心を洗いきよめよ エレミヤ書4章5~18節

聖書箇所:エレミヤ書4章5~18節(エレミヤ書講解説教10回目)

タイトル:「心を洗いきよめよ」

 きょうは、エレミヤ書4章5節から18節までのみことばから「心を洗いきよめよ」というタイトルでお話します。前回は、その前の1節から4節までのところから「心の包皮を取り除け」というメッセージでしたね。神から離れたイスラエルに向かって主は、「背信の子らよ、立ち返れ。」と語りました。そうすれば、主はあなたの背信を癒そうと。それで前回の箇所では、もし主に帰るというのなら、わたしのもとに帰れ、と言われたのです。主に立ち返るとはどういうことなのかを、「もし」ということばを用いて説明されたわけです。そしてそれは口先だけの悔い改めではなく、真実な悔い改めが求められるということでした。ただ表面的でうわべだけのものではなく、心から「主は生きておられる」と告白することが求められていたのです。

そのためには、三つのことが求められていました。一つは3節にあるように、「耕地を開拓せよ。」ということでした。耕地というのは、かたくなな心のことでしたね。その耕地に鍬とか鋤を入れて柔らかくしなければなりません。なぜなら、そのようにカチカチと凝り固まった心にどんなに種をまいても実を結ぶことはないからです。種が育つためにはまず、心の耕地を耕さなければなりません。

第二のことは、「茨の中に種を蒔くな」ということでした。茨の中に種を蒔いたらどうなりますか。どんなに芽が出ても成長することができません。茨がそれをふさいでしまうからです。ですから、茨の中に種を蒔いてはなりません。

そして第三のことは、「主のために割礼を受け、心の包皮を取り除け」ということでした。割礼とは男性の性器の先端を覆っている皮を切り取ることです。ユダヤ人は、自分たちが神の民であることのしるしとして、生まれて8日目にこの割礼を受けました。しかし、ここで言われているのはただの割礼ではなく「心の割礼」のことでした。「外見上のユダヤ人がユダヤ人ではなく、また、外見上のからだの割礼が割礼ではないからです。かえって人目に隠れたユダヤ人がユダヤ人であり、文字ではなく、御霊による心の割礼こそ割礼だからです。」(ローマ2:28-29)大切なのは、心に割礼を受けるということ、御霊による心の割礼です。すなわち、彼らの心に焦点が当てられていたのです。

きょうの箇所はその続きです。きょうの箇所でも、彼らの心に光が当てられています。14節には「エルサレムよ。救われるために、悪から心を洗いきよめよ。」とあります。「いつまで、自分のうちによこしまな思いを宿らせているのか。」と。神のことばを聞いたのなら、あなたの心を洗いきよめなければならない、というのです。

きょうはこのことについて3つのポイントでお話したいと思います。第一のことは、そのためには、身を慎み、目を覚ましていなければなりません。そうでないと、あなたがたの敵である悪魔が、ほえたける獅子のように、食い尽くすべきものを捜し求めながら、歩き回っているからです。

第二のことは、神が何と言っておられるのかをよく聞き分けなければなりません。そうでないと、偽りの教えに騙されてしまい、滅びを招いてしまうことになるからです。

第三のことは、その滅びから救われるために、悪から心を洗いきよめよ、ということです。

 Ⅰ.身を慎み、目を覚ましていなさい(5-9)

まず、5節から9節までをご覧ください。「5「ユダに告げ、エルサレムに聞かせて言え。国中に角笛を吹け。大声で叫べ。『集まれ。城壁のある町に逃れよう』と。6シオンに向けて旗を掲げよ。自分の身を守れ。立ち止まるな。わたしが北からわざわいを、大いなる破滅をもたらすからだ。7獅子はその茂みから立ち上がり、国々を滅ぼす者はその国から出て来る。あなたの地を荒れ果てさせるために。あなたの町々は滅び、住む者はいなくなる。」8このことのために、粗布をまとって悲しみ嘆け。主の燃える怒りが、私たちから去らないからだ。9「その日には-主のことば-王の心や、高官たちの心は萎え、祭司は唖然とし、預言者はたじろぐ。」」

