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礼拝メッセージ(長谷川牧師)

『礼拝メッセージ』

長谷川先生の礼拝メッセージ(MP3形式の音声ファイルです。)を聴きたい方は、下記の該当メッセージをクリックしてください。

2023/07/02 日々の必要 マタイ6章9~15節

2023/05/07 神の御心 マタイ6章9~15節

2023/04/23 心の清い者の幸い マタイ5章8節

2023/03/05 「主の祈り」シリーズ ③「聖名が聖まりますように」

2023/01/29 祈祷シリーズ②「天の父」

2023/01/29 祈祷シリーズ①「真の祈り」

2022/11/06 神を第一とせよ マタイ6:24-34

2022/10/02 祝福の招き(最後の者) マタイ20:1-16

2022/09/04 私にとって、生きるはキリスト ピリピ1:12-20

2022/08/07 信仰の諸段階 ヨハネ4:46-54

2022/07/03 派遣されるモーセ(三つの約束)出エジプト記2:23-3:10

2022/06/05 将軍の救い 列王記下5:1-5、9-14

2022/05/01 神の恵みの善い管理者 第一ペテロ4:7-11

2022/04/03 与える幸い 使徒の働き20:31-38

2022/03/06  美しい人 エレミヤ18:1-6

2022/01/30  神に聴く サムエル記第一3:9-10

陶器師の手の中で エレミヤ18章1~12節陶器師の手の中で 


聖書箇所:エレミヤ書18章1~12節(エレミヤ書講解説教37回目)
タイトル:「陶器師の手の中で」
エレミヤ書18章に入ります。きょうは、18章前半から「陶器師の手の中で」でというタイトルでお話したいと思います。聖書には、神様とイスラエル、あるいは神様と私たちの関係がいろいろなたとえで表現されています。たとえば、「羊飼いと羊」とか、「ぶどうの木とその枝」、「夫と妻」、「花婿と花嫁」などです。きょうの箇所では、陶器師と粘土のたとえで表現されています。陶器師の手の中にある粘土は、陶器師の思いと願い、また意思と判断によって、どのような器になるかが決まります。そして陶器師の手によってその器は完成へと導かれていくわけです。
17章9節には「人の心は何よりもねじ曲がっている」とありました。それは癒しがたい、変えられないと。しかし、陶器師であられる神様はそんな心さえも変えることがおできになります。ただの土くれ、粘土にすぎない私たちは、陶器師であられる主の御手の中でへりくだり、砕かれ、練られ、火の中を通るというプロセスを通って、主の似姿に変えられていくのです。
Ⅰ.ろくろで仕事をする陶器師(1-3)
 まず、1~3節をご覧ください。「1 主からエレミヤに、このようなことばがあった。2 「立って、陶器師の家に下れ。そこで、あなたにわたしのことばを聞かせる。」3 私が陶器師の家に下って行くと、見よ、彼はろくろで仕事をしているところだった。」
主からエレミヤに主のことばがありました。それは、立って、陶器師の家に下れ、というものでした。そこで主はエレミヤにご自身のことばを聞かせる、と。皆さんは、陶器師がろくろの上に粘土を置いて、その粘土のかたまりから器を作るのを見たことがありますか。よくテレビで見ることがありますが、実に興味深いですね。まるでマジックを見ているかのようです。エレミヤの時代、陶器作りは日常生活の一部になっていました。ですから、エレミヤが陶器師の家で見たことや彼が語るメッセージは、当時のイスラエルの人たちもよく理解することができました。
彼が陶器師の家に下って行ったとき、そこで見たものは何でしょうか。それは、陶器師がろくろで仕事をしている姿でした。陶器師は遊んでいたわけではありません。ろくろの上で泥遊びをしていたわけではないんです。ちゃんと仕事をしていました。陶器を作っていたのです。何の器かはわかりませんが、陶器師が気に入るものを作っていました。この陶器師は父なる神のことを表しています。そしてこの器とは、私たち人間のことを表しています。つまり、私たちは陶器師であられる神の御手によって作られる神の作品であるということです。
エペソ2章10節を開いてください。ここにはこうあります。「実に、私たちは神の作品であって、良い行いをするためにキリスト・イエスにあって造られたのです。」
私たちは神の作品です。神は愛をもって、また目的をもって私たち一人一人を作ってくださいました。この「作品」という言葉はギリシャ語で「ポイーマ」という言葉ですが、これは「ポエム」の語源になった言葉です。皆さんもポエムをご存知でしょう。「詩」ですね。でも、元々この「ポイーマ」は、芸術作品全般を指していました。詩のポエムもそうですし、美しい陶器もそうです。絵とか音楽といったものも含めて、そうした芸術作品全般がこのポイーマという言葉で表されていたのです。私たちは神のポイーマです。神によって造られた神の作品なのです。しかも、それは世界にたった一つしかない芸術作品、最高傑作品です。誰が何と言おうと、人がどのように見ようと、また、自分自身が自分のことをどう思っていようと、私たちは神によって造られた最高の芸術作品なのです。
旧約聖書のイザヤ書の中にはこうあります。「しかし、今、主よ、あなたは私たちの父です。私たちは粘土で、あなたは私たちの陶器師です。私たちはみな、あなたの御手のわざです。」(64:7)ここには、私たちは父なる神様の御手のわざだと言われています。その神様の御手による作品であるゆえに、私たちは皆、神様にとってはかけがえのない価値ある芸術作品であると言えるのです。

 ですから、イザヤ書43章4節ではこう言われているのです。「わたしの目には、あなたは高価で尊い。わたしはあなたを愛している。」神様の目には、私たちは価値のある、尊い存在です。なぜ?なぜなら、私たちはその神の御手をもって、愛を込めて造られたものだからです。人間の物差しで見たらどのように思われるかわかりませんが、神様の物差しで見たならば、私たちは皆、一人ひとり、神様のお気に入りの愛する自慢の作品なのです。なぜなら、私たちは神によって創られた神の作品だからです。あなたは神の自慢の作品なんです。
では、神様はどのようにして作品を造られたのでしょうか。ここには、「私が陶器師の家に下って行くと、見よ、彼はろくろで仕事をしているところであった」とあります。彼は「ろくろ」で仕事をしていました。皆さんはろくろを見たことがありますか。ろくろとは、回転可能な円形の台のことです。2枚の石を木の軸で支え、下の石をコロコロ回すと上の石が連動して回る仕組みになっています。その上の石の部分にこねた粘土を置いて、それを水に濡らした手で陶器師が思いのままに形にしていくのです。粘土はその上でぐるぐる 回ります。「ろくろ」の原理は回転の繰り返しです。そのようにして粘土はバランスのとれた形に仕上がって行くのです。これは私たちの日々の生活にたとえることができます。「ろくろ」に置かれた粘土のように、私たちも日々の生活の中で神の御手によって神のみこころにあったものとして形作られていきます。毎日毎日同じことの繰り返しのようです。でもそこで私たちは神様の取り扱いを受けるのです。「ろくろ」に置かれた粘土のように、私たちも日々の生活の中で時には指で押されたり、手のひらでグッと押し付けられることがあります。水をかけられて散々こねくり回されるようなことがあるわけです。そういう状況が続くと、キツイな、苦しいな、もう嫌だなあと、そこから逃げ出したくなったりしますが、ろくろがずっと回っているので逃げることができません。それでもあまりにも苦しくなるともう嫌だ、もうたくさんです、もうこりごりですと、ろくろから飛び降りたくなります。あの「泳げたい焼きくん」のように。皆さん、「泳げたい焼きくん」をご存知ですか。

彼は、毎日毎日鉄板の上で焼かれるのが嫌になって、ある朝店のおじさんと喧嘩して海に逃げ込みました。初めて泳いだ海の底はとっても気持ちがいいものです。お腹のアンコは重いけど、海は広いぜ、心が弾む!でも一日泳ぐと腹ペコになり、目玉もくるくる回っちゃう!たまにはエビでも食わなけりゃ、塩水ばかりじゃ老けてしまう。岩場の陰から食いつけば、それは小さな釣り針だった。どんなにどんなにもがいても、針がのどから取れないよ。浜辺で見張らぬおじさんが、ぼくを釣り上げてびっくりした。やっぱりぼくはたい焼きさ。少し焦げあるたい焼きさ。おじさんつばを吞み込んで、ぼくをうまそうに食べたのさ。
泳げたい焼きくんです。粘土も同じです。もう嫌だ、もうたくさんだとそこから飛び降りると、地面に落ちてペチャンコになってしまいます。もうそこから動けなくなってしまうのです。全く惨めです。すると嘆くわけですね。「助けてください」と。すると陶器師はその粘土をかき集め、再び丸めてろくろの上に乗せてこねくり回わします。すると粘土はまた嫌になって、もうこりごりです、もう耐えられません、そう言ってまたジャンプするわけです。すると地面に落ちてペチャンコになって動けなくなってしまいます。それで「助けてください」と叫ぶと、また陶器師がやってきて黙ってそれを拾い上げ、再びろくろの上に乗せてこねくり回します。その繰り返しです。これが私たちクリスチャンの人生です。そのようにして神様はご自身の作品を作ってくださるのです。神様は私たちをシェイプアップしようとろくろでこねくり回すと、私たちはそれに耐えきれなくなってギブアップし、地面に落ちてペチャンコになります。すると主がそれをピックアップして再びろくろの上に置いてシェイプアップしてくださる。その連続です。シェイプアップ、ギブアップ、ピックアップ。その繰り返しです。これが、神様が私たちをご自身の作品に作り上げてくださる方法なのです。そうやって神様は私たちをご自身の似姿に造り変えてくださるのです。だから、ろくろから逃げてはいけないのです。逃げたらたい焼きくんになってしまいます。逃げたらペチャンコになってしまいます。ろくろの上でこねくり回さることは時には辛いこともありますが、陶器師の手にゆだねることで、あなたは美しい器に造り上げていただくことができるのです。
Ⅱ.陶器師の手にゆだねて(4-6)
次に、4~6節をご覧ください。「4 陶器師が粘土で制作中の器は、彼の手で壊されたが、それは再び、陶器師自身の気に入るほかの器に作り替えられた。5 それから、私に次のような主のことばがあった。6 「イスラエルの家よ、わたしがこの陶器師のように、あなたがたにすることはできないだろうか─主のことば─。見よ。粘土が陶器師の手の中にあるように、イスラエルの家よ、あなたがたはわたしの手の中にある。」
エレミヤは、陶器師の家に行き陶器師がろくろで仕事をしているのを見ました。すると、陶器師が粘土で製作していた器は陶器師の気に入らなかったようで、すぐにそれを壊し、自分の気に入るほかの器に作り替えました。どういうことでしょうか。陶器師は粘土に対して絶対的な権威を持っているということです。陶器師は、自分が好きなようにその粘土を取り扱うことができるということです。形も、大きさも、デザインも、陶器師が好きなように自由に作り、気に入らなければそれを壊して別のものに作り替えることができるのです。陶器師は自分の意のままに何でもすることができるのです。これを何というかというと、「主権」と言います。神の主権は、神が絶対的な主権をもってご自身が好きなようにできるということです。神にはそのような権利と自由があるのです。それが6節で言われていることです。
「イスラエルの家よ、わたしがこの陶器師のように、あなたがたにすることはできないだろうか─主ことば─。見よ。粘土が陶器師の手の中にあるように、イスラエルの家よ、あなたがたはわたしの手の中にある。」
粘土が陶器師の手の中にあるように、イスラエルの家は主の御手の中にあります。陶器師は自分で好きなように壊したり、作り替えたりすることができます。でもそうされたからと言って粘土には何も文句を言う権利はありません。粘土はあくまでも陶器師の手の中にあり、陶器師の意のままに形作られるものだからです。それなのに、土くれにすぎない粘土が造り主である陶器師に文句を言うことがあります。たとえば、イザヤ45章9節にはこうあります。「ああ、自分を形造った方に抗議する者よ。陶器は土の器の一つにすぎないのに、粘土が自分を形造る者に言うだろうか。「何を作るのか」とか「あなたが作った物には手がついていない」と。」。
陶器は土の器の一つにすぎないのに、不遜にも形造る方、陶器師に抗議することがあるのです。「何を作るのか」とか、「あなたは自分のやっていることが全然わかっていない」と。粘土がそれを形造る陶器師に向かってですよ。全然わかっていないのは粘土の方なのに、その粘土が自分を形造る方に向かって「どうしてこんなところに手をつけるのか」とか、「センスが悪い」と言うのです。どうしてこんなところに手を付けるのかって、それは陶器師がそうしたいからしているのであって、それは陶器師の自由であるはずです。陶器師にはその権利があるのです。それにイチイチ文句をつける方がおかしいのです。
パウロはこれをローマ9章18~21節で引用してこう言っています。「18 ですから、神は人をみこころのままにあわれみ、またみこころのままに頑なにされるのです。19 すると、あなたは私にこう言うでしょう。「それではなぜ、神はなおも人を責められるのですか。だれが神の意図に逆らえるのですか。」20 人よ。神に言い返すあなたは、いったい何者ですか。造られた者が造った者に「どうして私をこのように造ったのか」と言えるでしょうか。21 陶器師は同じ土のかたまりから、あるものは尊いことに用いる器に、別のものは普通の器に作る権利を持っていないのでしょうか。」
  神は人をみこころのままにあわれみ、またみここころのままに頑なにされます。ここではエジプトの王ファラオのことを言っていますが、神には人をみこころのままにあわれんだり、頑なにされるのです。そのような権利を持っていらっしゃるのです。神は主権者であって、だれもこの神の意図に逆らうことはできません。できるのは、その神の主権を認めるということだけです。
それは陶器師と粘土にも言えることであって、陶器師は同じ土のかたまりから、あるものは尊いものに用いる器に、別のものは普通の器に作る権利をもっておられるのです。花瓶であろうと尿瓶(しびん)であろうと、食器であろうと便器であろうと、陶器師は自分の好きなものを造る権利を持っているのです。それに対して「私は尿瓶は嫌だ、花瓶がいい」とか、「便器は毎日使うので役に立つけど、どうせ毎日使うものだったら食器の方がいい」とかと言う権利はないのです。その権利を持っているのは造られる方、陶器師だけです。
それなのに、そのように文句を言ったり不満を垂らしたりすることがあるとしたら、それは自分の立場を忘れているということです。いつの間にか自分が陶器師であるかのように錯覚しているのです。自分が神様であるかのように思い込んでいることがあるのです。自分の人生は自分のものだと、だから花瓶になってなんで悪いんだと。食器になったっていいじゃないかと主張するのです。そういうのを何と言うかというと、「主客(しゅかく)転倒(てんとう)」と言います。皆さん、ご存知ですね。「主客転倒」。主客転倒とは、主人と客のあるべき立場が入れ替わり、あべこべになることです。 そこから転じて、人や物事の立場、順序が逆転することを言います。私たちが主ではありません。私たちはただの土くれ、粘土にすぎません。陶器師ではないのです。その身分相応の立場をわきまえなければなりません。私たちはただの粘土で踏みにじられて当然の者、捨てられて当然の者、無価値だと言われて当然の者なのです。でも驚くべきことに、そんな無価値な私たちを、この陶器師が名器に作り替えてくれます。測り知れない価値ある者に作り替えてくれるのです。だから、その神の主権を認め、神がなさりたいように自由になさっていただく。これがベスト、最善なのです。
言い換えると、これは「みこころのままに」ということです。みこころがなりますようにという祈りです。私たちはそう祈っていますよね。「みこころの天になるごとく、地にもなさせたまえ」。主の祈りの一節です。実は、これが究極の祈りです。すべての祈りがこれに至ります。御みこころがなりますように。これがすべてと言っても過言ではありません。神の主権を認めるとは、まさにみこころがなりますようにと祈ることなのです。神の主権を認め、神がなさりたいようになさっていただく。「主よ、私はまな板の鯉です。主よ、あなたが望まれるように如何様にもしてください。あなたにすべてをお任せします。」これが、私たちに求められていることなのです。
それは6節を見てもわかります。ここには「イスラエルの家よ」ということばが2回繰り返して使われています。繰り返しているということは、これが強調されているということです。皆さん、「イスラエル」って何ですか。イスラエルとは、神に支配された者、神に治められた者という意味です。神を支配する者ではありません。神に支配される者です。神が主権者だから、当然神が治められるわけです。このような者のことを「イスラエル」というのです。神が主権者であることを認める人たち。神が王であることを認める人たち。神が陶器師であることを認める人たち。それがイスラエルです。それがクリスチャンです。このイスラエルが粘土であるように、霊的イスラエルである私たちクリスチャンも粘土にすぎません。それをどのように作るのかは、主権者であられる神だけが知っていることであって、私たちがとやかく言うことではないのです。確かに先が見えないと不安になります。でも、この陶器師がどのような方であるかを知れば、あなたは安心してこの方にすべてをゆだねることができるでしょう。この方はあなたのためにいのちを捨ててくださった救い主であられます。それほどまでにあなたを愛してくださいました。この方があなたのためにひどいことをされるでしょうか。されません。この方はあなたのために最善を成してくださいます。そう信じて、みこころのままにと、すべてを陶器師なる神さまの御手にゆだねようではありませんか。
Ⅲ.思い直される神(7-12)
ですから第三のことは、陶器師であられる主の御手の中で、あなたも新しく作り替えていただくことができるということです。7~12節をご覧ください。「7 わたしが、一つの国、一つの王国について、引き抜き、打ち倒し、滅ぼすと言ったそのとき、8 もし、わたしがわざわいを予告したその民が立ち返るなら、わたしは下そうと思っていたわざわいを思い直す。9 わたしが、一つの国、一つの王国について、建て直し、植えると言ったそのとき、10 もし、それがわたしの声に聞き従わず、わたしの目に悪であることを行うなら、わたしはそれに与えると言った幸せを思い直す。11 さあ今、ユダの人とエルサレムの住民に言え。『主はこう言われる。見よ。わたしはあなたがたに対してわざわいを考え出し、策をめぐらしている。さあ、それぞれ悪の道から立ち返り、あなたがたの生き方と行いを改めよ。』12 しかし、彼らは言う。『いや。私たちは自分の計画にしたがって歩み、それぞれ、頑なで悪い心のままに行います。』」
これが陶器師と粘土のたとえを通して主が伝えたかった結論です。「7 わたしが、一つの国、一つの王国について、引き抜き、打ち倒し、滅ぼすと言ったそのとき、8 もし、わたしがわざわいを予告したその民が立ち返るなら、わたしは下そうと思っていたわざわいを思い直す。」
主は一つの国、一つの王国について、引き抜き、打ち倒し、滅ぼすと言ったことを思い直すこともおできになります。これは1章10節で既にエレミヤに告げられたことです。主権者であられる主は、イスラエルを如何様にも取り扱うことができるということです。主はイスラエルに下そうと思っていたわざわいを思い直すと言われました。主は頑なで悔い改めない南ユダの人々に、神のさばきを宣告されました。それはバビロンによって滅ぼされ、バビロンに捕え移されるということです。バビロン捕囚ですね。それでも彼らが悔い改めるなら、主はそのわざわいを思い直されるのです。ここにはそのための条件が示されています。何でしょうか?「その民が立ち返るなら」です。もし、主がわざわいを予告したその民が立ち返るなら、主は下そうと思っていたわざわいを思い直されるのです。
この「思い直す」ということばは、ヘブル語で「ナハム」ということばですが、これは「悔い改める」という意味のことばです。でも神が悔い改めるというのは意味が通らないので「思い直す」としたのです。新共同訳では「思いとどまる」と訳しています。神は下そうと思っていたわざわいを思い直してくださいます。どういうことでしょうか。粘土は陶器師を変えることはできませんが、陶器師は粘土を作り替えることができるということです。下そうと思っていたわざわいを思い直すことができるのです。ここで問題になっていたのは何かというと、17章9節で言われていたことです。そこには、「人の心は何よりもねじ曲がっている。それは癒しがたい。だれが、それを知り尽くすことができるだろうか。」とありました。人の心は何よりも陰険なのです。だれもそれを作り替えることはできません。でも、陶器師であられる神は替えることかできます。イスラエルが神に立ち返るなら、陶器師であられる神はイスラエルを全く別のものに作り替えることができるのです。
しかし、残念ながら彼らは神に立ち返りませんでした。彼らは自分の計画に従って歩み、それぞれ頑なで心のままに行いました。まさに主客転倒だったのです。自らが神であるかのように思い込んでいました。自分が望むことは何でもできると思っていた。それゆえ、彼らに神のわざわいが下ることになります。具体的にはバビロンによって滅ぼされ、バビロンに捕え移されるということです。でも、彼らが主に立ち返るなら、主は彼らの心を変え、下そうと思っていたわざわいを思い直すことができました。全く新しいものに作り変えていただくことができたのです。
それは、人にはできないことです。人の心は何よりも陰険だからです。何よりもねじ曲がっています。それは癒しがたいものです。しかし、神にはどんなことでもできます。「だれでもキリストのうちにあるなら、その人は新しく造られた者です。古いものは過ぎ去って、見よ、すべてが新しくなりました。」(Ⅱコリント5:17)だれでも、キリストにあるなら、その人は新しく造り変えられます。古いものは過ぎ去って、すべてが新しくなるのです。
以前、フレミング先生がメッセージの中で金継(きんつ)ぎの話をされました。何の話だったかよく覚えていませんが、PPTで見せてくれた金継ぎの写真を忘れることができません。

写真は違いますが、このような写真でした。「金継ぎ」というのは、割れたりヒビが入ってしまったりした陶磁器を、漆(うるし)を使って丁寧にくっつけて、金の粉で装飾して仕上げる、日本古来の修復技法です。この「金継ぎ」をすることで、壊れてしまった器はより美しく甦り、金継ぎを施された器は、より芸術性の高いものとして文化財に指定されることもあるそうです。陶磁器が割れたり、ヒビが入ってしまうと、もう修復不可能だと思えますが、そんな器でも、神は修復してくださるだけでなく、もっとすばらしい器へ作り変えることができるのです。
ですから、神に立ち返りましょう。あなたが神に立ち返るなら、神は下そうと思っていたわざわいを思い直されるばかりか、金継ぎされた器のように、さらに美しい価値ある器に替えていただくことができるのです。
Ⅱコリント4章7節には、「私たちは、この宝を、土の器の中に入れているのです。それは、この測り知れない力が神のものであって、私たちから出たものでないことが明らかにされるためです。」とあります。土の器に過ぎない私たちの内に、宝なるキリストが住まわれるとき、この測り知れない神の力があなたの心に働かれ、あなたは全く新しい者に変えられます。キリストの御霊、神の聖霊は、生ける神の御手として不要な肉の性質を削り取ったり、また逆に霊的に必要なものを与えたりして、私たちをキリストの似姿へと変えてくださるのです。
ですから、陶器師であられる主のもとに立ち返りましょう。粘土であるあなたは、自分では何もすることができません。でもあなたが陶器師であられる神に立ち返り、神の主権を認め、神の御手に完全にゆだねるなら、あなたの中におられる宝が、あなたを全く新しい者へと変えてくださるのです。
最後に、もう一度イザヤ書64章8節を読んで終わります。「しかし、今、主よ、あなたは私たちの父です。私たちは粘土で、あなたは私たちの陶器師です。私たちはみな、あなたの御手のわざです。」
私たちは粘土で、私たちの主は陶器師です。私たちはこの陶器師の手の中にあります。陶器師であられる主が、私たちをキリストの似姿に変えてくださるように、陶器師なる主にすべてをおゆだねしたいと思います。

