信じる者に働く神のことば Ⅰテサロニケ2章13~20節

聖書箇所:Ⅰテサロニケ2章13~20節

タイトル:「信じる者に働く神のことば」

きょうは、テサロニケ人への手紙第一2章の後半からお話したいと思います。この手紙は、1章1節にあるように、パウロ、シルワノ、テモテから、テサロニケの教会に宛てて書かれた手紙です。

このテサロニケの教会は、パウロが第二回伝道旅行でテサロニケを訪れた時、そこで神の福音を語った結果生まれた教会です。パウロたちは、いつものように安息日、これは土曜日のことですが、ユダヤ人たちは土曜日に会堂に集まって礼拝をしていたので、その安息である土曜日にユダヤ教の会堂に行って、聖書に基づいて彼らと論じました。聖書と言っても、この時は旧約聖書しかありませんでしたから、旧約聖書から論じたわけですが、何を論じたのかと言いますと、イエス・キリストこそ、旧約聖書で預言されていた救い主であるということです。この救い主のことを旧約聖書では「メシヤ」と言いますが、そのメシヤ、キリスト、救い主こそイエスであると論証したのです。

すると、それを聞いた大勢の人たちが信じて、キリストに従うようになりました。しかし、そこにいたユダヤ人たちは妬みに駆られ、暴動を起こしたので、パウロたちはそこに留まっていることができず、次のベレヤという町に逃れなければなりませんでした。結局、パウロたちがテサロニケにいたのはわずか3週間余りでした。その後彼らはベレヤ、アテネへと向かって行ったわけですが、彼らが気がかりだったのは、テサロニケに残したクリスチャンたちのことでした。あまり長くとどまることができませんでしたから、聖書のことをそんなに深く教えることができませんでした。まだイエス・キリストを信じたばかりです。そのような彼らに、ユダヤ人たちからあのような激しい迫害が加えられたひとたまりもありません。彼らの信仰は大丈夫だろうか、中には信仰から離れてしまう人もいるのではないか。それでパウロはアテネから弟子のテモテをテサロニケに遣わすのです。

すると、テサロニケから戻ってきたテモテは、パウロたちにすばらしい知らせをもたらしました。それは彼らがそうした激しい迫害の中でも、信仰に堅く立っているということ、そしてパウロたちと再会することを心待ちにしているということでした。それを聞いた時パウロは、次の伝道地のコリントという町にいたのですが、とても喜んで感謝の手紙を書きました。それがこのテサロニケ人への手紙です。

1章1節で、パウロは彼らにあいさつを書き送ると開口一番このように言いました。1章2節、3節です。書き送りました。「私たちは、あなたがたのことを覚えて祈るとき、あなたがたすべてについて、いつも神に感謝しています。私たちの父である神の御前に、あなたがたの信仰から出た働きと、愛から生まれた労苦、私たちの主イエス・キリストに対する望みに支えられた忍耐を、絶えず思い起こしているからです。」

激しい迫害の中にあって、彼らはどうして堅く信仰に立ち続けることができたのでしょうか。それは神のことばを聞いたとき、それを人間のことばとしてではなく、事実そのとおり神のことばとして受け入れたからです。そして、その神のことばが彼らのうちに働いたからなのです。神のことばは信じる者に働くのです。きょうは、このことについてお話したいと思います。

Ⅰ.信じる者に働く神のことば(13)

まず13節をご覧ください。「こういうわけで、私たちとしてもまた、絶えず神に感謝しています。あなたがたは、私たちから神の使信のことばを受けたとき、それを人間のことばとしてではなく、事実どおりに神のことばとして受け入れてくれたからです。この神のことばは、信じているあなたがたのうちに働いているのです。」

「こういうわけで」というのは、パウロがこれまで語ってきたことを受けてのことです。パウロはこれまでどんなことを語ってきたのかというと、彼がどのような動機で神のことば、福音を語ってきたのかということです。2章3節と4節には、「私たちの勧めは、誤りから出ているものでも、不純な心から出ているものでもなく、だましごとでもありません。むしろ私たちは、神に認められて福音を委ねられた者ですから、それにふさわしく、人を喜ばせるのではなく、私たちの心をお調になる神に喜んでいただこうとして、語っているのです。」とあります。彼は、福音をゆだねられた者として、それにふさわしく語ってきたのです。こういうわけで・・・です。

