聖書箇所:エレミヤ書28章1~17節(エレミヤ書講解説教51回目)
タイトル:「神のことばにとどまるように」
今日は、今年最後の礼拝です。この一年も教会とそれぞれの生活においていろいろなことがありましたが、すべてが主の恵みと信じて、主に感謝し心から御名をあがめます。
今年最後の礼拝で主が私たちに与えておられる御言葉は、エレミヤ書28章のみことばです。ここには、エレミヤとは全く異なる預言をしていたハナンヤという預言者が登場します。今日は、このにせ預言者ハナンヤとエレミヤとの対決を通して、私たちが拠り頼むものは何か、それは神のみことばであるということ、だからこのことばにとどまるようにというお話したいと思います。
Ⅰ.人を喜ばせようとするのではなく神を(1-4)
まず、1~4節をご覧ください。「1 その同じ年、ユダの王ゼデキヤの治世の初め、第四年の第五の月に、ギブオン出身の預言者、アズルの子ハナンヤが、【主】の宮で、祭司たちと民全体の前で、私に語って言った。2 「イスラエルの神、万軍の【主】はこう言われる。わたしは、バビロンの王のくびきを砕く。3 二年のうちに、わたしは、バビロンの王ネブカドネツァルがこの場所から奪い取ってバビロンに運んだ【主】の宮のすべての器をこの場所に戻す。4 バビロンに行ったユダの王、エホヤキムの子エコンヤと、ユダのすべての捕囚の民も、わたしはこの場所に帰らせる──【主】のことば──。わたしがバビロンの王のくびきを砕くからだ。」」
「その同じ年」とは、ユダの王ゼデキヤの治世の初め、第四年のことです。ゼデキヤが王として即位したのはB.C.597年ですから、これはB.C.593年になります。ギブオン出身の預言者で、アズルの子ハナンヤが、主の宮で、祭司たちと民全体の前で、エレミヤに語って言いました。イスラエルの神、万軍の主は、バビロンの王ネブカドネツァルのくびきを砕き、2年のうちに、彼がこの場所、これは主の宮、エルサレム神殿のことですが、ここから奪い取ってバビロンに運んだすべての器をこの場所に戻すと。そればかりではありません。バビロンに連れて行かれたユダの王、エホヤキムの子エコンヤと、ユダのすべての捕囚の民も、この場所に帰らせると。彼の預言は、ユダの民にとって喜ばしい内容でした。しかも「2年のうちに」ということばは、明るい兆しを感じる魅力的なものです。でもこれはエレミヤが預言したこととは異なることでした。エレミヤは何と言っていましたか。25章11~14節をご覧ください。エレミヤはこのように預言していました。
「この地はすべて廃墟となり荒れ果てて、これらの国々はバビロンの王に七十年仕える。七十年の終わりに、わたしはバビロンの王とその民を──主のことば──またカルデア人の地を、彼らの咎のゆえに罰し、これを永遠に荒れ果てた地とする。わたしは、この地の上にわたしが語ったすべてのことばを実現させる。それは、エレミヤが万国について預言したことで、この書に記されているすべての事柄である。14 多くの国々と大王たちは彼らを奴隷にして使い、わたしも彼らに、その行いに応じ、その手のわざに応じて報いる。』」
エレミヤが預言していたのは「2年のうちに」ではありません。70年の終わりに、です。ユダの民は廃墟となって荒れ果て、バビロンの王に70年間仕えようになります。その70年の終わりに、主はバビロンの王とその民を彼らの咎のゆえに罰し、永遠に荒れ果てた地とし、代わりにペルシャの王クロスを用いて、ユダの民が元の場所に帰ることができるようにするというものでした。それが27章22節で言われている「わたしがそれを顧みる日」のことです。それまでバビロンの王によって運び去られた主の宮の器はそこにありますが、70年後に主がユダを顧みられる日に、主はそれらを携え上り、この場所エルサレムに戻すようにするのです。それが、主がエレミヤを通して言われたことでした。だから2年のうちにではないのです。70年後のことです。最初のバビロン捕囚があったのはB.C.609年ですから、それから70年後というのは、B.C.539年になります。