ユダに対するさばきの宣言です。「角笛を吹く」とは、危険が迫っていることを示しています。「城壁のある町に逃れよう」とは、城壁など防備のある町に逃れるようというということです。エルサレム以外のユダの町々に住む人々に、侵入して来る敵の軍隊に備えて、防備のある町々に避難するようにと呼び掛けられているのです。なぜなら、北からわざわいが、大いなる破滅が襲い掛かって来るからです。それは神がもたらしたものでした。「北から」とは、バビロンのことを指しています。7節には「獅子」とありますが、それはバビロンのことを象徴しています。「獅子はその茂みから立ち上がり、国々を滅ぼす者はその国から出てくる。」そうです、バビロンがやって来てユダに襲いかかり、破滅をもたらそうとしていたのです。それはユダの民が、預言者を通して語られた神のことばを聞いても、神に立ち返らなかったからです。それで主の燃える怒りが、彼らに向けられたのです。その日には、王の心や、高官たちの心は萎え、祭司は唖然とし、預言者はたじろぐことになります。

その神のさばきから逃れる唯一の道は何でしょうか。8節には「このことのために、粗布をまとって悲しみ嘆け。」とあります。つまり、罪を悔い改めて神に立ち返ることです。それなのに彼らには、そのようにしませんでした。彼らには、そのような信仰が欠如していたのです。

新約聖書には、サタンが獅子にたとえられています。Ⅰペテロ5章8節には、「身を慎み、目をさましていなさい。あなたがたの敵である悪魔が、ほえたける獅子のように、食い尽くすべきものを捜し求めながら、歩き回っています。」とあります。敵である悪魔に勝利する秘訣は、「身を慎み、目をさましている」こと、つまり、信仰の目をさましていることです。そうでないと、獅子がユダを食い尽くしたように、霊的な獅子である悪魔があなたを食い尽くしてしまうことになります。あなたは、神のことばによって養われていますか。神のことばが聞こえているでしょうか。

先週もC-BTE(教会主体の神学教育)が持たれましたが、前回はテトスの手紙1章から学びましたが、そこには、パウロが開拓したクレテの教会を破壊する者たちがいました。彼らは反抗的な者、無益な話をする者であり、人を惑わす者たちで、恥ずべき利益を得るために、教えてはならないことを教え、いくつかの家々をことごとく破壊していました(テトス1:10-11)。彼らは神を知っていると公言していましたが、行いでは否定していたのです(同1:16)。そういう者たちが家々に入り込むとどうなるでしょうか。家々が破壊されてしまうことになります。夫婦関係に亀裂が生じ、家族はバラバラになり、教会が破壊されてしまうことになります。なぜなら、家族は教会構成している最小単位だからです。それがバラバラになれば、当然それを構成している教会の共同体も崩壊してしまうことになります。特に初代教会では、家々が教会でしたから、家々が破壊されるということは、教会が破壊されることだったのです。ですから、夫婦とか家族というのはとっても大切なのです。しかし、その夫婦なり家族に関する教えが、神のことばに従った健全なものではなく、この世の考え方やこの世の教えに従ったものであるなら、知らないうちに家々が崩壊していくことになります。

ですから、神のことばである主の教え、健全な教えを聞いて、それに養われていないと、霊的獅子である悪魔に食い尽くされてしまうことになります。いつの間にか信仰から離れ、この世にどっぷりと浸かった状態に陥ってしまうのです。ですから、注意しなければなりません。いつも身を慎み、目を覚ましていなければならないのです。私たちの心を見張っていなければなりません。

 Ⅱ.神のことばを聞き分ける(10-13)

第二のことは、神が何と言っておられるのかをよく聞き分けなければならないということです。10節から13節までをご覧ください。10節をお読みします。「10 私は言った。「ああ、神、主よ。まことに、あなたはこの民とエルサレムを完全に欺かれました。『あなたがたには平和が来る』と言われたのに、剣が私たちの喉に触れています。」」

「私」とは、エレミヤのことです。エレミヤは、ここで主に言っています。「あなたはこの民とエルサレムを完全に欺かれました。」なぜなら、「あなたがたには平和が来る」と言われたのに、平和どころか剣が喉に触れているからです。どういうことでしょうか。

「あなたがたには平和が来る」と言ったのは偽預言者たちです。ここも二重の『』になっています。これは、当時の偽預言者たちが語っていた言葉です。そのメッセージを信じた結果、欺かれることになってしまいました。それは主なる神が悪かったのではなく民が悪かったからです。神はエレミヤを通して、神に立ち返らないとさばきが来ると宣告していたのに、ユダの民はそれを受け入れませんでした。聞きたくなかったのです。耳障りが悪いからです。そしてそれとは反対の偽預言者たちの言葉を信じました。「自分たちは大丈夫、神のさばきなんか来ないから」「侵略なんてされることはない、自分たちは要塞のあるエルサレムで平和に暮らすことができる」と、まんまと騙されていたのです。