こういうわけで、パウロたちもまた、絶えず神に感謝していました。それは彼らが、パウロたちのことばを聞いたとき、それを人間のことばとしてではなく、事実そのとおり神のことばとして受け入れてくれたからです。神のことばとして受け入れるとは、ただ単に頭で理解するということではありません。神のことばとして受け入れるとは、それを絶対的な真理として受け入れるということです。つまり、そのことばに生きるということです。神のことばを聞いても、中には「ある人たちにとってはそうかもしれないけど、必ずしもそれがすべてではない」とか、「そういう考え方もあるけど、一般の大多数はそうでない」と言って、あくまでも自分の考えやこの世の価値観に従って生きていこうとする人がいます。いや、大半がそうかもしれません。牧師が語る聖書の言葉を聞いても、「なるほどいい話だった」とか「感動的な話だった」というレベルに留まっていて、そのことばに従って生きるところまで行かないのです。

昨年、お亡くなりになった瀬戸内寂聴さんは、岩手県二戸市浄法寺町(じょうぼうじまち)の天台寺で住職をされておられた時、あおぞら説法という法話をなさっていまして、それがまたおもしろいのです。あなたの仏様は、ほら、側にいるカレですよ、とか、幸せの早道は“今日はいい日”と信じることよ、夫婦とは縁なのです。添い遂げてこそ美しい、美しい、幸せなボケ方もありますなど、実におもしろいのです。また心に染みます。人に寄り添うってこういうことなんだなぁと教えられます。そのあおぞら説法には、1万人もの人々が全国各地から集まるのです。浄法寺町の人口が約5千人ですから、町の人口の2倍もの人たちが、その法話を聞くためにやって来るのです。

どうしてそんなに多くの人たちがやって来るのでしょうか。みんな癒されたいと思っているからです。確かにおもしろいと、心に染みます。でもそれ以上に、みんな癒されたいのです。そのためにわざわざ全国からやって来る。

でも、残念ながらそれは真理ではありません。真理は、イエス・キリストなのですから。イエス様は「わたしは道であり、真理であり、いのちなのです。」(ヨハネ14:6)と言われました。ですからどんなに感動的な話でも、そこには真理はありません。確かに心が癒されるかもしれませんが、それは心に染みる話のレベルであって、人間のことばとして受け止められているにすぎないのです。

しかし、テサロニケの人たちはそうではありませんでした。彼らは、パウロのことばを聞いたとき、それを人間のことばとしてではなく、事実通り神のことばとして受け入れました。ただ耳で聞いて感じたというのではなく、その聞いたことばのとおりに生きようとしていました。聞いたみことばを自分の生活の中に具体的に適用したのです。それを自分の生活の中に生かしました。それを自分たちが従うべき絶対的な真理として受け入れたのです。

私たちの教会では今、C-BTEという聖書の学びをしていますが、その目的はここにあります。聞いたみことばをただ頭で理解するだけでなく、自分の生活の中に実際に適用するのです。それは単に神様との個人的な関係を深めるという個人の信仰においてだけでなく、夫婦の関係や親子の関係、神の家である教会の中でどのようにふるまったらいいのか、教会の使命である宣教に対する考え方、社会における未信者との接し方など、あらゆる領域に至ります。それは別にC-BTEの学びだけでなく、どのような学びであっても、その目的はここにあるのです。みことばに生きること、それを自分の生活に適用することで、神のことばがその人の中に働き、目に見える形でイエス様のように変えられていきます。そのような姿を見るとき、ああ、ほんとうに神様は生きておられる!ということを実感させられます。

このテサロニケの人たちもそうでした。彼らはパウロたちから神のことばを受けたとき、それを人間のことばとしてではなく、事実そのとおり神の言葉として受けたとき、その神のことばが、信じている彼らのうちに働いたのです。この「働いている」ということばですが、これは「作用する」とか「動く」という意味があります。神のみことばがその人を動かして変化をもたらしたということです。リビングバイブルではここを、「信じる者の生活を一変させるのです」と訳しています。皆さん、神のことばは、それを信じる者たちの生活を一変させるのです。

1790年のことですが、イギリス政府が南洋諸島の一つであるカイキという島に、ゴムの栽培のために100人ほど送ったことがありました。その船の名前は「バウンティ号」でした。