果たしてどちらの預言が正しかったでしょうか?歴史を見ればわかります。ハナンヤが言った「2年のうちに」というのは偽りでした。むしろ、その数年後のB.C.586年には3回目のバビロン捕囚が行われることになります。その時エルサレムは陥落し、神殿は完全に崩壊することになります。主の宮にまだ残っていた器も、すべてバビロンに運び去られることになるのです。つまり、ハナンヤの預言は間違っていたということです。彼はにせ預言者でした。それなのに彼はエレミヤを捕らえて祭司たちと民全体の前で、エレミヤが間違っていると豪語しました。2年のうちにバビロンの王のくびきは砕かれ、バビロンがエルサレムから奪い取ったものはすべて戻されるし、すべての捕囚の民も帰るようになると言ったのです。
この両者の名前には、どちらにも「ヤ」が付いていますが、これは「ヤダー」の「ヤ」ではなく、「ヤハウェ」の「ヤ」です。つまり、主の御名で語る者です。それなのに、預言の内容は全く違うものでした。しかも、ハナンヤは「ギブオンの出身の預言者」とありますが、ギブオンはエレミヤの出身地のアナトテと同じベニヤミン族の領地にある祭司の町でした。ですから、彼はエレミヤと同じように祭司の家系だったのではないかと思われます。エレミヤと同じようなバックグランドを持っていた彼が、エレミヤとは全く違う預言をしていたのです。
さらに2節を見ると、彼は「イスラエルの神、万軍の主はこう言われる」と言っていますが、本物の預言者が使うような言い回しをしています。それがあたかも本当に主から出たことばであるかのように語っていたのです。
でも、一つだけ違いがありました。それは何かというと、エレミヤは主が語れと言われることを語ったのに対して、ハナンヤは民が聞きたいことを語ったという点です。人々が望むようなことばかり、都合の良いことばかり、耳障りの良いことばかり語っていたのです。ホッ、ホッ、ホタル来い、ではありませんが、彼の言葉は甘い言葉の集大成のようなものだったのです。
しかし、真の預言者は人を喜ばせようとして語るのではなく、神に喜んでいただこうと語らなければなりません。Ⅰテサロニケ2章3~4節にこうあります。「私たちの勧めは、誤りから出ているものでも、不純な心から出ているものでもなく、だましごとでもありません。むしろ私たちは、神に認められて福音を委ねられた者ですから、それにふさわしく、人を喜ばせるのではなく、私たちの心をお調べになる神に喜んでいただこうとして、語っているのです。」
人を喜ばせようとしてではなく、神を喜んでいただこうとして語る。これが真の預言者です。つまり、焦点がだれに向けられているのかということです。人なのか、神なのか。人を気にすると、文字通り人気取りになってしまいます。でも私たちが気にしなければならないのは人ではなく神です。神に喜ばれているかどうか、神がどう思っていらっしゃるのか、ということです。私たちはついつい人に喜ばれたいことを語ってあげたいと思いますが、それでは本末転倒になってしまいます。
先日、以前大田原教会のメンバーで、仕事でオーストラリアのパースに移られた西田兄が、15年ぶりに来会されました。ずっと日本で働きたいと願っていましたがその願いが叶い、家族をパースに残し、今年東京で働くようになりました。オーストラリアというとワーシップで有名なメガ・チャーチが各地にありますが、その教会に行っているのではないかと思い尋ねると、以前はそこに行っていましたが、今は違うシンガポール系の教会(Faith Community Church)に行っているということでした。なぜなら、毎週の礼拝のメッセージがいつも同じで、どちらかといえば求道者やクリスチャンになったばかりの人に受け入れやすくい内容ばかりで、聖書からの教えがなかったからです。じゃ、スモール・グループに行けば聖書を学ぶことができるかなと思って行ってみると、そこでもお茶を飲んで楽しく雑談するだけで聖書の学びがありませんでした。それでもっと聖書をしっかり教えている教会に行こうと、現在の教会に導かれたということでした。
確かに求道者に配慮することは大切ですが、あまりにも配慮しすぎるあまり、本来配慮しなければならない神がどこかに行ってしまうことがあります。よく教会は敷居が高いと言われますが、敷居が高いとはどういうことなのでしょうか。それは求道者を意識しての視点です。求道者ができるだけ心地よく礼拝に参加できるように、彼らが興味を持ってくれるような話題とか聞きたいと思っているような話を、できるだけおもしろく、おかしく、たまにジョーク混ぜながらお話しできたらいい。ひどいのになると聖書も使わない方がいいんじゃないかと言う人もいます。聖書は難しいから。最初から礼拝に来ると難しいと感じて躓いてしまうから、最初はクッキングクラスとかコンサートなどに誘った方がいいんじゃないですか。そうすれば敷居が低くなって求道者も気やすくなるから。