彼らが聞きたかったのはさばきのメッセージではなく、救いのメッセージ、平和のメッセージでした。ですから、どんなに悔い改めて神に立ち返れと言われても、そうでないと神のさばきを免れることはできないと聞いても、そうした言葉には耳を塞ぎ、「あなたがたには平和がくる」という偽預言者たちの語るメッセージを喜び、受け入れていました。つまり、問題は彼らの不信仰にあったのです。

それは彼らだけではなく、私たちにも言えることです。人は皆、こうした偽りの平安や表面的な気休めの言葉を求めています。家内安全、商売繁盛、といった現世的な利益とか、病気が癒される、人間関係が良くなるといった言葉を求めているのです。それ自体は悪いことではありません。でももっと本質的なものを見ていないと、このユダの民のように欺かれてしまうことになります。もっと本質的なものとは何かというと、神との関係です。永遠のいのちです。神との関係がないのに、いくら「平和だ、平和だ」と言っても、それは表面的なものにすぎません。どんなに健康であっても、どんなに問題が解決しても、神との関係がなかったら地獄です。何にもなりません。でも、たとえ病気であっても、たとえ貧しくても、たとえ問題があっても、神を信じ、イエス・キリストを救い主と信じている人はどんなに幸いでしょうか。最終的に、神の国、天国に行くのですから。皆さん、騙されてはいけません。「平安だ、平安だ」という言葉に簡単に飛びついてはいけないのです。あまりにも簡単にそうしたものに飛びつくと、今さえ良ければいいという生き方になってしまい、必ず失望することになってしまいます。まず天を定めることです。そこから上下左右のバランスをとっていくのです。これが生け花の基本だと、以前誰かから聞いたことがあります。まず天を定めて、現在を見ていくのです。神のみこころは何か、何が良いことで神に受け入れられることなのかを求め、心の一新によって自分を変えることです。そうすれば偽りの言葉に騙されることはありません。

11節から13節までをご覧ください。「11 そのとき、この民とエルサレムに告げられる。「荒野にある裸の丘から、熱風は、娘であるわたしの民の方に吹く。ふるい分けるためでも、より分けるためでもない。12 それよりも、もっと激しい風が、わたしのために吹いて来る。今や、わたしが彼らにさばきを下す。」13 見よ、それは雲のように上って来る。その戦車はつむじ風のよう。その馬は鷲よりも速い。ああ、私たちは荒らされる。」

そのとき、この民とエルサレムに、主のことばが告げられました。それはユダに対して、もっと激しい神のさばきが下されるということでした。それが「熱風」という言葉で表されています。「熱風」とは、砂漠から吹いてくる「シロッコ」と呼ばれる夏の季節風のことです。この「熱風」が、娘である神の民イスラエルの方に吹くのです。何のためですか?これはふるい分けるためでも、より分けるためでもありません。脱穀のようにもみ殻をふるい分ける時にも風が用いられますが、そのようにふるい分けるためでも、より分けるためでもありません。それよりも、もっと激しい風が、神のために吹くのです。それは、神が彼らにさばきを下すための風で、彼らを滅ぼすためのものでした。この熱風は、いったん吹けばすべての植物を枯らしてしまいます。それは戦車のつむじ風のようで、その馬は鷲よりも早いのです。鷲よりも早いのですから、そうとう早い馬です。それは誰のことでしょうか?それは北からのわざわい、バビロンのことです。バビロンがやって来て、ユダを激しく滅ぼし尽くすのです。それが彼らの目前まで迫っていました。なぜなら、彼らが悔い改めなかったからです。偽りの預言者たちのことばに騙されて不信仰に陥っていたからです。

今から4年前に天に召された世界的な伝道者ビリー・グラハム師は、1989年のゴードン・コンウェル神学校の設立記念礼拝のメッセージの中で、次のように言いました。

「世の中には、これは常に正しいと言えるものと、これは常に正しくないと言えるものがある。この単純な事実を、私たちは見失ってしまった。つまり、私たちは判断基準を失ってしまったのだ。この国には、自分たちの生活を防御するための論理的哲学がない。それゆえ、何かが起きなければ、私たちの生活はより重大な危機に陥るだろう。その何かというのは、霊的リバイバルである。」(ビリー・グラハム,クリスチャニティトゥデイより)

私たちに求められているのは、この「霊的リバイバル」です。神に立ち返ることです。神のことばに生きることです。私たちが聖書に書かれてあることを知らなければ、いとも簡単に、聖書とは違うメッセージを信じてしまうことになります。その結果、私たちの心が神から離れてしまうのです。神を信じていると思っていても、いつの間にか、それとは違う方向へ進んでいくことになります。そこには、神との親しい交わりはありません。