その島に着いてみると、そこはまるでパラダイスのようでした。特に住民の女性たちはとても魅力的で、彼らはしだいに堕落し、本国からの命令を無視して、口やかましい船長に反抗し、船長を縛り小舟に乗せて、海の中で死ぬように追い出してしまいました。

それから彼らは本国から逮捕されるのを恐れ、隣のピカテリンという島に移り住むようになり、住民の女性たちをもてあそぶようになりました。そうなると喧嘩が絶え間なくなり、特にズームという熱帯植物で作ったお酒を飲むようになってからは、殺し合いまでするようになりました。そして最後に、ジョン・アダムズという人だけが残りました。

それから30年が経ち、そこを通りかかったアメリカの舟がその島に上陸したところ、目の前に驚くべき光景が広がっていました。何とそこには礼拝堂が建てられていて、ジョン・アダムズが牧師をしていたのです。彼はその島の王様で、父親のような存在でした。いったい何があったのか。彼はその島で起こったことを話してくれました。

彼の話によると、仲間たちが、むなしい戦いや殺し合いで死んでしまったある日、一人残った彼は、乱破した「バウンティン号」に戻ってみると、そこで1冊の聖書を見付けたのです。それを読み始めた彼は、しだいに聖書に引き付けられていき、ついにイエス・キリストを信じクリスチャンになりました。

その後聖霊の導きによって、島の子供たちを集めて字を教え、神のみことばである聖書を教えたのです。住民たちも彼を尊敬し、彼を王様にし、彼に従いました。そしてその島は、まことのパラダイスのようになりました。これは、ひとえに一冊の聖書の力によるものでした。神のことばは信じる者に働き、驚くべき力と変化をもたらすのです。

大田原の教会に、今年90歳になられるYさんという姉妹がおられます。10年ほど前から介護施設に入所しておられますが、以前介護施設にYさんを訪問したとき、救われた時のお話を聞いたことがあります。今年90歳ということは、1932年のお生まれということになりますが、三人兄弟の末っ子として生まれたYさんは、実にわがままに生きていたと言います。そんな時一番上のお兄さんが結核で亡くなるのです。まだ10代前半の頃でした。とても優秀なお兄さんで、自分のこともとてもよくかわいがってくれたお兄さんだったので、そのお兄さん亡くなったとき、心にぽっかりと穴が開いたような感じになりました。いったい自分は何のために生きているのかわからず、とても空しい日々を送っておられました。

そんな時、渋谷の駅前で行われていたキリスト教の路傍伝道に出会いました。それはユース・フォー・クライスト、青年をキリストへ、という団体がやっていたものでしたが、そこで歌われていた賛美歌を聞いていると、なぜか胸がスーってするのを感じました。それで教会に行っていた友達に誘われて教会に行くようになり、イエス様を信じることができました。

しかし戦後間もない日本では、キリスト教は耶蘇教と言われていた時代です。ご両親の反対はなかったのですかと尋ねると、全然なかったと言います。むしろ、応援してくれた、と言います。なぜなら、イエスさまを信じてからYさんの生活が一変したからです。それまでは両親に反抗的だった彼女が、イエスさまを信じてからは、両親の言うことをよく聞くようになったので、両親はとても喜ばれ、「キリスト教はいい宗教だ」と応援してくれたというのです。そればかりか自分たちも教会に行ってみたいと言うほどでした。それはYさんの生活が一変したからです。神のことばは、それを信じる者たちのうちに働いて、その人の生活を一変させる力があるのです。

そのことをパウロはこのように言っています。「私は福音を恥とはしません。福音は、ユダヤ人をはじめギリシャ人にも、信じるすべての人に救いを得させる神の力です。」(ローマ1:16)皆さん、福音はただの知識ではありません。福音は神の力です。ユダヤ人をはじめギリシャ人にも、信じるすべての人にとって救いを得させる神の力なのです。ですから、どのように聞くのかが重要です。聞き方に注意しなければなりません。どのように聞くのかによって、その結果が決まります。イエス様はそれを種まきのたとえで教えてくださいました。

「3種を蒔く人が種蒔きに出かけた。4 蒔いているとき、道ばたに落ちた種があった。すると鳥が来て食べてしまった。5 また、別の種が土の薄い岩地に落ちた。土が深くなかったので、すぐに芽を出した。6 しかし、日が上ると、焼けて、根がないために枯れてしまった。7 また、別の種はいばらの中に落ちたが、いばらが伸びて、ふさいでしまった。8 別の種は良い地に落ちて、あるものは百倍、あるものは六十倍、あるものは三十倍の実を結んだ。」(マタイ13:3~8)

