聖書箇所:エレミヤ書38章1~28節(旧約P1364、エレミヤ書講解説教68回目)
タイトル:「思いがけない神の助け」
今日は少し長いですが、エレミヤ書38章全体からお話します。タイトルは「思いがけない神の助け」です。この38章も、南ユダ最後の王ゼデキヤの時の出来事です。時は前586年に南ユダ王国が滅ぼされる直前です。前の章では、エレミヤがエルサレムから出てベニヤミンの地に行ったとき、ベニヤミンの門のところでイルイヤという名の当直の者に捕らえられ、書記ヨナタンの家の牢屋に投獄されたことを見ました。そこは丸天井の地下牢で、エレミヤは長い間そこにいました。
今日の箇所にも、エレミヤが再び捕らえら投獄されることが記されてあります。エレミヤが投獄されるのは、これが3回目です。しかし、今回の投獄はこれまで以上に過酷なものでした。というのは、命の危険が脅かされるほどのものだったからです。しかし、そのような中にあっても神は思いがけない方法で彼を救い出されます。神はどんなことがあっても、神を恐れ、神に信頼して歩む者を、救い出してくださいます。それゆえ私たちは、私たちの人生においてどんなことが起こっても、ただ神を愛し、神のことばに信頼して歩まなければなりません。
Ⅰ.投獄されたエレミヤ(1-6)
まず1~6節をご覧ください。「1 さて、マタンの子シェファテヤと、パシュフルの子ゲダルヤと、シェレムヤの子ユカルと、マルキヤの子パシュフルは、エレミヤが民全体に次のように語ることばを聞いた。2 「【主】はこう言われる。『この都にとどまる者は、剣と飢饉と疫病で死ぬが、カルデア人のところに出て行く者は生きる。そのいのちは戦勝品として彼のものになり、彼は生きる。』3 【主】はこう言われる。『この都は、必ず、バビロンの王の軍勢の手に渡される。彼はこれを攻め取る。』」4 そこで、首長たちは王に言った。「どうか、あの男を死刑にしてください。彼はこのように、こんなことばを皆に語り、この都に残っている戦士や民全体の士気をくじいているからです。実にあの男は、この民のために、平安ではなくわざわいを求めているのです。」5 するとゼデキヤ王は言った。「見よ、彼はあなたがたの手の中にある。王は、あなたがたに逆らっては何もできない。」6 そこで彼らはエレミヤを捕らえ、監視の庭にある王子マルキヤの穴に投げ込んだ。彼らはエレミヤを綱で降ろしたが、穴の中には水がなく、あるのは泥だったので、エレミヤは泥の中に沈んだ。」
1節には、南ユダ最後の王ゼデキヤの4人の側近者の名前が記されてあります。このうちパシュフルは21章1節に、ユカルも37章3節に出てきました。彼らはエレミヤが民全体に語ることを聞いて腹を立て、ゼデキヤ王のところへ行って不満を申し立てました。なぜなら、エレミヤがエルサレムにとどまる者は剣と飢饉と疫病で死ぬが、カルデア人のところ、すなわち、バビロンに出て行く者は生きると語っていたからです。そんなことを聞いたらエルサレムに残っている戦士や民全体の士気がくじかれると思ったのです。彼らの目では、エレミヤは民のために平安を語っているのではなくわざわいを語っているように見えました。
それで、ゼデキヤ王はどうしたかというと、首長たちの言うことを受け入れ、彼らの思いのままにして良いと告げました。それで彼らはエレミヤを捕らえると、監視の庭にある王子マルキヤの穴の中に投げ込みました。先ほども申し上げたように、エレミヤが投獄されるのはこれが3回目です。前回は37章16節で見ましたが、今回のそれはもっと過酷なものでした。というのは、命の危険が脅かされるどのものだったからです。そこには大量の泥があって、その中に沈んでいくような状態だったのです。
