いつも主を前に置いて エレミヤ書2章14~19節

聖書箇所:エレミヤ書2章14~19節(エレミヤ書講解説教4回目)

タイトル:「いつも主を前に置いて」

 新しい年を迎えました。この新しい年を、皆さんはどのような思いで迎えられたでしょうか。箴言4章23節に、「力の限り、見張って、あなたの心を見守れ。いのちの泉はこれからわく。」とあります。いのちの泉は私たちの心からわいてきます。ですから、力の限り、見張って、あなたの心を見守らなければなりません。新しい年も神の御言葉によって、心の井戸を深く掘っていきたいと思います。

この新年の礼拝で、主が私たちに与えておられる御言葉は、エレミヤ書2章14~19節の御言葉です。前回もお話したように、この2章には神から離れ偶像に走って行ったイスラエルの姿を、いくつかの比喩をもって語られています。1~8節までには不誠実な妻の姿を通して、また9~13節には、壊れた水溜のたとえをもって描かれてきました。

きょうのところには、奴隷としてのイスラエルの姿を通して語られています。イスラエルは奴隷なのか、それとも家に生まれたしもべなのか、ということです。だから、知り、見極めよ、と。何を見極めるのでしょうか。19節の後半にこうあります。「あなたがあなたの神、主を捨てて、わたしを恐れないのは、いかに苦いことかを。」主を捨てて、主を恐れないことは、いかに苦しいことであるのかを、です。すなわち、主を恐れないこと、主に信頼しないことが、いかに悪いことであり苦しいことであるかということです。このことを見極めなければなりません。この新しい年、私たちはこのことを見極め、真に主を恐れ、主に信頼して歩む年でありたいと思います。

 Ⅰ.イスラエルは奴隷なのか(14-16)

 まず14節から16節までをご覧ください。「14 イスラエルは奴隷なのか。それとも家に生まれたしもべなのか。なぜ、獲物にされたのか。15 若獅子は彼に向かって吼えたけり、うなり声をあげて、その地を荒れ果てさせる。その町々は焼かれて、住む者がいなくなる。16 メンフィスとタフパンヘスの子らも、あなたの頭の頂を剃り上げる。

 ここで預言者エレミヤは、イスラエルの背信がどのような結果を招くのかを語っています。イスラエルは神に背いた結果、どうなったでしょうか。14節には「イスラエルは奴隷なのか。それとも家に生まれたしもべなのか。」とあります。

当時、奴隷には二つの種類がありました。お金で買われて奴隷になった者と、奴隷の両親の間に生まれた、生まれながらの奴隷です。イスラエルは神の民として贖われた者ですから、自由な民であるはずです。まして生まれながらの奴隷であるはずがありません。それなのに、彼らの状態はもっと悪くなっていました。戦争によって捕虜となり、獲物として外国に連れ去られるような惨めな状態になっていたのです。どうしてこのようになったのでしょうか。いうまでもなく、彼らが自分の神を捨てて偶像に仕え、外交や武力によって自分たちの安全を保つことができると考えたからです。その結果、どうなったでしょうか。

 15節をご覧ください。「若獅子は彼に向かって吼えたけり、うなり声をあげて、その地を荒れ果てさせる。その町々は焼かれて、住む者がいなくなる。」

 「若獅子」とはライオンのことです。聖書では、イスラエルを荒らす敵の比喩としてしばしば用いられています。文脈によってそれはアッシリヤであったり、エジプトであったり、バビロンであったりしますが、ここではバビロンのことを指しています。バビロンがイスラエルに向かって吼えたけり、うなり声をあげて、その地を荒れ果てさせるというのです。その町々は焼かれて、住む者がいなくなります。エレミヤがこれを語った約40年後に、実際にこのことが起こります。バビロン捕囚という出来事です。B.C586年に、バビロンの王ネブカデネザルがエルサレムを攻め落とし、そこに住んでいた者たちを捕囚の民としてバビロンに連れて行きました。