主を見上げて エレミヤ書17章11~27節

聖書箇所:エレミヤ書17章11~27節(エレミヤ書講解説教36回目)
タイトル:「主を見上げて」

きょうは、エレミヤ書17章後半からお話します。タイトルは、「主を見上げて」です。エレミヤは、13節で「イスラエルの望みである主よ」と告白しています。また、14節では「あなたこそ、私の賛美だからです」と言っています。さらに17節でも「あなたは、わざわいの日の、私の避け所です」と告白しています。エレミヤは神の預言者として神のことばを語ったことでユダの民から蔑まれ、激しい痛みと孤独に苛まれていました。そのような中で彼は主を見上げ、信仰の目をもって、真の希望がどこから来るのかをしっかり見ていたのです。
  それは私たちも同じです。私たちもクリスチャンとして生きることは、必ずしも楽なことではありません。時にエレミヤのように孤独とか不安に(さいな)まれることがあります。でも、そのような中にあっても信仰をもって主を見上げるなら真の希望が与えられ、それを克服することができます。肺に酸素が必要なように、私たちのたましいにも希望が必要なのです。希望の灯が消えると、私たちのたましいも死んでしまいます。
  きょうは、この希望の灯をともし続けるために、目を天に向けて、希望の源であられる主を、しっかり見るようにというお話をしたいと思います。

Ⅰ.主はイスラエルの望み(11-13)

まず、11~13節をご覧ください。「11 しゃこが自分で産まなかった卵を抱くように、公正によらないで富を得る者がいる。彼の生涯の半ばで、富が彼を置き去りにし、その末は愚か者に終わる。12 私たちの聖所がある場所は、初めから高く上げられた栄光の王座だ。13 「イスラエルの望みである主よ。あなたを捨てる者は、みな恥を見ます。」「わたしから離れ去る者は、地にその名が記される。いのちの水の泉である主を捨てたからだ。」」

「しゃこ」とは鳥のことです。キジ科の鳥で、日本のキジと(うずら)の中間くらいの大きさの鳥です。あまり飛ぶことはしません。地面を走り回るといった感じです。エビなどの甲殻類の「しゃこ」ではありません。寿司ネタのしゃこではありません。あるいは、世界最大の二枚貝の「シャコ」でもありません。もちろん、車の車庫でもありません。鳥のしゃこです。かわいいですね、しゃこちゃん。これはなかなか身近にいない鳥なのでピンとこないかもしれませんが、ここでは、公正によらないで富を得る者、すなわち、不正に富を集めた人が、自分の産まなかった卵を抱く「しゃこ」にたとえられているのです。この「しゃこ」の特性が、不正に富を集める人に似ているのです。その末路はどうなるでしょうか。彼の生涯の半ばで、富が彼を置き去りにし、離れ去ることになります。つまり、孵化した雛が偽の親鳥から離れて行くように、不正な方法で蓄えた財も、突然その人の手からすり落ちてしまうことになります。それはまことに愚かなことです。

いったいどうしてここにいきなり富の話、お金の話が出てくるのでしょうか。前回のところには、人間に信頼する者はのろわれよ。肉なる者を自分の腕とし、心が主から離れている者は、とありましたが、それとこのしゃこの話がどのような関係があるのか。それはお金に対する価値観や考え方が、その人の祝福を決めるということです。財政が霊性を表しているということです。「金銭を愛することが、あらゆる悪の根だからです。」(Ⅰテモテ6:10)とある通り、金銭を愛する者は愚かです。それは前回の言葉で言うなら、まさに人間に信頼する者です。肉なる者を自分の腕とし、心が主から離れている者です。そのような者は荒れ地の灌木、幸せが訪れても出会うことがなく、焼けついた荒地、住む者のいない塩地に住むようになります。

私が何歳の頃だったかよく覚えていませんが、たぶん3歳か4歳か5歳かまだ小さい頃、可愛い子どもだった頃のことです。母と道を渡ろうと信号に止まっていたとき、そこに千円札が落ちているのを見つけました。どうするのかなぁと思って見ていたら、母の行動は素早かったですね。その千円札をさっと拾うと自分のエプロンのポケットに入れたのです。そして、私にこう言いました。「いいがい、トミちゃん、お金がすべてだがらない」今でもよく覚えています。あの光景を。忘れることができません。それ以来、私はずっとお金がすべてだと思って生きてきました。
  それは母に限ったことではありません。それは、この世の一般的な価値観です。すべての物事を、お金を基準に考えています。その結果、しゃこが自分で産まなかった卵を抱くように、公正によらないで富を得ようとするということが起こってくるのです。問題は富に執着することです。それは愚か者に終わると聖書は言うのです。

では、どうすればいいのでしょうか。12~13節をご覧ください。「12 私たちの聖所がある場所は、初めから高く上げられた栄光の王座だ。13 「イスラエルの望みである主よ。あなたを捨てる者は、みな恥を見ます。」「わたしから離れ去る者は、地にその名が記される。いのちの水の泉である主を捨てたからだ。」

私たちは、初めから高く上げられた栄光の王座を見なければなりません。そこには、イスラエルの望みである方がおられます。その方を見上げなければなりません。そこに希望があるからです。
  エレミヤはここで、信仰の目を上げて、真の希望がどこから来るのかを確認しています。そして、神殿があるエルサレムこそ、神の栄光が宿る王座だ、と言いました。そして、主こそイスラエルの望みであると告白したのです。この主を捨てる者は、みな恥を見ます。この主から離れるなら、希望は残されていません。でも、主に信頼する者は恥を見ることはありません。失望することはないのです。こうやって見ると、ここも前回の箇所とつながっていることがわかります。

パウロはコロサイ3章2節でこう言っています。「上にあるものを思いなさい。地にあるものを思ってはなりません。」上にあるものを求めなさい。地にあるものを求めてはならないと。なぜですか。そこにはよみがえられたキリストが神の右の座に着いておられるからです。このキリストこそ真の希望であられるお方だからです。キリストが再び来られるとき、私たちは朽ちることのない栄光のからだに復活することになります。これこそが究極の望みのです。この望みがあるなら、この地上のどんな問題も乗り越えることができます。

あなたが見ている所はどこですか。この地上にあるものでしょうか。それとも上にあるものですか。上にあるもの、イスラエルの望みである主を見上げましょう。真の希望はそこから来るからです。

Ⅱ.主はイスラエルの賛美(14-18)

次に、14~18節をご覧ください。「14 「私を癒やしてください、主よ。そうすれば、私は癒やされます。私をお救いください。そうすれば、私は救われます。あなたこそ、私の賛美だからです。15 ご覧ください。彼らは私に言っています。『主のことばはどこへ行ったのか。さあ、それを来させよ。』16 しかし私は、あなたに従う牧者になることを避けたことはありません。癒やされない日を望んだこともありません。あなたは、私の唇から出るものが御前にあることをよくご存じです。17 私を恐れさせないでください。あなたは、わざわいの日の、私の身の避け所です。18 私を迫害する者たちが恥を見て、私が恥を見ることのないようにしてください。彼らがうろたえ、私がうろたえることのないようにしてください。彼らの上にわざわいの日を来たらせ、破れを倍にして、彼らを打ち破ってください。」」

これはエレミヤの祈りです。エレミヤはここで三つのことを祈っています。第一に彼は、心が癒されることを願いました。14節には、「私を癒してください。主よ。そうすれば、私は癒されます。私をお救いください。そうすれば、私は救われます。」とあります。ということは、彼はこの時ピンチの状態に置かれていたということです。エレミヤは「偽預言者」のレッテルを貼られていました。それは彼がエルサレムの滅亡を預言していたからです。しかしそれがいつまでたっても実現しなかったので、人々は彼のことばをあざ笑うようになっていました。15節には、そんなエレミヤに対する彼らの嘲りのことばが記されてあります。 「主のことばはどこへ行ったのか。さあ、それを来させよ。」これは、彼らの嘲りのことばです。結果的に、エレミヤの預言が実現するのは、この時から約40年後のことです。その間、彼はどんなに苦しかったかと思いますね。16節には、「しかし私は、あなたに従う牧者になることを避けたことはありません。」とあります。彼は言いたくで言ったわけではありません。主に従う牧者として、主が語れとおっしゃられたから語っただけなのに、結果的に民に憎まれてしまいました。それで彼はとても傷ついていたのです。だから彼は主に、「癒してください」、「救ってくださいと」と祈ったのです。

でもここで重要なのは、なぜエレミヤはそのように祈ったのかということです。その理由なり、目的が14節の最後のところにあります。ここには、「あなたこそ、私の賛美だからです。」とあります。エレミヤがそのように祈ったのはどうしてですか。それは彼が癒されて楽になるためではありませんでした。彼がピンチから救われるためではありませんでした。勿論、それもあったでしょう。でもそれ以上に、あるいは最終的には、ここに「あなたこそ、私の賛美だからです」とあるように、それによって主がほめたたえられるためだったのです。

私たちも同じように祈らなければなりません。「主よ、私を癒してください。」何のためですか?それによって主がほめたたえられるためです。主こそ、私の賛美だからです。
  「私を救ってください。そうすれば、私は救われます。」何のためですか。もうこんな生活は嫌だから、こんな状態には耐えられないからではなく、そのことによって、主の御名があがめられるためです。主が私の賛美となるためです。
  すばらしですね。皆さん、考えたことがありますか。私の癒し、私の救い、私の願い、それを通して主が崇められるようになるということを。そのことを通して主が賛美されるようになることを。私たちの祈りのすべては、主の御名があがめられるようになるためなのです。まさに主の祈りの中にある「御名があがめられるように」です。それがすべての動機とならなければなりません。それこそ、みこころにかなった祈りだと言えるでしょう。これをすべての祈りの中心にしたいですね。

第二に、エレミヤは「私を恐れさせないでください。」と祈りました。17節です。ここには、「私を恐れさせないでください。あなたは、わざわいの日の、私の避け所です。」とあります。ということは、この時エレミヤには恐れに苛まれていたということです。エレミヤとて、私たちと同じ人間でした。神の預言者として大胆にいのちをかけでみことばを語っていましたが、そういう人には何の恐れもないのかというとそうではなく、そのような人であってもいろいろな不安や恐れを抱えているのです。ですから、預言者としての使命を全うするためには、主の助けとあわれみが必要だったのです。祈りによってそれを克服していく必要がありました。だからエレミヤは「私を恐れさせないでください。あなたは、わざわいの日の、私の避け所です。」と祈ったのです。

それは、使徒パウロも同じでした。彼は、エペソ6章19節で、「また、私のためにも、私が口を開くときに語るべきことばが与えられて、福音の奥義を大胆に知らせることができるように、祈ってください。」と言っています。あのパウロが「祈ってください」と祈りを要請しています。パウロほどの人物ならば何も怖いものなどなかったんじゃないかと思うかもしれませんが、彼にも恐れがあったのです。だから、大胆に語れるように祈ってくださいと言ったのです。自分の力ではとても無理です。とても敵の前で大胆に語ることなどできません。私には祈りが必要です。私には神の力が必要なのです。どうか私のために祈ってください、そうお願いしたのです。彼は自分の弱さを認めていました。だから、祈ってくださいと素直に言うことができたのです。パウロは本当に謙遜な人だなあと思います。謙遜じゃないとこのように言うことはできません。どちらかというと、私はなかなかこのように言えない弱さがあるなぁと思います。高慢なんですね。自分で何とかしようとする。自分の力で頑張るという意識が強いのです。でも、パウロのように、自分の弱さを率直に認めて祈ることが大切です。私にはできないので、主よ、あなたが助けてください。あなたは、わざわいの日の、私の身の避け所ですと。

第三に、エレミヤは敵が恥を見て、私が恥を見ることがないようにしてください、と祈りました。18節です。ここには「彼らの上にわざわいの日を来たらせ、破れを倍にして、彼らを打ち破ってください」とあります。まさに倍返しです。しかし、これはエレミヤの個人的な復讐心から出たものではありません。神の義が全うされるようにという願いです。「あなたこそ、私の賛美だからです。」主こそ彼の賛美でした。神の義が全うされることによって、神の御名があがめられるようにという祈りが、このような表現となったのです。

皆さん、どうでしょうか。私たちもエレミヤのようにピンチに陥ることがあります。恐れに苛まれることがある。苦しくて逃げ出したくなるような時があります。先のことが見えなくて不安になることもあるでしょう。そのような時、そうした恐れや不安に勝利するために必要なことは何でしょうか。祈ることです。詩篇121篇
 1 私は山に向かって目を上げる。私の助けは、どこから来るのだろうか。
 2 私の助けは、天地を造られた【主】から来る。
 3 主はあなたの足をよろけさせず、あなたを守る方は、まどろむこともない。
 4 見よ。イスラエルを守る方は、まどろむこともなく、眠ることもない。
 5 【主】は、あなたを守る方。【主】は、あなたの右の手をおおう陰。
 6 昼も、日が、あなたを打つことがなく、夜も、月が、あなたを打つことはない。
 7 【主】は、すべてのわざわいから、あなたを守り、あなたのいのちを守られる。
 8 【主】は、あなたを、行くにも帰るにも、今よりとこしえまでも守られる。

先が見えない不安の中で、この詩篇の作者は山に向かって目を上げると言いました。なぜなら、彼は真の助けはそこから来ると信じていたからです。天地を創られた主から来ると。主はまどろむこともなく、眠ることもありません。主はあなたを守る方。主はあなたの右の手をおおう陰です。昼も、日があなたを討つことがなく、夜も、月があなたを討つことはありません。主は、すべての災いから、あなたを守り、あなたの命を守られます。この方を見上げるのです。主を見上げるのです。先が見えない不安の中でも、それをだれか人のせいにしたり、何かのせいにするのではなく、山に向かって目を上げ、そこから助けを求める。それが、私たちに求められていることです。それが不安や恐れを克服していくために必要なことなのです。

Ⅲ.主は契約を守られる方(19-27)

第三に、主は契約を守られる神であるということです。19~27節をご覧ください。「19 主は私にこう言われる。「行って、ユダの王たちが出入りする、この民の子らの門と、エルサレムのすべての門に立ち、20 彼らに言え。『これらの門の内に入るユダの王たち、ユダ全体、エルサレムの全住民よ、主のことばを聞け。21 主はこう言われる。あなたがた自身、気をつけて、安息日に荷物を運ぶな。また、それをエルサレムの門の内に持ち込むな。22 また、安息日に荷物を家から出すな。いかなる仕事もするな。安息日を聖なるものとせよ。わたしがあなたがたの先祖に命じたとおりだ。23 しかし、彼らは聞かず、耳を傾けず、うなじを固くする者となって聞こうとせず、戒めを受けなかった。
  24 もし、あなたがたが、本当にわたしに聞き従い─主のことば─安息日にこの都の門の内に荷物を持ち込まず、安息日を聖なるものとし、この日にいかなる仕事もしないなら、25 ダビデの王座に就く王たちや、車や馬に乗る首長たち、すなわち王たちとその首長たち、ユダの人、エルサレムの住民は、この都の門の内に入り、この都はとこしえに人の住む所となる。26 ユダの町々やエルサレムの周辺から、ベニヤミンの地やシェフェラから、また山地やネゲブから、全焼のささげ物、いけにえ、穀物のささげ物、乳香を携えて来る者、また感謝のいけにえを携えて来る者が、主の宮に来る。27 しかし、もし、わたしの言うことを聞き入れず、安息日を聖なるものとせず、安息日に荷物を運んでエルサレムの門の内に入るなら、わたしはその門に火をつけ、火はエルサレムの宮殿をなめ尽くし、消えることがない。』」

ここで主はエレミヤを通して安息日の問題について語っておられます。その内容は、安息日に荷物を運ぶな、労働するな、安息日を聖く保てというものでした。彼らの先祖たちはその命令を無視し、かたくなな心で歩んできました。そして今、新しい世代の者たちに、再度この安息日を守れるようにと命じているのです。

なぜ安息日なのでしょうか。なぜなら、これが神との契約の中心だったからです。十戒にもありますね。「安息日を覚えて、これを聖なるものとせよ。」(出エジプト記20:8)ただ休めというのではなく、これを聖なるものとしなければなりませんでした。これが神との契約のしるしだったのです。神との契約のしるしがもう一つあります。それは何かというと割礼です。ですから、この安息日を守るというのは、割礼を受けることと合わせて、ユダヤ人をユダヤ人たらしめる、ユダヤ人ならではのしるしだったのです。ですから、このエレミヤのメッセージは、神との契約関係に帰れということだったのです。もしユダの民がその声に聞き従い、安息日を守るなら、彼らの心に悔い改めの心が生じたということがわかります。しかし、そうでなければ、その他の律法も守ることはできません。
  しかし彼らはそれを守るどころか、むしろ、安息日に休むのはもったいないと荷物を運び入れ、ビジネスを展開していました。その結果、どのようなことがもたらされるのでしょうか。27節です。主はエルサレムの門に火をつけ、火はエルサレムの宮殿をなめ尽くすことになります。エルサレムは崩壊するということです。これはバビロン捕囚のことを意味しています。バビロンによってエルサレムは完全に崩壊することになります。
  神はイスラエルの民に何度も悔い改めの機会を提供されましたが、彼らはことごとくそれを拒否しました。その結果、この民を懲らしめる方法としては、バビロン捕囚しか残されていなかったのです。神の恵みを拒み続けると、自らの上にのろいを招くようになります。しかし、神との契約を守る者には、神の祝福がもたらされるのです。

問題は、あなたがどこを見ているかということです。あなたの心はどこにあるかということです。あなたの心が主から離れていれば、あなたは荒れ地の灌木、焼けついた荒野、住む者のいない塩地に住むようになります。しかし、あなたの心が主につながっているなら、そういう人は水のほとりの植えられた木のように、流れのほとりに根を伸ばし、暑さが来ても暑さ知らず、葉は茂って、日照りの年も心配なく、実を結ぶことをやめません。だから、あなたがどこを見ているのかは重要なことなのです。泥だらけの地面を見るのではなく、あなたの目を天に向け、イスラエル神がどのようなお方なのかをしっかりと見て、そこから助けをいただきましょう。この神と心のベルトをしっかりかけて、希望の灯をともしていただこうではありませんか。そういう人は、何が起こってもあわてることがありません。

最後に、暗黒大陸アフリカへの宣教師として召されたデイビッド・リヴィングストンのお話をして終わりたいと思います。彼の1856年1月14日の日記には、「今日は私の16年間のアフリカ滞在中最大の危機を迎えた」と記しています。実は、彼ら一行を現地人が待ち伏せしていて、いのちをねらっているという情報が入って来たのです。リヴィングストンの仲間は「行くのを止めよう」とか「迂回しよう」と提案しましたが、リヴィングストンは「私たちを守ってくださる方は、必ず約束を守る紳士である。この紳士のことばを私は信じる」。そう言って、マタイの福音書28章20節のことばを引用しました。そこで、イエス・キリストは、次のように約束しています。
  「見よ。わたしは、世の終わりまで、いつも、あなたがたとともにいます。」
  そして、リヴィングストンたちは予定通りのコースを白昼堂々と進んで行ったのです。待ち伏せしていた現地人たちは何かに縛られたように動けず、自分たちの目の前を通り過ぎるリヴィングストンたちをただ見送るだけでした。

確かな方に繋がっている、この方に支えられているという確信がある人は、何があっても動じることはありません。主はあなたを守る方、イスラエルの望みです。この方を見上げましょう。そうすれば、主があなたを守ってくださいます。主はあなたの賛美、わざわいの日の、身の避け所なのです。