皆さん、どう思いますか。もちろん宣教の方策として、礼拝以外のこうした集会を持つことはあると思いますが、私たちが伝道する目標点を見失わないように注意しなければなりません。焦点がどこに向けられているのかということです。人なのか、神なのか。私たちは人を喜ばせようとするのではなく、神に喜んでいただくことを求めなければならないということです。では神が喜んでおられることは何か。勿論、神は一人も滅びることを願わず、すべての人が救われて真理を知るようになることを望んでおられます。しかし、それだけではありません。それは一つの通過点にすぎないからです。神が望んでおられることはすべての人が救われて真理を知るようになるだけでなく、救われた人がその救いにとどまっていること、そして今度は神に向かって生きるようになることです。神を喜び、永遠に神をほめたたえて生きる神の民となることなのです。それなのにいくらクッキングクラスで人を救いに導き、教会形成に向かおうとしても、それは容易なことではありません。目標点が違うからです。自分の喜びや楽しみと神の栄光とでは、全然違います。
ですから、私たちはその目標点見失ってはいけないわけです。そのためにはどうしても神のみことばが必要となります。なぜなら、「みことばは、あなたがたを成長させ、聖なるものとされたすべての人々とともに、あなたがたに御国を受け継がせることができる」(使徒20:32)からです。ですから、大切なのは敷居を低くすることでなく、誰に喜んでもらうのかということです。人を喜ばせようとするのではなく、神に喜んでいただくことを考え、求めなければなりません。
Ⅱ.平安を預言する預言者について(5-9)
それに対してエレミヤは何と言いましたか?5~9節をご覧ください。「5 そこで預言者エレミヤは、【主】の宮に立っている祭司たちや民全体の前で、預言者ハナンヤに言った。6 預言者エレミヤは言った。「アーメン。そのとおりに【主】がしてくださるように。あなたが預言したことばを【主】が成就させ、【主】の宮の器と、すべての捕囚の民をバビロンからこの場所に戻してくださるように。7 しかし、私があなたの耳と、すべての民の耳に語ろうとするこのことばを聞きなさい。8 昔から、私と、あなたの先に出た預言者たちは、多くの地域と大きな王国について、戦いとわざわいと疫病を預言した。9 平安を預言する預言者については、その預言者のことばが成就して初めて、本当に【主】が遣わされた預言者だ、と知られるのだ。」」
エレミヤは、ハナンヤのことばに対して「アーメン。そのとおりに主がしてくださるように。」と言いました。これはエレミヤがハナンヤの語ったことばに同意しているのではありません。自分もハナンヤの預言どおりになることを望まないわけではない。主が祖国に祝福をもたらすことをどんな願っていることか。バビロンによって奪い去られた主の宮の器とすべての捕囚の民をバビロンからこの場所にすぐに戻してくれることをどんなに願っていることか、という意味です。
しかし、主が語っておられることはそういうことではありません。主が語っておられることは、この民に戦いとわざわいと疫病がもたらされるということです。つまり、バビロンの王ネブカドネツァルに仕えるようになるということです。バビロンの王のくびきに首を差し出して彼に仕える人々を、主はその土地にとどまらせるということでした。それは昔から、エレミヤと、彼の先に出た預言者たちの預言と一致していて、これこそ主から出た主のことばです。
しかし、ハナンヤはそれとは異なり、平安を預言しました。平安を預言すること自体は問題ではありません。問題は、それが本当にもたらされるかということです。平安を預言する預言者については、その預言のことばが成就して初めて、本当に主が遣わされた預言者だということが証明されるのであって、その預言の成就を待たなければなりません。どんなに人々が喜ぶ内容でも、それが成就しなければ空しいことになります。人はハナンヤのように、周囲の人たちの願望を、まるで神からのことばであるかのようにすり替えてしまうことがあります。しかし、エレミヤは人間的な願望と、主からのことばをはっきり区別することができました。ここが重要なポイントです。人間的な願望と、主からのことばをはっきり区別して、主からのことばを語らなければなりません。