皆さん、私たちにもそのような時があるのではないでしょうか。私は先週目決めの手術で入院していましたが、それはある意味で泥の中に沈んでいくようなものでした。11月15日に最初の手術をしましたが多量の出血があり、それが目の奥の硝子体というところまで入り込んでしまったため、凍った車のフロントガラスのように全く見えなくなってしまいました。かなり焦りました。このまま失明してしまうのではないかと思うと、いてもたってもいられなくなり、私はしぼんだ風船のようになってしまいました。す。結局、5日目に2度目に硝子体の中の出血を取り除く手術をしました。幸い視力はある程度回復することができましたが、今度は逆に眼圧が低くなりすぎて見づらくなってしまいました。あまり色々なものを見るなという神様からのメッセージなのかもしれませんが、まだ本調子ではありませんが、神様がエレミヤを泥から引き上げたように、私の目も眼圧から引き上げてくださると信じています。
でもそれは私だけのことではないでしょう。だれでも泥の中に沈むような時があります。それはエレミヤのように敵から攻撃された時や、私のような病気になる時もそうですが、夫婦の問題や家族の問題で悩むとき、仕事上のトラブルや人間関係の問題が起こる時もそうでしょう。経済的に苦しくて借金を抱えてしまったという時もそうです。最愛の人を失った時もそうです。その悲しみから立ち上がるには相当の時間がかかります。私たちの人生には、泥の中に沈んでしまうような時があるのです。でもどんなに沈んでも、神様は必ずあなたをそこから引き上げてくださるということを忘れないでください。しかも、あなたが想像することができないような不思議な方法で助けてくださる。そこには思いがけない神の助けがあるのです。
Ⅱ.思いがけない神の助け(7-13)
では、エレミヤはどのようにしてその中から救い出されたのでしょうか。7~13節をご覧ください。「7 王宮にいたクシュ人の宦官エベデ・メレクは、エレミヤが穴に入れられたことを聞いた。また、そのとき王はベニヤミンの門のところに座っていたので、8 エベデ・メレクは王宮から出て行き、王に告げた。9 「わが主君、王よ。あの人たちが預言者エレミヤにしたことは、みな悪いことばかりです。彼らはあの人を穴に投げ込みました。もう都にパンはありませんので、あの人はそこで飢え死にするでしょう。」10 すると王は、クシュ人エベデ・メレクに命じた。「あなたはここから三十人を連れて行き、預言者エレミヤを、まだ死なないうちに、その穴から引き上げなさい。」11 エベデ・メレクは人々を率いて、王宮の宝物倉の下に行き、そこから着古した衣服やぼろ切れを取り、それらを綱で穴の中のエレミヤのところに降ろした。12 クシュ人エベデ・メレクはエレミヤに、「さあ、古着やぼろ切れをあなたの脇の下の綱に当てなさい」と言ったので、エレミヤがそのとおりにすると、13 彼らはエレミヤを綱で穴から引き上げた。こうして、エレミヤは監視の庭にとどまった。」
エレミヤが泥の中に沈んだとき、主は王宮にいたクシュ人の宦官エベデ・メレクという人物を用いて救い出されました。クシュ人とはエチオピア人のことです。すなわち異邦人ですね。また、宦官とは、去勢を施された人、陰茎を切り取られた人のことです。モーセの律法によれば、このような人は主の集会に加わってはならないと定められていました。申命記23章1節にこうあります。「睾丸のつぶれた者、陰茎を切り取られた者は主の集会に加わってはならない。」神様はこの異邦人エベデ・メレクを用いてくださいました。彼はそういう立場でありながら、エレミヤが穴に入れられたと聞くと王宮から出て行き、王のところに行って、首長たちの悪行とエレミヤの窮状を訴えたのです。
するとゼデキヤ王は、クシュ人エベデ・メレクの訴えに同意し、彼に、30人を連れてエレミヤのところに行き、彼がまだ死なないうちに、その穴から引き上げるようにと命じました。エベデ・メレクは、ゼデキヤ王の命令に従い、人々を率いて、王宮の宝物倉の下に行き、そこから着古した衣服やぼろ切れを取り、それらを綱にして穴の中にいたエレミヤのところに降ろし、彼を穴から引き上げたのです。こうしてエレミヤは監視の庭にとどまることができました。
