救いは主にあります エレミヤ書3章19~25節

聖書箇所:エレミヤ書3章19~25節(エレミヤ書講解説教8回目)

タイトル:「救いは主にあります」

 きょうはエレミヤ書3章19節から25節の御言葉から、悔い改めについてお話します。これは前回の続きです。前回は3章6節から17節までのところからお話しましたが、主はエレミヤを通して背信のイスラエルに立ち返れと語られました。なぜなら、主は恵み深い方であられるからです。主はいつまでも怒ってはおられません。ただ、イスラエルが咎を認めて主に立ち返るなら、主は赦してくださいます。

そればかりではありません。そのようにしてイスラエルが主に立ち返るなら、驚くべき回復と希望がもたらされるのです。それは残りの者を残してくださり、彼らを北の国から解放するということでした。それはエレミヤの時代で言うならアッシリヤとかバビロンといった国から解放されるということでしたが、それは遠い未来における、完全な神の支配がもたらされるということでした。つまり、キリストが再臨される時にもたらされる千年王国のことです。16節に「その日」とか17節には「そのとき」、また18節には「その日」とはありますが、これは世の終わりのキーワードで、主イエス・キリストが再臨される時の預言でもあります。そのとき、主が御座に座して治めてくださるのですべての悪を一掃してくださり、完全な平和の時代がやって来るのです。預言者イザヤは、その時代のことを次のように言っています。「6 狼は子羊とともに宿り、豹は子やぎとともに伏し、子牛、若獅子、肥えた家畜がともにいて、小さな子どもがこれを追って行く。7 雌牛と熊は草をはみ、その子たちはともに伏し、獅子も牛のように藁を食う。8 乳飲み子はコブラの穴の上で戯れ、乳離れした子は、まむしの巣に手を伸ばす。9 わたしの聖なる山のどこにおいても、これらは害を加えず、滅ぼさない。主を知ることが、海をおおう水のように地に満ちるからである。」(イザヤ11:6~11)

すごいですね。このような平和な時代がやって来るのです。このような文脈の中で世の終わりのことが預言されているというのはすごいことです。これは神様でなければ決して書けないような内容でしょう。改めて聖書は神のことばであるということを実感させられます。

しかし、それは世の終わりの時だけでなく、イエス・キリストを信じて生きる今の私たちにも言えることなのです。つまり、イエス・キリストを信じ、イエス・キリストが心の王座に迎えている人は、イエス様がそのここ心を支配してくださるので、この世にありながらさながら天国のような歩みをすることができるということです。そのような回復と希望が与えられるのです。ですから「立ち返れ」と言われるのです。

きょうはその続きです。きょうのところでも主はイスラエルに立ち返るようにと呼びかけておられます。なぜでしょうか。救いは、主にあるからです。だから、もしあなたが自分の罪を認めて主に立ち返るなら、主はあなたを癒してくださるのです。

 Ⅰ.主を裏切ったイスラエル(19-21)

まず19~21節をご覧ください。「わたしは思っていた。どのようにして、あなたを息子たちの中に入れ、あなたに慕わしい地を与えようかと。国々のうちで最も麗しいゆずりの地を。また、あなたがわたしを父と呼び、わたしに従って、もう離れないと思っていた。20 ところが、なんと、妻が夫を裏切るように、あなたがたはわたしを裏切った。イスラエルの家よ-主のことば-。21 一つの声が裸の丘の上で聞こえる。イスラエルの子らの哀願の泣き声だ。彼らが自分たちの道を曲げ、自分たちの神、主を忘れたからだ。」

主はイスラエルをわが子とし、アブラハムに約束してくださった契約に従って、国々の中で最も麗しい地を与えようと思っていました。それは約束の地カナンのことです。また主は、彼らがご自身を父と呼ぶことを喜ばれました。それは彼らが主に従って、もう離れないと思っていたからです。旧約聖書の時代、イスラエルの民が神を、ここまで親しく呼ぶことは許されていませんでした。「主」とか「神」とか呼ぶことはあっても、「父」と呼ぶことはできなかったのです。「父」と呼ぶことは、それだけ親しい関係にあるということです。それほど神はイスラエルを実の子のように愛されたのに、なんと、彼らは妻が夫を裏切るように、主を裏切ってしまいました。皆さんは人から裏切られた経験があるでしょうか。愛を裏切られるほど骨身にしみる苦痛はありません。その結果、彼らは裸の丘の上で、哀願の泣き声を上げるようになりました。「裸の丘の上」とは、以前もお話したように、偶像礼拝が行われていた場所のことです。彼らは主を裏切って偶像に仕えるようになった結果、苦痛によって泣き、哀願の泣き声を上げるようになったのです。