神に信頼する人の幸い エレミヤ書17章1~10節


聖書箇所:エレミヤ書17章1~10節(エレミヤ書講解説教35回目)
タイトル:「神に信頼する人の幸い」
エレミヤ書17章に入ります。きょうは、1節から10節までの箇所から、「神に信頼する人の幸い」というテーマでお話します。神に信頼するのか、人に信頼するのか、ということです。神に信頼する者は祝福されますが、人に信頼する者にはのろいがあります。どうしてでしょうか。9節にあるように、人の心は何よりもねじ曲がっているからです。新改訳改訂第3版ではこの「ねじ曲がっている」という言葉を「陰険」と訳しています。「人の心は何よりも陰険で、それは直らない。」それは直りません。誰にも直すことができません。そんな人間に信頼したらどうなるでしょうか。裏切られ、失望することになります。しかし、神はその心を変えることができます。ですから、この方に信頼するなら、この方が祝福してくださいます。祝福は、あなたの心にかかっているのです。
Ⅰ.消し去ることのできないユダの罪(1-4)
 まず、1~4節をご覧ください。「1 「ユダの罪は、鉄の筆と金剛石の先端で記され、彼らの心の板と彼らの祭壇の角に刻まれている。2 彼らの子たちまでもが、その祭壇や、高い丘の青々と茂る木のそばにあるアシェラ像を覚えているほどだ。3 野にあるわたしの山よ。あなたの領土のいたるところで犯した罪ゆえに、わたしは、あなたの財宝、すべての宝物を、高き所とともに、戦利品として引き渡す。4 あなたは、わたしが与えたゆずりの地を手放さなければならない。またわたしは、あなたの知らない国で、あなたを敵に仕えさせる。あなたがたが、わたしの怒りに火をつけたので、それはとこしえまでも燃える。」」
ここには、ユダの罪が彼らの心の奥深くにまで刻み込まれていると言われています。1節に「鉄の筆」とか「金剛石の先端」とありますが、これは堅いものに何かを刻む時に使われるものです。新共同訳では「金剛石」を「ダイヤモンド」と訳しています。他の多くの英語の訳も「ダイヤモンド」と訳しています。よっぽど堅いものに文字を刻むんだなあと思ったら、刻むものは「彼らの心の板」と「彼らの祭壇の角」です。彼らの心があまりにも頑ななので、堅すぎて普通の筆では書くことができないというのです。その心には二度と消えることのない文字が刻まれています。それは彼らの根深い罪です。彼らの心には罪の性質が深く刻みこまれているということです。遺伝子の中に組み込まれているDNAのように、彼らの心には、決して消し去ることができない彼らの罪が深く刻まれているのです。
ここには、「彼らの心」だけでなく「彼らの祭壇の角」にとあります。祭壇の角とは、罪のためのいけにえの血を塗って罪の赦しを祈る青銅の祭壇のことです。それは神の幕屋の門から入ると外庭の中心に置かれてありました。その祭壇の四隅には角が作られていますが、そこに彼らの罪が刻まれているというのは、神の御前でその罪が決して赦されることがないという意味です。彼らの罪はそれほど深く刻まれていたのです。もはや消しゴムなどでは消すことができません。修正液でごまかすこともできません。堅すぎて削り落とすこともできません。入れ墨ならレーザーで消すこともできるでしょう。でも心の刻印、罪の入れ墨は何をもってしても消すことができないのです。
創世記6章5節には「主は、地上に人の悪が増大し、その心に図ることがみな、いつも悪に傾くのをご覧になった。」とあります。ノアの時代の人たちの姿です。その時代の人たちの心に図ることはみな、いつも悪に傾いていました。これがまさに鉄の筆と金剛石の先端で記されている罪です。ノアの時代の人たちはよっぽど悪(わる)だったんだなぁと思うかもしれませんが、これはノアの時代の人だけではなく今の人も同じです。イエス様は再臨の前兆として、人の子が来るのもノアの日と同じようだと言われました。現代もノアの時代と同じように、いやそれ以上に悪が増大し、その心に図ることがみな悪いことだけに傾いています。まさにその心に鉄の筆と金剛石によって罪が刻み込まれているのです。そのやること成すこと全部的外れ、神の御心を損なっています。それが今の時代です。それは何をもってしても消すことができません。
2節をご覧ください。ここには、その罪の影響が彼らの子どもたちまでに及んでいると言われています。子どもたちまでも偶像礼拝に関わっていました。彼らはイスラエルの神、主を礼拝していましたが、それにプラスして他の神々も拝んでいました。その一つがここにあるアシェラ像です。アシェラ像は豊穣の女神、繁栄の神です。彼らは、イスラエルの神を拝みながら豊穣の神を求めて拝んでいたのです。現代の人に似ています。私たちも確かに聖書の神を信じていますが、それで満たされないと他の神々も拝みます。ビジネスの成功と繁栄を求めて、自分の心を満たすものを求めて、真実の神以外に別の神も求めてしまうのです。それによって自分の子どもたちにも影響を受けてしまうのです。親がしていることを子どもが真似するからです。それほど子どもは親の影響を受けやすいのです。
その結果、どうなったでしょうか。3~4節をご覧ください。「3 野にあるわたしの山よ。あなたの領土のいたるところで犯した罪ゆえに、わたしは、あなたの財宝、すべての宝物を、高き所とともに、戦利品として引き渡す。4 あなたは、わたしが与えたゆずりの地を手放さなければならない。またわたしは、あなたの知らない国で、あなたを敵に仕えさせる。あなたがたが、わたしの怒りに火をつけたので、それはとこしえまでも燃える。」
「野にあるわたしの山」とは、シオンの山のこと、つまりエルサレムのことです。主はエルサレムの意たるところで犯した彼らの罪のゆえに、彼らのすべての財宝、すべての宝物を、戦利品として引き渡します。
そればかりではありません。4節には、主が彼らに与えたゆずりの地も手渡すことになります。ゆずりの地とは相続地のことです。主から賜った約束の地、乳と蜜の流れるすばらしい地を手放すことになってしまいます。どこに?バビロンです。4節に「あなたの知らない国で、あなたを敵に仕えさせる」とあふりますが、これはバビロンのことを指しています。エルサレムは、バビロンによって炎上することになります。それは神が怒りの火をつけられるからです。それは彼らの罪のゆえでした。ユダの罪は、鉄の筆と金剛石(ダイヤモンド)の先端で彼らの心に深く刻まれていました。それを消すことは不可能です。それは消し去ることができないほどの罪でした。
私たちは、自分の心に鉄の筆と金剛石の先端で自分の罪が刻まれていると思うと、その罪の深さにショックを受けるかもしれません。自分はこんなにひどい人間なのかと。こんなに汚れたものなのかと。自分自身にあきれるでしょう。あまりにも絶望して死を選ぶ人もいるかもしれません。
でもここに希望があります。ここに良い知らせがあります。それは、私たちの主イエス・キリストです。キリストは、私たちの罪がどんなに深く刻みこまれていても、その罪を洗いきよめることができます。完全に消し去ることができるのです。
主はこう言われます。「たとえ、あなたがたの罪が緋のように赤くても、雪のように白くなる。たとえ、紅のように赤くても、羊の毛のようになる。」(イザヤ1:18)
主は、ご自身の血をもって、私たちの罪、咎のすべてを洗いきよめてくださいます。私たちのどうしようもない罪に汚れた心を、全く新しく造り変えてくださることができるのです。
Ⅱ.神に信頼する者の幸い(5-8)
次に、5~8節をご覧ください。「5 主はこう言われる。「人間に信頼する者はのろわれよ。肉なる者を自分の腕とし、心が主から離れている者は。6 そのような者は荒れ地の灌木。幸せが訪れても出会うことはなく、焼けついた荒野、住む者のいない塩地に住む。7主に信頼する者に祝福があるように。その人は主を頼みとする。8 その人は、水のほとりに植えられた木。流れのほとりに根を伸ばし、暑さが来ても暑さを知らず、葉は茂って、日照りの年にも心配なく、実を結ぶことをやめない。」
ユダの罪は偶像礼拝ということでしたが、それは人に信頼し、肉の力に頼っていたことが原因でした。そういう人たちの特徴は、心が神から離れているということです。心がピッタリと神に寄り添っていないのです。神に寄り添っている時というのは人を信頼しません。肉の力を頼みとしないのです。いろいろな人があなたを助けてくれることがあっても、その人に依存することをしません。助けてもらったら感謝はしますが、その人たちがいなければ自分は何もできないとは考えないのです。そのように考えているとしたら、それは神から離れている証拠です。
当時のユダの人たちは、まさにここにある通り、人に信頼していました。肉なる力を自分の腕としていました。自分たちは、自分たちの力で何とかできると思っていたのです。具体的には、当時バビロン軍が攻めて来ていましたが、エジプトを後ろ盾にしました。たとえバビロンが攻めて来ても大丈夫、自分たちにはエジプトという同盟国がバックにいるから問題ないと思っていたのです。この時、彼らはエジプトと軍事同盟を結んでいました。だからいざとなったエジプトが助けてくれると思っていたのです。
でも心が主から離れ、人に信頼し、肉なる力を自分の腕とするなら、のろわれてしまうことになります。具体的には6節にあるように、そのような者は荒れ地の灌木となります。幸せが訪れても出会うことはなく、焼けついた荒野、住む者のいない塩地に住むことになります。
「荒れ地の灌木」とは裸の木のことです。完全に枯れた木ですね。完全に渇ききってしまいます。そこにはいのちがありません。完全に不毛地帯となるのです。これがのろいです。そういう人の人生には、実が成りません。たとえあなたがクリスチャンであっても、神に信頼しないで人に信頼し、肉の力を頼みとするなら、あなたものろわれてしまうことになります。たとえあなたが物理的には神に寄り添っているようでも、その心が神から離れているなら、のろわれてしまうことになるのです。
あなたはどうでしょうか。あなたの心は神から離れていないでしょうか。物理的にはここにいても、心は神から遠く離れていることがあります。こうして礼拝していながらも、あなたの心があなたの宝のところに行っていることがあるのです。イエス様はこう言われました。「あなたの宝のあるところに、あなたの心もあるのです。」(マタイ6:21)と。あなたの宝のあるところに、あなたの心もあります。そのようにして、いつしか心が神から離れてしまうのです。心が神から離れ、人を信頼し、自分の肉に頼る人は、のろわれることになります。必ず失望することになるのです。
一方、主に信頼し、主を頼みとする人はどうでしょうか。7節には、「主に信頼する者に祝福があるように。その人は主を頼みとする。」とあります。そこには、祝福があります。その人は、水のほとりに植えられた木のようです。流れのほとりに根を伸ばし、暑さが来ても暑さを知らず、葉は茂って、日照りの年にも心配なく、実を結ぶことをやめません。どこかで聞いたことがあるよフレーズですね。そうです、これは詩篇1篇3節からの引用です。詩篇1篇1節からお読みします。「1 幸いなことよ 悪しき者のはかりごとに歩まず 罪人の道に立たず 嘲る者の座に着かない人。2 主のおしえを喜びとし 昼も夜も そのおしえを口ずさむ人。3 その人は 流れのほとりに植えられた木。時が来ると実を結び その葉は枯れず そのなすことはすべて栄える。」(詩篇1:1-3)
すばらしい約束ですね。主の教えを喜びとし、昼も夜もそのおしえを口ずさむ人は、流れのほとりに植えられた木のようになります。時が来ると実を結び、その葉は枯れることがありません。その人は何をしても栄えます。なぜでしょうか。なぜなら、その人は主に信頼したからです。主を頼みとし、他のものを頼みとしませんでした。そういう人は日照りの年も心配なく、いつまでも実を結ぶことをやめません。

イエス様は、そのことを一つのたとえを用いて語られました。ぶどうの木と枝のたとえです。ヨハネ15章5節です。「わたしはぶどうの木、あなたがたは枝です。人がわたしにとどまり、わたしもその人にとどまっているなら、その人は多くの実を結びます。わたしを離れては、あなたがたは何もすることができないのです。」
イエス様がぶどうの木で、私たちはその枝です。枝が木につながっているなら、その人は多くの実を結びます。枝自身が必死になって努力しなくても、自然に実を結ぶのです。枝にとって必要なことは何かというと、自分で実を結ぼうとすることではなく、木につながっていることです。枝が木につながっているなら、木の根が養分を吸い上げて枝に届けるので、自然に枝が成長して実を結ぶようになります。そのためには「時」が必要です。時が来れば実がなります。自分のタイミングでは実を結ばないかもしれませんが、時が来れば必ず実を結ぶようになるのです。でも、そのために力む必要はありません。ただイエスにとどまっていればいいのです。つながっていればいい。そうすれば、自然に実を結ぶようになります。これが主に信頼するということです。これが主を頼みとするということです。これが祝福です。
でも、イエスにつながっていなければ何もすることができません。何の実も結ぶことができない。不毛な人生となります。どんなに頑張っても、どんなに汗水流しても、すべてが徒労に終わってしまいます。これがのろいです。神から心が離れ、人に信頼する者、肉の力を頼みとする者は、不毛な人生となるのです。こんなに時間をかけたのに、こんなにお金をかけたのに、こんなに信頼したのに、全部裏切られた、全部水の泡となったと、がっかりするようになります。失望させられることになるのです。
人間に信頼しない、肉なる者を自分の腕としないで、主に信頼する人は幸いです。言い換えると、自分を頼みとする人は高慢な人です。枝だけで何でもできると思い込んでいるわけですから。でも枝だけでは実を結ぶことはできません。実を結ぶために必要なことはたった一つ。それはつながるということ。ただそれだけです。木につながること。イエス様にとどまること。そういう人は多くの実を結びます。それが主に信頼するということ、主を頼みとするということなのです。
Ⅲ.人の心は何よりもねじ曲がっている(9-10)
どうして人に信頼する者、肉なる者を自分の腕とする者はのろわれるのでしょうか。ここが今日の中心となるところです。第三に、それは、人の心は何よりもねじ曲がっているからです。何よりも陰険だからです。9~10節をご覧ください。「9 人の心は何よりもねじ曲がっている。それは癒やしがたい。だれが、それを知り尽くすことができるだろうか。10 わたし、主が心を探り、心の奥を試し、それぞれその生き方により、行いの実にしたがって報いる。」
人の心は何よりもねじ曲がっている。それは癒しがたい。人の深層をよく表していると思います。新改訳改訂第3版では、「人の心は何よりも陰険で、それは直らない」と訳しています。「ねじ曲がっている」という語を「陰険」と訳したんですね。「陰険」とは表面的にはよく見せても、裏ではこっそり悪いことをする、という意味です。「あの人は陰険だ」という時はそのような意味で使っていますけど、悪くないと思います。原意からそれほど離れていません。新共同訳では、「人の心は何にもまして、とらえ難く病んでいる」と訳しています。「とらえ難く病んでいる」これもいいですね。人の心はとらえがたく病んでいます。そういう意味です。でも一番原意に近いのは「偽るもの」です。口語訳ではこれを「心はよろずの物よりも偽るもので、はなはだしく悪に染まっている」と訳しています。心はよろずのもの、万物ですね、それよりも偽るもので、はなはだしく悪に染まっています。つまり、何よりも偽るものであるという意味です。創造主訳でもそのように訳しています。「人の心はどんなものよりも偽るもので、直すことが難しい」。すばらしいですね。口語訳とほぼ同じですが、こういう意味です。一番ストンときます。
ちなみに、この「ねじ曲がっている」の原語は、ヘブル語の「アーコーブ」という語です。皆さん、聞いたことがありませんか。「アーコーブ」。これは「ヤーコーブ」、つまり、あの「ヤコブ」の語源となった語です。意味は何でしたか。意味は「かかとをつかむ者」です。つまり、騙す者、偽る者、嘘つき、悪賢いということです。人の心というのは、騙すもの、偽るもの、嘘をつくもの、悪賢いもの、人を出し抜くものであるということです。表面ではよく見せていても、裏では悪事を働きます。陰険ですね。外側では良い人を装っても、内側では人を見下しています。それは人の心が「アーコーブ」だからです。陰険だから、ねじ曲がっているから、偽るものだから、何にもましてとらえがたく病んでいるからです。それが人の心です。あなたの心です。そんな人間を信頼したらどうなりますか。あなたをがっかりさせ、あなたを傷つけ、あなたを苦しめ、あなたを怒らせることになるでしょう。だからこそ、そんな人間を信頼してはいけない、肉なる者を自分の腕としてはいけない、と神は言われるのです。
イザヤは、こう言いました。イザヤ書28章20節です。「まことに、寝床は身を伸ばすには短すぎ、覆いも身をくるむには狭すぎる。」当時、北からアッシヤ帝国が北王国イスラエルに迫って来ていましたが、彼らはエジプトと同盟を結べば大丈夫だと思っていました。しかし、そのエジプトも身を伸ばすには短いベッドにすぎず、身をくるむには狭すぎるブランケットだと言ったのです。彼らは自分たちをカバーしてくれるものをエジプトに求めました。自分たちを覆ってくれるもの、守ってくれる存在、保護してくれる存在を神ではなく、エジプトに求めたのです。エジプトはこの世の象徴です。肉なるものの象徴ですが、そのようなものがあなたを救うことはできません。イザヤ書2章22節にある通りです。「人間に頼るな。鼻で息をする者に。そんな者に、何の値打ちがあるか。」
鼻で息をする人間には、何の値打ちもありません。いつも心がコロコロ変わっているから「心」と言うんだと聞いたことがありますが、人の心はいつもコロコロ変わります。何よりも陰険です。とらえ難く病んでいます。それは癒しがたいものです。そんな人間に頼っていったいどうなるというのでしょうか。どうにもなりません。いつも自分の心に騙され続けることになります。
大体、自分がまともな人間だと思っているのは人と比較しているからです。他の人と比べて自分の方がマシだと思っています。自分の夫と比べて、隣の人と比べて、あの人と比べて、「私はそんなひどい人間じゃない」「あの人ほど悪じゃない」と思っています。でも、聖書の基準に照らし合わせたらどうでしょうか。もう顔を覆いたくなるのではないですか。あまりにもいい加減な自分の姿を見せられて。
では、どうしたら良いのでしょうか。それが9節の後半で問いかけていることです。ここには「だれが、それを知り尽くすことかできるだろうか」とあります。どうしたらいいのかということです。人類は自分の努力によって、さまざまなものを考え、文明の利器を作り出してきましたが、どんなに努力しても変えられないものがあります。それが、自分の心です。それは何よりも陰険でねじ曲がっています。それは癒しがたい。だれが、それを変えることができるのでしょうか。それがおできになるのは主なる神様だけです。10節をご覧ください。ここに、こうあります。「わたし、主が心を探り、心の奥を試し、それぞれその生き方により、行いの実にしたがって報いる。」
人の心は何よりもねじ曲がっているので、それを変えることは誰にもできません。精神分析とか、自己分析とか、自己評価とか、他己評価とか、そういったことで見極めることはできませんが、神様はおできになります。神は私たちの心を探り、心の奥を試し、それぞれの生き方によって、行いの実にしたがって報いてくださいます。
へブル4章12節にはこうあります。「神のことばは生きていて、力があり、両刃の剣よりも鋭く、たましいと霊、関節と骨髄を分けるまでに刺し貫き、心の思いやはかりごとを見分けることができます。」
神のことばは生きていて、力があります。それは両刃の剣よりも鋭く、関節と骨髄の分かれ目さえも刺し通すのです。人の心の思いやはかりごとを判別することができます。正しい分析をすることができるのです。神のことばという判断基準をもって。これはいつまでも変わることがありません。人間の心はコロコロと変わりますが、神のことばは変わることがありません。神のことばは、書かれてから三千数年以上経っていますが、時代によって書き変えたり、付け加えたり、削除されたりしていません。ずっと同じです。いつまでも変わることがありません。ですから、神のことばは確かなものであると言えるのです。それは信頼に足るものです。書き換えられていないというのは完全なものだからです。ですから、私たちがすべきことはこれです。詩篇139篇23~24節です。「23 神よ、私を探り私の心を知ってください。私を調べ、私の思い煩いを知ってください。24 私のうちに傷のついた道があるかないかを見て、私をとこしえの道に導いてください。」
これが私たちのすべきことです。まず自分の心がどれほど陰険で、罪に汚れているかを知り、それは人には直せない、どうすることもできないもの、自分の力でも、人に頼っても、どうすることもできない、と認めなければなりません。しかし、ここに私たちの心を探り、私たちの心を知っておられる方がおられる。この方にすべてをゆだね、私の心を調べ、その思い煩いを知ってもらわなければなりません。そして、とこしえの道に導いていただくことです。そのお方とはだれでしょうか。それは、私たちの主イエス・キリストです。
黙示録2章23節には、復活の主がフィラデルフィアの教会に書き送った手紙がありますが、その中にこうあります。「また、この女の子どもたちを死病で殺す。こうしてすべての教会は、わたしが人の思いと心を探る者であることを知る。わたしは、あなたがたの行いに応じて一人ひとりに報いる。」
ここに、「こうしてすべての教会は、わたしが人の思いと心を探る者であることを知る」とあります。イエス・キリストは人の思いと心を探られる方です。人の心を造り変えることがおできになる方です。宇宙一の名医、文字通り、神の手を持つ医者なのです。この方の手にかかれば、何よりもねじ曲がった、何よりも陰険で、何よりもとらえ難くやんでいる、どんなものよりも偽るあなたの心も癒していただけるのです。だからこの方に信頼しなければならないのです。
最後に、まとめとして、ニューヨークの風船売りの話をして終わります。彼は、まず白い風船を空中に浮かばせ、赤や黄色の風船も次々と浮かばせました。しばらくすると、子どもたちが集まって来ました。ところが、風船を見つめていた黒人の少年が聞きました。「おじさん、黒い色の風船も空中に浮かぶ?」すると風船売りは少年を見つめて言いました。「もちろんだよ。風船が空中に浮くのは色ではなく、中に入っているガスのおかげだから。」
同じように、人は心が美しいなら、外見に関わりなくすばらしい人生を生きることができます。人生の祝福は、あなたの心にかかっているのです。あなたの心が肉なる者を自分の腕とし、主から離れている人はのろわれますが、主に信頼するなら祝福されます。その人は、水のほとりに植えられた木のようになるのです。流れのほとりに根を伸ばし、暑さが来ても暑さを知らず、葉は茂って、日照りの年にも心配なく、実を結ぶことをやめません。そのような祝福に満ち溢れた人生を歩ませていただきましょう。