だれがそのようなことを考えることができたでしょうか。彼はエレミヤを迫害していたユダの首長たちとは対照的でした。彼は自分に降りかかる危険をかえりみず王の所へ行くと、王の面前で首長たちの誤りを指摘し、エレミヤに助けの手を差し伸べたのです。神様はこのように、時に私たちの想像を超えた方法や思いがけない人を用いて私たちを助けてくださるのです。詩篇121篇にこうあります。
「1 私は山に向かって目を上げる。私の助けはどこから来るのか。
2 私の助けは【主】から来る。天地を造られたお方から。
3 主はあなたの足をよろけさせず、あなたを守る方はまどろむこともない。
4 見よ イスラエルを守る方はまどろむこともなく眠ることもない。
5 【主】はあなたを守る方。【主】はあなたの右手をおおう陰。
6 昼も日があなたを打つことはなく夜も月があなたを打つことはない。
7 【主】はすべてのわざわいからあなたを守り、あなたのたましいを守られる。
8 【主】はあなたを行くにも帰るにも、今よりとこしえまでも守られる。」
皆さん、私たちの助けはどこから来るのでしょうか。私たちの助けは天地を造られた主から来ます。主はあなたの足をよろけさせず、あなたを守る方はまどろむこともありません。主はすべてのわざわいからあなたを守り、あなたのたましいを守られます。今よりとこしえまでも守られる。あなたが困難に陥った時、自分でもどうしたら良いかわからないような時でも、主は必ずあなたをそこから助け出してくださるのです。それはあなたが思い描く方法によってではなく、それをはるかに超えた方法によって成し遂げてくださいます。そのような恵みを、私たちはしばしば体験することがあります。
私がかつて福島で教会開拓をしていた時、開拓して10年目に会堂建設に取り組みました。多くの人々が救いに導かれ自宅の集会スペースに入れなくなった時、もっと広い土地を求めて祈りました。そして与えられたのがそこから歩いて10分のところにある広々とした土地でした。そこは600坪もありました。しかも交通のアクセスもよく、教会の会堂を建設するのにはとても良い土地でした。ところがそこは調整区域に定められていて、建物が建てられてない場所になっていました。そういう土地に教会を建てたという前例は、福島県ではそれまで一度もありませんでした。でも神様のみこころなら必ず与えられると信じて、開発許可の取得に取りかかりました。
そのためにはまずしなければならなかったのは、宗教法人を取得することです。しかし教会名義の土地、建物がなかったので、そのために自分の名義の土地と建物を教会の名義にしようとしましたが、そのためには銀行から借り入れた際の抵当権を抹消しなければなりませんでした。抵当権を抹消するということは、その代わりに保証人として立てなければならないということですが、そのような人は教会にはいませんでした。いたとしてもそれはかなり荷が重すぎる話です。ですから、その作業は暗唱に乗り上げてしまいました。
ところが、ちょうどその頃、多くの青年たちが救いに導かれていましたが、その中に市内で老舗の洋服店を営んでいるクリスチャンの御夫妻の娘さんが救われたのです。また、その2人の兄弟も教会に導かれ、熱心に神様を求めるようになりました。驚いたのはその御両親です。どうやって彼らがそのように変えられたのか知りたいと、お母さんが「私にも聖書を教えてください」と言ってこられたのです。7回の学びが終わったとき、そのお母さんがこう言われました。
「本当にありがとうございました。よくわかったような気がします。子どもたちがあんなに喜んで教会に行っていくようになったのかも。私には何もできませんが、もし何かお役に立てることがありましたら何でも教えてください。」
と言われかえって行かれました。