それはバビロンだけではありません。エジプトもそうです。16節にある「メンフィスとタフパンヘス」は、ともにエジプトにある都市です。つまり、もし彼らがエジプトに保護を求めるなら、彼らがあなたの頭の頂を剃り上げるようになるというのです。ユダヤ人にとって髪を剃り上げることは、恥を見ること、悲しみに打ちひしがれることを表わしていました。イスラエルはせっかく神によって贖われ自由の民とされたのに、その神に背きメンフィスやタフパンスに助けを求めたことで、再び奴隷の状態に陥り獲物として外国に連れ去られるような惨めな状態になったのです。私たちもせっかく主イエス・キリストによって罪から解放され自由の民とされたのにその神に背くなら、若獅子の獲物にされてしまうことになります。頭の頂を剃り上げられることになるのです。

1ペテロ5章8節にこうあります。「身を慎み、目をさましていなさい。あなたがたの敵である悪魔が、ほえたける獅子のように、食い尽くすべきものを捜し求めながら、歩き回っています。」

ここでは、悪魔がほえたける獅子のようだと言われています。悪魔は、ほえたける獅子のように、食い尽くすべき獲物を捜し求めながら歩き回っています。だから、身を慎み、目をさましていなければなりません。そうでないと、当時のイスラエルのように若獅子の獲物にされてしまいます。頭の頂を剃り上げられてしまうことになるのです。そういうことがないように、身を慎み、目をさましていなければなりません。エレミヤは、かつてB.C.722年に北王国イスラエルがアッシリヤによって滅ぼされたことを思い起こしながら、南ユダ王国の人々に、注意しないとあなたがたもライオンの餌食にされてしまいますよ、と警告しているのです。

それは今を生きる私たちにも言えることです。注意しないと、私たちもライオンの餌食にされてしまいます。だから、身を慎み、目をさましていなければなりません。自分は大丈夫と思っている人ほど危ない人です。悪魔なんてやっつけてやるという人ほど簡単にコロリとやられてしまいます。私たちは若獅子の餌食にならないように身を慎み、目をさましていなければなりません。

Ⅱ.なぜ、獲物にされたのか(17~19a)

いったい彼らの問題は何だったのでしょうか。なぜ彼らは若獅子の獲物にされてしまったのでしょうか。次にその理由について考えたいと思います。17~19節前半をご覧ください。「17 あなたの神、主があなたに道を進ませたとき、あなたが主を捨てたために、このことがあなたに起こったのではないか。18 今、ナイル川の水を飲みにエジプトへの道に向かうとは、いったいどうしたことか。大河の水を飲みにアッシリヤへの道に向かうとは、いったいどうしたことか。「あなたの悪があなたを懲らしめ、あなたの背信があなたを責める。」

いったいなぜ彼らは獲物にされてしまったのでしょうか。それは彼らが主を捨てたからです。彼らの神、主が彼らに道を進ませたとき、彼らが主を捨てたので、このようになったのです。どうしてナイル川の水を飲みにエジプトへ向かうのでしょうか。どうして大河ユーフラテス川の水を飲みにアッシリヤへ向かうのでしょうか。それは彼らが自分たちの神、主に助けを求めないで、エジプトやアッシリヤに助けを求めたからです。その悪が彼らを懲らしめ、彼らの背信が彼らを責めたのです。

私たちも、そういうことがあるのではないでしょうか。聖書ではエジプトはこの世の象徴として描かれています。また、アッシリヤは超大国の象徴として描かれています。私たちもイエス様を信じていてもにっちもさっちもいかなくなると、目に見えるこの世のもので安心を得ようとすることがあります。しかし、そのような水をいくら飲んでもまた渇くと、イエス様は教えてくださいました。「この水を飲む人はみな、また渇きます。しかし、わたしが与える水を飲む人は、いつまでも決して渇くことがありません。わたしが与える水は、その人の内で泉となり、永遠のいのちへの水が湧き出ます。」(ヨハネ4:13-14)

