あなたがたを捨てて孤児にはしない ヨハネ14章18~26節

2020年5月3日(日)礼拝メッセージ

聖書箇所:ヨハネ14章18~26節(P214)

タイトル:「あなたがたを捨てて孤児にはしない」

 ヨハネの福音書14章からお話ししていますが、きょうはその3回目となります。最後の晩餐の席でイエスが弟子たちにこの世を去って父のみもとに行くと言われると、何のことを言っているのかわからなかった弟子たちは不安になりました。そんな彼らにイエスは、こう言われました。

「あなたがたは心を騒がせてはなりません。神を信じ、またわたしを信じなさい。」(14:1)

なぜなら、父の家には住む所がたくさんあるからです。そこに場所を用意したら、また来て、彼らを迎えに来てくださるからです。天の御国が用意されていることがわかればどんなことがあっても安心です。この御国の視点が与えられているということはどんなに感謝なことでしょう。不安の中にあっても平安が与えられます。

そればかりではありません。前回のところには、さらに3つのことが約束されていました。それは、キリストを信じる者は、キリストが行うわざを行い、さらに大きなわざを行うということでした(14:12)。また、主はご自身の名によって求めることは、何でもそれをしてくださいます(4:13)。そして、第三のことは、主を信じる者には助け主を与えてくださいます(4:16)。その方は真理の御霊です。この方が彼らとともにいて、いや彼のうちにいて助けてくださいます。だから恐れることはありません。心を騒がせてはならないのです。

きょうの箇所はその続きです。きょうは、「あなたがたを捨てて孤児にはしません」と言われたイエスのことばから、三つのことをお話しします。第一に、私たちを捨てて孤児にはしないとはどういうことでしょうか。再び戻って来られるということです。その日には、わたしが父のうちに、あなたがたがわたしのうちに、そしてわたしがあなたがたのうちにいることが、あなたがたに分かります。第二のことは、そのような神との交わりの中に入れられる人はどのような人かということです。それは、キリストを愛する人です。キリストを愛する人は、キリストのことばを守ります。

そして第三のことは、そのために聖霊が助けてくださるということです。どのように助けてくださるんですか?父がわたしの名によってお遣わしになる聖霊は、あなたがたにすべてのことを教え、わたしがあなたがたに話したすべてのことを思い起こさせてくださいます。

Ⅰ.あなたがたを捨てて孤児にはしません(18-20)

まず18節から20節までをご覧ください。

「18 わたしは、あなたがたを捨てて孤児にはしません。あなたがたのところに戻って来ます。19 あと少しで、世はもうわたしを見なくなります。しかし、あなたがたはわたしを見ます。わたしが生き、あなたがたも生きることになるからです。20 その日には、わたしが父のうちに、あなたがたがわたしのうちに、そしてわたしがあなたがたのうちにいることが、あなたがたに分かります。」

イエスは、「わたしは、あなたがたを捨てて孤児にはしません。」と言われました。なぜなら、再び彼らのところに戻って来られるからです。あと少しで、世はもうわたしを見なくなります。しかし、あなたがたはわたしを見るようになります。どういうことでしょうか。これは、イエスが十字架で死なれることで世はイエスを見なくなりますが、三日目にイエスが死からよみがえられることを彼らが見るようになるということです。しかしそればかりではなく、その後、イエスが天に昇って行かれてから約束の聖霊をお遣わしになることによって、もう一度彼らのところに戻ってくるということです。それが20節に書かれてあります。

「その日には、わたしが父のうちに、あなたがたがわたしのうちに、そしてわたしがあなたがたのうちにいることが、あなたがたに分かります。」

「その日」とはいつですか?「その日」とは、その後で起こるペンテコステの日のことです。ユダヤ教の祭りで「五旬節」の日のことです。ギリシャ語で「ペンテコステ」と言います。それはちょうど過越の祭りから50日目、つまり、イエスが十字架で死なれてから50日目に行われた祭りの時でした。弟子たちが同じ場所に集まっていたとき、天から突然、激しい風が吹いて来たかのような響きが起こったかと思ったら、炎のような分かれた舌が現れ、一人ひとりの上にとどまると、皆が聖霊に満たされ、御霊が語らせるままに、他国のことばで話し始めたのです。いったい何が起こったのか。約束の聖霊が降られたのです。

