堅固な青銅の城壁とする エレミヤ書15章15~21節堅固な青銅の城壁とする 

聖書箇所:エレミヤ書15章15~21節(エレミヤ書講解説教33回目)
タイトル:「堅固な青銅の城壁とする」
きょうは、エレミヤ書15章後半から、「堅固な青銅の城壁とする」というタイトルでお話します。20節に「この民に対して、わたしはあなたを堅固な城壁とする。彼らは、あなたと戦っても勝てない。わたしがあなたとともにいて、あなたを救い、あなたを助け出すからだ。」とあります。
前回のところでエレミヤは自分の運命を嘆き、生まれて来たことを後悔したほどでした。それはエルサレムの滅亡という極めて残酷で悲惨な預言を、ユダの民に語らなければならなかったからです。そして、それを語ったとき国中が彼を憎み、彼に敵対したからです。なぜそんな仕打ちを受けなければならないのか。何とも理不尽な話です。
それに対して主は、こう言われました。11節です。「必ずわたしはあなたを解き放って、幸せにする。必ずわたしは、わざわいの時、苦難の時に、敵があなたにとりなしを頼むようにする。」
アーメン!すばらしい約束ですね。主はわざわいの時、苦難の時の助け、生きる道です。四方八方から苦しめられることがあっても窮することはありません。主は必ず彼を解き放って、幸せにすると約束してくださいました。もうこれで十分でしょう。
しかし、エレミヤはそれで解決しませんでした。ここで彼は再び神に不平をもらしています。それが15~18節の内容ですが、それに対する神の答えが、この「わたしはあなたを堅固な青銅の城壁とする」ということでした。
 私たちはクリスチャンになって予期せぬ出来事、試練に直面すると、「主よ、どうしてですか」と問いかけたくなることがあります。きょうの個所で、エレミヤはまさにそのような気分になっていました。そして神を疑い、神に不平をもたらしたのです。しかし神はそんなエレミヤを受け入れ、ご自身のもとに帰らせ、この約束のことばを与えてくださったのです。きょうは、この主の約束のことばから、共に主の励ましと慰めを受けたいと思います。
Ⅰ.エレミヤのつぶやき(15-18)

 まず、15~18節をご覧ください。「15 「主よ、あなたはよくご存じです。私を思い起こし、私を顧み、迫害する者たちに、私のために復讐してください。あなたの御怒りを遅くして、私を取り去らないでください。私があなたのためにそしりを受けていることを知ってください。16 私はあなたのみことばが見つかったとき、それを食べました。そうして、あなたのみことばは、私にとって楽しみとなり、心の喜びとなりました。万軍の神、主よ、私はあなたの名で呼ばれているからです。17 私は、戯れる者がたむろする場に座ったり、喜び躍ったりしたことはありません。私はあなたの御手によって、ひとり座っていました。あなたが私を憤りで満たされたからです。18 なぜ、私の痛みはいつまでも続き、私の打ち傷は治らず、癒えようもないのでしょう。あなたは、私にとって、欺く小川の流れ、当てにならない水のようになられるのですか。」」
これは、エレミヤの祈りです。この祈りも実に正直で、ストレートな祈りです。自分の感情を露わにして、言葉で飾るようなことはしていません。自分の思いの丈をぶつけるような祈りです。
15節には、あなたのために私はそしりを受けていますと言っています。あなたのみことばをストレートに語ったばかりに、私はみんなから非難されているのです、憎まれているのです、と訴えています。
16節をご覧ください。彼はみことばが見つかったとき、それを食べました。「食べる」というのはおもしろい表現ですね。まさに自分の舌で味わったということです。ただ聞くだけでなく、それが自分の一部になるほど吸収したのです。そしたら、それは彼にとって楽しみとなり、心の喜びとなりました。皆さんも体験しているでしょう。神のみことばが、楽しみとなり、喜びとなります。リビングバイブルでは「有頂天となった」と意訳していますが、そういう意味です。原語では、「心の喜びとなり」は、飛んで、跳ねて、踊って喜ぶというエキサイティングな喜びの様を表していますから。みことばを食べたそのあまりの美味しさに、そしてそれが自分の身になって、それによって生きることがあまりにも楽しくて、もう小躍りするくらいエキサイティングな人生だというのです。それが聖書のことばです。すばらしいですね。あなたはどうですか?神のことばが、あなたにとって楽しみとなり、心の喜びとなっているでしょうか。
