その方が来ると ヨハネ16章1~16節

2020年6月14日(日)礼拝メッセージ

聖書箇所:ヨハネ16章1~16節(P217)

タイトル:「その方が来ると」

 ヨハネの福音書16章に入ります。きょうのタイトルは「その方が来ると」です。「その方」とはだれですか。その方とは、助け主であられる聖霊のことです。その方が来ると、どうなるかということです。

この世を去って父のみもとに行く、ご自分の時が来たことを知られたイエス様は、自分の愛する弟子たちだけを集めて、最後のメッセージをされました。それが13章から16章までにある内容です。この翌日、イエス様は十字架に掛けられて死なれるわけですが、その前に弟子たちに大切なことを教えられました。特に、前回のところでは、世があなたがたを憎む時、どうしたら良いかというお話しをされました。イエス様を信じて生きるというのはすばらしいことです。そこにこの世では得られない祝福を得ることができます。その一つは、キリストを信じる者は神のわざを行うことができ、また、イエスの名によって祈るなら、何でもかなえられるということでした。その結果、私たちは喜びに満ち溢れるようになります。そればかりか、心にイエスの平安を持つことができます。それは、世が与えるのとは違います。それは、状況によって変化するような平安ではなく、どんな状況にあっても変わらない平安です。

しかし、クリスチャンになるということは、良い事ばかりではありません。すべてがバラ色になるというわけではないのです。なぜ?世があなたがたを憎むからです。この世とは、神に敵対する世のことです。ですから、クリスチャンになるとこの世とは考え方や価値観が変わるので、そこには当然対立が生じます。イエス様ご自身がそうだったわけですから、イエス様を信じ、イエス様に従うクリスチャンが、同じように迫害を受けるのは当然のことです。しかし、安心してください。イエス様は何と言われましたか。20節、「しもべは主人にまさるものではない」と言われました。しもべとは私たちのこと、主人とはイエス様のことです。しもべは主人にまさるものではありません。イエス様が受けられたほどの苦難を受けることはありません。むしろ、イエス様が父なる神のもとから遣わす助け主、すなわち、父から出る真理の御霊によって、大胆に、確信をもってイエス様を証しすることができます。今日は、その方、真理の御霊が来る時、どうなるのかについてお話ししたいと思います。

Ⅰ.これらのことを話したのは(1-6)

まず、1~6節までをご覧ください。1節をお読みします。「わたしがこれらのことをあなたがたに話したのは、あなたがたがつまずくことのないためです。」

「これらのこと」とは、今、お話ししたことです。クリスチャンはこの世の人々から憎まれ、迫害されることがありますが、そういうことが起こってもあわてふためく必要はありません。そのためにイエス様は、前もって話してくださったのです。もし前もって話さなかったらどうなるでしょう。「こんなはずじゃなかった・・・」ということになります。人は、苦難に遭うと疑いが起こってくるものです。クリスチャンになると祝福されて、何でもトントン拍子にうまくいくと思っていると、そうでない現実が襲ってきた時、神様の存在さえも疑うようになり、信仰から離れてしまうことさえあります。もちろん、クリスチャンになると、苦難ばかり襲ってくるのかというと違います。クリスチャンになると、私たちが抱えていた問題が解決します。神を信じない人の世界観というのは閉ざされた感があります。何をやっても空しいでしょう。昔の伝道者はこう言いました。「空の空。伝道者は言う。空の空。すべては空。」(伝道者の書1:2)「空」と言っても食べるという意味の「食う」じゃありませんよ。空しいということです。日の下でどんなに労苦しても、それがいったい人にとって何の益になるのでしょう。たまに刺激的なことがあったとしても、同じ日々の繰り返しの中で歳を取り、やがてその生涯を終えます。すべてが空しく、風を追うようなものです。けれども、イエス様を信じて神の子とされ、神がともにおられるということを体験すると、この世では得られない解放感を味わうことができます。ですから、それまでとは違った喜びと感謝にあふれるようになるのです。しかし、私たちがクリスチャンになるということは、悪魔の支配下から神の支配下に移されるということですから、そこには当然それをおもしろく思う者がいるわけです。悪魔です。そして、あの手この手を使って神から引き離そうとするのです。このことをよく知っておけば、クリスチャンになってから起こる様々な困難や苦難に対しても、対処することはそれほど難しいことではありませんが、そうでないと、「何でそうなるの」と嘆いてみたり、つまずいたりすることになります。イエス様はそういうことがないように、このことを前もって弟子たちに話されたのです。