それは、預言者ヨエルによって預言されていたことでした。「その後、わたしはすべての人にわたしの霊を注ぐ。あなたがたの息子や娘は預言し、老人は夢を見、青年は幻を見る。」(ヨエル2:28)この預言が成就したのです。ヨエルは、B.C.830年頃の預言者ですが、当時エルサレムを襲ったいなごによる災害を通して、終わりの日に起こる恐ろしい幻を語りました。その日、畑に多くの種を持って出ても、彼らは少ししか収穫することができません。いなごが食い尽くすからです。ぶどう畑を作り、耕しても、そのぶどう酒を飲むことも、集めることもできません。虫がそれを食べるからです。ではどうすれば良いのか。きよめと断食の集会を開かなければならない。つまり、神の前に悔い改めなければなりません。もし、彼らが心を尽くし、断食と、涙と、嘆きをもって、主に立ち返るなら、主は彼らをあわれみ、祝福してくださると語ったのです。どのように?まず物質的な祝福をもたらされます。

「23 シオンの子らよ。あなたがたの神、主にあって、楽しみ喜べ。主は、義のわざとして、初めの雨を与え、かつてのように、あなたがたに大雨を降らせ、初めの雨と後の雨を降らせてくださる。24 打ち場は穀物で満ち、石がめは新しいぶどう酒と油であふれる。25 「いなご、あるいは、バッタ、その若虫、噛みいなご、わたしがあなたがたの間に送った大軍勢が食い尽くした年々に対して、わたしはあなたがたに償う。26 あなたがたは食べて満ち足り、あなたがたの神、主の名をほめたたえる。主があなたがたに不思議なことをするのだ。わたしの民は永遠に恥を見ることがない。」(ヨエル2:23-26)

そればかりではありません。その後、霊的にも祝福してくださいます。それがこれです。「その後、わたしはすべての人にわたしの霊を注ぐ。あなたがたの息子や娘は預言し、老人は夢を見、青年は幻を見る。」

「その後」とは、物質的に祝福してくださった後ということです。その後、主はすべての人に「わたしの霊」を注ぐと言われました。今、世界中がコロナウイルスで混乱していますが、その真の解決はここにあるのではないかと思います。つまり、主の御前に悔い改めるということです。神から離れ、神を神とも思わず自分が神にでもなったかのようにわがもの顔に振舞っている罪を悔い改め、神に立ち返ることです。そうすれば、神がこの地を癒し、霊的にも物質的に祝福をもたらしてくださいます。

ところでここには、「その後、わたしはすべての人にわたしの霊を注ぐ。あなたがたの息子や娘は預言し、老人は夢を見、青年は幻を見る。」とあります。聖霊が注がれると、息子娘は預言し、老人は夢を見、青年は幻を見るのです。聖霊が注がれると、神のみこころがはっきりと示されるのです。曖昧にではありません。それまでは、神のみこころがわかりませんでした。ぼんやりしていました。しかし、その日聖霊が注がれると、はっきり見えるようになります。それがペンテコステに起こった出来事でした。ヨエルは、その日のことを預言しましたが、それがそのとおりに起こったのです。つまり、主が弟子たちに「あなたがたのところに戻って来ます」と言われたのは、この聖霊を通してのことだったのです。

「その日には、わたしが父のうちに、あなたがたがわたしのうちに、そしてわたしがあなたがたのうちにいることが、あなたがたに分かります。」どのようにしてわかるのでしょうか?聖霊を通してです。弟子たちには、イエスが言っていることがどういうことなのかよくわかりませんでした。なぜ十字架につけられて死なければならないのか、なぜ父のもとに行かなければならないのか、もう一人の助け主を遣わしてくださるとはどういうことなのかさっぱりわかりませんでした。チンプンカンプンでした。しかし、その日には分かります。すべてがわかる。イエスが言われたこと、教えられたことがどういうことなのか、イエスがここで、「あなたがたを捨てて孤児とはしません」と言われた意味がわかるようになるのです。