私たちも主を裏切るようなことがあれば、彼らと同じように神の祝福を失うことになります。その祝福とは何でしょうか。それは罪の赦しであり、神の子どもとされる特権であり、永遠のいのち、神が共にいてくださるといったものです。神が共におられるほどの祝福はありません。それこそ、私たち人間が造られた目的なんですから。

皆さん、人が造られた目的は何でしょうか。人は何のために生きているのでしょうか。ウェストミンスター小教理問答書にはこうあります。「人のおもな目的は、神の栄光をあらわし、永遠に神を喜ぶことです。」

人の造られたおもな目的は、神の栄光を現わし、永遠に神を喜ぶことです。それを実現してくださったのがイエス様です。イエス様は、神から離れ罪の中に死んでいた私たちのために十字架で死んでくださり、その罪を贖ってくださいました。ですから、このイエスを信じる者はすべての罪が赦され、永遠のいのちが与えられるのです。永遠のいのちとは、永遠に神が共にいてくださるということです。これほどすばらしい祝福はありません。これこそ、私たちが生きる目的なのですから。これがなかったら、真の喜びや満足を得ることはできません。なぜなら、どんなにこの世の満足を手に入れてもそれは一時的なものであって、すぐに消えてしまうからです。

たとえば、毎年思うことですが、プロ野球の世界では戦力外通告というものがあります。毎年多くの選手がプロ野球界から去って行きます。一時はドラフト1位とかに選ばれて華やかなプロ野球の世界に入って行きますが最後まで残れるのはほんの一握りだけで、ほとんどの選手は戦力外通告を受け、プロ野球界から去って行きます。あの喜びは一時的なものなのです。しかし、イエス・キリストを信じることで与えられる永遠のいのちは、いつまでも続きます。永遠に神を喜ぶことができるのです。これほどすばらしい特権はありません。それなのに、これを失うことがあるとしたら、どれほど悲しいことでしょうか。

イスラエルは、神との契約によってそのすばらしい特権が与えられていたにもかかわらず、何と夫である主を裏切ってしまいました。自分たちの道を曲げ、自分たちの神、主を忘れてしまったのです。

それは私たちにも言えることです。私たちもイスラエルのように神を信じ、イエス・キリストの贖いによって神の子とされたのに、神に背くことで、その祝福を失っていることがあります。一杯のレンズ豆と引き換えに長子の権利を譲ったエサウのように、霊的なことに目が開かれず、いつも肉的なことを考えて、神の祝福と特権を失っていることがあるのです。

パウロは、ピリピ3章17~21節でこのように言っています。「17 兄弟たち。私を見ならう者になってください。また、あなたがたと同じように私たちを手本として歩んでいる人たちに、目を留めてください。18 というのは、私はしばしばあなたがたに言って来たし、今も涙をもって言うのですが、多くの人々がキリストの十字架の敵として歩んでいるからです。19 彼らの最後は滅びです。彼らの神は彼らの欲望であり、彼らの栄光は彼ら自身の恥なのです。彼らの思いは地上のことだけです。20 けれども、私たちの国籍は天にあります。そこから主イエス・キリストが救い主としておいでになるのを、私たちは待ち望んでいます。21 キリストは、万物をご自身に従わせることのできる御力によって、私たちの卑しいからだを、ご自身の栄光のからだと同じ姿に変えてくださるのです。」

ここでパウロはピリピの兄弟たちに、「私を見ならう者になってください。」と言っています。また、「私たちを手本として歩んでいる人たちに、目を留めてください。」と言っています。なぜなら、多くの人々がキリストの十字架の敵として歩んでいたからです。キリストの十字架の敵として歩むとはどういうことでしょうか。ここには、彼らの神は彼らの欲望であり、彼らの思いは地上のことだけです、とあります。教会にはいつでも、右に道を踏み外す人と左に道を踏み外す人がいます。右とは、何事も決まりをきちんと守って救いを全うしようとする人のこと、いわゆる律法主義的な人のことです。左とは、決まりなどどうでも良い、好き勝手に生きればいいのだという快楽主義者のことです。聖書の教え、キリストの教えに従うのではなく自分の考えに従って生きる人のことです。ここで言われているのは後者のことです。彼らの思いは地上のことだけです。彼らの神は彼らの欲望なのです。彼らはキリストの十字架の道を踏み外していました。彼らの最後は滅びだったのです。

