後退ではなく前進を エレミヤ書 7 章16~34 節

聖書箇所:エレミヤ書 7 章16~34 節(エレミヤ書講解説教16 回目)
タイトル:「後退ではなく前進を」
エレミヤ書7章後半からお話します。タイトルは「後退ではなく前進を」です。24 節には、「し
かし、彼らは聞かず、耳を傾けず、頑なで悪い心のはかりごとによって歩み、前進どころか後退
した。」とあります。彼らとは、イスラエル、ユダの民のことです。彼らは預言者エレミヤが神のこ
とばを語っても聞かず、耳を傾けようともしないで、頑なで悪い心のはかりごとによって歩み、
前進どころか後退していました。これは当時のユダの民だけでなく、現代の私たちにも言える
ことではないでしょうか。
私は長年牧師として仕えさせていただく中で、多くの新しいたましいとの出会いを体験して
きました。私にとっての最大の課題は、そのような方々にいかにして福音を伝えるか、また、決
心された方々をどのように導いていったらよいかということでした。ですから頭の中にはいつ
も、決心された方々の霊的成長を助けるために必要なことは何か、また、成長したクリスチャン
が、神の使命に生きる者となるためにどんなことができるのかをずっと模索してきました。こ
れはまさに御霊なる主の働きであって私たちにできることではありませんが、それでも何とか
その助けになれないだろうか、つまり、一日一歩、三日で三歩、三歩進んで二歩下がる。後退す
ることがあっても前進する。そうやって信仰の高嶺へと進んで行けたらどんなにすばらしいこ
とかと願っているわけです。いったいどうしたら後退ではなく前進していくことができるでし
ょうか。きょうはこの信仰の前進に必要な三つのポイントでお話したいと思います。

Ⅰ.この民のために祈ってはならない(16-20)

第一のことは、心を尽くして神を愛することです。16~20節までをご覧ください。「16 あ
なたは、この民のために祈ってはならない。彼らのために叫んだり、祈りをささげたりしてはな
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らない。わたしにとりなしをしてはならない。わたしはあなたの願いを聞かないからだ。17 彼
らがユダの町々や、エルサレムの通りで何をしているのか、あなたは見ていないのか。18 子
どもたちは薪を集め、父たちは火をたき、女たちは麦粉をこねて『天の女王』のための供えの
パン菓子を作り、また、ほかの神々に注ぎのぶどう酒を注いで、わたしの怒りを引き起こそう
としている。19 わたしの怒りを彼らが引き起こしているというのか──主のことば──。む
しろ、自分たちを怒らせ、自分たちの恥をさらすことになっているのではないか。」20 それゆ
え、神である主はこう言われる。「見よ。わたしの怒りと憤りは、この場所に、人と家畜、畑の木
と地の産物に注がれ、それは燃えて、消えることがない。」」

ここに驚くべきことが語られています。それは「この民のために祈ってはならない」というこ
とです。「この民」とは、もちろん、イスラエルの民のことです。主は預言者エレミヤに、このイス
ラエルの民のために祈ってはならないと言われたのです。預言者の働きの一つはとりなしの祈
りです。アブラハムは甥のロトのために必死にとりなしをしました。モーセも何度も神につぶや
いて滅ぼされそうになったイスラエルの民のために命がけでとりなしました。サムエルに至っ
ては、「私もまた、あなたがたのために祈るのをやめ、主の前に罪ある者となることなど、とて
もできない。」(Ⅰサムエル 12:23)と言いました。つまり、預言者がその民のために祈らないこ
とは罪なのです。

それはすべてのクリスチャンにも言えることです。すべてのクリスチャンはとりなしの祈りを
するように召されています。なぜなら、クリスチャンには神の御霊である聖霊が宿っているか
らです。その聖霊が、神の御心に従って聖徒たちのためにとりなしていてくださるのです。で
すから私たちも互いのために祈るべきであり、とりなすべきなのです。イエス様はどうでした
か?イエス様はご自分を十字架に付けた人たちのためにとりなしの祈りをされました。「父よ。
彼らをお赦しください。彼らは、何をしているのか自分でわからないのです。」 (ルカ 23:34)