もしイエスがどこに行ってしまったままであったら、いったいこれまでの自分の人生は何だったのかとなってしまいます。まさに孤児です。人はだれかに見捨てられるということほど辛いことはありません。皆さんは観ていないと思いますが、今、毎週日曜日の夜、NHKで「レ・ミゼラブル」を放映しています。私は毎週日曜日の奉仕を終えて帰宅してから、目をこすりながら観ていますが、そこに出てくる少女コゼットは、別に見捨てられたわけではありませんが母親は生きるために通りがかりの宿屋に彼女を預けざるをえませんでした。別に見捨てたわけではなく街に行って働いてお金を貯めたら娘を迎えに来ようと思っていたのです。しかし、母親の夢はかないませんでした。彼女はそこで死んでしまったからです。コゼットはもう二度と母親に会うことはできませんでした。孤児として孤独に生きなければならなかったのです。そんな彼女を引き取ったのがジャン・バルジャンでした。でも、それまで彼女はどれほど孤独だったでしょうか。そんな孤独の人生を生きなければなりませんでした。

弟子たちもそうです。もしキリストが彼らのもとを去って行くというだけだったら、彼らも孤独だったでしょう。しかし、主は彼らを捨てて孤児にするようなことは決してなさいません。やがて彼らのもとに戻って来られるからです。聖霊を通して。その日には、わたしが父のうちに、あなたがたがわたしのうちに、そしてわたしがあなたがたのうちにいることが、あなたがたに分かります。十字架で死なれることによって、しばらくの間彼らはイエスを見ることができなくなりますが、「その日」には見るようになります。まず三日目によみがえられることによって、そして、約束の聖霊が降られ、その聖霊に満たされることによってです。その日には、イエスが父のうちに、彼らがイエスのうちに、そしてイエスが彼らのうちにいることが、分かるようになるのです。

Ⅱ.イエスを愛する人(21-24)

次に、21節から24節までをご覧ください。まず21節をお読みします。

「21 わたしの戒めを保ち、それを守る人は、わたしを愛している人です。わたしを愛している人はわたしの父に愛され、わたしもその人を愛し、わたし自身をその人に現します。」

この節は、前の節とどのような関係があるのかわかりづらいように思うかもしれませんが、実は全部つながっています。イエスは、前の節で「その日には、わたしが父のうちに、あなたがたがわたしのうちに、そしてわたしがあなたがたのうちにいることが、あなたがたに分かります。」と言われましたが、その交わりの中に入れていただけるのはどのような人であるかということです。ここには、「わたしの戒めを保ち、それを守る人は、わたしを愛している人です。わたしを愛している人はわたしの父に愛され、わたしもその人を愛し、わたし自身をその人に現します。」とあります。それは、キリストの戒めを保ち、それを守る人です。キリストの戒めを保ち、それを守る人は、キリストを愛する人です。そういう人は父に愛され、またキリストにも愛され、キリストご自身を現してくださいます。あなたはどうですか?キリストを愛しておられますか?

では、キリストを愛しているかどうかをどうやったらわかるのでしょうか。それはキリストの戒めを守っているかどうかです。キリストの戒めを守る人は、キリストを愛している人です。キリストを愛している人はキリストのことばに従います。しかし、そうでない人は従うことができません。従いたくないのです。キリストのことばよりも、自分の思うように生きていきたいと思っているからです。どんなに表面的に愛しているようでももしそのことばに従っていないとしたら、それは愛しているとは言えません。なぜなら、愛するとは従うことであり、従うことが愛しているということだからです。それがキリストを愛していることの証明となるのです。キリストが言われることがどういうことなのか分からなくても従わなければなりません。なぜなら、主のことばは完全ですから、今はわからなくても後でわかるようになるからです。

そのように主を愛する人に、主はご自身を現してくださいます。弟子たちはイエスを愛していたので、イエスに従いました。ですから、イエスが復活された後、彼らにご自身を現してくださったのです。しかし、信じない人たちには現わしてくださいませんでした。当時のユダヤ人指導者たちには現れませんでした。ただイエスを愛しイエスに従った人たちにだけに現われてくださったのです。

それは私たちも同じです。私たちもイエスを愛しています。イエスを見たことはないけれども愛しており、見てはいないけれども信じており、ことばに尽くすことのできない、栄えに満ちた喜びに踊っています。アーメンですか?それは、信仰の結果であるたましいの救いを得ているからです。もしかすると、様々な試練の中で悲しまなければならないことがあるかもしれませんが、むしろそれは私たちの益のためであり、私たちが多くの実を結ぶために刈り込みをしてくださっているのです。そう信じているからこそ忍耐して、信仰に堅く立つことができるのです。そういう人にはご自身を現わしてくださいます。

