初めの愛から離れてしまった。」とあります。これはイエス様がエペソの教会に書き送った手紙です。エペソの教会はよく忍耐して、主のために耐え忍び、疲れませんでした。しかし、彼らには責めるべきことがありました。何ですか?初めの愛から離れてしまったことです。初めの愛、結婚当初の愛、婚約時代の愛から離れてしまいました。エペソという地名は「最愛の人」という意味がありますが、それが色あせてしまったのです。だから、どこから落ちたのかを思い起こし、悔い改めて、初めの行いをしなさい、というのです。

皆さんはどうでしょうか。それは私たちで言えばまさにイエス様と出会い、洗礼を受け、クリスチャン生活を始めたばかりのあの頃のことです。何もかもが新鮮でした。何もかもが感動的でした。溢れるばかりの喜びと感謝がありました。とにかく教会に来るのが楽しかった、信仰に熱心だったあの頃です。「だった」と言っているのは、初めの愛から離れてしまったということを念頭に語っています。そんなことはありません。あの時よりももっと燃えています。もっとイエス様を愛しています、もっと主を求めていますというのならすばらしいですが、もし「だった」というのであれば、このエペソの教会と同じであると言えます。信仰生活が重荷なんです。日曜日だから教会に行かなければならない。何となく面倒くさい。家にいてひっくり返っていた方がいい、ゴロゴロしていた方がいいと思っているなら、初めの愛から離れているのです。主があなたにとってすべてであったあの頃の愛から離れているのです。本来ならばあの時よりももっと今の方が主を愛していますとなるはずなのに、あの頃もすばらしかったけど、今の方がもっとすばらしいとなるはずなのに、あの頃の方が燃えていたというのであれば、それは信仰がバックスライドしているということです。初めの愛から離れているのです。もしそうであるならば、どこから落ちたのかを思い起こし、悔い改めて、初めの行いをしなければなりません。

私たちは本当に忘れっぽいですね。昨日何をしたか、何を食べたかさえも忘れています。しかし、私たちは初めの愛を思い起こさなければなりません。それが聖餐式の意味です。聖餐式では、「わたしを覚えてこれを行いなさい」とありますが、これとはパンとぶどう酒のことです。それはイエス様の血と肉を表しています。イエス様が私たちを愛してくださり、十字架で私たちの罪の身代わりとなって死んでくださいました。それほどまでに愛してくださったのです。そのことを覚えるために、パンとぶどう酒をいただくのです。あなたはどうでしょうか。この神の愛、イエス様の愛を覚えていますか。もし忘れているなら、悔い改めて、初めの愛に立ち返りましょう。これが私たちの信仰の原点だからです。

 Ⅱ.イスラエルの背信(4-8)

 次に、4~8節をご覧ください。6節までをお読みします。「ヤコブの家よ、イスラエルの家の全部族よ、主のことばを聞け。主はこう言われる。あなたがたの先祖は、わたしにどんな不正を見つけたというのか。わたしから遠く離れ、空しいものに従って行き、空しいものになってしまうとは。彼らはこう尋ねることさえしなかった。「主はどこにおられるのか。われわれをエジプトの地から上らせた方、われわれに、あの荒野、穴だらけの荒れた地を、乾いた、死の陰の地、人も通らず、だれも住まない地を行かせた方は。」」

 1~3節では、イスラエルの若いころの真実な愛が語られましたが、この箇所では主に背いたイスラエルが糾弾されています。神ご自身の失恋の叫び、と言ってもよいかもしれません。「ヤコブの家よ、イスラエルの家の全部族よ、主のことばを聞け。」ということばには、イスラエルに対する神の切実な思いが込められています。なぜ自分から離れて、空しいものに従って行ったのか。空しいものとは、偶像のことです。このとき、イスラエルは一応、神殿礼拝の形は保っていましたが、敷地にはさまざまな偶像やその祭壇がありました。まあ、クリスマスとお正月をごちゃまぜにしているような感じですね。クリスマスに教会に来たかと思ったら、お正月には神社に初詣に行くような感じです。いったいわたしがあなたに何をしたというのか、何か悪いことでもしたというのかと、主は問うているのです。

 日本の代表的なクリスチャンの一人に内村鑑三という人がいますが、彼はこう言っています。「神に拠り頼んで恥辱を受けたことはない。」あなたが神に拠り頼んで裏切られたことがあるでしょうか。辱めを受けたことがありますか。聖書にも「この方に信頼する者は決して失望させられることがない。」(Ⅰペテロ2:6)とあります。神はあなたにどんな悪いことをしたでしょうか。あなたをがっかりさせたことがありますか。あなたを傷つけたことがあるでしょうか。ないでしょ。それなのに、なぜあなたは離れていくのですか。こんなにあなたを愛しているのに、こんなにあなたのことを思っているのに、どうして離れていくのですかと、訴えているのです。この悲痛な神の叫びにしっかりと耳を傾けていただきたいと思います。