エレミヤは平安が来ないと言っていたのではありません。27章7節で彼は「彼の地に時が来るまで、すべての国は、彼とその子と、その子の子に仕える。しかしその後で、多くの民や大王たちが彼を自分たちの奴隷にする。」と預言していました。「彼」とはバビロンの王ネブカドネツァルのことです。すべての国が彼に仕えるのは、「彼の地に時が来るまで」です。それまでは彼とその子と、その子の子に仕えますが、しかしその後で、多くの民や大王たちが彼を自分たちの奴隷にします。「その子の子」とは、ネブカデネツァルの孫のベルシャツァル王のことです。その時代になるときまで、ユダはバビロンに仕えますが、その時が来れば、そこから解放されるようになります。平安が来ると預言したのです。エレミヤは、平安は真の悔い改めと、神との契約に対して従順でなければ来ないことを知っていたのです。ハナンヤのような平安の預言は、むしろ真の悔い改めを妨害するもの以外の何ものでもありません。
今の時代でも、平安を安売りする預言者がたくさんいます。エレミヤのこうした態度から、私たちも学ぶ必要があります。私たちも人間的な願望と、主からのことばをはっきり区別して、主が望んでおられることが何なのかを知るために、この世と調子を合わせるのではなく、何が良いことで、神に喜ばれ、完全であるのかを見分けることができるように、心を新たにしていただかなければなりません。
Ⅲ.偽りに拠り頼まされないように(10-17)
第三のことは、だから神のことばにとどまるようにということです。10~17節をご覧ください。10~11節をお読みします。「10 しかし預言者ハナンヤは、預言者エレミヤの首から例のかせを取り、それを砕いた。11 そしてハナンヤは、民全体の前でこう言った。「【主】はこう言われる。このとおり、わたしは二年のうちに、バビロンの王ネブカドネツァルのくびきを、すべての国々の首から砕く。」そこで、預言者エレミヤは立ち去った。」
ハナンヤはエレミヤが語ったことばを聞いて、よほど激怒したのでしょう。エレミヤの首についていた木のくびきを取って砕いてこう言いました。「主はこう言われる。このとおり、わたしは2年のうちに、バビロンの王ネブカドネツァルのくびきを、すべての国々の首から砕く。」(11)
これは1つのデモンストレーションです。覚えていますか?27章2節で、主はエレミヤに「あなたは縄とかせを作り、それをあなたの首に付けよ。」と言われたことを。それは、ユダがバビロンの王ネブカドネツァルに仕えるようになるということでした。ですから、エレミヤの首には木のかせが付いていたのですが、ハナンヤはそのかせを砕き、「このとおりになる」つまり、バビロンのくびきから解放されると言ったのです。
それに対して、エレミヤは何と言いましたか?彼は何も言いませんでした。何も言わないで彼はそのままそこを立ち去ったのです。これは賢いことです。別に対抗することはないからです。時期に明らかになるでしょう。どちらが正しかが。
でもエレミヤが語らなくても、主が語ってくださいました。12~14節をご覧ください。「12 預言者ハナンヤが預言者エレミヤの首からかせを取って砕いた後、エレミヤに次のような【主】のことばがあった。13 「行って、ハナンヤに次のように言え。『【主】はこう言われる。あなたは木のかせを砕いたが、その代わりに、鉄のかせを作ることになる。14 まことに、イスラエルの神、万軍の【主】はこう言われる。わたしは鉄のくびきをこれらすべての国の首にはめて、バビロンの王ネブカドネツァルに仕えさせる。彼らは彼に仕える。野の生き物まで、わたしは彼に与えた。』」
主が言われたことは、ハナンヤは木のかせを砕いたが、その代わり鉄のかせを作ることになるということでした。ユダは捕囚から解放されるどころか、より深刻な事態を迎えるようになるということです。ハナンヤの預言は、神の民に自由ではなく、鉄のくびきをもたらすものとなるのです。「鉄のくびき」とは、「木のくびき」に比べ、一層厳しい状況になることを象徴していました。