また使徒パウロは、そうした頼りにならないものに望みを置かないようにと警告しています。むしろ、私たちにすべての物を豊かに与えて楽しませてくださる神に望みを置くように、と(1テモテ6:17)。そのようなものに望みをおくと、結局のところ、裏切られてしまうことになります。皆さんもそういう経験があるでしょう。

実際、イスラエルの王であったヨシヤ王も、この後B.C.609年にエジプトに攻め込まれて死んでしまうことになります。メギドの戦いです。エレミヤがこれを警告したのはB.C.627年のことですから、実に18年後のことになります。彼らはエジプトに助けを求めたのに、そのエジプトによって滅ぼされてしまうのです。まさに、頭の頂を剃り上げられたのです。その後、新興国であるバビロン帝国が台頭して来て、エジプトも、アッシリヤも、そしてこの南ユダ王国も滅ぼされしまうことになります。そして、バビロンの奴隷として、捕囚の民としてバビロンに連れて行かれることになるのです。どんなにエジプトを頼っても、どんなにアッシリヤを頼っても、そうしたものは何の助けにもならないのです。

預言者イザヤは、そんなイスラエルの姿を短い毛布にたとえてこう言いました。「寝床は、身を伸ばすには短すぎ、毛布も、身をくるむには狭すぎるようになる。」(イザヤ28:20)皆さん、わかりますか。エジプトという寝床は、身を伸ばして寝るには短すぎます。アッシリヤという毛布は、身をくるむには狭すぎるのです。私の妻はいつも毛布に身をくるんで寝ていますが、見ると足がベッドからはみ出しています。背中には毛布がかかっていません。短じかすぎるのです。狭すぎるのです。そのようなものは安全のための何の保障にもなりません。それなのに、どうしてエジプトやアッシリヤへの道に向かうのでしょうか。どうして主なる神に背を向けて、この世に向かって走って行くのでしょうか。

あなたがこの世に向かって走るなら、結果的に神に背を向けることになります。その結果、懲らしめや責めを受けることになるのです。勿論、それはこの世を捨てるということではありません。この世を憎むということでもありません。神はこの世を愛されました。神は一人も滅びることなく、すべての人が救われて真理を知るようになることを望んでおられます。そのためにひとり子をこの世に与えてくださいました。それは御子を信じる者が一人として滅びることなく永遠のいのちを持つためです。ですから、私たちは神がこの世を愛されたように、私たちもほかの人々を愛するべきです。

しかしそれは、この世の考えやこの世を優先することではありません。神様以上にこの世を愛してはならないと、イエス様は言われました。「まず神の国と神の義を求めなさい。そうすれば、これらのものはすべて、それに加えて与えられます。」(マタイ6:33)

神の子とされた者、クリスチャンは、その優先順位を神の価値観に従って、選択すべきです。誰も二人の主人に仕えることはできないからです。神とこの世に同時に仕えることはできません。その優先順位において神よりもこの世を優先するなら、それは神に背を向けてしまうことになります。その悪があなたを懲らしめ、その背信があなたを責めることになるのです。

皆さん、私たちが歴史から学ぶことは何でしょうか。それはたった一つのことです。それは、人類は歴史から何も学ばないということです。本来、彼らは学ぶべきでした。彼らと同じことをすれば自分たちはどうなるのかということを。自分たちもそうなるということ。しかし、彼らは何も学びませんでした。そして同じように痛い目に遭ってしまったのです。どんな人でも最初の一歩を間違えると、どんどん神から離れていってしまいます。しかし、信仰によって小さな一歩を踏み出すと、その人の人生は神によって祝福されたものへと導かれます。

1969年7月16日、アメリカの有人ロケット「アポロ11号」が月に着陸して、初めて人間が月を歩いた時、ニール・アームストロング船長はこのように言いました。「これは一人の人間にとっては小さな一歩だが、人類にとっては偉大な一歩である」

それはあなたにとって小さな一歩かもしれません。しかし、それはあなたの人生にとって偉大な一歩となるのです。その信仰の一歩を踏み出そうではありませんか。

Ⅲ.だから、知り、見極めよ(19b)