 6節には、「彼らはこう尋ねることさえしなかった。「主はどこにおられるのか。われわれをエジプトの地から上らせた方、われわれに、あの荒野、穴だらけの荒れた地を、乾いた、死の陰の地、人も通らず、だれも住まない地を行かせた方は。」とあります。

 偶像を求めて空しくなった民は、契約の神をもはや心に留めず、求めることもせず、無関心になってしまいました。もうどうでもいいのです。出エジプトと荒野の旅における神の特別な導きは、イスラエルの民が常に覚えて、主なる神への信仰の告白としなければならなかったことなのに、もうどうでもよくなってしまったのです。その神を求めることさえしなくなりました。

7節と8節をご覧ください。「わたしはあなたがたを、実り豊かな地に伴い、その良い実を食べさせた。ところが、あなたがたは入って来て、わたしの地を汚し、わたしのゆずりの地を忌み嫌うべきものにした。祭司たちは、「主はどこにおられるのか」と言うことがなく、律法を扱う者たちも、わたしを知らず、牧者たちもわたしに背き、預言者たちはバアルによって預言し、役立たずのものに従って行った。」

 約束の地に入った後の状態です。荒野で反抗した民は滅ぼされましたが、新しい世代の人々は、約束の地に導き入れられました。そこは乳と蜜の流れる、実り豊かな地で、その地で彼らは良い実を食べることができました。ところが彼らは、その地を忌み嫌うべきものにしました。偶像で汚してしまったのです。

さらに、国の指導者たちは、自らの責任を果たそうとしませんでした。祭司たちは、「主はどこにおられるのか」と言うことがなく、律法を扱う者たちも、主を知らず、牧者たちも主に背き、預言者たちはバアルによって預言し、役立たずのものに従って行きました。

 いったい何が問題だったのでしょうか。イスラエルの神、主を忘れてしまったことです。彼らは、過酷な荒野の旅を終えたときに、それが神の一方的な恵みであったことを認めず、感謝もしませんでした。その結果、カナンの地に入ってからは、真実の神、主を忘れ、自分たちにご利益をもたらすような偶像に走って行ったのです。聖書はこのようなものを「無益なもの」と呼んでいます。それは何の役にもたたないのです。偶像は本当に空しいものですが、不思議なことに、それに従って行けば幸せになれるのではないかと思い込ませます。たとえば、8節にはバアルという偶像が出てきますが、これは無病息災や商売繁盛の神です。この神を拝めばご利益があります。人生が繁栄し、成功を収めることができます。どうですか、拝みたくなったでしょう。こうしたものに人間は本当に弱いですね。ご利益があると聞くと、すぐに飛びつきたくなります。でもそれは空しいもの、無益なもの、何の役にも立たないものです。私たちを真に満たすのは、私たちを造り、私たちのために御子イエス・キリストを与えてくださるほど愛してくださったまことの神です。この方は私たちの根本的な問題である罪から救い、真の幸福をもたらしてくださいます。

 皆さんは、「世界一幸せな国」をご存知でしょうか?知っています、ブーダンでしょう?という方は、ちょっと古い人です。南アジアにあるブータンは、発展途上国ながら2013年には北欧諸国に続いて世界8位となり、“世界一幸せな国”として知られるようになりましたが、2019年度版では156か国中95位にとどまって以来、このランキングには登場しなくなりました。幸せな国ではなくなったのです。どうしてだと思いますか?それは、スマホが普及したせいです。これまで入って来なかった情報が入って来るようになったおかげで、他国と比較するようになったからです。つまり、隣の芝生が青く見えるようになったからなのです。

ちなみに日本はというと、例年、順位が振るいませんで、2021年の最新ランキングでも56位と、G7(先進7か国)の中でも最下位になっています。それはブータン同様、幸せを他の人と比較しているからです。いつの時代もどの国でも他人の持っている物や言動が気になってしょうがないのです。それは決して幸せには繋がらないと分かっていても、隣の芝生の青さやまたその欠点に目を注いでしまうのです。それが日本人の国民性なのです。私たちが幸せになるために必要なことは、私たちが何を見るか、ということです。他の人がどうかではなく、神があなたにどんなによくしてくださったのかを見て、それを感謝することなのです。

砂山(いさやま)節子という方がおられます。この方は戦前、夫の砂山貞夫という牧師と結婚し満州に赴いて福音宣教に従事していましたが、戦後、夫と次女を失い、ご自分も両目の視力を失うという状況の中で、ある日、暗澹たる思いで手探りしながら壁伝いに部屋の中を移動している時、思いもかけずこの賛美歌の一節が、心に浮かび、口をついて出てきたと言います。「数えてみよ、主の恵み、数えてみよ、主の恵み、・・」。彼女は指を折って数えました。私には二人の子供がいるではないか、教会の信徒さんたちもいる、イエス様がずっと一緒にいて下さったではないか・・と。そして、心の平安を得たといいます(「熱河宣教の記録」より)。

砂山さんはどのような状況でも、私たちは神の恵みを数える事ができると教えています。私たちもまた、自分の置かれている状況ではなく、その中で働いておられる主の恵みを数えて歩んでいきたいものです。