主は生きておられる エレミヤ書16章1~21節主は生きておられる 


聖書箇所:エレミヤ書16章1~21節(エレミヤ書講解説教34回目)
タイトル:「主は生きておられる」
きょうは、エレミヤ書16章から学びたいと思います。タイトルは「主は生きておられる」です。14~15節をご覧ください。
「それゆえ、見よ、その時代が来る─主のことば─。そのとき、もはや人々は『イスラエルの子らをエジプトの地から連れ上った主は生きておられる』と言うことはなく、ただ『イスラエルの子らを、北の地から、彼らが散らされたすべての地方から上らせた主は生きておられる』と言うようになる。わたしは彼らの先祖に与えた彼らの土地に彼らを帰らせる。」
「そのとき」とは、イスラエルの子らが、北の地、これはバビロンのことですが、バビロンから彼らの土地に帰るときのことです。そのとき、彼らは「主は生きておられる」というようになります。それはイスラエルの子らだけではありません。19節には諸国の民とありますが、これは異邦人のことです。それを見た異邦人も、自分たちが先祖から受け継いだものは何の役にも立たない空しいものばかりであり、そのような神は神ではない。真の神はイスラエルの神、主であることを知るようになるというのです。
Ⅰ.主を捨てたイスラエル(1-13)
 まず、1~9節をご覧ください。「1 次のような主のことばが私にあった。2 「あなたはこの場所で、妻をめとるな。息子や娘も持つな。」3 まことに主は、この場所で生まれる息子や娘について、また、この地で彼らを産む母親たちや、彼らをもうける父親たちについて、こう言われる。4 「彼らはひどい病気で死ぬ。彼らは悼み悲しまれることなく、葬られることもなく、地の面の肥やしとなる。また、剣と飢饉で滅ぼされ、屍は空の鳥や地の獣の餌食となる。」5 まことに主はこう言われる。「あなたは、弔いの家に入ってはならない。悼みに行ってはならない。彼らのために嘆いてはならない。わたしがこの民から、わたしの平安を、また恵みと、あわれみを取り去ったからだ─主のことば─。6 この地の身分の高い者や低い者が死んでも葬られず、だれも彼らを悼み悲しまず、彼らのために身を傷つけず、髪も剃らない。7 死者を悼む人のために、葬儀でパンが裂かれることはなく、父や母の場合でさえ、悼む人に慰めの杯が差し出されることもない。8 あなたは弔いの宴会の家に行き、一緒に座って食べたり飲んだりしてはならない。」9 まことに、イスラエルの神、万軍の主はこう言われる。「見よ。わたしはこの場所から、楽しみの声と喜びの声、花婿の声と花嫁の声を絶えさせる。あなたがたの目の前で。あなたがたが生きているうちに。」」
何のことを言っているのか訳の分からないような内容です。私たちは、13章で、主がエレミヤに亜麻布の帯を買ってそれを腰に締めるように、そして、その帯をユーフラテス川の岩の割れ目に隠しておくようにと命じたことを学びました。覚えていらっしゃいますか。エレミヤがその通りにすると、その帯はどうなりましたか。腐ってボロボロになりました。ボロボロの帯です。それはイスラエルの姿を現わしていました。エレミヤはそれを自分の行動をもって現わしたのです。これを行動預言と言います。きょうの箇所でもエレミヤは行動を通して語るように命じられています。ここでエレミヤは三つのことを命じられました。
第一のことは、妻をめとるな、ということです。2節にあります。「あなたはこの場所で、妻をめとるな。息子や娘も持つな。」どういうことでしょうか。結婚するなということです。エレミヤの時代は結婚することは普通のことでした。特に旧約聖書を信じていたユダヤ人にとって、「生めよ、増えよ、地を満たせ」とか、「あなたの子孫を海の砂、星の数のようにする」という約束の実現のためにも、結婚することが祝福だと考えられていました。それなのに、ここで主はエレミヤに「あなたはこの場所で、妻をめとるな、息子や娘も持つな。」と言われました。どうしてでしょうか。
その理由が3節と4節にあります。「3 まことに主は、この場所で生まれる息子や娘について、また、この地で彼らを産む母親たちや、彼らをもうける父親たちについて、こう言われる。4 「彼らはひどい病気で死ぬ。彼らは悼み悲しまれることなく、葬られることもなく、地の面の肥やしとなる。また、剣と飢饉で滅ぼされ、屍は空の鳥や地の獣の餌食となる。」」
子どもをもうけても、その子どもが虐殺されることになるからです。具体的には、バビロンがやって来て略奪するとき、その子どもたちは病気で死んだり、剣と飢饉で滅ぼされることになります。こうした悲惨な目に遭うなら、むしろ子どもを生まないほうがましだというのです。
第二に、主がエレミヤに言われたのは、弔いの家に入ってはならない、悼みに行ってはならない、ということでした。つまり、葬式に参列してはならないと言われたのです。5節にこうあります。「まことに主はこう言われる。「あなたは、弔いの家に入ってはならない。悼みに行ってはならない。彼らのために嘆いてはならない。わたしがこの民から、わたしの平安を、また恵みと、あわれみを取り去ったからだ─主のことば─。」
葬式は、いわゆる人生における大切な儀式です。当時、喪中の家に行かないことは、隣人に対する無関心と考えられていました。その葬式に行ってはならないというのです。どうしてでしょうか。それは5節の後半にあるように、これはただの死ではないからです。神のさばきによる死だからです。神がこの民から恵みとあわれみを取り去られました。そのそばきによる死がありにも多すぎて、彼らの死を悲しむ者がだれもいなくなるのです。
第三に、神はエレミヤに結婚式などの祝宴に出るなと言われました。9節です。「まことに、イスラエルの神、万軍の主はこう言われる。「見よ。わたしはこの場所から、楽しみの声と喜びの声、花婿の声と花嫁の声を絶えさせる。あなたがたの目の前で。あなたがたが生きているうちに。」それらの喜びが、一瞬にうちに取り去られるようになるからです。
いったい何が問題だったのでしょうか。それは、10節と11節にあるように、彼らの先祖が主を捨て、ほかの神々に従い、これに仕え、これを拝み、主を捨てて、主の律法を守らなかったことです。皆さん、主を捨てることが罪です。彼らの先祖も、彼ら自身も主を捨てて、ほかの神々に仕えました。主を捨てることが罪なのです。
日本語のことわざに、「捨てる神あれば拾う神あり」ということわざがあります。自分に愛想をつかして相手にしてくれない人もいる反面、親切に助けてくれる人もいる。だから、困ったことがあっても、くよくよするなという意味です。これは、日本は八百万の神、神道の国だからこそ存在することわざと言えるでしょう。あなたを捨てる神があれば、あなたを拾う神もある。でも実際は逆です。神があなたを捨てるのではなく、あなたが神を捨てるのです。人間の方が八百万もある神々の中から都合のいい神を拾って、それでご利益がなく何のメリットもなければ捨ててしまうのです。
エレミヤの時代もそうでした。イスラエルの神、主と他の神々を天秤にかけ、自分たちにメリットをもたらしてくれる神を選り好みして拝んだり、必要なくなったら捨てたり、必要であればまた拾ったりしていたのです。忙しいですね。神々の方もたまったもんじゃありません。捨てられたり、拾われたりと、人間様のご都合によってあしらわれるわけですから。
でも、主を捨てるということがどんなに恐ろしい罪か。彼らの先祖たちは、約束の地カナンに入ったときに既に教えられていました。ヨシュア記24章20節にこうあります。「あなたがたが主を捨てて異国の神々に仕えるなら、あなたがたを幸せにした後でも、主は翻って、あなたがたにわざわいを下し、あなたがたを滅ぼし尽くす。」
これは、イスラエルの民が約束の地に入ったばかりの時に語られたことばです。約800年も前にちゃんと警告されていたのです。もし主を捨てて他の神々に仕えるなら、あなたがたを幸せにした後でも、あなたがたにわざわいを下し、あなたがたを滅ぼすと。それがアッシリヤ捕囚によって、またバビロン捕囚によって実現することになります。
主を捨てるということは最悪のことです。これ以上の罪はありません。これ以上の害はありません。南王国ユダの人たちは、これを、身をもって知ることになります。主を捨てるとはどういうことなのかを。信仰から離れてこの世の神に身をゆだねることがどんな弊害をもたらすことになるのか、この世の流れに従って行くことがどんなに悪く、苦々しいことなのかを知るようになるのです。
それは具体的には律法を守られないこと、主のみことばを守らないことです。主のみことばに従わないことです。主を捨てるとは、すなわち、主のみことばに従わないことなのです。このように考えると、これは何もエレミヤの時代のユダの民だけの問題ではありません。これは私たちにも問われていることです。というのは、私たちは主のことばに従わないことが多いからです。私たちはしょっちゅう主を捨てていることになります。ですから、これは私たちとかけ離れた問題ではないのです。むしろ、日常茶飯事に犯している罪と言えるでしょう。いったい何が問題だったのでしょうか。
12節をご覧ください。ご一緒に読みましょう。「さらに、あなたがた自身が、自分たちの先祖以上に悪事を働き、しかも、見よ、それぞれ頑なで悪い心のままに歩み、わたしに聞かないでいる。」
ここには「自分たちの先祖以上に悪事を働き」とありますが、これは、ヒゼキヤ王の子マナセから始まった偶像礼拝のことを指しています。マナセ王はこのエレミヤの時代から50年ほど前に南ユダを治めた王ですが、南ユダ史上最悪の王でした。彼についてはⅡ歴代誌33章1~9節にあるので後で確認していただけたらと思いますが、主がイスラエル人の前から追い払われた異邦の民の忌みきらうべきならわしをまねて、主の目の前に悪を行ないました。しかし、このエレミヤの時代のユダの民は、そのマナセよりも悪事を働いていたのです。もう手のつけようがありませんでした。しかも、頑なで悪い心のままに歩んでいました。つまり、問題は彼らの心だったのです。頭の問題ではなく心の問題です。これが主に聞き従えなくしていたのです。英語のKJV(King James Version:欽定訳聖書)では、この頑な心を「imagination」(イマジネーション)と訳しています。「思い」ですね。ハート(心)というよりイマジネーション(思い)です。これがいろいろな情報によって歪められて偶像化し、一つのイメージが出来上がり、結果、神から離れていくようになり、主を捨てることになりました。主のみことばに聞き従いたくないのも、問題はこの心が頑なだったからです。だから、パウロはローマのクリスチャンたちに何と勧めたかというと、この思いを一新しなさいと言いました。ローマ12章1~2節です。 「1 ですから、兄弟たち、私は神のあわれみによって、あなたがたに勧めます。あなたがたのからだを、神に喜ばれる、聖なる生きたささげ物として献げなさい。それこそ、あなたがたにふさわしい礼拝です。2 この世と調子を合わせてはいけません。むしろ、心を新たにすることで、自分を変えていただきなさい。そうすれば、神のみこころは何か、すなわち、何が良いことで、神に喜ばれ、完全であるのかを見分けるようになります。」
ここでは「心を新たにすることで」とありますが、それはこの「思いを新たにすること」「思いを一新すること」です。思いを一新することによって、神のみこころは何かを知ることができます。神に喜ばれることは何か、何が完全であるのかを見分けることができるようになるのです。その助けになるのが神のことばです。神のことばによって私たちの思いが一新することによって、そこから良いものが生まれてくるからです。
あなたの心はどうでしょうか。石のように頑な、頑固になっていないでしょうか。へりくだって神のことばを聞き、心と思いを一新させていただきましょう。そうすることで主のことばに従うことができるようになります。主を捨てるのではなく、主を愛する者になるのです。
Ⅱ.第二の出エジプト(14-18)
次に、14~18節をご覧ください。16節までをお読みします。「14 それゆえ、見よ、その時代が来る─主のことば─。そのとき、もはや人々は『イスラエルの子らをエジプトの地から連れ上った主は生きておられる』と言うことはなく、15 ただ『イスラエルの子らを、北の地から、彼らが散らされたすべての地方から上らせた主は生きておられる』と言うようになる。わたしは彼らの先祖に与えた彼らの土地に彼らを帰らせる。」
エレミヤはこれまで行動預言を通して南ユダの真っ暗な闇を預言してきましたが、ここで希望を語ります。14節の「それゆえ、見よ、その時代が来る。」とは、希望的未来預言を語る時のことばです。エレミヤ書にはこの表現が15回出てきます。ここでエレミヤはどんな希望を語っているのでしょうか。その後にこうあります。
「そのとき、もはや人々は「イスラエルの子らをエジプトから連れ上った主は生きておられる」と言うことはなく、」
どういうことでしょうか。「そのとき」とは、イスラエルの子らがバビロンから解放されるときのことです。バビロンから帰還させられる時です。そのとき、もはや人々は「イスラエルの子らをエジプトから連れ上った主は生きておられる」と言うことはありません。なぜ?なぜなら、そのときは、あの出エジプトの出来事と比べることができないくらい偉大な出来事だからです。皆さん、出エジプトといったらものすごい出来事でした。イスラエルの民は400年もの間エジプトの奴隷して捉えられていましたが、主はそこから彼らを救い出してくださいました。それが出エジプトの出来事です。すばらしい主の救い、解放の御業を成されました。エレミヤの時代から遡ること約900年前のことです。
しかし、これから主が成そうとしていることは、その過去の偉大な出エジプト以上の、それをはるかにしのぐ解放の御業なのです。15節には、それがこのように表現されています。「ただ『イスラエルの子らを、北の地から、彼らが散らされたすべての地方から上らせた主は生きておられる』と言うようになる。わたしは彼らの先祖に与えた彼らの土地に彼らを帰らせる。」          「北の地から」とは、もちろん北海道のことではありません。バビロンのことです。彼らはバビロンに捕囚の民として連れて行かれることになりますが、その70年の後に、主はそのバビロンから彼らを連れ上り、彼らの先祖たちに与えた土地に帰らせるというのです。そのとき彼らは、何と言うようになるでしょう。彼らは「イスラエルの神、主は生きておられる」と言うようになります。
ですから、これはバビロンからの帰還の約束が希望として語られているのです。それほど偉大な出来事であると。彼らがバビロンに捕え移されたのは、永遠の悲劇ではありませんでした。この悲劇は、悲劇として終わりません。絶望で終わりません。希望で終わるものだと言っているのです。この希望があまりにもすばらしいので、かつてイスラエルの子らがエジプトから救い出されたあの大いなる救いの出来事、出エジプトでさえ色あせてしまうほど、すばらしい出来事なのです。ですから、これは第二の出エジプトと言えるでしょう。でも新約時代に生きる私たちにとっては。それすら大したことではありません。なぜなら、私たちはイエス・キリストによる罪からの解放を知っているからです。これこそ真の第二の出エジプトなのです。それと比べたらあのモーセによる出エジプトも、第二の出エジプトと言ってもいいこのバビロンからの解放も大したことはありません。それはただのひな型にすぎないからです。イエス・キリストによる罪からの救いこそ、出エジプトの究極的な出来事なのです。これ以上の救いの御業はありません。
しかし、エレミヤの時代においては、出エジプトの出来事はすごいことでした。偉大な出来事だったのです。でもバビロンからの解放、バビロンからの救いはもっとすごかった。それは出エジプトの記憶が薄れ、民は「イスラエルの子らを北の地から、彼らが散らされてすべての地方から上らせた主は生きておられる」と言うようになるほどの偉大な御業だったのです。つまり、あの時もすごかったけど、このときの方がもっとすごいということです。
アブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神は、あなたの神でもあります。その神は今も生きておられます。その神はあなたのために十字架で死なれ、三日目によみがえられることで、あなたをすべての罪から解放してくださいました。その方は今も生きておられるのです。今あなたを生き地獄からも救ってくださいます。あなたを罪の束縛から、バビロン捕囚から解放してくださるのです。何というすばらしいことでしょうか。その希望がここで語られているのです。
皆さん、将来への希望があるなら、人はどんな苦難をも乗り越えることかできます。あなたはどのような希望を持っていますか。神様はあなたにもこの希望を与えておられます。あの出エジプトの出来事よりもはるかにすばらしい救いの希望、イエス・キリストの十字架と復活によってもたらされた永遠のいのちの希望です。この希望は失望に終わることはありません。なぜなら私たちに与えられた聖霊によって、神の愛が私たちの心に注がれているからです。今世界が一番必要としているのは希望です。神はその希望をあなたに与えてくださるのです。希望がないのではありません。確かに希望はあります。問題は希望がないことではなく、希望を失っていることです。希望を失っている人々があまりにも多いということです。神様はここでイスラエルに回復の希望を語られました。私たちもイスラエルのように罪のゆえにバビロンに捕えられるかもしれませんが、しかし、覚えておいてください。それはあなたを永遠の罪に定めるためではないということを。永遠の罪に定めるための悲劇ではないのです。この悲劇は悲劇で終わらないのです。この悲劇は希望で終わるものなのです。それを経験するときあなたもこう言うようになるでしょう。「主は生きておられる」と。
しかし、その前に、罪に対するさばきが行われなければなりません。16~18節にそのことが記されてあります。「16 見よ。わたしは多くの漁夫を遣わして─主のことば─彼らを捕まえさせる。それから、わたしは多くの狩人を遣わして、あらゆる山、あらゆる丘、岩の割れ目から彼らを捕らえさせる。17 わたしの目は彼らのすべての行いを見ているからだ。それらはわたしの前で隠れず、彼らの咎もわたしの目の前から隠されはしない。18 わたしはまず、彼らの咎と罪に対し二倍の報復をする。彼らがわたしの地を忌まわしいものの屍で汚し、忌み嫌うべきことで、わたしが与えたゆずりの地を満たしたからである。」」
神様は敵をあらゆる場所に送り込み、彼らを用いてさばきを行います。その様が、漁夫が網を打ってさかなを捕るさまと、狩人が獲物を獲るさまにたとえられています。神のさばきを免れる者は一人もいないということです。アッシリヤとかバビロンはその道具として用いられるわけです。人は種を蒔けば、その刈り取りをするようになります。しかし、忘れないでください。そんな者でも神様は救ってくださるということを。それで終わりではありません。そこからの回復の希望があります。神のあわれみは尽きることはないのです。
Ⅲ.異邦人までも主を知るようになる(19-21)
最後に、19~21節をご覧ください。「19 「主よ、私の力、私の砦、苦難の日の私の逃れ場よ。あなたのもとに、諸国の民が地の果てから来て言うでしょう。『私たちの父祖が受け継いだものは、ただ偽りのもの、何の役にも立たない空しいものばかり。20 人間は、自分のために神々を造れるだろうか。そのようなものは神ではない』と。」21 「それゆえ、見よ、わたしは彼らに知らせる。今度こそ彼らに、わたしの手、わたしの力を知らせる。そのとき彼らは、わたしの名が主であることを知る。」」
これは、驚くべき神のあわれみの宣言です。イスラエルの民の回復が、異邦人の回心、異邦人の救いにつながるということが語られています。19節の「諸国の民が」は、異邦人を指しています。イスラエルの民がバビロンから解放されるのを見た異邦の民が主のもとにやって来てこう言うようになるのです。「私たちの父祖が受け継いだものは、ただの偽りもの、何の役にも立たない空しいものばかり。人間は、自分のために神々を造れるだろうか。そのようなものは神ではないと。」すごいですね。異邦人が自分たちの偶像礼拝の空しさ、愚かしさに気付いて、本物の神、生きている神に立ち返るようになるということです。
「私たちの父祖が受け継いだもの」とは、偶像のことです。それはただの偽りのもので、何の役にも立たない空しいものだ、そのようなものは神ではない、と言うようになるのです。
日本人であれば、父祖から受け継いだものに仏壇がありますが、これは徳川時代に押し付けられたものにすぎません。すべての家には檀家制度が強いられ、そして寺請制度によってどの家にも仏壇が置かれるようになりました。どの家でも死者が出たら仏式で葬式を行わなければならないようにしてキリシタンを締め出そうとしたのです。ただそれだけの理由で強制的に置かれたのです。信仰なんて全く関係なく、先祖たちから受け継いだものにすぎません。形だけです。しかも「仏様」はご先祖様ではありません。仏様とは本尊のことです。ですから、仏壇に手を合わせるというのは、先祖に手を合わせることではなく、そこに祀られている仏様、本尊に手を合わせることなのです。しかし、その本尊は息のないただの偶像にすぎません。仏壇を大切にしないのはご先祖様を大切にしないことというのは嘘です。お坊さんに聞いてもらうとわかります。そこにご先祖様なんて祀られていませんから。それはただの偽りもの、何の役にも立たない空しいものであり、そのようなものは神ではありません。
エレミヤの時代、そうした周辺諸国の民、異教徒たちが、イスラエルがバビロンから解放されたという驚くべき事実を知り、真の神を求めるようになります。
イスラエルの民は自らの悪い心のゆえに主を捨て、偶像礼拝をし、その結果、神にさばかれてすべてを失い、祖国を失い、バビロン捕囚の民となりました。でも、そのバビロンで70年という期間が終わったとき、驚くべきことに、主は彼らを解放し、祖国に帰してくださいました。神様しかできない御業を成されたのです。
そして今度は、それを目の当たりにした周辺諸国の民はただ驚き、本当にイスラエルの神は生きておられる。自分たちの偶像はこの神と比べたら何の役にも立たないただの造形物にすぎない。しかしイスラエルの神はそうではない。祖国を失ったイスラエルをバビロンから解放し、彼らの土地に帰らせてくださった。これは神にしかできないこと。まさに神業です。イスラエルの主は生きておられる、と認めたのです。皆さん、これが生きた証です。
主はあなたを通してこのような生きた証をなさりたいのです。主はなぜ私にこんな仕打ちをされるのか。なぜこんなにつらい目に遭わせるのか、なぜこんな厳しい扱いをされるのか、と思うことがあるかもしれません。でも、そのようなことを通してまだイエス様を知らない周囲の人たちが、「主は生きておられる」と言うようになるのです。彼らも、自分たちが信じてきた、すがって来た、先祖たちから受け継いだものが空しいものばかり、何の役にも立たないと言うようになります。神は本当にいらっしゃる。聖書の神は本物だというようになるのです。そのような驚くべき主の御業が、あなたを通してもなされるのです。ハレルヤ!すばらしいですね。それが自分の罪の結果通らざるを得なかった悲惨な生涯であっても、です。また、クリスチャンであるがゆえに理不尽な扱いを受けたものであったとしても、です。どのような形であれ、主はそれを用いてあなたを生きた証人とし、あなたの周りの人たちが神を知るようにしてくださるのです。神様のご計画は何とすばらしいでしょうか。そのために主はあなたをちゃんと守ってくださいます。捕囚から解放に至るまであなたを捉えていてくださいます。その苦しみを乗り越えさせてくださる。だからあきらめないでください。捕囚になったらもうだめだ、もう絶望だと言わないでください。主の前にへりくだって、この捕囚はいつか必ず終わるんだ、こういう辛い時がいつまでも続くことはないと信じていただきたいのです。
有名なⅠコリント10章13節のみことばにこうあります。「あなたがたが経験した試練はみな、人の知らないものではありません。神は真実な方です。あなたがたを耐えられない試練にあわせることはなさいません。むしろ、耐えられるように、試練とともに脱出の道も備えていてくださいます。」
アーメン!神様はあなたを耐えられない試練に会わせるようなことはなさいません。むしろ、耐えられるように、試練とともに脱出の道も備えていてくださいます。すばらしいですね。それは気休めで言っているのではありません。きょうのみことばにあったように、神様はもう既に先取して回復の希望を御言葉の中でちゃんと約束しておられるからです。ですから、私はこれを信じますと、受け入れるだけでいいのです。それが自分の招いたことであろうと、そうでないものであろうと、どちらにしても、主は最後まであなたが耐えられるように守ってくださいますから。最後まで通り抜けることができるように、最後まで乗り越えることができるように、最後まで打ち勝つことができるように、ちゃんと取り計らってくださる。その後で、私たちは変えられて金のように精錬されて出て来て、主の生きた証人とされるのです。あなたを見る者が「主は生きておられる」と言うようになります。偶像礼拝をしていた異教徒が「イスラエルの主はまことの神だ」といつの日かそう信仰告白する日がやってくるのです。
主はあなたにあの出エジプト以上のことをしてくださいます。それは救いの喜びに戻ってくるどころじゃない、さらなる喜びで増し加えてくださいます。あなたを罪から救ってくださった主は生きておられます。そして今もあなたを通してすばらしい御業を成しておられると信じて、このみことばの約束、回復の希望に堅く立ち続けていきたいと思います。