では、具体的にどういうことが起こって来るのでしょうか。2節には、「人々はあなたがたを会堂から追放するでしょう。」とあります。「会堂」とはユダヤ教の会堂のことです。当時、会堂は礼拝をする所だけでなく、子供たちの学校であったり、人々の揉め事を仲裁する裁判所であったり、生活に関するあらゆる場所として使われていました。そこから追放されるということは、当時のユダヤ人社会から追放されることを意味していました。いわゆる村八分です。村八分にされることほど恐ろしいことはありません。それは学校でのいじめの論理と同じです。日本人がクリスチャンになることを恐れる理由の一つがここにあります。つまり、日本人がクリスチャンになることを恐れるのはクリスチャンが少数派であって、大部分がそうではないからです。みんなやってることだものと、長いものには巻かれていれば安心感はあるでしょう。しかし、そうした自分を欺くような生き方は主体性というものが失われ、結局のところ、「俺の人生は何だったんだろう」ということになります。クリスチャンとして生きるということは、確かにそこに戦いはありますが、本当の生きる目的と喜びを実感しながら生きるということなのです。

いったいなぜ彼らはそこまでクリスチャンを迫害するのでしょうか。その理由が3節にあります。「彼らがそういうことを行うのは、父もわたしも知らないからです。」

ユダヤ人はアブラハムの子孫であり、神に選ばれた民だと思っていました。民族的には確かにそうです。彼らには神からの律法、旧約聖書が与えられていたので、キリストについては良く知らなかったとしても、父なる神についてはよく知っていたはずです。それなのに、彼らは神から遣わされたキリストを受け入れなかったばかりか、その方を十字架に付けて殺してしまいました。なぜ?神を知らなかったからです。知っているようで実際にはそうではありませんでした。もし神を知っていのであれば、神から遣わされた方を拒むことはしなかったでしょう。それをしたということは、本当の意味で神を知らなかったということなのです。キリストを通してでなければ、だれも神を知ることはできません。どんなに宗教的に熱心であっても、それが必ずしも神を知っているというわけではないからです。

4節と5節をご覧ください。イエス様がこれらのことを話された理由がここにかかれてあります。それは、「その時が来たとき、わたしがそれについて話したことを、あなたがたが思い出すためです。」「その時」とはクリスチャンが迫害される時のことです。その時が来たとき、イエス様がそのことについて話されたことを彼らが思い出すためでした。イエス様は、初めからこのことを話しませんでした。なぜなら、イエス様がともにおられたからです。どんなに敵が攻めて来ようとも、イエス様がともにおられたので安心でした。しかし、そのイエス様が今、父なる神の許へ行こうとしていました。そうなれば、そうした攻撃をもろに受けることになります。ですから、今、これらのことを彼らにお話ししているのです。その時が来たとき、彼らがそのことを思い出すためです。

ですから、予め知っておくということはとても大切なことです。クリスチャンになったらいいことずくめだと思っていたら、そうでないことが起こった時つまずいてしまうことになります。しかし、そうじゃないんだ、確かにイエスの名によって祈ると、神はその祈りを聞いてくれますが、祈っても、祈っても、なかなか道が開かれないこともあるし、むしろ、想像もしていなかった問題が起こることもあると最初から知っていたら、そういう覚悟で臨むことができ、それを乗り越えることができます。ですから、信仰について聖書は何と言っているか、また、それをどのように理解しているかということは、とても重要なことなのです。

弟子たちはどうでしたか。5節の後半のところを見てください。「けれども、あなたがたのうちだれも、「どこに行くのですか」と尋ねません。」とあります。

どうして彼らは尋ねなかったのでしょうか。彼らの心が悲しみでいっぱいになっていたからです。イエスが父のもとへ行かれるということ、そしてそのときには迫害されるということを聞いて、心が悲しみでいっぱいになっていました。それで、だれもイエスに「どこに行くのですか」と聞かなかったのです。もう聞きたくありませんでした。彼らが期待していたのは、イエスが自分たちを救ってくれるということでした。この場合の救いというのは、自分たちを支配していたローマ帝国の支配からの救いのことです。それなのに、イエス様は十字架で死なれるとか、父の許に行かなければならないとか、全くわけのわからないことを言うものですから、受け止めることができないでいたのです。でも問題はイエス様ではく、弟子たちの方でした。イエス様は最初からご自分が来られた目的や、それをどのようにして成し遂げられるのかを彼らに話してきました。すなわち、イエス様が来られたのは彼らを罪から救うためであり、そのために十字架に掛かって死なれること、そして、三日目によみがえられること、天に昇って行かれること、そのすべてを話されましたが、彼らは聞く耳を持たなかったのでそれがどういうことなのか理解することができなかったのです。

