聖書箇所:エレミヤ書3章1~5節(エレミヤ書講解説教6回目)
タイトル:「わたしに帰れ」
今日は、エレミヤ書3章1~5節から「わたしに帰れ」とタイトルでお話します。エレミヤは2章1節から最初の預言を語って来ましたが、今日の箇所はその最後の部分です。その中でエレミヤは、神の民イスラエルに対する神の悲痛な叫びを、10のたとえを用いて語りました。まず1~8節では不誠実な妻のたとえでした。そして9~13節のところでは、壊れた水溜のたとえです。そして14~19節では、奴隷としてのイスラエルのたとえ、そして前回はもうどうにも止まらないと、次から次にいろいろなたとえをもって彼らの姿を描きました。20節では、自分のくびきを負わないかたくなな家畜です。21節では、質の悪い雑種のぶどうですね。22節では、たとえ重曹やたくさんの灰汁を使っても落ちない汚れ、23~25節では発情期の家畜、26~28には、見つかった時に恥を見る盗人、29~30節では反抗的な子どもの姿、そして36~37節では捕虜として連行される姿です。実に10のたとえをもって、イスラエルに対する神の悲痛な叫びが語られたのです。
今日の箇所はその最後の部分です。エレミヤは姦淫の女のたとえを用いて「わたしに帰れ」と語ります。神はご自身の民がその忠告を無視したり、受け止めようとしないなら、同じように悲しまれます。私たちは神の呼びかけに素直に応答して、神に立ち帰る者でありたいと思います。
Ⅰ.再び戻れるか(1)
まず1節をご覧ください。「もし、人が自分の妻を去らせ、彼女が彼のもとを去って、ほかの男のものになったら、この人は再び先の妻のもとに戻れるだろうか。そのような地は大いに汚れていないだろうか。あなたは、多くの愛人と淫行を行って、しかも、わたしのところに帰るというのか。-主のことば-」
不誠実な妻のたとえは2章1節から8節までのところでも語られましたが、ここでもう一度イスラエルの姿を、不誠実な妻として描きます。ただ、2章と違うのは、2章では真実の愛を裏切ってただ夫のもとから離れて行った妻の姿が強調されていましたが、ここでは、そのようにして汚れた妻をもう一度受け入れることができるか、ということが問われています。「もし、人が自分の妻を去らせ、彼女が彼のもとを去って、ほかの男のものになったら、この人は再び先の妻のもとに戻れるだろうか。」ということです。
皆さん、考えてみてください。もし人が自分の妻を去らせ、彼女が彼のもとを去って、ほかの男のものになったら、その女が彼のもとに戻って来たからと言って受け入れることができるでしょうか。できません。それは単に感情的に受け入れられないというだけでなく、神の律法でそれを禁じているからです。申命記24章1~4節を開いてください。ここには「1 人が妻をめとり夫となった後で、もし、妻に何か恥ずべきことを見つけたために気に入らなくなり、離縁状を書いてその女の手に渡し、彼女を家から去らせ、2 そして彼女が家を出て行って、ほかの人の妻となり、3 さらに次の夫も彼女を嫌い、離縁状を書いて彼女の手に渡し、彼女を家から去らせた場合、あるいは、彼女を妻とした、あとの夫が死んだ場合には、4 彼女を去らせた初めの夫は、彼女が汚された後に再び彼女を自分の妻とすることはできない。それは、主の前に忌み嫌うべきことだからである。あなたの神、主が相続地としてあなたに与えようとしておられる地に、罪をもたらしてはならない。」とあります。
この「何か恥ずべきこと」とは「不貞」のことです。妻が何か不貞を働かせ気に入らなくなった場合、夫は妻に離婚状を書いて渡し、彼女を家から去らせることができました。問題はその後です。その後で、その妻が別の男と結婚したが、その夫も彼女を嫌って家から去らせた場合、あるいは、後の夫が死んだ場合、先の夫は彼女を再び自分の妻にすることができませんでした。なぜ?なぜなら、彼女は汚れてしまったからです。他の男と関係を持つことで、汚れてしまったというのです。それは、主が忌み嫌われることでした。ですから、彼らが相続地に入ってからは、そのようなことをしてその地を汚してはならないと命じたのです。しかもエレミヤ書3章1節には、「あなたは、多くの愛人と淫行を行って、しかも、わたしのところに帰るというのか」とあります。不倫どころじゃありません。彼らには多くの愛人がいたのです。誰でもいいから声をかけて、まさに娼婦のようにいろいろな男たちと寝ていました。そのような人のもとに戻れるでしょうか。戻れません。なぜなら、汚れてしまったからです。