それなのに、ここでは「祈るな」と命じられています。なぜでしょうか。なぜなら、神様はイス
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ラエルの民をさばくと決められたからです。いくら祈っても神のさばきが変更されることはあ
りません。もう聞かれないのです。なぜなら、神様はこれまで何度も涙しながら「わたしのもと
に返れ」と語られたのに、彼らは一向に振り向こうともせず、ずっと神の心を踏みにじってきた
からです。ずっと突っぱねて来ました。心をかたくなにして悔い改めようとしないのに、どうし
て赦すことができるでしょうか。悔い改めるなら神様は赦してくださいます。けれども悔い改
めなければ赦すことができません。それなのに彼らは悪に悪を重ね、神様の怒りを引き起こし
てきたのです。

その具体的な例が17節と18節にあります。彼らはユダの町々や、エルサレムの通りで何を
していましたか。子どもたちは薪を集め、父たちは火をたき、女たちは麦粉をこねて『天の女王』
のための供えのパン菓子を作っていました。また、ほかの神々に注ぎのぶどう酒を注いでいま
した。「天の女王」とは、バビロンの女神イシュタルのことです。彼らは家族ぐるみで天の女王を
拝んでいました。主はかつて、モーセを通して最も大切な戒めを語られました。それは申命記
6:5のみことばです。「心を尽くし、いのちを尽くし、力を尽くして、あなたの神、主を愛しなさ
い。」有名なみことばですね。これは「シェマー」ということばから始まるみことばです。「シェマ
ー、聞きなさい、イスラエルよ。主は私たちの神。主は唯一です。だから、あなたがたは心を尽く
し、いのちを尽くし、力を尽くして、あなたの神である主を愛しなさい」ということです。このみ
ことばはとても大切なものなので、当時のユダヤ人はそれを忘れることがないように、それを
自分の手に結び付け、記章として額の上に置きました。また、家の戸口の柱に刻み込みました。
それを自分たちの子どもたちにもよく教え込まなければなりませんでした。それなのに彼らは
家族ぐるみで天の女王を拝んでいたのです。家族ぐるみで主を礼拝していたのではなく、天の
女王を礼拝していました。そのようにして神の怒りを引き起こしていたのです。彼らは、自分た
ちの信仰が子どもたちの将来にどんな影響を与えるのかを全く考えていませんでした。皆さん
はいかがですか。自分たちの信仰が子どもたちに与える影響がどんなに大きいかを考えたこ
とがあるでしょうか。子どもは親の背中を見て育つと言われますが、まさに親の信仰の在り方
が子どもに大きな影響を及ぼします。家族ぐるみで主を礼拝する、そんな家族を目指したいで
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すね。

それは家族だけのことではありません。20節には、その影響が家族を越え、家畜とか畑の木、
地の産物にまで及ぶとあります。人々が神から離れ、神に反逆するなら、地の産物にまで影響
をもたらすことになります。見てください。今、世界中で食糧不足が深刻な問題となっていま
す。その一つの要因はロシアのウクライナ侵攻です。それによって穀物や天然資源の供給が滞
り、世界中にインフレが起こっているのです。まさに神から離れた人間の悪行によって弊害が
引き起こされています。私たちは神の怒りを引き起こすのではなく、神の恵みとみことばで心
を美しく育てなければなりません。心が罪によってかたくなにならないように注意しなければ
ならないのです。そして、神が私たち自身と私たちの家族、そして、教会と社会において主人と
なるように祈り、その使命をしっかりと果たさなければなりません。

Ⅱ.わたしの声に聞き従え(21-26)