でもそれは患難や苦難や試練が無くなるということではありません。神のみことばを食べて、それを楽しみ、小躍りして喜んでも、患難や苦難、試練があなたを襲うことがあります。人々から疎(うと)まれたり、バカにされたり、憎まれたり、蔑まれたりすることが。でも違うのは、そのような中に置かれても、みことばがあなたを支えてくれるということです。エレミヤは神のみことばによって支えられていました。彼が神のみことばを食べて、喜んで、心の楽しみを味わっていなければ、簡単に潰れていたでしょう。
それは私たちにも言えることです。みことばを食べて、みことばを味わい、みことばを楽しみ、みことばを心の喜びとしていなければ、ちょっとしたことで潰れてしまうことになります。もういいです!もう止めます!教会に行くのを止めます!クリスチャン止めます!人生止めます!となってしまいます。まさに砂の上に建てられた家のようです。雨が降って洪水が押し寄せ、風が吹いてその家に打ち付けると、倒れてしまいます。しかもその倒れ方はひどいものでした。しかし、岩の上に建てられた家は違います。雨が降って洪水が押し寄せ、風が吹いてその家を襲っても、ビクともしませんでした。岩の上に建てられていたからです。その岩とは何でしょうか。それは、イエス様のみことば、神のみことばです。イエス様のことばを聞いて、それを食べ、それを楽しみ、それを喜ぶ人は、岩の上に建てられた家のように、どんな嵐が襲っても倒れることはありません。
それでも、エレミヤは傷ついていました。主のみことばを食べ、それを楽しみ喜んでも、心が晴れなかったのです。それで彼は言ってはならないことを言います。18節です。「なぜ、私の痛みはいつまでも続き、私の打ち傷は治らず、癒えようもないのでしょう。あなたは、私にとって、欺く小川の流れ、当てにならない水のようになられるのですか。」
これはどういうことかというと、「あなたは噓つきだ!」ということです。エレミヤは神様に対して、あなたは嘘つきじゃないですか。なぜ私はこんな目に遭わなければならないのですか。あなたは約束されたじゃないですか。あなたはいのちの水の泉だと。でもあなたに頼っても、欺く小川の流れじゃないですか。この「小川」とは、ワディと言われる水なし川のことです。この川は、雨季は氾濫することがありますが、乾季は干上がっていることが多いのです。当てにならない水とはそういうことです。あるようでない。あるように見せかけて実際にはありません。エレミヤは、神をこの当てにならない小川にたとえたのです。当てになるいのちの水の泉だと思ったのに、何の役にも立たないじゃないですか。祈っても答えてくれない。何にも変わらない。全くの期待はずれです。いや、嘘つきです、そう言ったのです。皆さん、どう思いますか。なかなか言えないことです。神様に対して「あなたは嘘つきだ」なんて。確かにエレミヤはかなり混乱していました。感情的にも取り乱していました。疑心暗鬼にもなっていました。でもエレミヤは神に対して正直でした。自分の思いの丈を正直に訴えたのです。本当にあなたをこのまま信頼し続けていていいんですかと。私たちもこのようなことがあります。祈っても、祈っても答えられないとき、落ち込んだり、苛立ったり、腹を立てたり、ムカついたりすることが。でもエレミヤのようにそれを正直に、ストレートに神に訴えることがなかなかできません。隠してしまいます。もう相手を赦せない、憤りや怒りでいっぱいなのに、それを押し殺して、敬虔に祈らなければならないと思っているのです。
「主よ、あの人からこんなことを言われて心を痛めています。このような目に遭って非常に苦しんでいます。でも、私は何としてもあなたのみことばに従ってあの人を赦し、あの人を愛し、あの人のために祈りたいと願っています。主よ、どうか、あなたの力を与えてください。あなたの聖霊を注いでください。アーメン」
すばらしい祈りだと思います。でも本音はどうかというと、憎らしいのです。赦せないのです。ムカついてムカついてしょうがないのです。それなのに、時に私たちは心にないことを言ってしまうことがあります。それを何というかというと「偽善」と言います。偽善的にはなりたくないと思っていますが、でも自分を騙して、自分を欺いて美辞麗句を並べ、いかにも敬虔なふりをしていることがあるのです。でも内心はもう腹が立って、赦す気などみじんもありません。でも一応クリスチャンだから、そう祈っておかないといけないから、表面的に祈るわけです。でもそれは口先だけの祈りにすぎません。ただきれいな言葉を並べているだけです。でも神様はあなたの心の中を全て知っておられます。だからわざわざ自分を偽る必要はないのです。あなたの正直な気持ちを神様にぶつけていいんです。なかなか祈れないという人は、正直になっていないからです。何かいいことを言わなければならないと思っているのです。なんか高尚なこと、霊的なこと、敬虔なことを祈らなければならないと思っています。聖書的な言葉使いをしなければならないと思っている。そういう祈りじゃないと聞かれないと思っています。他の人の前でも、そんな感情を露わになんてできないので自分の本音で祈れないのです。だから、祈りが自分のものにならないというか、身近に感じられないのです。どうしても構えてしまいます。なかなか正直になれなくて、偽りのもう一人の自分が祈っているかのような、そんな二重人格の感覚さえ抱いてしまうのです。でも、主はすべてをご存知であられます。敬虔なふりなんてする必要がありません。カッコつける必要もない。エレミヤのように正直に神様にぶつけていいのです。