私たちもエサウのように地上のもの、目先のものばかりを追い求め、目がくらんでいるということがあるのではないでしょうか。神様よりも自分の思いに従って生きているのです。イエス様が心の王座に座しているのではなく、自分がその椅子にドスンと居座っているのです。実は、聖書ではこれを罪と言っているのです。罪とは何か悪いことをするだけでなく、それ以上に神を神としないことです。神に背いていることを言うのです。その結果パウロは、彼らの最後は滅びだと言いましたが、神様からの祝福と特権を失っていることがあるのです。勿論、本当に信じたのであれば失うということは絶対にありませんが、そうでなければ、いつも神に背いていることがあるのです。この時のイスラエルのように神から離れ、神を裏切ることがないように注意しなければなりません。

 Ⅱ.背信の子らよ、立ち返れ(22a)

では、どうしたらいいのでしょうか。それは、悔い改めるということです。22節の前半をご覧ください。「背信の子らよ、立ち返れ。わたしがあなたがたの背信を癒やそう。』」

「立ち返れ」。これがエレミヤ書におけるキーワードの一つです。それは裏切りという罪を悔い改めて、もう一度神に立ち返れということです。つまり、偶像礼拝を止め、主なる神を神として崇めて生きるように、ということです。これが、罪が赦されるための第二のステップです。第一のステップは何でしたか?13節にありました。「ただ、あなたの咎を認めよ。」ということでしたね。そして罪、咎を認めたら、次のステップは「立ち返る」ことです。神のもとに立ち返るのです。自分の罪に気づいているのに、その重荷を自分に背負わせて、神のもと立ち返ろうとしない人がいます。自分の罪はあまりにも大きいので赦されるはずがない、と思っているのです。けれども主はこう言われます。「背信の子らよ、立ち返れ。わたしがあなたがたの背信を癒そう。」

そこはあなたが居るべき場所ではありません。そこはあなたが行くべきところではないのです。あなたが居るべきところはここです。わたしに帰れ。そうすれば、わたしがあなたの背信を癒そう。主は不正や罪を見逃されることはありませんが、かといっていつまでも怒っておられる方ではありません。自分の罪を認め、主に立ち返るなら、主はその罪を赦してくださるのです。

ここには「わたしがあなたがたの背信を癒そう。」とあります。主は癒してくださる方なのです。これは主が背信の子を病人と見立て、それを癒される医者であることを表しています。病人にとって必要なのは癒してくれる医者です。お医者さんにもいろいろな方がおられますが、患者にとって一番うれしい医者は、病人に寄り添い、病人の気持ちを理解し、その病気を癒してくれる医者です。

私は18年前に大田原に引っ越してきましたが、移住して一番悩んだのはどの病院にかかったらよいかということでした。私は、27歳の時家族でアメリカの妻の実家に行った際、ステーキを食べ過ぎて痛風になりまして、それ以来、毎年1回くらい足の親指に痛みが出ることがあるのです。まあ食べ過ぎだけが原因ではなく、体質とか、その時の状態によっても発作が起こることがあるんですが、度々これに悩まされてきたのです。それでも福島にいた頃は若かったこともあって、それほどひどくもなかったのですが、大田原に来てからはしばしば発作が出たので、真面目に治療しなければならないと思いましたが、どの病院で診てもらったらよいかわかりませんでした。

ところがある病院に行きましたら、その病院の医師は私が症状をちょっと話して診ただけで、「ああ、これだね」とすぐわかるのです。「念のためレントゲンを撮りましょう」と言うと、「やっぱりそうだ。これです。この薬を飲むと3日で痛みが取れます」というのです。ホンマかいなと半信半疑で処方された薬を飲むと本当に痛みが取れるのです。ある時は私の顔を見ただけで、「ああ、あの問題でしょ」と言います。顔を見ただけでわかる。優れたお医者さんでした。