次に21~26節をご覧ください。どうすれば信仰が前進するのでしょうか。第二のことは、
主の声に聞き従いなさいということです。「21 イスラエルの神、万軍の主はこう言われる。「あ
なたがたの全焼のささげ物を、いけにえに加え、その肉を食べよ。22 わたしは、あなたがた
の先祖をエジプトの地から導き出したとき、彼らに全焼のささげ物や、いけにえについては何
も語らず、命じもしなかった。23 ただ、次のことを彼らに命じて言った。『わたしの声に聞き
従え。そうすれば、わたしはあなたがたの神となり、あなたがたはわたしの民となる。あなたが
たが幸せになるために、わたしが命じるすべての道に歩め。』24 しかし、彼らは聞かず、耳を
傾けず、頑なで悪い心のはかりごとによって歩み、前進どころか後退した。25 あなたがたの
先祖がエジプトの地を出た日から今日まで、わたしはあなたがたに、わたしのしもべであるす
べての預言者たちを早くからたびたび遣わしたが、26 彼らはわたしに聞かず、耳を傾けもせ
ず、うなじを固くする者となり、先祖たちよりも悪くなった。」

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21節では、全焼のささげ物を、いけにえに加えて、その肉を食べるようにと言われています。
「全焼のいけにえ」とは、文字通り動物のいけにえを灰にするまで全部焼くことです。ですから、
肉は一つも残らないわけですが、ここではその肉を食べるようにと言われているのです。どう
いうことでしょうか。これは皮肉です。灰にしても無駄だということです。だから、もったいな
いから食べなさいと言われているのです。創造主訳ではこれを簡潔にこう訳しています。「あ
なたがたのいけにえを受け入れない。」わかりやすいですね。そういう意味です。彼らがどんな
に全焼のいけにえをささげても、神様はそれを受け入れません。なぜなら、神様が喜ばれるい
けにえとは全焼のささげものではないからです。確かに「全焼のささげもの」は主が命じられ
たことですが、もっと重要なことは 23 節にあるように、主の御声に聞き従うことなのです。そ
れこそ主が彼らの先祖をエジプトの地から導きだされたとき、主が彼らに命じられたことでし
た。たとえば、出エジプト記19:4~5をご覧ください。ここには「あなたがたは、わたしがエジ
プトにしたこと、また、あなたがたを鷲の翼に乗せて、わたしのもとに連れて来たことを見た。
今、もしあなたがたが確かにわたしの声に聞き従い、わたしの契約を守るなら、あなたがたは
あらゆる民族の中にあって、わたしの宝となる。全世界はわたしのものであるから。」
これはイスラエルがエジプトを出てシナイ山までやって来た時、主がモーセをご自身のみも
とに呼び寄せて言われたことばです。ここには、「もしあなたがたが確かにわたしの声に聞き従
い、わたしの契約を守るなら、あなたがたはあらゆる民族の中にあって、わたしの宝となる。」
とあります。これが、彼らが神の民として幸せに生きる秘訣だったのです。ですから、神の命令
に聞き従うことがすべてであって、その神との交わりの中でいけにえをささげることが求めら
れていたのに、いつしかその本質を見失い、全焼のいけにえをささげることが中心になってし
まいました。。

しかし信仰の中心は全焼のいけにえをささげることではなく、神の御声に聞き従うことです。
これこそ、神が最も望んでおられることなのです。これが信仰です。皆さん、信仰とは何でしょ
うか。信仰とは神のみことばに聞き従うことです。ローマ 10:17 にこうあります。「信仰は聞く
ことから始まります。聞くことは、キリストについてのことばを通して実現するのです。」信仰と
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は聞くことから始まり、それは、キリストのついての福音を聞くことにほかなりません。キリスト
についてのみことば、それがこの聖書のみことばのことです。このみことばを聞くことなしに信
仰生活はあり得ません。聖書が私たちに教えていることは、これが私たちの信仰生活において
最も重要なことだということです。