神のことばを聞いても悟らないと、烏が来てその人の心に蒔かれたものを奪っていきます。アホ-、アホ-と言って。道端に蒔かれるとはこのような人たちのことです。また岩地に蒔かれるとは、みことばを聞くとすぐに喜んでそれを受け入れますが、自分のうちに根がないため、しばらくの間そうするだけで、みことばのために困難や迫害が起こると、すぐにつまずいてしまいます。またいばらの中に蒔かれるとは、みことばを聞くがこの世の心づかいと富の惑わしがみことばをふさぐため、実を結ばないのです。ところが、良い地に蒔かれるとは、みことばを聞いてそれを悟る人のことです。そのような人はほんとうに実を結び、あるものは百倍、あるものは六十倍、あるものは三十倍の実を結びます。

この神のことばは、信じている人のうちに働くのです。三十倍、六十倍、百倍の実を結ばせます。神のことばがその人のうちに働くからです。ですから、どのようにみことばを聞くのかが重要です。良い心でみことばを聞くなら、その人は本当に豊かな実を結びます。神のことばが、信じているあなたがたのうちに働くからです。ですから、良い心でみことばを聞かなければなりません。良い心でというのは、このテサロニケの人たちのように、聖書を通して語られた神のことばを、人間のことばとしてではなく、事実そのとおりに神のことばとして聞くということです。そのとき、神が働いてくださるのです。

これがクリスチャンです。クリスチャンとは人間が与える影響とか感動とかによってではなく、根本的には神のみことばによって内面が変えられ続ける者です。外なる人は衰えても、内なる人は日々新たにされていきます。この信じる者のうちに働くみことばの力にどれだけあずかっているかによって、クリスチャンの霊的成長の度合いも違ってくるのです。テサロニケのクリスチャンたちは、神のことばによって変えられ続けました。神のことばが彼らのうちに働いて、彼らの生活を一変させたのです。

Ⅱ.神の諸教会に倣う者(14-16)

次に14節から16節までをご覧ください。「14 兄弟たち。あなたがたはユダヤの、キリスト・イエスにある神の諸教会に倣う者となりました。彼らがユダヤ人たちに苦しめられたように、あなたがたも自分の同胞に苦しめられたからです。15 ユダヤ人たちは、主であるイエスと預言者たちを殺し、私たちを迫害し、神に喜ばれることをせず、すべての人と対立しています。16 彼らは、異邦人たちが救われるように私たちが語るのを妨げ、こうしていつも、自分たちの罪が満ちるようにしているのです。しかし、御怒りは彼らの上に臨んで極みに達しています。」

ここでパウロは、テサロニケのクリスチャンたちをユダヤの、キリスト・イエスにある神の諸教会にならう者となった、と言っています。どういうことでしょうか。実は原文では、14節の「倣う者となりました」の後に、「なぜなら」という言葉があります。なぜなら、彼らが同胞のユダヤ人に苦しめられたように、彼らも同胞のユダヤ人に苦しめられたからです。

ユダヤのイエス・キリストにある神の諸教会といったら、代表的な教会はエルサレム教会でしょう。エルサレム教会のクリスチャンは迫害によって殉教したり、各地に散らされたりしました。例えば、エルサレムにある教会では、ステパノが初めに殉教者となりました。なぜクリスチャンは迫害を受けるのでしょうか。それは、クリスチャンはこの世に属していないからです。イエス様はこう言われました。「人々がわたしを迫害したのであれば、あなたがたをも迫害します。」(ヨハネ15:20)クリスチャンはこの世に属しているのではなくキリストに属しているのです。ですから、この世がキリストを迫害したのであれば、クリスチャンをも迫害するのは当然のことです。もしクリスチャンがこの世と同じだったら、迫害されることはないでしょう。すなわち、この世と同じように肉的で、富や名誉を愛するなら、迫害されることはありません。しかし、クリスチャンはこの世に属していないので、この世はクリスチャンを迫害するのです。そのことを使徒パウロはこう言いました。「確かに、キリスト.イエスにあって敬虔に生きようと願う者はみな、迫害を受けます。」(Ⅱテモテ3:12)確かに、キリスト・イエスにあって敬虔に生きようと願うなら、迫害を受けます。ですから、それはクリスチャンにとっては勲章でもあるのです。テサロニケの人たちも、ユダヤの諸教会がユダヤ人たちから苦しめられたように、彼らも苦しめられたことで、彼らはユダヤの、キリスト・イエスにある神の諸教会に倣う者となったのです。これほどの誉め言葉があるでしょうか。正真正銘のクリスチャンになったというのですから。