すると、隣にいた家内が私の顔を見てこう言いました。「あなた、もしかするとあのことをお願いしてみたらどうですか。」家内はこういう時に勘が鋭いんですね。でも私はまさかそんなことお願いできないと思いましたが、でも一応お願いしてみることにしました。
すると、後日ご主人から電話がかかってきて、その件についてお話したいのでお店まで来ていただけませんかと言われました。お店に行ってみると、ご主人からこう言われました。
「先生、家は先祖代々人様の保証人にはならないと決めているんです。でも、今回は違います。今回は人様ではなく神様の保証人です。だから喜んで引き受けさせていただきます。」
私はびっくりしました。いくら教会のこととはいえ、誰が保証人になりたいと思うでしょうか。私はそのように導いてくださった神様に心から感謝しました。そして、今からちょうど30年前の1994年11月に宗教法人が認可され、その3年後に、これも本当に不思議な導きでしたが調整区域の開発許可が認可され、その翌年に新会堂を主に献げることができたのです。これがその会堂です。
まさかそのような形で会堂建設が進んでいくなんて誰も考えることができなかったと思います。でも、神様にとって不可能なことは一つもありません。神にはどんなことでもできるのです。まさにあのヨブが最後に告白したように、「あなたには、すべてのことができること、どのような計画も不可能ではないことを私は知りました。」(ヨブ42:2)ということを、私も知りました。それが神のみこころならば、神はあらゆる方法を通してそれを成し遂げてくださいます。私たちが想像することもできないような思わぬ方法で助けてくださるのです。
それはエレミヤが例外だったからではありません。エレミヤの時に働かれた神は、今も生きて働いておられ、あなたの思いを越え、あなたが考えられない方法で、あなたを穴から引き上げてくださるのです。ですから、あなたがどんな穴に投げ込まれたとしてもがっかりしないでください。どんなに泥の中に沈んでいるようでも恐れないでください。主はあなたに思いがけない助けを与えてくださいますから。まさにあなたが夢を見ているような方法であなたを助けてくださるのです。
Ⅲ.ただ神に信頼して(14-28)
ですから第三のことは、ただ神に信頼しましょう、ということです。14~28節をご覧ください。19節までをお読みします。「14 ゼデキヤ王は人を送って、預言者エレミヤを自分のところ、【主】の宮の第三の入り口に召し寄せた。王がエレミヤに、「私はあなたに一言尋ねる。私に何も隠してはならない」と言うと、15 エレミヤはゼデキヤに言った。「もし私があなたに告げれば、あなたは必ず私を殺すのではありませんか。私があなたに忠告しても、あなたは私の言うことを聞かないでしょう。」16 そこでゼデキヤ王は、ひそかにエレミヤに誓った。「私たちの、このいのちを造られた【主】は生きておられる。私は決してあなたを殺さない。また、あなたのいのちを狙うあの者たちの手に、あなたを渡すことも絶対にしない。」17 すると、エレミヤはゼデキヤに言った。「イスラエルの神、万軍の神、【主】はこう言われる。『もし、あなたがバビロンの王の首長たちに降伏するなら、あなたのたましいは生きながらえ、この都も火で焼かれず、あなたもあなたの家も生きながらえる。18 あなたがバビロンの王の首長たちに降伏しないなら、この都はカルデア人の手に渡され、火で焼かれ、あなた自身も彼らの手から逃れることができない。』」19 しかし、ゼデキヤ王はエレミヤに言った。「私は、カルデア人に投降したユダヤ人たちのことを恐れている。カルデア人が私を彼らの手に渡し、彼らが私をなぶりものにするのではないか、と。」