私たちも同じです。理解できないと、心が悲しみでいっぱいになります。そして、つまずいてしまうことになります。ですから、イエス様が言われることをよく聞いてください。イエス様は私たちにも前もって語ってくださいました。それを聞いて理解することが、あるいは理解に努めることが、どんなことがあっても悲しみに沈まない秘訣です。

Ⅱ.去って行くことはあなたかたの益になる(7)

次に、7節をご覧ください。イエス様が去って行かれると聞いて、彼らの心は悲しみでいっぱいになっていましたが、そんな彼らにイエス様はこう言われました。「しかし、わたしは真実を言います。わたしが去って行くことは、あなたがたの益になるのです。去って行かなければ、あなたがたのところに助け主はおいでになりません。でも、行けば、わたしはあなたがたのところに助け主を遣わします。」

イエス様が弟子たちのもとから去って行くことは、弟子たちにとって益になることでした。なぜなら、去って行かなければ、彼らのところに助け主はおいでにならないからです。でも、行けば、来られます。行けば、来られますというのは変な言い方ですが、イエス様がその助け主を彼らのところに遣わしてくださるということです。この「助け主」については、すでに14:16で教えられていたことです。そこには、「そしてわたしが父にお願いすると、父はもう一人の助け主をお与えくださり、その助け主がいつまでも、あなたがたとともにいるようにしてくださいます。」とあります。

「もうひとりの助け主」とは、イエス様と全く同じように助けてくださる方という意味です。今まではイエス様がいつもともにいて直接助け、慰めてくれましたが、そのイエス様が去って行かれることで、今度は全く同じ方が来て助けてくださるのです。この方は13節にあるように、真理の御霊です。それは、彼らにとって益になることでした。なぜなら、イエス様が去って行かなければ、確かにイエス様がそばにいて助けてはくれますが、人としてこの地上におられたわけですから、そこには時間的、空間的な限界があったからです。いつでも、どこでも、すぐに助けを与えられるかというとそういうわけにはいきませんでした。

たとえば、イエス様が今日もしパレスチナに生きておられるとしたら、私たちは困ったことが起きた時一々ビザを取ってパレスチナまで行かなければなりませんし、緊急を要する時に、国際電話で話をしようとしても、全世界の人が助けを求めるために電話に殺到して、なかなかつながらないということもあります。まあ、今は便利な時代ですね。国際電話なんて必要ありません。LINEがあればすぐにつながります。しかも、ビデオ通話ですよ。また、ズームという会議用のソフトもあります。世界中の人と同時に話をすることができるようになりました。英語礼拝では5月までZOOMで礼拝が行われていましたが、アメリカにいるネイサン兄が参加してメッセージをしてくれました。いいですね。これからはZOOMの時代です。でも限界があります。途中で、Wi-Fiが弱くて接続できませんという表示がされて、切れてしまうこともあります。やっぱり実際に会って話すのとは違います。こうしたテクノロジーは、補助的な手段にはなっても限界があるのです。

しかし、もうひとりの助け主にはそうした限界がありません。この方は、いつでも、どこでも共にいて、助けることができます。今この教会の真中にいてくださる主は、同時にこの教会だけでなく、すべての教会にもいてくださいます。イエス様は「二人か三人がわたしの名において集まっているところには、わたしもその中にいるのです。」(マタイ18:20)と言われました。また、「見よ。わたしは世の終わりまで、いつまでもあなたがたとともにいます。」(マタイ28:20)と言われました。どのようにしていつまでも、世の終わりまで、私たちとともにいてくださるのでしょうか。この聖霊を通してです。このように、聖霊は時間と空間に全く制約されることがなく、世界中どこにいても、困ったことが起こった時に助けを求めれば、いつでも答えることができるのです。この方は、世界中のクリスチャンとともに、いやクリスチャンのうちにいてくださるのです。だから、イエス様が去って行かれることは、彼らにとって益なのです。