私たちは毎週のようにエレミヤ書から学んでいますが、中にはもう聞き飽きたという人もお
られるのではないでしょうか。毎回、毎回、悔い改めて神に立ち返れとか、神のことばに聞き従
えとか、聞いていると心が沈みそうになることばばかりだと。できればもっと優しいことばは
ないのか、心にジ~ンとくるみことばならいいのに、そういうことばがあまり出てきません。心
にズキズキ突き刺さるようなことばばかりです。でもこれも神のことばです。主のみ言葉は
私を生かし 私を導き 私を照らします。主のみ言葉は 力があります。私を励まし 私を満た
します。英語では「説教」のことを「Sermon」と言います。魚のサーモンのことではありません。
「突き刺す」という意味があります。ブツブツと突き刺すのです。みことばによって心が突き刺
されること、それが説教の本質と言えるでしょう。人のことばにはそのような力はありません。
しかし主のことばには力があります。それは両刃の剣のごとく、関節と骨髄の分かれ目さえも
刺し通します。ですから聖書にはエレミヤ書のように厳しく感じるみことばもありますが、これ
も神のみことばなのであって、この神の御声を聞いて神を全面的に信頼しそれに従って行くと
いうのが求められるのです。

へブル書の著者はこう言っています。「信仰がなければ、神に喜ばれることはできません。神
に近づく者は、神がおられることと、神がご自分を求める者には報いてくださる方であること
を、信じなければならないのです。」(へブル 11:6)信仰がなければ、神に喜ばれることはでき
ません。その信仰とは何でしょうか。それは神の御声に聞き従うことです。これこそ神が最も喜
んでくださることなのです。

それなのにイスラエルの民はそのみことばを聞かず、耳を傾けず、頑なで悪い心のはかりご
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とによって歩みました。その結果、信仰が前進どころか後退したのです。信仰とは何かを理解
していなかったからです。信仰とは神のみことばを聞くことから始まるのに、その神のことば
を聞こうとしませんでした。それで前進ではなく後退したのです。まあ、私たちは不完全なもの
ですから後退することもあるでしょう。しかし、一歩後退しても二歩前進すればいいのです。二
歩後退しても三歩前進すればいいのです。そうすれば結果的に前進することになります。私の
好きな著書に、アメリカのチャールズ・スウインドルという牧師が書いた「三歩前進二歩後退」と
いう本があります。『三歩前進二歩後退』。二歩後退しても三歩前進すれば、少しずつ前進して
いくことになります。逆に二歩前進しても三歩後退したら「後退」していくことになります。後退
ではなく前進していきたいですね。どうしたら前進して行くことができるのでしょうか。

23 節に「そうすれば」とあります。「わたしの声に聞き従え。」そうすれば、、、です。それなの
に彼らは頑なな心で拒みました。それで前進どころか後退したのです。「頑なな心」とは、心が
硬直している状態のことを指します。エレミヤと同時代の預言者であったエゼキエルは、この頑
なな心を「石の心」と呼びました。石の頭ではありません。石の心です。エゼキエル36:26~2
7にこうあります。「26 あなたがたに新しい心を与え、あなたがたのうちに新しい霊を与える。
わたしはあなたがたのからだから石の心を取り除き、あなたがたに肉の心を与える。27 わた
しの霊をあなたがたのうちに授けて、わたしの掟に従って歩み、わたしの定めを守り行うよう
にする。」
主は彼らがご自身の御声に聞き従うために、新しい心を与えると言われました。それは石の
ような頑なな心ではありません。主ご自身の霊というやわらかい肉の心を与えると約束され
たのです。それは神が与えてくださる新しい霊のことです。私たちは自分の力では神に従うこ
とができません。しかし、聖霊があなたがたに臨むとき力を受けます。そして喜んで神に従いた
いという願いが起こされるのです。それは一方的な神の恵みである主イエスを信じることによ
って与えられるものです。イエス様はこう言われました。「だれでも渇いているなら、わたしのも
とに来て飲みなさい。わたしを信じる者は、聖書が言っているとおり、その人の心の4億底か
ら、生ける水の川が流れ出るようになります。」(ヨハネ 7:37-38)だれでも救い主イエスを信
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じるなら、この新しい霊、新しい心が与えられ、神の命令に喜んで従うことができるようになり
ます。
イエス様は弟子たちに、「もしあなたがたがわたしを愛するなら、あなたがたはわたしの戒め
を守るはずです。」(ヨハネ 14:15)と言われました。愛が自分を突き動かす動機になります。主
を愛するがゆえに、その戒めを守りたいという願いが起こされ、自発的に従うことができるの
です。