堅固な青銅の城壁とする エレミヤ書15章15~21節堅固な青銅の城壁とする 

聖書箇所:エレミヤ書15章15~21節(エレミヤ書講解説教33回目)
タイトル:「堅固な青銅の城壁とする」
きょうは、エレミヤ書15章後半から、「堅固な青銅の城壁とする」というタイトルでお話します。20節に「この民に対して、わたしはあなたを堅固な城壁とする。彼らは、あなたと戦っても勝てない。わたしがあなたとともにいて、あなたを救い、あなたを助け出すからだ。」とあります。
前回のところでエレミヤは自分の運命を嘆き、生まれて来たことを後悔したほどでした。それはエルサレムの滅亡という極めて残酷で悲惨な預言を、ユダの民に語らなければならなかったからです。そして、それを語ったとき国中が彼を憎み、彼に敵対したからです。なぜそんな仕打ちを受けなければならないのか。何とも理不尽な話です。
それに対して主は、こう言われました。11節です。「必ずわたしはあなたを解き放って、幸せにする。必ずわたしは、わざわいの時、苦難の時に、敵があなたにとりなしを頼むようにする。」
アーメン!すばらしい約束ですね。主はわざわいの時、苦難の時の助け、生きる道です。四方八方から苦しめられることがあっても窮することはありません。主は必ず彼を解き放って、幸せにすると約束してくださいました。もうこれで十分でしょう。
しかし、エレミヤはそれで解決しませんでした。ここで彼は再び神に不平をもらしています。それが15~18節の内容ですが、それに対する神の答えが、この「わたしはあなたを堅固な青銅の城壁とする」ということでした。
 私たちはクリスチャンになって予期せぬ出来事、試練に直面すると、「主よ、どうしてですか」と問いかけたくなることがあります。きょうの個所で、エレミヤはまさにそのような気分になっていました。そして神を疑い、神に不平をもたらしたのです。しかし神はそんなエレミヤを受け入れ、ご自身のもとに帰らせ、この約束のことばを与えてくださったのです。きょうは、この主の約束のことばから、共に主の励ましと慰めを受けたいと思います。
Ⅰ.エレミヤのつぶやき(15-18)

 まず、15~18節をご覧ください。「15 「主よ、あなたはよくご存じです。私を思い起こし、私を顧み、迫害する者たちに、私のために復讐してください。あなたの御怒りを遅くして、私を取り去らないでください。私があなたのためにそしりを受けていることを知ってください。16 私はあなたのみことばが見つかったとき、それを食べました。そうして、あなたのみことばは、私にとって楽しみとなり、心の喜びとなりました。万軍の神、主よ、私はあなたの名で呼ばれているからです。17 私は、戯れる者がたむろする場に座ったり、喜び躍ったりしたことはありません。私はあなたの御手によって、ひとり座っていました。あなたが私を憤りで満たされたからです。18 なぜ、私の痛みはいつまでも続き、私の打ち傷は治らず、癒えようもないのでしょう。あなたは、私にとって、欺く小川の流れ、当てにならない水のようになられるのですか。」」
これは、エレミヤの祈りです。この祈りも実に正直で、ストレートな祈りです。自分の感情を露わにして、言葉で飾るようなことはしていません。自分の思いの丈をぶつけるような祈りです。
15節には、あなたのために私はそしりを受けていますと言っています。あなたのみことばをストレートに語ったばかりに、私はみんなから非難されているのです、憎まれているのです、と訴えています。
16節をご覧ください。彼はみことばが見つかったとき、それを食べました。「食べる」というのはおもしろい表現ですね。まさに自分の舌で味わったということです。ただ聞くだけでなく、それが自分の一部になるほど吸収したのです。そしたら、それは彼にとって楽しみとなり、心の喜びとなりました。皆さんも体験しているでしょう。神のみことばが、楽しみとなり、喜びとなります。リビングバイブルでは「有頂天となった」と意訳していますが、そういう意味です。原語では、「心の喜びとなり」は、飛んで、跳ねて、踊って喜ぶというエキサイティングな喜びの様を表していますから。みことばを食べたそのあまりの美味しさに、そしてそれが自分の身になって、それによって生きることがあまりにも楽しくて、もう小躍りするくらいエキサイティングな人生だというのです。それが聖書のことばです。すばらしいですね。あなたはどうですか?神のことばが、あなたにとって楽しみとなり、心の喜びとなっているでしょうか。
でもそれは患難や苦難や試練が無くなるということではありません。神のみことばを食べて、それを楽しみ、小躍りして喜んでも、患難や苦難、試練があなたを襲うことがあります。人々から疎(うと)まれたり、バカにされたり、憎まれたり、蔑まれたりすることが。でも違うのは、そのような中に置かれても、みことばがあなたを支えてくれるということです。エレミヤは神のみことばによって支えられていました。彼が神のみことばを食べて、喜んで、心の楽しみを味わっていなければ、簡単に潰れていたでしょう。
それは私たちにも言えることです。みことばを食べて、みことばを味わい、みことばを楽しみ、みことばを心の喜びとしていなければ、ちょっとしたことで潰れてしまうことになります。もういいです!もう止めます!教会に行くのを止めます!クリスチャン止めます!人生止めます!となってしまいます。まさに砂の上に建てられた家のようです。雨が降って洪水が押し寄せ、風が吹いてその家に打ち付けると、倒れてしまいます。しかもその倒れ方はひどいものでした。しかし、岩の上に建てられた家は違います。雨が降って洪水が押し寄せ、風が吹いてその家を襲っても、ビクともしませんでした。岩の上に建てられていたからです。その岩とは何でしょうか。それは、イエス様のみことば、神のみことばです。イエス様のことばを聞いて、それを食べ、それを楽しみ、それを喜ぶ人は、岩の上に建てられた家のように、どんな嵐が襲っても倒れることはありません。
それでも、エレミヤは傷ついていました。主のみことばを食べ、それを楽しみ喜んでも、心が晴れなかったのです。それで彼は言ってはならないことを言います。18節です。「なぜ、私の痛みはいつまでも続き、私の打ち傷は治らず、癒えようもないのでしょう。あなたは、私にとって、欺く小川の流れ、当てにならない水のようになられるのですか。」
これはどういうことかというと、「あなたは噓つきだ!」ということです。エレミヤは神様に対して、あなたは嘘つきじゃないですか。なぜ私はこんな目に遭わなければならないのですか。あなたは約束されたじゃないですか。あなたはいのちの水の泉だと。でもあなたに頼っても、欺く小川の流れじゃないですか。この「小川」とは、ワディと言われる水なし川のことです。この川は、雨季は氾濫することがありますが、乾季は干上がっていることが多いのです。当てにならない水とはそういうことです。あるようでない。あるように見せかけて実際にはありません。エレミヤは、神をこの当てにならない小川にたとえたのです。当てになるいのちの水の泉だと思ったのに、何の役にも立たないじゃないですか。祈っても答えてくれない。何にも変わらない。全くの期待はずれです。いや、嘘つきです、そう言ったのです。皆さん、どう思いますか。なかなか言えないことです。神様に対して「あなたは嘘つきだ」なんて。確かにエレミヤはかなり混乱していました。感情的にも取り乱していました。疑心暗鬼にもなっていました。でもエレミヤは神に対して正直でした。自分の思いの丈を正直に訴えたのです。本当にあなたをこのまま信頼し続けていていいんですかと。私たちもこのようなことがあります。祈っても、祈っても答えられないとき、落ち込んだり、苛立ったり、腹を立てたり、ムカついたりすることが。でもエレミヤのようにそれを正直に、ストレートに神に訴えることがなかなかできません。隠してしまいます。もう相手を赦せない、憤りや怒りでいっぱいなのに、それを押し殺して、敬虔に祈らなければならないと思っているのです。
「主よ、あの人からこんなことを言われて心を痛めています。このような目に遭って非常に苦しんでいます。でも、私は何としてもあなたのみことばに従ってあの人を赦し、あの人を愛し、あの人のために祈りたいと願っています。主よ、どうか、あなたの力を与えてください。あなたの聖霊を注いでください。アーメン」
すばらしい祈りだと思います。でも本音はどうかというと、憎らしいのです。赦せないのです。ムカついてムカついてしょうがないのです。それなのに、時に私たちは心にないことを言ってしまうことがあります。それを何というかというと「偽善」と言います。偽善的にはなりたくないと思っていますが、でも自分を騙して、自分を欺いて美辞麗句を並べ、いかにも敬虔なふりをしていることがあるのです。でも内心はもう腹が立って、赦す気などみじんもありません。でも一応クリスチャンだから、そう祈っておかないといけないから、表面的に祈るわけです。でもそれは口先だけの祈りにすぎません。ただきれいな言葉を並べているだけです。でも神様はあなたの心の中を全て知っておられます。だからわざわざ自分を偽る必要はないのです。あなたの正直な気持ちを神様にぶつけていいんです。なかなか祈れないという人は、正直になっていないからです。何かいいことを言わなければならないと思っているのです。なんか高尚なこと、霊的なこと、敬虔なことを祈らなければならないと思っています。聖書的な言葉使いをしなければならないと思っている。そういう祈りじゃないと聞かれないと思っています。他の人の前でも、そんな感情を露わになんてできないので自分の本音で祈れないのです。だから、祈りが自分のものにならないというか、身近に感じられないのです。どうしても構えてしまいます。なかなか正直になれなくて、偽りのもう一人の自分が祈っているかのような、そんな二重人格の感覚さえ抱いてしまうのです。でも、主はすべてをご存知であられます。敬虔なふりなんてする必要がありません。カッコつける必要もない。エレミヤのように正直に神様にぶつけていいのです。
1993年と2000年に、私は韓国に行く機会がありました。韓国の教会では、こういう祈りが多かったと思います。当時ホーリネス系の教会では世界で一番大きいと言われていたソウルにある光林教会では大きな祈祷院を持っていて、そこに宿泊していたのですが、人々が徹夜祈祷のために毎晩のようにやって来るのです。何を祈っているのかわかりませんが、犬の遠吠えのように「チュよ、チュよ」と泣きながら祈っているのです。私も隣の部屋で祈っていましたが、うるさくて祈れないのです。担当の牧師にそのことをお話したら、その場合はこうするといいですよと教えてくれました。それは、その声に負けないようにもっと大きな声で祈ることですと。韓国人はそういう国民性なんですかね。韓国の方はとてもよくおもてなしをしてくれますが、祈る時は他の人は関係ありません。祈りの内容が正しいかどうかも気にしません。あまり・・・。自分の率直な思いを神様にぶつけているという感じでした。当時、世界で最も大きな教会と言われていたヨイドの純福音教会で行われていた徹夜祈祷会に行った時は驚きました。礼拝形式で集会が持たれると、その後で自由な祈りの時が持たれるのですが、多くの兄姉が「チュよ、チュよ」と講壇にひざまずいて祈るのです。飢えた魚がえさを求めるように。あれは祈りを越えていました。叫びです。周りの人がどう思うかなんて関係ないのです。自分の率直な思いをありのままにぶつけていました。
それでいいんです。というのは、このエレミヤの不平不満、疑い、つぶやきに対して、主は愛をもって応えておられるからです。そんな私を疑うなんてとんでもないヤツダ!とか、もうお前のような者はわたしのことばを語る資格などない!とか、一切おっしゃっていません。むしろ主はそのように正直に訴えたエレミヤの祈りを喜んで受け入れてくれました。正直によく言ってくれた。だから、わたしも正直にあなたに答えようと。皆さん、これが祈りです。そこに生きた交わりがあります。本物のコミュニケーションがある。嘘、偽りがありません。正直に自分の思いを訴え、神の声を聞く。それが本物のコミュニケーションです。それがエレミヤと神とのコミュニケーションでした。祈りとは、まさにコミュニケーション(対話)ですね。それがこの中に見られるということです。
私たちはこのようなコミュニケーションを神様と取って来たでしょうか。それとも決まりきった美辞麗句を並べて、最後にイエス・キリストの名前で祈りますという通り一辺倒の祈りではなかったか。ただ台詞を読み上げているような祈り、作文をただ読み上げているような祈りで終わっていなかったでしょうか。それは祈りではありません。祈りはコミュニケーションですから。親の前で作文を読み上げる子どもはいません。直に会ったら自分の気持ちを正直に生身の人間に伝えます。勿論、なかなか言葉がうまく伝わらないということもあるでしょう。感情のもつれもあります。でも神様はすべてをご存知ですから、心配しなくていいです。たとえ言葉に出せなくても、どのように祈ったらよいかわからなくても、神の御霊がことばにならないうめきをもって、とりなしてくださいますから。
ローマ8章26節にそのように記されてあります。「同じように御霊も、弱い私たちを助けてくださいます。私たちは、何をどう祈ったらよいか分からないのですが、御霊ご自身が、ことばにならないうめきをもって、とりなしてくださるのです。」
 感謝ですね。ことばにならない祈りも、御霊ご自身が深いうめきをもって、とりなしてくださいます。そして、たとえあなたの祈りが的外れであったとしても、神の右の座におられるイエス様が、あなたの祈りをとりなしていてくださいます。ですから、安心して祈ることができます。あなたの正直な気持ちを祈ることができるのです。たとえそれが間違っていても、言葉が足りなかったとしても、言葉使いがおかしくても、感情が乱れて思わず勢いよく言ってしまったとしても、イエス様がちゃんととりなしてくださるのです。
ですから、決して神に対して不正直にならないでください。仮面を被ってごまかさなくてもいいのです。神様はすべてをご存知ですから。「主よ、もう我慢できません。あの人を赦すことができません。この人が憎らしいです。もう生理的に受け付けられません。もう一緒にいるのも嫌です。顔を見るのも嫌です。同じ空気を吸いたくないんです。」
でも、これで終わってはいけません。これを神に訴えるとはどういうことかというと、だから助けてください!ということです。自分で何とかうまく取り繕うとするのではなく、表面的に愛せるように、赦せるようにするということではなく、神に助けを求めるのです。神はあなたの本音を知っておられます。正直な気持ちを知っておられます。それをまず神にぶつけない限り何も始まりません。それを隠したままでことば巧みに自分自身を何か霊的な者であるかのように見せかけるというのは、神が忌み嫌うべきことなのです。
Ⅱ.わたしの前に立たせる(19)
次に、エレミヤの祈りに対する神の答えを見たいと思います。エレミヤは、「どうしてですか、主よ、私の痛みはいつまでも続き、私の傷は治らず、癒えようもないのでしょう。あなたは嘘つきです。あの欺く小川の流れ、当てにならない流れのようになられるのですか。」と赤裸々に訴えると、主はエレミヤにこう言いました。19節です。「それで、主はこう言われた。「もし、あなたが帰って来るなら、わたしはあなたを帰らせ、わたしの前に立たせる。もし、あなたが、卑しいことではなく、高貴なことを語るなら、あなたはわたしの口のようになる。彼らがあなたのところに帰ることがあっても、あなたは彼らのところに帰ってはならない。」
エレミヤのつぶやき、不平に対して主は、「もし、あなたが帰って来るなら、わたしはあなたを帰らせ、わたしの前に立たせる。」と言われました。これはエレミヤに対する悔い改めの促しです。それは彼が神を疑ったからではありません。神に本音で訴えたからではありません。そうではなく、主が「いのちの水の泉」(2:13)であるはずなのに「当てにならない小川の流れ」のようであることに対して失望していたからです。失望して信仰から滑り落ちそうになっていたからです。いっそのこと、民といっしょになったほうがよっぽど楽ではないかと思っていました。
そこで主は、「あなたが帰ってくるなら」と言われました。そこから帰って来るようにと促しているのです。10節では、自分なんて生まれて来ない方が良かったという自己憐憫に駆られていました。またここでは、それが疑いとなって現れていました。神は欺く小川のようなのか、だったらもう何も信じられない。そういう思いです。それは預言者として失格です。彼は預言者としての召命を失うところまで来ていました。これは、エレミヤの生涯で最大の危機でした。ですから、主は彼に「もし、あなたが戻って来るなら」と言われたのです。もし悔い改めるなら、神は彼を受け入れ、再びその職務に就かせてくださると。「わたしの前に立たせよう」とはそういう意味です。もしエレミヤが、神のことばを伝えるなら、彼は神の口のようになります。どうやって帰ったらいいかわからないという人もいるでしょう。でもここにはこうあります。「もし、あなたが帰って来るなら、私はあなたを帰らせ」。主が帰らせてくださいます。あなたが正直にありのままで主のもとに帰って来るなら、あなたがそのように決めれば、主が帰らせてくださいます。だから心配しないで、まず主の前に正直になることです。そして、主に立ち返ると決めることです。そうすれば、主はあなたを帰らせ、主の前に立たせてくださいます。主の前にはあなたは裸同然ですから、何も隠すものはありません。ですから、私たちに必要なことは隠すことではなく立ち返ることです。そうすれば、主があなたを帰らせ、主の前に立たせてくださいます。これが私たちに求められていることなのです。
毎週日曜日の礼拝で私たちは主の祈りをします。大切な信仰告白です。でも問題は、この告白の内容を信じることができずに、立ち止まってしまうとき、人生の重さに押さえつけられてこれ以上信じられないとき、エレミヤが経験したように信仰が崩れ落ちるのを経験するとき、一体これが何を意味するのかということです。深い疑いに陥ることがあります。そのようなとき、イエス様は「わたしはあなたがたのために祈ります」と語り掛けてくださいます。信仰が保たれるように、私たちの信仰が無くならないように、イエス様が私たちのために祈ってくださるのです。最後まで私たちは信じることができます。なぜなら、私たちのためにイエス様が祈ってくださるからです。私たちのためにイエス様が信じておられるからです。これは「驚くべき恵み」です。自分の信仰が実につまらなく、取るに足らないと感じるときがあります。まさにそのとき、あなたの信仰が無くならないように、あなたのために祈ってくださるキリストのリアリティーを体全体で知ることになります。このような経験こそ、あなたのたましいと体に、鳥肌の立つほどの最も大きな慰めとなるのです。
それから、ここにはもう一つ大切なことが教えられています。それは、「彼らがあなたのところに帰ることがあっても、あなたは彼らのところに帰ってはならない。」という言葉です。どういうことでしょうか。彼は神の代弁者として、民に影響を与えるはずであり、民に影響されるべきではないということです。
Ⅲ.堅固な青銅の城壁とする(20-21)
最後に主は、ご自身の下に帰ってくる者に対してもう一つの約束を与えておられます。20~21節をご覧ください。それは、主はあなたを堅固な青銅の城壁とするということです。「20 この民に対して、わたしはあなたを堅固な青銅の城壁とする。彼らは、あなたと戦っても勝てない。わたしがあなたとともにいて、あなたを救い、あなたを助け出すからだ。─主のことば─21 わたしは、あなたを悪しき者たちの手から救い出し、横暴な者たちの手から贖い出す。」
エレミヤは、民に対して堅固な青銅の城壁のようになります。「青銅の城壁とする」とは、1章18~19節でも語られた約束ですが、揺るぐことがない堅固な町とするという意味です。主はそれをエレミヤに重ねて言っているのです。主は彼を揺るぐことがない堅固な者とするということです。だれも彼と戦って勝つことはできません。なぜなら、主が彼ととともにいて、彼を救い、彼を助け出されるからです。主が救ってくださいます。自分で自分を救うのではありません。主が救ってくださいます。これほど確かな保証があるでしょうか。主が堅固な青銅の城壁としてくださるので、あなたは絶対に潰されることはない。倒れることはありません。ハレルヤ!あなたが今置かれた状況がどんなに耐え難いものであっても、主があなたを堅固な城壁としてくださるので、あなたは絶対に倒れることはありません。主がともにいて、あなたを救い出されるからです。
使徒パウロは、Ⅱコリント4章7~9節でこのように言っています。「私たちは、この宝を土の器の中に入れています。それは、この測り知れない力が神のものであって、私たちから出たものではないことが明らかになるためです。私たちは四方八方から苦しめられますが、窮することはありません。途方に暮れますが、行き詰まることはありません。迫害されますが、見捨てられることはありません。倒されますが、滅びません。」
この「宝」とはイエス・キリストご自身のこと、「土の器」とはパウロ自身のことです。「土の器」というと響きがいいですが、「の」を取ってしまうと、ただの「土器」です。私たちは皆「土器」にすぎません。本当に脆いものです。しかし、パウロはそんな土の器の中に宝を持っていると言いました。それは「測り知れない力」を与えてくれます。「測り知れない」とは、「常識では考えられない」という意味です。その宝こそイエス・キリストです。彼はこの宝を土の器に入れていたので、四方八方から苦しめられても窮することがなく、途方に暮れても、息詰まることがなく、迫害されても、見捨てられることなく、倒されても、滅びませんでした。
私たちの人生にはポッカリ穴が開くときがあります。そんな時、その開いた穴をじっと見て、嘆き悲しんで人生を送ることもできますし、その穴を見ないように生きることもできます。でも一番いいのは、その穴が開かなかったら決して見ることのできなかった新しい世界を、その穴を通してみることです。パウロの人生には、何度も大きな穴が開きました。しかし、パウロはその度ごとに、その新しい穴から、新しい希望を見つけることができました。「希望は必ずある。この開いた穴の向こうには、新しいチャンスが広がっているのだ」と信じて疑わなかったのです。
それは、私たちも同じです。私たちの人生にも突然穴が開くことがあります。思いがけないような出来事に遭遇します。「突然病気になった」あるいは、「事故に遭ってしまった」「会社が倒産した」「会社は大丈夫だけれども、自分が失業した」「愛する人を突然亡くした」というようなことがあります。
そのような時エレミヤのように、神様を当てにならない小川のようだと恨むのではなく、その苦しみを、その叫びを、あなたの心の奥底にある叫びを正直に神に打ち明け、だから助けてくださいと祈り求めなければなりません。そうすれば、主があなたを帰らせ、あなたを堅固な城壁としてくださいます。主があなたとともにいて、あなたを救い、あなたを助け出してくださいます。それはあなたという土の器の中に、測り知れない宝を持っているからです。主はあなたがどんな状況においても神を信頼することを期待しておられるのです。