時として私たちも、何かを失うとき、弟子たちのように心が悲しみでいっぱいになることがあります。しかし、失うことは新しいものを得るためであり、さらに良いものが与えられるときでもあるということを覚えておきたいものです。

9 年前、東日本大震災時地震、津波、原発事故に遭遇し故郷を追われた福島第一聖書バプテスト教会の佐藤彰先生は、今回のコロナウイルスの問題に遭遇し、まさか、人生にこのような日があるとは思いもしなかったと、「黄金の冬ごもり」というコラムの中でこのように言っておられます。

今回のコロナ災禍では、教会堂はあるのに、 教会員はそこにいるのに、礼拝できないという悔しさをかみしめました。最後となった 4 月12 日の礼拝で、先生は思わずことばがつまって祝祷ができませんでした。震災で生き延びた教会は、コロナで力尽き、最後の砦と思った礼拝もかなわず、敗残兵が倒れたように思ったのです。翌19 日の礼拝は、3人の牧師が誰もいなくなった礼拝堂にひっそりと集い、やむなくYouTube礼拝を配信しました。

けれども気がつけば、初代教会も迫害の中で、そして今日の中国の教会も共産主義体制の下で、やむなく家々で礼拝をささげています。この機会はもしかしたら、神様がくださった原点回帰の時でしょうか。私たちは震災の時のように、今礼拝や交わりが決して当たり前ではないことを、つくづく思い知らされています。

そう言えば地球も今、コロナで人間の活動が停止して、貴重な癒しのearth day(地球の日)を迎えているそうです。大気汚染のPM2.5は劇的に下がり、ガンジス河もきれいになったとか。

また、必要は新たなアイデアを生み出します。震災時、私たちはバラバラになった教会員を何とか繋ごうと、ネットで礼拝の配信を始めました。ちょうどその頃スマホが急速に普及し、今回のスムーズなコロナ対応ネット配信礼拝につながりました。そして今回はどうでしょう。いつの間にか増えてしまった会議の整理や、時代に即さなくなった慣例の見直し、ほんとうに大切なものの確認などは、コロナ後の新たな世界を生き抜く、サバイバル教会に脱皮する第一歩です。

9 年前の大霙災は、私たちから多くのものを奪いました。けれども、結果は移住地での新たな教会づくりでした。寝る場所や食べる物確保に右往左往した当時を思うと、今回は住まいや教会は奪われていません。私たちは、大丈夫です。「わたしの前で静まれ」(イザヤ41:1)  と語られた主とふたりきりで、黄金の冬ごもりの季節を過ごしましょう。

春は来ます。苛立ちや不安を手玉に取り、信頼や寛容を育んで、来るべきコロナ後の世界への旅支度を始めるのです。

「主は人の子らを、ただ苦しめ悩まそうとは、思っておられない。」(哀歌3章33節)

という内容です。本当にそうですね。何かを失うことは新しいものを得るためであり、さらに良いものが与えられる時でもあるのです。まさに今回のコロナの問題は、教会が原点に帰る時として、また、私たちが人生の原点に帰る時として、神が私たちに与えておられることなのではないかと思います。そのことを覚えて感謝し、今、黄金の巣ごもりの時を過ごしたいと願わされます。

Ⅲ.その方が来ると (8-16)

では、その方が来るとどのようなことをなさるのでしょうか。8~16節までをご覧ください。まず11節までをお読みします。

「8 その方が来ると、罪について、義について、さばきについて、世の誤りを明らかになさいます。9 罪についてというのは、彼らがわたしを信じないからです。10 義についてとは、わたしが父のもとに行き、あなたがたがもはやわたしを見なくなるからです。11 さばきについてとは、この世を支配する者がさばかれたからです。」

その方、聖霊が来るとどのようなことをしてくださるのでしょうか。イエス様はここで、二つのことを述べておられます。その一つがこれです。つまり、その方が来ると、罪について、義について、さばきについて、世にその誤りを明らかにされるということです。世とは、神に敵対している世のことです。この世に、罪について、義について、さばきについて、その誤りを明らかにされます。どういうことでしょうか。