ですから、私たちは自分の心に問うてみなければなりません。私は本当にイエス様を愛して
いるのかどうかを。本当にイエス様を愛しているなら、それは重荷とはなりません。しかし、愛
していなければそれは重荷であり、苦痛以外の何ものでもありません。使徒ヨハネはこう言い
ました。「神の命令を守ること、それが、神を愛することです。神の命令は重荷とはなりません。」
(1ヨハネ 5:3)そうです、神を愛しているのなら、神の命令は重荷とはなりません。むしろそれ
は喜びとなります。神を愛するとは、神の御声に聞き従うことであって、決して感情的なことで
はありません。そういう人は本当に幸せな人です。信仰から信仰へと前進していくことができ
るからです。パウロがピリピ書で言っているように、あらゆる境遇に対処する秘訣を心得、「私
は、私を強くしてくださる方によって、どんなことでもできるのです。」(ピリピ 4:13)と、告白
しながら生きることができるのです。

Ⅲ.懲らしめを受け入れなかった民(27-34)

第三のことは、神の懲らしめを受け入れるということです。27~34節をご覧ください。特
に29節までをお読みします。「27 あなたが彼らにこれらのことをすべて語っても、彼らはあ
なたに聞かず、彼らを呼んでも、彼らはあなたに答えない。28 そこであなたは彼らに言え。こ
の民は、自分の神、主の声を聞かず、懲らしめを受け入れなかった民だ。真実は消え失せ、彼ら
の口から断たれた。29 『あなたの長い髪を切り捨て、裸の丘の上で哀歌を歌え。主が、御怒り
を引き起こした世代を退け、捨てられたからだ。』」
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イスラエルの民は、主の懲らしめを受け入れませんでした。主は愛する者に懲らしめを与えら
れます。それは主が彼らを愛しているからであって、訓練するためです。箴言3:11~12には
こうあります。「11 わが子よ、主の懲らしめを拒むな。その叱責を嫌うな。12 父がいとしい子
を叱るように、主は愛する者を叱る。」主は愛する者を叱られます。それは彼らを子として扱っ
ておられるからです。自分の子供でなかったらどうでしょうか。放っておくでしょ。デパートや
スーパーで「あれ買って、これ買って」と床にふんずり返ったり、転げ回ったりしているのを見
ても何とも思いません。しかしそれが我が子であったらどうでしょう。どうしたらいいかわから
なくてパニックになります。いくら泣いてもさわいでも心を鬼にして買ってやりません。そうで
ないと子どもがわがままになってしまうからです。だから、だめなものはだめと言って譲らな
いわけです。そこには大きな葛藤が生じますが断固とした態度を貫きます。それは子どもを愛
しているからです。へブル 12:11 にこうあります。「すべての訓練は、そのときは喜ばしいもの
ではなく、かえって苦しく思われるものですが、後になると、これによって鍛えられた人々に、
義という平安の実を結ばせます。」すべての訓練は、その時は喜ばしいものではなく、かえって
苦しく思われるものですが、後になると、これによって鍛えられた人々に、義と言う平安の実を
結ばせます。なのにイスラエルの民はその懲らしめを受け入れませんでした。

その結果、どうなったでしょうか。29節には「『あなたの長い髪を切り捨て、裸の丘の上で哀
歌を歌え。主が、御怒りを引き起こした世代を退け、捨てられたからだ。』」とあります。これは
悲しみの歌、哀歌です。彼らが主の懲らしめを受け入れなかったので、彼らは神のさばきを受
けることになるというのです。「あなたの長い髪を切り捨て」とは、女性の長い髪の毛は女性の
美しさであり誉です。その長い髪を切るということは単に悲しみの表現にとどまらず、恥のし
るしでした。また「裸の丘の上で哀歌を歌え」とは、バアル礼拝が行われていた裸の丘、恥の場
所で、イスラエルがその恥をあらわにされたことを嘆くことを表しています。神殿に群衆があ
ふれ、犠牲のいけにえが絶えずささげられ、祭司が規定どおりに奉仕しているのを見れば、
人々はこれこそイスラエルの栄光だと思ったことでしょう。しかし預言者はここで、そのような
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きらびやかなものがはぎ取られた後の醜い姿を見ているのです。