そして、そうした中にあっても、彼らは信仰に堅く立ち続けことができました。なぜでしょうか。なぜなら、彼らの中に神のことばが働いていたからなのです。つまり、彼らが迫害の中でも信仰に堅く立ち続けることができたことが、神のことばが彼らの中に働いていたということの証明にもなったということです。神のことばが彼らの内に働いて新しく造り変え、聖め、養い、神にみこころにかなった者へと変えてくださったのです。確かにこの世にあって信仰の闘いはありますが、そのような闘いの中にあっても、神のことばは慰めと励ましを与え、いよいよイエス・キリストへの信頼に立たせてくれるのです。詩篇119篇50節「これこそ悩みのときの私の慰め。まことに、みことばは私を生かします。」とあります。これこそ、悩みのときの私たちの慰めです。私たちをまことに生かすみことばに導かれ、養われて、信仰の勝利の内を歩ませていただきたいと思うのです。

Ⅲ.私たちの望み、喜び、誇りの冠(17-20)

最後に17節から20節をご覧ください。「17 兄弟たち。私たちは、しばらくの間あなたがたから引き離されていました。といっても、顔を見ないだけで、心が離れていたわけではありません。そのため、あなたがたの顔を見たいと、なおいっそう切望しました。18 それで私たちは、あなたがたのところに行こうとしました。私パウロは何度も行こうとしました。しかし、サタンが私たちを妨げたのです。19 私たちの主イエスが再び来られるとき、御前で私たちの望み、喜び、誇りの冠となるのは、いったいだれでしょうか。あなたがたではありませんか。20 あなたがたこそ私たちの栄光であり、喜びなのです。」

パウロたちがテサロニケに滞在していたのは3週間くらいでしたが、彼らは何とかしてテサロニケに行って彼らに会いたいと切に願っていました。それで彼らは一度ならず二度までもそのことを試みましたが、できませんでした。サタンが彼らを妨げたからです。どういうことでしょうか?サタンが妨げるとは。サタンか妨げるというようなことがあるのでしょうか?あるのです。サタンは私たちの目で見ることはできませんが、いろいろな形で神の働きを妨害してくるのです。そして、私たちをキリストから引き離そうと躍起になっているのです。

それは私たちもよくあることです。たとえば、教会に行こうとしたら急に来客があって行けなくなったとか、聖書を読もうとしたら電話があって読めなかった、祈ろうとしたらどうも体がだるくて祈れない、そういったことがあります。ですから、私たちの背後にはサタンの巧妙な妨げや策略があるということを覚えて、絶えず目を覚まして祈っていなければなりません。

この時のサタンの妨害が実際に何を指しているのかはわかりません。ある人たちは、それはパウロが抱えていた肉体のとげ(Ⅱコリント12:7)ではないかと考えています。別にパウロの肉体にとげがあったということではありません。これは病気のことです。パウロは眼の病を患っていたので、そのために行くことが出来なかったのではないかと考えているのです。またある人は、テサロニケ市当局の厳しい監視の目があったのではないかと考えています。またある人は、パウロたちがこの後でアテネ、コリントへと伝道を進めて行くわけですが、その過程で生じた様々な問題のために、その対応に追われて行けなかったのではいかと考えています。はっきりしたことはわかりませんが、それがいずれの理由であったにせよ、パウロはその背後に神の働きを妨害しようとするサタンの存在と巧妙なしわざであったと見て取っていたのです。

しかし、そのような困難にもかかわらず、パウロは決して落胆しませんでした。たとえ彼らの顔を見ることができなくても、感謝することができました。なぜでしょうか?なぜなら、たとえ今彼らに会うことができなくても、やがて主イエスが再び来られる時、必ず再会できるという希望を持っていたからです。19節にこうあります。「私たちの主イエスが再び来られるとき、御前で私たちの望み、喜び、誇りの冠となるのは、いったいだれでしょうか。あなたがたではありませんか。」