 Ⅲ.いのちの水の泉(9-13)

第三に、9~13節をご覧ください。「それゆえ、わたしはなお、あなたがたと争う。-主のことば-また、あなたがたの子孫と争う。キティムの島々に渡って、よく見よ。ケダルに人を遣わして見極めよ。このようなことがあったかどうか、確かめよ。かつて、自分の神々を、神々でないものと取り替えた国民があっただろうか。ところが、わたしの民は自分たちの栄光を役に立たないものと取り替えた。天よ、このことに呆れ果てよ。おぞ気立て。涸れ果てよ。-主のことば-わたしの民は二つの悪を行った。いのちの水の泉であるわたしを捨て、多くの水溜めを自分たちのために掘ったのだ。水を溜めることのできない、壊れた水溜めを。」

「それゆえ」とは、イスラエルが神との契約を破り、空しい偶像に走って行ったのでということです。それゆえ、主はなお、イスラエルと争われるのです。この「争う」という語は、法廷用語で、神がイスラエルを法廷に訴えている様子を表しています。訴えられているのはイスラエルです。これほどの愛と恵みを受けながら、その神から離れていくという例は、世界中どこにも見出せません。

10節にある「キティム」とは地中海に浮かぶキプロス島のことです。「ケダル」とはアラビヤ半島の北部に住む人々のことです。彼らはそれぞれ、自分たちの偶像を持っていました。しかし、それを他の神々に取り変えたりはしません。それはキティムやケダルだけでなく、どの国でもそうでしょ。いいか悪いかは別として、そう簡単に自分たちの神々を他のもの取り替えるようなことはしないのです。日本でもそうでしょ。日本は昔から八百万の神といって何でも神にしちゃいますが、その神々でさえ簡単に取り替えたりするようなことはしません。それなのに、イスラエルの民はなぜ簡単に変えてしまうのか?と、主はとてつもない皮肉を語っておられるのです。

彼らの罪は何だったのでしょうか。ここで主は非常に重要なことを語られます。それは13節にあるように、彼らが二つの悪を行ったということです。一つはいのちの泉である主を捨てたということです。そしてもう一つは、多くの水溜めを自分のために掘ったということです。それは水を溜めることができない、壊れた水溜です。それは、自分たちを救うことができない偶像のことを指しています。

彼らはいのちの水の泉であるイスラエルの神、主を捨てて、水を溜めることができない壊れた水溜を掘ったのです。この「いのちの水の泉」は、第三版では「湧き水の泉」と訳しています。私たちの主は「湧き水の泉」、「いのちの水の泉」です。あらゆるいのちの源泉であられます。主イエスは言われました。「しかし、わたしが与える水を飲む人は、いつまでも決して渇くことがありません。わたしが与える水は、その人の内で泉となり、永遠のいのちへの水が湧き出ます。」(ヨハネ4:14)

他の偶像はすべて「水溜め」です。確かに水はあるでしょうが、いつか尽きてしまう水溜めです。しかもここでエレミヤは、その溜まっている水でさえ、岩の裂け目から水がもれてしまって、少しずつなくなる、と言っています。自分の生きがいとしていたものがまことの神でなかったら、それが宗教であれ、他のどんな活動であっても、尽きて無くなるしかない溜め水を飲んでいるのと同じことなのです。それは本当に空しいことではないでしょうか。

 水溜めは、一枚岩になっているところを切り削して造ります。とても長い期間をかけて造った、非常に大きな水溜めも見つかっています。けれども、もしその岩に裂け目があったらどうでしょう。水溜めの役目を果たさなくなります。これまで削り取ってきた労苦は無駄になってしまいます。

 ここでは「いのちの水の泉」と「壊れた水溜め」が対比されています。私たちは、あからさまに偶像礼拝をしないかもしれませんが、あからさまに偶像礼拝をしなくても、神以外のものを拝むことはあります。いや神に関する、その周囲にあるものを大事にして、神ご自身をあがめることをしないということがしばしばあります。

あなたはどうでしょうか。あなたは、「いのちの水」を下さる主イエス・キリストから飲んでいますか。それとも、壊れた水溜めを自分のために掘っていないでしょうか。ある人は、「私たちは祝福を求めるが、祝福の源を忘れる。」と言いましたが、まさにその通りです。祝福を求めますが、祝福の源を忘れるのです。私たちに必要なのは、「主はどこにおられるのか」という心からの叫びです。

「わがたましいよ 主をほめたたえよ。主が良くしてくださったことを何一つ忘れるな。主はあなたのすべての咎を赦しあなたのすべての病を癒やし あなたのいのちを穴から贖われる。主はあなたに恵みとあわれみの冠をかぶらせ あなたの一生を良いもので満ち足らせる。あなたの若さは鷲のように新しくなる。」(詩篇103:2~5)

 来週はクリスマス、そして、もうすぐこの1年も終わります。私たちは、私たちの一生を良いもので満ち足らせる主を認め、主に感謝し、主に拠り頼んで、日々歩んでまいりましょう。