神はこれをご自身とイスラエルとの関係に当てはめているのです。離縁された妻とはイスラエルのこと、その妻が他の神々、他の偶像と結ばれて再婚しました。でもそれでも満たされず、他の神々にも身を焦がし、情欲に溺れ、霊的姦淫の罪を重ねて見放され、「やっぱりもとの旦那のところに戻ろう」と言っても、そうは問屋が卸しません。そんな虫のいい話はありません。失ってみてはじめて気づくことがあります。これもそうです。イスラエルが勝手に他の偶像に走って契約を結び、それでも飽き足らず、いろいろな偶像に走り、でも結果的には裏切られ、失望し、空しくなり、ボロボロになって、やっぱり最初の夫がいい、主のもとに戻ろう、主だったら私を受け入れてくれるだろう、最初の夫は優しいから、こんな私でも受け入れてくれるに違いないと思っても、そんな簡単に受け入れられることではありません。最初の夫はあなたのところに戻って来ないのです。
ホセア書1章から3章にも、これと同じようなストーリーがあります。ホセアは、不貞の女を妻として迎え入れるようにと神から示されるのです。その言葉どおり、彼は彼女、ゴメルを妻とします。しかし、やがてこのゴメルは夫を捨てて家を出、かつての罪の世界に戻っていきます。ホセアはどれほど傷ついたことでしょう。その傷がまだ彼の心に残っている時、神様は再びホセアに語りかけました。「再び行って、夫に愛されていながら姦通している女を愛しなさい。ちょうど、ほかの神々の方を向いて干しぶどうの菓子を愛しているイスラエルの子らを、主が愛しているように。」(ホセア3:1)
何ですって!再び行って、他の男たちと姦通している妻を愛せというのですか。このことばを聞いた時、ホセアはどう思ったでしょうか。皆さんがホセアだったらどうでしょう。彼はどんなに悩み苦しんだことかと思います。他の男に愛されている女、姦淫を行っている妻を愛し、自分のもとに連れ戻しなさい、というのですから。いったい神様はどうしてこんなことを言われるのでしょうか。でもホセアはこのことばを受けて銀15シェケルと大麦1ホメル半をもって、彼女を買い取りました。買い取ったということは、彼女が誰か他の人の所有となっていたということです。ホセアは娼婦となっていた彼女を自分のもとに連れ戻すために、その代価を支払わなければならなかったのです。
いったいなぜ神はホセアにこのように命じられたのでしょうか。それはかつてイスラエルにホセアとゴメルという驚くべき夫婦がいたという、感動的な夫婦愛について語るためではありません。これは神様とイスラエルの関係について語っているのです。すなわち、イスラエルは主なる神様と結婚し夫婦の関係であったのにもかかわらず、何度も何度も神様に背き、偶像崇拝に走り、好き放題に生きて、そのような意味ではまさしく霊的姦淫を至る所で行っていました。それは夫ホセアを捨ててかつての愛人たちのところへ出て行き、そこで淫行の限りを尽くした妻ゴメルと全く同じです。彼女は自分を愛する夫がありながら、自ら彼のもとを離れて、落ちるところまで落ちたのです。そのことによって自分の自由をも失います。それは自分がしたことに対する報いです。彼女を知っている者たちは、その結果は当然、彼女が生涯、負っていかなければならないものだと思ったことでしょう。同じように、イスラエル(北)も自らが行ったことに対して、時経ずして、アッシリヤによって滅ぼされてしまいました。その背景にはそうならざるを得なかった理由があり、イスラエルもその結果を当然、自らが成してしまったことに対する結果として受け止めていかなければならないでしょう。
しかし、たとえそのようになろうとも、ホセアが娼婦となったゴメルを買い戻しに行ったその心こそが、神様のイスラエルに対する思いなのだということを、私たちに語りかけているのです。これが神様の私たちに対する思いです。
でも、ちょっと待ってください。ホセアの場合は娼婦となったゴメルを買い戻しましたが、ここでは、このエレミヤ書では戻れないと言っているではありませんか。無理だと。多くの愛人と淫行を行った妻が、再び元の夫のところに戻ることはできないと。なぜなら、神の律法でそのように命じられているからです。