ですから、私たちは注意しなければなりません。自分に都合がいい、耳障りがいいことばではなく、神のことばを聞かなければならないのです。神は何とおっしゃっているのかを聞き、それに従わなければなりません。そうでないと熱風が吹いて来てすべてを枯らしてしまうことになります。

 Ⅲ.悪から心を洗いきよめよ(14-18)

 ですから、第三のことは、救われるために、悪から心を洗いきよめよ、ということです。14節から18節までをご覧ください。「エルサレムよ。救われるために、悪から心を洗いきよめよ。いつまで、自分のうちによこしまな思いを宿らせているのか。15 ああ、ダンから告げる声がある。エフライムの山からわざわいを告げ知らせている。

4:16 国々に語り告げよ。さあ、エルサレムに告げ知らせよ。包囲する者たちが遠くの地から来て、ユダの町々に対して、ときの声をあげる。17 彼らは畑の番人のように、ユダを取り囲む。それは、ユダがわたしに逆らったからだ。-主のことば-18 あなたの生き方と、あなたの行いが、あなたの身にこれを招いたのだ。これはあなたへのわざわいで、なんと苦いことか。もう、あなたの心臓にまで達している。」」

 それゆえ、主なる神は、ユダの人々が救われるために、主の前に悔い改めるように、そして「悪から心を洗いきよめよ」と命じています。

「心を洗う」とはどういうことでしょうか。それは心を入れ替えるということではありません。心を洗うことは、自力ではできないのです。ですから、心を洗うためには、心を神に向け、神に洗ってもらわなければなりません。

旧約聖書に出てくるダビデは、主なる神によって心を洗われるという経験をしました。詩篇51篇7節で、彼はこう言っています。「ヒソプで私の罪を除いてください。そうすれば私はきよくなります。私を洗ってください。そうすれば私は雪よりも白くなります。」

「ヒソプ」とは、壁や岩などに生えるシソ科の植物です。モーセの律法の中に、過越の祭りでほふった小羊の血をそのヒソプの束によって、鴨居と門柱につけるように命じられていました(出エジプト12:22)。ですから、ヒソプで私の罪を除いてくださいというのは、その小羊の血によって、きよめてくださいということです。そうすれば、雪よりも白くなります。これは真っ白になるということです。完全に洗いきよめていただくことができるのです。預言者イザヤはこう言いました。「たとい、あなたがたの罪が緋のように赤くても、雪のように白くなる。たとい、紅のように赤くても、羊の毛のようになる。」(イザヤ1:18)主がきよめてくだされば、雪よりも白くなることができます。心を洗いきよめることができるのです。

また、彼はこうも言っています。「神よ。私にきよい心を造り、揺るがない霊を私のうちに新しくしてください。」(詩篇51:10)きよい心を造り、揺るがない霊を与えてくださるのは、神なのです。

いったい神はどのように私たちの心を洗いきよめてくださるのでしょうか。それは小羊の血を心に塗ることによって、すなわち、神の御子イエス・キリストを心に信じることによってです。Ⅰヨハネ1章7節にこうあります。「もし私たちが、神が光の中におられるように、光の中を歩んでいるなら、互いに交わりを持ち、御子イエスの血がすべての罪から私たちをきよめてくださいます。」御子イエスの血が、すべての罪から私たちをきよめてくださいます。ですから、聖書はこう言うのです。「もし私たちが自分の罪を告白するなら、神は真実で正しい方ですから、その罪を赦し、私たちをすべての不義からきよめてくださいます。」(Ⅰヨハネ1:9)

もしあなたが自分の罪を告白するなら、神は真実な方ですから、その罪を赦し、すべての悪から洗いきよめてくださいます。ハレルヤ!何という約束でしょうか。私たちも日々神に背き、罪を犯す者ですが、私たちが御子イエスに向くなら、そして、自分の罪を告白するなら、主はその罪を赦し、すべての悪からきよめてくださるのです。

アメリカに有名な伝道者で、リバイバリストであったチャールズ・フィニーという人がいました。最初に「リバイバル」という言葉を使った人で、「最初のアメリカ人リバイバリスト」と呼ばれている人です。

彼がある町で伝道していた時のことです。人相の悪い男に「今晩、わしの店まで来てくれ」と言われました。彼は恐る恐る彼の店に行ってみると、急にピストルを取り出して言いました。「昨晩あんたの言ったことは本当か。」