転がしてあった石 マルコの福音書16章1~8節転がしてあった石 

聖書個所:マルコの福音書16章1~8節(P104)
タイトル:「転がしてあった石」

 復活の主イエス・キリストの御名を心から賛美します。きょうはイースターです。キリストの復活を記念してお祝いする日です。金曜日の午後に十字架の上で息を引き取られ、墓に葬られたイエスは、三日目の朝に、墓を破ってよみがえられました。何と不思議な、何と驚くべきことでしょうか。イエスが葬られていた墓は空っぽだったのです。墓の入り口をふさいでいた石は転がしてありました。先ほどお読みしたマルコ16章4節に「ところが、目を上げてみると、その石が転がしてあるのが見えた。」とあります。口語訳では、「ところが、目をあげて見ると、石はすでにころがしてあった。」と訳しています。石はすでに転がしてあったのです。
私たちの人生にも、私たちの心を塞ぐ石があります。でも私たちがイエスのみもとに行くなら、復活の主イエスがその石をころがしてくださいます。きょうは、この転がしてあった石についてご一緒に思い巡らしたいと思います。

 Ⅰ.だれが石を転がしてくれるか(1-3)

まず1~3節までをご覧ください。「1 さて、安息日が終わったので、マグダラのマリアとヤコブの母マリアとサロメは、イエスに油を塗りに行こうと思い、香料を買った。2 そして、週の初めの日の早朝、日が昇ったころ、墓に行った。3 彼女たちは、「だれが墓の入り口から石を転がしてくれるでしょうか」と話し合っていた。」

十字架で死なれたイエスのからだは、アリマタヤのヨセフによってまだだれも葬られたことのない新しい墓に埋葬されました。このアリマタヤのヨセフはイエスの弟子でしたが、ユダヤ人を恐れてそれを隠していました。しかし彼は、勇気を出してピラトにイエスのからだの下げ渡しを願うと、ピラトはそれを許可したので、イエスが十字架につけられた場所のすぐ近くにある墓に葬ったのです。というのは、すでに夕方になっていて、もうすぐ安息日(土曜日)が始まろうとしていたからです。安息日が始まったら何でできなくなってしまうので、その前に彼は急いでイエスのからだを十字架から取り降ろし、ユダヤ人の埋葬の習慣にしたがって、イエスのからだをその墓に埋葬したのです。

その安息日が終わると、マグダラのマリアとヤコブの母マリアとサロメは、イエスに油を塗りに行こうと思い、香料を買いました。油を塗るとは、香料を塗るということです。
これらの女性たちは、ずっとイエスにつき従って来た人たちでした。彼女たちは最後の最後までイエスに愛と敬意を表したかったのです。それはイエスが自分に何をしてくれたのかを知っていたからです。特にマグダラのマリアは七つの悪霊を追い出してもらいました。一つじゃないですよ。七つです。七つの悪霊です。一つの悪霊でも大変なのに彼女は七つの悪霊に取り憑かれていました。それは、彼女が完全に悪霊に支配されていたということです。身も心もズタズタでした。しかし彼女はそのような状態から解放されたのです。どれほど嬉しかったことでしょう。感謝してもしきれないほどだったと思います。イエスがいなかったら今の自分はない。イエスはいのちの恩人以上の方。最も愛すべき方。その方が苦しんでいるならほっておけません。何もできないけれども、せめてイエスの傍らにいたい。どんな目に遭おうと、たとえ殺されようとも、イエスのみそば近くにいたかったのです。イエスは自分にとってすべてのすべてだから。そういう女性たちが複数いたのです。
彼女たちは、安息日が終わったので、イエスに油を塗ろうと思い、香料を買い、週の初めの日の早朝、日が昇ったころ、墓に向かって行きました。新共同訳では、「日が出るとすぐ墓に行った。」と訳しています。そうです、彼女たちはもう待ちきれませんでした。日が昇るとすぐに墓に行ったのです。

しかし、墓に向かっている途中で、彼女たちは一つの問題があることに気付きました。何でしょうか?それは、墓の入り口が大きな石で塞がれていることです。だれがその石を転がしてくれるでしょうか。この石は重さ2~2.5tもある重い石で、女性たちが何人いても女性の力では動かせるようなものではありませんでした。男でもよほどの人数がいなければ動かせないほどのものです。
しかも、その石はただの石ではありませんでした。並行箇所のマタイ27章66節を見ると、その石には封印がされていたとありました。これはローマ帝国の封印で、これを破る者は逆さ十字架刑にされることになっていました。ですから、そこには番兵もつけられていました。屈強なローマ兵たちが、24時間体制で監視していたのです。その石を動かさない限り、中に入ってイエスのからだに香油を塗ることはできません。とても無理です。それでも女性たちは墓に向かって行きました。無理だ、不可能だと思っても、です。

3節には、彼女たちは「話し合っていた」とありますが、彼女たちは、どこで何を話し合っていたのでしょうか。「だれが墓の入り口から石を転がしてくれるでしょうか」と、墓に向かっている最中で話し合っていました。
ここが男性とは違うところです。一般の男性ならどうするでしょうか。まず行く前に会議を開くんじゃないです。「行っても無駄だ。墓の入り口にある石をどやって動かすのか。そこにはローマ兵たちがいるじゃないか。どう考えても無理に決まっている。その前に香料を買ってもただのお金の無駄遣いだ」と。
これが一般の男性が考えることです。でも女性は違います。女性は一般的に心に感じるまま行動します。そうしたいと思ったらあまり考えずにすぐにそれを行動に移します。こんなことを言ったら女性を差別しているのではないかと叱られるかもしれませんが、別に女性を差別しているのではありません。それが女性のすばらしいところだと言っているのです。とにかく安息日が明けたらイエスのもとに行きたい。1秒でも早く会いたいと思う。その愛が彼女たちを突き動かしたのです。その前に立ちはだかった大きな石も、彼女たちにとっては問題ではありませんでした。愛がなければその大きな石を前にして何もできなかったでしょう。「あの石をどうしよう」で終わっていたはずです。でも愛は不可能を可能にします。「愛には、計算が成り立たない」と言った人がいます。彼女たちの行動は、まさに計算が成り立ちません。しかし、それが愛なのです。考えてみれば、イエス様の生涯もそうだったのではないでしょうか。計算では成り立ちません。この世の目から見たら愚かなことのように見えます。その極めつけが十字架です。十字架で死なれることでした。主はご自身に敵対する人を救うために十字架にかかって死んでくださいました。そして、その上でご自分を十字架につけた人々のためにとりなしの祈りをささげたのです。このような愛は、この世の常識では考えられません。人間の計算をはるかに超えています。しかし、そうでなければ見いだせない大切なことがあるのです。そのことに気付かないと、大切なものを失ってしまうことがあるのです。
注目すべきことは、彼女たちがここで「だれが」と言っていることです。「だれが墓の入り口から石を転がしてくれるでしょうか。」と。この「だれが」が重要です。彼女たちは自分たちにはできないことが最初から分かっていたので、だれか他の人に頼らなければなりませんでした。「だれが墓の入り口から石を転がしてくれるでしょうか。」でも男性はそう考えません。男性はこう考えます。「どうやって」。どうやってあの石を転がすことができるかと。いつも頭の中で考えてばかりいて行動に移せないのです。でも女性は違います。彼女たちは「なぜ」とか「どうやって」ではなく「だれが」と言いました。なぜ男の弟子たちは一緒に来ないのかとか、どうやって墓の入り口から石を転がしたらいいかではなく、だれが転がしてくれるかと言ったのです。
皆さん、「だれが墓の入り口の石を転がしてくれるのでしょうか。」そうです、イエス・キリストです。イエスが死からよみがえって墓から石を転がしてくださいます。ですから、この女性たちの「だれが」という問いには、彼女たちの信仰が表れていたということです。

これは私たちにも問われていることです。私たちは「だれが」の前に「どうやって」と問うてしまいます。「なぜ」こういうふうになっているのか、「いつ」「どこへ」行ったらいいのかと、その状況とか、方法とかを考えてしまうあまり、何もできなくなってしまうのです。でも彼女たちは違いました。もう動いています。動いている最中で「だれが墓の入り口から石を転がしてくれるでしょうか」と話し合っていました。彼女たちは自分たちにできないことは考えませんでした。だれかがしてくれると信じていたのです。彼女たちは、復活の信仰を持っていたとも言えるでしょう。それは私たちにも求められていることです。「どうやって」ではなく、復活の主があなたの心を塞いでいる石を転がしてくださると信じて、イエスのもとに行かなければならないのです。

Ⅱ.石はすで転がしてあった(4)

次に、4節をご覧ください。ご一緒に読みましょう。「ところが、目を上げると、その石が転がしてあるのが見えた。石は非常に大きかった。」

彼女たちが墓に行ってみると、墓はどうなっていましたか。あの石が転がしてありました。新改訳第3版、口語訳、新共同訳、創造主訳のいずれの訳では「すでにころがしてあった。」と訳しています。その石はすでに転がしてありました。イエスに近づくことを妨げていたあの大きな石が、すでに取り除かれていたのです。彼女たちのイエスを愛する愛に、神様が応えてくださったのです。

それはあなたにも言えることです。あなたがイエスに会いに行こうとする時、そこに大きな石のような問題が立ちはだかっていることがあります。でもその時、「どうやって」とか「いつ」とか「なぜ」と問わないで、「だれが」と問うなら、イエスがあなたの問題をすでに解決してくださいます。女性たちがイエスの墓に到着したら、石はすでに転がしてありました。もしあなたがイエスを信じ、イエスを愛するなら、どんな問題でもイエスが解決してくださるということを知ってください。この女性たちのように。彼女たちはイエスの亡骸に向かう道中で「だれがこの問題を解決してくれるか」と問うていましたが、そのだれがとは、もちろん、イエスです。イエスはすでにあなたの悩みを解決しておられます。もしあなたがキリストのもとに行くなら、あなたの問題はもうすでに解決されています。あの大きな石は転がしてあるのです。彼女たちが墓に向かったのは、まだ暗いうちでした。人生の暗いうちにはまだ大きな石がたちはだかっています。でもあなたがキリストに向かって歩き始めるなら、どんなに人生が暗かろうと、どんなに大きな問題が立ちはだかろうと、どんなにそれが不確かであろうと、キリストがそれを取り除いてくださるのです。あなたに求められているのは、イエスがこの石を転がしてくださると信じて、イエスのもとに歩き出すことです。

榎本保郎先生が書かれた「ちいろば」という本の中に、こんな話があります。
榎本先生が開拓した教会に、T君という、1人の高校生が来ていました。とてもやんちゃな子でしたが、熱心に求道するようになり、いつしか高校生会のリーダーになりました。
そのT君が高校3年生の時、献身者キャンプに参加しました。献身者キャンプとは、将来、牧師になることを決心するためのキャンプです。榎本先生も、講師の一人として、参加しました。そのキャンプの最後の集会で、「献身の志を固めた人は、前に出て、決心カードに署名しなさい」、という招きがなされました。
招きに応えて、泣きじゃくりながら、立ち上がる者。こぶしで涙を拭いながら、前に進み出る者。若者たちが、次々に立ち上がって、震える手で、署名しました。しかし、T君は、なかなか前に出て行きません。頭を垂れて、じっと祈っていました。しかし、招きの時が終わろうとした時、遂に、T君は、立ち上がって前に進み、決心カードに、名前を書き込みました。
席に戻ってきたT君は、真っ青になって、ぶるぶる震えていました。決心したことで、心が高揚したこともあったと思います。しかし、T君には、もっと深刻な、問題があったのです。
T君は、とても勉強のできる生徒でした。ですから、両親は、大きな期待を、彼に懸けていました。両親は、彼が、京都大学の工学部に入ることを、ひたすら願っていたのです。それが、両親の、生き甲斐とも、言えるほどでした。それなのに、もし、T君が牧師になる決心をした、と聞いたなら、両親は、どんな思いになるだろう。がっかりするだろうか。怒るだろうか。その両親の期待の大きさを身に沁みて知っていただけに、T君は、両親に、どのように打ち明けたらよいか、途方に暮れていたのです。そして、両親の落胆と、怒りを、想像しただけで、いたたまれない気持ちになっていたのです。
T君は、真っ青になって、「先生、祈ってください」、と榎本先生に頼みました。先生にも、その気持ちがよく分かりました。そこで榎本先生とT君は、ひたすら祈りました。祈るより他に、すべはなかったのです。その時、榎本先生の心に浮かんだのが、この4節のみことばでした。「石はすでに転がしてあった」。
榎本先生は、「T君、神様は、必ず、君の決心が、かなえられるように、備えてくださる。『石は、すでに転がしてあった』、という御言葉を信じよう」、と力づけました。
それを聞いて、T君は帰っていきました。しかし、T君から、両親との話し合いの結果が、なかなか報告されてきません。榎本先生は、どうなったか、心配でたまらず、T君の家の前を、行ったり来たりしていました。
帰ってから、三日たった夕方、げっそりやつれたT君が、教会にやってきました。そして「先生、石は、のけられていませんでした」、と言ったのです。父親は激しく怒り、母親は食事も取らずに、ただ泣き続けている、という報告でした。
榎本先生は、暗い気持ちになって、「どないする?よわったなぁ」と、呟きました。その時、「先生、『石はすでに転がしてあった』というあの御言葉は、どうなっとるんですか」。というT君の鋭い言葉が迫ってきました。先生は、自分の不信仰に気付かされ、「いや、あの御言葉は、君にも必ず成就するよ」と、T君と自分自身に言い聞かせました。
それから半月ほど経った頃です。T君の両親が、教会を訪ねてきました。「息子をたぶらかした悪者」、と罵倒されるものと思って、戦々恐々として迎えた榎本先生は、びっくりしました。というのは、T君の両親がこう言ったからです。
「先生、息子を、よろしくお願いします」。
頭を下げたお父さんは、両肩を震わせながら、じっと涙をこらえていました。お母さんは、手をついたまま、泣きじゃくっていました。両親は、T君の献身を、許してくれたのです。
「石は、すでに転がしてあった」のです。この御言葉は、T君の上に、見事に成就しました。その後、T君は、牧師となって、よい働きをしているという内容です。

皆さん、私たちの人生にも大きな石が立ちはだかることがあります。しかし、あなたがイエスを愛し、イエスに向かって歩むなら、イエスがその石を転がしてくださいます。ですから、どこまでも最善に導いてくださる主に信頼して、祈り続けましょう。そうすれば、あなたも必ず「石は、すでに転がしてあった」という、神様の御業を見るようになるからです。

Ⅲ.弟子たちとペテロに告げなさい(5-8)

最後に、5~8節をご覧ください。「5 墓の中に入ると、真っ白な衣をまとった青年が、右側に座っているのが見えたので、彼女たちは非常に驚いた。6 青年は言った。「驚くことはありません。あなたがたは、十字架につけられたナザレ人イエスを捜しているのでしょう。あの方はよみがえられました。ここにはおられません。ご覧なさい。ここがあの方の納められていた場所です。7 さあ行って、弟子たちとペテロに伝えなさい。『イエスは、あなたがたより先にガリラヤへ行かれます。前に言われたとおり、そこでお会いできます』と。」8 彼女たちは墓を出て、そこから逃げ去った。震え上がり、気も動転していたからである。そしてだれにも何も言わなかった。恐ろしかったからである。
〔彼女たちは、命じられたすべてのことを、ペテロとその仲間たちに短く伝えた。その後、イエスご自身が彼らを通して、きよく朽ちることのない永遠の救いの宣言を、日の昇るところから日の沈むところまで送られた。アーメン。〕」

女性たちが墓の中に入ってみると、そこにまっ白な衣をまとった青年が、右側に座っているのが見えたので、彼女たちは非常に驚きました。青年は彼女たちにこう言いました。6節です。「驚くことはありません。あなたがたは、十字架につけられたナザレ人イエスを捜しているのでしょう。あの方はよみがえられました。ここにはおられません。ご覧なさい。ここがあの方の納められていた場所です。」
ここでは「驚いた」ということばが強調されています。イエスのからだが納められていた墓からあの石が転がされていただけでなく、その墓の中は空っぽだったからです。なぜ墓は空っぽだったのでしょうか?イエスがよみがえられたからです。イエスは死んで三日目によみがえられ、その墓を塞いでいた大きな石をころがしてくださったのです。それを見た女性たちはどんなに驚いたことでしょう。そして、私たちも同じ体験をすることになります。私たちの心を塞いでいた大きな石が転がされるという体験です。どんなに悩みがあろうと、どんなに疑問があろうと、どんなに問題があろうと、イエスはあなたの心に立ちはだかる石を転がしてくださいます。なぜなら、イエスはみがえられたからです。

ところで、この青年は彼女たちにもう一つのことを言いました。それは7節にあることです。「さあ行って、弟子たちとペテロに伝えなさい。『イエスは、あなたがたより先にガリラヤへ行かれます。前に言われたとおり、そこでお会いできます』と。」」
ここで青年は、イエスが弟子たちより先にガリラヤに行くので、そこでお会いすることができると言いましたが、ここでは弟子たちだけでなく、弟子たちとペテロにと言っています。あえて使い分けているのです。弟子たちだけでなく、ペテロに対して個人的に伝えてほしいと。なぜ「弟子たちに」ではだめだったのでしょうか。なぜ個人的にペテロに告げる必要があったのでしょうか。
それはペテロが弟子たちの筆頭であったからではありません。それは、ペテロが一番イエスに会いづらい人物だったからです。なぜなら、彼は公の場で3度もイエスを否定したからです。彼は「他の弟子たちがすべてあなたを見捨てても、私だけは火の中水の中、死までご一緒します。口が裂けてもあなたを知らないとは絶対に言いません。」と言い張ったのに、イエスを知らないと否定しました。今さら、どの面下げて主に会えるでしょう。弟子の筆頭だった彼が一番してはいけないことをしたのです。イエスの目の前で。
でもペテロは先にイエス様にこういうふうにも言われていました。ルカ22章31~32節のことばです。
「シモン、シモン。見なさい。サタンがあなたがたを麦のようにふるいにかけることを願って、聞き届けられました。しかし、わたしはあなたのために、あなたの信仰がなくならないように祈りました。ですから、あなたは立ち直ったら、兄弟たちを力づけてやりなさい。」
イエスはすべてのことがわかっていました。十分わかった上で、あなたの信仰がなくならないように祈った」と言われたのです。そして「ですから、立ち直ったら、兄弟たちを力づけてやりなさい。」と言われました。これは「もし立ち直ったら」ということではありません。イエスは彼が立ち直ることもちゃんとご存知の上で、それを前提にして、あなたが立ち直ったら、兄弟たちを力づけてやりなさいと言ったのです。失敗した人にやり直しをさせて、兄弟たちを力づけてやるという新しい務めも与えると、イエスはあらかじめ約束しておられたのです。ですから、イエスはその約束通りにまずペテロの前に現れ、その約束を果たされるのです。まずペテロを立ち直らせる。これが復活された主がなさる最初のことだったのです。イエスのことを3度も否定した弟子の筆頭、その立場なり、その資格を失っている者に対して、まず回復をもたらしたのです。つまり、イエスは一番傷ついている者、一番痛い思いをしている者、一番恥ずかしい思いをしている者のところへ行って、和解をもたらしてくださるということです。ペテロはとてもイエスの復活の証人として相応しいとは思えません。しかし、そのようなペテロを主はあわれんでくださり、復活の姿を現わしてくださったのです。

それは私たちも同じです。このイエスの愛は、同じように私たち一人ひとりに注がれています。神様に背いてばかり、神様になかなか従えないこんな私をイエスは愛し恵みを注いでいてくださる。私たちも復活の主によって支えられ、復活の主の弟子とされているのです。弱いペテロをどこまでも愛され「そうそう、あのペテロにも伝えなさい」と仰せられた主は今、私たち一人ひとりにも、語り掛けてくださっているのです。「そう、そう、あのおっちょこちょいの富男さんにも伝えてあげなさい。何度言ってもわからない。同じ失敗を繰り返しているあの人にも」と。救われるに本当に相応しくないような者であるにもかかわらず、主は一方的な恵みをもって救ってくださいました。あなたがペテロのように主を否定するような者であっても、パウロのように教会を迫害するような者であっても、復活の主はあなたをどこまでも愛しておられるのです。

 最後に8節をご覧ください。「彼女たちは墓を出て、そこから逃げ去った。震え上がり、気も動転していたからである。そしてだれにも何も言わなかった。恐ろしかったからである。〔彼女たちは、命じられたすべてのことを、ペテロとその仲間たちに短く伝えた。その後、イエスご自身が彼らを通して、きよく朽ちることのない永遠の救いの宣言を、日の昇るところから日の沈むところまで送られた。アーメン。〕」

 彼女たちは墓を出ると、そこから逃げ去り、そのことを誰にも言わなかったとありますが、実際には、ペテロにも、他の弟子たちにも伝えています。これはペテロと弟子たち以外には、だれにも伝えなかったという意味です。つまり、彼女たちは、復活の主の最初の証人となったということです。最初の証人となったのはイエスの12人の弟子たちではなく、この女性たちだったのです。これはすごいことです。というのは、当時、イエス様の時代は、女性が証人になることは考えられないことだったからです。しかし、そんな女性たちがイエスの復活の最初の目撃者となりました。男たちではありません。女たちです。

 復活のメッセージを伝えることは、実に栄誉ある務めです。その栄誉に与ったのはこの女性たちだったのです。なぜでしょう?男たちは「どうやって」と考えると何も出来なかったのに対して、彼女たちはどんなに大きな石が目の前に立ちはだかっていても、どんなに屈強なローマ兵が監視していようとも、たとえ捉えられて死ぬことがあっても構わない、とにかくイエスに会いたい。愛するイエスに会いたい。その一心で動いていたからです。

 それに対してなされた大いなる神様の御業を、私たちは今ここで見ているのです。これは男か女かの違いを言っているのではありません。これは、信仰か不信仰かの違いです。イエスを愛しているか、いないのかの違いです。彼女たちには信仰があり、イエスに対する愛がありました。そして、イエスの復活によって希望まで与えられました。この女性たちは、私たち信仰者の模範です。私たちもこの女性たちのようにイエス様を愛するゆえに、「どうやって」ではなく「だれが」石を転がしてくださるのかと問いながら、復活の主がそれをなしてくださると信じて、心から主を愛し、主につき従う者でありたいと思います。イエスはよみがえられました。死からよみがえられた主は、あなたの前に立ちはだかるいかなる石も必ず転がしてくださるのです。

三本の十字架 

聖書箇所:ルカの福音書23章32~43節 
タイトル: 「三本の十字架」    

 今日から受難週が始まります。それはイエス様が十字架の死という受難に向かって歩まれた最期の一週間です。ちょうど今週の金曜日が十字架につけられたその日に当たり、そこから数えて三日後の、来週の日曜日の朝に、イエス様は復活されました。ですから、来週はイエス様が復活されたイースターをお祝いしたいと思いますが、今日はその前にイエス様が十字架で苦しみを受けられた出来事からメッセージを取り次ぎたいと思います。タイトルは「三本の十字架」です。33節には、イエス様が十字架につけられた時、イエス様の右と左にそれぞれ二人の犯罪人も十字架につけられたとあります。ですから、そこには三本の十字架が立てられていたのです。