ところが、神はご自身の律法に反するようなことをなさるのです。つまり、律法で禁じられていても、わたしはあなたをもう一度迎えるというのです。他の男たちと散々淫乱なことをして、霊的姦淫の限りをして、淫行と悪口を重ねてきたふしだらな者を、もう一度迎えてあげるというのです。これは驚くべきことです。なぜなら、矛盾することを言っているからです。でも私たちは知っています。神はこのようなことをなさるということを。すべての違反や、すべての罪は、神の御子イエス・キリストが負ってくださることによってです。神の御子イエス・キリストがふしだらな私たちの罪のすべてを十字架で負ってくださったのですべての罪がきよめられ、罪を犯したことがない者とみなされるようになったのです。そうなれば、そこに矛盾は無くなります。罪が贖われているならば、過去の悪行は持ち出されないのです。それはもう神の記憶にも残っていません。イザヤ書43章23節にこうあります。「わたし、このわたしは、わたし自身のためにあなたのそむきの罪をぬぐい去り、もうあなたの罪を思い出さない。」
すばらしい約束です。罪の記憶は自分を苦しめます。「どうしてあんな事を」と思い悩み、自分を責め、自己弁護し、自己嫌悪し・・。しかし、神を信じ立ち帰るものに対して、神様はすでに赦しを与えておられるのです。過去の罪で私たちを責められることはありません。それどころか、その罪の記憶さえも捨て去ってくださるのです。「わたしはあなたの罪を思い出さない」と明言してくださる。神様さえも責められない過去の罪で、自分を責める必要はありません。主イエス・キリストの十字架の苦しみと死によって、全ての罪が赦されたからです。だから神は背信の女イスラエルに「帰れ」と言われるのです。
ですから、もし人が自分の妻を去らせ、彼女が彼のもとを去って、ほかの男のものになったら、この人は再び先のもとには戻れるだろうか、という問いに対する答えは、No, but Yesです。通常では考えられないことですが、神はそれを可能にしてくださったのです。あなたが多くの愛人と淫行を行ったとしても、悔い改めて神に立ち返るなら、神はあなたを受け入れてくださいます。何とすばらしい知らせでしょうか。驚くべき知らせです。これが福音です。ですからあなたも、この神の招きに応答して、神に立ち返っていただきたいと思います。
Ⅱ.雨はとどめられる(2-3)
次2~3節をご覧ください。「2目を上げて裸の丘を見よ。あなたが共寝しなかったところがどこにあるか。荒野のアラビア人がするように、あなたは道端で相手を待って座り込み、淫行と悪行によって、この地を汚した。3それで大雨はとどめられ、後の雨はなかった。それでも、あなたは遊女の額をして、恥じることを拒んでいる。」
ここにはイスラエルの罪と、その結果が記されてあります。「裸の丘」とは、偶像礼拝が行われていた場所です。彼らはそこで文字通り裸になって性的な祭儀を行っていました。バアル礼拝など多くの偶像崇拝には神殿娼婦と呼ばれる女性たちがいて、そのような者たちと関係を持っていたのです。ですから、彼らはあちらこちらで共寝していたのです。彼らが共寝しなかったところはどこにも見当たらなかったほどです。
「荒野のアラビア人がするように」とは、荒野のアラビア人が、砂漠を通過する商人たちを襲うようにという意味です。そのように彼らは、淫行を行う機会を絶えず伺っていました。遊女のようになって、あちらことらで偶像礼拝をして霊的姦淫の罪を犯していたのです。
その結果どうなったでしょうか。3節、「それで大雨はとどめられ、後の雨はなかった。それでも、あなたは遊女の額をして、恥じることを拒んでいる。」
乾燥地帯において、雨は恵みの雨です。これがなかったら作物は育ちません。したがって食べることができず、生きていくことができません。「後の雨」とは、3~4月にかけて降る「春の雨」のことです。イスラエルには10~11月に降る「先の雨」と、3~4月に降る「後の雨」が降りますが、それ以外は乾季となります。ですから、この時期に雨が降らないと、干ばつと日照りで飢饉となり、危機的な状況に陥ってしまうのです。民は死に絶えてしまいます。