「どんなことを言いましたか。」

「キリストの血がすべての罪からきよめると言ったさ。」

「それは私のことばではなく、神のことばです。」

「実は、この酒場にある秘密のギャンブルの部屋で、わしは多くの男を最後の1ドルまでもふんだくり、ある者は自殺に追いやった。こんな男でも、神は赦してくれるのか。」

「そうです、すべての罪はキリストの血によってきよめられます。」

「ちょっと待ってくれ。支払いができない奴は、殺し屋を雇い、このピストルで殺させた。こんな男でも、神は赦してくれるのか。」

「私に言えるのは、聖書には、すべての罪が赦されると書いてあるということだけです。」

「ちょっと待ってくれ。通りの向こうの大きな家に、わしの妻と子供たちがいる。ところがわたしはこの16年間、妻をののしり続けてきた。先日は幼い娘をストーブのそばに押し倒し、やけどを負わせた。こんな男でも神は赦してくれるのか。」

すると、フィニーは立ち上がり、その男の手を握りました。そして、こう言いました。「これまで聞いたことのない恐ろしい話を聞きました。しかし聖書には、キリストの血がすべての罪を赦し、きよめると書いてあります。」

すると、その男は言いました。「それを聞いて安心した。」

翌朝、太陽が昇るころ、その男は立ち上がって自宅に帰りました。そして自分の部屋に幼い娘を呼び、ひざに乗せて「パパはおまえを、心から愛しているよ」と言いました。何事が起こったのかと不審に思って中を覗いていた妻の頬に、涙が流れ落ちました。彼はその妻を呼ぶとこう言いました。「昨晩、今まで聞いたことのない、すばらしい話を聞いた。キリストの血は、すべての罪からきよめると・・・」そして彼は酒場を閉め、その町にとって大の恩恵者になったのです。

キリストの血は、どんな罪でも赦し、きよめ、私たちを神と和解させます。キリストの愛はどんな人でもその人の内側から変え、神の平安で満たしてくれるのです。

ですから、もしあなたが神に帰るのなら、キリストのもとに行かなければなりません。そして救われるために、悪から心を洗いきよめていただかなければならないのです。いつまで、自分のためによこしまな思いを宿らせているのですか。今日、もし御声を聞くなら、あなたの心をかたくなにしないでください。主イエスの血によって、あなたの心をきよめていただきたいのです。

15節には、「ああ、ダンから告げる声がある。エフライムの山からわざわいを告げ知らせている。」とあります。「ダン」とは、北イスラエルの最北端にある町です。「エフライムの山」とは、南ユダの最北端にある山です。ですから、これは全イスラエルに告げ知らせよということです。イスラエルのすべての人に悔い改めるようにと勧告されているのです。いや、イスラエルばかりではありません。16節には「国々に語り告げよ。」とあります。それは異教の国々も含むすべての国々のことです。すべての国の、すべての人に対して勧められているのです。何を?悔い改めることです。救われるために悪から心を洗いきよめることです。そうでないと、包囲する者たちがやって来て、ユダの町々に対して、ときの声をあげるようになります。あなたを包囲する者たちがやって来て、あなたを滅ぼしてしまうことになるのです。

それは神に原因があるからではありません。18節にあるように、「あなたの生き方と、あなたの行いが、あなたの身にこれを招いた」のです。神が好んでしているわけではないのです。あなたの生き方と、あなたの行いが、これをあなたの身に招きました。これは、神に背いた生き方、神に背いた行いのことです。聖書では、これを罪と呼んでいます。罪とは的はずれ、神という的を外した生き方、行いです。言い換えると、それは自己本位の生き方のことです。これがあなたの身にわざわいをもたらすのです。それはあなたの心臓にまで達しているとあります。それは文字通り、健康にもよくありません。罪はあなたの心と体を蝕むのです。その行き着くところは死です。「罪の報酬は死です。しかし神の賜物は、私たちの主キリスト・イエスにある永遠のいのちです。」(ローマ6:23)

罪の報酬は死です。しかし、神がくださる賜物は、私たちの主キリスト・イエスにある永遠のいのちです。このようなすばらしい賜物を与えてくださった主に心から感謝します。ですから、もしあなたがまだこの賜物を受けていなのであれば、どうか今、自分の罪を認め、神に立ち返ってください。あなたのために十字架で死なれ、三日目によみがえられた救い主イエス・キリストを信じてください。そうすれば、あなたの罪は赦され、すべての悪から心をきよめていただくことができます。

ユダの民は、「自分の心を見つめるように」という神からの語りかけを、真摯に受け止めませんでした。その結果、エレミヤがこの預言を語ってから20年後に、結局バビロン捕囚の憂き目にあいました。罪を犯す根源である心を点検しましょう。そして、キリストによってすべての悪から心を洗いきよめていただき、救いの恵み、永遠のいのちをいただき、神とともに新しい人生を歩ませていただきましょう。