Ⅰ.父よ、彼らをお赦しください(32-38)

まず、最初の十字架、イエスの十字架から見ていきましょう。32~38節をご覧ください。「32 ほかにも二人の犯罪人が、イエスとともに死刑にされるために引かれて行った。33 「どくろ」と呼ばれている場所に来ると、そこで彼らはイエスを十字架につけた。また犯罪人たちを、一人は右に、もう一人は左に十字架につけた。34 そのとき、イエスはこう言われた。「父よ、彼らをお赦しください。彼らは、自分が何をしているのかが分かっていないのです。」彼らはイエスの衣を分けるために、くじを引いた。35 民衆は立って眺めていた。議員たちもあざ笑って言った。「あれは他人を救った。もし神のキリストで、選ばれた者なら、自分を救ったらよい。」36 兵士たちも近くに来て、酸いぶどう酒を差し出し、37 「おまえがユダヤ人の王なら、自分を救ってみろ」と言ってイエスを嘲った。38 「これはユダヤ人の王」と書いた札も、イエスの頭の上に掲げてあった。」

イエス・キリスト以外にも二人の犯罪人が、イエスとともに死刑にされるために連れて行かれました。この二人の犯罪人は、並行箇所のマタイの福音書27章38節を見ると「強盗」と記されてあります。つまり、彼らは十字架刑に値するような重罪を犯したわけです。
彼らが連れて行かれたのは「どくろ」と呼ばれていた場所でした。ギリシャ語では「クラニオン」と言います。ヘブル語では「ゴルゴタ」、ラテン語で「カルバリー」です。英語の「カルバリー」はラテン語から来ています。それは響きはいいですが、意味は「どくろ」です。私が最初に開拓した教会は、「北信カルバリー教会」と名付けました。「北信どくろ教会」です。なぜそういう名前にしたのかというと、その地域が「北信」という地域であったということと、アメリカの教会が「ガーデナ・カルバリーチャーチ」という名前だったからです。それで「北信」に「カルバリー」を付けて「北信カルバリー教会」としたのです。でも実際は「どくろ教会」です。なぜその場所が「どくろ」と呼ばれていたのか、そこは死刑場で骨が散らばっていたからだとか、この丘の形がどくろの形をしていたからという説があります。その「どくろ」と呼ばれている場所に来ると、そこで彼らはイエスを十字架につけました。イエスだけではありません。ほかに二人の犯罪人がいて、彼らも十字架につけられました。一人はイエスの右に、一人はイエスの左に、です。ですから、そこには三本の十字架が立てられていたのです。

34節をご覧ください。「そのとき、イエスはこう言われた。「父よ、彼らをお赦しください。彼らは、自分が何をしているのかが分かっていないのです。」彼らはイエスの衣を分けるために、くじを引いた。」
これはイエスが十字架上で発せられたことばです。イエスは十字架の上で七つのことばを発せられましたが、これはその最初のことば、第一のことばです。「父よ、彼らをお赦しください。彼らは、自分が何をしているのかが分かっていないのです。」十字架の上でイエスは開口一番とりなしの祈りをされました。これはイエスが自らの教えを実践されたということです。ルカの福音書6章27~28節には、「しかし、これを聞いているあなたがたに、わたしは言います。あなたがたの敵を愛しなさい。あなたがたを憎む者たちに善を行いなさい。あなたがたを呪う者たちを祝福しなさい。あなたがたを侮辱する者たちのために祈りなさい。」とあります。イエスはまさにこれをご自分に適用されたのです。あなたの敵を愛しなさい。あなたを憎む者に善を行うように。あなたを呪う者を祝福しなさい。あなたを侮辱する者のために祈りなさい。なかなかできないことです。でもイエスはこれを自ら実践されました。その究極がこの十字架上でのとりなしの祈りだったのです。この時イエスはボコボコにされていました。血まみれの状態で、それがイエスだと判別することができないほどだったのです。それでもイエスはこのように祈られました。「父よ、彼らをお赦しください。彼らは、自分が何をしているのかが分からないのです。」

この「彼ら」とは誰のことでしょうか。直接的にはイエスを十字架にかけた死刑執行人たち、ローマの兵士たちのことでしょう。そして直接的には手をかけなくても、彼らに死刑をやらせたポンテオ・ピラトもそうでしょうし、イエスを殺そうと企んでいたユダヤ人の当局者たちもそうです。さらには、そうした宗教家たちに先導されて「十字架につけろ、十字架につけろ」と叫んだ群衆たちもそうです。強いて言うなら、私たちもそうです。私たちもこの「彼ら」に含まれるのです。なぜなら、私たちも自分が何をしているのかわかっていないからです。自分が罪を犯しているかどうかさえもわかっていない人たち、罪を罪とも感じない人たちのためにイエスはこのようにとりなしの祈りをされたのです。

このときイエスはどういう状態でしたか。もうひん死の状態でした。その声は虫の息のようで、ことばを発するのが奇跡に近いような状態でした。そういう状態でイエスは自分のことではなくそんな「彼ら」のために祈られたのです。皆さん、自分の手に釘を打ち付けたことがありますか。そういう経験はないかと思いますが、想像してみてください。想像しただけでゾッとします。かなりの痛みが体全体に走るでしょう。すべての神経がその一点に集中します。もう他の人のことなど全く考えられないはずです。余裕で何かことばを発するなんてできなくなります。しかし、イエスは自分のことなど全く無視するかのように、「父よ、彼らをお赦しください。」と祈られました。それはイエスがそのためにこの世に来られたということをだれよりもよく認識していたからです。ですから、イエスは激しい痛みと苦しみの中にあってもそのことを忘れず、最後まで忠実に神のみこころを果たそうとされたのです。十字架の上でもなおも人を救おうと願っておられたからです。

このことばは、古今東西多くの人たちの心をとらえてきました。まさに心を奪われてイエスによって救われた人たちが後を絶ちません。特に紹介したいのは、淵田美津雄(ふちだみつお)という人です。この人は真珠湾攻撃の総隊長、海軍大佐だった人です。のちにクリスチャンになってキリスト教の伝道者になりますが、彼がクリスチャンになったきっかけがこの聖句でした。「父よ、彼らを赦したまえ。その成すところ知らざればなり。」このことばが彼の心を捉えて、彼は救われました。そして世界中を伝道して回る伝道者になったのです。アメリカと日本の橋渡しとなって、赦しのメッセージを伝えて行くことになりました。このイエスのことばによって、その後も多くの人たちが救われていくことになります。

私たちはもう一度自分の原点を振り返りながら、私たちはどこから救われて来たのかを考えなければなりません。私たちはどこから救われて来たのでしょうか。ここからです。このイエスのとりなしの祈りから救われて来ました。これが私たちの救いの原点です。私たちもイエス・キリストを十字架に磔にした「彼ら」、極悪人とちっとも変わりません。それなのにイエスはそんな私たちのために祈られたのです。本来ならこの私が十字架に付けられて死んでいなければならなかったのに、そんな私たちのためにイエスがとりなしてくださったことによって救われたのです。ここから私たちの救いの物語が始まっているのです。イエスがこのとりなしの祈りをささげられなかったら、私たちは救われませんでした。イエスの祈りだからこそ、父なる神は聞いてくださったのです。

35節をご覧ください。民衆は立って眺めていました。議員たちも、あざ笑って言いました。「あれは他人を救った。もし神のキリストで、選ばれた者なら、自分を救ったらよい。」この議員たちとはユダヤ教の宗教指導者たちのことです。彼らも十字架につけられたイエスを見てあざ笑って「あれは他人を救った。もし神のキリストで、選ばれた者なら、自分を救ったらよい。」と言ってしまいました。言ってしまったというのは、思わず言ってしまったということです。これは「ウップス!」です。思わず本音が出ちゃったということです。「あれは他人を救った」それは真実のことばです。他人を救ったなんて本当は言いたくなかったのです。他人を救ったようだったとか、救ったと自慢したとか、そんなふうに言いたかったのに、思わず本当のことを言ってしまいました。「あれは他人を救った。」そうです、イエスは他人を救ったのです。イエスの敵であった彼らでさえも、それを認めていたということです。彼らは知っていました。イエスが神の力で他人を救ったということを。だったら自分を救ってみろと。

皆さん、イエスは自分を救うことができなかったのでしょうか。いいえ、彼は自分を救うことなど何でもないことでした。たとえば、イエスが十字架につけられるためにローマの兵士約600人がイエスを捕らえに来たとき、イエスが彼らに「だれを捜しているのか」と言うと、彼らは「ナザレ人イエスを」と答えましたが、そのときイエスが「わたしがそれだ」と言うと、彼らは後ずさりして、地に倒れてしまいました。「わたしがそれだ」と言っただけで、600人の兵士が一度に倒れてしまったのです。また、イエスが風に向かって「嵐よ、静まれ」と言うと、すぐに凪になりました。風や波すらイエスの言うことに従ったのです。自然の猛威ですらイエスの権威の前に服するのですから、ローマ兵が何人束になってかかって来ても、イエスにかなうわけがありません。イエスは自分を救うことなんてお茶の子さいさいだったのです。十字架の上から下りることなんて何でもないことでした。でもそうされませんでした。なぜ?そんなことをしたら私たちを救うことができなくなってしまうからです。イエスはそのことを十分知っておられたので、そのような彼らのことばに乗ることをしませんでした。誘惑はあったでしょう。こんなひどいことを言われるくらいならさっさとここから下りて天の父のところに帰って行こういうこともできたはずです。でもそうされませんでした。あえて十字架の上にとどまられたのです。それは私たちを愛するゆえです。釘がイエスを十字架にとどめたのではありません。私たちに対する愛が、イエスを十字架にとどめたのです。そのことをもう一度覚えていただきたいと思います。

36~38節をご覧ください。「36 兵士たちも近くに来て、酸いぶどう酒を差し出し、37 「おまえがユダヤ人の王なら、自分を救ってみろ」と言ってイエスを嘲った。38 「これはユダヤ人の王」と書いた札も、イエスの頭の上に掲げてあった。
ユダヤ教の宗教指導者たちだけでなく、ローマの兵士たちもイエスをあざけりました。彼らは十字架に磔にされたイエスの近くに来て、「酸いぶどう酒」を差し出しました。この酸いぶどう酒というのは、発酵が進んだぶどう酒に水を混ぜ合わせたものです。これは酔うためではありません。渇きを潤すためのものです。十字架刑があまりにも過酷な刑だったので、あわれみがかけられ、麻酔薬に相当する没薬を混ぜたぶどう酒が差し出されたのです。でもイエスはそれを飲もうとされませんでした。はっきりした意識を持ってその痛みの一つ一つを感じながら、私たちの罪の贖いを成し遂げられたのです。これが私たちに対するイエスの愛でした。つまり、イエスは十字架でご自身の愛を明らかにしてくださったのです。カルバリ山のイエスの十字架は、その神の愛の表れだったのです。それほどまでにあなたは愛されているということです。

イエスはかつて、こう仰せられました。「人がその友のためにいのちを捨てるという、これよりも大きな愛はだれも持っていません。」(ヨハネ15:13)。人がその友のためにいのちを捨てるということよりも大きな愛はありません。それは最も大きな愛です。誰かを本気で愛そうと思うなら、その人のために、自分のいのちを捨てて、身代わりとなる、それ以上にその愛を最大限に表せる方法はなありません。なぜなら、人が犠牲にすることのできる最大のものは「自分のいのち」に他ならないからです。そしてあのゴルゴタの十字架、カルバリの十字架で、イエスはまさにその「ご自分のいのち」を私たちのための身代わりとなって捨てて下さったのです。 しかも「神の御子のいのち」は、「私たちのいのち」と違います。「罪の汚れ」というのが一点たりともありませんでした。私たちは多かれ少なかれ罪を抱えています。だから、本当は私たちだってあの十字架の上で罰せられても仕方のない者なのです。しかし神の御子は違います。イエスはそのような罪を何一つ犯しませんでした。十字架刑には全く値しないお方だったのです。重罪どころか軽犯罪すら犯しませんでした。ローマの法律ばかりか、ユダヤの律法にも違反していませんでした。イエスは全く罪のない方だったのです。そのイエスが十字架に付けられたのです。なぜでしょうか?それは私たちを救うためです。そのためにイエスは私たちの罪の身代わりとなって十字架にかかってくださったのです。これこそ「愛」というものなのではないでしょうか。これより大きな「愛」はありません。だから、神様は、私たちのことを間違いなく愛して下さっています。だって私たちは、その「しるし」をこの十字架に、しっかりと見せていただいているのですから。

朝鮮戦争の時、二人の若いアメリカ人兵士が、とある塹壕に隠れていました。二人は大の仲良しで、いつも一緒に行動していたそうですが、ある日、二人が隠れていた塹壕に手榴弾が投げ込まれました。すると、それを見た一人が、もう一人の方にウィンクするや、その手榴弾の上に自分の体を投げ出して覆い被さったというのです。当然、その人は亡くなりましたが、その尊い犠牲によってもう一人の方は、無事にいのちが守られました。
 その後、生き残った兵士はアメリカに帰ってから、自分を助けてくれた友だちのお母さんに会いに行きました。そしてお母さんに尋ねました。「彼は、手紙の中でボクのことを書いていましたか?」すると「ええ」とお母さんが答えてくれたので、さらに彼は、「手紙の中で、ボクのことを愛していると書いていましたか?」と訊ねました。すると、そのお母さんは、突然持っていたカップを床に投げつけて、こう言いました。「あんたは、一人の男があんたのためにいのちを捨てたのに、『彼があんたを愛していたか』って聞くの?」と。
 私たちも神様に対して、これと同じようなことをしてはいないでしょうか。「あなたは、神の御子なるお方があの十字架で、あなたのためにいのちを捨てて下さったのに、神さまの愛を疑うのか」と言われるようなことをしていないでしょうか。

Ⅱ.わたしを思い出してください(39-42)

次に、イエスの右と左に立てられた二人の犯罪人の十字架を見ていきましょう。39~42節をご覧ください。「39 十字架にかけられていた犯罪人の一人は、イエスをののしり、「おまえはキリストではないか。自分とおれたちを救え」と言った。40 すると、もう一人が彼をたしなめて言った。「おまえは神を恐れないのか。おまえも同じ刑罰を受けているではないか。41 おれたちは、自分のしたことの報いを受けているのだから当たり前だ。だがこの方は、悪いことを何もしていない。」42 そして言った。「イエス様。あなたが御国に入られるときには、私を思い出してください。」」

並行箇所のマタイの福音書27章44節を見ると、最初イエスと一緒に十字架につけられた強盗たちは、二人ともイエスをののしっていました。しかし、ここでは一人の犯罪人がイエスをののしっていて、もう一人の犯罪人はイエスを信じ、イエスをののしっていたもう一人の犯罪人をたしなめています。すなわち、ある段階から一人は変えらたということです。イエスの右と左、全く同じ距離に磔けられた二人の犯罪者。二人とも強盗であり、二人とも罪深い者でした。でも何かが変わったのです。犯罪者の一人は、イエスをののしり、「おまえはキリストではないか。自分とおれたちを救え。」と言い、もう一人はイエスを信じて、「おれたちは、自分のしたことの報いを受けているのだから当たり前だ。だがこの方は、悪いことを何もしていない。」と言い、イエスに「あなたが御国に入れられるときには、私を思い出してください。」と言いました。いったいこの違いはどこから生じたのでしょうか。

これまでも35節と37節には、「自分を救ってみろ」という言葉が使われていました。35節ではユダヤ教の宗教指導者たちとそれに先導された一般民衆たちから、37節ではローマの兵士たちから、そのようにののしられました。そして、この39節では一人の犯罪人からののしられています。「自分とおれたちを救え」と。彼らに共通していることは何かというと、今置かれている目の前の苦しみから解放してみろ、救ってみろということです。日本語の聖書はきれいなことばで訳されていますが、原語では、ひどいニュアンスのことばが使われています。「おめえはキリストなんだろ。だったら、てめえ自身と俺たちのことを救ってみろ!」そんな感じです。いわばヤケクソです。このヤケクソは、私たちもよく経験することではないでしょうか。自分の力ではどうにもならない現実に押し潰されるとき、人は皆こんなふうにヤケクソになりやすいのです。それはクリスチャンだって同じです。それは「神様の愛を疑う程の失望」から湧き上がって来るものです。

しかし、もう一人の犯罪人は違いました。もう一人の犯罪人は、彼をたしなめてこう言いました。「おまえは神を恐れないのか。おまえも同じ刑罰を受けているではないか。おれたちは、自分のしたことの報いを受けているのだから当たり前だ。だがこの方は、悪いことを何もしていない。」そして言った。「イエス様。あなたが御国に入られるときには、私を思い出してください。彼は「ここから下せ」とか、「おれたちを救え」と言ったのではありません。彼は「イエス様。あなたが御国に入られるときには、私を思い出してください。」と言いました。つまり、「ここから引き上げてください」と言ったのです。もっと高い次元にいざなってください。もっとあなたのみぞは近くに置いてください。もっとあなたを知りたいのです、そう言ったのです。この苦しみからただ解放してほしいというのではなく、この苦しみの中にあってもあなたをもっと知りたい。もっとあなたに近づきたいと言ったのです。詩篇119篇71節にこうあります。「苦しみにあったことは、私にとって幸せでした。それにより、私はあなたのおきてを学びました。」
すばらしいですね。この苦しみを通してイエスの苦しみに少しでも預かることができるのであればそれこそ本望だ。それは本当にありがたい。苦しいけれどもありがたい。これによってイエスの似姿に変えられるならば、私は喜んでこの苦境を耐えていきたい。そう言ったのです。あなたはどうでしょうか。あなたの祈りはそうなっているでしょうか。

それとも、もう一人の犯罪人のように「自分とおれたちを救え。」の一点張りでしょうか。「とにかくここから早く下してくれ。解放してくれ。」と。病気になったらすぐに癒してください。困ったことがあったらすぐに助けてください。あれがないからこれをください。これがなければあれをください。ああしてください。こうしてください。そういう祈りになってはいないでしょうか。そういう祈りが決して悪いと言っているのではありません。しかし、それはこの一人の犯罪人とちっとも変わりません。ただ目の前の苦しみから解放してほしいというだけです。しかし、仮にイエスがこの祈りに応えたとしても、結局、この強盗はどうなったでしょうか。結局、自分の罪の中に死んでいくことになります。その時は一時の救いを経験するかもしれませんが、究極的には地獄に堕ちて行くことになるのです。確かに目の前の苦しみから解放されたいでしょう。できるだけ早くそこから救ってほしいと思うのは当然のことです。でも主が求めておられることは、自分とおれたちを救えということではなく、「イエス様。あなたが御国に入れられ時には、私を思い出してください」という祈りです。あなたのもとに引き上げてください。もっとあなたに近づきたい、もっとあなたを深く知りたいと願うことです。「苦しみにあったことは、私にとって幸せでした。それにより、私はあなたのおきてを学びました。」と、この犯罪人のように、苦しみの中で引き上げられること、主のみそば近くに引き寄せられることなのです。

私たちも苦しみに会うととかくそこから救ってほしい、解放してほしいということしか考えられませんが、実はその苦しみこそ私たちが神のおきて学ぶ時として与えられるということを覚えていただきたいのです。そしてもう一人の犯罪人のように、「イエス様。あなたが御国に入れられるときには、私を思い出してください。」「ここから引き上げてください」と祈る者でありたいと思うのです。

Ⅲ.あなたは今日、わたしとともにパラダイスにいます(43)

最後に、この犯罪人の願いに対するイエスの答えを見て終わりたいと思います。43節をご覧ください。「イエスは彼に言われた。「まことに、あなたに言います。あなたは今日、わたしとともにパラダイスにいます。」」

これは、イエスが十字架の上で発せられた七つのことばの第二番目のことばです。「まことに、あなたに言います。あなたは今日、わたしとともにパラダイスにいます。」
「今日」ということばに注目してください。「あなたは今日、わたしとともにパラダイスにいます。」「いつか」「そのうちに」ではなく「今日」です。イエスを信じたその日に、もうパラダイスです。この「パラダイス」ということばは元々ペルシャ語から来たことばですが、その原意は、柵によって囲まれた園、および庭です。旧約聖書の中にもよく使われていますが、そこでは「園」と訳されています。でもそれはただの園ではなく天の園、神の国のこと、天の楽園のことを指しています。それが天国というところです。実際に天国は園のようなところです。そこにはいのちの木が生えていて、いのちの水の川が流れています。早く行ってみたいですね。まさに楽園です。ですからイエスが「あなたは今日、わたしとともにパラダイスにいます」という時、それはこの天の園、神の国のことを指して言われたのです。「今日、わたしとともにパラダイスにいます。」イエスを信じた今日、その瞬間、イエスは彼をこの天の園、神の国に伴ってくださると約束してくださったのです。彼は死の間際にすばらしい救いの約束を与えていただいたのです。

皆さん、救われるためには何かをしなければならないということはありません。救われるためには、ただイエスを信じればいいのです。イエスが自分の救いのためにすべてを成し遂げてくださったので、それら加えるものは何一つありません。もし救われるために何かをしなければならないとしたら、この犯罪人は救われなかったでしょう。だって十字架に磔にされてただ死ぬのを待っているだけの状態だったのですから。文字通り、手足が釘付けされている以上何もできないわけです。でも、イエスを信じた瞬間、信仰のゆえに、今日パラダイス、天国に行って、永遠にそこで過ごすという救いの約束を受けたのです。ただ神の恵みにより、キリスト・イエスの贖いによって。ただ神の恵みによって救われるのです。しかし、神の側では最大の犠牲を払ってくださったということを忘れてはなりません。

これがキリスト教の言うところの救いです。これ以外の宗教の説く救いというのは、全部何かをしなければならないというものです。信仰義認ではなく行為義認なのです。何らかの行いをしなければ救われないと言います。それは人間が作った宗教です。救われるためにはこうしなければならない、ああしなければならない、徳を積まなければならない、苦行をしなければならない、犠牲を払わなければならないと言うのです。でも、人が努力して自らを救うことができるならば、救い主は必要ありません。そのような人間の宗教で人が救われることはまずありません。せいぜいそれは気休め程度です。とんなに頑張っても、どんなに犠牲を払っても、死に打ち勝つことなどできないのです。そして、その頑張りによって自分を天国に入れるということなど絶対にできません。でも、イエスを信じるなら、あなたは救われます。信じたその瞬間にイエスとともにパラダイスにいるのです。何とすばらしい約束でしょうか。