このようになることはすでに、律法の何で警告されていました。申命記11章16~17節にこうあります。「16 気をつけなさい。あなたがたの心が惑わされ横道に外れて、ほかの神々に仕え、それを拝むことのないように。17 そうでないと、主の怒りがあなたがたに向かって燃え上がり、主が天を閉ざし、雨は降らず、地はその産物を出さなくなる。こうしてあなたがたは、主が与えようとしているその良い地から、たちまち滅び去ることになる。」
これはイスラエルが約束の地カナンに入る時に、モーセを通して神が語られたことです。エレミヤの時代からさかのぼること700年も前に、既に神は彼らに警告していました。あなたがたの心が横道に反れて、ほかの神々に仕え、それを拝むようなことがあると、主の怒りがあなたがたに向かって燃え上がり、天を閉ざして、雨が降らなくようになると。その結果、その地は産物を出さなくなり、最終的には、たちまち滅び去ることになると。こういう警告が与えられていたにも関わらず、彼らはそれを無視し、自分たちは大丈夫、聖書にそのように書かれていても、それは自分たちにはあてはまらないと高をくくっていたのです。気をつけなければなりません。
これは、私たちにも言えることです。もし私たちが聖書の神、主イエス・キリストを捨ててほかの神々に走るなら、このような結果を招くことになります。クリスチャンでもほかの神々に走ることがあります。クリスチャンでも偶像崇拝をしていることがあるのです。クリスチャンが走る偶像崇拝とは何でしょうか。それはむさぼりとか、貪欲、情欲といったものです。コロサイ3章5節にはこうあります。「ですから、地にあるからだの部分、すなわち、淫らな行い、汚れ、情欲、悪い欲、そして貪欲を殺してしまいなさい。貪欲は偶像礼拝です。」とあります。偶像礼拝とは、ただ偶像を拝むことだけではありません。貪欲が偶像礼拝なのです。私たちが神様以上に愛するもの、神様以上に頼りにするものがあるとしたら、それがあなたの偶像礼拝となります。あなたが最も情熱を傾けているもの、そのことに最も多くの時間を使い、多くの労力を注ぎ、多くのお金をかけているもの、それがあなたの神だ、というのです。それがあなたの偶像礼拝となるのです。それが聖書の神であれば幸いです。この神のために時間を使い、神のために労力を注ぎ、神のためにお金を使う。それが礼拝するということです。なぜなら、聖書にこうあるからです。「あなたは心を尽くし、いのちを尽くし、知性を尽くして、あなたの神、主を愛しなさい。これが、重要な第一の戒めです。」(マタイ22:37-38)これが、重要な第一の戒めです。心を尽くして、いのちを尽くして、知性を尽くして、力を尽くして、あなたの神を愛すること、それが本物の礼拝です。それが神様以外であるなら、イエス・キリスト以外であるなら、それはあなたの偶像礼拝となるのです。その結果、大雨はとどめられ、後の雨は降らなくなります。つまり、あなたの心はまさに雨が降らない状態となり、完全にドライになり、カラカラの状態に乾ききってしまいます。
時に私たちは、なぜ私はクリスチャンなのにこんなにも心がカラカラなんだろうと思うことがあります。全然潤っていない、満たされていない、喜びがない、平安がない、愛を感じない、イキイキしていないと感じて、その原因をいろいろ探し求めるわけですが、勿論、いろいろな原因があると思いますが、ここで一つ指摘されていることは、あなたが偶像礼拝をしているからであるということです。だからあなたの心はいつまで満たされないのです。砂漠のように渇ききっています。いくら祈っても、いくら聖書を読んでも、心が満たされません。実際、このエレミヤの時代のイスラエルの民はエルサレムの神殿で主を礼拝していましたが、それなのに、同時に偶像礼拝をしていました。完全に断ち切っていませんでした。それは「主よ、主よ」と祈りながら、同時に偶像礼拝しているようなものです。勿論、私たちは教会に通いなが同時に神社を参拝することはないと思います。神社、仏閣巡りをし、お布施をして、拝んでもらうというようなことはしないでしょう。でも心はカラカラなのです。なぜ?ほかの神々を拝んでいるからです。それは人かもしれないし、物かもしれません。しかし、それがどんなものであっても、神以上に愛するなら、神以上に頼りとするなら、それはあなたの偶像礼拝なのです。場合によってそれは自分かもしれません。自分が捨てられない、自分を偶像化していることがあります。神様以上に自分のために時間を使い、自分のことで一杯一杯になり、自分のためにお金を費やすなら、それがあなたの偶像礼拝だと、聖書は言うのです。