それはユダの子らが主の前に悪を行ったからです。彼らは主の宮に偶像を置き、これを汚し
ました。また、ムベン・ヒノムの谷にあるトフェトに高い所を築き、自分の息子や娘を焼くような
ことをしました。それは主が忌み嫌われることでした。主はそんなことを命じたこともなく、考
えたこともなかったのに、彼らは平気でそのようなことをしたのです。それゆえ、そこはベン・ヒ
ノムの谷とは呼ばれません。そこは「虐殺の谷」と呼ばれます。新約聖書では、そこが「ゲヘナ」と
呼ばれるようになりました。それは永遠に苦しむ場所の象徴です。神様に従わない結果、この
ような恐ろしいさばきを受けることになるのです。

34節には、「わたしは、ユダの町々とエルサレムの通りから、楽しみの声と喜びの声、花婿の
声と花嫁の声を絶えさせる。この地が廃墟となるからである。」とあります。私たちが日常生活
において楽しんでいるその場面は一切なくなるというのです。永遠のいのちを持っていなけれ
ば、持っているものまで取り上げられることになるからです。
しかし、神に従い、神が命じるすべての道に歩む人は幸いです。そのような人には神のさば
きではなく、神の救い、永遠のいのちがもたらされます。イエス様はこう言われました。「まこと
に、まことに、あなたがたに告げます。わたしのことばを聞いて、わたしを遣わした方を信じる
者は、永遠のいのちを持ち、さばきに会うことがなく、死からいのちに移っているのです。」(ヨ
ハネ 5:24) イエスのことばを聞いて、そのことばに聞き従う者、すなわち、イエスを遣わされ
た方を信じる者は、さばきに会うことがなく、永遠のいのちを持ち、死からいのちに移ってい
るのです。信じたその瞬間に、あなたのすべての罪は赦され、永遠のいのちが与えられるので
す。

「幸せの黄色いリボン」という映画があります。刑期を終えた男が、刑務所を出て、バスで家
に向かっていました。しかし彼には、かつて自分を愛してくれた妻が、果たして喜んで自分を迎
えてくれるかどうか、確信がありませんでした。悪いのは、自分のほうだとわかっていたからで
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す。そこで彼は、手紙を出しておきました。
「もし、自分を許してくれるなら、あの樫の木に黄色いリボンを結んでおいてくれ。」と。もし
黄色いリボンがなかったら、彼はそのまま遠くに行くつもりでした。
家が近づいてきました。彼の頭には、あの樫の木しかありませんでした。家に着いたとき、樫
の木に黄色いリボンがついているだろうか。彼は自分で見る勇気がなくて、車中で知り合った
男に見てもらいます。するとどうでしょう。樫の木には一つだけでなく、100 個の黄色いリボ
ンがついていたのです。彼の妻は、彼を赦しただけでなく、歓喜をもって彼を迎えたのです。

バスに乗ったあの男のように、私たちも死とその先にあるものを恐れます。自分の醜さを知
っている私たちは、神は赦してくださるだろうかと不安になります。ましてや、神が私たちの到
着を歓迎されるとは考えられないかもしれません。

しかし聖書は、神が私たちを歓迎してくださると教えています。いくつもの黄色いリボンが、
あなたを待っています。だから主はこう言われるのです。「わたしの声に聞き従え。そうすれば、
わたしはあなたがたの神となり、あなたがたはわたしの民となる。あなたがたが幸せになるた
めに、わたしが命じるすべての道に歩め。」
私たちもさばきではなくいのちを、不幸ではなく幸福を、後退ではなく前進する者となりま
しょう。それは主が命じるすべての道に歩むことによってもたらされることを覚えて、いつもへ
りくだって、神の御声に聞き従う者でありたいと思います。