9節をご覧ください。まず罪についてというのは、彼らがわたしを信じないからです。「信じない」とは、信じようとしないとか、信じることを拒むという意味で、心を固く閉ざして、信じようとしないということです。なぜ信じないのでしょうか。自分が罪人であることがわからないからです。一般に私たち日本人は、「罪」というと物を盗んだり、人を殺したり、詐欺を働いたりするなど、いわゆる犯罪を行うことを罪だと考えているので、自分はそんな犯罪なんてやっていないし、法律に違反することもしていないので、自分には罪がないと考えているのです。しかし、そもそも聖書が言っている罪ということは、そういうことではありません。聖書が言っている罪とは「ハマルティア」です。「的外れ」です。本来あるべき状態でないことです。つまり、まことの神から離れている状態のことを言います。本来、人間は神のかたちに造られ、神の栄光を現すものとして造られたのに、その神から離れ自分勝手というか、自己本位に生きるようになってしまいました。聖書はそれを罪と言っているのです。ですから、ローマ3:23には、「すべての人は罪を犯して、神の栄光を受けることができず、」とあるのです。罪を犯したから罪人なのではなく、罪人なので罪を犯すのです。その罪がわからないのです。頭ではなんとなくわかるのですが、ピンとこないのです。しかし、その方が来ると、その罪について明らかにしてくださいます。自分がいかに自分勝手に生きてきたか、また、そのために神に反逆していたかが分かり、自分の罪を認めないわけにはいかなくなるのです。

たとえば、使徒の働き2章には、ペンテコステの日に聖霊が降られたときのペテロの説教がありますが、ペテロが、「イスラエルの皆さん、これらのことばを聞いてください。神はナザレ人イエスによって、あなたがたの間で力あるわざと不思議としるしを行い、それによって、あなたがたにこの方を証しされました。それは、あなたがた自身がご承知のことです。神が定めた計画と神の予知によって引き渡されたこのイエスを、あなたがたは律法を持たない人々の手によって十字架につけて殺したのです。しかし神は、イエスを死の苦しみから解き放って、よみがえらせました。この方が死につながれていることなど、あり得なかったからです。」(使徒2:22-24)、「ですから、神の右に上げられたイエスが、約束された聖霊を御父から受けて、今あなたがたが目にし、耳にしている聖霊を注いでくださったのです。」(同2:33)と語ると、「人々はこれを聞いて心を刺され、ペテロとほかの使徒たちに、「兄弟たち、私たちはどうしたらよいでしょうか」と言った。」(同2:37)のです。グサッと心に刺さったんです。私も罪人だとわかりました。イエス・キリストを十字架につけたのはこの私だったんだ。私の罪のためにイエス様は十字架で死んでくださった。私はほんとうに罪人だということがわかったのです。それで彼らはどうしましたか。自分の罪を悔い改めて、イエス・キリストの名によってバプテスマを受けました。何とその日3,000人ですよ。3,000人ほどの人々が仲間に加えられました。

罪がわからないとイエス様を信じることができません。だって罪がなければ救われる必要がないわけですから。自分が正しい人間であればどうして救われる必要があるでしょうか。ありません。だから信じることができないのです。しかし、その方が来ると、罪について明らかにしてくださいます。自分が本当に罪深い人間だということがわかるようになるのです。

10節をご覧ください。「義についてとは、わたしが父のもとに行き、あなたがたがもはやわたしを見なくなるからです。」どういうことでしょうか。「義」とは正しいということです。聖霊様が来られると、キリストは正しい方、義なる方であることを明らかにしてくださるということです。どのように明らかになさるんですか。それはイエス様が父のもとに行き、彼らがもはやイエス様を見なくなることによってです。どういうことですか?ユダヤ人たちは、イエス様が「わたしを見た人は、父を見たのです。」(14:9)とか、「わたしが道であり、真理であり、いのちなのです。わたしを通してでなければ、だれも父のみもとに行くことはできません。」(14:6)と言われるのを聞いて、イエスを殺そうとしました。なぜなら、イエスは神を冒涜したと思ったからです。実際、彼らはイエス様を十字架に付けて殺しました。しかし、イエス様は死んで終わりだったでしょうか。いいえ、死んで三日目によみがえられました。そして40日間彼らにご自身のお姿を現わされると、彼らの目の前で天に昇って行かれ、神の右の座に着かれました。それはどういうことかというと、神に受け入れられ、神の権威の座に着かれたということです。そこに着かれたということは、キリストには全く罪がなかったということを示しています。キリストは神と全く等しい方であるということです。どうして神の右の座に着かれたということがわかるのでしょうか。聖霊様です。イエス様が天に昇って行かれ、神の右の座に着かれたことの証明として、神は約束の聖霊を送ってくださいました。そのことによってキリストが神の子であり、全く正しい方であるということが明らかにされたのです。そして、この聖霊によって、キリストこそまさしく神の子であられ、私たちを罪から救うことができる救い主であるということが分かったのです。