どのようにしてイエスは私たちに現れてくださるのでしょうか。別に、夢や幻によって現れるというわけではありません。もちろん、そのようにして現れてくださることもあるでしょう。しかし、主がご自身を現わされるのは、神のことば、聖書のことばを通してなのです。なぜなら、イエスはみことばを通してご自身を現わしてくださったからです。ですから聖書を読み、祈っている中で、「ああ、主がここにおられる」という実感を持つことができます。また、こうして聖書のことばを聞いている中でご自身を現わしてくださいます。だから、礼拝は特別の時間なのです。わずか45分のメッセージですが、その時間に皆さんは主の臨在を感じ心が満たされるのです。同じ時間テレビを観ていても同じように満たされることはありません。かえって不安になったり、落ち込んだりしますが、こうやって聖書のみことばを聞いたり、家で聖書を読み、祈っている中でそれを体験することができるのです。

私たちはどちらかというと何かをすることによって主がご自身を現わしてくださるのではないかと考えがちですが、そうではなく、主はみことばを通してご自身を現わしてくださいます。キリストを愛している人は、キリストの言葉を守ります。そういう人は父に愛され、イエスご自身を現わしてくださるのです。ですから、神秘的に考える必要はありません。聖書を読んで祈ってください。そして、聖書の言葉に従ってください。そうすれば、主はあなたにも必ずご自身を現わしてくださいますから。

22節をご覧ください。すると、イスカリオテでないほうのユダがイエスに言いました。「主よ。私たちにはご自身を現わそうとなさるのに、世にはそうなさらないのは、どうしてですか。」(22)

イエスの弟子たちの中に、ユダという名前の人がもう一人いました。もう一人というのは、イスカリオテのユダではないもう一人のいうことです。これはヤコブの子ユダのことです(ルカ6:16)。彼は自分たちにはご自身を現わされるのに、どうして世にはご自分を現さないのかとイエスに尋ねました。どうして彼はこのように尋ねたのでしょうか。それは、その前の節でイエスが自分を愛する者にご自身を現われてくださると言われたからです。もし王であるのならみんなにわかるように自分から現した方がいいんじゃないですか、ということです。そうすれば、皆があなたを認めるようになるし、すんなりと王になることができます。つまり、彼のメシア観がずれていたのです。彼が期待していたのは自分たちをローマから救ってくださる政治的な王でした。何もこれは彼だけではありません。当時の一般的なユダヤ人たちのメシア観でもありました。当時の人々は、メシアはすべての人に分かるような形でご自身を現してくださると考えていました。

しかし、イエスが来られたのはそのためではありませんでした。イエスが来られたのは、失われた人を捜して救うためでした。「人の子は、失われた者を捜して救うために来たのです。」(ルカ19:10)しかし、彼にはそのことがわかりませんでした。

いったいどうしてこのようなずれが生じていたのでしょうか。関心事が違っていたからです。彼らの関心は自分の目の前にある問題から救ってもらうことでしたが、イエスの関心はそうした問題も含めたすべての問題の根源である罪から救うことでした。このようなずれは当時の人々だけでなく現代の私たちにもよくあることです。私たちもイエスを信じていますが、私たちの思いとイエスが求めておられることがずれていることがあります。きっとそうであるに違いないと思いながら、実際のところかなりずれているということがあるのです。つまり、聖書が何と教えているかということよりも、自分はどう思うのか、他の人たちは何と言っているかが判断の基準になっていることが多いのです。もちろん、私たちはそうしたことにも耳を傾けますが。しかしそれ以上に聖書は何と言っているのか、神のみこころは何なのかということを、みことばそのものから受け止めなければなりません。そうでないと、風に吹き飛ばされるもみ殻のように、どこかに吹き飛ばされてしまうことになります。

そこで主は、ご自分が語られたことの真意を繰り返して語られました。23節と24節をご覧ください。ご一緒に読みましょう。「23イエスは彼に答えられた。「だれでもわたしを愛する人は、わたしのことばを守ります。そうすれば、わたしの父はその人を愛し、わたしたちはその人のところに来て、その人とともに住みます。24 わたしを愛さない人は、わたしのことばを守りません。あなたがたが聞いていることばは、わたしのものではなく、わたしを遣わされた父のものです。」