1993年と2000年に、私は韓国に行く機会がありました。韓国の教会では、こういう祈りが多かったと思います。当時ホーリネス系の教会では世界で一番大きいと言われていたソウルにある光林教会では大きな祈祷院を持っていて、そこに宿泊していたのですが、人々が徹夜祈祷のために毎晩のようにやって来るのです。何を祈っているのかわかりませんが、犬の遠吠えのように「チュよ、チュよ」と泣きながら祈っているのです。私も隣の部屋で祈っていましたが、うるさくて祈れないのです。担当の牧師にそのことをお話したら、その場合はこうするといいですよと教えてくれました。それは、その声に負けないようにもっと大きな声で祈ることですと。韓国人はそういう国民性なんですかね。韓国の方はとてもよくおもてなしをしてくれますが、祈る時は他の人は関係ありません。祈りの内容が正しいかどうかも気にしません。あまり・・・。自分の率直な思いを神様にぶつけているという感じでした。当時、世界で最も大きな教会と言われていたヨイドの純福音教会で行われていた徹夜祈祷会に行った時は驚きました。礼拝形式で集会が持たれると、その後で自由な祈りの時が持たれるのですが、多くの兄姉が「チュよ、チュよ」と講壇にひざまずいて祈るのです。飢えた魚がえさを求めるように。あれは祈りを越えていました。叫びです。周りの人がどう思うかなんて関係ないのです。自分の率直な思いをありのままにぶつけていました。
それでいいんです。というのは、このエレミヤの不平不満、疑い、つぶやきに対して、主は愛をもって応えておられるからです。そんな私を疑うなんてとんでもないヤツダ!とか、もうお前のような者はわたしのことばを語る資格などない!とか、一切おっしゃっていません。むしろ主はそのように正直に訴えたエレミヤの祈りを喜んで受け入れてくれました。正直によく言ってくれた。だから、わたしも正直にあなたに答えようと。皆さん、これが祈りです。そこに生きた交わりがあります。本物のコミュニケーションがある。嘘、偽りがありません。正直に自分の思いを訴え、神の声を聞く。それが本物のコミュニケーションです。それがエレミヤと神とのコミュニケーションでした。祈りとは、まさにコミュニケーション(対話)ですね。それがこの中に見られるということです。
私たちはこのようなコミュニケーションを神様と取って来たでしょうか。それとも決まりきった美辞麗句を並べて、最後にイエス・キリストの名前で祈りますという通り一辺倒の祈りではなかったか。ただ台詞を読み上げているような祈り、作文をただ読み上げているような祈りで終わっていなかったでしょうか。それは祈りではありません。祈りはコミュニケーションですから。親の前で作文を読み上げる子どもはいません。直に会ったら自分の気持ちを正直に生身の人間に伝えます。勿論、なかなか言葉がうまく伝わらないということもあるでしょう。感情のもつれもあります。でも神様はすべてをご存知ですから、心配しなくていいです。たとえ言葉に出せなくても、どのように祈ったらよいかわからなくても、神の御霊がことばにならないうめきをもって、とりなしてくださいますから。
ローマ8章26節にそのように記されてあります。「同じように御霊も、弱い私たちを助けてくださいます。私たちは、何をどう祈ったらよいか分からないのですが、御霊ご自身が、ことばにならないうめきをもって、とりなしてくださるのです。」
 感謝ですね。ことばにならない祈りも、御霊ご自身が深いうめきをもって、とりなしてくださいます。そして、たとえあなたの祈りが的外れであったとしても、神の右の座におられるイエス様が、あなたの祈りをとりなしていてくださいます。ですから、安心して祈ることができます。あなたの正直な気持ちを祈ることができるのです。たとえそれが間違っていても、言葉が足りなかったとしても、言葉使いがおかしくても、感情が乱れて思わず勢いよく言ってしまったとしても、イエス様がちゃんととりなしてくださるのです。