イエスはこの約束を与えるにあたり、「まことに、あなたに言います。」と言われました。この「まことに」ということばは、原文でみると「アーメン」と記されています。イエスはご自身に救いを求めたその人に「まことに、あなたは今日わたしとともにパラダイスにいます。」と言われたのです。これはイエス様の感動が伝わってくることばです。
何がイエス様を十字架の苦しみの中にあっても「アーメン」と感動させたのでしょうか。それはこの犯罪人の一人が、自らの罪を認めてご自身に救いを求めたからです。生き直す時間がない絶望的な状態で、イエスを信じて救われたいと真実に願い求めたからです。ゴルゴタの丘に立てられた三本の十字架は、無意味に立てられたのではありません。イエス様をあざ笑う者の仲間になるのか、それともこの犯罪人のように自らの罪を認め、イエス様を信じるのかのどちらかです。イエスの救いを信じて、イエス様の救いに与りましょう。イエス様は、私たちを「アーメン」と言って救ってくださるお方なのです。

苦難の時に生きる道 エレミヤ書15章1~14節


聖書箇所:エレミヤ書15章1~14節(エレミヤ書講解説教32回目)
タイトル:「苦難の時に生きる道」
きょうは、エレミヤ書15章1~14節から「苦難の時に生きる道」というタイトルでお話します。皆さんは、自分の運命を嘆いたことがありますか。また、自分なんて生まれてこないほうがよかったと感じたことがあるでしょうか。そのようなとき、あなたはそれをどのように乗り越えてきましたか。
今日の個所で、エレミヤは自分の運命を嘆き、生まれてきたことを後悔しています。10節で彼はこう言っています。「ああ、悲しいことだ。私の母が私を産んだので、私は全地にとって争いの相手、また口論する者となっている。私は貸したことも、借りたこともないのに、皆が私を呪っている」
  ここで彼は自分が生まれてきたことを嘆き、悲しんでいます。なぜ彼はこのように自分の運命を嘆いたのでしょうか。また、それをどのようにして乗り越えることができたのでしょうか。今日はそのことについてご一緒に考えたいと思います。
Ⅰ.さばきを思い直さない神(1-4)

 まず1~4節をご覧ください。1節には、「1 主は私に言われた。「たとえモーセとサムエルがわたしの前に立っても、わたしの心はこの民に向かわない。この民をわたしの前から追い出し、立ち去らせよ。」とあります。
わき水の泉である主を捨て、壊れた水溜めを掘ったイスラエル、ユダの民に対して、主はさばきを宣告されました。14章前半では日照りのことについて、主はエレミヤに語られました。日照りの結果干ばつが起こり、飢饉が彼らを襲うことになります。それだけではありません。12節には「剣と飢饉と疫病で、彼らを絶ち滅ぼす」と言われました。
  それに対してエレミヤは必至にとりなしの祈りをささげます。彼は主の御名のために、主のご性質にかけて事をなしてくださいと3度も祈りましたが、主はそれをことごとく退けられてこう言うのです。1節です。「たとえモーセとサムエルがわたしの前に立っても、わたしの心はこの民に向かわない。」
モーセとサムエルはまさにとりなし手の代表です。モーセは律法の代表者であり、サムエルは預言者の代表者です。彼らに共通しているのは、彼らがとりなしの名手であるということです。彼らは幾度となくイスラエルのためにとりなして、彼らを救ってきました。
たとえば、イスラエルが金の子牛を造って拝んだとき、主は「わたしは彼らを絶ち滅ぼし、あなたを大いなる国民にする」と言われましたが、その時モーセが彼らのためにとりなすと、主はさばきを思い直されました(出エジプト32:11-14)。サムエルはどうでしょうか。サムエルも主が周囲の敵からイスラエルを救い出してくださったのに彼らが自分たちを治める王が必要だと言って主のみこころを損った時、彼らのためにとりなしてこう言いました。「私もまた、あなたがたのために祈るのをやめ、主の前に罪を犯すことなど、とてもできない。」(Ⅰサムエル12:23)すると主は、その祈りを聞いてくださいました。
しかしここでは、たとえそのモーセとサムエルがとりなしても、主の心はこの民に向かわない。この民を主の前から追い出し、立ち去らせるというのです。たとえモーセやサムエルのような偉大な英雄、信仰の巨人と言われる人が祈っても、今回ばかりは、主がさばきを思い直されることはないというのです。まあ、モーセとサムエルの時代も神の民は神に背いていましたが、まだかわいいところがありました。モーセやサムエルが主のみこころを伝えると、協力的にそれを受け止めたからです。すぐにごめんなさいと言って、私のために祈ってくださいと懇願しました。まだへりくだっていたのです。しかし、このエレミヤの時代の民は、手がつけられないほど反抗的でした。エレミヤが神のことばを語るとあからさまに反抗しました。エレミヤは涙ながらに祈ったのに、そんなエレミヤを目の上のたんこぶのように、邪魔者扱いしました。ついには彼を殺そうとまでしたのです。エレミヤの思いに共鳴することなど全くありませんでした。そんな彼らに対して主は、たとえモーセやサムエルがとりなしてもわざわいを思い直されることはないと言われたのです。
2~3節をご覧ください。「2 彼らがあなたに『どこへ去ろうか』と言うなら、あなたは彼らに言え。『主はこう言われる。死に定められた者は死に、剣に定められた者は剣に、飢饉に定められた者は飢饉に、捕囚に定められた者は捕囚に。』3 わたしは四種類のもので彼らを罰する──主のことば──。切り殺すための剣、引きずるための犬、食い尽くして滅ぼすための空の鳥と地の獣である。」
それに対して彼らは主の言葉を軽く考えて、「追い出されるならどこへ行こうか」と応答していましたが、そんな彼らに主は事の重大さを明確に伝えます。それは14章にもありましたが、疫病によって死ぬか、剣で殺されるか、飢饉で死ぬかということです。そして生き残った者は捕囚として連れて行かれることになるということです。この四つしかありません。しかも、死んでも丁重に葬られることはありません。死体が獣に食われることになります。
しかし、だからと言って彼らに希望がないわけではありません。これを見たらとても希望を持ちえないと思うかもしれませんが、覚えていただきたいことは、神様は彼らを完全に滅ぼすことを望んでいないということです。私たちの神は一人として滅びることなく、すべての人が救われることを望んでおられるのです。ですから、神様はあえてこのような試練や困難を与えて、彼らがご自身のもとに立ち返るようにと矯正しておられるのです。徹底的な厳しい対処をしながらも、決して見捨てることはなさらないのです。だって、もし本当に滅ぼすつもりなら、こんな回りくどいことはしないでしょう。あのソドムとゴモラを滅ぼしたように、天から硫黄を降らせればいいわけですから。そうすれば、一瞬にして滅びてしまいます。わざわざ日照りにしなくてもいいのです。いろいろな種類の死を与える必要もありません。一つの種類で十分です。しかも一瞬でいいのです。しかし、主はあえてそういうことをなさらずに時間をかけながら、痛みを与えて、お尻をペンペンして、彼らが間違いを犯したことを思い知るようにさせたのです。それは彼らを滅ぼしたいからではなく救いたいからです。同じように主は私たちをも受け入れ、赦したいのです。またその関係を回復したいと願っておられるのです。子どもが間違いを犯して親に「ごめんなさい。許してください」という時、親が両手で抱きしめてくれるように、私たちを赦し抱きしめて受け入れてくださるのです。私たちの神様はそういう方なのです。ですから、これは滅ぼすことが目的なのではなく、あくまでも教育を目的とした試練なのです。バビロンに捕え移されることも、彼らにとっては異教的な環境の中で相当の苦難とストレスに苛まれることになりますが、このことを通して彼らは、あの頃がどんなに神様の恵みと憐れみに満ち溢れていたすばらしい時だったかを知るようになります。それがバビロン捕囚という70年間にわたる神の懲らしめの時だったのです。
それは1章10節のところで、すでに神様がエレミヤを通して語られていたことでした。「見なさい。わたしは今日、あなたを諸国の民と王国の上に任命する。引き抜き、引き倒し、滅ぼし、壊し、建て、また植えるために。」
これがエレミヤの使命でした。建て上げるために壊さなければなりません。植えるために引き抜かなければならないのです。バビロン捕囚の警告のメッセージは、まさに滅ぼすメッセージでしたが、実はそれは建て上げるためだったのです。建設的な目的でなされたのです。もしあなたが彼らほど頑なでなければ、神様はあなたにこういう扱いはされません。彼らは頑なで、どんなに口で言っても聞かなかったので、主は痛みを与えてまでも彼らを立ち返らせようとしたのです。そんな思いをしなくても「わかりました。ごめんなさい」と素直に受け入れたなら、それで済むことだったのです。
4節をご覧ください。ここには「わたしは彼らを、地のすべての王国にとって、おののきのもとにする。ユダの王ヒゼキヤの子マナセがエルサレムで行ったことのためである。」とあります。
主は彼らを、地のすべての王国にとって、おののきのもとにします。これは、地のすべての民が、ユダの民が通った悲劇を見て、恐れおののくようになるということです。どうして彼らはあんなにも恐ろしい体験をしなければならなかったのかと。バビロンが容赦なく彼らを殺したのも、さぞかし恐ろしかったことと思います。
しかし、ここで特に注目していただきたいことは、その原因が「マナセがエルサレムで行なったことのためである」と言われていることです。どういうことでしょうか。マナセはユダの王ヒゼキヤの子ですが、南ユダ王国史上最低の王でした。極悪王です。彼については歴代誌第二33章1~9節に書いてあるので参照していただきたいと思いますが、彼は12歳で王になると、エルサレムで55年間南ユダを治めました。彼は、主がイスラエルの子らの前から追い払われた異邦の民の忌み嫌うべき慣わしをまねて、主の目に悪であることを行いました。そして、父ヒゼキヤが取り壊した高き所を築き直し、バアルのためにいくつもの祭壇を築き、アシェラ像も造りました。また、彼は天の万象を拝んでこれに仕えたのです。こうして彼は、主がかつて「エルサレムにわたしの名がとこしえにあるように」と言われた主の宮に、いくつもの偶像の祭壇を築いたのです。そして、ベン・ヒノムの谷で自分の子どもたちに火の中を通らせたり、卜占(ぼくせん)とかまじないをし、呪術を行い、霊媒や口寄せをし、主の目に悪であることを行って、いつも主の怒りを引き起こしていたのです。彼はそのようにしてユダとエルサレムの住民を迷わせて、主がイスラエルの子らの前で根絶やしにされた異邦の民よりも、さらに悪いことを行わせたのです。そのために主は、それから約100年後のこのエレミヤの時代に、南ユダを滅ぼすと決めたのです。マナセがエルサレムで行ったことのために、南ユダは悲惨な状態に置かれることになってしまいました。一人の国家のリーダーの罪によって大きな弊害がもたらされることになるということです。それは今だけでなく後の時代にも影響を及ぼすことになります。そういう意味では、エレミヤの時代だけでなく、今の時代においても私たちはどうなのかが問われているのです。
Ⅱ.エルサレム滅亡の預言(5-9)
次に5~9節をご覧ください。「5 エルサレムよ、いったい、だれがおまえを深くあわれむだろう。だれがおまえのために嘆くだろう。だれが立ち寄って、おまえの安否を尋ねるだろう。6 おまえはわたしを捨てた。──主のことば──おまえはわたしから退いて行ったのだ。わたしはおまえに手を伸ばし、おまえを滅ぼす。わたしはあわれむのに疲れた。7 わたしはこの地の町囲みの中で、熊手で彼らを追い散らし、彼らに子を失わせ、わたしの民を滅ぼす。彼らはその生き方から立ち返らなかった。8 わたしはそのやもめの数を海の砂よりも多くする。わたしは若い男の母親に対し、真昼に荒らす者を送って、突然、彼女の上に苦痛と恐怖を臨ませる。9 七人の子を産んだ女は打ちしおれ、その息はあえぐ。彼女の太陽は、まだ昼のうちに沈み、彼女は恥を見て、屈辱を受ける。わたしは彼らの残りの者を、彼らの敵の前で剣に渡す。──主のことば。」」
エルサレム、ユダに対する神のさばきの宣告です。5節の「いったい、だれがお前を深くあわれむだろう。だれがおまえのために嘆くだろう。だれが立ち寄って、おまえの安否を尋ねるだろう。」とは、だれからも相手にされないということです。完全に見捨てられることになります。6節の「わたしはあわれむのに疲れた」とは、もう二度と憐れまないということです。その都度「ごめんなさい。もうしません」と言うものの、それは口先ばかりで、心が伴っていなからです。その場しのぎの謝罪にすぎません。同じことを繰り返しても謝れば赦してもらえると思っています。泣きつけば赦される、涙を見せれば赦されると思っているのです。主はそういうことに疲れたと言っておられるのです。主は心からの悔い改めを望んでおられます。表面的に悔い改めて罪の赦しを求めるというのではなく、主の御前に砕かれた悔いた心をもって出ることを求めておられるのです。「主よ、私はあなたの御前に罪を犯しました。私は滅ぼされてしかるべき者です。それでも、なお、あなたにすがります。どうかあわれんでください。」と、目を天に向けることもできず、胸を叩いて泣きながら、自分の心を注ぎ出して祈ったあの取税人のように祈るなら、主は必ず聞いてくださいます。ご自身の恵みによってすべての罪、咎を拭い去り、きよめてくださるのです。
でも、彼らはそうしませんでした。ただ適当に教会に来てればそれで神様に受け入れられると思っていました。日曜日の礼拝さえ守っていれば、それで十分だと思っていたのです。そういう人たちに対して主は、もうそれは飽きたと。もう疲れたと言っておられるのです。主が求めておられるのは砕かれた悔いた心です。主はそれをさげすまれません。
 7~9節は、エルサレム滅亡の預言です。「熊手」とは脱穀の時に用いられるもので、もみ殻と実をふるい分ける時、この熊手ですくい上げて空中に飛ばすと、軽いもみ殻だけが飛んで重い実が落ちますが、その時に使う道具です。神様はもみ殻を熊手でふるって殻を飛ばすように、ユダの民を追い散らすのです。その時に用いられるのがバビロンです。「彼らに子を失わせ、わたしの民を滅ぼす」の「彼ら」とは、そのバビロンのことを指しています。バビロンが侵攻して来て、妻子たちを奪って行くのです。8節の「やもめの数を海の砂よりも多くする」とは、男たちが戦いで死ぬため、皆やもめとなってしまうということです。9節には、息子を戦争に送り出した母親の嘆きが描かれています。「七人の子を産んだ女」とは、「七」が完全数であることから、これほど恵まれた女性はいない、これほど幸せな女性はいないという意味です。しかし、そのような女性でも打ちしおれてしまいます。それほどの悲劇だということです。
彼らは自分たちに降りかかる悲劇の根本的な理由が、彼らの罪にあることを悟るべきでした。エルサレムが滅亡した理由は、バビロンが強かったからではなく、イスラエルの罪のためでした。私たちは苦難の原因を他人や他の環境から探そうとするのではなく、自分自身から探さなければなりません。自分自身と神との関係はどうなのかを考えなければならないのです。私たちと神との関係が壊されるのと同時に、これまで努力して積み上げてきたすべての人間的な労苦は一瞬にして崩れ去ってしまうことになります。苦難の時に生きる唯一の道は、神との関係を回復することです。神に立ち返ることだけが生きる道なのです。神はそのような者にご自身の恵みとあわれみを注いでくださるのです。
Ⅲ.神の慰め(10-14)
第三のことは、そこに神の慰めがあるということです。10~14節をご覧ください。まず10節だけをお読みします。 「ああ、悲しいことだ。私の母が私を産んだので、私は全地にとって争いの相手、また口論する者となっている。私は貸したことも、借りたこともないのに、皆が私を呪っている。」
この「私」とはエレミヤのことです。エレミヤは、母が自分を生んでくれたので悲しいと言っているのではありません。そうではなく、こんな時代に生まれてしまったことの悲しみ、悲惨さを嘆いているのです。お母さんに産んでもらったのはありがたいことだけど、この時代が悪すぎる。こんな時代に生まれて、だれも幸せになんてなれない。あまりにも悲しい。いっそのこと生まれてこなければよかった。生まれてこない方が幸せだったと嘆いているのです。
続いてエレミヤはこう言っています。「私は全地にとって争いの相手、またまた口論する者となっている。」新共同訳聖書では、「国中でわたしは争いの絶えぬ男/いさかいの絶えぬ男とされている。」と訳しています。そういう意味です。エレミヤは国中の人たちから嫌われました。なぜ?神のことばをストレートに語ったからです。彼らが聞きたいようなことではなく聞きたくないようなこと、耳障りのよいことではなく悪いことばっかり語るので嫌われていたのです。誤解もされました。彼は本当の愛国者で、そのためには命を捨てても構わないというくらい同胞を愛していたのに、彼らはエレミヤを受け入れなかったどころか彼を憎み、彼を殺そうとまでしたのです。
「貸したことも、借りたこともないのに」とは、何の負債もないのに、という意味です。何の負債もないのですから、何の責任もないはずです。それなのに彼は、国中の人たちに嫌われ、憎まれ、のろわれ、迫害されました。あまりにも理不尽です。
それでエレミヤは自分が生まれて来たことを悲しんだのです。だったら生まれてこなかった方がよかったと。時として私たちもこのような自己憐憫に陥ることがあります。全く回りが見えず、自分の受けた傷にどっぷりと浸り、他のことを切り捨ててしまうのです。それは、人生を浪費させてしまう麻薬中毒のようなものです。あわれみは、人を愛の行動に駆り立てるアドレナリンのようなものですが、自己憐憫は、逆に自分からエネルギーを奪い取り、自分をだめにしてしまう麻薬中毒のようなものなのです。いったいどうしたらこの状態から抜け出すことができるのでしょうか。どうしたらこの問題を真に解決することができるのでしょうか。その鍵は、その問題を神様のもとに持って行くことです。
11~14節をご覧ください。「11 主は言われた。「必ずわたしはあなたを解き放って、幸せにする。必ずわたしは、わざわいの時、苦難の時に、敵があなたにとりなしを頼むようにする。12 人は鉄を、北からの鉄や青銅を砕くことができるだろうか。13 わたしは、あなたの財宝、あなたの宝物を、あなたの領土のいたるところで、戦利品として、ただで引き渡す。あなたの罪のゆえに。14 わたしはあなたを、あなたが知らない地で敵に仕えさせる。わたしの怒りに火がつき、あなたがたに向かって燃えるからだ。」」
アーメン!主はこう言われました。「必ずわたしはあなたを解き放って、幸せにする。」そうです、真の解決は主ご自身にあります。エレミヤは抜け出すことかできない長いトンネルの中で、自分の運命をのろいながら、生まれてこない方がよかったと嘆きましたが、そんな彼に対して主は、「必ずわたしはあなたを解き放って、幸せにする。」と言われたのです。神はエレミヤの嘆きを聞いてくださいました。神が知ってくださる。これ以上の慰めがあるでしょうか。
アブラハムの妻サラの女奴隷ハガルはアブラハムのために身ごもるとサラからいじめられたので、彼女のもとから逃げ去りました。主の使いは、荒野にある泉のほとり、シュルへの道にある泉のほとりで彼女を見つけとる、「あなたはどこへ行くのか。」「あなたの女主人のもとに帰り、彼女のもとで身を低くしなさい。」といいました。そうすれば、主は彼女の子孫を増し加えると。そして、生まれて来る子をイシュマエルと名付けるようにと言いました。
そこで、彼女は自分に語りかけた主の名を「エル・ロイ」と呼びました。意味は「私を見る神」です。主は私を見てくださる方、私の苦しみを知っておられる方、「エル・ロイ」と呼んだのです。自分の弱さのために悩むことが多い私たちの人生において、私を知ってくださる方がおられるということは、どれほど大きな慰めでしょう。これ以上の慰めはありません。
そして、神はエレミヤに、励ましのことばをかけてくださいました。「必ずわたしはあなたを解き放って、幸せにする。必ずわたしは、わざわいの時、苦難の時に、敵があなたにとりなしを頼むようにする。」と。あなたはそんなに落ち込んでいるようだけれども、わたしはあなたを見捨てることはしない。この民のためにとりなすあなたの労苦が報われる時が必ず来る。今あなたに敵対している敵が、わざわいの時、苦難の時に、あなたにとりなしを求めてやってくるようになる、とおっしゃられたのです。すごいですね、神様の励ましは。後になって、このことばが成就することになります。エレミヤ書21章1~2節、37章3節、42章1~6節にあります。彼らはバビロンが攻めて来たとき、エレミヤのところに来て、「私たちのため、この残りの者すべてのために、あなたの神、主に祈ってください。」(42:2)とお願いしています。するとエレミヤも「あいよ!」と言って応えます。「承知しました。見よ。私は、あなたがたのことばのとおり、あなたがたの神、主にいのり、主があなたがたにお答えになることはみな、あなたがたに告げましょう。あなたがたには何事も隠しません。」(42:4)と言っています。
皆さん、これが解決です。12節の「北からの鉄や青銅」とはバビロン軍のことです。また14節の「あなたが知らない地」もバビロンのことです。神様はエレミヤに、彼が語っていることは必ず成就するから恐れるな、と励ましてくださったのです。
エレミヤは、こんなことだったら生まれてこない方がよかったと、自分の運命をのろうほど疲れ果てていたというか、ほとんど鬱状態にまで陥っていましたが、そうやって神様はエレミヤを励まして、なおも彼が主に仕えることができるように助けを与えてくださったのです。私たちが自己憐憫に陥るような悲しみの中で、それでも励まされ、助けられ、立ち上がることができる力はここにあります。神様ご自身が私たちの慰めであり、励まし、助け、希望なのです。
あなたはどうでしょうか。あなたもエレミヤのように誤解されたり、迫害されたり、全く理不尽だと思うような扱いを受けて悲しんでいませんか。もう回りも見えなくなって、こんなことなら生まれてこない方がよかったと思うほど落ち込んでいませんか。でも恐れてはなりません。あなたが神様に目を留め、神様に信頼するなら、あなたの敵でさえも、あなたにとりなしを頼みに来るようになります。そう信じて、神様から勇気と力をいただこうではありませんか。