イエス様はあなたを愛してやまない方です。ですから、イエス様は私たちを罪から解放するためにご自身を捨ててくださいました。そして私たちの罪を負って十字架で死んでくださり、私たちを贖ってくださいました。そのイエス様について行くために私たちに求められていることは何でしょうか。自分を捨てることです。イエス様はこう言われました。「だれでもわたしについて来たいと思うなら、自分を捨て、自分の十字架を負って、わたしに従って来なさい。自分のいのちを救おうと思う者はそれを失い、わたしのためにいのちを失う者はそれを見出すのです。」(マタイ16:24-25)
だれでもイエス様について行きたいと思うなら、自分を捨てなければなりません。そして、自分の十字架を負って、従って行かなければなりません。そうでないと、イエス様につい行くことはできません。キリストの弟子にはなれないのです。これが聖書が私たちに教えていることです。
ある方からお電話がありました。精神的にとても落ち込んでいると。教会の方が召されたり、家族が病気になったり、仕事が思うようにいかなくて悩んでいたとき、カウンセラーに相談したそうです。するとカウンセラーから、「聖書に、『あなたの隣人をあなた自身のように愛しなさい』とあるので、まず自分を愛することが大切だ」と言われたので、自分を愛するようにしたそうです。自分の生い立ちを振り返ってみると、ずっとセルフイメージが低く、自分否定していたことに気付きました。でも自分の気持ちが自分に向けるほどもっと落ち込んでしまった、というのです。皆さん、どう思いますか。それはそうです。というのは、聖書には自分を愛しなさいなんて一言も言われていないからです。自分を大切にすることは必要です。でもそれは自分を愛することではありません。聖書が教えていることはその逆で、自分を捨てなさい、ということです。自分を捨て、自分の十字架を負って、キリストに従いなさいと。そうすれば、いのちを見出すと。もしあなたが自分、自分と自分のことばかり見ているなら、いつまで経ってもその穴から抜け出すことはできないでしょう。でもあなたの目を神に向け、キリストの十字架を負って、キリストに従うなら、神と隣人を愛するなら、あなたはいのちを見出すことになります。人に相談してはならないということではありません。しかし、あなたがあなたの前に主を置いて、主のみこころは何かを考え、その主に従うなら、あなたはいのちを見出すことになるのです。問題を見てはいけません。神を見て、神に信頼しなければならないのです。
もし私たちが神を信じていても、同時に偶像を礼拝するなら、必ず大雨はとどめられ、心は渇き、弱り果て、干ばつや日照りで作物は取れず、不毛の人生を送るようになります。神は私たちにそのような者になることを望んでいません。だから主は私たちに「戻って来なさい」「帰って来なさい」と言われるのです。私たちは、大雨がとどめられないように、後の雨が降るように、もう一度、私たちの状態を顧みて、もし偶像を拝んでいるようであるならば、それを悔い改めて、今、神に立ち帰ろうではありませんか。
最後に4~5節をご覧ください。「4 今でもあなたは、わたしにこう呼びかけているではないか。「父よ、あなたは私の若いころの恋人です。5 いつまでも恨みを抱かれるのですか。永久に持ち続けるのですか」と。なんと、あなたはこう言っていながら、あらん限りの悪を行っている。』」
「今でも」とは、多くの愛人と淫行を行っている「今でも」ということです。今でも彼らは主にこう呼びかけていました。「父よ、あなたは私の若いころの恋人です。」