これは、15節と21節で語られたことの繰り返しです。主が同じことを繰り返して言われる時は、それがとても重要な教えであるということです。15節と21節では「わたしの戒めを守る人は」とありますが、ここでは「わたしのことばを守る人」と言い換えられています。これは同じことと考えて差し支えないでしょう。では、「わたしの戒め」とか、「わたしのことば」とは具体的に何を指しているのでしょうか。それは、広い意味では聖書全体を指していると言えます。聖書は神のことば、キリストのことばですから。しかし、このヨハネが言うところの「キリストの戒め」とは、この文脈から考えると13章34節でイエスが教えられたことではないかと思います。

「わたしはあなたがたに新しい戒めを与えます。互いに愛し合いなさい。わたしがあなたがたを愛したように、あなたがたも互いに愛し合いなさい。」(13:34)

神を愛するとは、具体的には兄弟姉妹を愛することです。神を愛していると言いながら兄弟を憎んでいるなら、その人は偽り者です。目に見える兄弟を愛していない者に、目に見えない神を愛することなどできないからです。神を愛するという人は、兄弟をも愛すべきです。つまり、この愛に生きるということ、これがイエスの新しい戒めであり、聖書が教えていることです。

あるとき、律法の専門家がイエスのところに来て、こう尋ねました。「先生、律法の中でどの戒めが一番重要ですか。」するとイエスは彼に言われました。「37『あなたは心を尽くし、いのちを尽くし、知性を尽くして、あなたの神、主を愛しなさい。』38 これが、重要な第一の戒めです。39 『あなたの隣人を自分自身のように愛しなさい』という第二の戒めも、それと同じように重要です。40 この二つの戒めに律法と預言者の全体がかかっているのです。」」(マタイ22:37-40)

律法の中で、一番大切な戒めは何ですか。それは、心を尽くし、いのちを尽くし、知性を尽くして、あなたの神である主を愛することです。二番目に重要なのは何ですか。「あなたの隣人をあなた自身のように愛しなさい。」ということです。この二つの戒めに律法と預言者、つまり、聖書全体がかかっているのです。つまり、この分厚い聖書を要約すると、この二つの戒めにかかっていると言われたのです。神を愛し、隣人を愛することです。神を愛し、隣人を愛するなら、あなたは神のみことばに従っていると言えます。あなたが、心を尽くし、思いを尽くし、力を尽くして主を愛するなら、また、あなたの隣人をあなた自身のように愛するなら、あなたは、聖書のみことばに従っていると言えるのです。これがイエスを愛するということなのです。

そのような人には、どんな祝福が約束されていますか。23節の後半を見てください。ここには、「そうすれば、わたしの父はその人を愛し、わたしたちはその人のところに来て、その人とともに住みます。」とあります。すばらしい約束です。そうすれば、父はその人を愛し、私たちはその人のところに来て、その人とともに住みます。しかしこのところをよく見ると、ここには、「わたしたちは」とあります。「わたし」ではなく「わたしたち」です。複数形で書かれてあります。どういうことでしょうか?そうです、これは三位一体の神を表しているのです。父と子と聖霊の三位一体の神がその人のところに来て、その人とともに住んでくださいます。どのように?聖霊によってです。

しかし、イエスを愛さない人は、イエスのことばに従いません。弟子たちはどうでしたか。弟子たちはイエスを愛していたのでイエスに従いました。しかし、ユダヤ人たちはそうではありませんでした。ユダヤ人たちは、自分たちは神を信じていると言いました。自分たちは聖書の教師であり、聖書のことを何でも知っていると主張していましたが、実際にはその聖書の中心であるイエスを拒みました。イエスがなさった奇跡を歓迎しましたが、イエスが父と一つであると言われると、それを認めなかったばかりかイエスを憎み、十字架に掛けて殺してしまいました。彼らはイエスを愛しませんでした。イエスのことばに従わなかったのです。

皆さん、私たちは、信じない者にならないで信じる者になりましょう。愛さない者にならないで愛する者になりましょう。従わない者にならないで従う者となりましょう。いったいどうしたらできるのでしょうか。

Ⅲ.聖霊が助けてくださる(25-26)