では、どうすればよいのでしょうか。最後に19節の後半を見て終わりたいと思います。「だから、知り、見極めよ。あなたがあなたの神、主を捨てて、わたしを恐れないのは、いかに苦いことかを。-万軍の主のことば。」

この箇所のまとめです。私たちにとって必要なのは、このことを知り、見極めることです。アッシリヤやバビロンの奴隷になるという悲惨さの原因は、指導者の政策が悪いからではありません。それは神を捨て、神を恐れないことです。これが最も根本的な原因なのです。悲惨の原因が自らの罪であることを知らないことが最大の悲惨でありますこのことを知り、見極めるようにと、エレミヤは教えているのです。あなたはこのことを知り、見極めているでしょうか。

昨年からサムエル記を通してダビデの生涯を学んでいますが、ダビデはこのことを知り、見極めていました。主が彼を、すべての敵の手、特にサウルの手から救い出された日に、彼は主に向かってこのように歌いました。「私は苦しみの中で主を呼び求め、わが神に叫んだ。主はその宮で私の声を聞かれ、私の叫びは御耳に届いた。」(Ⅱサムエル記22:7)ダビデはいつも苦しみの中で主を呼び求め、主に叫びました。すると主は彼の声を聞かれ、彼は助け出されたのです。

私たちの人生に何が起こるか、だれも予測することはできません。突然、病気や事故や災いに襲われることがあります。まさに人生という舞台に、大きな穴がポッカリと開くような出来事に遭遇することがあるのです。そんなときに、ある人は穴を見て絶望し、運命を呪い、悲しみに暮れます。またある人は、穴を見ないふりをして、現実から逃避しようとします。しかしダビデは、その穴から神を見ました。神を見て、神に信頼し、神に叫んだのです。そして、その穴から救われるという経験をしたのです。すなわち、その穴から、穴が開かなければ、決して見ることがない新しい世界をしっかり見つめたのです。なぜなら、彼はいつも、主を恐れ、主に信頼していたからです。

彼は、詩篇16篇で次のように告白しています。「私はいつも、私の前に主を置いた。主が私の右におられるので、私はゆるぐことがない。」(詩篇16:8)すばらしいですね。これを、今年の教会の目標聖句にしたいと考えています。「私の前に主を置く」とは、いつも主の助けと導きを仰ぐことです。これによってダビデは、「揺るぐことはない」と告白することができました。彼はサウル王に追われて流浪の生活をしていた時は、生命を繋ぐだけでも大変でした。また、その後イスラエル王となってからも、家庭問題で大いに悩まされました。しかし、こうした人生のトラブルの中にあっても、彼の心の深い所には神様との強い絆がありました。だから彼は揺るがされなかったのです。それは、彼がいつも主に信頼し、主を前に置いていたからです。

17世紀に、フランスの修道院において台所の奉仕で一生涯を終えたブラサー・ローレンスという人がいますが、彼は「神の臨在の実践」(The Practice of the Presence of God)の中でこう言っています。「仕事の時は、私にとって祈りの時とさして変わらない。台所でガチャガチャした騒音に埋もれ、色々な人々が同時に別々なことで私を呼んでいる時でさえ、私は聖餐式の時に跪いているかのような大いなる静けさの中に住み給う神を持っている」

彼は、それが仕事の時であろうと、祈りの時であろうと、いつも神の臨在の中にいるようでした。それは彼が大切にしていたのは、そうした事柄の背後にある動機であったからです。つまり、いつも自分の前に主を置いているかどうか、そして、何をするにしても、その主への愛に対する応答であるかどうかということです。

彼はダビデのように、いつも自分の前に主を置いていたのです。

新しく迎えたこの2022年、さまざまな計画があり、活動があることでしょうが、それらの活動に勝って、私たちが知り、見極めなければならないことは、主を恐れ、主に信頼し、心を尽くして主を求めることです。ダビデのように「私の前に主を置く」という心の営みを一人一人のものにさせていただこうではありませんか。