残念ながら数年前に、たぶん亡くなったのだと思いますが、病院が閉じられていました。それで他の病院をいろいろ探してみたのですが、あのようなお医者さんはなかなか見つかりません。本当に良いお医者でした。私の痛みを和らげ、いつも癒してくれました。

イエス様は、私たちの病気を癒してくださる医者です。イエス様はこう言われました。「12医者を必要とするのは丈夫な者ではなく、病人です。13 『わたしはあわれみは好むが、いけにえは好まない』とはどういう意味か、行って学んで来なさい。」(マタイ9:12-13)イエス様は魂の医者として、罪に病む心と体と魂を癒して下さいます。それなのに、罪人を招くために来られたイエス様のもとに行かないで、自己診断するようなことがあったら残念です。自分が熱心に努力すれば、罪はなくなると。しかし、私たちは自分で自分の病気を治せないように、自分の熱心さや努力では救われたり、信仰者として生きていくことはできないのです。私たちに罪の赦しを与え、信仰者として生かして下さるのは、ただ神の憐れみによるのです。

ですから、イエス様は「『わたしはあわれみは好むが、いけにえは好まない』とはどういう意味か、行って学んで来なさい。」と言われたのです。私たちがどんなに立派ないけにえを捧げるかということではなく、神の憐れみが私たちを救うのです。そのことを「行って、学べ」と言われたのです。自分の努力とか熱心、自分はこれだけのことをやってきた、そういう思いの中にあぐらをかいているのではなく、そこから立ち上がって、罪人を招いて下さるイエス様のもとへ行きなさい、と言うのです。それは自分の罪を悔い改め、イエス・キリストを救い主として信じて受け入れるということであって、さらに、イエス様を信じてからもつい神様に背いている私たちの罪を認め、神のもとに立ち返りなさいということです。そのことによって私たちは、罪人を招くために来られたイエス様の恵みを御言葉によって学びつつ、健全な信仰者として歩んでいくことができるのです。

 Ⅲ.救いは主にあります(22b-25

 その悔い改めの招きに対して、イスラエルはどのように応答したでしょうか。22節後半から25節までをご覧ください。「「今、私たちはあなたのもとに参ります。あなたこそ、私たちの神、主だからです。23 まことに、もろもろの丘も、山の騒ぎも、偽りでした。確かに、私たちの神、主にイスラエルの救いがあります。24 しかし、私たちが若いころから、恥ずべきものが、私たちの先祖の労苦の実、彼らの羊の群れ、牛の群れ、息子、娘たちを食い尽くしてきました。25 私たちは恥の中に伏し、恥辱が私たちの覆いとなっています。私たちの神、主に対し、私たちも先祖も、若いころから今日まで罪の中にいて、私たちの神、主の御声に聞き従わなかったからです。」」

これはイスラエルの悔い改めの祈りです。彼らはどのように悔い改めたでしょうか。彼らはまず、主のもとに行きました。22節に「今、私たちはあなたのもとに参ります。」とあります。そして、彼らは彼らの神、主を、神と認めました。ここには「あなたこそ、私たちの神、主だからです。」とあります。

そして、偶像は偽りであり、まことの救いは主にあると告白したのです。23節です。「まことに、もろもろの丘も、山の騒ぎも、偽りでした。確かに、私たちの神、主にイスラエルの救いがあります。」とはこのことです。「もろもろの丘」とか「山の騒ぎ」とは偶像礼拝が行われていた場所のことです。それは偽りであった言っています。

そしてそうした偶像礼拝の結果、羊の群れや牛の群れ、息子、娘たちを食い尽くしたと言っています。24節と25節です。「しかし、私たちが若いころから、恥ずべきものが、私たちの先祖の労苦の実、彼らの羊の群れ、牛の群れ、息子、娘たちを食い尽くしてきました。」

この「恥ずべきものが」ということばですが、新改訳聖書第三版では「バアルが」と訳しています。「バアル」とは豊穣の神でした。豊穣をもたらすはずの神なのに、恥をもたらしました。豊穣ではなく先祖たちの労苦の実や牛の群れ、羊の群れを食い尽くしたのです。全く皮肉な話です。豊穣をもたらしてくれるはずなのに、繁栄とか、成功とか、祝福といった人間の願望を満たしてくれるはずなのに、逆に、あなたのすべてを奪ってしまうのです。豊穣というのは名ばかりで、実態はあなたを蝕み、あなたを食い尽くすのです。それがバアルであり、この世の神であります。彼らはそのことを痛感したのです。