それが第三のことです。すなわち、聖霊の助けによってということです。25節と26節をご覧ください。「25 これらのことを、わたしはあなたがたと一緒にいる間に話しました。26 しかし、助け主、すなわち、父がわたしの名によってお遣わしになる聖霊は、あなたがたにすべてのことを教え、わたしがあなたがたに話したすべてのことを思い起こさせてくださいます。」

イエスは弟子たちと一緒にいる時、これらのことを何度も話されました。十字架のことも話しました。復活のことも話しました。でも霊的に鈍感な弟子たちは何回聞いてもよくわかりませんでした。その時はわかったような気がしても、次の瞬間にはすっかり忘れてしまったのです。右の耳から入ってすぐに左の耳から抜けて行くような感じです。何もそれは弟子たちだけではありません。私たちも同じです。すぐに忘れてしまいます。ちなみに皆さんは昨日の夜何を食べたか覚えていますか。ほとんど覚えていません。ひどいのになると、今食べたものさえ覚えていないことがあります。先日もありました。夕食の時、皿の上にあったものが何だったのか忘れてしまったことが・・。皿を指さして「あれっ、これって何だっけ」と聞きました。危ないですね。すぐに忘れてしまいます。だとしたら1か月前のこと、2か月前のことになるともうお手上げです。全く覚えていません。私はよく家内に、「あなたは35年前も同じことを言った」とか言われますが、35年前も前のことを覚えているのは奇跡です。昨日言ったことを忘れていて35年前のことを覚えているんですからすごいことです。私たちは本当に忘れっぽいです。何回聞いても忘れてしまいます。しかし、神はそんな私たちにすべてのことを教え、また思い起こすことができるように、聖霊を遣わしてくださいました。この方は、「助け主、すなわち、父がイエスの名によってお遣わしになる聖霊」とあります。本当にすぐに忘れてしまうような私たちが、イエスが教えてくださったことを思い起こすことができるように助けてくださるのです。

これを書いたのは弟子のヨハネです。彼は90歳を過ぎてからこれを書いたと言われています。もうよぼよぼのおじいちゃんですよ。でも記憶力は衰えていませんでした。彼は90歳になっても30年以上も前のことを思い出しながら書きました。イエスが初めからなされたこと、話されたこと、それらを全部思い出して書きました。でもそれは彼の記憶力が良かったからではありません。聖霊が特別に彼に働いて思い起こさせてくださったのです。彼の記憶力はだめです。全くだめというわけではなかったでしょうが、若い時のように覚えていることはできなかったでしょう。今話したことさえ「あれっ、何だっけ」となってしまいます。でも、聖霊が思い起こさせてくだったので書くことができました。

それはヨハネだけではありません。私たちも同じです。私たちも信仰を持つまでは聖書を読んでもチンプンカンプンでした。今もチンプンカンプンの時がありますが、それでも聖書のお話しを聞くとわかるようになりました。頭がいいからではありません。聖霊が助けてくださるからです。聖書は聖霊によって書かれたものですから、聖霊によらないと理解することができません。そして、私たちがイエス様を信じた瞬間、聖霊が私たちの内に住んでくださったので、罪について、義について、さばきについてわかるようになりました。この聖霊がすべてのことを教えてくださるのです。

ですから、日々の生活の中で困った時には祈ってください。聖霊があなたにすべてのことを教え、すべてのことを思い起こさせてくださいます。あなたは今、心が騒いでいますか。イエス様は何と言われましたか。「あなたがたは心を騒がせてはなりません。神を信じ、またわたしを信じなさい。」(ヨハネ14:1)

あなたの心は疲れていますか。イエス様のことばを思い出してください。「すべて疲れた人、重荷を負っている人はわたしのもとに来なさい。わたしがあなたがたを休ませてあげます。」(マタイ11:28)

あなたの心は渇いていませんか。イエスはこう言われました。「だれでも渇いているなら、わたしのもとに来て飲みなさい。わたしを信じる者は、聖書が言っているとおり、その人の心の奥底から、生ける水の川が流れ出るようになります。」(ヨハネ7:37-38)

このように、聖霊は私たちに神のことばを思い起こさせてくださいます。そしてあなたを慰め、あなたを励まし、あなたを助け、あなたを導いてくださいます。聖霊はあなたと共に、いや、あなたのうちにおられます。この助け主であられる聖霊によって、イエスのことばを思い出し、イエスのことばに従いましょう。イエスを愛する人はイエスに従います。主はそのような人にご自身を現わしてくださるのです。