パウロはこのことを、ピリピ3:5~9でこう言っています。「私は生まれて八日目に割礼を受け、イスラエル民族、ベニヤミン部族の出身、ヘブル人の中のヘブル人、律法についてはパリサイ人、その熱心については教会を迫害したほどであり、律法による義については非難されるところがない者でした。しかし私は、自分にとって得であったこのようなすべてのものを、キリストのゆえに損と思うようになりました。それどころか、私の主であるキリスト・イエスを知っていることのすばらしさのゆえに、私はすべてを損と思っています。私はキリストのゆえにすべてを失いましたが、それらはちりあくただと考えています。それは、私がキリストを得て、キリストにある者と認められるようになるためです。私は律法による自分の義ではなく、キリストを信じることによる義、すなわち、信仰に基づいて神から与えられる義を持つのです。」

彼はわかりませんでした。とにかく宗教に熱心であれば救われると思っていました。その熱心は教会を迫害したほどです。しかし、キリストがどのような方であるかがわかったとき、そのキリストのすばらしさのゆえにすべてを損と思うようになりました。彼はそれを「ちりあくた」だと言っています。それはキリストを得て、キリストにある者と認められるようになるためです。彼は律法による自分の義ではなく、キリストを信じる信仰による義を持ったのです。

皆さん、信仰に熱心であれば救われるというわけではありません。救いはイエス・キリストにあります。なぜなら、キリストはあなたの罪のために十字架で死なれ、三日目によみがえられたからです。そして、天に昇って行かれ、神の右の座に着かれました。すなわち、この方こそまことに義なる方、神の子、救い主であられるのです。その方が来ると、このことを明らかにしてくださいます。

そして11節をご覧ください。ここには、「さばきについてとは、この世を支配する者がさばかれたからです。」とあります。どういうことですか。「この世を支配する者」とは、悪魔、サタンのことです。この悪魔は、完全にさばかれました。悪魔は、キリストを十字架に付けた時、してやったりと思ったことでしょう。しかし、キリストがその死の中からよみがえられたことで、その思いは脆くも崩れてしまいました。悪魔の最後の砦は死ですが、キリストがその死を打ち破られたことで、悪魔を完全に滅ぼされたからです。その結果、悪魔は終わりの時のさばきを待つばかりになりました。今はそれが実行されるまでの猶予期間にすぎません。悪魔は、どうにかして多くの人がキリストを信じないように働きかけたり、クリスチャンに対しても誘惑したり、脅したりして信仰から離れさせようと躍起になっていますが、もう勝敗はすでに決まっているのです。イエス・キリストを信じる者は決して罪に定められることはありません。

「まことに、まことに、あなたがたに告げます。わたしのことばを聞いて、わたしを遣わした方を信じる者は、永遠のいのちを持ち、さばきに会うことがなく、死からいのちに移っているのです。(ヨハネ5:24)」

ジェームズ・ゴードン・ギルキイという著名な牧師が、医者から不治の病にかかっていることを宣告されました。治療法はなく、余命あとわずか、これが医師の診断結果でした。その時のことを彼はこう証言しています。「私は、町の中心から8キロほど離れた自宅に向かって歩き出した。途中で、私が愛してやまない川と山を眺めた。夕闇が迫り、やがて夜空には星が輝き出した。それを見ながら、私はこう語りかけた。『君たちを見る機会も、そう多くは残されていない。しかし、川よ、君が海に流れ込むことを止める日が来たとしても、私は生きているから。山よ、君が平原の中に沈む日が来たとしても、私は生きているから。星たちよ、君たちが宇宙の中で崩壊する日が来たとしても、私は生きているからな』」

これが、クリスチャンが抱く希望です。なぜなら、この世を支配する者がさばかれたからです。私たちは、神のさばきに会って当然の者でした。罪がありましたから。しかし、神はそんな者を愛して、御子イエス・キリストをこの世に送り、十字架で死んでくださいました。死んだだけではありません。よみがえられました。そのことによって、これまで私たちをがんじがらめにしていた罪の支配から解き放ってくださったのです。もう罪に支配されることはありません。さばきに会うことはありません。なぜなら、この世を支配する者がさばかれたからです。私たちは聖霊によって、罪に打ち勝つ力が与えられ、キリストの復活の力によって勝利ある人生を送ることができるようになったのです。何とすばらしいことでしょう。しかし、それは聖霊様が来られるまでわかりませんでした。聖霊様が来られたことで、罪について、義について、そしてさばきについて、世の誤りを明らかにしてくださったのです。