ゼデキヤは人を送って、エレミヤを自分のところに召し寄せました。そして彼に一言求めました。何も隠してはならないと。するとエレミヤは、もし自分が告げれば、あなたは必ず私を殺すのではないかと答えると、ゼデキヤは、絶対に殺さないとひそかに誓ったので、エレミヤはゼデキヤにはっきりと主のことばを告げました。すなわち、もし彼がバビロンの王に降伏するなら彼は生きながらえ、彼の家族も、エルサレムも火で焼かれることはないが、もしバビロンの王に降伏しないなら、この都はカルデア人の手に渡され、火で焼かれ、彼自身も彼らに渡され、殺されることになるということです。もう何度も語られてきたことです。それなのになぜゼデキヤは再びエレミヤに尋ねたのでしょうか。
おそらくゼデキヤは、今までとは違ったことをエレミヤが言うのではないかと期待していたからです。しかし、エレミヤがゼデキヤに告げた言葉はこれまでと全く同じことでした。エレミヤはどこまでも、神の預言者として神に対して忠実だったのです。
それに対してゼデキヤはどうかというと、いつも人を恐れていました。19節には、「私は、カルデア人に投降したユダヤ人たちのことを恐れている。カルデア人が私を彼らの手に渡し、彼らが私をなぶりものにするのではないか、と。」あります。彼が恐れていたのは敵のバビロン軍が攻めてくるということよりも、エレミヤの語る神のことばに従ってバビロンに降伏して捕囚の民として連れて行かれたユダヤ人たちになぶりものにされるということでした。ですから、彼はひそかにエレミヤに尋ねたのです。本当の敵は外側よりも内側にいることがあるのです。
しかし、優柔不断な性格のゼデキヤはなかなか決断することができませんでした。それはゼデキヤだけではないでしょう。私たちもそういう時があります。それが神のみこころだとわかっていても、なかなか神に従うことができないことがあります。なぜでしょうか?人を恐れるからです。そんなことをしたらあの人に迷惑がかかるのではないか。この人から何を言われるかわからない。もしかすると、自分の立場が危うくなるかもしれない。その結果、生活にも影響を及ぼすことになるかもしれない。そう思うと、決断することができないのです。しかし、箴言に「人を恐れるとわなにかかる。 しかし主に信頼する者は守られる。」(箴言29:15)とあるように、人を恐れると、必ず失望することになります。私たちが恐れなければならないのは、私たちが信頼しなければならないのは、いつまでも変わることのない神とそのことばだけです。
イギリスで最も多くの会衆を牧会していたと言われている伝道者のチャールズ・スポルジョンは、ゼデキヤ王のようにためらっている会衆に次のように説教しました。「皆さん、いつまでためらっているのですか。皆さんは、うわべは宗教的ですが実はまだこの世の人なのです。ですから、今でもどっち側に立つべきかわからない」と言ってためらっているのです。いつまでも2つの間でもじもじしないでください。「次の機会が来れば悔い改める」と言って、人生の砂時計の砂をただ見送らないでください。皆さんが「砂がほとんど落ちたら、神のもとへ向かおう」と言う時はもう遅いのです。皆さんは、神とこの世の2つの間を行ったり来たりしながらも、神を信じていると言います。しかし、それは神を信じているということではありません。神を信じるとは、「ただ神だけを」信じることを言うのですと。
あなたはどうですか。あなたはためらっていませんか。神を信じていると言いながらも手放せないでいるものはありませんか。神だけに拠り頼むためにあなたが捨てるべきものは何ですか。あなたはだれを恐れて日々決断をしているでしょうか。ただ神だけを恐れ、神に立ち返りましょう。
最後に24~28節をご覧ください。「24 ゼデキヤはエレミヤに言った。「だれにも、これらのことを知らせてはならない。そうすれば、あなたは死なない。25 もし、あの首長たちが、私があなたと話したことを聞いてあなたのところに来て、『さあ、何を王と話したのか、教えろ。隠すな。あなたを殺しはしない。王はあなたに何を話したのか』と言っても、26 あなたは彼らに、『王がヨナタンの家に私を返し、そこで私が死ぬことのないようにと、王の前に嘆願をしていた』と言いなさい。」27 首長たちがみなエレミヤのところに来て、彼に尋ねたとき、彼は、王が命じたことばのとおりに彼らに告げたので、彼らは彼と話すのをやめた。あのことは、だれにも聞かれていなかったのである。28 エレミヤは、エルサレムが攻め取られる日まで、監視の庭にとどまっていた。エルサレムが攻め取られた次第は次のとおりである。ゼデキヤはエレミヤに言った。」