エレミヤ10章14節に、「すべての人間は愚かで無知だ。すべての金細工人は、偶像のために恥を見る。その鋳た像は偽りで、その中には息がない。」とある通りです。いのちのない偶像を拝んでも恥を見るだけです。彼らはそのことを痛感しました。

 私たちも偶像を拝むなら、バアルを拝むなら、恥を見ることになります。偶像とはなにも木や石で作ったものばかりでなく、神よりも大切にするもの、優先するものがあれば、それは偶像礼拝です。コロサイ人への手紙3章5節に「ですから、地にあるからだの部分、すなわち、淫らな行い、汚れ、情欲、悪い欲、そして貪欲を殺してしまいなさい。貪欲は偶像礼拝です。」とあります。貪欲は偶像礼拝なのです。もしあなたが上にあるものを思わないで、地にあるものを思うなら、そこにはこうした偶像によって恥を見ることになるのです。

 しかし私たちは新しい人を着ました。「新しい人は、それを造られた方のかたちにしたがって新しくされ続け真の知識に至ります。」(コロサイ3:10)キリストのようになるということです。それは深い慈愛の心、親切、謙遜、柔和、寛容、忍耐、赦し、すなわち、愛の心です。「確かに、私たちの神、主にイスラエルの救いがあります。」偶像ではなく、イエス・キリストを主とし、イエス・キリストに従うなら、あなたには救いがあるのです。

あなたはどうですか。あなたの神は何ですか。あなたは上にあるものではなく、地にあるものを求めていませんか。それは偶像礼拝です。それはあなたに豊穣をもたらすはずなのに、逆にあなたを蝕み、あなたを食い尽くすことになります。ですから、もしあなたが今、上にあるものではなく、地にあるものを求めているなら、イスラエルの神、主から離れ、主を忘れ、主を裏切っているなら、どうか主に立ち返ってください。そうすれば、主はあなたの背信を癒してくださいます。

旧約聖書に出てくるダビデは信仰の人でしたが、主のみこころにかなわないこともありました。その一つがバテ・シェバという女性と姦淫したことであり、イスラエルとユダの人数を数えるという罪でした。それでも彼のすばらしかったのは、彼が罪を犯した時にはすぐにその罪を認め。悔い改めて、神に立ち返ったことです。彼はバテ・シェバと姦淫した時も、預言者ナタンによってその罪が示されたとき、自分の罪を告白し、悔い改めて祈りました。すると主はその祈りを聞かれ、その罪を赦してくださったばかりか、そこからご自身の救いの御業を示されたのです。それが「アラウナの打ち場」の体験です。

この「アラウナの打ち場」の体験は、Ⅱサムエル記24章にありますが、ダビデがイスラエルの人数を数えるという罪のために、イスラエルに3日間の疫病が起こり、七万人が死にました。しかし、ダビデが「私は、このようなことをして、大きな罪を犯しました。主よ、今、このしもべの咎を取り去ってください。私は本当に愚かなことをしました。」(Ⅱサムエル24:10)と祈ったとき、主はわざわいを下すことを思い直し、彼に、「エブス人アラウナの打ち場に、主のために祭壇を築きなさい。」と言われたのです。その「アラウナの打ち場」こそ、かつてアブラハムがその子イサクを捧げた場所であり、ダビデの子ソロモンが神殿を建てる場所です。そして、なんと、ダビデの子として来られるメシヤ、救い主キリストが十字架で死なれる場所なのです。つまり、確かにダビデは主の御前に罪を犯しましたが、その罪を認め、悔い改めて、主に立ち返ったとき、主は、その背信を癒してくださったばかりか、そこからご自身の救いの御業を始められたのです。

これが、神がなさることです。神は、どんなに罪を犯しても、その罪を認めて、ご自身のもとに立ち返る者を癒してくださるばかりか、そこからご自身の救いの御業を始めてくださる方なのです。あなたもこの神の真実な愛に立ち返ってください。神はあなたを決して裏切ることはなさいません。その御言葉の約束のとおりに、あなたの背信を癒し、まことの救いを与えてくださるのです。ですから、あなたも今、主に立ち返ってください。確かに、私たちの神、主にイスラエルの救いがあります。