ですから、決して神に対して不正直にならないでください。仮面を被ってごまかさなくてもいいのです。神様はすべてをご存知ですから。「主よ、もう我慢できません。あの人を赦すことができません。この人が憎らしいです。もう生理的に受け付けられません。もう一緒にいるのも嫌です。顔を見るのも嫌です。同じ空気を吸いたくないんです。」
でも、これで終わってはいけません。これを神に訴えるとはどういうことかというと、だから助けてください!ということです。自分で何とかうまく取り繕うとするのではなく、表面的に愛せるように、赦せるようにするということではなく、神に助けを求めるのです。神はあなたの本音を知っておられます。正直な気持ちを知っておられます。それをまず神にぶつけない限り何も始まりません。それを隠したままでことば巧みに自分自身を何か霊的な者であるかのように見せかけるというのは、神が忌み嫌うべきことなのです。
Ⅱ.わたしの前に立たせる(19)
次に、エレミヤの祈りに対する神の答えを見たいと思います。エレミヤは、「どうしてですか、主よ、私の痛みはいつまでも続き、私の傷は治らず、癒えようもないのでしょう。あなたは嘘つきです。あの欺く小川の流れ、当てにならない流れのようになられるのですか。」と赤裸々に訴えると、主はエレミヤにこう言いました。19節です。「それで、主はこう言われた。「もし、あなたが帰って来るなら、わたしはあなたを帰らせ、わたしの前に立たせる。もし、あなたが、卑しいことではなく、高貴なことを語るなら、あなたはわたしの口のようになる。彼らがあなたのところに帰ることがあっても、あなたは彼らのところに帰ってはならない。」
エレミヤのつぶやき、不平に対して主は、「もし、あなたが帰って来るなら、わたしはあなたを帰らせ、わたしの前に立たせる。」と言われました。これはエレミヤに対する悔い改めの促しです。それは彼が神を疑ったからではありません。神に本音で訴えたからではありません。そうではなく、主が「いのちの水の泉」(2:13)であるはずなのに「当てにならない小川の流れ」のようであることに対して失望していたからです。失望して信仰から滑り落ちそうになっていたからです。いっそのこと、民といっしょになったほうがよっぽど楽ではないかと思っていました。
そこで主は、「あなたが帰ってくるなら」と言われました。そこから帰って来るようにと促しているのです。10節では、自分なんて生まれて来ない方が良かったという自己憐憫に駆られていました。またここでは、それが疑いとなって現れていました。神は欺く小川のようなのか、だったらもう何も信じられない。そういう思いです。それは預言者として失格です。彼は預言者としての召命を失うところまで来ていました。これは、エレミヤの生涯で最大の危機でした。ですから、主は彼に「もし、あなたが戻って来るなら」と言われたのです。もし悔い改めるなら、神は彼を受け入れ、再びその職務に就かせてくださると。「わたしの前に立たせよう」とはそういう意味です。もしエレミヤが、神のことばを伝えるなら、彼は神の口のようになります。どうやって帰ったらいいかわからないという人もいるでしょう。でもここにはこうあります。「もし、あなたが帰って来るなら、私はあなたを帰らせ」。主が帰らせてくださいます。あなたが正直にありのままで主のもとに帰って来るなら、あなたがそのように決めれば、主が帰らせてくださいます。だから心配しないで、まず主の前に正直になることです。そして、主に立ち返ると決めることです。そうすれば、主はあなたを帰らせ、主の前に立たせてくださいます。主の前にはあなたは裸同然ですから、何も隠すものはありません。ですから、私たちに必要なことは隠すことではなく立ち返ることです。そうすれば、主があなたを帰らせ、主の前に立たせてくださいます。これが私たちに求められていることなのです。
毎週日曜日の礼拝で私たちは主の祈りをします。大切な信仰告白です。でも問題は、この告白の内容を信じることができずに、立ち止まってしまうとき、人生の重さに押さえつけられてこれ以上信じられないとき、エレミヤが経験したように信仰が崩れ落ちるのを経験するとき、一体これが何を意味するのかということです。深い疑いに陥ることがあります。そのようなとき、イエス様は「わたしはあなたがたのために祈ります」と語り掛けてくださいます。信仰が保たれるように、私たちの信仰が無くならないように、イエス様が私たちのために祈ってくださるのです。最後まで私たちは信じることができます。なぜなら、私たちのためにイエス様が祈ってくださるからです。私たちのためにイエス様が信じておられるからです。これは「驚くべき恵み」です。自分の信仰が実につまらなく、取るに足らないと感じるときがあります。まさにそのとき、あなたの信仰が無くならないように、あなたのために祈ってくださるキリストのリアリティーを体全体で知ることになります。このような経験こそ、あなたのたましいと体に、鳥肌の立つほどの最も大きな慰めとなるのです。