ゼデキヤ王はエレミヤに、このことをだれにも知らせてはならないと命じました。もし話せば、首長たちはエレミヤを殺すかもしれないからです。それでエレミヤは、首長たちが彼のところにやって来て、何を王と話していたのかと尋ねたとき、王が命じたとおりに、王がヨナタンの家に私を返し、そこで私が死ぬことがないようにと、王の前に嘆願していたと告げると、彼らはエレミヤと話すのをやめました。このゼデキヤ王の提言は、エレミヤのためというよりも、むしろ自分自身のためでした。エレミヤは自分の職務にいのちをかけていたことをゼデキヤ王は知っていたからです。そのエレミヤと隠れた取引をしたと思われることを、ゼデキヤ王は恐れたのです。結局、彼はエレミヤを通して語られた神のことばを聞きながら、それに従うことができませんでした。
皆さん、神の御心を知ってもそれを行うかどうかはまた別の問題です。聞くことと行うこととの間には固い決断が求められるからです。ゼデキヤは、神のことばを真剣に聞きましたが、それを首長たちに伝える勇気がありませんでした。また、彼らに伝えた時にエレミヤに降りかかる危険を防ぐ力もありませんでした。門の外では、王とエレミヤとの間でどのような話が交わされたのか、関心を持っていた首長たちがいましたが、ゼデキヤは、何事もなかったかのように装いました。南ユダ王国の運命がかかった重要な密談が、特に内容のない私的な会話とされたのです。その結果、個人的な危機は逃れましたが、南ユダ王国の運命は終わることになってしまいました。大切なのは、御言葉を聞くだけで終わらないということです。御言葉を聞いたなら、それを実行に移さなければなりません。
イエス様はみことばを聞いてそれを行う人は、岩の上に家を建てた賢い人にたとえることができると言われました。雨が降って洪水が押し寄せ、風が吹いてその家を襲っても、家は倒れませんでした。岩の上に土台が据えられていたからです。しかし、みことばを聞いてもそれを行わない人は、砂の上に自分の家を建てた愚かな人にたとえることができます。雨が降って洪水が押し寄せ、風が吹いてその家に打ちつけると、倒れてしまいます。皆さん、神のことばを聞いて、それを行う、岩の上に自分の家を建てる人になりましょう。そうすれば、雨が降って洪水が押し寄せ、風が吹いてその家を襲っても、倒れることはありません。
あなたにとって神の御言葉を聞いても実行することができないでいることは何ですか。今、それを神に明け渡しましょう。それはあなたの力でできることではありません。そのためには神の恵みと神の力が必要です。そしてそのために神はひとり子イエスをあなたに与えてくださいました。神はあなたの罪の身代わりとしてイエス様を十字架に付けてくださることによって、あなたの罪を完全に清めてくださいました。あなたはそれほど神に愛されているのです。神の恵みはあなたに十分注がれています。この神の愛と恵みを受け取るとき、あなたにも神の愛が満ち溢れ、あなたのすべてを神に献げることができるようになります。それはちょうど船の上から一歩踏み出すようなものです。イエス様なしでは、沈んでしまう水の上に踏み出すようなものなのです。でも、この弱いこの足に神が力を与えてくださるとき、神のみことばの上を歩むことができるようになります。たとえ嵐の中でも、ただ御顔を見つめ、イエス様あなたと共に歩みますと、一歩踏み出すことができるようになる。そこに神の思わぬ助けがあることを信じて、あなたもその一歩を踏み出してください。
思いがけない神の助け エレミヤ書38章1~28節
- 「礼拝拝メッセージ」(萩原師)
- 礼拝メッセージ(近藤師)