いますぐに会うことはできないかもしれない。さまざまな妨げによって会えないでいるが、でも必ず再会する時がやってくる。いつですか。イエス・キリストが再び来られる時です。これは、イエス・キリストの再臨のことを意味しています。聖書には、その時どんなことが起こるのかを次のように言っています。Ⅰコリント15章53節です。「終わりのラッパとともに、たちまち、一瞬のうちに変えられます。ラッパが鳴ると、死者は朽ちないものによみがえり、私たちは変えられるのです。」(Ⅰコリント15:53)

イエス・キリストが再び来られる時、キリストを信じて死んだ人たちは、たちまち、一瞬のうちに変えられます。朽ちないからだ、栄光のからだによみがえるのです。これがクリスチャンの希望です。クリスチャンは死んで終わりではありません。よみがえるのです。イエス様が再び来られるとき、朽ちないからだ、栄光のからだによみがえり、いつまでも主とともにいるようになります。主にある兄弟姉妹と一緒に。だからクリスチャンは死んでも「さようなら」ではないのです。「また会いましょう」です。また会うことができるのです。「また会う日まで」です。ですから、クリスチャンは、たとえ今会う事ができなくても、たとえ困難や迫害の中にあっても、堅く立って、動かされることなく、いつも主のわざに励むことができるのです。そのことをパウロは、このように勧めています。「ですから、私の愛する兄弟たち。堅く立って、動かされることなく、いつも主のわざに励みなさい。あなたがたは、自分たちの労苦が主にあって無駄でないことを知っているのですから。」(Ⅰコリント15:58)

「ですから」とは、今お話したように、私たちはよみがえるという希望があるのですから、ということです。その時には一瞬のうちに朽ちることがないかせだによみがえり、顔と顔とを合わせて会うことができます。そのとき彼らは、神の御前で、パウロたちの望み、喜び、誇りとなります。すばらしいですね。わくわくします。クリスチャンにはこのような希望が与えられているのです。これが究極的な希望です。ですから、いつも主にあって励みなさいと勧められているのです。

それは、私たちにも言えます。私たちも、主が再び来られるとき、神の御前で、主の望み、喜び、誇りの冠となります。なぜなら、神のことばに生きているからです。聖書のことばを人間のことばとしてではなく、事実そのとおり神のことばとして受け入れました。そして、そのことばが、信じている私たちのうちに働いているからです。皆さんはどうでしょうか。主が再び来られるとき、神の御前で望み、喜び、誇りの冠となるでしょうか。これが最も重要なことです。

先週、北京オリンピックが閉幕しましたが、オリンピックの最終日に行われたのは女子カーリングの決勝でした。日本は予選で敗退したかと思ったら、韓国が負けたために準決勝に進むことができまして、予選で負けたスイスに勝利して決勝に進みました。決勝ではイギリスを相手に3-10で負けましたが、表彰台では5人のメンバーがそれぞれの首に銀メダルをかける姿が印象的でした。それぞれがそれぞれを称え合っていました。特に、最後にスキップの藤沢五月選手からメダルをかけてもらったのは、リザーブと言って控えの石崎琴美さんでした。彼女は、チーム最年長の43歳ですが、2013年に競技の第一線を退いていました。しかし、5人目が必要ということで、彼女に白羽の矢が立ったのです。

しかし、リザーブは選手に故障などがない限り、試合には出場しません。試合中はコートのそばの席でプレーを分析し、夜間には翌日に使用する石を実際に投げて石の曲がり具合などをチェックする「ナイトプラクティス」という作業も担当します。目立つポジションではありませんが、それでも、4人をいかに気持ちよくプレーさせるかを心掛けてきたのです。

そんな彼女の献身的な姿に、チームの合言葉は「琴美ちゃんにメダルを!」になりました。そして、その合言葉の通り、チームは銀メダルを獲得することができたのです。

私たちもやがて、私たちの主イエスが再び来られるとき、よみがって栄光のからだに変えられますが、そのとき、神の御前で神の望み、喜び、誇りの冠とさせていただくことができるのです。これこそ、最高の喜びではないでしょうか。なぜなら、それこそ私たちの究極的な希望なのですから。それは神のことばを神のことばとして受け入れるところから始まります。この神のことばは、信じている私たちのうちに働くからです。私たちも、主イエスが再び来られるとき、御前で望み、喜び、誇りの冠とさせていただきましょう。