そればかりではありません。その方が来るとどうなるのか、12節からのところにもう一つのことが教えられています。12~15節をご覧ください。

「12あなたがたに話すことはまだたくさんありますが、今あなたがたはそれに耐えられません。13 しかし、その方、すなわち真理の御霊が来ると、あなたがたをすべての真理に導いてくださいます。御霊は自分から語るのではなく、聞いたことをすべて語り、これから起こることをあなたがたに伝えてくださいます。14 御霊はわたしの栄光を現されます。わたしのものを受けて、あなたがたに伝えてくださるのです。15 父が持っておられるものはすべて、わたしのものです。ですからわたしは、御霊がわたしのものを受けて、あなたがたに伝えると言ったのです。」

イエス様は弟子たちに話したいことがたくさんありましたが、それ以上のことは話しませんでした。なぜなら、その時の弟子たちの信仰のレベルではそれ以上のことを受け入れることができなかったからです。しかし、一つのことだけはどうしても話しておかなければなりませんでした。それは、その方が来ると、彼らをすべての真理に導いてくださるということです。どういうことでしょうか。ある人たちは、これを文字通りすべての真理と理解しています。つまり、科学や医学、政治、経済といったあらゆる分野における真理のことです。しかし、ここで言っていることはそういうことではありません。聖書はあらゆる分野の真理を示しているわけではないからです。

そこである人たちは、これはその後にある「御霊は自分から語るのではなく、聞いたことをすべて語り、これから起こることをあなたがたに伝えてくださいます」という言葉から、将来起こるであろうすべてのことを指していると考えていますが、そういうことでもありません。確かに主は世の終わりの前兆について語られましたが、それが将来起こるであろうすべてのことではないからです。あまり読み込みすぎると、かえって真理から離れてしまうことにもなりかねません。では、これはどのような意味でしょうか。それは、主が弟子たちに語られたすべてのことを思い起こさせ、その意味を明らかにしてくださるということです。特に、救いに関する教えです。つまり、この後に起こる十字架と復活の出来事、そして昇天という救いに関する一連の出来事について、その真理を明らかにしてくださるということです。

弟子たちの多くは漁師でした。特別な専門教育を受けたこともない、無学で普通の人でした。しかし、彼らには最高の教師がいました。イエス・キリストです。彼らはイエス・キリストから直接教えを受け、そのみわざを間近で見ました。そのイエス様が天に行かれるということで、彼らの心は悲しみでいっぱいでしたが、しかし、そのイエス様が去って行かれることで、イエス様と全く同じ方が、いや、時間と空間を超えているという点ではそれ以上の方が来て彼らを教え、すべての真理に導いてくださいます。彼らの内側にいて、イエスさまが言われたことを思い起こさせてくださいます。そのようにして書かれたのが聖書です。聖書は、弟子たちによって書かれたイエス・キリストについての証言ですが、それは弟子たちによって書かれたというよりも、聖霊によって書かれた証言です。Ⅱペテロ1:21にはこうあります。「預言は、決して人間の意志によってもたらされたものではなく、聖霊に動かされた人たちが神から受けて語ったものです。」「預言」とは「聖書」のことですが、預言は、決して人間によってもたらされたのではなく、聖霊に動かされた人たちが、神からのことばを語ったのです。聖霊が彼らをすべての真理に導いてくださったのです。

世にあっては患難があります。しかし、勇敢でありなさい。なぜなら、イエス様は世に勝利されたからです。その方が来ると、そのことを思い起こさせてくださいます。さまざまな困難に直面する時、聖書のことばを通して、私たちをすべての真理に導いてくださり、助けと励ましを与えてくださいます。こんなに心強い助けがあるでしょうか。現代は先行き不透明な時代です。しかし、この方が来るとき、私たちをすべての真理に導いてくださいます。あなたのうちには、この方がおられますか。イエス・キリストを信じてください。イエス様を信じるすべての人に、神は賜物としてこの聖霊を与えてくださいます。この方こそ、私たちが直面するさまざまな困難の解決であり、その中を生き抜く力なのです。