そこでエレミヤは、ハナンヤにこう言いました。15~16節です。「ハナンヤ、聞きなさい。【主】はあなたを遣わされていない。あなたはこの民を偽りに拠り頼ませた。16 それゆえ、【主】はこう言われる。見よ、わたしはあなたを地の面から追い出す。今年、あなたは死ぬ。【主】への反逆をそそのかしたからだ。」
ハナンヤがしたことは、民を偽りに拠り頼ませるということでした。主ではなく、偽りに拠り頼ませたのです。恐ろしいですね。民を何に拠り頼ませるかは、預言者に託された大きな責任です。だから、主は彼をこの地の面から追い出されるのです。彼はその年のうちに死ぬことになります。ハナンヤは2年のうちに、ユダの民は解放されると預言しましたが、皮肉にも彼はこれを預言した2か月後に死ぬことになるのです。恐ろしいですね。というか、預言者の働きがどれほど重大であるかがわかります。もしエレミヤが語ったこのことばが成就しなかったら、エレミヤがにせ預言者となって殺されなければなりません。本当に預言者の働きは厳粛な働きだなぁと思います。だからこそ、牧師、伝道者、宣教師のためにとりなしの祈りをささげてほしいのです。民を偽りに拠り頼ませるのではなく、主に拠り頼ませるために、人を喜ばせようとしてではなく、私たちの心をお調になる神に喜んでいただくために、神のことばを語ることができるように。
17節をご覧ください。「17 預言者ハナンヤは、その年の第七の月に死んだ。」預言者ハナンヤは、その年の第七の月に死にました。1節には、彼がこれを語ったのは「第四年の第五の月」とありますから、彼はこれを語ったわずか2か月後に死んだことになります。2年ではなく2か月後に死んでしまったのです。エレミヤはハナンヤに、「今年、あなたは死ぬ」と預言しましたが、エレミヤが預言したとおりになりました。これは、エレミヤが真の預言者であることが証明されたということです。そして、にせ預言者の最期は、このように空しいものです。
このエレミヤの時代と私たちの時代は、そうかけ離れていません。主イエスも言われたように、今は終わりの時代ですから、にせ預言者がそこかしこに横行しています。もしかすると、私たちはそれを知らずに信奉しているかもしれません。ネットでたまたま見た有名な牧師の話を間に受けたり、ベストセラーの本を読んで虜になったりして。魅力的な集会に飛びついて、喜んで参加して、ハナンヤのようなにせ預言者に騙されていることん゛あるかもしれません。いつの間にか、偽りに拠り頼むようにさせられているかもしれないのです。その背後には、偽りの父と言われているサタンの存在があることも忘れてはなりません。サタンは光の御使い、天使のように変装してやって来ます。義のしもべの姿でやって来るのです。
ですから、しっかりと霊を見分けて、この時代のしるしを見分けて、ますますもって主のことばに目を留めなければなりません。これは、昔から変わらないものです。ここから離れたら神から離れてしまうことになります。もし、にせ預言者に惑わされていたり、騙されたりして、偽りに拠り頼んでいたという人がいたら、もう一度主の言葉に立ち返って、これからはエレミヤのように終わりの時代になっても神のことばをしっかりと受け取って、それを誰に対しても恐れずに語っていく者になってほしいと思います。たとえそれで自分にとって不利益に働いたとしても、エレミヤが語り続けたように、神のことばにとどまり、神のことばをまっすぐに語り続ける者でありたいと思うのです。
今日は、今年最後の礼拝となりましたが、この最後の礼拝において主が私たちにチャレンジしておられることは、昔から変わらない、いつまでも変わらない神のことばにしっかりととどまり続けるように、この神のことばに生きるようにということです。それが古いようで新しいいつまでも新鮮に、私たちが主のうちにとどまっている秘訣であるということです。新しい年も、この神のことばにとどまって神に喜ばれる道を歩ませていただきましょう。
神のことばにとどまるように エレミヤ書28章1~17節神のことばにとどまるように
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