それから、ここにはもう一つ大切なことが教えられています。それは、「彼らがあなたのところに帰ることがあっても、あなたは彼らのところに帰ってはならない。」という言葉です。どういうことでしょうか。彼は神の代弁者として、民に影響を与えるはずであり、民に影響されるべきではないということです。
Ⅲ.堅固な青銅の城壁とする(20-21)
最後に主は、ご自身の下に帰ってくる者に対してもう一つの約束を与えておられます。20~21節をご覧ください。それは、主はあなたを堅固な青銅の城壁とするということです。「20 この民に対して、わたしはあなたを堅固な青銅の城壁とする。彼らは、あなたと戦っても勝てない。わたしがあなたとともにいて、あなたを救い、あなたを助け出すからだ。─主のことば─21 わたしは、あなたを悪しき者たちの手から救い出し、横暴な者たちの手から贖い出す。」
エレミヤは、民に対して堅固な青銅の城壁のようになります。「青銅の城壁とする」とは、1章18~19節でも語られた約束ですが、揺るぐことがない堅固な町とするという意味です。主はそれをエレミヤに重ねて言っているのです。主は彼を揺るぐことがない堅固な者とするということです。だれも彼と戦って勝つことはできません。なぜなら、主が彼ととともにいて、彼を救い、彼を助け出されるからです。主が救ってくださいます。自分で自分を救うのではありません。主が救ってくださいます。これほど確かな保証があるでしょうか。主が堅固な青銅の城壁としてくださるので、あなたは絶対に潰されることはない。倒れることはありません。ハレルヤ!あなたが今置かれた状況がどんなに耐え難いものであっても、主があなたを堅固な城壁としてくださるので、あなたは絶対に倒れることはありません。主がともにいて、あなたを救い出されるからです。
使徒パウロは、Ⅱコリント4章7~9節でこのように言っています。「私たちは、この宝を土の器の中に入れています。それは、この測り知れない力が神のものであって、私たちから出たものではないことが明らかになるためです。私たちは四方八方から苦しめられますが、窮することはありません。途方に暮れますが、行き詰まることはありません。迫害されますが、見捨てられることはありません。倒されますが、滅びません。」
この「宝」とはイエス・キリストご自身のこと、「土の器」とはパウロ自身のことです。「土の器」というと響きがいいですが、「の」を取ってしまうと、ただの「土器」です。私たちは皆「土器」にすぎません。本当に脆いものです。しかし、パウロはそんな土の器の中に宝を持っていると言いました。それは「測り知れない力」を与えてくれます。「測り知れない」とは、「常識では考えられない」という意味です。その宝こそイエス・キリストです。彼はこの宝を土の器に入れていたので、四方八方から苦しめられても窮することがなく、途方に暮れても、息詰まることがなく、迫害されても、見捨てられることなく、倒されても、滅びませんでした。
私たちの人生にはポッカリ穴が開くときがあります。そんな時、その開いた穴をじっと見て、嘆き悲しんで人生を送ることもできますし、その穴を見ないように生きることもできます。でも一番いいのは、その穴が開かなかったら決して見ることのできなかった新しい世界を、その穴を通してみることです。パウロの人生には、何度も大きな穴が開きました。しかし、パウロはその度ごとに、その新しい穴から、新しい希望を見つけることができました。「希望は必ずある。この開いた穴の向こうには、新しいチャンスが広がっているのだ」と信じて疑わなかったのです。
それは、私たちも同じです。私たちの人生にも突然穴が開くことがあります。思いがけないような出来事に遭遇します。「突然病気になった」あるいは、「事故に遭ってしまった」「会社が倒産した」「会社は大丈夫だけれども、自分が失業した」「愛する人を突然亡くした」というようなことがあります。
そのような時エレミヤのように、神様を当てにならない小川のようだと恨むのではなく、その苦しみを、その叫びを、あなたの心の奥底にある叫びを正直に神に打ち明け、だから助けてくださいと祈り求めなければなりません。そうすれば、主があなたを帰らせ、あなたを堅固な城壁としてくださいます。主があなたとともにいて、あなたを救い、あなたを助け出してくださいます。それはあなたという土の器の中に、測り知れない宝を持っているからです。主はあなたがどんな状況においても神を信頼することを期待しておられるのです。