ユダヤ人の女性は、自分の夫のことを「父」と呼んでいました。ですから、この「父」とは、前の夫のことです。前の夫に対して、「あなたは私の若いころの恋人です」と言っているのです。この「恋人」とは、口語訳では「友」、新共同訳では「夫」と訳しています。新改訳第三版では「連れ合い」と訳しています。おもしろいですね、それぞれの訳によって微妙にニュアンスが違います。どちらかというと新共同訳と新改訳第三版では同じような意味で訳されています。これは先ほども言ったように、ユダヤ人女性は自分のことを「夫」と呼んでいたので、「夫」、あるいは「連れ合い」と訳した方が適訳かと思います。彼らは多くの愛人、すなわち、多くの偶像を礼拝しながら、主に「あなたは私の夫です」と呼び掛けていたのです。イスラエルの民は主なる神と契約を結んでいたので、彼らは主と婚姻関係にありました。そのことをこの祈りの中で告白しているのです。「私たちはまさにクリスチャンです」というようなことを言っているようなものです。
5節をご覧ください。彼らはあらん限りの悪を行っていながら、「いつまでも恨みを抱かれるのですか。永久に持ち続けるのです」と言うのです。彼らの問題は何だったのでしょうか。彼らの問題は、言行が一致していなかったことです。行っていることとやっていることが一致していなかったのです。彼らは、口では信仰的なことばを語りながら、行いでは、あらん限りの悪を行っていたのです。
このような過ちを私たちも犯すことがあります。口では「主よ、あなたは私の主です。わたしはあなたのものです。わたしはあなたを心から愛します」と言いながら、一方では他の神々を慕っているということがあるのです。イエス様は「この民は、口先ではわたしを敬うが、その心は、わたしから遠く離れている。」(マタイ15:8)と言われましたが、そういうことがあるわけです。その結果、雨がとどめられ、窮地に立たせられると、もう苦しい時の神頼みで、「神様、助けてください」と祈るのです。藁をもすがるように、イエス様にすがろうとするのです。そのこと自体は問題ではありませんが、そのようにしながらも、一方ではあらん限りの悪を行うという、何ともチグハグなことをしているのです。偶像を捨てません。あきらめられないのです。こういうのを何というかというと、虫のいい信仰と言います。
もし悔い改めて他の偶像を捨て、まことの神に立ち帰ったのであれば、「主よ、いつまで怒っておられるのですか。永久に怒っておられるのですか。どうぞあわれんでください。その怒りを鎮めてください。」と祈ることができます。そして、神様はあわれみをもってその祈りに答えてくださいますが、しかしこのイスラエルの民のように自分たちの罪を認めずそれを棚に上げてますます悪を行うなら、大雨はとどめられることになります。しかし、あなたが悔い改めて神に立ち帰るから、神はあなたに恵みの雨を与えてくださいます。
4世紀に活躍したアウグスティヌスと言えば、古代の教会の教父、また哲学者、神学者として知られ、今なお、多くの人々から尊敬を受けている人物ですが、このアウグスティヌスも、若いころは、とんでもない生活をしていました。彼は、16歳の時、親もとを離れて、北アフリカのカルタゴという街に行きますが、そこで、ひとりの女性と同棲し子どもをもうけるようになるのです。おまけに、母から受けた信仰の教えを捨てて、当時のローマ世界にいきわたっていた「マニ教」という宗教に入信してしまうのです。
彼の母モニカは、マニ教に走って行った息子のことで悩み、教会の司教アンブロシウスに相談しました。アンブロシウスは「息子さんをそのままにしておきなさい。ひたすら彼のために主に祈りなさい。息子さんは彼らの書物を読んでいるうちに、それが何という間違った教えであるかを、いつか悟るでしょう。」と、モニカに話すのですが、それでも、彼女は泣き続けました。その時、この司教は言いました。「さあ、お帰りなさい。大丈夫ですよ。このような涙の子が滅びるはずはありません。」この言葉の通り、アウグスティヌスは母モニカの涙の祈りによって、不道徳と、誤った教えから立ち返ったのです。
それはあなたにも言えることです。神は、ひとりも滅びることを望んではおられません。すべての人が救われることを願っておられます。すべての人が神に立ち帰ることを待っておられるのです。主イエスの十字架によって赦されない罪はありません。主イエスの十字架の血潮は、どんな罪でも赦すことができるのです。この主の御腕の中に飛び込みましょう。「わたしに帰れ」とイスラエルを招かれた主は、今あなたをも招いておられるのです。